【エピローグ】
これがわたしの物語だ。
愚直で、捻くれていて、悲観的で、過去に捕らわれていた――わたしだけの物語。
あの話の流れからいけば、わたしはあれからの薫子さんとのことを語るべきなのだろうけれど、そこはあえて後に取っておくことにしよう。
とにかく、わたしは彼女によって自殺を未遂に終わらせて、自らの命を繋ぎ止めることにした。わたしは、自身のことを死んで全てを終わらせた方がいいような破滅的な人間だということを今も疑ってはいないけども、あえて生き恥を曝すのも悪くはないかなという判断を下したのだった。
あの日から、わたしの目の前に白ウサギが現れることはなくなった。
白ウサギはわたし自身が望んだ幻覚であり、わたしが望めばまた姿を現すという可能性もあったのだけど、不思議なことに二度と姿を現したりはしなかった。それは、きっとわたしが後ろ向きながらも少しは前向きな物の考え方をするようになったからかもしれない。
あの日――わたしはたった一つのものを除いて、全てのものを失った。
けれども、あの日を境にして、わたしの目の前から消えていったものも何一つない。まるでおとぎ話のように、わたしの周囲は平穏そのものの環境となった。
ただ――周囲が平穏になったからといって、わたし自身の心境もそうだったわけではない。
薫子さんの望みどおり、わたしは日々を生き続けることに心血を注いでいたけれど、生きることが楽だった日はあまりなかった。わたしはこれまで自分が行ってきた罪の意識に苛まれ、日々を生きるうえで常に葛藤と戦っていた。
どうして、あれほどまで非情なことをしでかした自分がまだ生きているのか――。
否、自分は生きていていいのかと。
別に不思議な話ではないと思う。だって、わたしはこれまでに四人もの人間を殺してきているのだし、順当に考えれば死んでもおかしくない人間だ。これでさっぱり命を終わらせれば、わたしはこの日々の葛藤からも解放されるし、きっとあの世で恨んでいるだろう者たちにも救われる部分はあるだろう。実に理にかなっている。
と、わたしはそう思っているのだけど――自殺に踏み切らないのはひとえに薫子さんのことが気がかりでもあるからだった。きっと彼女は悲しむだろうと分かっていたからだ。それにわたしはまだ約束を果たしてはいなかった。裏切りたくなかったのだ。
……有栖は、わたしのことをどう思っているのだろうか?
もっとも、そんなことを考えたところでどうしようもないのは分かっている。彼女はすでにこの世にはいないのだし、そんなもしやの話は想像したところで無駄だ。わたしはこれまで自分が行ってきた罪を背負い続けることしかできないのかもしれない。
ただ、いつの日かは忘れたけれど、わたしの夢の中に有栖が出てきたことがある。
「あなたは、幸せになるために生きているんだよ」
有栖はわたしが全てを終わらせたことを祝福しつつも、とても悲しそうな顔でそんなことを言っていた。わたしもとても悲しい気分になった。これが現実であれば嬉しい出来事だったのに、それはわたしの脳内で繰り広げられた現象でしかないのだから。
その日は一日中、わたしの人生って何だったんだろうとずっと考えていたような気がする。
結局のところ、救いというものは一時的なものでしかないのかもしれない。
誰かがどん底から引き上げてくれたところで、それからの人生を歩むのは自分自身でしかないのだから。結局のところ何も解決はしていないし、わたしはどうすればいいのかも分からなかった。生きろと言われてもこれからの人生は長すぎる。
でも――そんな状況下でも、薫子さんは学校でわたしに話しかけ続けてくれた。
わたしは薫子さんが良い人だということを微塵も疑ってはいなかったけれど、わたしが過去の話を喋ったらどういう態度を取るだろうかと何度も考えたりした。
一転して罵倒してくるだろうか。それとも引いてしまうだろうか?
わたしたちの友情は、壊れてしまうだろうか。
わたしの覚悟がようやく決まったのは――すでに高校生活も終わりかけた頃のことだった。
「ねえ、薫子さん」
わたしは放課後の誰もいなくなった校舎屋上で、そんな風に彼女に向かって話を切り出した。木枯らしが出始めた秋の日のことだった。
「あの約束の件……すごく今更なんだけど、話しておこうと思って」
そう言って、わたしは驚いたような顔をする彼女に対して、訥々《とつとつ》と過去のことを話し始めた。それは長い話で、わたしの小学校時代に有栖という少女がいたところから話さなければならなかったけれど……でもそんな長話にも、彼女はじっと静かに耳を傾けて聴いてくれた。
「……そっか、そういうことだったんだね」
わたしが長話を終えたとき、薫子さんはそう言って静かに鼻をすすっていた。
「薫子さん……?」
「辛かったよね――ずっと誰にも言えなくて、一人で戦ってきて……」
「そんな……違うよ。わたしは自分がしなきゃいけないことをしただけで……それに、それにわたしは色々とやっちゃいけないことをしちゃったんだ。わたしは悪人なんだよ。同情なんて……」
「……ううん、坂下さん、あなたは可哀相な人だ」
薫子さんはそう言って、今度は自らの目から溢れ出して来た涙を拭っていた。
「確かにあなたはやっちゃいけないことをしたかもしれない。でも、あなたにだって同じくらい人間的な部分がある。わたしはそこに同情せずにはいられないんだよ……だって、あなたはみんなのため、みんなのためだって全てをやってのけたけれど、あなたが幸せになれないんじゃ、それに何の意味があるって言うの? あなただけの幸福が約束されてないなんて、そんなの酷すぎるよ。辛くないわけがないんだ……誰にも感謝されないなんて」
わたしは薫子さんの言っていることが痛いほど分かってはいたけれど、だからといってそう易々と首肯するわけにはいかなかった。
だって、わたしは紛うことなき罪人で――幸せになってはいけない人間なのだから。
「……でも、わたしが望んでやったことだよ」
そう俯きながら答えたとき、薫子さんは横から強い語調で言葉を割り込ませていた。
「違うよ! それは違う……」
その言葉にわたしはびっくりして、驚いて薫子さんのことを見返していた。
「あなたは、幸せになるために生きているんだよ!? 違う? そうじゃない? だって……みんなそうなんだよ。みんな、その結末はどうあれ幸せに向かって生きてたんだよ! だから、せめてその時の自分を受け入れてあげてよ。認めてあげてよ」
薫子さんは両目から涙を流しながら、わたしに向かってそう訴えていた。
「物事の合理性しか測れなくなったら――それはもう人間じゃないんだよ。人間である必要がないんだよ。確かにわたしたちは理性だとか論理性に重きを置いて暮らしているのかもしれない。けれど、そんなものは所詮は道具でしかないんだよ? その根底にある感情まで否定しちゃったら……それはもう人間である必要なんてどこにもないんだ」
「…………」
「わたしたちは人間だよ。そして、わたしたちには等しく幸せになる権利がある。たとえ幸せでなくても、幸せになるために足掻き続けられる権利が」
「……ねえ、薫子さん」
強く断言する彼女に向かって、わたしはそんな風に力ない声で呼びかけていた。
なぜだか急に目頭の辺りが熱くなるのを感じた。これまでずっと心の中で塞き止めていたはずの何かが、決壊してしまったような気がした。涙が溢れてくる――そう思って顔を伏せようと思ったときには、すでにわたしの顔からは熱い何かが零れ落ちてしまっていた。
それでも、わたしは言葉を紡がねばならなかった。
「わたしは……わたしは、幸せになってもいいのかな?」
まるで幼き日の頃のように、わたしはみっともなく感情を露にして、泣いてしまっていた。
先ほどまで泣いていた薫子が、目を赤くしながら、でもふいに目元を拭って、笑う。
「いいんだよ――幸せになっても」
*
この物語を語り終える前に、最後に一つだけ付け加えておこう。
結局のところ、救いというものは一時的なものでしかない――のかもしれない。
誰かがどん底から引き上げてくれたところで、それからの人生を歩むのは自分自身でしかないのだから当然のことだ。けれども、わたしはその日を境に少しだけ認識を改めることにした。この世界には絶望と等しく救いというものが存在している。そして、救いというものは、たぶん人と触れ合うことでしか手に入れることのできない、そんな尊いものだということを。
人は誰かに愛を分け与えることで――少しだけ誰かから愛を分け与えて貰っている。
自分自身の罪を許すことができるのは、神でも他者でも何でもなく、最終的には自分自身だけなのかもしれない。けれど……それを成し遂げるためには、たぶん同じくらい誰かの愛というものが必要なのではないだろうか。
結局、人というものはどこかで他者による承認を求めているのだろう。だから、たぶん人という生き物は一人では生きられない。そういうことなんじゃないかと思う。
では、わたしはこの物語を語り終えることにしよう。
これがわたしの物語――。
そう、これがわたしの生きてきた時間の、物語。
(完)




