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第八十七話「決戦前夜」

「そうですか……季衣が、そんな事を」

「意外だと思うかしら?」


閨の擦れる音が、稟の白い胸元を隠す。

蕩けた目元と不意に覗く無防備な舌の赤に、出し尽くすように交わしたであろう性の激しさの匂いが残っている。


「あの天真爛漫とも言える底抜けの明るさは、絶望を知るがゆえ」


蝋燭の薄明かりが、華琳の唇を妖しく照らす。

一糸まとわず隠す事も無い。未だ未成熟なその肢体をかくも艶やかに魅せるのは、陽炎のゆらめきか。


「飢えが肉体を凍らせて行く様を、あの子は幾度となく見てきたでしょう。親しかった友が少しずつ動けなくなり死んでいく様。それを見ながら――――――自らも飢え果てているからどうする事も出来ない。見動きもままならず横たわったまま、一緒に遊んだ友達の命が少しずつ消えていくのをじっと見ているしかできない。そうして溶け残るように皮と骨だけになった亡骸を見て……腹が鳴る。共に過ごした友を、息絶えたそばからもう肉を見る目で見ている自分を、何度も容赦無く突き付けられてきた」


日々の徒然を紡げばそのまま詩になる、そう賛美される華琳の舌が、情欲の残滓をまだまだたっぷり絡ませたままに、季衣が見てきたであろうものを生々しく浮かび上がらせてゆく。


「いっそ李通万億の様にその業深さを歓待出来れば思い悩む事も無かったでしょう。天命を呪い、すべてに絶望し、喉が裂けるほど慟哭した末に何一つ変わらない虚しさと、それでも生きていかなければならない業深さを悟った。それを受け入れた上で清浄な自我を保つ事が出来たのが、季衣という子の美しい魂」


それは、まさしく“筆舌に尽くし難き”ものであっただろう。華琳の舌、文才を前においてもそれは例外ではない、季衣が肌と蜜色の瞳で感じてきたものは全てそれらを上回るであろう。

溌剌と生き生きしていた紅顔が、ぽっくりと眼窩落ち窪み糞尿を垂れ流す事を留める力すら失い、やがて蠅がたかってゆっくりと見るも無残な朽ち果てた亡骸と化していく、そんな友人の姿。

それを見て……きっと季衣の腹は鳴った。

人間という生き物の辿るなれの果てと、それを“食えるもの”として直感させる本能のおぞましさ。

どんなに理性が否定しても、脳髄に直結してくる抗えぬ感覚。

自らの肉体、血と骨で、季衣は体感してこなければならなかった。


「絶望を味わい尽して本当の意味で“前を向く事”という事を知った。醜さを飲み下して血肉へ変えたら綺麗な部分がきれいに残った。それこそ人という獣が持ち得る健やかさのひとつの理想形でしょう」


生きると言う意思は古より道徳は理想的な事だと教えてきた。立派な事だと、前向きな事であると。

それは当然だ。しかし、生きようとする意志を極めるほどに、人間の持つ最も醜い部分と向きあわねばならなくなる事を知る者は少ない。しかもそれは他人のものではなく、自分自身からひり出されたものなのだ。

己から滲み出る最も醜悪なエキスを、真向かいから見つめなければならない。

華琳が見てきたこの中華で最良と呼ばれる人種。自らの言葉が天下の名代であると自負し、実際に万の民の命運を気分一つで左右する人間、儒学者、官僚、貴人……そのいずれも、否、腹心である稟や桂花ですらも、その地点には到達していない。生きると言う事に、そこまで真剣に向き合うことはしてこなかった。いや、当人たちはそれぞれなりに真剣であったであろうが、それでも生と死を懐に抱いて生きるという体験は無かった。己の心の闇を自ら垣間見る機会にまみえることは無かった。

曹操という人が許緒という人物に親愛の情を覚えた最大の理由はそこにある。“死線”をあの無垢な少女は既に越えている。実感として知り、しかも生来の清潔さを保ったまま。

それは稀有な奇跡である。少なくとも曹操はそれが奇跡であると理解できる人間であった。


「逆もまた真なり。それが全てに通ずる、のなら。人を活かす事を知るには、それまでに果たしてどれほどの人間を滅さねばならないのでしょうね?」


活かす事と殺す事は、限りなく真反対でありながら全くの同一次元上にある。対極という言葉が生まれるのは、そのふたつが紛れも無く一繋ぎの線上で結ばれているから。


「……活かす、という事から出発する事は出来ないのでしょうか?」

「それは知らないわ。けど……ふふっ。一人の人間を生かす事より、百人の人間を殺す事のほうがきっと遥かに簡単よ」


気が狂うわ、と華琳は言った。


「試しに稟、今まで生き延びさせてその後の人生を与える事の出来た人間と、命を絶つかあるいはその後の人生を大きく歪めて奪った人間の数をそれぞれ数えてみたら?」


声に皮肉の色は無かった。ただ好奇心の響きがあった。

想像したくも無い事だ。少なくとも尋常の器量の人間は、そんな問いを笑みを浮かべて無邪気に投げかけることなどできない。

稟の明晰な頭脳には感情の部分と理詰めをきちんと分断できる器用さがあった。それが却って思い知らせる、人間という生き物の営みのやるせなさを。故に問われても、思考したくは無く、顔をしかめた。

それはいかに天下国家を論じ鴻鵠の志を抱いても、絶対的に存在するジレンマ。


「あるいは私を滅ぼすのは、そういう物事の理合をそっくりひっくり返す事の出来る人間かもね。それは私の出来ない事、紛れも無くこそ曹操の限界を超えた人間でしょうから」


少なくとも、いま相対する餓狼は、どうあがいても殺すと言う所からでしか“人の間”を始められない種の人間であるだろう。

そう見切った瞬間からであろう、華琳がこの戦をはっきりと既に終わらせるべきものとして認識したのは。






星無き黒い夜に、銀色の眼は目立った。直線的に舗装された街道にすっかり人影は無い。暗闇がずーっと先の先まで洞穴のように続いているだけだ。高順率いる涼州軍が草木を駆るが如く皆殺しに追い散らし、また曹操軍の攪乱を受けた涼州軍も迷走していずこかに走り去った。

黒い影になってぬッと立ち上る無人の建造物がなんともいえぬ圧迫感を与えて重苦しいが、この静けさは草原を思わせて悪くない。

空の下に居るのに洞穴、奇妙だ。しかし、高順にはそう視えてしまって仕方が無い。

何を考えて中華の人間は、まるで自らの縄張りを誇示でもするかのごとく、この不気味で悪趣味な都市というものをのべつまくなしにゴンゴンと築いて回ったのだろうか。地面はもっと広く使えば良い。人間の群れももっと散らした方がよほどすっきりする。あれもこれもと集めて、欲を長けて随分と広大に版図を広げたのだろうが、草原からやってきた高順にはずっと狭く見えて仕方が無かった。

土は、誰のものでもあるまい。

夏は陽を浴びて、秋は風と共に駆け、冬は目を閉じてじっと春を待つ。大地はそれだけで充分だろうに。

高順の率いる部隊はこの戦役中、未だ負けを知らない。だが曹操軍の策と徐栄・張繍という主力の相次ぐ戦死に士気はいよいよ壊滅的に下がり、涼州軍は既に軍隊としてまともに機能しなくなっていた。軍隊はある一定の戦略的目的の下に統率されてはじめて軍隊としての働きを為せる。意志が分裂しているのならそれは例え個々がどれほど強かろうとも烏合の衆である。

それでも、西部に控えている涼州軍母体10万で一斉に中原まで雪崩れ込めば混沌と引き換えに曹操軍を呑み込む事は出来よう。だが高順にも郭汜にももはや涼州軍を再び統率する事は不可能である。

凡愚の集まり。他人に対しさしてどうこう思わぬ高順も、そう思わずにはいられなかった。

まずは曹操を倒すのが先決で、他の事はひとまず二の次でよいのだ。高順の下に付くのか、生存していると噂の董卓を探すか、我こそは次代の覇者なりと自称するか、いずれにしろ目の前の脅威を片付けてからじっくりやればよいこと。この漢人と胡人の雑種が気に入らないのなら殺しにかかればよいが、曹操を滅ぼした後でよい。涼州軍に所属するものが等しく戦うべき相手が分かっていたのなら誰ぞが総大将をやる必要も無く、敵味方も関係の無い事。

人間は愚かだな。自嘲も込めて高順はうっすらそう思った。そういう嗅覚こそ涼州軍が狼の群れと例えられた所以であるだろうに、目の前の戦を放置して愚にも付かない大脳での理屈に振り回されている。機を見るのが下手ならば多少戦争が巧かろうが結局、凡俗なのだ。結局、何を嘯いた所で涼州も憐れな人間の群れだったのだろう。

曹操は高順を破り、分裂している涼州10万をきのこ狩りでもするが如く次々と併呑していくだろう。わかる者には三つ子でも理解り、わからぬものでは例え六十齢の古狸になってもわからぬままであろう、そういうものだ。

食料の供給が絶たれて、すでに八日程経つ。

張繍が敗れて高順の部隊は食糧輸送を受ける目処を断たれた。備蓄は重荷として嫌う騎馬民族の戦い方の弱みが此処に出る。攻め続けている間は無敵だが、流れが止まると一転して横腹を晒したように無防備になる。

夜のひんやりした風を心地良く浴びる高順に焦りや動揺は無かった。それは、勝利や逆転を捉えていたからでは無かった。





『何故、寝ていない?』


広くは無いゲルの真ん中で、その少女は背筋を正してぴしりと座っていた。


『……? 食事はふたりで採るものであろ』


なんとも無邪気に、きょとんと小首を傾げてそんな事を言う。

二人分の一汁一菜の地味な食卓を前に小さな肩は眩く見えた。


『漢人と飯など食えるか。勝手に食え』


高順は奥の床に掛け布団もかけず横になる。そうしてすぐに寝てしまった。

――――――短い夢を見た。

夕暮れと朝焼けの中間の様な空の色の中で母親が笑っている。俺に微笑み、名を呼ぶ。俺の名では無い名前を。心地良さそうに眼を緩ませ、幸せに浸った声音で。

違うよ、母さん。俺の瞳は貴女と同じ銀色だよ。俺の髪はその男の人の様な金髪じゃない。母さんは知らないだろうけど、母さんの愛した人は俺が殺してしまったよ。死ぬ間際、父さんは貴女の名前を一言も呼ばなかったよ。

母さんは俺の顔形に残るその名前の人の面影を愛していたんだな。愛おしんでくれた真綿のような清くて柔い温もりは俺の為のものじゃなかった。

でも、それでいいや。母さんが救われていたのなら、辛いばかりだった現実に殺されなくて済んだのなら、俺はそれでいいや。

貴女の眼はもう覚める事は無いが。せめて幸せな夢の中に、ずっと居られたら良いな。

――――――夢を見たのは、久々だった。誰かと同じ部屋に居るのに、眠ってしまうと言う事も。


『今までそのような事は一度とて言うたことが無いであろうに。おかしな奴じゃの』


眼が覚めると、金の川が流れるような金髪の少女は、しゃんと伸びた背筋の様子を全く変える事無くおんなじように座っていた。

ぐぐ、と、腹が鳴るのが分かった。


『腹が減るといらいらする。食えば少しは良うなるぞ』





『何故一人で食わなかった』

『二人分作ったからの』

『二人分合わせて、お前が今まで宮殿で食っていた一膳の一体何分の一の量だ』

『さあの。一品ごとちょっとずつ残すのが食事の作法じゃて、正確な量は知らぬ』

『汁まで全部食ってるじゃねえか』

『飯はこうやって食った方が美味いの』


ふふ、と少女が微笑む。背中合わせに座る高順の首筋を絹の様な髪の毛の感触がくすぐった。


『食料に困ったらお前を潰して食うと言ったのは嘘では無いぞ』

『――――――食ろうてくれるか』

『あ?』

『ふふっ』


細い背骨が少し触れている。少しだけ体重を預けると思ったより頼りなく倒れた。足を突っ張って、少女が押し返してくる。温さが背中に押しつけてくる。


『お前は人の目を見てものを食うよな』

『ん?』

『俺は人の目を見るのが苦手なんだ』


軽くて細く、柔らかい重みが、心地良く感じた。


『生きた人間の目は怖い。力が宿っている、特に死に際の人間は、直視してしまえば思わず刃も止まる。身体が硬まるな。俺は人を斬る時、人の目は見ん。見れぬ』


首の力をすっと抜けば、もうひとつの頭と頭がごすんとぶつかる。

硬く、柔らかく温い感触。


『さあの。朕も貴様に攫われるまで人の目など見た事はなかったよ。じゃから人と目を合わすと言う事がどういう事かわからぬ』


白い裸足を遊ばせながら自らの太腿を抱く。こうして地べたに座ることなど無かっただろう。


『考えた事も無かったが、天子とは恐らく、人では無いのだな。朕は人の顔を見た事も見せた事も無かったよ。皆平伏しておったからの。肌の感触も、思えば知らなんだ。皆から畏れられると言うのは、誰も相手にしてくれんのと同じじゃて』


少女の世界に人の間は存在していなかった。少女に接する人間は玉座の遥か下段で平伏すごく僅かの人間のみ。少女はそれを、同じ人間だとは思えなかった。いや、少女のほうが人では無かったのだ。人の間が存在しない者は少女だけであった。

少女に両親との交わりは無く、兄弟は無く、友は無かった。人並みの人間が好む好まざるにかかわらず構築していく人間関係を、全く一切持ち得なかった、血統的な肉親というのは居たけれども。皇族も外戚も数千の世話人も、少女から見て遥か眼下の世界で入り乱れて何かをやっていた。彼らは天子というものの左右に心を砕いていたが、天子と称される少女については無関心を通り越して、無関係だった。御神輿と下座を繋ぐ階段はさながら上界と現世を繋ぐ異界の掛け橋のようであった。少女は、視えない薄い膜に遮られて干渉出来ない異界にたった一人で取り残されたかのように、生まれた時から玉座と呼ばれる小さな籠の中に座り続けていた。

少女が初めて他人との交わりを持ったのは、皮肉にも全てが灰燼に帰したあの日からである。


『人の背中ってのは』

『うん?』

『悪くないもんなんだな。意外だった』

『そういうものか?』

『馬の背に似ている』

『なんとっ!?』


鋭い顔でけらけらと笑っていた。中東の色が濃い繊細で優雅な顔立ちだが、目元は氷を逆立てた様に冷たい。はたして戦場の風がそうさせたか、それとも生まれ持ったものか。

戦場では常に一人だった。たとえ何万の味方が周囲に居たとしても、持てる命はひとつ。そいつを落としたら終わりであるから、際の際ではたった一人で切り抜けなければならない瞬間が必ず、来る。別に彼で無くとも、戦場を駆け抜けてきた者なら誰もが知っている。

そんな際の際が訪れる瞬間、いかな勇者であっても死の気配の凍えが心に忍び寄る時、愛馬の背から伝わるぬくもりが――――――自分以外の、血の通った生身の感触が寄り添ってくれていることが、どれほど励ましと安堵になった事か。大陸の騎馬民族達が鞍も鐙も使わず裸馬に拘るのは、単にその騎乗技術を誇っての事では無い。理性で弾き出した効率性では図れない“感触”の重要性を知っているからだ。

今、わずかに触れ合っている薄い背中のぬくもりが、これほど心に沁み込んでくるとは知らなかった。

血が通う気がした。


『不思議じゃ』

『あん?』

『なにも無かった胸の中が、ざわざわしたりひゅんっとなったり、ほわっとしたりする。気持ち良かったり悪かったり。今までそんなのは無かったのじゃ』

『……』

『なにもかんも、お前が根こそぎ攫っていった後に、そういうものが生まれた。不思議じゃの』


生まれ育った世界が消え去った、その瞬間からが少女にとっては人間としてのはじまりとなった。

悲しみも怒りも、喜びも知らないまっさらな心。無垢な人間がぽん、と地上に生まれた。高順が地に引きずり降ろしてはじめて色のついた天上世界の意思は、そういう顔をしていた。

だからかもしれない、思わず傍らに置いたのは。


『言葉』

『ぬ?』

『新しいの教えてやる』

『うっ……』

『なんだ、いやか?』

『い、いや……がんばる』


少女は、そんなに覚えの良い方では無かった。いや、今まで使っていた言葉を急に変えると言う方がそもそも難しいのだろう。その苦手意識と、それでも覚える事を放棄はしない気持ちとがきれいにいっしょくたになって素直に表情に現れる。

自然と頬が綻ぶ。


『あした俺が出ていくときに……』


少し面映ゆかった。高順も、はじめての心地で聞くであろう言葉だからだ。

だからとりあえず意味は伝えず、響きだけ教えようと思った。


「いってらっしゃい――――――そう言ってくれないか」








「今回の出撃、俺たちが此処に帰る事は無い」


あくる日、陽が中天に達する少し前であった。

涼州軍の出仕としては遅めの時刻、幹部のみの集まる軍議で高順はそう告げた。


「この戦場で、俺たちは死ぬ」


静かな風であった。ゲルがはためきすらしない。

こんな日は、良い戦になる。彼らの経験則だった。


「いいか? 作戦はな――――――」

久しぶりに時間の取れる週末なのでアップ

夜は武術の話でもしようかな。

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