苦労黒猫
オレはネコだ。
鼻の先から尻尾の先まで全身真っ黒のネコだ。
この、田舎でも市街地でもないちょっと寂れた町に住んでいる、ただのネコだ。
そう、しつこいようだがオレはネコだ。
その日その日を好きなように、自由気ままに生きている。
晴れた日は日向で思いっきりくつろぐし、雨の日は橋の下や倉庫の中でのんびりお天道さまを待つ。
食べる物はその辺の家に適当に愛想を振りまくか、最悪ゴミ捨て場を漁ればいい。
オレはずっとそうやって生きてきた。
これからもきっとそうだろう。
ガキの頃こそ兄弟たちと一緒にいたが、今はみんなバラバラになっちまった。
誰一人として何をしてるのか知らねえし、知りたくもねえ。
そんなオレが、人間に恋した話をしようと思う。
始まりは、些細なきっかけだった。
オレがいつものように自慢の毛並みの手入れをしていると、1人の人間の女が来た。
その日は雨が降っていたから、オレは建物の中にいた。
その女は、襟にスカーフを通した変な服を着ていて、スカートをはいていたように思う。
何せ、だいぶ前のことだからな。記憶が曖昧になっちまってるんだ。
その女は、オレに優しく声をかけた。
内容なんて覚えてねえが、すごく優しかったあの声だけは絶対忘れねえ。
最初こそオレはその女を無視したが、あんまりにもしつこく話しかけてくるもんで、ちょっと触らせてやることにしたんだ。
そしたら存外、気持ちよかった。
人間なんかに……と思っていたオレは、そこから少しずつ変わっていった。
その女は毎日同じ場所に来た。
オレも毎日同じ場所に行った。
その女に呼ばれるたび、その女に触られるたび、嬉しかったのと同時に、人間に産まれなかった自分の運命を憎んだものだ。
その女は、別の女を連れてくることもあった。
でも、どいつもこいつも好きになれなかった。
だからオレは、その女にしか触らせなかったし、その女に呼ばれたときにしか返事もしなかった。
その女の名前はリツコといった。
リツコの友達がそう呼んでいたからだ。
リツコはオレのことを「ネコちゃん」と呼んだ。
オレはいつも精一杯、返事をした。
リツコの名前を呼んだ。
まぁ、おそらく通じてなかったと思うが。
自分で言うのもなんだが、オレは結構女からモテる。
もちろんネコの女だ。
でも、どの女に言い寄られても、優しく背中を舐められても、オレはちっともときめかなかった。
オレの中にはリツコがいたから。
毎日決まった時間に、リツコはやって来る。
オレも、毎日決まった時間にその建物に行く。
リツコの取り留めもない話を聞きながらうとうとするのが好きだった。
部活の話、試験の話、友達の話、雑誌や漫画の話。
失恋したって泣きながら話しかけてきたこともあったな。
オレはそんな毎日がとても幸せだった。
なんだかよくわからない乗り物が来るまでの時間、リツコの話を聞く時間が、オレにとって、この上ない幸せだった。
そんな幸せがずっと続くとは、オレだって思ってなかったさ。
それは突然の出来事だった。
リツコとたまに一緒に建物に来ていた女共が泣いてやがった。
その女共の1人がオレに話しかけてきた。
リツコは、事故で亡くなったと。
にわかには信じがたかった。
いや、信じたくなかった。
だから、毎日毎日、建物の中で待ち続けた。
あの女共が嘘をついたに決まってる。
きっと、いつものように眩しい笑顔でリツコがやって来る。
そう信じて。
でもリツコは来なかった。
どれくらいの期間、待ち続けたか分からない。
それでも、リツコは現れなかった。
オレは泣いた。
泣いて泣いて、泣き続けた。
女に慰められても、仲間に集会に誘われても、ちっとも嬉しくなかった。
きっといつか、ひょっこり顔を見せるはず。
あの優しい声を、もう一度聞きたい。
細い指で撫でてもらいたい。
オレはそう願っていた。
もう、あれからどのくらい時間が経ったか分からない。
いつもの建物に貼ってある紙の記号は刻々と変化していく。
リツコとはもう会えないのかもしれない。
いや、もうきっと会えない。
でも、いいんだ。
オレは、間違いなくリツコと同じ時間を共有していた。
認めたくなくて、心の隅っこに押しやっていたリツコとの思い出と、今はっきり向き合おうと思う。
ありがとうリツコ。
そして、さようなら。