邂逅編・八話
武蔵の兄嫁とは、小原城城主の娘だった理応院。ちなみに伊織はこの兄夫婦からもらった子供。
「許緒、村は好きか?」
華琳率いる討伐隊は、先ほど判明した賊の本拠である砦に向かって行軍していた。
当時の中国で言う八里、と言うのはそう遠い距離ではない、現代風にいえば5kmにも満たない距離である。急げば30分とかからず着いてしまう距離だ。
ただここらには山間の道が多く、歩きで行軍に参加するとなればそれなりに労力がかかるだろう。
乗り馬の無い許緒が現在、二人乗りするように武蔵の前にちょこんと跨っているのは、そういう理由である。
「季衣でいいよぅ、水臭いなあ」
「いいのか?」
「うん。ボク、国とか政治とかはおっきすぎてよくわかんないけど……ボクの村は、ボクの父さんも母さんも、じいちゃんもばあちゃんも、ボクの大好きな人たちがみんなで暮らした、大好きな場所だから……」
そこまで言うと、彼女はくるりと武蔵の方を向いて、ニカッと笑う。
相変わらず曇り気の無い、太陽のような笑顔。
「だから、それを守ってくれる華琳さまや春蘭さまや秋蘭さまや、兄ちゃんの事を、ボクは信じるよ! あ、あとは桂花も」
そう言った彼女の声にはひとかけらの邪気もない、どこまでも素直だ。
この無邪気な満面の喜色にあてられては、四人も真名の好意を受け取らずにはいられなかったろう。
「はっは。お前はいい子だな、季衣」
武蔵は柔らかく笑うと、その小さな頭をそっと撫でてやった。
「ねえ、兄ちゃんの生まれたトコって、どんな所だったの?」
「そうだな……山が多くて、ちょっと歩くと海があって……祭が好きなヤツが多く、皆、真名を持っていない」
「真名が無いの?」
「ああ。だから季衣も、俺の事は好きなように呼んだら良い」
季衣は武蔵の語る故郷や日ノ本について、一つ一つに興味を示し、目を丸めた。
特に海についてはいろいろな事を聞いてくる。海にも魚はいるのか、とか、いつも波打ってるって言うのは本当なのか、とか――――
大陸で暮らす人間には時に想像のつかないような常識が存在する日本と言う国だが、それでなくとも「天の国」の話とは、好奇心を満たしてくれるもののようである。
「……兄ちゃんの父さんや母さんってどんな人だったの? やっぱり強かった?」
一通り武蔵の祖国の話を聞いた季衣は、話題を武蔵の家族の方に飛ばせた。
問われた武蔵の顔には黙視できぬほど小さくではあるが、一抹の陰りが差した風であった。
「俺は母の事はよう知らんのだ。父は……強かった。強かったが……苦手だったな」
「嫌いだったの?」
「というか……多分、おっかなかったんだろうな」
――――肉親の記憶。それは歳を取ってずいぶん我の部分から切り離して考えられるようになったが、それでも他人から問われぬ限り、思い起こすほどは無いほど意識の深くに眠っているものであった。
物心付く前に袂を別った母への淡い空虚。かつての若い自分は認めたがらなかった感情――――
父に抱いていた怖れ。
「ただ――――姉ちゃんは優しかったな」
それらすべて、遠い過去に置いてきた「家族」というものを。
「姉ちゃんが居たの?」
「ああ。血の繋がった姉ちゃんじゃないがね。兄嫁さ。ガキの頃は、しばしば三人で一緒にいた」
武蔵は母を知らない。武蔵は父と別離したとき、自らの生家に帰っていた彼女を頼ったが、結局一緒に暮らすことは叶わず遠縁にあたるという養父の元に預けられ、それきりである。
父に甘えた記憶もない。母とも離縁し、ひたすら兵法に打ち込んで家庭を顧みなかった父との間には、道場での稽古以外に関係と呼べるものは無く、およそ父子としての交わりは、木刀を介してのものでしかなかった。
幼い武蔵が、『愛情』という類のものを託せたのは、極々限りある人間だけだったのだろう。
「ずっと一緒に住んでたの?」
「いや。俺が故郷を離れてから、会ったのは一度きりだよ」
武蔵が剣を己の道と定めたとき、強さを求めての諸国放浪を望んだとき、育ての親も説き伏せて旅に出る彼を引きとめたのは、ほかならぬ姉であった。
彼女にとっては弟に向ける姉としての当たり前の愛情が、修羅の道へ向かう武蔵を留めようとさせたのだろう。
だが――――――――
武蔵の挑んだ道は、血で血を洗う、鬼人の道である。果てしなく、戦いを求める道である。そういう愛情を背負っては往けぬ程に、高く険しい道である。
強くなりたいと願った少年は、姉に抱いていた思慕の情を、斬って捨てて行かねばならなかった。
「姉ちゃんは、幸せになれただろう。兄貴は出来た奴だ。だから、良いんだけどな」
武蔵にとっては四十余年の昔に過去とした記憶。
父も、母も、姉の優しさも――――――――
すべては彼の奥底に沈んで埋没した、古ぼけた置物の如き追憶となってしまったものである。
「………………そっかぁ」
「ま、全部大昔の話さね。とっくのとうにケリのついた話だ」
だからそんな顔すんな、と、武蔵はもう一度、今度はやや乱暴に、眼を伏せてしまった季衣の頭をわしゃわしゃと撫でた。
となりの誰かが寂しい時は、その誰か以上に寂しく思える。
それが出来るのが優しさなのだと――――孤独に生きたこの男が気がつけたのは、一体、いつの歳の頃であっただろうか。
「でもさあ、さっきのはずるいよ。後ろからじゃん」
「ずるいも、きたないも、せこいも、みーんな勝つための技よ。なんて技か知ってっか?」
「なんて言うの?」
「『卑怯』っていう」
「うわあー……兄ちゃん、男らしくない」
「はっはっは。良い子はマネしちゃいかんぜ」
少し経つと、先ほどの湿っぽい空気を引きずることもなく、二人は上下に揺さぶられながら駄弁っていた。
先ほどのしんみりした風はどこへやら。冗談交じりで季衣と喋る武蔵の声色は、およそ日常会話に近い気安いものである。
「お……着いたか」
しかしそんな彼でも、山の間の少し入り組んだ景色の向こうにある、少し老朽化した砦を目先に認めれば、そのたゆんだ空気や顔つきは良い具合に張りつめてくれるらしい。
武蔵の眺める砦はどことなくさびれていて、あまり立派な風とは言えず山の影になるようにひっそりと建っていた。大方、山賊達がこもるまでは、何年も使われていない空砦だったのだろう。情報を知らずに発見しても、遠目で見ただけではここが彼らの本拠地だとは恐らく想像はつくまい。
だが武蔵――――否、曹操軍のすべての者は、そのちゃちな砦に潜んでいる戦うべき敵の存在を、しっかり意識しているようであった。
「うう……何か、キンチョーしてきちゃった」
武蔵は緩んでいた眼光が徐々に冴え、身体に血と熱が巡りだし、通った部分がじわりとほぐれていくような、静かな高揚を感じていた。
ただし季衣はそういう武蔵と比して、緊張感からやや身体を固くしすぎてしまったようである。
こういった武蔵の切り替えの良さは、まだ若い季衣などは、少し見習うべきところかもしれない。
「何も心配する事はない。さっき賊ぶっ飛ばした気分でやりゃあいいんだ」
「う……ん。でもボク、こういう軍隊に混じって戦するの始めてだから、ちょっと……ね」
「やることは同じさ。気楽に、しっかり……な」
「…………うん。そうだね。ボクが……ボクがみんなを守るんだから」
慣れぬ雰囲気から戸惑いの色を見せていた彼女の瞳に、芯の通った闘志が宿ったのを武蔵は見てとった。
ともすれば気負いに繋がってしまうやもしれぬ熱さではあるが、少なくとも今の彼女は、前を見据える良い気合いの乗り方をしている。
「そんじゃあ、華琳の所に行きますか」
「……うん!」
「集まったわね」
簡素に組まれた幕営の中で用意された椅子は六つ。
そのうち五つは春蘭ら華琳の直属の部下たちと、先ほど華琳が直接連れてきた季衣が埋め、それらすべてを見渡せるように華琳が上座に座していた。
「季衣、このあたりに他の賊はいるの?」
「いえ、このあたりにはあいつらしかいませんから、華琳さま達が探してる賊っていうのも、多分あいつらだと思い
ます」
「そう……なら、今回はあの砦を落とすのに全力を傾けられるわね。数は?」
「はっ。およそ二千との報告を受けております」
「多いな、オイ」
「ふん。たとえ我らの倍の数であっても、盗賊に身をやつす輩など恐るるにたらん」
普通、流賊などはひと所に固まらずバラけて散ってしまうものであるが。
よくそれほどの大人数が一か所に集まったものである。
「すいぶんとまあ、喰いっぱくれが沢山出てんだな」
「む……だからと言って、乱暴狼藉を働いてよいことにはならんだろうが。同情の余地などないわ!」
盗賊、と言っても大体は元・農民である。無論、法の拘束を嫌うヤクザな人種もいるが。
彼らが盗み・略奪を働くのは何のことは無い、自分の土地で食糧が取れないから、あるところから奪いに行くという単純な行動原理である。そしてそれは、およそ戦争と言うものの原初の形でもある。
といっても通常の経済状態ならば多少つつましくともその日の暮らしを営んでいくことはできよう。
彼らを作り出すのは飢饉や度重なる戦争による土地の荒廃による餓え。自然災害が賊を生み、富める者を攻める。賊に攻められ全てを失った民草が困窮し、また新たな賊となる。重税を取り立てる官と小作人を支配する豪族がそれに拍車をかけた。
21世紀の現代でさえ、中東の石油を求めて大国家が強引な戦争に踏み切るほどだ。
飛蝗や寒波をはじめとした大規模な食糧危機に見舞われた中原で賊が横行したのも、自明の理と言えよう。
彼らの戦う理由は、華琳のような大いなる志でなく、春蘭らのような主に尽くす義ではない。
ただ純粋に、空いた腹を満たしたいだけなのだ。
「そりゃあ、俺とて無駄飯食っとるわけにもいかんしな。勝負事にそういうのは持ち込まん事にしてる」
「うむ。我らは皆、華琳さまの理想のために闘っておるのだ。引くワケにはいかん」
戦う理由など、誰にでもあるのだ。武蔵は華琳の恩に報いねばならぬし、季衣は自分の村を守らねばならない。剣を取るものは、みなそれぞれの意思でそれを振るう。
そして、戦う以上、生き残らなければならない。己の意志を通すために。
重要なのは理由でなく、勝つか、負けるか――――――――
最後まで立っていた者にだけ、「その先」を望むことが許されるのである。
「ならば当然、勝ちに行くわよ。桂花、策を」
「はい」
華琳が桂花への発言を促すとともに、全員の視線が彼女に集まる。
その小さな頭に収められた策こそ、華琳を前にして命を晒す啖呵を切らせた必勝の策。
同時に、本当の意味で華琳の横に侍る資格があるかの真価が問われる策である。
「まず華琳さまには少数の部隊を率い、砦の正面に展開していただきます。その間に春蘭、秋蘭の両名が残兵を率いて後方の崖へ待機。華琳さまの本隊が盛大に攻撃の合図をすれば、誘いに乗った敵は必ずや出陣してくるでしょう」
「で、華琳が引きつけたところで伏兵が叩く……と」
「ちょっと待て! それはつまり、華琳さまに囮をしろということか!?」
「何か問題が?」
「大ありだっ!! 華琳さまにそんな危険な事をしていただくわけにはいかん!!」
寡兵をさらに分けて、敵の眼前に王将を晒すという、この作戦。
たしかに春蘭の言う通り、危険度は高い。
しかし、それでも――――――
「城攻めにゃ三倍の戦力で当たれってのは誰が言ってたか忘れたが……今回は向こうのが多勢だ。相手がボロい砦と烏合の衆でも、組み合わされば長引くだろうよ。そうすれば、兵力を無駄使いする事になる」
「う……」
武蔵がとなりの席で熱し始めた春蘭の頭にぽんと手を乗せ、冷ますように理屈で持って説く。
そしてちらりと流し目で、上座にある華琳を見遣った。
「華琳も無駄は嫌いだろう?」
「そうね。むさい連中を長い間相手にするのは好みじゃないわ」
――――――危険と好機は、常に背中合わせにある。
そして元より、戦場に安全な場所はどこにもない。
「それに……その程度の危険に臆するようでは、覇者への道など、望むべくもないでしょうよ」
前に進むことを拒む者に、運命の女神が微笑みかける事は無く、
危険に挑めぬものに、勝利は無いのだ。
「とはいえ、勇敢と蛮勇は紙一重よ。当然、中身はちゃんと考えてはいるんでしょうね?」
「はっ。華琳さまには最精鋭100を率いていただき、念のために季衣を部隊に組み込みます。我が軍の練度から考えれば確実に逃げきれますでしょうし、仮に敵軍と接触したとしても、伏兵部隊が後方を奇襲するまでには十分な時間、隊列を維持できるはずです」
華琳の催促に対し、桂花が待ってましたとばかりに作戦の確実性を述べ上げていく。
「わずか100騎と知れば、血気にはやった賊軍は必ず誘いに乗ってくるでしょう」
「なるほど。策の有効性はわかったわ。それで……次善の策は?」
「この近辺の地理はすべて網羅してあります。あの砦の見取りも把握済みですので……仮にこちらの誘いに乗らなかった場合は、砦を内より攻め落とします」
「……手が込んでいるな」
「野戦に持ち込めた方が手間も想定される被害もはるかに少なくて済むのだけれどね。あくまで保険よ」
戦いに置いて、絶対に成功する策などない。故に、その不足分を補填できる二の矢、三の矢が重要なのだ。
失敗したとして、ここらの地理を網羅しているなら、伏兵部隊を遊軍として自由に展開する事も出来よう。
また単純に気取られずに伏兵を配置するという、本筋の策の成功率を上げるという意味がある。
その二重三重に盤石で持って覆われたそれはまさしく、万に一つも勝ちを漏らさぬ、戦う前から勝利を定めたが如き策。
恐らくは件の食糧事件を思いついた時から、情報収集も含め今回の戦の青写真を粛々と頭の中に構築していたに違いない。
「勝つべくして勝つ」――――武蔵が晩年、五輪の書にて記した勝利の理にも、ぴったりと適うものがあった。
(…………王佐の才、か)
武蔵が口の中で唱えるようにつぶやいたその一言が、彼女らに届いたかはわからないが。
「ふむ……何か、意見のあるものはいるかしら?」
「うむ……」
「むう……」
「……にゃ?」
彼女の力を疑うものは、もはやいないようである。
約一名、よく意味のわかっていない娘がいるようだが。
「なら、これで行きましょう。各員、部隊の配備が完了次第、作戦を開始するわよ」
「はっ!!!!」
華琳の静かな号令に、四人の目もとがキッと引き締まった。
彼女らの動きにより作戦の意向が大きく左右されるのだ。緊張感もそれ相応だろう。
「俺の仕事がねえぞ、華琳」
が、一人宙ぶらりんだった男が一人。
……軍師殿の信用を十分に受けておらぬが故である、というのは邪推のしすぎなのだろうが。
「あなたは私の護衛よ」
「ほう」
仕事の無い奴でも社長の覚えがめでたければ働けるかもしれない……そう言ったのは誰であったか……
「しかし季衣が居るなら、俺の出る幕なんぞ無いかも知れんぜ」
「あら……そうでも無いわよ。たった100人で二千と戦うなんて、綱渡りみたいじゃない」
「にしては、気味悪いくらいの落ち着きようだな」
「ふふっ……お互いさまよね」
まあ、妙に社長に気に入られているこの男が、
「…………おい、宮本」
「ん? 何だ秋蘭」
「華琳さまを……頼むぞ」
やや神妙な面持ちで自分を見据える秋蘭に向けた、
「――――――任されよ」
その人を食ったような笑みに見え隠れする余裕がいかようなものか、いやがおうにももうすぐ、明らかになるが。
「ふぅむ……やはり俺には、馬上より地べた上のが合うみてえだ」
「そんなに苦手?」
すでに布陣は終わっているというのに、この期に及んで後曲にある華琳の隣に侍る、行儀の悪い護衛がぼやく。
姿は見えないが、最前線で出てくるであろう賊に備えて季衣は、武蔵の望む地べたの上に四跨を張って、息も張りつめてじっと敵の突撃を待ち構えているのだが。
「苦手と言うほどの事でもねえ。ただ馬の脚より自分の脚の方が、とっさの時には疾く動けるからな」
人と馬が一体となって、圧倒的な機動力と共に敵を一瞬で粉砕する――――
およそ騎馬と言えば、そのような印象を抱くように思う。
だが、実際には事はそれほど単純なものではないのだ。馬に乗っているからと言って、絶対的に有利であるとは限らないのである。
まず馬の機動性だが、速度に乗っている間はいいとして、止まってしまうと今度は一転、加速がつきにくくなる。
馬は今日のバイクや自動車と違って、生き物だ。手綱を動かして即座にその指示に反応できるわけではないし、そもそも馬の呼吸と合わせなくては言う事を聞いてはくれない。
速度を緩めていたり、完全に静止した状態から急に全力で走れと言われても、そういうわけにはいかないのである。
そういう意味で、手綱を介して指示を出し、馬首を返す手順を考えるなら、自分の足で直接走った方がはるかに小回りは利くと言える。
徒歩なら例え側面や後方から斬りつけられたとしても、反応さえできればかわす事は出来る。だが馬上では、とっさに反応して脱出することは不可能だ。
馬一頭、人一人であれば簡単にこなせる所作でも、馬の上に人が乗っている状態では体勢を整える事は容易ではない。
そう言う意味で足を止めて切り結ぶことを想定した場合、特に武蔵のような地面の上で戦う事に慣れた人間との戦闘では、馬上にあるのはむしろ不利であるといえよう。
騎馬は人と馬の二人三脚である、という事を忘れてはならないのだ。
他にも馬上で戦う上での不利はいくつか挙げられるが、ここでは割合しておく。
「私は馬の方が好きだけれどね」
「その心は?」
「どこまでも走り抜けていけるような気分になるでしょう?」
――――――そのような小手先の論理は、彼女の気宇の前では甚だ無粋であるように思うから。
「そうだな……それに、高い所から見下ろすってのも、お前の性には合ってるような気がするよ」
「でしょ?」
その小柄な体躯でも、跨る雄大な愛馬と共に屈強なる精兵を統率し、一段高い所でずっと後ろから、ただ眺めるだけですべてを掌握している姿は荘厳だ。
なるほど、それは武蔵の頭の中でさながら、昔にぼんやりと思い描いた事のある、古より伝わる覇王・曹操の像と交錯するものがあった。
銅鑼が鳴る。一つ。二つ。三つ。
その腹に響くような重低音は、ごろりと転がる歴史のうねりの、はじめの足音であるのだろうか――――――
「……桂花。これも、あなたの予測の範疇なのかしら?」
「……いえ、これはさすがに……想定外でした…………」
銅鑼の音の余韻と混じるように聞こえてきた鬨の声は、味方でなく敵のもの。
こちらが何か挑発するまでもなく、すでに砦の門は全開になり、そこから雪崩の如く敵が湧き出てきている。
「連中……今の銅鑼を攻撃の合図と勘違いしているのかしら?」
「……どうやら、そのようですね……」
「呆れてる場合じゃねえ、わらわら来たぞっ!」
華琳の率いるわずか百足らずの部隊に飛び込んでくる兵の流れは一向に途切れない。
すでに視認できるだけでもこちらよりはるかに多く、たったこれだけの寡兵に、まるで敵の全軍が投入されそうな勢いすら感じる。
「ふん……どちらにせよ、飛んで火に居る夏の虫。総員、敵を引きつけつつ後退! 誘い込むわよ!」
「……むっ! 来たかっ」
「華琳さまは……おおっ、良かった! 御無事か!!」
「…………うむ」
馬が駆け下りれる程度の緩やかな崖の上から春蘭・秋蘭が認めたのは、百の兵に追いすがっていく人の塊。
隊列も何もなくただゴチャゴチャと一緒くたになって群がるそれは、軍と言うよりもむしろ、単に人の群れと形容するのがふさわしかった。
「……よし、総員っ――――――」
「待て姉者。突撃にはまだ早い」
息をたっぷりと肺に吸い込み、合図を挙げようとした春蘭を秋蘭が制した。
彼女は下知を告げるつもりで吸い込んだ空気をそのまま溜めて、口を閉じたまま妹に目線で「何故だ?」と訴える。
「あの分なら華琳さまの部隊が捕まる事もあるまい。なら、敵が完全に後ろを見せるまで待った方が良い」
(うむむ……だが、早く一発入れてやらないと逃げられるかも……)
「辛抱するところでせねば、また宮本にからかわれる種が増えるぞ」
(何ぃっ! それはいかん!!)
あたかも言葉を交わしているような二人だが、春蘭は息を止めたまま眼を訝しげにしかめたり、首をぶんぶんと左右に振ったりするだけである。
それで会話が成立するあたりは、さすがに双子と言うべきか。
「…………っ」
「まだだぞ、姉者」
だんだんと春蘭の頬っぺたが膨らんでいく。
敵はまだ横っ腹を見せていて、急所の急所を露わにするふしは無い。
「………………っ!」
「まだだ」
今度は顔が赤くなってきた。そろそろこめかみに血管が浮き上がりそうな気配である。
「……………………ッッ!!!」
「もう少しだ……」
ついに身体が小刻みに震えだし、その澪のかかったような珠の眼が血走ってきている。
さすがにギリギリの雰囲気だ。
「…………よしっ! いいぞ姉者!」
「――――――――――――――――ッツ!!!!!!!!!!!」
秋蘭の声とともに、振り上げたままにしてあった合図の手を下すやいなや、堰を切った様に止めていた息を思い切り吐き出した。
「――――――――突撃いぃぃぃぃィィィイイーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」
溜まりに溜まってこだました大喝は、さながら爆音のようであったという。
「おおー。圧倒的じゃあねえか」
戦局が見渡せるやや小高い場所に立つ武蔵の眼下にあるのは、圧倒的に小勢のはずの味方に包囲される敵の姿。
すでに突撃時の混乱によって、敵方は踏まれた蟻の行列の如く無秩序な集団と化しており、包囲の隙間から逃亡する以外にまるで身動きがとれていない。
数の上でも、恐らくもうそれほどの差は無くなっており、あとは後ろから巻き込むような春蘭・秋蘭の兵と、季衣を含む本隊の前線部隊による囲いで押し込めて、勢い任せで潰すのみだ。
用兵家にとっては、この上ない絶景であろう。
「今度はもっと強大な敵を相手に、この景色を見たいわね」
そう呟く華琳の顔は、もう勝利を確信しているようである。
「桂花、囲いの一か所だけを空けてあるのって、作戦か?」
「退路を空けておくのは兵法の常識じゃない。兵が逃げて兵力を落としてくれるし……固まるから追撃も楽だし」
「えぐいねえ……ん?」
もはや彼女らの手腕を賞賛する高見の見物人と化していた武蔵の眼に、面白いものが飛び込んできた。
着崩した着物やらろくに甲冑も付けていない包囲された兵の群れの中で、一人だけ立派な身なりをして馬に跨り、密集地帯で前にも後ろにも行けなくなっている一人の騎兵。
明らかに大将と言わんばかりの出で立ちは、遠く上から見下すと一層目立った。
「――――――華琳よ、やっぱり馬はいかんぜ」
思わせぶりな言葉と共に、武蔵は馬から飛ぶようにひらりと降りて、その場にかがんで地面を物色し始めた。
「何してるのよ?」
「ん? いやあ、この歳になって猛るのもどうかと思うんだが」
奇怪な行動を取り始めた彼を、怪訝な顔で馬上から見下ろす華琳と桂花を尻目に、武蔵はゆっくりと身体を起こす。
見るとその手には、少し大きめの石ころが握られていた。
「さすがに、若いのがあんなに頑張ってるのを見るとなぁ」
武蔵は石を二、三度ぽんぽんと掌で遊ばせると、ゆっくりと足の配りを定め、じっ、と先ほどの騎兵を見据える。
「気張らんわけにゃあ――――――――――いかんだろ!」
そうしてやおら振りかぶると、標準を合わせた米粒大の敵影目掛けて、手に持った石を一気に放った。
ヒュン、と風切り音を立てるしなった腕から放たれた飛礫は、目当ての敵めがけてまるで吸い込まれていくように一直線に伸び、見る見る小さくなっていく。
そして、もはや視認できぬほどの小さな点となった石が大将首の影に呑み込まれるように重なった時、馬上の彼の兵は手繰り糸が切れたが如く崩れ落ちた。
武蔵らの方からは確認できなかったが、恐らく騎馬の周りに侍っていた兵は、彼方から飛来してきた掌大の石が大将の頭蓋にあたって跳ねる光景と共に響いた、骨の砕ける乾いた炸裂音を聞いたことだろう。
「当たった?」
「……見えないわよ、あんな所」
「…………秋蘭の弓と、良い勝負かしら」
『小倉碑銘文』が記すに曰く――――――
――――――あるいは真剣を飛ばし、あるいは木剣を投げる。逃げる者、走る者、これを避くるに術なく、その勢、あたかも強力な石弓を発するが如く、百発百中。養由基の妙術も、これ以上とはおもわれない。
武蔵の手裏剣術を持って、こう評されている。
飯を食うなら箸、居間でくつろぐなら扇子、とにかく身の回りにあるあらゆるものを余すことなく使って、相手を制そうとするのが二天一流の理念。
武蔵の掌が握れば足下に無造作に転がっている石ころも、幾間の遠きにある敵を射抜く石弓の矢となるのだ。
武蔵が父・新免無二の当理流、武蔵が二天一流を号する前に尾張で興した円明流もまた、あらゆる手立てで持って敵を倒す総合武術である。
なお、こうしたあらゆる戦闘術に通じていたのは、何も武蔵だけではない。武蔵と同時代の達人、柳生兵庫助利厳が、剣のみならず薙刀や槍を修めていたように、一流と呼ばれる兵法者は皆、あらゆる兵法を学ぶものなのだ。
「あー……止めだな」
にわかに大将を失った中央が波紋のように波打って崩れ、それに呼応するかのように包囲が狭まっていく。
あとはもう、雪崩のように押し寄せる曹操軍が、内外に崩れに崩れた賊軍を駆逐していくのみ。
戦が始まってまだ二刻と経たぬであったが、すでにここで、勝負はついた。
「よう食べるな、季衣」
――――――野戦での勝利の後、華琳ら討伐軍は勢いをそのままに砦を強襲。籠じていたわずかの兵は、頭目の率いた主軍が壊滅したのを知ると、抵抗せずに降伏した。
いまはその奪った砦にて、休息を取っている最中である。
「うん! 華琳さまが持ってきてくれたご飯、すっごくおいしいよ!!」
「そっかそっか」
未だ軍中にある故、勝利の美酒とはいかないが、季衣は炊きだされた飯を存分、働いた分だけ腹に詰め込んでいた。
…………恐らく荒れた彼女の故郷では、この簡素な兵糧程度の飯にもろくにありつけなかったのだろう。この小さな体、まだ年端もいかない身でどれほどの苦労を味わってきたか。
血も涙もない乱世だからこそ、勝利に酔うこの安息のひと時だけは、この幸せそうな顔に水をさしたくないと武蔵は願う。
が……当面、やっかいな問題が一つある。
「はむ……ん……っくん。ふん……む……ごく」
「姉者、あまり食べ過ぎると、またお気に入りの服が着られなくなるぞ?」
「うっ…………!」
「まあ喰った分だけ動いてんだから、大丈夫だとは思うがな」
「……そ、そうだな。ではもう一杯だけ……」
――――――この時春蘭は気付いていなかった……その一杯が命取りだったという事に……
「やめんか!!」
………………さて、なにが問題かと言うと――――――
実は、兵糧の量が足りそうにないのである。
主な原因は、先の戦があまりにもあっさり終わったがために生存者と降兵が想定よりはるかに多いこと、そして一人で楽に十人前は平らげてしまう季衣を筆頭に大飯を食べる人間が若干名この陣に居ることである。
その影響で食料の減りが桂花が想定していたよりも早く、このままでは帰還のやや前に底を尽いてしまいそうな勢いなのだ。
賊から奪った食料はそのまま捕虜の食に当てなければならないので、自軍への補填が利かない。快勝したことが思わぬ仇となった。
しかし生存者が多いのは良いこととして数名の大食らいで軍全体に影響が出ようとしているとはいかがなものか。
強いのはいいが、食に関しても一騎当千と言うのは時に困りものである。
「欲に長けると身を滅ぼすっていうしな。あんまり食い過ぎる桂花が泣くからほどほどにしなさい、二人とも」
「あ・ん・た・も!! 人の事言えないでしょ!? しれっとした顔で何杯食べるつもりよ!!」
「何杯ってそりゃ食えるだけ……」
「欲に長けまくってるじゃない!! この煩悩塗れ山猿男!!」
そういう武蔵の隣には、何杯も散らかすように重ねられ、あるいは転がった飯の椀がある。軽く見積もって五、六杯であろうか。
「あんたたち脳筋組のおかげで私の完璧な策が崩壊寸前なのよ!! 一体一人で何人前食べるつもり!? バカなの? ねえバカなんでしょ!?」
「いやあ~若いってのはいいもんだ。いくら食っても満腹にならんわ!」
「いっそ食あたりで死んでしまいなさいこの野人!! 我が軍の兵糧のために! そして何より私のために!!」
「……認めたくないものだな……若さゆえの過ちと言うものは……」
「そんなもの認めるまでもないわよ!! あんたの胃袋がその正体をよく知っているわ!!」
過ぎたるは、及ばざるがごとし……
「宮本」
「ん?」
武蔵の箸も落ち着き始めたころに、秋蘭が声をかけた。
こういった気使いが出来る所は、わりと年相応な気性の持ち主の多い華琳の側近にあって、少し毛色が違う。
「礼を言う。よく……華琳さまを守ってくれた」
「改まるほどのことじゃねえだろ。俺は殆ど何にもしとらんしな」
「それでも、華琳さまのために戦ってくれたんだ。礼は言うさ」
「まあ養われてる身なんでなぁ……そう言えば、その華琳は?」
「天幕に戻られた。お疲れな風でもなかったのだがな」
「『宝』でも拝んでいるのかねえ」
武蔵の云う『宝』とはこの討伐に際してのもう一つの目的……
華琳の欲している、「太平要術の書」の事である。決して「大変要人」ではない。念のため。
「その『宝』だが……見つからなかったそうだぞ」
「そうなのか?」
「うむ。賊に薪にでもくべられたか、誰かに持ち逃げでもされたか……『別の宝が手に入ったから古書はいい』と、華琳さまは仰せであったがな」
「愛されてるな、桂花」
「ま……まあね」
得意の毒舌が返ってくるかと思ったが、意外な事に殊勝な反応。
「別の宝」とは言うまでもなく此度の遠征で参陣した桂花と季衣の事であろうが、敬愛する主の賛辞は、例え別人の口からもたらされたものでも彼女の自尊心をくすぐったようである。
「しかしあれだな、桂花よ」
「何よ?」
「あいつは傲慢だ尊大だとお前を評したが、あいつ自身が一番、でかい野望を抱いておるわな」
武蔵は彼女らから目線を外し、ふと空を見遣る。
「過去に生きた人間、この国に生きる人間、これから生まれてくる後世の人間、そいつらのしがらみと期
待と恨みを、全部一身に引き受けようとしてるんだよ。あんな小さな体でな……」
すでに箸を置いた武蔵が、この場にはいない、自分よりはるかに小さく、はるかに幼い少女の姿を眼の奥に投影して語る。
彼女は今、何をしているのか。一人天幕で勝利を祝う詩でも作っているか、粛々と、自らの治める地の陳情の案件でも検分しているのか。
彼女が臨まんとする道は、およそ余人に想像し得ぬ烈しき道。欲する境地は、およそ凡百の才に辿りつけぬ高き頂。
まだあどけなさを残す眼に宿る火は、かつて故郷を捨てた、一人の少年のそれに似ていた。
「しんどいぞ。勝っても負けても……な」
「ふん。やっぱりあんた、華琳さまの事を何もわかっていないのね」
桂花は物憂げな武蔵に対し、自慢げな笑みを向ける。
若干、見る者が見れば、邪悪さに似たような味がついているとも取れそうな、やや蔑みの入った笑顔だが。
「身の丈に見合わない願いを持つのが尊大というのよ。華琳さまは間違いなく、天下の才を持った御方だわ」
今度は一転、恍惚とした顔で――――恐らくは華琳の勇姿に思いを馳せているのだろうか。
――――その思影もまた、彼女が曹操にかける期待である。天下に挑む者は、それを支える者がその後ろ姿にかける願いをも纏わねばならぬ。
「……そのすべてを納める器か」
華琳の器は、なるほどその小柄さとは裏腹に雄大だ。歴史に介入せんとする気概とは、そういうものなのだろう。
ただ――――――
それでもなお、あの小さな体は、それに押しつぶされはしないだろうかと――――そういう想いが武蔵の胸に去来した理由は何であろう。単なる老婆心か。
添え付けの水で口を湿らせる武蔵の顔からは、その心根をくみ取ることはできない。
「……お前は」
「うん?」
「お前は、何のために闘う?」
その問いに、一瞬だけ武蔵の視線が杯の中の水を泳いだ。
「……だから言ったろう。食った分は働く」
「そうではなくて」
「俺はな」
武蔵はやや語気を強め、秋蘭の言葉の先を摘むように眼を合わす。
「俺は今まで、倫理だの道徳だのはどっかにぶん投げた生き方をしてきた。偉そうにそんなものは語れん」
そこまで言うと一つ言葉を区切り、秋蘭から外した眼を、未だ飯をかき込みながら、春蘭に懐く季衣に向けた。
「ただ、ああいう娘が泣くよりは、笑っていた方がいいとは思うんだよ」
「……そうか。ならば、そういう事にしておこう」
「しておいてくれ」
うやむやのうちに結論を出して、武蔵はそれきり話を終わらせた。
秋蘭は季衣とじゃれ合う姉を少し見つめ、そっと武蔵の意志に倣った。
「……ふん。あんただって偉そうじゃない。猿のクセに知ったような口ばかり聞いて」
一瞬沈黙した空気の中で、ふっ、と桂花が毒を垂らす。
武蔵は神妙にしてしまった場の色がそれによって変わったのを感じ取り、頬を緩ませた。
「はっはっは。じゃあ俺もお前も華琳も、みんな似たような奴なのかもしれんわな」
「だっ、誰が!!」
月も満ちる夜、武蔵の笑い声が空に響く。
いつごろ以来だろうか。喉を鳴らして、高らかに笑ったのは。
その後、桂花は兵糧の帳尻合わせのために、一晩中その神算を巡らす事となる。
「こっそり椀の大きさ変えちゃえば?」という武蔵の軽口を真剣に検討する一幕もあったのだが、「華琳さまは不正を見過ごさんぞ」という秋蘭の言でご破算となった。
結局、桂花は賊討伐の功を持って極刑は免ぜられることとなるが……
その代わりの「御仕置き」を言い渡された時の、桂花はなぜだか妙に艶やかで、華琳の横に侍る春蘭と秋蘭は、それを見て少し羨んでいたそうな。
地震ヤベエw
皆さん気をつけて! ss読んでる場合じゃないよ!!