第九十一話「不毛地帯」
――――――なあ、曹操って知ってるか?
知ってるよ。この国で知らない奴はいないさ。
――――――逆らう奴は皆殺しなんだってな。
怖いな。
――――――ああ。
徐州は焼け野原にされちまったってよ。
――――――西の馬賊も根絶やしだ。
ああ、今日も出征だろ?
――――――中原から追っ払ったってのに東の海の果てまで追い詰めていって、それでもまだまだ追っかけるってんだからな。
なんぼ馬賊とは言え、哀れだな。
――――――ああ、ただでさえ青州なんて……この世のもんじゃねえってのに。
あの曹操様の行く先には草も残らんって話だ。
――――――いったい、この先どれだけの死をばら撒いていくんだろうな。
ああ、お次は何処を焼くのやら。
――――――もう、よそう。“説曹操、曹操就到”(曹操の話をしてると、曹操が来る)
怖いな。
――――――ああ、おっかねえ。
「夏侯将軍、帰還ー!!」
勇壮な騎兵の先頭を往く美女。氷を思わす憂うような眼。千里先を射抜く鷹の眼だ。
重苦しい城門が開き、鋼鉄の如き軍団はまさに一糸乱れぬ行軍で市中の大通りを闊歩してゆく。
曹操軍では、市民が仕事を放り出して、帰還した軍人たちを拍手と喝采で出迎える――――――という“慣例”は一切無い。自らの勤めを放棄して火事場を見に行くものなどは曹操の領内にはいなかった。法や酷吏に締め挙げられているわけではない、ただ曹操の治める土地の空気が、それを許さなかった。
それでも道行く人たちは、遠巻きに人垣を作る。
歓声は無い。ただその軍団の発する独特の、金属質な重々しさに呑み込まれぬように息を詰まらせながら、声も顰めて見送る。正直、怖さがあり、眼を背けなるべく関わりたくはないのだが、思わず足を止め、見てしまい、けれど言葉は詰まらせる。鉄の臭いを振り巻くその者達は、そんな空気を纏っていた。
「あれが“曹家の白鷹”ですか」
流れるような黒髪に、瑞々しく肌理の細かい褐色の肌をしている。南人の少女は人垣の中で隣の連れに耳打ちした。
「まったく曹操ちゃんの美少女趣味にも困ったものよねぇん。良いオトコはいないのかしらん!」
くねくねと身体を気味悪くするのは祖茂、孫堅の代から仕える宿将だ。男、否、漢女であり剃っても剃っても消えぬ青ヒゲを持つが、当代切っての変装の名人であり、今の様に口元を隠せばなるほど、女にしか見えない。それも、褐色の肌でありながら目立ち過ぎない、“そのあたりに居る”農婦か飯場の女将にしか見えない。その気になればまさに同僚の周瑜あたりのような、見事な褐色美女に化ける事も可能だが、漢人種ばかりの中で完全に市井の民に融け込む事の出来る変装術はまさに一流である。
「ここ一年ばかりの曹操軍の勢いはまさに破竹の如しですが、この都市の様子を見ればそれも頷けます。各所で開発と炊事の煙が焚かれ、音が止む事は無く、大通りでは物資の運搬が休むことなく交錯している。軍が帰還したと言うのにその流れが止む事がありません。まさに血流が絶え間なく流れるかのように……これほど活発な都市は南にはありませんね」
「そお~ねえ~……こりゃ勝てんわ、袁術ちゃんや袁紹ちゃんじゃ」
傍らの周泰は隠密術は見事だが、化けると言う意味では今一歩だろう。生来の彼女の凛々しさ故か、顔を晒して活動するにはまだまだ目立ち過ぎる。
「しかし、軍事力ではまだまだ二袁が上なのでは?」
「軍事力や経済力っていっても、結局最後は人よぉ」
祖茂が腕組みして、眺めるような表情を作る。
視線の先では上半身を露出して頭巾を汗に濡らした壁造りの職人が、喧噪の最中、自らの仕事にいそしんでいる。彼は、一心不乱に職人だった。
彼は曹操を気にしていなかった。大通りの喧噪も。ただ、自分の仕事を“場”に、真剣勝負を打っている勝負師の顔だった。
よく見ればこの曹操の街は、どこかしこもそんな顔をした人間ばかりだった。どこを向いて良いのかわからない、そんな顔をした人間はいなかった。
――――――その姿すらも、曹操から見ればまだ先があるのでしょうけれど。
「あら、そうしてるうちに来たわ」
「……!! あれが曹操ですか?」
気配が、空間が色濃くなった気がした。視線が自然と吸いつく。その先に栗毛の駿馬にまたがった、よもやと思うほど小柄な少女がいる。
その曹操は、ことさら陽気な曹操だった。金髪碧眼の可憐な容姿でくるくると笑い、大仰なしぐさで夏侯淵に手を差し伸べ、やがて私の恋人よ、と、その知勇を讃える詩を朗々と謡いはじめた。
(……曹操とはあんな女なのですか? 意外ですね……)
(宴の席で笑いすぎて料理に頭突っ込んだなんて噂もあったしね)
(……それにしても、小さい)
そんな曹操の前で口元に手をやり、柔らかな表情で微笑んでいた夏侯淵が、おもむろにこちらを向いた。
本当に何気なく、といったふうだったが、射抜かれた気がして、いささか二人はぎょっとした。
(……気付かれましたか!?)
(身構えないの。大丈夫よ)
「――――――どうしたの? 秋蘭」
「杞憂とは思いますが……」
鷹の目を細めると、美しい顔が鋭く変わる。
「随分と気の満ちた者が二人。そうとは見せておらぬようですが立ち姿とちらりと見えた手先の筋張り方が町人のそれではありません。しかしただの旅人にしては周囲を観察する意識が強い」
「間者である確証はあるかしら?」
「そこまでのものではありませんが」
「そう。ならやめておきなさい」
さらりと言う。
「疑わしきは罰せず――――――」
「……」
「フフ、如何にも曹操らしくもない、とでも思ったかしら?」
「いえ……」
「この曹操の治世において“街”とは何か」
先ほどの陽気な佇まいが、氷がパリパリと張るように厳かに変わっていく。
およそ少女とは思えぬ口ぶり。
「街は単に城壁によって民を囲い、護る為だけのものにあらず。地脈、水脈に似る人の流れ――――――その集積点でなければならない。街の強力な胎動と脈動が、漢土に人を満ち溢れさせる強靭な龍脈を作る。まさしく水脈が豊かであるほど田畑が豊穣を実らすように……街が人を循環させる力が強いほどこの大陸に力は漲り、人の行き交いを加速させ、100年の歴史を一日に縮めることができる。城門を固く閉じ、囚人のように民を土地に縛り付ける街の在り方は光武帝時代の遺物。この曹操の世は騎馬民族だろうと、大河を隔てた異境の民だろうと自由に行き交いできる世。民が民でなく、人として存在する世である」
どちらが虚で、どちらが実ということはない。七色の気色が正と陰を行き交いする。
それらが常にめまぐるしく交錯し発現するのが曹操という人物の性情なのだ。
「豊穣の地脈に脈打つ水が清水ばかりというのはありえまい。堆肥や腐葉が混ざるがゆえに豊かさをもたらす。時にはへどろも混じるだろう。それを恐れ、十や百程度の不穏な者をいちいち弾いていては小さな邑へと萎むしかない。酷吏を多用したが故に前漢は萎み、滅んだ」
一瞬、何かはばかられるような表情を浮かべた秋蘭に、華琳の瞳は鋭くなる。
「滅んだでしょう、如何に滅んでおらぬ、漢は400年続き今なお健在だなどと嘯いたところで、滅んだものは滅んだ。黒髪の高祖と金髪の光武帝には何の縁もない。どれほど地跡に化粧をしてそれらしく見せかけようとも、天の目から見れば明らかな事実よ」
紺碧の眼が天を倚する。
「今再び、漢は滅んだ。今度はさらに完膚無きまでの形で。いい加減、地の上に息衝く人は気付かねばならない、過去にしがみつく事は天が許さぬのだ、と」
乱、とは、天下が乱れ武力によって天命が革まる事を言う。
乱を起こすのは、果たして誰だ?
「――――――申し上げます! 夏侯惇隊が魏越・成廉の部隊の襲撃を受け、後退! 下邳へ退いて陣の立て直しを図っているとのこと!」
表情が真っ赤に染まった。
「さあ、焼きましょう、殺しましょう。掃いて捨てるものは山ほどあるわ。まずは、旧時代の亡霊を」
曹操の地で、息つく間は許されぬ。
振り落とされるか、振り落とされぬか。激流にさらされる天下だ。
「結論から言おう。此度の敗走、我が軍の優位を揺るがすものでは無い」
将軍の声は女にしては低く、しなやかに張って良く通る。
「だが、敗北だ。紛れもなく。その為に未だ友軍は既に四か月も青州に孤立したまま――――――補給もままならぬ状態での戦いを余儀なくされている。恥ずべき事だ」
彼女の言葉には飾り気がない。不器用なほど朴訥、とも評される彼女の言葉に心躍るような華やかさはない。
「我が軍が負けぬ理由が三つある。ひとつは我が軍の国力は昨年よりも増大している事。ふたつは敵の兵力はこれ以上増えぬということ。みっつは袁紹・袁術が我らを挟撃しては来ぬという事」
曹操のように、劇場の観客の如く兵士たちを熱に浮かす麻薬的な演説は、彼女には出来ない。
曹操という圧倒的なカリスマを戴く曹操軍ではしばしば――――――将兵らが曹操そのものに自らをすり合わせようとする節がある。声の調子、佇まい、言葉の並べ方を。彼女の熱狂的な支持者ともなれば、彼女の詩想からすら彼女の志操を読み取り、彼女の表情を真似ようとする。
夏侯惇は曹操とは得意な料理の種類も違えば、彼女の詩を写したりもしない。曹操と夏侯惇という二人の人間に、符合する点は極めて少ない。
「故にこの戦、負けはない。負けはないが――――――勝つためにはそれでは足りぬ。必ず越えねばならぬ壁がある。この敵は悉く、全軍が戦人だ。武将であれば天下の趨勢を見極める目も持とう。武官であれば経済や政局を分析して理無しと悟れもしよう。この敵はそのどちらにも属さぬ。ひたすら矢尽き剣折れるまで戦いを止めぬ。結局真っ向から倒さぬ限り、この戦はいつまでも長く燃え続く」
夏侯惇の下に集う将兵は、皆、夏侯惇に似ていた。義侠に篤く実直で、楽天的に見えて生真面目であり自らの責任を深く捉え道に外れない。
そんな夏侯惇の言葉こそが、彼らを最も奮い立たせた。
「正念場だ!! 敗北の不明と汚名はこの夏侯惇がすべて引き受ける! 代わりにお主らが勝利をもぎとり勇名を馳せ!」
夏侯惇があくまで夏侯惇である事が、彼女を曹操第一の腹心にして、彼女の部隊を曹操軍最強の部隊たらしめている。
「華琳の大将が出陣しはったそうやで」
ずずず、と、大軍が龍のうろこのように蠢いている。あるいは魚群か、山が動くようだ。
黄砂の様な土埃と軍足の地鳴り。戦争のにおい。
「華琳様のご到着までにこの下邳の戦線を突破し、なんとか青州の李通と合流を図りたいところだ」
干したざくろを齧りながらの真桜に対し、眺望するような凪の顔は鋭い。
「私は李通の戦いぶりのほうが興味深い」
少し離れたところで、酒を舐めながら槍を玩ぶ星がひとり言のように言う。
「あの“人喰い万億”が敵地孤立しながら呂布相手に四カ月も戦い続けているのだ。補給がままならないまま如何に兵站を持たせ――――――どのような光景か、想像するだに恐ろしいな」
微笑みを浮かべる星と対照的に、真桜は顔を強張らせた。
青州は実際に見た事はないが、4年に3度は凶作であり食糧の現地調達も覚束ない不毛の土地だという。
そんな所に本隊から補給の途絶えた状態で実に四か月も、そして戦い続けているのはあの李通だ。
青州はその李通を生んだ土地でもある。一体、どんな状態になっているのか――――――想像の上を行く世界である事は間違いないだろう。
「沙和は~……う~ん、ああいうオトナな春蘭さまは、なんていうか春蘭さまっぽくないなって思うな~」
真桜からちょろまかしたざくろを一口に頬張り、べたつく指を唇に運びつつ、沙和が言う。
宮本武蔵が黒騎兵の大軍に飲み込まれてから、もう一年が立つ。あの戦場の跡は燦々たるものだった。高順を初め涼州軍の主だった将の大半を撃破し、この戦争における曹操軍の優位を決定づけた一戦だったが、決して楽に勝てたわけではなかった。
あの大戦で多くの優秀な将兵を曹操軍は失っている。死亡したもの、亡骸すら見つからなかったもの、いずれかの形で帰らなかった者も多く、あとからひょっこり姿を現してきた例は数えるほどしかなかった。
宮本武蔵も、その例外では無かった。
「……隊長、どこでなにしてはるんやろ」
空気の抜けるような、どことなく張りの無い声。
「全く、曹操軍もあの日以来、辛気臭くて敵わん。死んだか生きているかもわからん人間の事で誰もかれもうつむいている。これ以上居心地が悪くなるなら、いっそ劉備のもとにでも行ってやろうか!」
わざとそうするように、大きなため息をつきながら。
星の言い草に、凪が眼を怒らせた。
「趙雲!!」
「私は聖人君子や仙人ではないから、命に序列を付けるな等と血の通わぬ世迷言は言わぬがな。あの戦で死んだ同胞は他にも大勢いる。戻らなかった者もな。それ以前にたとえ生きているとして、現実問題ここに居らぬ人間に何を期待するのだ。乙女は胸にぽかりと穴が空いてしまったのやも知れんがな、穴ぽこ空いた心胆ならスカスカなりにそれでどうにか戦い抜くしか無かろう。嘆いても現実は変わらん、武蔵殿でもそう言うだろうよ」
行方不明者は、死人とほぼ同義だ。誰もがはばかって言おうとしないが、それは真実だった。
恋人、両親、我が子。それぞれを喪いながら懸命に闘い続ける同胞は多く居る、それもその多くは我々に比して遥かに貧弱な武と体で。
春蘭はそれをやっている、と言外に言いたいのだろう。かつて、といってもそう昔でもない頃の彼女がそんな落ち着いた人物では無かったことなど、曹操軍の主要な人物たちは皆知っていた。人がそんな短い間でそうそう変われるものではないという事も、がらりと変わったように見えるならば、その部分は実は相当な無理を掛けてそういう風に歪めていた。本人がそれに気付いているかは別としても。
それでもまだ、生きているかも、と目を背けたような期待を持つのは女々しい事だった。夕飯の話題をしていた隣の友人の頭が次の瞬間には吹っ飛んでいるような、唐突な死の蔓延する世界に彼女らは自ら身を置いていた。たとえそれが自分にとってどんなに特別な人間だとしても、例外はなかった。
そんな事は、彼女たちとてわかってはいた。彼女たちとて皆、乱世に身を投じてすでに拭い切れぬ血を浴びている。わかりきってはいたが、人間らしく手前勝手な希望を持ちたかった。でも、
「いいたかないが……星の言うとーりやな」
皆が、どこかいびつであった。心と体に軋みがかかるような負担を常に掛けているような、あの日以来、やはり何かが変わっていた。
それでも、体が潰れるなら、あるいは心が壊れるなら、それを抱えて進むしかなかった。思躁の世界にたゆたっていても現実は消えてはくれない。やがて怒涛のように押し寄せてくれば、理由を考える余裕もすぐになくなる。
「相手は巨兇・呂奉先やで」
現実は常にどうしようもない形で、生きる者の目の前に横たわっているのだ。
「ぎイイイイイイイッッ!!!!」
およそヒトのものとも思えぬ叫びが木霊す。それももう、耳について離れなくなってしまった。
あの虎牢関の戦いでだってこんな肺を突き破って釘が飛び出てくるような、おぞましげな叫び声は聞かなかった。その虎牢関だって、その後の袁術や袁紹との小競り合いに比べりゃ修羅場のような戦場だったんだ。
それがもう、毎日だ。毎日過ぎて今がもう昼か夜かもあいまいだ。もうもうと絶えず舞う土煙、そこらにうっちゃられる骸の朽ちる残骸、日に照りつけられて蒸発する血脂が空気をべっとべとに汚し肌に纏わりつく。そんな常に視界に膜が張った様な戦場で、昼でも夜でも戦が始まり、やっと終わっても次がいつ始まる恐怖と闘いながら、ししむらに群がる塵虫の中に寝そべって眠らなきゃならない。これまで十以上の戦を駆け抜けてきたが、この戦の酷さに比べれば物見遊山にすら思えてくる。
常に疲れ果ててるから意識がもうろうとしてしまって、それでも敵が攻めてくれば、ばつッと目が覚めるんだ。恐ろしくてな。想像つくかい?
――――――あの叫びは、敵の断末魔なんだろうか、それとも発狂してしまった味方のものなんだろうか。
これでも二つ首を獲った。でもな、あいつら礫で撃たれても槍で突き刺されても、構わず突っ込んでくるんだ。普通、撃たれりゃ下がる刺されりゃひるむだろ。人間ってそういうもののはずだろ。
それでも、苦しみながらとか、雄叫びを上げながらならまだ理解できるんだ。あいつらは違う、無なんだ。そりゃ最初の頃は鬨の声を上げるような奴もいるんだが、血を流すにつれてあいつらは無になっていく。顔の半分が吹っ飛び手足がもげても、傷が深くなるにつれて土偶の様な色の無い目になっていって戟を振り回し続けるんだ。
獲った二つの首は、首を切り落とす瞬間、瞬きもしなかった。体は激しく抵抗していたのにだぜ。首になってから、あの土偶のような目で俺をじぃっと見ていた。手柄だったけど、捨てたよ。恐ろしかったんだ。
気が狂いそうだった。あるいはもう狂ってるのか? 人界じゃない、魔の領域に踏み入れてしまった心地だった。あいつらが同じ人とは思えなかった。魔のものに見えた。
「ッッ!!!!」
肩に大きな衝撃を受けて地面に叩きつけられた。ピチッ、という嫌な音。固い地面の振動が骨に、ぬちゃ、という、想像したくない感触が皮膚に残る。
顔を上げると、俺を跳ね飛ばしたモノが大きな影を作っていた。人馬一体の怪物。真っ黒の顔に、土偶の様な目がぽかんと二つ穴空いてた。
体が泥のように重たくなり、冷たくなってしまった。戦場で死ぬものが、死の直前に取り憑かれるモノに、とらわれてしまったと俺は気付いてしまった。
恐怖。
切っ先を向ける矛。黒塗りに浮かぶ目玉。
ああ、いやだ。
こわいよ。
「――――――おしっくらでは、そうは負けんぞ」
ゴ、ゴンッ、という金属音にも似た重い音が鳴って、踵が地面に突き刺さった。後足のつま先が正面に向くように締め、丹田からみぞおちを通り得物まで繋げる姿勢が騎馬の突進を受け止めた。長巻きなど重量のある武器を支える為の姿勢であり、この場合得物は、極太のそれを捉えられるほどに大きな掌と指がめり込む馬の首。
槍術に近い形だが、実は槍か剣かには関係なく、得物が長ければ立ち幅は深くなり、短ければ浅くなる。骨格を一直線に並べ踵で地面に突き刺す姿勢が――――――その者の肉体が虎の如く常識離れして異質であった事が無関係ではないにせよ――――――人馬合わせて半トンに達す巨大な圧力に対抗する事を可能にしている。
柔らかく肉を除けた触れるような指先が、やがてミリミリと食い込みだす。馬は反応しびくんと痙攣したが、暴れず、むしろ吸いつくように離れなかった。
まるで巨大なかんぬきを掛けられたように。日本柔術に見られる特徴的な手形、鷹の爪、龍爪などと称されるその極意を得意とした者は武田惣角などが有名だ。もっとも惣角ばりの掴み手を使えた者は、惣角が伝えた大東流、ひいては派生した合気道の現代までの史上を翻ってもそうは居ないだろう。
しかし戦国期の武術家達は、標準的な装備としてその技を持っていた。
「ッッツ!!」
その巨漢の肚と背中が動くと、騎兵の天地がひっくり返った。馬は頭から地面に突き刺さり、騎手は強靭な馬体の下敷きになる。重力を感じさせないほど、軽やかで鋭い回転だった。
古事記の中に、オオクニヌシの国譲りの際、タケミカヅチノミコトがタケミカタノミコトの手首を掴み握りつぶしたという話が出てくる。また竹内流をはじめとする日本古伝柔術のおよそほとんどの型の中に“手首を掴む”という動作が出てくる。戦国期に勃興した古伝武術の中に、平素使わぬ技術が主要のものとして盛り込まれている事は考えられない。
それほど、槍における突きという動作と同じくらい、戦闘において標準的な戦術であったという事である。“掴む”という動作は本来、決まれば一瞬で勝負を決する威力を持ったものであった。
乗り馬により身動きを封じられた騎手の首を、巨漢は腰に佩いた錆びた刀をざりざりと抜くと、速やかに刎ねた。豪快な投げと裏腹に涼やかなほど、ピンッとなんでもなく刎ねた。
男の体に体温が戻り、芯がほぐれていく。目の前が明るくなっていき、やがて別段暗くもない、ただの曇り空だった事に気付いた。
見上げた巨漢の表情はよくわからなかった。何せ麒麟の様な癖のある紅茶色の蓬髪がぼうぼうで、髭も顔の半分を覆っていたからだ。
「がアらァッツ!! 漢人ッ、まだ居たかッ、どけっ、殺してやるッ!!」
ひときわ動き鋭く、力漲る小柄な騎馬が躍り出てきた。騎手は女――――――いや、少女。
崩れ始めた味方の戦線において、その巨漢が最前線だった。山形の頂点を叩くように、丈のやや詰まった戟を、手綱から離した両手で速度に乗って一気に振り抜く。
巨漢は体を外側に捌きつつ、いなすように刀を合わせる。
キ、ギン、と鳴いて銀色が宙を舞った。既にひん曲がり掛けていたボロボロの錆刀は、派手に叩き折られて宙を舞った。
「チッ」
恐ろしい速度で馬首を返し、再び向かってくる鬼の形相に、巨漢は体を泳がせながら刀身のぽっきり折れた柄を投げる。振り上げで容易く弾き、一気呵成に振り下ろす。
地面まで叩き割る勢いだった。少女は歯茎までむき出しにした激しい表情。怒りの眼。
「―――――――ッ!!」
剣戟の交錯の一瞬は、人智を超えた力が肉体に宿る事がある。あるいは赤子のように脆弱になる刹那がある。さながら火の様なものだ。感情の力が爆発的なエネルギーを生み出し、狐憑き、神がかりと呼ばれる冴えを人体に与える。轟々とした炎は時に自らを害すほどに心を燃やし、一度大火となればそんじょそこらの雨風で止める事は出来ぬようになる。反面、一度折れた心に再び焔を灯すのは本当に難しいものだ。
強い者とは、炎を燃え盛らせる術とそれに耐え得る燃料を持ち得た者である。
だが、勝負を制する者の資質はそれとは少し異なるものだ。
―――――――稲妻のように振り下ろされた戟に、巨漢は逆らわなかった。迎え入れるように懐を開け、体はゆっくりと転換。叩きつけに合わせ膝を柔らかく落としながら、手は触れるように軽く添わせた。
巨漢がほぼ少女に対し、背を向けるような角度に至った一瞬、両者の圧力は釣り合いゼロになった。“振り下ろす”という円運動に対し、押しもせず引きもせず。角度と力積に対する調和が成った瞬間、太極図のように二つの中心が出現する。真円の中に全く同じ量の二対の力が存在し、それぞれの中心にまた二つの中心。
円が分岐点を振り切った。中心が入れ替わる。少女が振っていた筈の戟が、いつのまにか巨漢が振っていた。遠心力と戟そのものに何ら変化はない。ただ中心点が入れ替わり、巨漢は力の導きに従い、振り下ろしを続行する。
人間一人分の重みをまるで感じさせない、竜巻の様な回転だった。
日本武術において剣術が神聖視されるのは、刀という武器が兵器として優れているから、ではない。
あまねく戦闘法はすべて剣を基としているものだからだ。槍も弓も長刀も組み打ちでさえ、その体遣いは剣に端を発しており、理合の奥義はすべて剣に還ってくる。
神武天皇がはじめに振るった武器は剣だった。槍でも弓でもなかった。日本武術の歴史は剣と共に拓いている。
“武”において剣は最先にして最終なり――――――とある武術家は言う。
「ごはッつ」
イメージがつかない方は、近くのペンを持ってシミュレートしてみると良い。振り下ろすという運動は回転ではなく楕円を描く。右手で描く振り下ろしの最中、最適なバランスでペンの先端を左手で持ち替えれば、円運動は継続し、かつモーメントは二倍になる。根元だった右手側は知らずのうちに先端へと入れ替わり、二倍の遠心力ですっ飛んで行く。
マニュアル車がトップギアに入った状態と同じだ。一度回転が始まればアクセルを少し踏むだけでグングンとスピードは上がっていく。同じ力でも生み出せる出力は乗算で増していく。
他者の力を利用できれば当然、よりレバレッジの効果は大きくなる、だがきっかけを生み出す“小さな力”を加えるタイミング、角度、適切な量、等々がよりシビアになってくるのは言うまでもない。
いまや最も加速のついた柄を持ったまま、少女は一回転して叩き落とされ、空を仰いだ。後頭部を打ち、動かなくなった。
「その子を殺すな!」
のそりと振り返る動作は、人斬りを繰り返した後と思えぬほど緩慢にすら見える。
長い、豊かな髪の女性だった。微笑むかのような柔らかい表情、男を振り向かせた鋭い声がその口から発せられたとは思えなかったが、間違いなくその女性ではあった。
頬の帰り血が戦士である事を物語った。
「魏越……という事は、この少女が成廉か?」
「投降しましょう」
またがる駿馬がぶるんと首を振った。手綱が揺れ、豊満な肉体と、考えの見透かしにくい細めた眼の奥がわずかに揺れた。
「この戦、いつまで続く?」
男が言った。女は答えない。
意図の掴み難い問いだった。あたりには未だ鬨の声が満ちている。
成廉の馬は男が手綱をスッと引っぱってやっただけで、あとは手を離してもそのままトコトコと歩いて行った。利口な馬だった。
男と女の間に言葉はない。やがて男が髭を歪めて、にやっ、と笑った。
「大将の隊が来るって?」
「はい。下邳を完全突破したので、もう10日もせぬうちに物資と増援を引き連れて到着するとの事ですが」
「ふーん」
喉から手が出るほど待ち焦がれた報告だろうに、男はこともなげな反応だった。
少年のような小柄な体躯である。がらがらに痩せているが、よく見れば腕、首周りやもぐもぐと動かす時に出る顎のあたりの筋の発達の仕方が異常だった。とがった様な高い鼻で、目ばかりが爛々と大きな印象だ。
「李通殿、いかがします? “あれ”は片付けますか?」
「なんで?」
相貌はかなりの異相である。隻腕で片側の口が端から頬の中ごろまでバックリと裂けている。
肉を食っていた。もちゃもちゃとやや硬そうに何度も咀嚼していた。
「わざわざなんでそんな事を。そのままにしておけよ」
「はあ……」
「曹操が来るからって変に気を遣う必要はない。ここでずっと“あれ”でやってきたんだ。曹操が来るなら来るで、それはそれだろ」
「わかりました」
「それとよ」
「はい」
「これ。もう腐りかけだ。潰しちまったほうがいい」
「わかりました」
飲み下し、杯の中身を口に含んで少しすすぐ様に転がすと、そのまま飲み込んだ。
呑みこんだら、眉をしかめて舌を出して見せた。体格の割に長い舌が、滴で真っ赤になっている。
「さて、喰ったしそろそろ出るか。お前は喰ったのか?」
「はい、食べました」
「よし」
がたがた、とイスを引き、食器も片付けず立ち上がった。
それもまた、いつもの事、なのであろう。
「――――――さァさ、いくぞてめえら! 今日こそあの女の首ぶった切ってそっから突っ込め! 腰振りながら胎掻っ捌いて、子宮取って喰っちまえや!!」
河は黒く、烏が空を覆い、作物は一つとして実らぬ不毛の大地。青州。
その腐臭漂う強烈な“死”の印象を司るような軍勢は、今日も出陣し、阿修羅の軍と干戈を交える。
李通はこの地で、一日も飽き足らず呂布と交戦し続けていた。
この青州こそ、その男・李通の生まれたところである。
なぜ一回の更新分を描き上げるとき、完成間近になるとにわかに進捗が遅くなるのだろう、おかげでこんな時間だ!