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第八十八話「その血の理由」

「まず俺達の居る濮陽……黄河を背にしている。東に抜ければ青洲、西に抜ければ洛陽を通り関中に繋がる。そして陸路をぐるーっと曹操軍が封鎖している様な状況だな」


騎馬民族の軍議に地図は無い、戦場の情報は彼らは全て肌と第六感で処理している。故に駒をいくつか広げるだけで、各々の頭の中にそれぞれの戦場のイメージが自然と展開される。


「ど真ん中だ」


なにも描かれない机上を高順の指がとん、と叩いた。郭汜と李確はそれだけで、それが何を示すか理解できた。


「目標は曹操の頸のみ。道中に存在する奴らは全て殺す」


低目の声に澱みは無い。


「作戦なんて呼べたもんじゃねェな。要するに特攻だ」


李確が巨躯を投げる様にどかりと腰かけると、椅子が大きく軋んだ。


「ガチガチに地盤を固めて十重二十重の陣形を組んだ万全の体勢の大軍に、三千に満たねェ数で裸馬と矛一振りだけぶら下げて真っ向まわして突っ込むわけだ。そこまでくりゃあさすがに面白ェな」

「ふん、改めて言ってみればそうも聞こえるか。戦いなど例外無くそんなものだと思っていたがな」


彼らの武器も戦法も、春秋の頃に七雄が相争っていた頃とさほど変わり映えしないものだ。疾さと、攻撃本能だけでここまで来た。


「そうだ。この戦い、どう戦おうが俺たちはここで死ぬ」


その血が、ついに滅びようとしている。血族の歴史の中でも量・質ともに最強の代を迎えた戦闘民族は、何の因果か“曹操”と出会ったのだ。漢人の歴史の中でも突然変異と言える異質な種子である。漢人によって血塗られた宿命を背負う事を余儀なくされた彼らがその呪いに身を焦がし、ついに漢を呑み込まんとする所まで加速しながら、突如現れた漢人にあらざる漢人の前に燃え尽きようとしている。

400年間、そんな漢人は居なかったのだ。果たして何の因果であるのか。


「俺たちが選ぶのはどうやって生き残るか、じゃねえ。どう戦うか。それだけだ」


活路は無い。死地しか。目の前の死中に万に一つも活は無い。

それでも進む。彼らは戦う集団だから。死に向かって全力で突き進むのだ。一片の力も出し惜しみすることなく最後の瞬間まで。それが彼らの、変えられない生き方なのだ。


「――――――恋」


ゲルを潜って空の下に出れば、目の前に少女が居た。

高順がいささか驚いたような声色をしたのは、決まって昼も大分過ぎてからようやく起き出す彼女がこんな早くに目覚めていたからか。

いや、高順には何か予感めいたものがあった。頭の片隅にあって、しかし掠める事は無いだろうと思っていた予感が、たまたま的中したからであろう。


「お前に見つめられると、かなわんなァ」


柄でも無い声で、少し困ったような声で高順が言った。

呂布は滅多に話さないが、それはあまり必要が無いから、という事でもある。その綺麗な目と無垢な表情で見つめられれば、何を言いたいかは何となくわかった。それはさながら、彼らが言葉を紡がずとも愛馬と完全に一体になれる事と似ている。

それが言葉より肉体を要として生きてきた馬上の民族の習性によるものか、共に死線を越えた場所で過ごした期間の長さが為せる戦士の特技であるのかはわからないが。


「お前は俺達の知らない事を本当によく知っている。俺たちが生まれる前の事も。俺達の遥か昔の先祖は、きっとお前の様な目をしていたんだな」


夜、一人になって、自らに語りかければ、血の臭いがする。それは生まれ持ったもので、地肌から臭い立つが如く洗おうが濯ごうが取れぬ。卵が先か鶏が先か判らぬ程、すっかりと血塗れだった。

二百年前の西涼の民はこれほどの血は浴びていなかっただろう。浴びなくて良かった。ただ風と草原と朝日と、月と羊と馬が居れば生きていけた。

生きると言うのは、ただ糧を稼いで命を繋いでいく事では無い。己が己の在るがまま生きていく喜びを見失えば命を繋ぐ事は苦痛に変わる。

もはや、還れぬ。

戦いを身の置き場にするようになってから、“在るがまま”の意味は変わってしまった。それすら、横から現れて大事なものを掠め取っていった奴らに仮初に齎されただけのものだったというのに。それに拠らざるを得なかったが為に、風を枕にしていた西涼の頃にはもはや戻れぬ。

中華の呪縛から解き放たれる為に戦を起こしたけれど、根っこの部分がもうどうにも出来ない位に歪んでしまっていた。全てを奪われ、在るがままも歪められ、何処にも還れず何も紡げず、時代からすら取り残された亡霊となって消滅するまで血を流し続けるしかない哀れな一族。安息も平穏も一切与えられる事は無く一層苦しみを増すばかりの戦いを続けるだけ。

それが彼らの、後漢最強と謳われた戦士たちの正体だった。


「一緒に行きたい。ひとりは嫌」


還してやれる。彼女だけはまだ犯されぬままだったから。だが、彼女は拒む。


「皆……みんな、死んだ。羽は頭を外された。信は皮を剥がされた。媽媽はおなかの中身を引っ張られた。出された弟弟は、踏み潰されて無くなった。恋は、ひとりになった。ひとりは……こわい。ひとりは嫌。もう、嫌」


遠くから、来た。

昔、高順が恋に何処から来たかと尋ねたら、彼女はそうとだけ答えた。愛する者が、魂を分けた兄妹達が踏みにじられ目の前で虐殺されるのは、彼女たち非漢人種にとって日常からそう遠ざかったものではない。少女もまた、そんな日常に居た。彼女たちにとって、漢人は鬼と変わらない。

中華の世は、地獄なのだ。漢人という鬼共が鬼の尺度で作り上げる世界だ。彼女たちが戦う理由は単純で明確だった。


「恋」


高順が膝に両手をつくように腰を落とすと、ちょうど恋と視線が交わる高さに来る。


「俺の眼の色がわかるかい? 瞳は銀だ。でも髪は黒だ。俺は涼州人にも漢人にも仲間に入れて貰えないのさ。誰とも繋がれない俺たちは先の時代を生きる事は出来ない、俺達は還るにはもう遅すぎる。お前は違う。お前は次の時代を生きるべき命だ。戦いで埋め尽くされた今の、次に来る時代だ。それは戦いそのものだった俺達にとって生き辛い世の中かも知れない。かつて味わった苦く辛い時間を……もう一度過ごすと言う事かも知れない。それでも、お前は次の時代に行ける、まだ遅くない。だから俺たちは往くのさ。寂しく心細い時間が……一時の嵐であるように、その先に晴れが待っている様に。なるべく綺麗にケリを付けて時代の橋渡しをしよう。お前がこの先を生きていく事の、少しでも支え棒になれる様に」

「先になんて行きたくない」

「生きろ」


低く、静かで、強い声だった。


「お前に、還してやって欲しいんだ。お前にしかできない。俺たちは西涼じゃない、あくまで“涼州”なんだよ。だから……お前が西涼へと還してやれ」


生きようとすればするほど死に近づく。その加速を止める術も知らない。そんな世代は、自分たちだけで良い。

漢族の世も、西涼の大地にも、それらがどうなってゆくかわからぬ先の時代にも生きる場所は無いのなら。


「人として生きろ、恋」


僅かばかりあるかも知れないその居場所は、お前が使え。俺たちはそれを繋ぐ。そういう命であろう。


「人は居ない。まわりは鬼ばかり。そんな中でひとりになるのはもういや。こわい。たすけて……ひとりにしないで」

「恋」


澄んだ湖面の様に表情は無垢のまま、しかし、心が震えているのが伝わってきた、まるで少女の様に。

否、紛れも無く、少女なのだ。未完成であどけない、少し儚げな美しい少女だ。恋はそれを、隠そうとはしていなかった。なのにそんな見たままの事実ですら忘れさせてしまう。子供が子供でいられなくなるような、そんな殺伐としたものだった、彼らの社会は。

恋は、少女のままの部分を綺麗に残していた。それは奇蹟みたいなもの。


「お前が綺麗なまま残しておいた“怯え”は、俺達の中ではとっくに諦めと絶望に変わっちまったよ。人を踏み躙って天に唾吐いて生きてきた人間が、自分の時だけまともに死にたいってのは卑怯だよな。救われちゃいけねェよ。……俺らが去った後も、今までに増して世の中は糞ったれかも知れねェ。いじわるで残酷な奴らはきっと居なくならねェ。石ぶつけられて、のけものにされて、いつ殺されるかもわからねェとずっと怖がり続けなきゃならない、そんな未来かも知れねェ。それでも、生きろ。そこで生き残るのがお前にしか出来ない本当の戦いだ。その良い事の何一つねェ未来に負けなけりゃ……地獄じゃない本物の救いがその先にあるぜ、必ずな。だから、」


だから“そういう時代”が少しでも短くなるよう、なるべくなら全部。

俺たちがこの命ごと持っていって、持っていけるだけ道連れにさっぱりと消し去ってやる。だから、


「大丈夫だ、恋」


高順は何度も恋の名を呼んだ。今までよんだ事は無いのではないかという程、惜しむように恋、と呼んだ。

――――――劉協の綺麗な眼を見た時、案外浮世も捨てたもんじゃねえなと思えたんだ。

人間は薄汚れてばかりじゃねェってな。にっちもさっちもいかねェくらいに真っ黒で、握手したその手首を笑顔のまま斬り落とせるような生き物は、もう殺し合うくらいしか人と人の間なんてものは作れないと思っていた。

そんな中にひとりだけぽつんと、まっさらな綺麗で生まれちまったお前が可哀想だとすら思った。糞溜りの中でたったひとりだけそうじゃないお前は本当に眩しいばかりに孤独だと、でもな。

お前の様な目をした奴はひとりじゃなかった。これからでもきっと仲間が出来るよ。お前を慈しみ、愛する人が必ず出来る。

この“次の時代”でそういう人間を作れたなら――――――もうお前はひとりになることは無いさ。もう二度と友達を奪われるような事は起こらない。

だから、お前はその時が来るまで、辛くても寂しくても、どんなくそったれな気分になっても頑張って生きるのさ。

――――――それに。

自分の時だけまともに死にたいってのは卑怯だ……それは独白でも、自嘲でも無い。

血が、魂が。“敵”が誰かって事は知ってる。死ななきゃ治らねえ根深い呪縛は。

それが誰かって事は、知ってるのさ。


「付き合って、貰うぜ」

「フン、あんたらの長い話なんてみんなもう飽きてんのよ。さっさと死んで退場なさいな!」


わずかに曙が空に滲む中で仰ぐ様に見渡した自分たちよりも遥かに大勢の漢人の群れに、彼らは死の予感を感じた。

馬上の戦士達に最後の朝が来る。いや、実際、何度となくその心地は味わってきた。

ただ、今回が“その刻”というだけ。


(黄河を背にしたアンタ達が戦線を離脱するには南に下るか東に上るしかないわよね。それなら曹操軍の勢力圏外である東の青州側に逃げるのが定石。恐らく虎牢関の時の様に機動力と突破力に任せてこちらの陣形を寸断しながら逃げ延びるつもりでしょう)


猫耳のフードを被った小柄な少女が敵陣の中央高台に、まるで此方を睥睨するかの如く仁王立ちしている。

武の気風はおよそ髪の毛ほどもせぬ、か弱い少女そのものだが、土の煙る戦場にあって腕組みする表情は不敵に笑った。


「そんなやり方はいつまでも通用しないと教えてあげるわ、真桜!!」

「はいなァ! “雹嵐弩”発射よーうい!!」


指揮官・李典の号令一家、青の猟兵は一斉に構える。通常の弩より幅広の台座を持つ形状をした兵器、ピンと張りつめた弦の根元に麻布に包まれた礫が番えられている。


「撃てェ!!!!」


引鉄を引くと身体が煽られるほどの反動と共に弾が撃ち出され、礫は宙で麻布が解けて散弾となり敵を襲う。

桂花が発案し真桜が開発したこの新兵器は射程・照準能力は従来の弩に劣るものの、重量の有る石礫を一度に6~7発打ち出す事が可能で、分厚い弾幕を作り出す事が出来た。

雄叫びを挙げて突撃する涼州騎兵の、馬でも騎手でもその身体のどこかに散弾の一部が引っ掛かれば前進を鈍らせ、その間に後続の礫が次々と襲い掛かりガガガッと削り取る様に肉体を呑み込み、一瞬のうちに何発も炸裂して轟沈させる。

その弾幕は、さながら黒い霧、あるいは突如イナゴの大群でも現れたかのように、目の前を一気に黒く覆ってしまう程の分厚さだった。


「まだまだ行くわよ! 霹靂車、用意!!」

「おおっしゃ!! 霹靂車ぁ、ひっぱりひっぱり、角度付けてぇ~……射ぁっ!!!!」


弾幕が敵を圧し留める間にも、次の兵器が用意された。二台の射出台が設けられた戦車、大男10人ばかりが号令一呵で引き絞っていた縄を手放せば、セットされた大質量の大岩が低い弾道を描いて飛んでいく。

これは元々桂花が考案した、シーソー状のカタパルトに乗せた岩を高い放物線を描いてテコの原理で飛ばす投石車という兵器を、真桜が直線的な弾道で敵を真っ直ぐ撃てるような形に改良を加えたものである。

その威力たるや、着弾すればたちまち水柱の様な土煙と轟音と共に、地鳴りを揚げて迫る騎兵の群れの一角を一息吹かれた紙吹雪のように吹っ飛ばすほどだ。


「工夫ひとつで戦場の色なんて変えられるのよ。未だに原始人と大差ない戦いしか出来ないアンタ達の時代はもう終わり。そのご自慢の馬の脚じゃあ華琳様が進める時代の針に追い付けはしないのよ。呑まれて溺れて滅びなさい!!」


弾の壁の圧力が騎兵の前進を釘付けにしている間にも、中間距離からの矢の斉射が降り注ぎ戦闘力をみるみる削って行く。

かつて大陸中の諸侯が集結してもまるで歯が立たなかった後漢最強の軍隊が、融けるかのように為す術も無く蜂の巣になる。


「何という事だッ……まだこちらは敵の肌に触れられてすらいないというにッ……」

「はじめて此処にやって来た時、気味が悪くて吐きそうだった」

「ッ!?」


土埃に顔を覆いながら奥歯で苦虫を潰す男が、その声を聞いて一瞬蒼白になる。その声の主は戦場で追い抜かす者は味方であっても殺すからだ。

董卓軍の戦において、敵にとっても味方にとっても常に一番危険な人物だった。


「あの四角い農地や箱みてえな建物の中でずっと暮らすあいつらがさ、なんか俺には自分で拵えた縄張りに繋がれてる家畜みてェに見えて仕方が無かったよ。あんな死んだ目をして太陽と月が追いかけっこすンのをひたすらやり過ごすのが“平和な世の中”ってんならよ、いらねェや、俺は」


腰元にくくった瓢箪の中身を一息で飲み干し、棄てた。喉が焼ける。

じっと見遣る。向こうを。

一瞬、視界がぶれ、頭の端に強い衝撃を感じる。たらりと流れてきた血液の感触で、頭の裏側が真っ赤に染まる感覚を覚えた。

彼は咆哮した。


「~~~~ッッツ!!」


かつて聞いた事も無い様な雄叫びが空気と、居並ぶ兵士の腹の底をビリビリと震わせた。


「……つっ、」


弾ける様に駆け出してみるみる小さくなり、黒い霧に呑まれていくように突進していく後ろ姿に、まるで腸を押し上げるような力の感覚を覚えて、彼らは叫んでいた。


「――――続けェーーーーッ!!!!」


引き寄せられる様に、彼らは猛り、進んだ。引き返せない道を。





風を裂いて猛進する。すれ違う礫の弾が肉を掠り削り取る。

その前進は一分とも澱まぬ。黒い雨の向こう側を、その翡翠色の目玉は確かに捉えていた。

命を懸けて気焔を揚げて突進する勇者が一発の礫で斃れていく。こうもあっさり、簡単に崩れ落ちていく。

その修羅場の向こう側――――――奴らは微動だにしていない。射手は隊列を一切乱さぬまま、その手に死にゆく者の感触は残らないだろう。裸の命を晒す事無く、極めて涼しい顔して指一つであっさり奪っていきやがる。

――――――気味の悪い奴らだ。お前ら漢人は俺達を羅刹と呼ぶ、だかてめえらこそが、この地上で最も不気味な変異種だろ。

ヒトがヒトの命を奪うって事はこっちの命をぶつけるってことさ。でもてめえらはこんなに簡単に、ラクに他人の人生を奪う方法を作り出すよ。

水と風と大地がありゃア人間なんてそれで充分だろうに、中華って言う不自然な箱庭を人造して、他の民族をてめえらの遊びに付き合わせてメタメタにした挙句、平和の中でいがみあってわざわざ新しい争いの種を作って、死を生み出してる。また殺し合ってる。

平和だ泰平だ、なんてその手前勝手な箱庭をさも崇高なモンのように語るが、むしろ戦になった方が一致団結して死ぬ気で生きようとしてンじゃねェか。

とてつもない執念で草原を荒野に変えその上に街を造り出し、次々と兵器を作り、集団心理を操って人間の意識ってものまで左右して躍起になって俺達を殺そうとしてやがる。

かつて14歳の頃、俺は万里の長城を仰ぎ見た。なんとも気持ち悪くて、意地でも乗り越えて向こう側へ走り去ってやりたいと思ったよ。中華ってものの傲慢、それそのものだと思った。

強い弾が肩口に当たり、体勢がやや崩れた。隣を走っていた奴が視界の端から消えた。たぶん沈んだんだろう。本当に、狙いもろくに定めずただぶッ放すだけの雑なやり方で易々と殺してくれやがって。

俺らの顔など見てすらいねェ。

戟を振り回して弾を弾く。その隙間からどてっ腹、突きぬける。太腿、貰う。

となりで死んでい往くやつらの事など知らねェ。涼州の兵士はそういうもんだ。だってよ、死んでいくんだもの、すぐに。

あいつはひとりもんだったか、確か広州の酒が好きだった気がする。あいつは珍しく父と母が存命だった、家に帰れば逢えると言っていた。あいつは……どうだったか。娘だかガキだかがいたっけな。

そんなうろ覚えも、次々この世から消えていった。消滅、だ。あれほど激しく燃えてんのに、まるで線香でも指で摘むように容易く消えていく。

てめえの事を少し振り返った。

餓鬼の俺が麺麭(パン)一枚で売られたのはなんでだ。俺を売った母親が泣き叫んでたのはなんでだ。初めて好きになった女がどうやって死んだかもわからねェまま消えたのはなんでだ。稼ぎは送ってたはずなのに一番最初のガキが家帰ったら飢え死にしてたのはなんでだ。

視界が半分、消えた。ツラの半分を覆う潰痛が意識を覚醒させる。

また獲って行きやがって。恐らくは奪ったことを自覚もしねェまま。


「ごおああああああああッッッツツ!!!!!!」


腹が立ってたんだ。

あちこちから噴き出す血液よりもずっと煮えた感情がグラグラ言ってやがんだ。俺たちがずっと晒され続けてきたモノに対してさ。

人の悪意とか意識とかに留まらん、運命とか世論みたいなもんが、原因も正体も定かじゃねえ、それでいてとてつもなく明確で圧倒的な理不尽が貧しさや差別に姿を変えて、俺たちの生きようとする意志を粉微塵に叩き潰しにくる。

存在が、己そのものが否定される感覚。誰かに、じゃない。ナニカに。姿の見えないものが、こっちの手が出せないところから。

ゆるせなかったんだ。

その人智を超えた圧力に翻弄され弄ばれることがたぶん、気がどうにかなりそうなくらい悔しかったンだよ。

だから戦い続けたのか。正体を突き止めたくて敵を欲した。俺たち涼州人が戦場に飛び込み続けたのは、どうにかしてそのナニカに挑みたかったから。腹の中身が全部裏ッ返るくらいに本気で怒っていて、文字通り、いや、やって来た通り、死んでも構わねぇからそのナニカをこの手で直接ぶっ壊してやりてぇと真底願ったから。

この飛び道具が作る黒雲は、そんな俺達を虐げてきたどうにもならねえナニカそのものな気がした。

必死に抗うように、涎も血も撒き散らして這ってでも前に進もうとする力を、蟲でも指で弾く様に無慈悲に払う強大な理不尽。

その化身に見えて来て――――――そう思ったら、何故か絶対退きたくは無くなった。

あの日の万里の長城の何十倍も、気が狂う程、噛み締めた歯が砕けるほど、何が何でも乗り越えてやりたくなった。

俺の戦う理由と死ぬ理由は、ただそれだけのもんだったのかもしれねえ。


「!?」


咆哮と共に、それは飛び出してきた。

黒く戦場を染める弾幕も仲間の屍も斬り裂いて飛翔した人馬一体の影。怪物か? いや、違う。

ケルトの神話の住人の様な逞しい肉体、幻想的な銀色の髪は血と泥で真っ黒になり、肩、胸、下肢は肉が抉れて所々から骨が見える。精悍秀麗な面立ちはその半分が潰れ、北の民の証である翡翠色の目玉は片方が飛び出し真っ赤な肉の裂け目からでろんとぶら下がる。

身体からは何本もハリネズミのように矢が立ち、隆々とした馬体を誇る愛馬の額にも深々と矢が突き刺さってその面は血みどろに染まる。

仰ぎ見た曹操の兵は、思わずぶるりと戦慄した。

口をぱっくりと開いて喜色とも激昂ともつかぬ激情を表情に宿し、戟を翼の如く振り上げた雄大な怪形は、強烈な生命力と感情のエネルギーの塊であった。

肉体も精神も、全てを剥き出しにした人間の姿だった。


「――――――怯むなっ、撃て!!」


桂花の号令で、残弾のあるものはそのまま、遮二無二撃った。

ダダダッ、と砲火が李確の身体を弾く。肉に深々と食い込むが前進は止まらない。一足、二足でついに敵の最前線に到達し、戟を薙いだ。まさに鎧袖一触。

三、四人を一瞬で肉塊に変え、脚は止めず首で見廻す。構えながら曹操軍兵士はきゅうっと内臓がすぼまり、手が硬直した。

気で圧倒する、とはこういう事を言うのだろう。

血の混じる涎を垂らす犬歯を歯茎まで剥き出しにした口からは動物的な荒い息遣いが漏れ、活きている片眼は爛々と輝く。プラプラと眼球をぶら下げていたなんらかの管が、首を返した勢いでぶちッと千切れたが構う様子も無い。

敵の群れに突っ込むと、水を得た魚の様。シフーッ、シフーッ、という生々しい息遣い、血を浴びれば浴びるほど冴える戟遣い。ぶちぶちと音を立てる様に切り分けられる戦線から、ついに悲鳴が噴き出した。それを聞いたか、聞かないか、突進はさらに威力を増し、血走る翡翠の眼にはさらに力が宿る。


「んだらッ……!?」


得物を構えた真桜が吹っ飛ばされる。ごろごろと転がって味方の群れに突っ込む間に、李確は既に陣のさらに奥へ奥へと走り去っている。目もくれなかった。すでに李確にとって兵士と指揮官の区別は無く、道を阻むか、そうでないかの違いだけだった。

嵐に捲かれる様に、ある拍子で曹操軍兵士の突き出した槍が手綱から一瞬手を離した李確の左腕を奪った。だが李確の勢いは増し、肘の辺りで半分裂けたぷらぷらぶら下がる腕を気にせず、きのこ狩りのようにその槍を振るった兵士の頭をかっ捌いて血祭りに上げた。その事象にすら脚も意識も一切止めずに走り抜ける。

李確は何を思うか。

――――――それは、もはや外から察する事は出来なかった。眼は狂気を孕んでいた、否、理性の色のほうが削げ落ちていた。

本能の、超自我(イド)の命ずるまま疾走する、原初の人間の姿そのものだった。


命は弱さを許さねェ。

殺してやるッ!!


「この戦場にお前の敗北はない。お前は勝者だ」


もはや散々に斬り散らかした最奥に、その男は居た。

大きな雌の青毛に跨った虎のような大男。


「戦う理由も、死ぬ理由も……どちらか一方だけでも、悟れるやつはそうはいない」


放たれた棒手裏剣がさくりと喉仏に突き立つ。ごばっとたっぷりの血を噴きながら李確は振り被った。


「志は千里を往くと言う。それがたとえ怒りや憎しみそのものであっても、それを全うして走り切る事が出来るのは、幸せだ」


とめどなく加速する速度と共に余計なものが剥げ落ちていく感覚を李確は感じた。残るのは真っ白な感情の衝動だけ。貫くような高まりが脳髄まで達した時、毀れかけの李確の肉体が生涯最高の戟を振るい、同時に眼の前に捉えていた男が潰れた視界の方へ消えた。

それすら、既にして今の李確には関係の無いものだったかもしれない。

武蔵は李確の潰れた眼と左腕の方、武蔵から見て右側に馬を進め抜き胴の形を取る。抜き胴は一般に胴を薙ぐ様に打つ技だと思われがちであるが、その真価は“突き”である。身体を寝かさず、切っ先を立てたまま入ればそのまま突きに転ずる事が出来る。脇を突けばアバラを滑り心臓へ達する。一撃で人の命を絶つには突きである。

だがこの敵には、それでは足りぬように思えた。


――――――俺は死んでやる、綺麗に。この血は、この身体は、今生で跡方も無く使い切る。後の世には魂すら遺さねえ。

だがよ、てめえらも道連れだ。さんざ好き放題やって平穏無事に死ねると思うな。必ずこの負債は払わせてやる。どこまでも追い詰めて、地獄の果てまで追い掛け回して。

必ず、殺してやるからな。


「ッツ!!」


ズゴッ、と炸裂の音がした。首の骨が抜ける音だ。

顎の下から切っ先を差し入れた。骨の隙間をぬってスルリと刃が入って行き、頭蓋骨に到達して止まる。

そのまますれ違う。ごり、という感触が鋼の芯を通って手の内に伝わった。馬力で以て脳髄が切断される。手の中の皮膚が巻き込まれる感触がする。

それは一瞬で、さっとすぐ引き抜いた。慣性にしたがってグラリと、李確の身体は、否、李確の意思が宿っていた残骸が馬からゆっくりと落ちていく。

その肉が地面に落ちた瞬間、狂ったように疾走していた愛馬も役目を終えたかのように意思の力が身体からふっと抜けて、脚から折れる様に沈んでいった。


「…………」


引き千切られた戦士の肉体から魂が抜けるのとほぼ同時に、戦場は静かになっていた。

いくつもの礫が食い込むように埋まり、半分肉片と化したぼろぼろの骸、外れかかった頚、それでも地に落ちて尚、右手に握りしめられた戟は、しばらくガシャンガシャンと鳴っていた。

それを見て兵士達は思わず、唾を飲んだ。それは蛇の胴体が半分になってもビチビチともがくのと同じで、単なる生体反射に過ぎなかったのだが、死してなお戦い続けている執念に思えてならなかった。


「…………」


ピッと血振りして刀を納める。じっと無言で、武蔵は見ていた。

戦場を斬り裂く様に作られた血の線。果てた己の肉体。

戦略上は曹操軍の圧勝であった。だが、この魂にとってそれは関係の無いものであっただろう。

絶対的な理不尽は、最後までその絶望への反逆者の精神を屈服させることは出来なかったのだから。

この死に様ですべては完結していた。この戦士に掛けるべき言葉は必要無かった。


「真桜! 損害は!?」


戦場跡に降りてきた桂花が見分をする。顔を出した真桜は頭から泥だらけになっていたが、外傷は見られない。


「いや、そんなには無いですわ。矢も弾もすっからかんですが……いつつ」


肉感的な腰をひりひりと摩る。実際に弾幕を潜って陣まで辿り着いた敵兵はごくわずかであり、死傷者の数はそれほどではなかった。

だがその抵抗の激しさから感触とは裏腹に、確認できた敵の戦力があまりにも少なかった事に桂花は少なからず驚いていた。

何せ、確認できた敵の骸の数は二百八十六。三百人にも満たぬ数だったのだ。


「チッ……切り結ぶ事も無く片付ける手筈だったんだけどね……物資はともかく、これっぽっちの手勢にここまで時間を掛けたのは誤算だったわ」

「ああ、桂花。恐らくもはや間に合わんが、急いだ方が良い」

「間に合わない?」


桂花が不可解そうな顔をするが、武蔵は答えず馬首を返す。


「青州への街道の封鎖なら春蘭と秋蘭が向かってるわよ。間に合わないってどういうこと?」

「なんでこいつがこんな所に居ると思う?」

「はぁ? そんなの、戦力を分散させて全滅を防ぐための……」


要領を得ないと言った風の桂花だったが、思わず口を噤んだ。

武蔵が、とてつもなく冷たい眼をしていたからだ。


「違ぇんだ。逃げるつもりならこんな所に突っ込んで来やしねえのさ。死にに……いや、戦いに来たんだ。そして、そうだとすれば必ず居る筈の男がここには居らん」

「……!? バカな!? 仮に勝つつもりだったとしてもこの主力戦線を崩さない事には奴らの勝利はあり得ない筈よ!? 戦力を分散させて何を狙うって言うの!?」

「奴らは狼なんだろう? 狼ったら原野の狩人だ、狩人なら狙うものはたったひとつだ!!」


青毛の素肌が躍動し、武蔵は一気に駆けた。

狩人だと言うのなら、狙う首は一つしかない。戦の主の首、即ち曹操の首。

そして曹操の居場所を明らかにする戦い方が、奴らには一つだけある。

もはや軍ひとつを返すには時間が足りない。恐らく間に合わぬ。武蔵ひとりが急行して、それで間に合うかどうか。

手の内に未だ感触が残る。戦場跡に置き去りにした肉塊になり果てた李確の抜け殻が、舌を出して笑っている様な気がした。


くぅ~疲ry

帰宅しました。まず、変なおっさん様、ご指摘ありがとうございます。

仰るとおりです、イドと超自我だったら真反対ですわ。言われて気付きました。

ですが、後から読み返してみると「三要素の境界線すらなくなった純粋均一な精神状態を現す演出っぽくね?」と思い、案外良いかなと思ったのでこのままでいかせて頂きます。当初は全く勘違いです。ありがとうございました。

本当、全然更新も出来て無いのに気付いたらお気に入り件数は増えてるし、感想頂いてるし。在り難い限りですよ。コメ返しとかも本当はやりたい。

ともあれようやくここまで進められました。もう一気にこの章のまとめまで行きたい。


さて、改めましてななわりです。最近カゲプロに嵌っておりますサラリーマン彼女無し独身男のななわりさんぶです。

恐山ル・ヴォワールを聞いていたんですが武井先生やっぱ天才過ぎる。アンナの心情をなぞらえて「無性にブロマイド、欲しくなり」ですよ。そんで花嫁のヴェールに引っかけて「透けた布切れ」ってんですからセンスの塊ですよ、ホント。

そしてマンキンを打ち切る当時のジャビン容赦無いを通り越してサイコだよ、恐ろし過ぎるよ。マンキンが既に10年以上前の漫画だと言う事実がそれ以上に恐ろし過ぎるよ。

そもそも思い返せば昔は覇権アニメって言葉は無かった気がする。「この秋はこのタイトルで覇権取る」とか「今期はこいつが覇権」とかそういうものでなくて、あくまでタイトルだった。深夜にこぞってやるものでも、ワンクールで終わるものでも無かった。半年から一年以上はやるのが普通だったんじゃないかな? エヴァだって26話だし夕方の放送枠だったしな。幽遊白書とスラムダンクとDBが同時放送していたという恐るべき時代もあったわけですが、じゃあこれらのアニメを覇権なんて呼ぶ? っていうね。

なんつーか決算の時に確実な数字の出るものを確実に持ってくる計算がばっちり出来ちゃってると言うか、タイトルをイコールその期の商材と捉えてるってのがロコツになり過ぎちゃってて、もう完全に僕らサラリーマンのオフィスの光景と同じものが透けて見えるよねっていう。

そりゃ今だって平日6時のアニメ枠が消滅したわけじゃないでしょうが、少なくとも今はアニメ=深夜ワンクールっていう認識がありますよね。

閑話休題。

カゲプロって中高生のファンが多いと思うんですが、最近時代の主役って高校生だよなあなんて思っております。そこ、サラリーマン彼女無し独身とか言わない。

だってみずみずしさが違うものね。エネルギーの含有量と阻むものが無いっていう二つの意味で、行動力と運動量のキャパシティがまるで違うよ。もちろん学生にだって悩みはあるし勉強も部活も人間関係も大変だけど、その疲労やストレスは大人のそれとは別物だしね。それは大人に比べたら楽だって事では無く種類の違い。この国で大人になると言う事は社会構造のピラミッドに組み込まれてしまうと言う事で、それは建前ではなんとでも言えるけど実質的には逃れられないもので大人の辛さって80%はそれに伴うストレスだから、種類そのものの違いと言って良いと思います。

ごく個人的な意見になってしまいますが、健康で文化的な最低限度の生活を営むってのは少なからず人間性の放棄と同義であったりしますしね。

このまま続けると要らないばかりで文字数を使ってしまいそうなのでこの辺りはまた別の機会にするとして、つまり一番パワーを持った世代がハイティーンだから、そういう世代が時代のムーブメントを担うのは自然の流れだよな、なんて思うんス。

だから中高大学時代は死ぬほど遊び倒せばいいと思う。踊ったもの勝ちですよ、ほんとに。学生時代は自分と対話する時間がたっぷりある。大人は現実がすごい短いスパンで絶え間なく押し寄せてくるからその余裕が無い、その豊かさは学生時代の特権、だからその時代に守りに入らない方が良い。ちょっとでも好奇心が疼いたら行動した方が良いし、モテとかにもどんどん気を使うべき。もう俗っぽいこととかやりまくるべきですよ! テレたらアカンのや!

学生時代の経験を元手に大人時代を構築するのだから、学生時代を如何に豊かにできたかは人生でやっぱ大きなウェイトを占めると思います。チャラい事ひと通りやっとけば大人になってから煩悩に苛まされる事は無いし、勉強の癖をつけとけば大人になってからそれは必ず活きる。大人がよく「若い頃○○しときゃよかった~」って嘆くのは大抵そこに起因してるから、どんな形でも良いんでとにかく退屈の隙間なんて無い位に埋めてけばいい。授業も講義も寝ない。あれ、実はマジで良いものだから。

親の脛もカジれるだけカジったらいい。自立なんて大人になったらイヤでもやらなきゃなんねーんだから。袖がなければしょうがないけど、親にねだれるものは小遣い以外にも経験とかスキルとか処世術とか沢山ある。むしろ親ってそういうのを子供に少しでも継がせたいと思うんじゃないかな。

裸一貫で社会に出るなんて物凄い厳しいですよ! 大人になった時にちょっとでも楽になるために出来る限りのアドバンテージを用意しとく、っていうのは文字通り生き残る為の切実な問題。10万円を1000万円にするより0円を1円にする事のほうが難しいですから。元手は潤沢に越した事は無い、伊達にこの国、世界一の自殺率誇っちゃねェぜ。

そろそろ着地点を見失いそうなのでこのあたりにしときましょう、今回もご覧いただき誠に有難うございました、次回も宜しくお願い致します。

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