第九十四話 「魔人の絶技」
『あ゛っ……や、やめっ……』
ぐちゃぐちゃと、肉の潰れる音がする。
すすり泣くような声と、かき消すような無機質な音。
お姉ちゃんは、こわされちゃった。弟は、潰されちゃった。
『なにが魔人だよ。てんで歯ごたえがないじゃねえか、回族なんてなァ』
『両足の腱が切られているんだ。あたりめえだろう』
『和平の為に戦いを捨てたっていうのにな。こうはなりたくねえなあ』
やめて。お父さんはもう動けないのに。
やめて。お母さんはもう戦えないのに。
『おい、ガキ! 逃げようと思うなよ、お前ら回族は皆殺しだ! 俺たち漢民族の血でお前らの存在を塗りつぶしてやる!』
なにをしたというのだろう。
このやさしいひとたちが、なにをしたというのだろう。
『れ……れ、ん……』
おとうさんが、虫の潰れたような声を出す。
もうはんぶんだけ、ヒトのかたちを残している顔を、漢人たちは乱暴に蹴り上げた。
やめて。
『にげな……ざ、いっ……!!』
『はははははっ! ざい、だってよ! なんだよ、ざいって!』
『ガキを逃がすと思ったか? 地面の上にてめえらの生きられる場所なんか残さねえよ!!』
ぐちゃっと、おとうさんの顔がつぶされた。嗤われながら。
――――頭の中は、真っ赤になる。もうなにも、考えたくはなかった。見たくはなかった。
胸に隠していた短剣を握りしめて、からだは弾けた。
『――――……はあっ! はーっ……はーっ……』
――――どこをどう、走り抜いてきたのかはわからない。
飛び飛びの記憶を、生暖かい感触と、こびり付いた血糊の不快感が反芻させる。
ひのたまに成った心地がした。ぞぶぞぶと、刃が肉を掻き分けていった。短剣に貫かれる漢人どもは、おどろいた顔と、おびえていた顔とをしていた気がする。
わからない、思い出したくもない。
わずかに息の残ったおとうさんを“楽にしてあげた”あと、駆けだした。
――――どこへ? わからない、からだの弾けるままに。
『はっ……はっ……』
星空だけが呆れるほどに広かった。
この大地はもう、漢人の大地。
たったひとり。恋に味方は、もういない。
「――――……」
見渡す限りの、敵の群れ。曹操と、曹操の鎧を身に着けた、同じような顔をしたやつら。
似たような表情をしていた。怖れ。怯え。あと少しの戦意。
思い出したくもない目だ。
「呂布の一撃を……止めた!?」
「あれは……武蔵? 宮本武蔵殿か!!」
「武蔵!? 高順との戦闘で戦死したという、あの……」
「ああ、間違いない! 俺は虎牢関ではあのお方の太刀持ちをやってたんだ! あの大きな体躯に麒麟のような紅茶色の総髪髷は、間違いない!」
「“天界の御剣”と言われたあの武蔵様か!」
「おおっ、武蔵様が生きておられた! これならば戦えるぞ!」
「おおっ、呂布の野郎がなんぼのもんじゃーッ!!」
得体のしれない助っ人に、おめでたくもぬけぬけと沸き立つ。
こいつら漢人は、皆同じだ。群れていないと戦う事すらできないのか。
――――呂布の胸中に、また新たな憎しみと怒りが、ふつふつと沸き立ってきた。
いつもと同じだ。皆殺しにして居場所を作る。こいつらをすべて消さないと、安心して眠ることすら出来やしない。
「おまえら、寄ってたかるな」
そう言ったのは、武蔵であった。
呂布に、ではない。周囲の人間に、まるで寺子屋の先生が言い聞かせる様な口調であった。
「こんないたいけな女童から、これ以上、何を取り上げようというのだ」
はた、と、曹操軍の将兵は戸惑いを隠せなかった。
この戦は、曹操軍と西涼騎馬民族の雌雄を決し、中原の覇者を決める戦いの最後の大詰め。そして魔人と称された呂布を討ち取る、いよいよの最後なのだというのに。
「またあなたが掴みどころの無い事を言うから、将兵が戸惑っているわ」
「やかましい。これほど気乗りのせん戦いが他にあるものか」
「あら、それでも私の危機に駆けつけてくれたじゃない、うれしいわ」
「お前の為に来たわけじゃあないよ」
俺の考えなど、すべてお見通しなんだろう、と、武蔵は背後の小柄な少女に声を掛けた。
華琳は今しがた死にかけたというのに、いつもの余裕面で、悪戯っぽく笑っているだけだ。
「こいつの怒りは、誰かが受け止めてやらねばならんだろ」
左の太刀の切っ先の先に、鬼がいる。
この小柄な少女の肢体からは考えられぬほどの、凄まじい存在感を感じる。
それは、怒りだ。すべてを奪われた少女の、すべてを毀すまで止まることの出来ぬ、真っ赤な衝動だ。
「安心せい、俺は漢人じゃない。お前の慟哭も恨みも、俺は知らぬ」
右に携えた大木刀を、天を衝くが如く掲げる。
「打ってこい。受け切って見せよう」
おそらくそれは、この場にいる誰もが、一度も見た事の無い構えであろう。
(……二刀?)
(おい、春蘭。お師匠の二刀など見たことがあるか?)
(ない!)
彼女らにとって武蔵と言えば、だらりとした無構えに片手剣である。
――――その見慣れぬ二刀の構えこそが、宮本武蔵、とっておきの構えであることを、彼女たちはまだ知らなかった。
「……おまえは……知っている」
呂布の姿勢が、静かに、そして異様なほど低くなった。
左の柄尻側の手は腰だめ。右の先手は、柄に巻き付ける様な逆手。
奇妙な構えだった。必要以上に小さく、折りたたむような。
落雷のような一撃を豪快に叩き付ける呂布の戦い方からは、あまりにもかけ離れている。
(……! あれは……)
武蔵も、実際に見たことはない。聞いたことがあるだけ。
伝説である。
その型を見たものは、生きて漢土に帰ることは無いという。
「おまえは……ちょっと、強い。だから……見せてやる」
(――――!! 速いッ!!)
武風は、猛烈にして強靭無比。低い姿勢からため込んだ力を一気に爆発させ、敵を殲滅する圧倒的な前進力。内に心・意・気を揃え、外に肘・腰・膝を合わせる。
「ッッツ!!」
一瞬で間を詰め、一合の間に三度も斬り付けた。さらに頭突き、脛蹴り、肩による体当たり、少し空いた隙間に渾身の横一文字。
そのあまりの連撃に、武蔵はたたらを踏むように後退し、最後の一文字をかろうじて刀で受け、一間、二間も飛び下がった。
(な――――!?)
(あの武蔵が、後退!?)
(いや、それよりも――――受ける、だと!? あの武蔵殿が!)
絶対無比の『一分の見切り』によって打ち込みを外し、悠々と後の先を取るのがよく目にした武蔵の戦いである。
攻撃を何撃も得物で受け、否、“受けさせられ”、一太刀も返すことなくただ退がるなどというのは、初めて見る。
(凄まじく重い! そして速い!! この種の感触は、俺に知る剣には前例がない!)
400年の歴史において不敗。
伝説の名は、『心意六合』と言った。
「……こいつは」
着地した武蔵の眉間に、一筋の汗が流れる。
それと一緒に、血液も混じっていた。
「……ごついねえ」
不敵に笑う表情とは裏腹に。
その両腕に残る感触は、今までに経験した事の無いしびれが、骨の髄にあった。
中国武術の奥深さは類を見ぬものがありますが、中でも大阪のとある達人に見せて頂いた真意六合拳は別格でした。
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