中原動乱編・第七十五話―――――――「猫と虎、その距離実に100万里」
「今すぐ遠征団を編成して中原に侵攻すべきだ!!」
「しかし、まずは獲得した旧公孫賛領の統治を盤石にさせる事が急務であり……」
「貴様らでは話にならん! 姫に話をお通ししろ!!」
河北最大の広さを持つ軍議室で、机を叩き鳴らす音が響く。
針金のような痩身、蒼白に近い不健康な肌色の男が喝を発すが、それは空振りのように通り抜けた。
「落ち付きなされ、郭図殿。国家の大計……そのように激しておれば大きな轍の踏み外しをする羽目になる」
「左様。それに、北伐を逸早く提言したのは他ならぬそなたではござらぬか」
止まらない郭図の舌を止め、その視線を奪ったのは、二人の古老だった。
沮授、そして田豊。並み居る軍師の中で、郭図と同等以上の発言力を持ち得る数少ない者達である。
「何事も、まずは足元から。如何な駿馬といえど、疲れを知らず走り続ける事は出来ぬ」
「然り。まずは先の戦争の傷を癒し、疲弊した民の喉を潤す事が目下の優先事項」
「目の前の小事に構えば大いなる機を失う事もありましょう。」
「ほう、郭図殿は天下の良民を蔑ろにされると申すか」
「なに?」
「古来より、戦は凶事。国家の基本はあくまで領土。自らの領地を安寧に導く事こそが根本の目的。そこを履き違えてはならぬ」
「戦事はあくまで政の百手のうちの一手に過ぎぬ。優先順位を取り違えては国が滅びますぞ」
「あまねく天下の良民を思うなら、一刻も早く中原の民を曹操の魔の手から救うべし! 貴公らは曹操の邪智暴虐をお聞きお呼びでないのか!?」
深く枯れる様な老人の声と、カンと青く響く様な若人の声は実に対照的だ。
「曹操は事実無根の言い掛かりを付けて徐州へ侵攻、無差別に領民を虐殺した! 今、曹操を討っておかねば必ずや後々、中華全土に同じ災いをもたらす事になりましょう!」
「しかし曹操は今、涼州の餓狼どもと交戦中であると云う情報も入っている。それが真ならば逆賊・董卓の残党を討滅する漢帝国大義の戦を裏切る形となる」
「なればこそ! 中原に攻め上って来た董卓軍残党を殲滅し、しかる後に曹操を討つ。漢の癌を纏めて抉り出す機はこの時をおいて他にござらん!」
「フン、貴殿の申す機とは、単に自らの功名を為す為の機ではござらんのか?」
沮授と舌を巡らす郭図の言を、斜めから田豊がねめつけた。
「未だ戦績足らぬ若い貴殿が功に逸る気持ちはわからぬでもない。しかし、あえて戦へと突き進まんとする、正道を逆行する貴殿の策を看過する事は出来ぬ」
「私が私心から軍略を述べていると申されるのか?」
「以前から貴殿は、軍議会を通さず閣下へ直接的な進言をする所がある。先の北伐も然り。貴殿は閣下との旧交を自らの出世に利用しておるのではないか?」
互いの間の中に、亀裂が入る様な音ならぬ感触が奔る。
「私は漢の臣としての責務を果たさんとしているだけです。この危急存亡の秋に静観を決め込むのであれば軍権を使役する意味が無い」
「曹操とて、現時点では漢の将軍として旧董卓軍の侵攻を防いでおる。徐州虐殺の信を問うのであれば戦の後にすればよく、曹操が敗れる事あらば改めて我らが彼の騎馬の民の討伐に出向けばよい」
「聞くところによると貴殿、太学生の時分に専攻していた燃料研究の実用化を、曹操の提唱した蒸留酒造法にとって代わられたと云うではないか。曹操討伐に拘るのは、個人的な因縁ではないのかね?」
「そのような……」
「ともあれ、多数の承認を得ぬ個人的な意見を通すわけにはいかぬ。もはや閣下を“姫”と呼ぶ事は許されぬ」
「左様。あのお方は、紛れも無い袁家当主であるのだから……我ら軍師団も、より吟味を重ねた総意的な意見を進言する必要があろうの」
「…………」
そこまで、毒にも薬にもならぬ堂々巡りが交わされて、会議は打ち切りとなった。
結論は出ず、後に残ったのは冷えた空気ばかりである。
「――――――老害どもが……」
だだっぴろい宮殿の廊下で、誰ともなく郭図は舌打ちをした。差し込んでくる陽光が青白い横顔を照らす。
その苦々しい音が漏れた所以は、単に自らの言が通らなかった事や、軍議会という公の場で公然と批判を受けた事に関しての不満ばかりでは無かった。沮授や田豊が執拗に郭図の意見と対立したのは、単に提唱する方針の違いには留まらない理由がある。
要するに、派閥争い……先の場合は、古参組と新参組の鬩ぎ合いである。沮授や田豊ら古参組は、先代・袁隗より仕えている宿臣達であり、新参組と呼ばれる者達はの多くは、元は袁紹の教育係や世話役を務めていて、そのまま横滑りする形で相談役や幹部の地位に納まった新しい家臣である。
郭図はそんな新参組の中でも、妾腹であり本来の継承順位は他の兄弟姉妹の中で相当に下位であった袁紹が当主となる為に、かなり主導的な立場で暗躍していた人物である。故に側近の中でも強い発言力を持っており、それだけに古参組とは真っ向から対立する事も多かった。
「どうした、郭図。軍議会は終わったのか?」
「……淳于か」
コツコツという足音に、カッカッという軍足の足音が重なった。
「軍部の会議はどうなった?」
「お主らの決議が下りてこぬうちは大した事も出来んのでな」
「ふん、まあ、そうか」
「とりあえず、三軍を幽州の土木工事に派遣する事案のみ可決したぞ」
「……なんだと!? だれの指示だ!!」
やおら、くわっと病的に細い痩身が凄んだ。
威風を湛える口髭を蓄えた淳于瓊の顔が、たじろぐように仰け反る。煽る様に鋭いばかりの目が見上げて来ていた。
「袁紹様直々のお達しだが……聞いてはおらなんだのか?」
「……老人めが」
郭図が苦々しそうに腕を振ると、朝服の袖がばたついて空気を泡立てた。
考えるまでもなく、沮授か田豊の入れ知恵であろう。軍を復興事業の為に動かせば、戦事を推し進める事は出来ない。
袁紹という主君は、良くも悪くも素直過ぎる所がある。「聖君とはかくありき」と説けばそちらを向き、「これぞ王者の業」と云われればそちらを向いてしまう。そして一度考えを決めてからの行動はおそろしく速いのだ。
表で正論らしい事を述べながら裏で平気で人を出し抜くのが舌で生きる者の常である。この時に限って、悠長に順序を守って会議から意見を通そうとしていた自分が浅はかだった。
「お、おい郭図、何処へ!?」
「決まっている、今すぐに姫に直接進言を申し立て、全ての軍事行動を白紙に戻し、改めて会戦へと踏み切って頂く!」
「待て待て! 既に事案については会議を通して諸将に通達してしまった! ここで命令を撤回されては余計な混乱を招くだけだぞ!」
「…………ちっ……」
カッと踵を鳴らした靴を、淳于瓊の咄嗟に近い意見が留めた。
次の足音の代わりに、舌打ちが飛ばされる。
「少し落ち付け、郭図よ。確かに今が中原の賊を一掃する絶好の機であるというのはわかる。しかし、領地の統治を後回しにしてまで優先させねばならぬ程の機か? 足元を落ち付け、改めて征伐に出向けばよかろう。そうまでして焦る必要が……」
「曹操を潰すには、この機をおいて他にありえん」
「お主や袁紹閣下が曹操との因縁浅からぬ事は知っているが……」
郭図は長めの前髪を右手で掻き上げながら捲し立てる。
「俺は何も、個人的な私怨や点数稼ぎに焦って出兵に拘っているのではない。お前は曹操を知らぬ。あの老害共などはそれ以前の話だ。沮授や田豊などは河北一の賢などと謳われているが所詮、画一論を振り翳すばかりで目の前の物事の優先順位が分からず、その重要性も理解していない。そればかりか、正味の所では袁紹軍内部の政局を己らに有利に運ぶ事のみに終始しているに過ぎん。本当の意味で袁紹軍に危機が訪れた場合の事などは夢にも思っていない。タカを括っているのだよ」
「所詮は数万程度の勢力であろう」
「何事にも例外はある。歴史を動かしてきたのはいつでも例外の存在だ。それをそれだと見抜けぬ者に政は語れん。現に先の徐州虐殺、常識で考え得る範疇の出来事だったか? 曹操は単に知恵の利く政治家というだけでは無く、まして一介の小娘である筈がない。既存の概念から逸脱した危険極まりない存在だと考えるべきだ」
そうして区切りを付ける様に、心の底から口惜しそうに、眉間に皺を寄せてため息を落とした。
「……天利を得ながらそれを手放す者は、天理に見放される。我々は五年のうちにこの決断を後悔する事になるよ」
「やるじゃねえか、桂花。お前の読み、ズバリのようだ」
「あったりまえでしょお?」
へん、と両手を腰に当て、小さな胸を張る姿がなんとも印象的だ。
既に、官渡砦守備隊800名は、黄河の水の上である。
結論から言えば、桂花の提唱した撤退作戦は音の無いまま終わった。一日の攻城を凌いだ後、夜の内に速やかに物資を纏め、夜陰に紛れて砦を発った。砦の扉は土嚢で封印しておき、早朝の間に津へと辿り着き速やかに出港する。李確らが昨日とは打って変わって一向に矢を射ぬ敵軍をいぶかしんだ頃、荀彧率いる官渡砦守備隊は既に戦線を抜けた後であった。陸を猛進してきた西涼軍に、河上を追走する手段は無いだろう。
決め手となったのは、奇しくも敵の十八番でもある“機動力”であった。曹操軍には彼らのような脚は無い、だが曹操の統制下において中継地点となる各基地、各補給点は、何時でも部隊を受け入れ、その都度の作戦を迅速に遂行できるよう、万全の事前準備を整えておく事が徹底されている。そういった常日頃の統制と指導の行き届きが、組織的行動の素早さを約束していた。
なによりも、大量の物資とそれらを取り扱う担当人員、自らの管制する組織機構の整理を常に怠らなかった桂花の管理能力の為せる業である。言葉にすれば一口で表せるが、こうした実動的な作戦で活きてくるのは、奇抜な発想や策謀では無く、そういった官吏としての基礎能力の高さだと証明する格好の事例である。
「しかし桂花。騎馬の奴らは上手く抜いたが、この辺りをウロウロしていて他軍に攻撃される恐れは無いのか?」
「大丈夫よ。たかが800ぽっちの部隊の為にわざわざ水軍出すと思う? 一番近い袁紹の軍でさえ黄河を挟んで対岸なのよ?」
「向こう岸が見えんくらいだからなぁ。海の様だ」
「それ以前に、宣戦布告もしてない軍の部隊をいきなり攻撃するなんていくら袁紹の馬鹿でもあり得ないわよ。とにかくこのまま速やかに舟を進めて、濮水から上陸して華琳様の軍に合流出来れば……」
桂花の続ける言葉、まるで遮る様に、にわかに武蔵が目を逆立てた。
カッと身体を翻して睨んだその先、桂花が怪訝に思って視線を追うと。
「……!?」
頭を急に大きな掌に押さえ付けられた。思わず、膝を折る程の強い力。
抗議しようとくわっと口を開けようとした矢先、流れ星の様に何かが飛来してきて、瞬間、水面を叩き上げて飛沫が派手に噴き上がった。
遥か彼方の水平線上、米粒の様に見える船影に向かって投石を行った。弓では到底届かない射程を捉えた
カタパルト型新兵器の威力を確認して、通り抜ける様な朗らかな声を飛ばした。
「うっはーーッ!! す~げ~射程! 郭図の奴もたまにはイイカンジの武器支給してくれんじゃん! コレが連発出来ればなぁ~!! 何十台も繋げたら釣瓶打ちして連射みたいに出来ないかな?」
「ぶ、文醜様、攻撃命令は出ておりませんが、良いのですか?」
「え? でも敵が居たら撃つっしょ? そりゃ」
「あの艦影が敵であるかどうかは分かりかねると思いますが。商船かも……」
「あんな商いの舟があるか! どうみても武装した軍隊じゃん!」
「こちらの領土内に侵入したわけではないですし、まず狼煙で警告してからの方が……そもそも我々の任務は河南勢力の偵察……」
「そんな悠長な事してらんないって! 目の届く範囲に侵入してきたら取り合えず敵だ! 方向転換、よーそろー!!」
「……いいのかなぁ」
兵士達は戸惑いながらも、ギリギリと投石機の縄を巻き直し、皿の部分に礫を積む。
「石火矢……? 違う、投石か! 旗は……おい、桂花、『袁』だぞ。おい」
桂花には、それは像がぶれてしまってよく判別できない距離だ。
武蔵には、目を細める事も無く、はっきりと視える。
「なっ、なななな何でこんなトコに居ンのよ!? ていうかなんなの、あの兵器!? 敵の新型!?」
「おめーは毎回、最後の最後で外すよなあ」
「あんなの予想出来るワケないでしょー!?」
声を交えるのもそこそこに、武蔵が積み荷の中から米俵を一俵、やおら鷲掴みにして掲げ持つ。
桂花の身体と自分の頭をその影に隠すように盾にすると、礫の何発かが散弾の様に炸裂し、藁の内側まで食い込んで来た。鈍い衝撃が、震動として手首に伝わる。
「ぬう……どうも、あのテの得物とは巡り合わせが悪いっ」
舌打ちする様な声色で唸った。
霰の様に水面を叩いて騒がせ、さらに散発的に舟そのものが叩かれて木端が舞う。
「まずい」
「何が!?」
「このままあいつの相手してたら舟が沈むぞ」
「ど、どうすんのよ!?」
「どうすんのよ、っておめー……」
幸い、連続では打っては来ず、命中率も悪い。だが向こう側に攻撃を仕掛ける術が無く、練度の足りていない此方の舟の操船技術ではすぐに降り切る事は難しいだろう。
このままでは一方的に撃たれ続け、いずれ沈没する事は必至だ。
「……この舟が最後尾か」
「え?」
「先に行かせた舟は攻撃を受けていない……ということは、この船団で奴らの攻撃できる範囲の臨界はこの舟までだという事だ。つまりこの舟を放棄すれば逃げ切れる」
「……なんとなくアンタが言わんとしてる事に察しがついたんだけど。絶対口に出したくないんだけど」
「積み荷は勿体無いが、仕方有るまい」
「……ジョーダンでしょ」
「野郎ども! 現時刻を以てこの舟を棄てる、全員、泳いで岸まで辿り着け!」
「本気!? ちょ、ねえ、それ本気!? 襟首を掴むなぁー!!」
「大真面目だ! 覚悟決めろよ……はあっ!」
「にゃーーーーーー!!!!」
「雪蓮、あなたはどうするの?」
「何が?」
「曹操が徐州で前代未聞の大虐殺を敢行したらしい」
中原が激動していた頃。遠く長江を隔て、江東を転戦するひとりの勇将あり。
虎牢関の戦いの後、袁術は自らの武将・孫策の力を駆使して南に勢力を伸ばし、南陽から寿春・廬江に掛けてを支配下に収めた。
自らの子飼いの部下を太守に命じて獲得領土の統治を盤石にすると、孫策を遊軍としてさらに南征、揚州・荊州の一掃を命じる。
孫策は目覚ましい働きを見せ、揚州に割拠していた軍閥や宗教勢力を次々と撃破し、程なくして一帯の敵対勢力を一掃するに至った。
ちなみに、中原の地に旧董卓軍改め、西涼連合軍が攻め込んだ情報は未だ長江以南には到っていない、ようやく、曹操が徐州へ侵攻した由が届いたころである。
「へえ」
「市民をも巻き込む戦火となったのならば、徐州の賢士、知識人は難を逃れて各地に離散するだろう」
「ふぅん」
「そして彼らの多くが目指すのはこの揚州、そして漢水を抱く荊州だろう」
「あら。じゃあ、こっちに来た時はしっかり受け入れてあげないといけないわね。ごめんねぇ、また冥琳の仕事増やしちゃうわ」
「……惚けるのはやめなさい。ここまで言って、私の思惑がわからないあなたではないでしょう」
溜め息を吐く様に、美しい眉間に皺を刻んで、傍らの女性は豊かな黒髪を掻き揚げた。
まるで川の様にさらさら、濡れ烏色の艶が流れていくのが眼で視てわかる。
「豊かな資源、長江支流を抱く恵まれた地理、そして戦乱を逃れて水が貯まる様に集って来た人材。荊州を獲得できれば確実に今後の覇業、そして袁術から独立を果たす為の大きな足掛かりとなる。揚州を平げた今、取るべきは攻めの一手の一択のみ。それを何故、呉の地で酒宴と狩りに明け暮れる日々を過ごしている? 故郷の郷愁に浸るような時ではないでしょう」
揚州を一通り攻略した孫策だが、何故か荊州の攻略には乗り出そうとせず、情勢を静観するかのように日々、狩りに明け暮れるのみであった。
奇しくも此処、呉の地は母・孫堅の故郷である。
「雪蓮……あなたは何の思惑があってこの時勢の中、あえて動きを止めて留まっているの?」
「何の思惑って……そりゃあ……気になるのは」
深緑の密林の中、外界から隔絶されたこの空間で、止まりそうなほど緩やかに流れる時の中でただ二人佇んでいる。
その時の流れ程にゆっくりと言葉を紡ぐようにして、やがて孫策は、きりッと周瑜の方を振り返った。
「この大虎を仕留めたのは誰かなーって事に決まっているじゃない」
そして大真面目な顔で、足元に斃れ臥す巨虎の骸を指さした。
「雪蓮ねえ……あなたは天下国家の大事よりも遊戯の方が重要なの?」
「何言ってんの、すごいわよ? 二丈をさらに上回りそうなこの規格の虎を狩れる男が居るなんて……」
余暇の戯れ、他愛も無い遊びの、仕留められたのが虎だろうが兎だろうが今はどうでもいいだろうに。
まるで極々大事のように真剣な顔をして、美しい彩紅の唇に親指を添えてしげしげと、口の付け根から喉の奥までバッサリ裂かれた巨大な虎の亡骸を観察している。
子供が札遊びや独楽遊びの優劣に、まるで人生の一大事であるかのように躍起になってのめり込んでい足りする事がしばしばあるが、あれに通ずるものがある。胸の奥をくんっと爽やかに突くような綺麗な横顔。
「男か女かはわからないだろう」
「イヤ、なんかね。太刀筋が男っぽい気がするのよ」
むー、と。しなやかな褐色の長い指を唇で挟む様に咥えながら唸る。
健康的な美の中にふと、宵梅の花ように艶めかしい一瞬が潜む。彼女はただ自然にしているだけで、官能をくすぐるような香りを纏った。
「見て」
未だ新鮮な亡骸をまさぐって見せる。丁度、目の位置に指を差し込み、はぐる。
分厚い皮の下、真っ赤な肉の裂け目が見えた。さらに眼球。瞼を開かせると、スパッと真一文に切れ込みが入れられているのが分かる。
手が血みどろになる事には構わず、景気よくはぐっていた。
「口のと合わせて、全く平行な剣閃を二太刀。それを一合の間に叩き込んでる」
「どうして、一合だとわかるの?」
「角度的に、真正面から迎え打ってるからよ。なら交差する一合で仕留めなくちゃ食われてお終い。この大きさだし」
確かに、骸になっていてもその迫力は伝わってきた。間違いなく、この密林の覇者であろう事が容易に想像できる。周瑜もこれほど巨大な虎は未だお目にかかった事が無い。土塊を揺るがす様に森を踏み締める生きたこいつに出くわせば、さしもの猛将といえども戦慄するだろう。
「二刀流の遣い手かしら?」
「うーん、二刀……それだとなーんか打ちにくいと思うのよねぇ、身体の捌きが……」
刀を持つ手の形を作って、あれやこれや打つ真似をしている。
周瑜がちらりと大虎を一瞥した。
――――――違和感を感じた。
両目を眉間の急所ごと真一文に潰され、口を喉まで裂かれて血の海に斬り捨てられている。凄惨な亡骸。
なのに、綺麗過ぎた。まるで絡繰で直線を引いた様に、否、あたかもはじめからそうであったかのような綺麗過ぎる切り口、鮮やかな裂け目。
周瑜自身が仮にモノ言わぬ剥製、いや、肉屋の肉を包丁で確かめながら斬ったとて、この切り口を再現できるとは思えなかった。
直線的で、あまりにも正確すぎる。切り口が正確であるという事は、それだけ力が集約されているという事だ。分散している程、切り口は粗くなる。
「三尺以上の刃渡りで……突進に合わせて平薙ぎで目を捉える。そのまま一歩踏み込みつつ――――――」
ぶつぶつと言いながら、はじめに右足、しかる後に歩み足でやや自らの身を左に入れる様に捌きつつ、大きく踏み込む。
「こう」
弾けるような美しい皮膚の褐色の腿がしなやかに伸びていって、身体を運んだ。流れる様に、空気の長刀が大口を開いた虎の口を打って、銀の先を描いて振り切られていった。
「一合……虎が飛び掛かってから噛み付くまでの間に、出鼻を打ってさらにもう一打、二太刀を加えたという事か?」
「一番しっくり来る気がするんだけど」
春の雪のような髪を躍らせてくるっと振り返り、カラッとした語調で孫策が言う。
この体格の虎をあそこまで深く斬り付けるには確かに、長い刃渡りを有す得物が適当だろう。そして、扱う得物が長いほど鋭く速く扱うのは当然ながら難しい。
いずれにせよ卓越した技量の持ち主である事は予想がつくが、孫策がさらりと言ってのけた予想は、なにげに重大な事を示している。
振り切った刀をさらに逆方向に斬り返す、という大きな動きで二太刀を虎の一合の間に叩き込む速さ、そして何より、この正確な斬り口を再現する、その二つを同時に満たせる遣い手は孫策軍中には存在しない。
こんな風には斬れないのだ。孫策ですらも、よしんば速さのみは再現出来たとて、深さ、正確さまでをこの次元で両立させる事は叶わないだろう。
それは江東一帯のどの武人よりも、高い技量を持った遣い手であるという事を意味する。
「虎切」
「え?」
「型の名前があるなら、そんな感じかなって」
「……単純すぎ」
「んなっ」
「安直にも程があるだろう、燕を斬ったら燕切りとでも言うつもり?」
「何よ! 人の発想が貧困みたいな言い方してー」
「じゃあ、お題ね。燕を斬ったら?」
「え? えー、ちょっとまってよ、えーっと」
宙で手の甲に顎を乗せる様なポーズを取り、一拍の後、人差し指を立て、すぐさま顔をあげる。
その間、実に二秒。
「燕返しとか、どう?」
考えてなどいない、命名は殆ど、直感だった。
久々の更新が盛り上がりに欠ける回で申し訳ないやらなんやら。