クーニェフ
先輩が死んだ。
といっても全然誰のことだかクーニェフにはわからない。ただ「先輩が死んだ」という言葉だけが頭の中に飛び込んできて、焦りのような、憤りのような、自分でもわけのわからない慌ただしい気持ちが広がった。クーニェフは泣いた。先輩が死んだのは思いの外悲しいことだった。クーニェフは泣いた。とてもとても泣いた。たぶん泣いたのは初めてだった。他人の為だろうと自分の為だろうと、クーニェフは泣いたことがなかった。クーニェフとはそういうものだった。だから涙も知らなかった。知らないものは怖い。眼からどんどん塩辛い海が溢れ出てくるのが恐ろしかった。このまま自分は溺れてしまうんじゃないかしらと急いで瞼を塞いだ。涙は止まらなかった。クーニェフは慌てて眼球を刺した。刺して潰して刳りぬいた。貫く刃はとても痛かった。けれど涙は止まらない。瞼に開いた裂け目からどくどくと溢れ出した。
こんなに自分を泣かせる先輩とは一体誰なのだろう。クーニェフは思った。これほど自分を困らせる先輩には、是非とも逢わねばならない。逢ってこの涙を止めてもらわねばならない。最早自分の手には余る。涙とは、厄介なものだった。
こうしてクーニェフは先輩を探す旅に出た。
ある時クーニェフは船の上にいた。船は大海原を航海している最中で、遥か彼方まで見渡しても陸地の影も見えないような有り様だった。クーニェフが太陽を確かめようと見上げると、いつのまにか空は黒雲に覆われおり、すぐにひどい嵐になった。クーニェフは全身みじめったらしく濡れた。嵐は激しかったけれど、短かった。また太陽が顔を現し、濡れたクーニェフの身体を乾かした。けれど涙は渇かなかった。海と同じだ、とクーニェフは思った。やはり先輩に逢うしかない。
ある時クーニェフは深い渓谷にいた。赤茶けた断崖の裂け目を縫うようにクーニェフは進んでいた。風が一陣、クーニェフと擦れ違った。挨拶をする暇もなかった。ぴりっと腕の皮が切れて、びっくりしてたらあちこち切られた。だらだらとだらしなく血が流れた。涙と同じだ、とクーニェフは思った。考え込んでいたのがいけなかったのかもしれない。旋風の鎌にすっぱり左腕を持っていかれてしまった。驚いていたら両足と右腕も持っていかれてしまった。けれど涙は吹き飛ばしてはくれなかった。やはり先輩に逢うしかない。
ある時クーニェフは大きな建物の中にいた。立っていたのは長い廊下だった。足がずっぽりと埋まる絨毯の左右に整然と厚い木製の扉が並んでいた。廊下には誰も居なかった。振り返っても無人のフロントにたくさんの折り鶴が舞い狂っているだけのなで手近な扉を開けてみることにした。とんでもなく広い劇場だった。舞台には誰もいない。客席にも誰も居なかった。隣の扉を開けてみた。こちらは大きなコンサートホールだった。舞台にオーケストラはいなかった。手当たり次第に扉を開けてみたら、どれも劇場かホールだった。廊下の端までいくと螺旋階段が上の階に続いていた。階段を駆け上がるとまた同じ廊下が続いていた。一番階段に近い扉が開いていた。吸い込まれるようにクーニェフはその扉の中に入っていった。
そこは小さな部屋だった。薄暗く、裸電球の下だけがぼんやりと黄色く照らされていた。灯りの中には紫色のクロスをかけた丸テーブルがあり、その真ん中には拳大の肉色をした塊がぽつねんと置かれていた。近寄ると、テーブルの向こう側に誰かいる。顔をあげると長身の白ウサギがにんまり裂けそうな笑顔でこちらを見下ろしていた。
「先輩さんですよ」
クーニェフが何も言わないうちにウサギはそう教えてくれた。親切なウサギだ、とクーニェフは感心してその塊を手に取った。かすかに鼓動しているのを感じて少しほっとした。鼓動ということはこれは心臓なんだろうか。でも、先輩は死んだのではなかったろうか。だから自分はこんなにも泣いているのだ。先輩にどうにかしてもらわなければ。
「ちょっと貸してごらんなさい」
ウサギはクーニェフの手から心臓をもぎ取ると、爪ですっと切れ目を入れて、柘榴を割るようにずるりと心臓の皮を引ん剥いた。中からはえらく小さなネズミが一匹飛び出した。ネズミはクーニェフの子指くらいしかない。前歯がにょっきり伸びているので、同じ齧歯類なんだ、と思った。本当はもうウサギは齧歯類ではないのだけれど、クーニェフはそんなこと知らない。
「これがあなたの先輩さんです」
さっきの塊から出てきたのだからそうに違いなかった。ウサギはぴこぴこ耳を動かす。
「さあ、食べてください」
クーニェフはよくわからなくて首を傾げる。
「先輩さんを蘇らすには貴方がこれを食べなければなりません」
もちろん生きたままですよ。ウサギはどこかへ行ってしまおうとするネズミの尾っぽを摘んで持ち上げた。じたばたする姿からは、元の先輩の姿は想像できなかった。もともと先輩がどんな姿だったのかクーニェフは知らないけれど、ネズミではなかったことだろう。ネズミを受け取ろうと手を出すと、ケタケタケタケタ、と長い前歯を鳴らしながらウサギが笑った。出来ますか、と言った。
クーニェフはネズミを食べたことがない。クーニェフはそういう風には出来ていない。
けれど、先輩はそうしないと生き返らないという。生き返るんならそうして欲しい。生き返って、自分の止まらない涙を止めてもらうのだ。クーニェフは一口にネズミを含んだ。尾っぽは口の端からはみ出た。もがくのは鬱陶しいので上顎と舌で抑えつけた。小ちゃな四肢が舌を叩いた。なんだか自分が何をしているのかわからなくなって、とにかく顎を動かした。奥歯が頭蓋を噛み砕き、糸切り歯がお腹を裂いた。ぷちゅ、っとそれは熟れかけのミニトマトの食感と似ていなくもなかった。舌に広がる汁が酸っぱくないのが、違いといえば違いだった。舌の上のばたつきが止まり、口の中には暖かな血の味がたまっていった。たぶんネズミはもう死んでいるだろう。
それにしても、食べるって一体どこから言うのだろうか。口に入れてしまえば食べたことになるのかしらん。それともちゃんと噛んでごっくんしなければちゃんと食べたとは言わないような気もする。いまひとつ決めかねて、クーニェフはそれ以上口も喉も動かせなくなってしまった。開けると血がこぼれてしまうので、ウサギに聞いてみるわけにもいかなかった。クーニェフはじっと口を閉じたままウサギの顔を見つめた。ウサギは傑作とばかりこれは愉快と笑い転げた。
それでは私はこれで、と肩を震わせ、息をひいひい上げながらウサギは奥の部屋へ引っ込んでいった。追いかけても、もう部屋には誰も居なかった。黒い鳥と白い鳥が二羽、ばらばらに暴れ回っているだけだった。
涙は止まらなかった。まだ開けてしまった瞼の穴からどくどくと溢れ続けていた。先輩に止めてもらうはずだったのに、 先輩は心臓で、心臓はネズミで、しかも自分に食べられたんだか食べられていないんだかわからないまま口の中でまた死んでしまった。どうやったら生き返るんだろう。先輩を挟む両顎の力を加減しながらぼんやりと考えた。もしかしたら自分が産むしかないのかもしれないな、とはちょっぴりだけ思った。
それはそうと、もうすぐ劇が始まってしまう。ここは劇場だ。生き返らし方はまた後で考えよう。なんといったって、これからは、うっかり飲み込んでしまわない限り、口の端から尾っぽをぴろりと垂らしたまま、先輩とずっと一緒に居られるのだから。飲み込んでしまったらしまったで、産めばいいかとも思う。クーニェフはそういう風には出来ていなかったが、どうにでもなれる気がしていた。
一番前の席で観覧することを思うと、クーニェフの胸は弾んだ。
ところで渓谷で旋風に盗られてしまったしまった両腕と両足は、後でちゃんと返してもらった。
めでたしめでたし。クーニェフは嬉しくてちょっとだけ笑った。
好きだよ、先輩。