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10 : DISCOMMUNICATION

 10.


「……なんか、嫌なことを思い出しちゃったな」

 かつて『王国』が存在した跡地で、夕莉はただ一人、そのようなことを漏らした。

 あの頃の記憶は、わずかに痛みこそ薄れたものの未だに鮮明さを失ってはいない。それほどまでに夕莉の根幹に根ざした思い出だったのだ。出来ることなら、忘れてしまいたい。今のあの頃の記憶は、じくじくと夕莉の心を蝕み続けているのだから。

 でも、忘れることなどできないのだ。

 何よりもあの一連のことを忘れてしまうということは、事件の当事者としてもっともしてはいけないことだと思っていた。そんなことをしでかした日には、この町には白ウサギの手によってより多くの被害がもたらされることになるだろう。

 当事者であるからには、あの日起きたことにはしっかりと始末をつけなければならない。

 絶対に、逃げてはいけないのだ――。

「でも、そこにわたしにとっての幸せは存在しない」

 分かっている。分かってはいるのだ。

 でも逃げることなどできない。逃げてはならない。それは不断の決意だ。たとえ自分が不幸になったとしても、名も知れぬ誰かが救われるのならば……それは意味のあることじゃないか。

 否、()()()()()()()()()()。言い切れないからこそ自分は悩み苦しんでいるのだ。

 幸せになりたい――。

 誰しもが考えるそのような願いを、一体誰が否定することなどできようか?

「……有栖」

 空き地にわずかな微風が流れる。さわさわとした草地の上で、夕莉は一人こう呟く。

「わたしも叶うことなら……一度はお姫様になってみたかったよ」

 あの『王国』で、夕莉と有栖によって演じられていた王子様とお姫様という役柄。だけどあそこで割り振られた役柄で、夕莉がお姫様役になれたことは一度もなかった。

 叶わなかった願い――だけど夕莉は確かにお姫様役に憧れていて、それを望んでいたのだ。

 でも、そんなの誰だってそうじゃないか?

 この世に生を受けた以上、生きながらして自らの不幸を望むような人間が果たしているだろうか。誰だって幸福を望んでいる。そう誰だって。心のどこかでは、救いの手を差し伸べられるお姫様のような存在になりたがっている。

 自分の境遇に――救いを求めている。

「……なんとも泣かせる告白です」

 と、その時、夕莉の胸中を読んだかのように背後から聞きなれた声がかかった。

 夕莉にはその声の主が誰であるのか、すでに分かりきっていた。

「……白ウサギ」

 ゆっくりと振り返りながら、夕莉は静かにその幻想人げんそうびとのことを睨みつける。白ウサギはいつもと変わらぬ格好をして、その暗闇に沈んだ空き地に立っていた。

 まるで英国紳士ジェントルマンのように、白ウサギは典雅な一礼をしてみせる。

「決着をつけに参りました――何の決着であるかは、あなた自身ご存知でありましょう?」

「ええ、分かってるわ」

 そう言って、夕莉は自らのスカート内に取り付けているホルスターから特殊警棒を引き抜いていた。それを一振りで伸張させて、目前にいる白ウサギのことを見据える。

「三度目の正直……だったわね?」

 そんな台詞を投げると、白ウサギは軽く肩をすくめてみせた。

「そうです、三度目の正直――これが最後です」

「結構。さあ、決着を着けましょう」

 そして、白ウサギが薄気味の悪い笑顔を浮かべてみせた束の間。

 夕莉はそれ以上のことを何も語らず、ただ白ウサギに向けて一直線に突進していた。



 闇を切り裂き、夕莉は因縁の相手である白ウサギに一気に接敵する。

 白ウサギはそれを余裕に満ちた顔で、待ち受けていた。

「……以前にも言ったでしょう? ユウリ」

 夕莉は目前で待ち受けている白ウサギに向けて、渾身の一撃を叩きつけていた。特殊警棒での一撃は、その白ウサギの小ぶりな体を弾き飛ばし、致命的な一撃を与える――はずだった。

 だが、その肝心の白ウサギの体は、夕莉の振るった特殊警棒が当たる寸前で掻き消えていた。

 夕莉は信じられないものでも目にしたかのように、目を見開いていた。

「あなたは私を殺せない……確かにそう言ったはずです」

 代わって、白ウサギの声が聞こえてきたのは夕莉の背後からだった。彼女は慌てて背後を振り返って、そこに立っている白ウサギに対して特殊警棒を振るう。

 また特殊警棒が触れる直前で――その白ウサギの体が掻き消えた。

 再びの声が響いてきたのは、彼女の頭上からだった。

()()()()()()()()

 白ウサギは地上から五メートルほどある高さの場所に、足場もなくただ立っていた。もはや物理法則を無視した状況である。夕莉に攻撃を加えるような手段は無い。

「そう、お考えになったことはありませんか?」

「失せろッ!!」

 夕莉はスカート内からサバイバルナイフを引き抜いて、上空に浮遊している白ウサギに向けて投擲していた。鋭利な刃のついたサバイバルナイフは、しかしやはり白ウサギを串刺しにする直前で、掠りもせずに暗闇の空を突き抜けていく。

 そして、わずか後に命中しなかったナイフが落下して、どすり、と草地に突き刺さった。

「あなたは――()()()()()()()()()()()

 その白ウサギの声が聞こえてきたのは、夕莉の背後からだった。だが夕莉が反射的に振り返ったとき、すでにそこに宿敵である幻想人げんそうびとの姿は存在しなかった。

 忌々しい声が聞こえてきたのは、今振り向いた方向とは全く逆方向からだった。

「そして、()()()()()()()()()()()()

「――黙れッ!!」

 そう叫んで、キッと振り向いた有利の視線に先に、だがやはり白ウサギの姿はない。夕莉は特殊警棒を握る手の力を強めながら、辺りに注意深く視線を投げる。

「何度でも言いましょう――あなたは私を殺せない、と」

 再び声がした。声がしたほうへと夕莉は鋭い視線を投げる。

 白ウサギの姿があった。夕莉の真正面に立って、その顔からはこれまで貼り付けていた笑みが消えていた。右手の懐中時計をパチンと閉じて、その幻想人げんそうびとはふっと小さく微笑んだ。

()()()。それはとても簡単なことです。なぜなら、あなたが見ている私は――」

 夕莉の背筋に、ぞっと怖気が走る。

 それがなぜなのかは分からない。だけど、全てが壊れてしまうような気がしたのだ。坂下夕莉さかしたゆうりという人間のちっぽけなプライドが、粉々になってしまうような気がしたのだ。

「――止めろッ!!」

 夕莉は勢いよく地を蹴って、真正面にいる白ウサギに向かって肉薄する。

 手中の特殊警棒を握り締めて、これまでにないほどの腕力で、まさに技巧も技術もへったくれもなく、力任せと表現するのに相応しい粗暴さで――衝動そのものをぶつけるように、白ウサギに向かって殴りかかる。

 だがそれよりも、白ウサギの非情な一言が放たれる方が、早かった。


「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ピキッ、と夕莉の心の中にある何かに、ヒビが入ったような気がした。

 構わず衝動のままに殴りかかったが、しかしその一撃が白ウサギに届くことはなかった。何事もなかったかのように特殊警棒は白ウサギのことをすり抜けていき、そしてバランスを崩した夕莉は地面に向かって勢いよく転倒する。

 そこは柔らかい草地だった。だから夕莉が負傷することはなかった。しかし、そんなことは今の彼女にとっては何の関係もないことだった。

 白ウサギの非情な一言の方が――夕莉にとってはよっぽど重大だった。

「……ユウリ。あなたも薄々感づいていたのではありませんか?」

 白ウサギは先ほどと何も変わらぬ余裕さで、夕莉のことを見下ろしていた。だが、そこにはやはりこれまでのような笑みは浮かんでいない。驚くほどに無表情だった。

()()()()()()()。そして、私はあなたの見ている幻覚であり、あなたの理性という半身だ」

「嘘、だ……」

 夕莉は地面にひれ伏しながらそう漏らしたが、すぐに起き上がると、目前の白ウサギに向かって力任せに特殊警棒を振るっていた。が、その一撃は掠りもしない。

 白ウサギという存在そのものを、存在しなかったかのようにすり抜けていくだけだった。

「嘘だ……」

「嘘ではありません。あなたは耐えられなくて逃げたのですよ」

「嘘だ! そんなのは、嘘だッ!!」

 夕莉は絶叫しながら何度も特殊警棒で殴りつけたが、それが白ウサギに届くことは一度も無かった。白ウサギは相も変らぬ表情で、ただじっと夕莉のことを見返すだけだ。

「あなたは自責の念に耐えられなかった」

「……自責の念? 何の、自責の念から……?」

 そこで白ウサギはおやおやというような呆れの態度を浮かべてみせた。

「あなたが――友人である来巳有栖くるみありすを殺したという自責の念からです」

「嘘だ、殺してない……そんなことは……絶対にない。だって白ウサギ、あなたはこの世界において最後に残った幻想人げんそうびとじゃない。確かにわたしはこれまでに()()を殺してはきたけれど……でも、まだわたしはあなたを殺してなんか、いない」

「そう思い込んでいただけです……自分を守るために」

 白ウサギは面白くもない事実を指摘するように、そんな風に言ってみせた。

「あなたはすでに()()を殺しているのですよ。あなたが言ってみせた三人――彼らを殺すよりもずっと前に、そう一番最初に、あなたは来巳有栖くるみありすを殺していたのです。そして、自らの友人を手にかけてしまった日……あなたは壊れた。あなたは友人を殺してしまったという自責の念に耐えられなかった。ゆえに、私のような幻覚の存在を生み出すことにした。永遠に殺すことのできない復讐対象として――自分自身が生きていくための存在意義として。それが白ウサギ……つまり今ここにいる私なのです」

 呆然と白ウサギの言葉に聞き入っている夕莉の顔は、すでに青ざめていた。

「だから、あなたに私は殺せない。私はあなたの妄想の存在でしかないのだから」

「止めろ……」

「ですが、あなたがこれまでに殺してきた四人――来巳有栖くるみありす淀川将紀よどがわしょうき吾妻桃理あづまももり飾磨恭二しかまきょうじは確かに実在した人物です。そして、それこそ妄想としか思えないような存在である幻想人げんそうびともまた……確かに実在していた。ただ、今ここにいる私だけはあなたの生み出した妄想であり、そして決して辿り着いてはならない終着点だったのです」

「止めろ……!!」

「よくやった、とは言ってあげましょう。確かにあなたは目的を果たした。この世に出現した全ての幻想人げんそうびとを鏖殺し、この町にそれ以上の被害をもたらすことを阻止した。これは偉業ですよ。ただ――あなたにとっての幸福が存在しないだけで」

「止めて……()()()()()()()!!」

 夕莉はそう絶叫して、目の前にいる白ウサギに向けて特殊警棒を投げつけていた。

 だがそれも当然のように白ウサギには当たらず、特殊警棒は空き地の遥か先へと飛んでいき、生い茂っている草地の中に沈んでいった。

「止めてよ……もう……お願いだから……」

 信じたくもない現実に、夕莉の目からは滂沱の涙が溢れ出ていた。

「分かってるよ……本当は、全部分かってた……だから消えてよ……お願いだから……」

 夕莉は溢れてくる涙を拭いながら、白ウサギに向かってそんなか細い懇願を発する。

 もう勝負や決着どころではなかった。すでに最初から結末は決まりきっていたのだから――この戦いに勝者はなく、ただ非情なまでの現実が鎮座しているだけだということを。

「消えて……消えてよッ!! わたしの目の前から!! わたしの世界から――()()()()!!」

 夕莉は今にも暴れだしそうな狂気を滲ませて、まるで破裂するかのようにわめき散らした。もはや今の彼女にはわめき散らすことしかできなかった。

 だがそんな魂の叫びに対して、白ウサギの返答は――返っては来なかった。

 しばしの沈黙の後――。


「……白、ウサギ?」


 その段になって、夕莉はこれまでまともに見ようとしなかった白ウサギに、虚ろな視線を向けた。だがそこに先ほどまでいた白ウサギの姿は、跡形もなくなっていた。

 ただそこにあるのは、誰もいない無人の――暗闇の中に沈んだ空き地だけだった。

「…………」

 夕莉は呆然と辺りを見回すものの、やはり白ウサギの姿はどこにも見受けられない。

 やがて長い時間の波が訪れたが、しかしどれだけ時が経っても、夕莉が何度呼びかけてみても……白ウサギは一向に姿を現したりはしなかった。

 次第に風が出てき始め、夕莉が今も腰を下ろしている空き地に、しめやかな雨が降り始める。

 生い茂っている野草に雨水がぶつかって、ぱたぱたと静かな音色が響き渡るった。

 身につけている衣服が濡れて張り付き、髪もぐしゃぐしゃになった。両目から流れる涙は止まっていたが、それとは代わって世界そのものが雨に濡れ始めた。

 やがて、夕莉はなぜ白ウサギがいなくなったのかという理由に思い至った。それまで止まっていた両目から、また静かに涙が溢れ出してきた。

「……そっか、そういうことなんだ」

 夕莉はそれを自覚して、ふと雨粒の降ってくる天を仰ぎ見て――()()()

 ひとしきり嗤っているうちに、またさらに深い悲しみが訪れてきて、嗤いながら泣いた。まさか自身の裡にこんな感情が秘められていようなんて、さすがの夕莉も気付かなかった。

 あれほどまでに白ウサギのことを憎んでいたというのに。

 あれほどまでに白ウサギが消えてしまうことを望んでいたというのに。

 実際にいなくなってしまってから、心のどこかで寂しさのようなものを感じてしまっている自分がそこにはいた。まるで喜劇コメディのようだった。実際に失ってから、その失ったものの価値を初めて知るのだから。これを愚か者と言わずして何と言うのか?

 白ウサギがいなくなって、夕莉が真っ先に感じたものは――空虚感だった。

 今までの自分は果たしてなんだったのか。自分がやらなければいけなかったこと、自分がやるべきだったこと、自分がしたかったこと――それが全て無為に還った気がした。

 これから自分はどうすればいいのか。

 だがそれに答えてくれる存在ひとは、誰もいない。

 深い孤独と絶望を感じた。その気の遠くなるような感情の果てに、夕莉は初めて『死』というものを意識した。思考は否応なく「生きていてもしょうがない」と結論を出していた。

「そうだ、生きていてもしょうがない――」

 夕莉はここに赴くとき、自分が持ってきた武器の中にサバイバルナイフがあったことを思い出した。それを手に取るため脚に力を込めて、立ち上がった。

 まるで幽鬼のようにふらふらとした足取りで、だが十歩も歩かないうちに地に突き立っているサバイバルナイフを見つけると、夕莉はそれを緩慢な動作で引き抜く。

 刃に付着している土を払い、その刀身に映る自分のことを見返す。

 魂の抜けきった自分の顔が映り込んでいた。生きる意味を失った――世捨て人の顔が。

 そこで夕莉は自嘲するように、一度だけ笑った。

 そして、夕莉はサバイバルナイフの刃を、自らの頚動脈の部分に押し当てる。

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