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第八十五話、「その身、焦がして」

「……!!」

「――――――どうした、李確」


郭汜が問う。

前触れ無く、不意に振り返った李確の眼は鋭かった。ひとたび獲物を見定めれば刺し穿つまで猛追する餓狼の群れの中で、その先頭を駆る長の一人がまるで異分子の様にひとり、誰一人として一様に全身を乱さぬ中で馬首すら返さず首だけで後ろを見た。

虫の知らせの様に、閃いた様に、反射的速度で振り返って遥か彼方に通り過ぎた三百里以上もの地平をかッと睨みつけた。


(徐栄――――――)


走り去った筈の戦場を振り返る事はない。もはや掟のように染みついた彼の人生の作法で、例外を数えるのは生涯のうちにきっと三度にも満たぬだろう。

やがて、地平線の上にぽつんと豆粒の様な黒い影が出現する。それが何者なのか、その距離からでは彼ら遊牧民族の眼を以てしても判別できない。

だがそれが訃報の使者であることを、その男と長年戦い続けた李確の戦闘本能はほぼ直感的に察していた。






「華雄と霞はまだ戦ってるらしい」


しゃがみ込んでも武蔵の身体は、同じくしゃがみ込む季衣と比べて熊の様に大きい。


「……昨日、ボクも前線で華雄さんを見たよ」

「ほう。元気そうだったか?」

「すごく辛そうなかお、してたんだ」

「ああ」


武蔵が気の抜ける様な相槌を打つ。


「涼州軍は今は補給もままならん状態と聞く。華雄も昼夜なく出撃して毎日毎日戦い詰めだ。初日から数えて一体、何日連闘しているんだか、そもそも日を跨いだという区別すらあやふやな状態かも知れんな……よく持つものだよ。やはり奴らは強い」


季衣はずっと浮かない顔のままだ。わかりやすく、明らかである。


「ボクさ、最近よくわかんないよ」

「うん?」

「なんで仲間同士で殺しあいやってるの?」


武蔵の流し眼が見つけたまん丸明月のような蜂蜜色の瞳は、思わず見たものがたじろいでしまう程に真っ直ぐだった。

真綿の様、あるいは赤ん坊の乳白の肌の様に混じりけなく、哀色と困惑を湛えて真っ直ぐに虚空を凝視していた。

武蔵は横から覗くように、しゃがんだ膝に肘をつっかける様に頬杖を付く。


「華雄さんと遊んで貰ったんだ」

「華雄さんはいつも皆からちょっと離れた所に居るけど、構うと絶対最後まで相手してくれるんだよ。あとね、甘いものが意外と好きで……」

「ねえ……なんでボクは友達と殺し合いしなきゃなんないの? 血だらけになってさ。傷だらけになってさ」


滑る舌に濁りは無く、通る声は清らかだ。そういう風に生まれてきたのだろう。

本当なら人を斬って生きる生き方には程遠かっただろうし、選ぶ必要も無かった。


「季衣」


武蔵の琥珀色の目が、湖底の様に深い光で季衣を見抜く。


「俺の眼は怖いか?」


季衣は真っ直ぐに答えた。


「ううん! なんで?」


武蔵は笑い、髪を撫でる。


「お前は強い子だな」


その柔らかな感触からは、陽の匂いが香った。

恐らく、もし浮世というものがこの匂いで満ちる輝かしく暖かなものであったとするならば、涼州の戦鬼たちも宮本武蔵という武人も、存在の切っ掛けすら与えられなかったのだろうと武蔵は思う。


「そして、多くの人はとても弱い」


まどろみの最中に抱きすくめられた猫の様に、季衣は髪をかき混ぜられながら目元を竦める。

くすぐったげな季衣に、武蔵は語る。


「皆が俺の、他人と違う瞳の色を怖れた。鬼の様な紅茶毛を怖れ、この獣の様な体躯を怖れた。お前もまた、怖れられる時が来るだろう。その蜜の様な澄み満ちた眼を、あどけなさに不釣り合いな大きな力を、天上世界のもののように純潔な心を、人はきっと怖れる。人は自分とあまりに違い過ぎるものを怖れる。それは美しい物であっても同じだ。綺麗過ぎて、眩くて眼が潰れてしまいそうだから、背けたくなる」


季衣の持っているもの。真正面から真正直にぶつけられたら、たじろぐほどに清い代物。


「出来ればで良いから、そういう人たちに出会った時、お前は優しくあって欲しい。それはとても難しい。今のお前の様にあることは、実は困難な事なんだ。だからそれが出来るお前には、そういう風に在り続けて欲しい」


武蔵はなんとなくだが、なんとなく、この綺麗な少女がこの先ひどく傷だらけになっていくことが分かっていた。

清い宝石が埃塗れの場所にあったら、汚れは当然そこに集まってくる。世の中に当然のものとして存在する“標準的な人間”という奴らは、きっとこの天界が使わしたかの如きくすみ無き魂を滅茶苦茶にしようと躍起になるだろう。恐らくは当人たちの自覚すら無いまま、この珠玉に泥を塗り、足蹴にして壊そうとするのだ。

だから武蔵は、この綺麗な少女にあえて十字架に打たれる役目である事を願った。そしてどうか、傷を負っても疵とならない様に。


「人に優しくする事は、赦す事は、強い人にしかできない。お前を怖れる弱さを赦してやってくれ」


そんな人間が例え一人でも居れば。

糞袋の様な浮世も、少しは陽の彩に近づくかもしれんぜ。

たぶん、豚に真珠だろうけどな。それくらいには救いは無いさ。

だとしても、唯一つ気高く潔くあってくれ。それでも笑っていられるほどにお前はきっと強いから。

どうか、お前まで弱くはならないで。


「さあて、季衣」


山の節くれの様な巨大な掌が、軽く頭を叩いて離れた。

大きな影が出来る。武蔵が立ちあがった。


「腹空かしてる華雄に、結萬康のうめえ饅頭でも食わしてやりに行こうじゃねえか」






もはや人の声ともつかなくなった叫喚の中で、泥土にまみれ紛れるように投げ出されていく血と肉体と共に、魂は消えていく。

もう随分とこの国の大地で絶えることなく繰り広げられるこの光景は、彼らの子や孫やその後何代までも続けられるのだろうか。そのうち最後の一人となるまで。

そうだとすれば、この世はさながら蟲毒そのものだ。そんな処で、はたしてこれほど必死の形相になって命に食らいつく意味はあるのか。

生き残った者はその腹の中に一層の怨嗟と生への執着を溜めた毒虫となって、闘い争うのだろう。

何のために戦うのかも曖昧なまま。


――――――血管の裏を掻き毟るような刃鳴が散る。


(随分痩せて肌の色も暗くなったっちゅうのに、眼だけは梟みたく日に日に爛々としてきよる)


元々華奢な華雄の身体の線は一層、肩が細く尖り、美貌には隈が窪んで見える。

だがその太刀筋はさながら削げ落ちた肉から神経が露出しているかのように反応を増し、日を追うごとに遊び無く、無駄なく研ぎ澄まされていった。


「ち!!」


初戦にあれほど激昂していた華雄は既に言葉も発さない。淡々と小さく振られた大斧がその大袈裟とも思える重量にはとても似つかわしくない精密さで、半拍子反応の遅れた張遼の青龍偃月刀の鎬を擦り、滑らす様に仰け反った首を掠める。

ぶしッ、と、朱色の鮮血が飛び散る。肌が濡れ、品の良い額にぶわっと脂が滲む。

それに対して、華雄は唇一つ歪めない。


「……あんた、なんのために戦うん?」


代わりに口角が上がったのは、張遼のほう。

問いかけたのも、霞のほう。


「もう流す分の血もあんま残っとらんやろ。汗一滴だって流されへんやろ。枯れ木みたくなるまで精も根も絞り尽してひたすら切っ先尖らしてそれでも戦っとる。仲間ぎょうさん道連れにして。ほんでその刃向けとる相手はかつて同じ釜の飯食った西の仲間や。何のために?」


大地に広がる夥しい屍。逃げ道も身を休める庇もない死の行軍は歴戦の猛者と名馬をひとり、またひとりと削ぎ落していった。

命そのものを切り売りする様にして前に進んで来た者たちは幽鬼のように擦り切れ、それでも戦いを辞めない。まるでそうする他は無いかのように、傷付き合いながら。

それが彼らにとって紛れも無く“生きる”という事なのだ。自ら死に向かうその歩き方が。

何を求めて、何のために戦うのかもあいまいのまま、それでも戦いだけが無限に続いて行く。


「……あんたは何がしたいねん!!!!」


それは涼州の民が歩んで来た歴史そのものの様にも思えた。


「それは私のセリフだ、張遼」


その狼は温さから遠ざかって餓えるほどに、血を失って凍えるほどに研ぎ澄まされていたように思う。


「我らの敵は二百年前からずっと決まっていた筈だ。我らの代まで戦いは続いた。我々に向けられた白眼を忘れてお前こそ何故そちら側に居る事が出来る。全ての敵を討ち殺すまで私の戦いは終わらん、終われる訳が無い。この魂は漢の旗の下にはやらん。たとえこの戦場で血と肉体のことごとくを使い切ったとしても、誇りだけは渡さん!!」


全て奪われたのだよ。そうやって生きてきたのだよ。

猛禽の眼が、呻っているように思えた。


「その為ならば戦って戦って、戦い抜いて死ぬ!」

「それがあんたの誇りなのか。火に向かって突っ走って滅ぶ事が誇りか」

「うるさい!! これ以外の生き方は知らん! 必要無い! 存在しない! お前だってそうだろう!!」

「……わかれへんなァ」


木・火・土・金・水からなる五行思想のうち、漢民族を象徴する火の意思。この大陸に突然現れてすべてを呑み込んでいった中華を覆う化物の様な巨大な意思だ。

中華とは漢の事。北西の民はそこに含まれない。

住まう大地を追われた。太陽(ニマ)の事は日輪(タイヤン)と呼ばなければならなくなった。友の頭蓋を取り外され、父母の亡骸は踏み砕かれ、妻の腹を裂かれ、取り出された赤ん坊をねじ切られた侵略の歴史。その子孫たちは走狗の如く戦い続けさせられた。言葉と本来の名を奪われてなおも。

抗う事を辞めたら、それらの命ことごとくが無かった事になってしまうような気がして。我らの歴史とは、与えられた血みどろの天命は何のためであったのだろうと。


「わかれへんから……探しとる最中なんや」


――――――結局、そんな言葉も何の意味も持たない。

語る術は、刃しかないのだ。





「ぐおッ!!」


精密な連撃の圧力に張遼が圧された。

剣ではよく、肚や気が肝要であると伝えられる。

人は気持ちで強くなる。それは嘘では無い。

アドレナリンは脂肪からエネルギーを抽出し血管を拡張する事で運動能力を増し、ドーパミンはシナプスの結合を強くする事で集中力を高める。そういった科学的根拠に基く言葉で裏付ける事の出来る人体の理は、全体の1%にすら満たぬと言う。

その“全体”というのも推量に過ぎないのであるが。

愚鈍で感受性を失った現代人はいちいちそういう言葉に置き換えられないと理解できず信用も出来ないのだが、古来の人はそれでは説明しきれぬ精神の理、心と体の緊密な関係性を気や肚といった一言でより深い部分で理解する事が出来た。

大斧が縦横無尽に働く。先端の重量が華雄の華奢な身体を通して馬の蹄に繋がって大地と根続きになり、放られた力は8の字を描く様に次の打ち込みにつながる。それが確実に張遼の間合いに侵入し切り崩していく。

剣から理が離れない。戦場の経験と受け継がれた血が、勘と閃きを冴え渡らせ最短最適の軌跡を本能的に小脳に命じ、肉体を流れに乗せる。

真っ白な怒りで澄み切った華雄の剣は、間違いなく張遼が見た中で最も強い華雄だ。

研ぎ澄まされた真っ直ぐな気迫は、大胆ながらも正確で注意深い、重く厳しい猛攻となって北西随一の手綱取・張遼を削っていく。


(無駄がない! 遊びもない! 気の抜きどころが何処にもない! せやけど……)


冷や汗がぶわっと背筋を結露の様に濡らしながらも、霞の心には一握の困惑があった。

こけた頬の中で瑪瑙の様な質感の瞳孔が開き、渇いた唇が半開きになる没頭した表情。不純物の無い無我夢中の勢いはさながら炎、華雄という蝋燭を目減りさせながら発揮される火力。

魂そのものを得物にしてぶつけるような濃密な力感は涼州人独特の強さだ。

戦い抜いた果てには焦げ煤すら残るまい。


(こんなにも――――――)


悲壮な強さがあるものなのか。


「ッツ!!」


愛馬の逞しいトモから大斧の先端まで一本軸となった胴払いが、正面から入って張遼の構えを大きく崩した。

裂帛の気合やここぞと言わんばかりの力み、一切無かった。ただ吸い込まれる様に二の太刀の斬り落としが落ちる。反応し得ない張遼の隙へと――――――


響いたのは、厚みのある鈍い金属音。


「――――――ッ!!」


張遼のみに集注していた華雄がばッと眼を切り、自らの中央に得物を引きもどして構えを作り直す。そうしてすぐさま、張遼から一旦間合いを切って全方位を警戒する姿勢を取った。

それもほぼ、本能的な反応だろう。

梟の眼にほんの少しだけ色が戻る。その小さな影を見止めてから。

華雄の大斧に横やりを入れた鉄塊、にもかかわらずそれの描く軌跡は極めて有機的。生き物の様にうねり、人を攫う天災の様に頭上を睥睨するが如く旋回した。

髪を撫で掠めてサッと引いていった旋風の先に、華雄は見慣れた姿を見た。

華雄はその名を呟く事も、眼光を緩める事も無かった。

自分の胴体ほどもある鉄の塊を小さな分銅の如く一定のリズムで旋回させる構えは、彼女にしかできない独特のもの。顔を見ずとも、風を潰す鈍い轟音の中に混じる鎖の軋る爪のように甲高い金属音がその人物である事を知らせている。

季衣は――――――鋭い顔をしていた。説得に来た? 違う。彼女たちには、言葉よりも遥かに速く伝える術がある。


「連れ戻しに来た」


いつだって、戦いだ。

それ以外にどうする事も出来ない事が、余りにも多い。

お風呂あがったら書く!!

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