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中原動乱編・七十一話―――――――「言葉ヨリモ疾キモノ」


「領境付近に、謎の一軍が出現したのを官渡前線守備隊が捕捉! 数はおよそ、三千との事!」

「荀彧様よりのご通達! 状況が変わり次第、逐次情報を送る故、その都度、華琳様率いる本隊にも速やかにお伝え申し上げるべし、との由!」


二房の髪を団子に纏めた少女が傍らで、捲し立てている。

政庁の廊下では、行ったり来たり、慌ただしく人間と喧しさとが駆け回っている。


「武蔵様、急報です! 謎の一団が進軍を開始、官渡前線守備砦に向かう構えを見せているとのご通達!」


もう一人、後ろから声と諜報とともに、武蔵の傍らに駆け寄ってきた。

少女である、十代そこら。軍服に身を包み、背は武蔵の鳩尾ほど。髪は短く、肩のあたりで切り揃えられている。


「古い情報はいらん」


武蔵は、ゆったりと歩を進めながら言った。

低い声。


「情報が入ってきた、その時には既に状況が変わっている。それでは勝てん」

「はっ……」

「報せというのは、何よりも速い馬の筈。行動というのは決まって、物事の最後の筈。こちらの手持ちで最も速い馬が、向こうの最も後の馬より遅いのでは、戦いにならん。精進しろよ」


秘書官の女性兵士は、いつもの武蔵との雰囲気の差に気付いた。

冷静そのものの落ち着いた、どっしりと沈む様な声の調子こそ変わらなかったが、そこに、いつもの柔らかさが無かった。このような堅く、無駄のない語り口は、今までに殆ど、聞いた事がなかった。

飄々として、煙に巻くような本性定かならぬ言い回しをするのが武蔵である。

こういう、率直な物言い、普段はあまり見せる男ではない。


(それほど、火急の事態であるという事か)


歩調そのものは、ゆったりとしたもの。

しかし、巨体の武蔵は、一歩で彼女達の二歩分近く、歩を進める。

二人の少女は、やや駆け足になるように、傍らに侍って附いていく。

――――――いつもなら、少女達に己の歩調を合わせるのが武蔵だ。

しかし今は、自らの歩みに、彼女達の足を合わさせている。


「申し上げます! 向かってくる敵の構成は、その殆どが軽騎兵! 速度、凡そ一刻に七里との推測ー!!」

「うむ」


向こうから走ってくる、伝令兵。

彼が頭上高く掲げた書類を、こめかみの高さですれ違いざま、ぱしりと受け取り、武蔵はそのまま歩みを止めず、もう片一方の手で、執務室の扉を押し放った。





「調子はどうだ、秋蘭」


ノックは無し、挨拶も無し、室の扉を開け放ちざま、当然のようにするりと入ってくる。

ぬッと現れた巨漢、一歩、後に続く形で、ふたりの副官がパタパタと、「失礼致します」と頭を下げて、駆けるように入ってきた。


「最悪、さ。せっかくの休暇だったのにな」


長身の美女、すらりと立ち、白魚の片指を机に掛けたまま、机上に広げられた地図から目を切り、此方を向く。

切れ長の鋭い眼が、やや、垂れて、溜め息を吐くように、軽く肩を竦めた。


「何かしてたか?」

「別に。本を読んでいたよ」

「ほう」


武蔵は言いながら、協議を囲っていた軍人達の間に割って入るように、ぬっと、秋蘭の隣に身体を寄せる。

秋蘭は、するりと腕組むように、左手を自らの右腕の肘に掛け、右手には机に置いてあった資料を拾ってそのまま、武蔵に見せる。


「既に聞いているかも知れぬが……素性は不明。現れたのは、官渡だそうだよ」

「ふぬ」


武蔵は両手を互いの袂にしまったまま、首だけ伸ばし、ふんふんとそれに目を通した。


「洛陽陥落の情報と併せて考えりゃ、現れたのは十中八九、陥陣営」

「華琳様は、帝都が陥落した事すらご存じないだろう、即座に早馬を放ったが、果たして軍の転身が間に合うかどうか」

「たとえ洛陽の事を知らんでも、正体不明の軍の情報が届けば、華琳なら全てに気付く」


武蔵が、ぐっと背筋を立てた。伸ばしたのではなく、立てた。


「どの道、援軍が来るまで粘らにゃ、そこで終わりだ。勝負にすらならん。奴らはそのやり方で、これまで不敗だったのだから」


羚羊のように見事な、脚から尻にかけての曲線。秋蘭の服の上からでもわかるそれは、鍛え上げた軍人の筋肉が現したもの。

武蔵は、その曲線美に全く目もくれる事なく、ぼうっとした顔付きで、すぐ背後を通り過ぎた。

足音は鳴らない。武蔵の足元は、軍足で無く、裸足に近い草鞋である。


「秋蘭、お前は残れ」

「なぜだ?」

「官渡に狙いを絞っているなら、もっと大きな兵を、一気に注ぎこめただろうよ。西の果てからここまでやって来た、奴らの速さを鑑みりゃ……」


作戦板を、ふうむ……と、眺める。

その所作に、意味があるのか、果たして意味が無いのかはわからない。貼り付けられている書類を、左脳的に分析しているのか、はたまた、なんとはなしに眺めているだけなのか。

定かならぬ、男。

右手を袂から抜き、顎をしゃりしゃりと撫でた。

まどろみ混じりにも思える、力の抜けた眼は、いつもと変わらない。


「間違いなく、ここも狙っとる。官渡に気を取られて此処を空にしたら、一瞬だ。現れたと思ったら、瞬き一つで目の前にいる。奴らは、そういう種の兵だ」

「……官渡の援軍は、どうする?」


やがて踵を返し、腕を解いて左手を、二本差しの柄に掛ける。

眼だけで、見た。秋蘭を。


「俺ひとりだ」


――――――鷹の目が、見開かれた。


「俺が単騎で切り込み、桂花を拾ってくる」


それ以上に、周囲にざわめきが走った。

例えるなら、秋蘭が一滴の雫、それ以外の者達が、輪として広がる波紋であるように。


「……一応、聞いておく。いつもの冗談ではないのだな?」

「俺が冗談言うようなタチに見えるかい」

「正直、見えるよ」

「…………」


やや、首を傾げる様にして、右手でかりかり、頭を掻いた、武蔵。

束ねられた、麒麟のような赤茶髪。秋蘭の常人を遥かに超える視力は、その所作で、無造作に縛った髪の数本かだけが解け落ちたのが、二間ばかりの遠間からでも確認できた。


「桂花なら、華琳が到着するまで城を守れる。というより、この場合だと桂花にそうしてもらわんにゃ、いかんのだが」

「…………」

「あそこには桂花を守れるだけの護衛がおらん。季衣も流琉も華琳んトコだ。このまま指揮を執らせれば、桂花が死ぬ」


武蔵は、自分の中で結論のついた事は、あまり人に語らない、という所がある。であるから、聞く者にとっては只でさえ伝わりにくい真意が、余計に唐突なものに感じられてしまう。

武蔵が謎めいた男である、と他人から思われるのには、そうした要因もある。

この場では恐らく少数のみが、言葉と言葉の間に略された、彼なり論理を補完して武蔵の言を理解しうる。

秋蘭は、その内の一人だった


「荀彧直下の精鋭親衛隊では力量不足、と?」

「奴らの速さは捉えきれんよ、たぶん」


秋蘭は、武蔵がどういう男であるかは知っていた。

少なくとも、どれくらい兵法に通じているか、と、他者の力を測る“見切りの目”が、どの程度であるかくらいは。

ゆえに、その含蓄がわかる。

彼女もまた、余人には持ちえない、優れた眼を持っていた。


「ここから千を割いて援軍に向かわせるというのはどうだ?」

「大きな兵より小さな兵のが、都合の良い時もある。的が千居ても仕様が無い。千を無駄に失う事だけは避けたい」

「千の護衛よりもお前一人の方が確実性があると?」

「うん」

「…………」


涼しい顔で、とんでも無い事を言う。

曹操軍、という機構、そのものを否定しかねない発言だ。


「別に、曹操軍の防衛隊が、何の戦力にもならんと言っとるのじゃあ無い。大の兵には大の兵でやる戦い方がある。ただ、千と言っても、要は一人の集まりだ……奴らの囲いを突破し、あの速さに対応出来る者が含まれておらねば、意味が無い。逆にその能力を有している人間なら、一人を守るには一人でも事足りるという事。何より、機動力に掻き回されて戦力を分散させるのは、奴らの思うつぼ」

「…………」

「だったら、俺一人の方が良い。桂花の指揮がなけりゃあ、ここから何千か割いた所で、陥落は免れん。ようは桂花が討たれるか否か」


浮世離れした言だが。

この飄々とした物言い、この男の中には、この男なりの理があるという事。

そしてこの男は、決して根拠を無しに大言壮語を吐く性質ではないと、秋蘭は知っている。


「俺は、俺なりにそう考えた。それ以上はお前に任せる。どうする?」


美しい顎を、白魚の指が絡め取る。

怜悧なまなこを瞼で隠し、しばし、麗人は思案する。

そうして一拍の静寂の後――――――鷹の目の司令官は、決断を下した。






「落ち着いてー真桜ちゃん!! おーちーつーくーのー!!」

「事の真偽を確かめたい気持ちはわかるが、今ここで持ち場を離れるわけには……」

「落ち着いとる場合かァ!! 持ち場もヘチマもへったくれもあるかい、くそッたらァ!!」


白い肌を憤怒で染め上げる。激高する真桜を、凪と沙和がそれぞれ前後から、押さえ付けるように、あるいは抱き着く様にして制していた。

陶謙勢力の先鋒を早々に露払いし、本隊の徐州征伐を見送った趙雲以下、武蔵隊所属の精鋭“奇”兵。

次の出動に備えて、一足早く休息を取って野炊をしていた彼らに、徐州に攻め入った曹操本隊の戦いぶりを伝える報せが入ってきた。

民間人をも巻き込み、容赦の無い攻撃を加えている、と。


「ウチらは腹空かしとる子供らに飯食わす為に戦っとるんちゃうんか! 戦争で苦しんどる人間、まるごと助けるために兵を挙げたんとちゃうんか!! なんでなんも悪い事しとらんお百姓さんらを、殺さないとアカンねん!! 冗談やないで! いっぺん、大将に面と向かって話、付けてもらわんと納得出来ひんわ!!」


怒号と言うべき、金切り声が響いた。

こういう時、いつもこれ見よがしに耳を塞ぐ仕草を見せるのが、決まって趙雲だが――――――今は、ただ腕を組んで、幕舎の隅に座っていた。押し黙り、代わりにその、達者な口以上に物を言う、綺麗な顔を鋭く尖らせている。

曹操と言う人物は、合理にそぐわない事を嫌う性質の人間であったはずだ。名より実を取る。そういう人物。

名が実を生む、という事はありえるが。確かに、伝えられる情報が物語る、曹操軍の破壊力と容赦の無さは、四海の諸侯を震撼させるだろう。

それに、題目のみから考えれば、これはまさしく、反逆者を征討するという、漢帝国の戦に違いない。ゆえにこの征伐は、諸侯に曹操を討つ事の正当性を与えぬまま、曹操に与するか否か、という“曹操を中心に物事を考えさせる”状況を作り出した。

覇道競争に置いて、名の面のもたらす、その意味は大きい。ものごとは得てして、良評よりも悪評の方が遥かに速く、遠くまで飛ぶ。それも事実であろう。

が。

徐州の民の決定的な怨恨を買う――――――という、実の面の損失は、動かし難い。

徐州に巣食う、陶謙という反逆者を征討する以上は、その支配者から取り戻した漢の領土を、再び治めねばならない。その治めるべき地に住まう民まで、本気で攻め滅ぼしてどうするのか。


「ウチら、人助けるためにやっとるんちゃうんか? なんで罪もない人達を、いっぺんに殺さなアカンのや……!!」


この苛烈な攻めは、身内にも少なからず、戸惑いと反感をもたらすだろう。

現に、真桜のように。

良くも悪くも、“悪名”と引き換えだ。

何よりそれは、『戦乱の終結と国民の安堵』という、曹操軍の政治理念の根幹すら揺るがしかねない事ではないか……


「――――――俺は今初めて、あの曹操って大将が好きになったけどね」


しゃり、と、林檎が削れる音とともに。

その、男にしては甲高い、響くような声が飛んできた。


「それにしても、女ってのは男よりずっと即物的で自己中で薄情な生き物の癖に、どうしてこう、キレイ事が好きなのかな」


声の主は、面白げに見ていた。

ぎょろりと大きな目玉、尖った鼻、やや額の出っ張ったような小さな顔。

――――――ひと目で、餓鬼ん子だとわかる。

真桜を上目遣いで見ながら、はっきりそう言った。


「綺麗事やと……」

「それも、いかにも耳触りのよくて理想的な、とびっきりカユいヤツがね」


それは、幼少期に飢えを――――――つまりは、肉体が最も栄養を欲する時期を、深刻な栄養不良下で過ごした者の容姿的特徴。

大きくはなれなかった、線の細い骨格。それと不釣り合いで、ある種いびつな、内に絞り込まれた鞭のような筋肉、特に服の上からでも盛り上がりのわかる、発達した僧帽筋。まるで、細い骨を補強する、鎧のようにも思える。

今は、彼は飢えを知らない。背はもう、伸びる事はなかったが。

極々少なく、それも劣悪な栄養でも生命活動を維持するために、李通でも万億でもなかった嘗ての家無し子の細胞は、布が墨汁を瞬く間に吸い取るが如く、それをより貪欲に血肉として吸収する性質な物へと発達させた。

あるいは、たまたま李通がそういう体質の持ち主であり、それが故に生き残れたのか……それはわからないが。

その掌にすっぽり収まる程度の小さく、形の悪いかじりかけの林檎、それも、殆ど芯まで余す所なく、自らの栄養に変えてしまえるのだろう。


「どういう意味やぁ、李通!」

「そのまんまの意味」


片膝だけ立てた李通、寝かした左膝の方を枕に、ざんばらの長い髪を銀の糸のように散らして、陳恭が眠っていた。

その上で、甘さの香る小さな顔が、面白そうに、可笑しそうに、ニタニタ笑って、上目遣いで、仲間である女を見ていた。


「お前だってついさっき、敵兵のオッサンを散々ぶっ殺してきた帰りじゃん。今更、殺す相手が兵だろうが民だろうが、どっちになろうが変わんないだろ?」

「……ッ!」

「それとも、戦争だから許される、と? 兵士だったら特別? ははは。そりゃあ、俺から見たって手前勝手」


李通が嗤うと、ケラケラという音がする。

それは乾いていて、よく、遠くまで届く。


「国家ってもんが、支配と搾取に都合のいい法だの掟だのの取り決めをしてて、それに何の疑いも持ってないから、そう思えるんであって。冷静に考えりゃ、所詮は人殺しに差なんてねえよ。誰だって腹は減るんだもん」


かしゅっ、と、また果肉がはじけた。

痩せた林檎、にもかかわらず。不似合いに、瑞々しい音がする。


「味方と、そうじゃない奴が居るだけさ。殺してもいい奴とダメな奴が居るわけじゃないし、まして善い奴と悪い奴が居るわけじゃない。それに、味方とそうじゃない奴ってのは、カンタンにひっくり返っちまう」

「…………」

「例えば、俺とお前は味方だけど、俺が今、お前に斬り掛ったら、お前は俺の敵になるよね。そしてそのキッカケは、俺のキマグレでも十分だって事。逆に、『なんとなく、気分で』って、そんな理由で俺に斬り掛ってくる見ず知らずの誰かだって、探せばどっかに居るだろよ。人殺しの意味だの理由だのなんて、その程度のコトでも十分だって事」

「…………何が言いたい?」

「何が? わっかんねえかなぁ」


柳のような眉が面倒くさそうに顰められ、左手が、切り揃えられた黒い髪を掻きまぜる。


「何十万人も死んでるこのご時世で、人殺しにいちいち理由なんかいらねえってんだよ。生きるか死ぬかが重要で、キッカケは所詮キッカケでしかない。死んだら、結局、死んだ奴がトロいだけだってことじゃんか」

「…………ッ!!」


真桜は、声をひとつも上げる事は無かった。

代わりに烈火のごとく身体が動いて、自らを拘束している凪と沙和の腕を、バツッと振りほどいた。


「ふざけんなッ!! ウチはなあ、その何十万を一人でも減らそう思って身体と命、張っとんねん!! 何も悪い事しとらん子供が仰山死んどんねんぞ!! 毎日真面目に働いとって、お父んもお母んも必死に生きとって、それでもおまんま食われへんで、今日みたいに理不尽に死ぬんやで!? それを仕方ないで、仕方ないで済ませられんのかぁ、李通ぅ!!」


空気を切るような、針金のように張りつめた怒号だった。真桜の顔は、怒りと悲壮さに満ちていた。

――――――李通は、にやっと、また、嗤った。


「理不尽、ね」


白い歯を見せながら、李通が掌の林檎を見遣る。

齧って果肉の剥き出しになった所が、空気に触れて、酸化して色濃く変色している。

歯形のついた、いびつな林檎。


「例えばこのリンゴをさ……今、飢えてる子供にあげるとする。そうすると俺の腹が少し空く代わりに、今日生き残るはずだった全員ぷらす、もう一人多く生き残れるね。でも、それは元々一人しか生きられなかったのに、二人も生き残っちゃう、って事なんだよ」

「…………!?」


真桜が、真意を計りかねる、という顔をした。

――――――それのどこが悪い、理想じゃないか

そんな風に、問うている気がした。

李通は、嗤っている。


「ギリギリ、一人しか生きられる分の食料しかないのに、だぜ? そこで二人生き残っちゃったら、次の日には二人とも死ぬしかねえじゃん。それか二人で殺し合って、結局一人だけ生き残るかだ。そして俺も空いた腹の分、次の日は多く飯を食わなきゃならない。そしたら結局、次の日も生き残れるはずだった一人が余分に多く、一人死ぬ。逆に俺が一人、今ここで誰かぶっ殺したら、今日飢え死にする筈だった、誰かは一人、生き延びるのさ」


李通は――――――また、林檎をひとつ、齧った。


「わかる? 結局、俺らが何をしようがきっちり、“ばらんす”は取れてるってコトさ。お前が――――――今日殺した兵隊のおっさんの奥さんと子供は、遠からず、飢えて死ぬよ。そしてその分だけ、別の誰かが生き残る」

「…………ッ!!」

「大体、兵隊は殺しても良くて民間人はダメ、って、誰がそう決めたのか考えてみろよ。おかしな話だって気付くぜ。俺が剣じゃなくて鍬持ってたとしても、俺が俺ってコトは変わんないじゃん。兵から民になったからって、急に善良で殺しちゃダメな人間って事になるのかよ。ンなわけねーだろ? おっさんだってそうさ。兵士だろうが民草だろうが、おっさんがおっさんだってコトは同じだ。お前が兵士を殺すのは、民草殺すのと一緒だよ。何も差なんか無い。そもそも、罪の無い奴なんか――――――いや。罪のある人間なんているのか?」


芯まで齧る。暈けた林檎。

種まで砕く。すりつぶし、食らう。


「人間が人間殺すのに、良いも悪いも差もねえよ。区別しようとするな。それとも……戦争だから、ヘイワを築くためだから、“仕方ない”のか?」

「ッ!!」


――――――結局お前も、仕方ないで済ましてるじゃねえか。

人の食い物取るのが悪い事なら、全員、死ぬしかないし。


「……何、今気付いたってツラしてんだよ。ウソ吐くな。ガクモンやったことあんだろ? 俺と違って。そんな百周遅れの事は、ずっと前から知ってたはずだ」


笑みが消えた。

かといって怒りも無い。皿のような、中間色の李通の眼だった。


「そういうフリしてただけだろ? ウソ吐いてたのさ。俺はウソつきは嫌いだよ。ウソ吐いた事ないもん、俺」


蔕まで、食らう。

固い。甘みなど有るはずもなく。

有るはずもなく、であるがそれは、やけに瑞々しく、李通の唇を潤していて。


「…………」

「逆にさ。お前の言うように戦争の無い平和な世の中だったら、俺はきっと死んでるし。人を殺してもいい世の中だから、人を殺して生き残れた。やっぱ、全体でみればキッチリ取れてるんだよな。ばらんすってのは」


右手には、ほのかな甘味が残っていた。

残った果汁、口付けでもするように、手首に垂れたそれを、自ら舐め取った。


「それともまさか、民草ってヤツが民草ってだけで、皆善良で、無条件に救われるべき存在だ、なんて、思ってるわけじゃないよね。世の中なんて、もっと単純だよ。単純で平等。罪だの罰だのも無いし、区別や差別も本当は無いんだ。でも、それじゃ都合が悪いってワガママなヤツがいるから、これはこうだからこうあるべき、って、色々テイギを決めるのさ。勝手にね。だから、小難しくなっちまう。それはお互いに矛盾しあうから、深く考えりゃ考えるほど、ワケわかんなくなっちまう。それじゃ小難しくて結局理解出来ねえから、人間は、すてれおたいぷ……つーの? なんて言うのかは知らねえけど、とにかく、そういう型に当て嵌めるようなマネをして、元々ワカり易かったモンをわざわざイビツに組み直して、手前勝手な理屈を作っちゃうんだよ。それで理解した気になってる。手前勝手同士だから、結局、上手くハマらないスキマに出来るのは理不尽だ。元々、理不尽なんて何もなくて、綺麗に収まっていたモノをさ」


左手で、陳恭の髪を撫でる。

自らの長髪に埋もれた顔。心地良さそうな寝顔が一瞬、しかめられ、しかし、寝息はそのまま、再び、穏やかに。


「アイツらは、俺にも恭にも、一杯の豚汁だって奢ってくれた事は無いぜ。食おうとした奴もいたし、人攫いに売ろうとした奴もいた。俺たちだって、“善良で哀れな子供達”ってやつだったのにな。俺達が腹が空き過ぎて動けなくなっても、助けてやろうなんてリッパな奴は居なかったさ。遠巻きにクスクス笑ってるか、知らんぷりか、ハゲ鷹みてえにくたばるまで待ってるかのどれかだった」


もし、平和ってやつだったなら、飢え死にするか死刑になるかでくたばってるさ。

誰も助けちゃくれないし。

結局、自分でどうにかするしかないんだ。

その事に関しちゃ、皆、同条件なハズなのによ。


「別に、助けてほしいなんて思った事ないけど」


李通は嗤って、再び真桜を見上げる。

真桜の、普段の人懐っこい表情、しかしそれは、今はみじんもなく、ただ、ひたすらに険しい。


「所詮、人殺しなんて、食う寝る遊ぶの延長の事に、深い理由はいらないよ。たったひとつの、しんぷるなコト、ってヤツさ。まして善悪なんて……」


『ものを食うのは、強欲の象徴で悪行だから断食しなきゃいけません』なんて言い出したら、そいつはカルトだろ。

――――――俺にとっちゃ、お前も似たようなもんさ。

俺はわかりやすいのが好きなんだ。字が書けねえから。

元々は白くてすらっとした一本の芯みたいに、わかりやすくて説明し易いモンなのに、上からゴテゴテと理屈で塗って固めていたら、わかりにくくてしょうがねえ。


「そうだな、試しに真桜、死んでみれば? いや――――――俺が殺ろうか」


李通の笑みは、違和のある笑み。

故に、笑うのではなく、嗤うのだ。

それは、柑橘類のように涼やかな顔で、鍵盤楽器の高音のように甘やかな声で、さも面白そうに表情を歪めながら、ひゃらひゃらと、まるで14歳のように白い歯を見せるのに。

その眼の奥の奥だけは、いつも和んではいないからだ。


「李通」


低い。それでいて、耳心地が良い。

それは凛とした、女の声。


「私が殺すぞ。お前を。今、ここで」


軽口は、一切許さず――――――凪の両目が射抜いていた。

さっきまで真桜を抑えていた凪が、予兆も無く、今は真桜の前に一歩出ていた。

そして、構えも取らず、激高もせず、ただ、一部の妥協も無く、睨みつけていた。

静かに、しかし強い、眼と声だった。拳こそ作られてはいないが――――――触れれば、たちまち肌が切れる鋭さを備えている事は、ありありと伝わってきた。十分な程。


「…………」


李通の膝の上で、むくっ、と、もたげてくる頭があった。

長い髪が、すらーっと、簾のように流れてくる。

その隙間、顔を覆う髪の毛と髪の毛の間から、眠そうな、そして非常に鋭利な眼が、凪を迎え撃っていた。

その場に居る者、皆、もれなく武人である――――――故に、にわかに、ぱりッと立ちこめた、その場の空気の緊張度、殺気の濃度、それは、肌でわかった。


「こういう事さ、真桜」


火種をころがした本人は、烏の眼。

ニヤニヤと、甘い顔が薄気味悪く歪んだ。白い糸切り歯が垣間見えた。


「お前が殺したおっさんにも……一人くらい、お前の為に怒る、凪や沙和みたいなヤツが居たかもね」


空気が落ちてくるような、沈黙が訪れた。

陳恭は、再び目をとろんとさせて、起こした上体をゆっくり、また元の場所まで沈めて、ぽすり、と、収まった。


「李通、ほざきついでに、ほざくが良い」


これまで、無言と傍観者に徹していた星がはじめて、口を開いた。

壁に背を預け、立て膝をついたまま。


「――――――為政者・曹操の目指す次代とは!?」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「――――――俺が知るワケねえじゃん」


美しい切れ目で見据え、パリッとした艶のある声を飛ばした。

しかし。

しばしの沈黙の後、李通から放たれたのは、なんとも無碍なセリフだった。


「俺にあの嬢ちゃんの考えてるコトがわかるワケねーだろ。俺は俺だもん。つーかさ、1人分の食いもんしかない所に100人も集まってるんだから、死ぬの当たり前なんだって。ほっといたって変わんないさ」

「……しゃーから、どうにかしてウチらはそれを変える為に戦っとるんやろ!?」

「だぁからさー……」


既に星は、彼らの話は聞いてはいなかった。

――――――ある仮説に辿り着いていたから。


(……例えば、大きな牧場がある。土地は痩せ、草は病み、飼料の蓄えは僅か100頭分。対して、住まう牛は1万頭。収益など見込める筈もなく、このままでは自らを自らが食い潰すのみ)


もし、この牧場を建て直す為には、どうすればいいのか?

――――――殺すしかない、牛を。

片っ端から屠殺して、1万の牛が100頭以下になるまで選定するしか無い。

それも、荒廃した土壌で昼夜も無く働き、およそ、労働対価に見合わぬ劣悪な富であろうとも耐えきれる、強くて優れ、決して牛飼いに叛かぬ奴隷のような牛――――――でなければならない。

ある日の余暇を、作品を作って潰していた武蔵が、肩越しに覗き込んできた星に言っていた事がある。

像を彫る時、途中で失敗したら、もう手直しは不可能だと。

無理にそのまま騙し騙し繕おうとしても、結局、いびつなものになってしまう。だから、そうなってしまったら一旦全てを放棄して、また一から作り直す他に無いのだという。

膨大な赤字を帳消しにし、建て直すためには一度、全てを放棄して、改めて作り直す以外にやりようはない。

でなければ、巨大になりすぎた自らの自重に押しつぶされ、自壊するしかないからだ。


(この国は、あまりにも人間が多すぎる……いや、なりすぎた……長年の政治腐敗と戦乱で食い潰されたこの国の富では、中華に住まう全ての人間を養うには、あまりにも足りなすぎる……)


今から百年前、後漢の総人口は六千万を数えた。

しかし現在、漢帝国の――――――現在は王允が牛耳っている中央政府の支配圏のみを指すが――――――把握している総人口は。

たった、三十万人である。曹操の支配している兗州の総市民人口が、凡そ五万。屯田民を足しても七万弱である。

これは、人口の絶対数が減ったのではなく、戸籍に乗り、税の対象として政府に把握されている国民の数が、その程度である、という事だ。

つまり、残りの5965万人が――――――国民ではないという事。


(百人に一人、どころの割合では無い。それほどの膨大な人間が、明日の保証も無いまま放りだされている。死んでいるのか生きているのかすらも、定かではない)


1000人の人間が住み、1人分の食料しか収穫できない村を運営するには……

もし。

家畜と同じように、人間を選定する事が出来たならば。

その村も、最初はたった数人から始まった筈だ。

もし。

全てを一度、無に帰し、はじめの状態から作り直そうと考える者が、現れたとしたら。


(馬鹿な!!)


その突拍子もない夢想に待ったをかけたのは、ほかならぬ、星自身であった。


(たった一個の人間の意思で、“それ”が行われるなど……始皇帝ですら、そんな事はしなかった!)


数百万、あるいは数千万にも上るであろう規模の、人口調整。その末に再建される新たな国家、という、構想。

その土台は一体、どれほどの血屍で塗り固められる事になるのか。

否、問題はそこではない、問題なのは――――――

“人口を調整する”という、発想そのものだ。

数十万規模の一斉虐殺自体は、過去に前例がある。それはあくまで、敵を滅ぼすという、攻撃意識の延長線上のもので、常識的発想から抜け出したものではない。

しかし。

天下――――――中華と呼ばれる範域に住まう、全ての人間を入れ替えてしまおう等と考える人間は。


(……馬鹿げている)


星は、自らそう、ひとりごちた。

馬鹿げた夢想、むしろ、空想。杞憂も良い所。実際にはそんな事は考えられない。

――――――だが。

この、徐州侵攻。逸早く投降した者達は赦された。前哨戦で降伏した砦の兵士たちなどは、その家族も含め安全は保証済みである。

だが、大地に住むのは、兵士と市民のみではないのだ。

官軍の支配から外れ、自分たちで所有する土地の自治を行っている地主、そして、その小作として働く私有民。それらが持つ私兵。

また、官軍に所属していても、正式な軍人では無い、小作農民の次男三男、それらの分家筋から取り立てられている、軍属の者。所謂、義勇兵だが。

そうした、戸籍を持たない者達が、現状では圧倒的に大多数。それらは全て、容赦なく攻撃の対象となったであろう。

そして、抗戦する事を選んだ首都・下邳は、兵士も市民も区別なく、恐らくはその殆どが――――――


(もしや、我々は……)


史上、前例を見ぬ。

……もしや、そういう、とてつもなく推し量りがたい、怪物の懐に居るのではないか?


「――――――急報でございます!!」


ひとつの区切りをつける様に飛び込んできたのは、伝令。


「涼州軍が、て、帝都を侵略致しましたっ!! さらに直進し、我らが領内へ進軍中!! 急ぎ兵を纏め、全軍、兗州へ引き返すとの曹閣下からのご命令!! すっ、速やかに、兵将は用意されたしとの事!!」


それぞれ、思い思いに伝令を向いた面々の心が、ひとつになる。

かれらの動物的直感と、軍人としての速度計を、一気に底まで踏み込ませた。

それは、伝令の息を弾ませ、金切り声で叫ぶようにまくし立てる、その必死さが心玉に届いたからではなく。

結束を高める条件は、意思の一致である。

この瞬間、彼らの意思は一つである。






「あれが、双子の夏侯の片割れか」


轟音を巻いて、旋風、それすらも置き去りにして――――――黒い影は疾駆した。

先頭を駆るアハルテケ、前脚を肩と並行になるほど、高く振り上げて軽やかに、大地を縮める。

背負われた貴公子、付き従う千の猛者。すべて、目指す所は、一点。


(――――――んン? ……手堅い奴だ)


灰色の双眸は、眼前、地平線の上の軍隊が、一斉に射撃の準備をするのを捉える。それより、一秒遅れで、距離にして約17m遅れて、千の全てが、その確認を完了した。

騎馬の群れは、それをみとめた上で、なお、速度を増す。

――――――笑う、とは。

獣が牙を剥く行為が、その原点であるという。


「だが…………佳イ女だ」


銀色の刀身を咥え、腰元の、古ぼけた子供用の矢筒から、一矢、取り出す。

猛り狂うような速度を持った馬上で、弓を引く。

一斉に構え終わって、此方を待ち構えている、敵軍の、厚く組まれた隊列の中。高順の矢じりの先、白銀の瞳の先に――――――こちらの眉間を狙っている、氷のように動かぬ、美しい鷹の眼がある。

皓らな歯が、妖しく覗いた。

視線を射抜き合わせながら。高順は、笑った。


家畜人ヤプーという鬼作がある。

マニアには有名な、色々とブッ飛んじゃってる怪作ですが、私にとっては表裏一体の属性の作品です。

いうなれば、猟奇的怪奇エロ小説の珠玉とでも言うべき作品でして、マゾヒズムの粋を集めたようなイっちゃってる小説です。

で、私自身の好みについて分かり易く申しますと、

例えば、荒川のマリアさん居ますよね。ああいう美しく圧倒的な女王様を、全裸に剥いて首輪を掛けさせ、這い蹲らせて靴の踵をしゃぶらせ、睡眠食事排泄その他を一切管理したい、雌犬のように舌を口の外に突き出させ、私の許可無しには口を閉じる事すら許さないというレベルで支配し、私の楽しみという、そのただ一点の為に生かされる生物としたい。

そういう嗜好なものですから、日本人男性が家畜人ヤプーと成り果て、科学によって用途別に加工される肉人形となっているヤプーの世界は、嗜好の上では全く逆なわけですが、良く考えると、性質は酷似しているという事に気付きます。

つまり、相手の全てを支配して屈服させたいサディズムと、全てを否定され虐げられたいマゾヒズムは、ベクトルが真逆であるにしろ、表裏一体なのです。真逆が故に同種。


だから、自分の趣味の全く逆をいけば、自分と対極にある物語を理解、あるいは創造することも可能なのではないか?

あの谷崎師匠も、ひょっとしたら本質はドSだったのかも。

そう考えれば、世界が広がるような気がします。

そういう、広く深い度量を持って、小説を愛好していきたいですね。

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