邂逅編・九話
江戸初期の奉行というのは大体家老相当の重臣が行うのが普通。
「…………む」
ガシュッ、という滑りこそぐ様な奇妙な音とともに、小刀の刃が勢いあまって皮膚を切り裂く。
ぼうっと、思考を空に馳せていた武蔵が、視界の隅を横切った黒い何かに一瞬気を取られて手元を狂わせた。
まだ彫りかけの、何の像を為すのか定かでない木片にじわり、と血が染み込む。
左手の親指の付け根あたりに、ぱっくりと紅い筋が入っていた。
「……お前か」
手元からやや大儀そうに顔を上げた武蔵と目があったのは、一匹の黒猫。
細い三日月の瞳が浮かぶその眼には、眉間に千年杉の年輪の如く、深い深い皺を湛えた、若い男が映り込んでいた。
悠久の時を経た表情を浮かべる、血気盛んそうな若者の像は、ひどくちぐはぐである。
武蔵はそれを自分の顔だとしっかり認識するのに、一瞬の間が必要だった。
「…………」
六十余度を闘うも、遅れを取るは一度も無し。
その勝負に相対した敵の、多くは後世に語り継がれず、謎のままである。
その中に、宮本武蔵と戦わなければ剣豪として名を馳せたであろう闇に埋もれた天才は、きっと何人もいたのだろう。
だが、そういう達人達の屍を越えて――――――俺は、何かを得たか?
積み重ねた、勝利の上。そこに何が?
武蔵の親指から血がポタリと流れ落ち、指には紅い流血線だけが残る。
剣の歴史。兵法三大源流から数えれば武蔵までは三百年、スサノオから数えれば、そこからさらに二千年。
吉岡兄弟が生きていれば、その歴史は百年先に進んだだろう。厳流が絶えていなければ、燕返しの妙技は後世末長く伝わっただろう。
一体、いくつ終わらせたのだ。
不敗、剣聖、天下無双。武蔵の決闘録を彩る数々の賛辞。強さの正銘。
名だたる者たちの死を、食い散らかした結果。しかし、それに意味は無く。
残したのは――――――ただ、真っ赤に染めた道の跡だけではなかったのか。
「…………」
「フニャッッ」
見つめていた像が、にわかに揺らいだ。
というか、後ろから来た人影に驚いて黒猫が飛びのいてしまった。
当然武蔵も気が付いて、振り返る。
「おお、宮本。早いな」
物想いから現実に戻ると、そこには美女が立っていた。
「あれ? あんた怪我してるんじゃない?」
「ああ。ちょっちしくっちまった」
武蔵は彫りかけの木片を懐にしまうと、血の跡をぺろりと舐めて、ぬぐった。
こういうスパッと切った傷口は血の出方は派手だが、断面をくっつけておけば早期に癒着するので、そう心配するほどの怪我ではない。
「全く、下手なら下手なりに自重しなさいよ」
「そう言うな。何事も稽古せんと上手くは成らん」
もっとも桂花が純粋に心配しているのか、ただ厭味を言いたいだけなのかは、若干微妙なところであるが。
華琳の命で指定された刻間にはもうそれほど時間は無い。
武蔵はまた遅刻でもして小遣いを減らされてはたまらない……もとい、首脳陣を集めるとはよほどのことか、と懸念して、かなり余裕を持って待ち合わせ場所に参上し、のんびりと彫刻を彫って時間を潰していた。
だが、
「秋蘭と華琳は? 一緒じゃないのか」
春蘭、桂花が組で到着したものの、秋蘭と彼らが元首、華琳の姿が見えない。
いつも春蘭と秋蘭が常に一緒にいて、桂花は華琳にべったりである。組み合わせとしては珍しかった。
「うむ。食事は済んだのだが、髪のまとまりが悪いとかでな……今、秋蘭に整えさせている」
華琳の髪と言えば、あの金の糸のような金髪を南蛮の貴婦人のようにクルクルと巻いた、あの特徴的な髪型である。
平成の世、特に一部の特殊趣味を持つ、所謂「ヲタク」と呼ばれる人種間では「縦ロール」「ツインドリル」などと呼ばれているそれだが、武蔵の知るところではない。
今日リアルワールドで見る機会はコスプレ以外めったになく、もっぱら二次元におけるゴスロリファッション、高飛車、女王様系キャラにツンデレ属性と相まって付加されることの多いオプションであるが、当然それも知るところではない。
「髪なんぞ適当に纏めときゃいいじゃねえか。女はそう言う所に気ィ使うよなあ」
「だから男は馬鹿なのよ」
武蔵の云い様に、桂花があからさまなため息を含ませて言う。
「州牧ともなった御方がだらしのない恰好で公の場に出てみろ。本人はおろか、臣の我々の品格まで疑われるわ」
春蘭も、ほとほと常識に欠ける、といった口調で桂花に同意を示した。
武蔵の迂闊な発言は、女性陣から顰蹙を買ったようである。
人間、見た目と言うものは重要である。戦国のマムシ、斉藤道三も、自分との謁見に際し正装にきっちりと着替えた信長を見て、その器量を知ったという。
ましてこの時代、内面の良さが外見ににじみ出るという価値観があったほどで、身だしなみと言うのは現代以上に重要なのだ。
その点に関しては、この宮本武蔵という男、全くの落第と言えよう。
「まあ、野人みたいな男にいくらそんな事を説いても無駄かもねー」
「ぬっ…………」
桂花がその愛らしい顔に全く不釣り合いで、それでいてひどく似合う邪悪な笑みをたたえる。
この話題では勝ち目がないと悟ったか、武蔵は視点を別の方向へ向ける事にした。
「州牧?」
「うむ。華琳さまにはすでに陳留刺史としての十分な実績があるからな。此度の昇進も当然であろう」
「……ていうか、主の動向ぐらい把握しておきなさいよ」
「どうせやることは変わらんのだろ? 名前だけ気にしても栓無い事だ」
「まあ……ね」
牧は刺史よりも広範囲に渡る権限を許された地方長官である。華琳は最近、賊討伐や無政府地帯の統治の手腕を持って牧へと昇進した。
が……前々回に述べたとおり、地方の行政はほとんど中央から独立してしまっていた。故に、領地に応じて仕事が増えただけで、実行力も勢力機構もほぼ変わらないのである。
そしてそれは、漢王朝の権限がいかに落ち込んでいるかと言う事を同時に表していた。
「華琳の手腕が認められたと言えば聞こえはいいが、正味のところ、ほったらかしってだけよな」
「そっちのほうが、私としては都合がいいわ」
武蔵の言葉に背後から返事をしたのは――――――
「華琳さま!!」
話題の中心であった、華琳その人である。
「もう大丈夫なのか?」
「ええ」
髪型が決まらないと言っていたが、武蔵の眼からするといつもと違いは見られない。
もっとも、ものぐさ者の代表のような男の言など、進言したとて信用ならないのかもしれないが。
「さて、全員いるわね」
「季衣がいねえぞ」
「季衣は賊の討伐に向かわせている。今回は欠席だ」
「そうか」
「さて、じゃあ行きましょうか」
「何処へ?」
「ああ、あなたには言ってなかったわね……街の視察よ」
「視察?」
「ええ……最近、出征が多くて本拠の把握がおざなりになっていたからね」
「州牧自らお出ましか?」
「私自らが目を通しておくことが重要なのよ」
「働き過ぎだ」
「そんなものよ」
華琳は統治者として全体の管轄をしながら、現場でもよく動く。
武蔵のような感想を抱くのも無理からぬ話だが、彼女にとっては苦労の範疇ではないようだ。
もっとも、ただの人員不足とも見れるかもしれないが。
「行きましょう。桂花、留守を頼むわよ」
「はっ。いってらっしゃいませ」
「あれは連れて行かんのか?」
「あれって言うんじゃないわよ」
武蔵のぞんざいなもの言いに桂花の突っ込みが入るが、気にしない。
「私の留守を任せるのには、桂花が一番適任だからね」
「華琳さまぁ……」
華琳の信頼を寄せる言葉に、桂花が恍惚の表情を浮かべる。
まあ華琳が政庁を空ける間、中枢の総管理の出来得る人材は、彼女をおいて他にはいまい。
春蘭はいわずもがなであるし、秋蘭もどちらかと言えば軍事畑の人間であろう。
武蔵もそういう方面では彼女よりかなり疎い。何せ気分しだいで忽然と姿を消す男である。
事実、武蔵の世界の史書が伝える史実に置いても荀彧は曹操に国家の中枢として多大な信頼と、権限を寄せられていた。
「まあ、無駄話はこの辺にしておきましょう。行くわよ」
「はっ!」
「うい」
「うむ。見なれた街並みだな」
がやがやと人の多い街道。道には所狭しと店が立ち並び、売り子の飛び交う声が一種乱雑な印象を与える。
また歌を歌い、舞を披露する旅芸人や、遠方の民族衣装を纏った旅行者らしき人間の姿も見受けられた。
非常に治安状況の悪い中原にあっては、雑談も難しいようなこの喧噪も、歓迎すべき光景であろう。
「あら、慣れてるの?」
「ああ。よく散歩に来る」
「成程。仕事を抜けて?」
「さあさあ、張り切って仕事しようか、皆の衆」
含み笑いで的確に突っ込んでくる華琳に対し、武蔵は目が若干泳ぎながらも誤魔化しにかかる。
人が挙動不審になる時はたいてい、後ろめたいことがある場合である。
それ故に男の浮気と言うものもすぐ女性に見破られてしまうものであるが、今回のこれもそれに通じるものがあろう。
何に浮ついているかはいわずもがな、ではあるが。
「ま、そうね。狭い町ではないし、時間もあまりないわ。手分けして見て行きましょう」
「では、華琳さまは私と……」
とは春蘭の進言であるが、
「武蔵は私と一緒に来ること」
御約束の如く却下された。
「華琳さまぁ……」
どこぞで聞いたようなセリフだが、こちらの声色は明らかに落胆の色。
「そういうな、姉者。一人で行動出来んほどの新米でもあるまい」
「むー……宮本だって、この街には慣れている風ではないか」
「この人は目を放すと、どこに行くかわからないでしょう?」
「…………あの眼鏡の娘が愛いな、はっはっは…………」
がつがつと核心をついてくる華琳と、武蔵は決して眼を合わせようとはしない。
「次、もう一曲行ってみよー!」と、はつらつとした声で演目を続ける、三人組の旅芸人の方に目線を遣るばかりだ。
発する語気が棒なのは何故であろう、察していただきたい。
「華琳さま、私は右手、姉者には左手を回らせましょう。よろしいでしょうか?」
「問題ないわ。では、突きあたりの門の所で落ち合いましょう」
「はっ」
「うぅ……宮本! まじめに仕事するんだぞ!!」
そう言って二人とも、雑踏の中へと消えていった。
「さ、行くわよ」
「……そもそも、そう仕事など請け負っておらなんだが」
武蔵と華琳が回るのは、道の広幅な大通りでなく、露店のようなこじんまりとした店や、住宅の立ち並ぶ裏通りである。
そこかしこで子供が走り回っているのが、生活臭を感じさせた。
管理しやすい大きい所よりは、より住民の生活に密接にかかわっている所を優先して回ろうという発想なのだろう。
「しかし華琳よ」
「何?」
「俺を連れてくる意図は?」
「護衛はいるでしょ?」
「あれほどの技を持っていてなお、か?」
「あら。あなたほどの武人に認められるとは、光栄ね」
「あの一振りを見ればな」
武蔵が言っているのは、桂花との問答で見た、華琳の鎌の一太刀であろう。
たった一度、寸止めの一振りではあったが、武蔵は確かに、そこに達人の冴えを見ていた。
「一人の武は一人の敵しか相手に出来ないわ。所詮、個の武とはそういうものよ」
「一芸は万事に通ずるもんだ。どんな分野でも、要点を掴むことが重要だという点では変わらん」
武蔵の言に、華琳の眼が心持ち、すっと細められた。
「そう……なら、武の一芸に秀でたあなたは、この街を見て何を思うのかしら?」
「そうだな……まず気が付くのは、ごみ」
おもむろに、武蔵は互いの袂に手を突っ込んだまま、辺りを見回す。
「衛生面は徹底させた方が良い。汚れがひどいと病気も流行る。あとは水路。水周りは生活の基点だからな……これも常に清潔に保ち、下水と生活用水をきちんと分けられるようにする必要があるだろう」
そこまで言って、息つぎの様に、一拍。
「それと、出来るなら通路の拡張だな。賑わうのは結構だが、流通と環境を改善するためにも、各世帯が乱雑にひしめき合っているこの状況は、あまり好ましくはあるまい」
武蔵は華琳に請われたとおり、武蔵は改善すべきであろう問題点を提起した。
武蔵のこういった知識は、小笠原家の客分であった折に、明石の町割り奉行を務めた際に仕入れたものである。
武蔵は「一芸万事に通ず」として、自らの剣の理は、すべての道に応用できるものだとしている。
それはつまり、問題を見出してその解決策を練るという、物事の根本における処置はみな同じである、という事なのであろう。
武蔵の挙げた所はすべて、人口が増えた、つまり、華琳の統治によって治安が改善されたが故に起きた、当面の内政に置いて次の段階に取るべき方策であった。
「へえ……!」
華琳は、武蔵のかなり的を射た、もとい自分の構想にかなり似通った所を突いた意見に目を丸めた。
「これくらいの問題なら春蘭にも解けよう。測りにはちと簡単過ぎたな」
「あら……そこまでお見通し?」
「新しいおもちゃはどういう使い方が出来るか試したくなるもんだろう? 特にお前の場合」
「そうね……中々どうして、用途の広い優秀な拾い物だったようでなによりだわ」
「いやいや……」
華琳の言に、武蔵は少し含みのあるような笑みを滲ませる。
「絶人の武を持ってそれに頼まず。あらゆる叡知を頭に修めてなお賢才を広く求める」
韓信、白起の如き妙術を持っていながら綺羅星の如き将を侍らせ、理想家で国に臨む壮大な気宇を持っているくせに、自分の足でこんな下町まで出張って下っ端役人のやるような街頭調査に勤しむ。
「お前さんには到底、及ばぬ」
抑可謂非常之人、超世之傑矣。それが史書の伝える曹操の姿である。
そしてそれほどの力がありながら、他人の才に強烈な興味を示し、そうして集めた当代随一の人材を擁しながらも、最も大事な現場には常に自ら立っていた。
曹操の偉大さとは、多才さや器量以上に、飽くことなく自ら行動し続けたそのバイタリティに他ならないのだろう。
「そんなに褒め殺しにしたって、給金は増えないわよ?」
「いやいや、意図せんでもお前を褒める言葉は選ぶに事欠かん。例えばその碧珠のような瞳、玉のような肌、自ら輝いているかのような鮮やかな金髪……」
そこまで語り、一転、眉間にしわを寄せ、華琳を見遣る。
「……お前、絶対生きてて楽しいだろう?」
「ふふっ……そうね。とっても」
華琳はただ、微笑むのみであった。
「はいー、寄ってらっしゃい見てらっしゃーい!!」
足を進めていくと、妙に威勢のいい露店商が目に留まる。
中心に居たのは、猫の額のような所場で竹カゴをずらりと並べ、大きく肌を露出した、中々に刺激的な恰好で声を張る売り子の少女だった。
言葉には、かなりコテコテの西国訛りが見て取れる。
「……なんだありゃ」
「籠屋のようだけど……」
「いや……そっちじゃねえ、こっち」
武蔵が視線で指したのは、何やら奇妙な形をした木製の箱。
鉄製のワクの中に、何やらごちゃごちゃと仕掛けやら歯車やらが内蔵されていて、とても筆舌に尽くしがたい。
とりあえず何かのカラクリと言う事は想像できるのだが、一体何の用途を為すものなのかは見当がつかない。
「おおっ! お兄さん、何ともお目が高い! それはウチが発明した、全自動カゴ網み機や!!」
「全自動……」
「カゴ網み機……?」
少女の言葉に二人はぽかんとするが、少女はお構いなしに嬉々としてカラクリの仕組みを説明していく。
まるで、自慢の玩具を自慢する子供のようである。
「せやせや! こん中に切り揃えた竹をぐるーっと一周さして突っ込んでな、ほんでこっちの取っ手もってやなあ……」
「ほうほう」
言われるがままに武蔵は取っ手を手に取る。
何処と無しか、武蔵の眼が輝いているのは気のせいであろうか。
「でな、こうやってぐるぐるーっと回しまんねん。すると……」
「すると……」
指示通り取っ手をぐるぐるーっと回していく。
すると竹の薄板が装置に吸い込まれていき……
「……ぬ!? おお!」
ガリガリ、と言う耳に残る作動音とともに、装置の上から網上げられたカゴの断面がゆっくりとせり出してきた。
「ほら、こうやって竹カゴのまわりが簡単に編めるんよ!!」
「いいな、面白えなこれ、オイ」
この少女が玩具を自慢する子供だとしたら、さしずめ今の武蔵は友達の玩具を面白がる子供だろうか。
愉快そうにグルグルと取っ手を回す武蔵の姿からは、齢の重さなどまるで見受けられない。
自分でもよく金物細工などを作る性分であるからか、こういったものは好きなようだ。
「まあ、便利ではあるけれど……」
一歩武蔵の後ろからそれを見ていた華琳が、一石の疑問を投げかける。
「底と枠の部分はどうするの?」
「あ、そこは手動です」
「おい」
しっかりとオチがついた。
「やぁ~もう、お兄さん、そこは雰囲気でお願いします」
「ちゃんとせにゃあいかん所だろ、そこは」
まあそんな掛け合いをしつつ、武蔵は右手をぐるぐると回し続けるのであるが。
「…………はっ!? アカン、お兄さん、危ない!」
「ぬ?」
少女が何かに気付いて、声を上げたのは一瞬遅かった。
不意にカゴ網み機がドルン、と重低音を鳴らして振動したかと思うと、武蔵が手を放す間もなく――――――――
「うおっ!!?」
――――――――爆発した。
「なんじゃあ!?」
「大丈夫? 武蔵」
武蔵の手に取っ手を残したまま、装置は木っ端みじんに消し飛んだ。
瞬間、バッ、と飛び退いて避けたが、それは無残に砕け散り、置かれていた机は黒く煤けている。
「いやあ~……実はコレ、試作品なんよ。どーも竹のしなりに強度が追い付かんでなぁ……」
「…………」
「……で、あんまり回し過ぎて圧かけると……ボン、やねん」
「試作品を客で試すな。そしてンな物騒なモン店頭に置くんじゃねえ、馬鹿野郎」
「置いとったらこう、目立つかなぁ、て」
「実演販売で人殺す気か、お前さんの店は」
「なら、ここに並んでいるカゴはこの装置で作ったものではないの?」
「ああ、村のみんなの手作りや。こいつで作ったんは一個もありまへん」
「作ってやれよ一個くらい。志半ばで逝ったこいつのためにも一個くらい」
「まあまあお兄さん、ここで会ったのも何かの縁やしい、こいつのためにも、一個くらい買うたってぇな」
「袖を煤まみれにさせといて金まで払えと言うか、お前」
「え~、お兄さん、いけずやわぁ。せっかくのカラクリ、オシャカにしてしもーたんに一個も買うてくれへんの?」
「…………しゃあねえな」
「おおっー! さっすがお兄さん、男前ェ!」
そう言って、ややくたびれた風で武蔵はため息まじりに袂から木綿の袋を一つ取り出し、その中から適当に小銭をつまんだ。
「ほれ」
「にひひっ、おおきに~♪」
銭と引き換えにカゴを選んで武蔵に渡した少女の顔は、人懐っこさを一杯に散りばめた、満面の笑みだった。
「さて、もう大体いい塩梅かね」
「そうね。大方の所は回ったかしら」
カゴを背負いながら役人が市中視察をする光景と言うのは何とも奇妙であるが、それももうそろそろ終わりらしい。
もうあらかたの視察は済み、あとはざっと一通り回り直して集合場所に帰還するのみである。
「じゃあ、こっちの道から抜けて、大通りに出るわよ」
「ああ」
そう華琳に促され、武蔵は追従する、が――――――
「――――――――ん?」
何かに気付いたか、武蔵が急に回れ右をして反対側に歩いていこうとする姿勢を見せた。
「ちょ、ちょっと? 何してるのよ?」
「ん? イヤ……アレだよ、アレ」
武蔵の格好以上に奇怪な行動に、当然華琳は疑問を呈するが、武蔵の返事が要領を得ない。
「何よ?」
「イヤ……そっちの道はまずいんだよ」
「何でよ?」
「アレだ……ほら、風水的に」
「……はあ?」
ますます意味不明な言葉を口走る武蔵に、華琳は怪訝な顔をする。
その表情には、若干のいらつきもからみ始めているようであった。
「まずいって、一体何が――――――」
そういって、目的の脇道をじっと凝らして見据えてみた華琳の目が、ある看板を認めたと同時に、しかめられていた眉間のしわが消え、代わりに口元がニヤリと歪んだ。
そして後ろを見せる武蔵のカゴの縁に手をかけ、彼が逃げないようにがしり、と掴む。
彼女の目に映ったもの、それは――――――
「そういえばその髭、前から気になっていたのよねえ?」
――――――髪結い床、である。
「まだ時間はあるし……この際よ。真人間に戻りなさいな」
「いやあ、これはあれだよ、俺の国の宗教で髪を切ってはならんという戒律があってだな……」
「あら、髪なんて適当に纏めとけばいいんじゃないのかしら?」
「……聞いてたのか」
女性の耳と言うのは、驚くほどの多くの言葉を聞き留めているものである。
そして男がそれに気づくことは無い。
悲しいかな、これはヒトの真理なのだ。恐らく後世、彼らの時代から我々の子子孫孫まで、永劫覆ることは無いだろう。
「だが待て華琳。俺が身なりを整えたら、それは最早、俺とは呼べんぞ」
「じゃあもう、これを機に生まれ変わりなさいよ。古い殻を捨てて、新しい武蔵に」
まるで「乳のある華琳なんぞ華琳じゃねえ」と言わんばかりの論調であるが、恐らくその言葉を発してしまうと血の雨が降るので伏せておこう。
「……おお、天よ! 俺に滅びを望むか。ならば良し、この俺は必ずやお前の定めた宿命を越え、自由を勝ち取って見せよう!」
「いいから。あんまり意味不明な事やってると行数稼ぎだと言う事がバレるわ。キャラも崩れるしね」
「天は残酷だ、ただの気まぐれで、俺に試練を与えるのだから……」
――――――人の運命は、すべて天の掌の中。
天とは即ち、創造主である。
「さ。行くわよ。覚悟を決めなさい」
「…………おわり、か」
その時の武蔵の表情がかつて「天」で迎えた今際の際の顔と同じだったことは、恐らくは誰も知らない。
――――――――同刻、西街区――――――――
「ああ、これも可愛らしいなあ。あ、こっちも……」
春蘭は、服屋で女の子らしい、彩取り取りの服達と格闘していた。
最初はまじめに街を巡回していた彼女であったのだが、
店頭に飾られた華やかな服に、一目惚れしてしまったようであり……
そうなると煩悩、暴れるに御しがたく、その店内から窺える服達に眼を奪われてしまう。
それでもしばらく、夏侯惇としての自我と、春蘭としての欲望がせめぎ合っていたのではあるが、
「う、うむ。これも視察の一環だ。視察の一環……」
と言う事で、哀れ鬼将・夏侯惇、快楽原理に支配された春蘭に敗れてしまい、邪道に堕ちる事と相成ったのである。
もし秋蘭が居ればこうはならなかっただろう。持つべきものは出来た妹である。
「これも悪くないな、しかしこちらも捨てがたい……」
「じゃあこれは?」
「おお!! これは素晴らしい!!」
「でしょでしょ! それだったら、こっちと合わせるともっと可愛いのー」
「うーむ待て待て……それだったら、こっちを内側に合わせた方が……」
「おおーっ。お姉さん、中々やるのー」
「お主も中々……って、誰だ貴様!!」
突っ込みが遅い。
「お姉さんの服を見る目が熱かったから、沙和もお薦めしちゃおうかなーって」
沙和、と名乗った少女は、センスの際立つ、まさに流行の発信源と言うべき洗練された格好をしていた。
なるほど、その立ち姿を見ただけで実力が窺い知れる。
「ほう……貴様、使うな」
――――――春蘭も、それを敏感に感じ取ったようである。
「ふふっ……お姉さんも、実力者みたいなの」
そしてわずかな微笑を湛える両者の眼が、一瞬だけ交錯した。
「ならば…………勝負!!」
「受けて立つの!!」
こうして二人の誇りを賭けた勝負が始まる。
買う気の無い目利き勝負が、店主の涙線を緩ませた事は言うまでもない――――――
「……ふうっ。久しぶりに良い勝負であった。血が滾ったぞ」
「沙和も楽しかったのー!」
しばらくたった後、二人は堂々とした歩様で店を後にした。
その顔には若干の疲労がにじんでいたが、全力を出しつくした、戦士の爽やかな香りがあった。
「しかし……少々買い過ぎたな。買う気は無かったのだが……」
その腕には、何着もの上下合わせた様々な服が収められていた。結局、買わずにはいられなかったらしい。
成程、持ち運ぶにはいささか難儀そうな量である。
「あ、それなら、この竹カゴ、使うといいのー」
「おおっ! これはかたじけない。助かるぞ」
思わぬ手助けに、春蘭が礼を言う。
まるで狙い澄ましたが如きタイミングだが、作者は何も知らない。
「あ、でもそれ……売り物なのー」
「なあに、心配いらん。竹カゴ一つ買うくらいの金はあるさ。ほれ」
「おおっ。お姉さん太っ腹なのー」
「はっはっは。もっと褒めろ。褒めてくれ!!」
「じゃあ……はいっ。まいどあり―、なの!」
「おう! お主も商売頑張れよ!!」
そう言って二人は別れた。
戦いとは、時に得がたき友情を形成するものらしい。
――――――――同刻、東街区――――――――
「……………………」
「……………………」
空気は、張りつめていた。
そこは露店。店頭にはいくつもの竹カゴが並べられていて、大きさ別に値札が張られている。ごく普通の市場。
しかしその二人の支配する空間に、何人も入り込むことは出来なかった。
「………………良いな」
「………………どれも、入魂の逸品です」
一人は、長い銀髪を三つ編みに纏めた、無数の傷を持つ少女。
そしてもう一人は――――――鷹の眼を持つ女、秋蘭。
幾百間の遠き見据えるその眼光が、並べられている竹カゴを射抜いていた。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
沈黙が続く。
それは重ねるごとに重く、ぎりりと縛り上げるように空気を圧迫していく。
よもや永久に続くかと思われたそれは、秋蘭の眼がぴくりと少しだけ見開かれるとともに、終わりを告げた。
「……………………一つ、貰おう」
「……………………はっ」
それとともに空気がふっと弛緩し、周りを囲んでいた観衆が、どっと安らぎの溜息をついた。
その後、溜められていた水の線が抜かれるように、周りの者がこぞってその竹カゴを求めたと言うが、その頃秋蘭はすでに任務に戻った後であった
「くっそう、妙にサラサラする……」
「ふふっ。いいことじゃない。男前が上がったわよ」
集合場所、中央通り突き当たりの門。
竹カゴを買い、髪結い床に寄って、かなり寄り道をしたはずの華琳らだったが、どうやら一番乗りだったようである。
その間、華琳の横に侍る、髪を後ろで一纏めにし、残った前髪を香油で整えた背の高い男が、しきりに何やらしっくりいかない顔で顎の辺りを撫でていた。、
そうしているうちに、滞りなく待ち人達はやってきたのであるが。
「あら、遅かったわね二人とも」
「…………」
「…………」
何故か二人とも竹カゴを所持しているのだが、それは今はどうでもいい。
どうしてか彼女ら二人、華琳の言葉にも反応せず華琳の横に侍る男を物凄く怪訝な表情で見ていた。
「どうしたの、二人とも?」
「いや……」
「その……」
華琳が何やら含み笑いをして彼女らに声をかけるが、口をあけたまま要領を得ない返事をするだけである。
二人とも何かかなりの違和感に襲われているように、所作が泳いでいて落着きが無かった。
「…………おい」
男が声をかけたとき、それをきっかけとしたか、彼女らが動いた。
「貴様は一体誰だ!? 宮本はどうした宮本は!!」
「……華琳さま、これは……!?」
そういう二人の反応に男はふーっと長く細い息を吐き、隣にある華琳は口を閉じたまま堪えるようにくっくと喉で笑うだけだ。
やがて男が伏し目がちに、ややうんざりとした表情で口を開く。
「…………俺だ、俺」
「俺ではわからんだろうが! 名を名乗れ!!」
「……!? 待て、姉者、こやつは……!!」
男は半眼で春蘭と秋蘭をを見ると、数刻前までは髭で覆われていた、口元の露わになった逆三角形の顎を、おもむろにその大きな右手で隠して見せた。
「――――――あっ!! お、お前…………!!」
「まさか…………」
「「宮本か!?」」
男を思い切り指差して、わなわなと口を広げる春蘭と、眼を大きく見開いた秋蘭の声が重なると同時に、華琳が腹を抱えて、堪えていた笑い声を惜しげもなく外に発した。
「気付くのが遅い」
「気づくか馬鹿者!! 誰だお前は!!」
「いや、しかし……これは、驚いた…………」
二人の前に立ち、カゴを背負いながらうなだれる精悍な若偉丈夫――――彼こそ誰であろう、武蔵である。
伸び放題で蓬髪に近かった髪の毛は綺麗に整えられ、野伏のようだった髭は、きっちり剃られている。
毛虫のように濃かった眉も髪型に合わせた均整のとれた形に整えられて、むささが和らぎ、かなりハッキリとした容姿に改善されていた。
その変わりようからは、華琳の類まれなる美的感性と、その指示を忠実に再現した髪結い師の、血の滲むような努力がいやがおうにも窺えよう。
その甲斐あって、よもや絶世の美青年とはいくまいが、元々彼の持っていた骨格に比して小さい、彫りの深めな野性味ある顔立ちと、鍛え抜かれた体躯、それに長い手足が相まって、中々に見れる風采に仕上がっていた。
「お前ら、今まで俺をどういう眼で見ていたんだよ」
「浮浪者」
「……とまでは言わんが……まあ、大差ないな」
「…………」
こっぴどい言われようである。
むしろ、見栄えが良くなったというより、元が酷過ぎたのであろうが。
果たして一目で気付けなかった彼女たちが悪いのか、後世に数々の無精伝説を残す武蔵が悪いのか
「全く……毎回毎回整えんのはめんどくさいっちゅうに」
「とてもじゃないけど、あんな身なりで公の場には出せないわよ。せめて髭はちゃんと剃りなさいね」
「お前、アレはどうせ剃ったって生えてくるんだからいっその事伸ばしておこうという合理的な……」
「剃りなさい」
「…………善処しよう」
「よろしい」
まあこの辺が、武蔵がずっと根なし草だった理由なのかもしれない。
そのまましばらく武蔵を肴に四人で雑談に花を咲かせていたのであるが、
「ところで……どうして皆、そろって同じようなカゴを持っているのかしら?」
という華琳の投じた一言により、全員が道草の言い訳をするハメになる。
ちなみにこの竹カゴ、後で思わぬ縁に繋がるのであるが、それは又、次回の話である。
――――――余談であるが。
視察も言い訳も終わって、宮城に戻るとき、
「面白そうだから武蔵一人で帰らせてみましょう」という華琳の思いつきにより、急遽武蔵のみが先に帰る事になった。
案の上、城門の衛兵には呼び止められ、私室に帰るにも「ここは武蔵様の御部屋です」と監吏に引っ掛かり、季衣には「兄ちゃん、誰?」と真顔で言われてしまう始末。
常に少し後ろに下がってその様を見ていた三人娘を、思う存分楽しませたのは言うまでもない。
ちなみに桂花だけが、
「……人間、死ぬ前には身の回りを整理するって言うけど……アンタ、死ぬの?」
という言葉とともに、たった一目で武蔵の正体を見破ったという。
未だに揺れてら。
気を付けてください、マジで。