11 : INSOMNIA
11.
――まるで、悪夢のようだ。
夕莉は死の間際に至って、胸中でそんなことを漏らしていた。
こんなときに思い返されるのは、自らの底に封じ込めていたはずの、あの日の記憶だった。
胸の中に去来するそれは、彼女にとって永遠に消し去ることのできない飛びっきりの汚点。ずっと目を逸らし続けてきた記憶が、今の今になって……まるで昨日のことのようにぶり返してきていた。
そうだ、と夕莉は胸の中でつぶやいていた。
あの日――わたしは来巳有栖の名残を殺した。
それはいつかの夏の日のことだった。茹だるような熱気に満ちた日で、その暑さは否応なくこれまで夕莉と有栖が入り浸っていた『王国』にも入り込んできていた。
有栖が白ウサギになった日から、どれだけの月日が過ぎていただろうか。実際にはそれほどの期間は要さなかったような気がする。ただあの衝撃的な事件から、夕莉が白ウサギを殺すまでにはいくつかの変遷があった。そして、それこそが夕莉が殺人に及んだ一番の理由であった。
白ウサギは、初めて夕莉の前に姿を現した日――確かに彼女に向かってこう言った。
『この王国を永遠に不滅のものにしたい』
それがどういう意味だったのか、あの日の夕莉には判断することができなかった。それに、有栖が亡くなったという衝撃の方がよほど大きかったから、夕莉には白ウサギが言った本当の意味が分からなかったのだ。
だけど、時間をかけて思い返してみて――ようやく理解したのだ。あの頃の夕莉は。
「国家の三要素」
それは国家というものが成り立つために必要な三つの要素のことだ。
領域。主権。人民。これらのうち一つでも欠けてしまえば、それは国家と呼ぶことはできない。夕莉と有栖によって作られた『王国』は、小さいながらにそれら全ての要素を持ち合わせていたが、しかしそれは白ウサギにとっては物足りないものだったらしい。
なぜならば、白ウサギは『王国』の発展を望んでいたから。
「そして」
白ウサギの言った発展。その上で最も必要だったのが、そのうちの人民だった。国というものは民がなければ発展することはありえない。数は力なのだ。民がいなければ、最悪、国というものは衰退して滅亡してしまう。
では、どうすれば人民を増やせるか。
白ウサギのとった手段――それは幻想人を増やすことだった。
「あいつは、関係のなかった人たちまで巻き込んだ」
どういう手段を用いて幻想人を増やしたのかは定かではないが、そうやって幻想人と化していく人間を、夕莉は何人か目にした。彼女が何よりも許せなかったのはそれだ。その人間たちはしだいに狂って化け物になっていったのだ。白ウサギはそうやって『王国』の民を増やし、この世に磐石の体制を築こうとしたのだ。
まるで馬鹿げた話だとは思うのだが――それは事実だった。
夕莉は、有栖の意識を引き継ぐだとか何だとか言っておきながら、次第にやりたい放題になっていく白ウサギのことが許せなかった。そのお題目はどうあれ。そして、その白ウサギの馬鹿げた行いを知っている者は、夕莉しかいなかった。だからどうしても解決しようと思うなら、自分自身が動き出すしかなかったのだ。
「白ウサギを殺そう」
そう考えてはいたものの、それを行動に移したのはしばらく経ってからのことだった。
その日、夕莉は自宅にある包丁を持ち出すことに決めた。すでに夏休みに入って学校もなくなった日のことだった。夕莉は包丁を隠し持って、あの『王国』の下へと訪れた。
そこが白ウサギの拠点であることは、すでに夕莉も把握しきっていた。
夕莉は『王国』の中で、熱気に苦しめられながらも、じっと白ウサギの帰りを待った。白ウサギが現れたのは、空が薄暗くなって夕闇が生じるようになった頃だった。
「ん、誰かが立ち入ったような形跡がありますね……」
白ウサギは『王国』に戻ってきてすぐ、いつもの場所に変化があることに気付いた。誰かが立ち入ったという匂いか。それとも本能による気配の察知か――それは夕莉の知るところではないが、とにかく白ウサギは何か異変があることを嗅ぎつけた。
だがその時には、すでに夕莉は押さえ込んでいた気配を発露させて、飛び掛っていた。
包丁で背後から白ウサギのことを突き刺していた――。
「ぎ……ッ!!」
予想外の事態に、白ウサギは声を上げて前のめりに倒れこんだ。それに夕莉は覆いかぶさるような体位を取って、突き刺さった包丁から一度、手を離した。
改めて、逆手になるように包丁を握り締める。
そして、手にした包丁を憎しみのままに白ウサギに突き立てていた――何度も。そう何度も。
穴だらけになった白ウサギの背中から、シャワーのように血が噴き出していた。その時、彼女は初めて幻想人にも赤色の血が流れていることを知った。その血は夕莉にもかかって、身につけていた衣服と顔とを等しく濡らした。
高じすぎた憎しみというものは――意外にも蕩けるように甘美だった。飲み干せないほど黒くどろりとしているのに、なぜか癖になるチョコレートのように甘いのだ。
やがて白ウサギは動かなくなった。それを夕莉は立ち上がって見下ろした。
「…………」
その時、夕莉が感じたのは全ての元凶を殺したという達成感であったと思う。が、次いで湧き上がってきたのは、これからどうすればいいのかという不安であった。白ウサギを殺したのだから、その死体は適切に処理しなければならない。このまま放っておくことによって生じる弊害は、いずれ夕莉自身が起こした事態を大衆の前に曝け出してしまうだろう。
白ウサギの死体を、処理する必要があった。
そのために、夕莉は白ウサギの死体をバラバラにすることにした。その体を包丁によってバラバラに解体して、そこらへんの土の中にでも埋めてしまおう。そうすれば誰の目にも触れることはないではないか。
夕莉は早速、それに取り掛かることにした。
手にした包丁で、白ウサギの腕の付け根に狙いを定めて、そのまま力任せに振り下ろした。一撃では切断できなかった。骨を砕いて部位を切り落とすというのは酷く難儀な作業であった。だが、それを夕莉は炎天下の熱気がこもる『王国』にて、確実に遂行していった。溢れ出した血が床を汚し、かつての場所は見るも無残な解体現場と化していたが、そんなことは意識の埒外であった。
その最後に、夕莉は白ウサギの頭が付いている首下へと刃を叩きつけた。白ウサギの頭部がまるでスイカか何かのようにごろりと転がった。
「は、はは……ははは……」
死体を解体し終えて、そこで夕莉はバラバラになった残骸を目にして、ようやくへたりと腰を下ろした。顔中が汗やら返り血やらに塗れていた。それを腕で拭った。
「……一体、何をやってるんだ、わたしは」
先ほどまでの極限状態による興奮は冷め始めていた。冷静な自意識が戻ってきていた。白ウサギの残骸を目にして、なぜか急に虚しい気持ちになった。重要なことを一つ片付けたというのに。なのに、胸に充満している違和感だけは消えなかった。
その殺人の実感は、すぐには得ることはできなかった。
自分によって作り上げられた惨状を正しく認識できなかったとでも言うのだろうか。だが初めこそ実感は湧かなかったが、それは時間が経つにつれて、じわりじわりと感慨をもたらし――そして夕莉の心を蝕んでいった。
「白ウサギは化け物であって、かつての友人ではない」
そう思い込もうとした時期もあった。だけど、それは半分当たっていて、その半分は外れているのである。幻想人というものは、その者の内面を顕した存在であるのだから、姿かたちは別物であっても、その人物がこの世界に残した形見のようなものであることには、違いないのである。
その人自身が死してなお残した――理想のようなもの。あるいは願い。意志。
そういったものを、夕莉は自らの正しさに乗っ取って粉砕したのだ。消滅させたのである。ということは、この世界に存在していた有栖のなけなしの精神性、最後の一かけらまで完全に壊してしまったということになる。
肉体に死があるというのならば、精神にも死というものは存在するのではないかと思う。そして、夕莉は友人であった者の、まさにその精神の部分を殺したのだ。
バラバラに引き裂いたのである。
その稀有な体験は、夕莉の心の歯車を徐々に軋ませていった。そして、いつの日か重圧となっていた罪悪感に耐えられなくなった時、彼女は幻覚を見るようになっていた。
白ウサギの幻覚――それはつまり、坂下夕莉が行き場のない感情をぶつけるための拠り所として。終わることのない目的の終着点として。また話し相手として。
夕莉は狂うことにしたのだった。
人間という物は、耐えられないストレスを受けたとき、最後の最後では必ず狂ってしまう。でなければ、自分を守ることができないからだ。それは人間の防衛本能なのだ。人間とはかくも弱い存在であり、わずかな逃げ場さえも存在しなければいずれは壊れてしまう。
そして、坂下夕莉にはそれがなかった。だから全ては必然の結果だった。
そう、全ては必然でしかない――。
目的の全てを果たしたとき、自分が『死』を選択するということも。どこにも解釈の余地など存在しない。夕莉は自ら不幸になる道を選び、そしてそれを正確に歩んできただけなのだ。自らの幸福を一番否定していたのが自分自身だったということを、夕莉は今の今になってようやく理解していた。
白ウサギはいなくなった。
ならば、もう現実に帰らなければならない頃合だ――。
「…………」
雨の降りしきる人目のない空き地。
そこで夕莉は無言のまま、首下にサバイバルナイフを突きつけたまま、静かに深呼吸をした。致命傷を負って意識が消えるまでは数秒ほどしかかからない。苦しんでのた打ち回った挙句に死ぬようなことはない。それだけは安心できる。
そして、覚悟を決めて首下でサバイバルナイフを滑らせる――。
「駄目っ……!!」
否。
滑らせようとしたその時だった――突如、意識の外から何者かに叫び声をぶつけられた。ぴたりと動きを止める。聞き覚えのある声だった。だが先ほどまでいた白ウサギのものではない。また自分自身のものでもない。
それは確かに実在している者の声だった。
「駄目だよ……死んじゃったら駄目!!」
夕莉はゆっくりと視線を向けた。その声がクラスメイトである春日部薫子のものであると気付いたとき、彼女は思わず目を見開いてしまっていた。
薫子はこんな夜遅くだというのに、まだ学校の制服を身につけていた。空き地横の道路に傘を持って佇んでいる。そこでようやく思い出す。今日の夜は、飾磨恭二のお通夜だったということに。たぶん、彼女は今その帰りにちょうどここを通りがかってしまったのだろう。
なんて不運――夕莉は心の中でそんな呟きを漏らした。
この世界は、好きなときに自死することさえも認めさせてくれないのか。これでもまだ生きろというのか。やっぱり悪意に満ちている。反吐が出そうになる――。
「い、今ここを通りがかっただけだし、何がなんだか分かんないし、どういう理由でそんなことしてるのかもわかんないけど――坂下さん、早まっちゃ駄目! 今、わたしが行くから……だからじっとしてて! 動かないでよ!?」
「こ、来ないで」
だが歩み寄って来ようとする薫子に向けて、夕莉は震えた声でそう答えていた。首下に突きつけていたサバイバルナイフを、今度は薫子の方へと向けてしまう。
薫子の歩みが、そこで止まった。
「……どうして、そんなこと」
夕莉に向けられたその声は、まるでがらんどうような響きを伴っていた。
「『どうして』……?」
それに夕莉は静かに目を伏せて、それから今一度、薫子の方へと視線を戻して、言う。
「そんなの、急に死にたくなったからに決まってるじゃん」




