愛=心=幸せ?
私は、私がただの『器』にすぎないと言う状態になったことがある。
ただそこに『存在』しているだけ、ただ『ある』だけの状態になったことがある。
世界は透き通るほど静寂で、色などなかった。本当に、世界が無音で白黒なのだ。
「食べたい」
という欲求もない。
「眠たい」
という欲求もない。
「死にたい」
という欲求さえも湧かない。
それこそが、間違いなく私が『無』であったと言い切れる証拠だ。
私はそこから、少しずつ少しずつ『何か』を私の中に入れていった。
それは、
「欲望」
かもしれないし
「愛」
なのかもしれない。
自分の空っぽな器を満たすということは
「幸せ」
なのかもしれないし
「不幸」
なのかもしれない。
ただ間違いなく言えることは、無のままである器は、限りなく『絶望』だ。
それは白でも黒でもない世界。 目なんて、見えていないといった方が正しい。
暗闇であるからこそ光を求め、光であるからこそ暗闇を求める。
そのどちらでもない私に求めるものなどなかった。
人間にとって、
「幸せ」
とは一体何なのだろう。
「幸せ」
だと思える時とは、つまり、心が温かくなったり満足感を得る時だろうか。
それでは、『心』とは一体何だ?
人は、楽しさ嬉しさ悲しみ怒りなどの感情を感じとる時、自分の『心』で感じとる。
『心』とは、大体の人は胸の奥辺りで感じとるはずだ。
一体、何故なのだろう。
人体を解剖してみても、ココに実際内臓が入ってる訳ではないはず。肺などがあるだけだ。
ココには一体何が入ってる?目には見えない何かが入っているのだろうか?
と考える時、私の中での答えが自然に浮かびあがってくる。
ココに入っているものは、『愛』だ。
『愛』があるからこそ、人は『心』を感じとれる。
一言で『愛』と言っても、もちろん恋愛だけではない。
親子愛、兄弟愛、夫婦愛、友情愛。
他にもたくさんある。
この世界で一番強いのは、『愛』だと思う。
例え、自分が殺されると言う不運な境遇に陥ったとしても、『心』は誰にも殺せない。
誰にも折ることなんて出来ない。
それこそが、人が
「幸せ」になれる唯一の方法なのかもしれない。
「心」
を感じとれることが、
「幸せ」
そのものなんだ。
それが、私にとっての世界のあり方であり、基本だ。
頭が痛い(笑)