中原動乱編・七十話――――――「狼たちは、ただ、静かに」
「報告いたします! 攻城部隊が東門を攻略! 北門、南門の陣の占領を完了しました!」
「北に展開していた遊撃隊が、敵の援軍らしき砂塵を発見! 進路から見るに、恐らくは東阿に駐屯していた支軍から派遣された部隊であるとの事!」
「新手は、華雄の騎馬隊で撃墜なさい。捕らえた捕虜の様子はどう?」
「はっ。戦傷の軽重には個人差がありますが、いずれの兵も我らの攻撃によって、気力の面は尽き果てており、憔悴しきっております」
「そう。ならば、降伏か否かの選択のみを、簡潔に問いなさい。降伏する者には衣類と毛布と食事を与え、躊躇うものは速やかに処理せよ」
「はっ」
西門を突破し、包囲軍の中でいち早く城内に入った先陣は既に占領地帯に陣を張り、それを拠点として兵を城内に送り込み、下邳完全攻略の戦略を着々と進めていた。
曹操は自らその占領陣地に入り、馬上のまま、矢継ぎ早に飛び込んでくる伝令のもたらす情報を処理、同時に指示を持たせてまた行かせ、さながら、次々と絶えず血を巡らせ続ける心臓の役割となって、策を回転させ続けている。
「資源、物資の徴収は後回しで良いわ。それよりも、各役所に存在する公文書の接収を最優先になさい。特に、市民の戸籍と兵役に従事する人民についての書類を急ぎでね」
「報告いたします! 郊外に避難していた、下邳の住民の一団を遊撃隊が捕えました!」
「あら」
曹操の声色が、ほんの少しだけ高くなった。
傍らの郭嘉が沈黙したまま、自らの小顔に掛けた眼鏡のつるを、長い指でそっと持ち上げる。
「兵役に就いた者の出身に関しては、まだすべてを把握出来てはいないのよね?」
「はっ。兵士の仔細に関して記した文書は、現在、回収中であります」
「なら、それが見つかるまでは、生き残った住民は保護しておきなさい」
「はっ。情報が集まった後は、どの様に?」
「降伏した兵の家族は、兗州に移住させ、田畑と豚を貸し与えなさい。」
報告の最中も、曹操は次々にもたらされる書類に目を通している。
それらに目を落としながら、遣いの者の目を見ないまま、曹操は告げた。
「反抗する者は、その兵の三族、老母から乳飲み子まで差別なく、ことごとく皆殺しになさい」
「っ…………」
「あら、聞こえなかったかしら?」
「……承知いたしました。そのように」
はっきりと躊躇いとは取れないという程度の短い間、言葉を止めたその兵士は、しかし、会話自体を途切れさす事は無く、一度、深めに頭を下げると、すぐに礼を解いて立ち上がり、早馬に乗って駆けて行く。
曹操の空色の瞳が、やや、その後ろ姿を見つめる様にして留まった。
「風はどう思う?」
「はいー?」
主語の無い、問い。唐突極まりない問いだ。
程昱はまどろみ交じりの様な表情を変えぬまま、ぽわりと宙に浮かんだ音符の様な、いつもの声音で返事をした。
「あのコは、命令を実行できるかしらね?」
「個人の資質によるものかとー」
「あなたは憲兵を使って、全兵士の動向をくまなく掴んでおきなさい。命令不服従者、ひいては殺害・処刑を少しでも躊躇う者はすぐに罷免し、屯田の役に就けなさい」
「はいー」
愛らしい少女の顔で、物憂い婦人のような眼をしながら、再び書面に目を移す。
小さな象牙細工の指が、白陶器のような顎を、そっと、這う。
「華琳様」
銀縁の眼鏡の奥に、怜悧に光る切れ目を光らせたのは、郭嘉。
「いささか、解せませぬ。何ゆえに、徐州の民をここまで追い詰めるのです?」
「敵を追い詰めない軍隊があるのかしら?」
「董卓を一両日中に捕える策がございます」
書類に目を落としたままだった曹操が、初めて郭嘉を見た。
面白げに。
「先の大戦の首魁、董卓を? 面白い、どういう事か、詳しく聞きたいわね」
愉快そうに、そして底まで見透かせない笑顔を浮かべて、曹操は問う。
――――――その程度の情報は、既に手に入れているであろうに。
(そして、それ故の、この徐州出征であろうに)
全て知り尽くした上で、我は何も知らぬ存ぜぬ、という体で、私に策を述べさせようとしている。
そして、私がどのような顔、どのような語り口調でそれを論ずるかを、そしてその聞こえようを楽しんでいる。
全く持って、人の悪い我が主―――――――だが。
それは別段、私の舌の障りにはならない。
「間諜の情報によりますれば、陶謙の下に庇護されておる劉備、その元に、かの董卓が匿われているとのこと」
郭嘉は、わざわざ一度眼鏡を上げて直した後、いつもと全く変わらぬ、あの平坦な調子の語気で語りはじめる。
「まさか董卓の素性を、陶謙に明かしておるわけがありますまい。となれば、かの身柄は陶謙の直轄下にある此処、下邳にはあらず、劉備が内々で抱き込んでいるはず。もっと言ってしまえば、劉備の本軍は下邳には駐屯しては居ないでしょう」
「あら、どうしてそう思うの?」
「反董卓連合の折りに見た劉備軍の精強さを鑑みれば、この下邳の抵抗は余りに惰弱。また、劉備は勇名があり、その下には関羽・張飛という豪傑が付き従っております。これらを纏めて一処に置いておけば、その声望、日増しに強くなり、やがて持て余す事になるは必定、私が陶謙であれば、これらは別々に使います」
「ふふっ、なるほど、あの狸らしい――――――そして、実に稟らしいわね」
意地が悪いという皮肉か、いや、単に面白がってからかっているだけなのか。
曹操は、愉快そうに笑う。
郭嘉はひとつ、眼鏡のつがいを中指で押さえて上げ、抑揚なく、淡々と言葉を続けた。
「そして私の推測では、東門を固める部隊こそ、劉備とその近衛隊であり、東阿に駐屯する支軍が、劉備の本軍と思われます」
「ほう、その根拠は?」
「東門の敵に関しましては、抵抗の激しさがまず、第一ですが……戦い方や隊列の組み方が、他の兵と異なります。そして門を死守する前曲の動きのみが独特であり、その背後に控える兵の動きがまた、異なる……これは前曲が劉備の指揮する直属の兵であり、他の兵は陶謙から借り受けたものと見受けられます」
「ふむ……では、東阿に関しての所見は?」
「あからさまな反応の違いです。これまでに攻略した陶謙の他の支軍・支城は、打って出よう等とはせず、あるいは戦う前に降伏するものばかりでした。東阿の兵はそれとは逆に、最も激戦であるこの下邳の戦上に、真っ先に単軍で現れました。かの兵の目的は、早々に東、曲陽に逃れた陶謙の援護に非ず、下邳に留まって孤軍で戦う劉備の救援に他なりません」
「なるほど。その行動の速さと勇敢さ、つまりは劉備の切り離された本軍であり――――――関羽か」
「左様に御座います。となれば、劉備の匿う董卓の居場所も、自ずとわかるというもの」
劉備の庇護下に居る董卓、恐らくは身分を秘匿しているに違いない。
よって、陶謙の膝元に置いておくことはあり得ない。となれば、董卓が匿われているのは切り離された本軍の方である。
つまりは――――――
「華琳様。この郭嘉に趙雲以下、武蔵隊所属の精鋭純兵をお貸し頂けますれば、敵味方最小の被害で劉備本軍の根拠地・東阿を押さえ、董卓の身柄を拘束してまいりましょう。それをお認め頂ければ、宙に浮いた敵の援軍も撃破し、関羽をも捕えて見せまする」
郭嘉は抱拳し、胸を反らすようにして、馬上の曹操に進言する。
強く張った声で、結論まで論じた自らの弁舌の勢いを止めずに、さらに策を述べ上げる。
「奇しくも、敵援軍の遊撃に向かわせた華雄殿は、関羽に対し並みならぬ拘りを持っているとか。敵援軍を関羽が率いている事を明らかにした上で攻撃を命じれば、目覚ましい闘志を見せてくれるでしょう。その間、華琳様にはこのまま本隊を指揮して下邳を占領していただき、私は別動隊を率いて東阿を落とします。空の支城一つ、数百の手勢であるとて、武蔵指導下の兵士達の練度を鑑みれば、落とすのは造作もありますまい。しかる後、私は東阿支軍の退路を断ち、華琳様は華雄隊とともに敵援軍を挟み撃ち、包囲殲滅して頂きます。この策であれば、数日とかからず、下邳近郊の敵勢力を一掃し、さらには逃げた陶謙をも降伏させられましょう。ひいては、劉備・関羽、そして董卓も華琳様の御前に」
一気に喋り切ると、郭嘉は少し顎を引いて、曹操の眼を真っ直ぐに見遣った。
この策の肝は、一刻も早いこの戦の決着。
――――――つまりは、曹操軍による徐州の大進攻をなるべく早く終わらせること。
曹操は目的の為なら手段を選ばない。欲したもののためなら、どんな犠牲も破壊も厭わない。
たった一人の人間を探し出す事が目的ならば、文字通り草の根を分けてでも、その者が隠れ蓑に出来そうなもの、すべて滅ぼすくらいの事は、やる。
たとえ、この徐州の民のことごとくを死体の山に変えて、この地を根こそぎ、禿山と化そうとも――――――
即ち、この戦の戦争目的とは。
(真の意図は陶謙の討伐ではなく、董卓の首を獲る事!)
郭嘉は、曹操の真意を情報・状況からそう分析した。
先の大戦の首魁・董卓の首印を挙げる――――――それは、次代の牽引役として名乗りを上げる“覇業”という事業において、非常に巨大な意味を持つ。群雄割拠の中で、求心力を高め、頭一つ抜け出すために、これ以上の札は無い。
しかし、徐州にあるたった一人を討つために、その所在がわからないければ、行かん如何すべきか?
だったら全員殺せばいい、徐州に住まうもの、悉く。
曹操は、それが出来る。そういう、余人には出来ぬ決断を、迷いなく行える人物である事を、郭嘉は知っている。
しかし、軍師と言う生き物の役割は、主の気宇に理知と合理の観点を加え、大局的に事象を判断して舵を執る航海士である。
徐州の大虐殺、それはあまりに危険度が高い。董卓を討って天下に名乗りを挙げる前に、人心を失い曹操の名が地に落ちるだろう。また、治めるべき民草を滅ぼしてしまっては、この肥沃な徐州の大地も、焦土と変わり果てる他、なくなる。
それを避けるための、速やかな目標の補足と攻略――――――郭嘉の頭脳はそこまで見切り、答えを導き出していた。
「ふーむ、そうね…………」
眼鏡の奥で光る、郭嘉の切れ目が曹操の横顔を刺す。
強いまなざしの向こうにある、小さな顔は、白い肌によく映える、紅を塗ったような唇に人差し指を置いて、親指と中指で顎をきゅっと挟む。
それはまるで、郭嘉の策を口の中で転がして、味利きを試みているかの如く。いかにも、といった思案の仕草で、そして少し、面白そうに。
少女の顔で、悪戯っぽく。
「稟は、皆に好かれたいのかしら? 誰からも嫌われたくないと思ってる?」
「は?」
「風はどう思う?」
「……そうですねー、なるべく敵は、多くは無い方が良いかな、とは思いますがー」
「ふふっ」
思いがけない問いを問われた郭嘉は、拍子を抜かれたような顔をして、逆に聞き返す。
その間に、程昱はいつもの調子で、いつものように眠たげな表情で、そつなく答えていた。
しかしそこには、一瞬だけちらりと思索の間合いがあり、それに曹操の碧い目はきらりと光って、そして、笑った。
「兵を動かせば人が死ぬ。それは、料理を食べれば唇が汚れるのと同じくらいの必然よ」
水あめを融かした様な声、それが少し、落ちた。
内側から滲んできたのは、毒気、怖さ。
「為政者が民に愛されるなどとは思わないことね。政治家などと云うものは、感謝よりも怨念を纏うものだと、歴史が決めているものよ。それを誤魔化す者に、政を司る事は出来ない。人が死ぬのを承知でやる以上、そこに生まれる恨み辛み、怨嗟と憎しみの声に対して耳を塞ぐ者は、王としての資格は無いのよ」
甘い声が、違って聞こえる。
人形の様な、愛くるしい姿形は変わらない。
「董卓などは捨て置きなさい、それよりも」
流し眼が糸を引く。
さりげない所作にも、深く射ってくる力がある。
「曹操と陶謙の戦がどうであったか、曹操の軍は陶謙の民をどうしたか。それを余すところなく、全土の至る所に広めなさい」
「っ! す、すべてをでございますか?」
狼狽する、郭嘉。
曹操はあくまで、涼しげ。
「そう。破軍、虐殺、ことごとくを。董卓の事や無駄な大義名分などは省き、事実と事象のみを風聞としなさい。たとえ、聖者であろうとも生かさぬ、徹底した殲滅を」
稟が、目と口を大きく開いている。
華琳はまるで、お茶請けの菓子をつまむかのように、簡単に、こともなげに、そう言った。
(どんな悪名も意に介す事は無い!)
郭嘉はその愛くるしさを全く損なわない、昼下がりのような横顔に、曹操の器を見た。
その表情で――――――郭嘉は、眼の前の少女の器が、自らの才幹を、遥かに超える事を知る。
(この方の目的は、董卓という一個人の首などではなかった! まして陶謙などは問題ではない! “陶謙”という勢力、漢に叛逆した徐州という“那”を殲滅する事、その行為そのものに意義がある!)
董卓の首、陶謙の首、それらを挙げる事による功績、つまりは曹操という群雄に生ずる“利”、曹操の眼中には、そんなものは存在していない。
曹操の目的は、“無法”に纏わる悉くを、跡形もなく叩き潰すという、行為そのもの。
つまりは、漢というこの国家の法、それに叛いたものがどうなるかという――――――見せしめだ。
(この苛烈極まりない討伐、わが軍の精強さと容赦のなさは、漢帝国を無視し、各地で乱を繰り返す群雄どもを震え上がらせるだろう!)
そして同時に、世間は知る。誰が断罪者、審判を下す者であり、覇者足り得るのか、を。
(この天災の如き戦火の風聞は、曹孟徳の悪名と引き換えに、全土に散らばる謀叛の火種を尽く凍てつかせる!)
そして曹操は、その引き換えをまるで恐れない。郭嘉の発想を超え、その頭脳を真に戦慄させたものは、何よりも、その神経。
(溢れ返るであろう怨念や反発など、この方はまるで恐れはしない。天下の人心、いや、やがてこの大虐殺を知るであろう、歴史や後世すら、ものの意に介さず、まして、天意など!)
郭嘉は初めから、悪名というものをリスクとしか捉えていなかった。
いかに非難、誹謗を避けるか、いかに自らの行いを正当化するか、それは政治家の極めて妥当かつ常識的な見解であろう。
ゆえに郭嘉は、『曹操は自らの声望を犠牲にしてでも、董卓の首に価値を見出している』と判断し、董卓を迅速に捕える策を提示した。傷をなるべく少なく、目的を速やかに完遂するという種の戦略である。
さらに、曹操が執心している人材・関羽の存在を散らして、曹操が自らの策に興味を持つように仕向けた。
しかし、この曹操の前では、そんなものは脆弱な小細工でしかない、いや、そもそも、見当自体が違っていたのだ。
(……天下は、その悪名を持って曹操を知る。そして華琳様は、自らの悪名を持って存在とやり方を表示し、万民に問いかけるつもりなのだ)
曹操という英雄は、発想、そのものから異なっていた。曹操にとってはそれは犠牲ではない、自らに寄せられる恨みや恐れ、悪名も、すべて含めて覇業なのだ。
名君、暴君、暗君、明君の区別なしに、王者と呼ばれてきた者たち。この中華に君臨してきた為政者が、例外なく行ってきたやり方を、事も無げに否定した。
劉邦が功臣に対して用済みとばかりに血の粛清を行った時、劉秀が西涼の民を侵略してその文化を奪った時、やはり悪名を受容しようとはせず、覆い隠し、反抗分子は酷吏で締め上げ、大義名分を作り上げて自らの事業を正当化した。彼らもまた、そのやり方の例外ではなかった。
にも、関わらず。
曹操は、古の為政者たちが、大義名分によって塗り固め紛らわし、あらゆる粉飾をもって誤魔化そうとしてきたそれを、公然と肯定し、衆目に晒す。人の死、絶対悪、を。
むしろ、それを当然のものと割り切り、怨嗟も咎めも憚らず、何の躊躇もなく執行する。
そして、徐州をその審判にかけるという事は――――――そのやり方を、いずれは全土に及ぼすという、何より雄弁な宣言に他ならなかった。
そして、その軍がもたらす災厄の如き屍の山を突き付けて、天下に問うのだ。
曹操に従うか、否か、と。
――――――稟の横隔膜の裏側から、ぶるり、と震えが立ち上った。
曹操とは。
こういう器であったか。
この徐州に流れる血が多ければ多いほど、そして曹操が被る悪名が大きければ大きいほど、その“問い”は中華の隅々にまで飛んでゆくだろう、人々の恐れとともに。
悪名すらも飲み込む、その器。
「風」
「はい」
「今回の戦で、最も忠実に任務を行い、最も躊躇い無く虐殺を実行した者たちには、十分な恩賞と磨き抜かれた鎧を与え、以後、精鋭として扱いなさい」
「……華琳様は、冒頓単于となる事をお望みですか?」
「どう理屈を付けた所で、兵事は凶事」
寄せるように、自らの顔の側面にそっと置かれた、象牙細工の指。
とん、と、人差し指がこめかみを柔らかく叩いた。
「誤魔化す人は、私は嫌いよ」
敵、のみならず、味方にまで、否、そもそもその区別なく、自らと交わる者、悉くすべてに、それを問う。
――――――それは、この中華の歴史上でかつてない、異質にして最も苛烈な『法家の為政者』の出現を告げる鐘になった。
「申し上げます!」
呑まれかけていた郭嘉の頭は、その矢のような伝令で覚醒し、現実に引き戻った。
はッとして、郭嘉が身体を翻す。程昱が首だけで振り向き、曹操は、流し眼のみでそちらを向いた。
「荀彧殿の守備する西部領境に、正体不明の一団が現れました! その数、およそ三千!」
「三千だと?」
「……袁紹? 王允? 妙ですねー」
ふたりの軍師が、怪訝な声色でつぶやく。
程昱が口にした二つの勢力。西からの侵攻の可能性が考えられる軍だが、どちらも妙だった。
袁紹の本拠地は、黄河を隔てた河北だ。そこから南征を企画するとなると、並ではない大規模な事業になる。二千のみを河を大回りさせて西から回してくるという事はありえないだろう、必ず、二面、あるいは三面と軍を展開しての連動作戦になるはず。
それに、南岸の津(着岸地点)は曹操軍が押さえている。袁紹軍に大きな動きがあるならば、渡河の時点で察知できない筈がなく、急に二千だけが黄河の南側に現れるという事はありえない。
王允は自らが牛耳る朝廷の下に分裂している諸侯を再び従わせ、中央集権化を目論んでいるが、とてもそんな支配力を発揮できるような現状ではない。第一、兵が少なすぎる。
曹操に対しての示威行為とすれば、規模が小さすぎる。そんな挑発行動に意味がないことくらいは、王允とてわかっているはず。
「……いずれにせよ、桂花に任せておけば問題はない範囲だろう。秋蘭殿も居られる、心配する必要はない」
急にもたらされた、不可解なる一報。
それは、不可解なまま、しかし無視できる範囲のものとして、気にも留められず、流れていくだけの一瞬だった。
「――――――!」
しかし。ただひとり。脳髄に閃きの走った者がいた。
曹操のみが、その蒼い瞳を一気に覚醒させ、静かに、しかし弾かれるように、馬首を翻していた。
『気分はどうだ、劉協?』
美しい金髪が、風に吹かれてすこしだけ。
ふわ、ふわりと揺れている。
振り向いた横顔、その美しさは、陶器で出来た人形を思わせる。
背後から声をかけた男を見遣った。たったそれだけの仕草だが、その貴き気品はまったく、隠しようがない。
妖精のように美しい顔立ち、しかしその表情は存外、あどけなかった。隠せない上品さで、努めて、澄ました顔を作ろうとする。
しかし、男には隠した機嫌の悪さが、容易に透けて見えた。男はそれに、微笑ましさに似たものを感じた。
――――――男もまた、美しかった。しかし、その美しさは、胡人のものでも漢人のものでも無かった。
『…………』
世が世なら、否、つい、先日前まで、現実に玉座に座っていた、皇族直流の血を継いだ少女。
劉協は無言のまま、その美しい碧い視線で少しだけ刺して、一言もなく、ふっ、と、向き直ってしまった。
『最悪、か』
フッ、と高順は鼻で笑い、唇を釣り上げるように歪ませる。
そして佇む劉協の傍らに、屈み、同じ景色を灰色の瞳に映す。
『だが、中々の眺めだろう?』
面白げに語った高順。しかし、その小高い丘から見下ろせる風景は、それほど面白いものではなかった。
何の変哲もない、ただの田舎。農村と、遠くに砦が霞むようにして見える。あとは、野暮ったい原林と原っぱと、ただ広いだけの路しかない。
古都・洛陽とは、まったくかけ離れている、華も美もない、洒落も人の手も加えられていない、只の寂れた外れ町。
『あの桃源郷は、この地上で洛陽だけだ。外の世界には存在しない。こんなのばっかりだよ。いや、もっと寂しいのも、珍しいのもあるけどな』
高順は白い歯を見せて、干し肉をかじる。
『昔、劉邦の時代に漢族と認められていたのは、黒髪肌色の人種だけだったらしいぜ』
劉協が少し、身を動かした。そのたびに、金の糸のような髪がたゆたう。
高祖・劉邦は黒い髪、黒い眼、いわゆる今日、“肌色”と呼称される色の皮膚をもった、ごく普遍的な黄色人種だった。彼が皇帝となった時、漢民族として優等人種の扱いを受けていたのは、彼と同じ肌の人種だけだった。
やがて漢が新によって滅んだ時、漢を復活させたと標榜して、金髪青眼の男が己の帝国を建てて以降、その色こそ最も貴く、最も優れた民族の色であるという事になったが、それらも元々は、漢民族から卑族と見做されていた人種のひとつでしかなかったのである。
『案外、俺の方が、お前らより元々の漢人には近いかも知れねエな』
高順が、自らの髪をひとつ、かき上げた。長めの前髪、艶やかな黒髪が、指の間を流れて落ちていく。
犬歯が乾いた肉に食い込んでいる。、少し開いた口の隙間、喉の奥から、くっく、と、鳴らすような笑いが漏れた。
劉協が、きッと睨んだ。
『…………?』
しかし、睨み返した先、高順は面白げな顔をして、咥えた肉を突き出すような仕草をとる。
劉協が、怪訝な顔をした。
『食え』
『……いらぬ』
『食え』
『いらぬといっとる!』
『…………』
『…………』
『あ、』
『え?』
ふっと、視線を外してよそ見をする、劉協が思わず、それに釣られた。
ぽかん、と口をあけて、なんと無防備に、そちらを振り向く。高順はそれに合わせて、咥えていた干し肉を素早く、そこに突っ込んだ。
『ふぁうっ!?』
目を白黒させた劉協を見て、高順はケラケラ、笑う。
『そんな獣臭い食い物を口に入れた事は、今まで無かっただろう?』
屈んだ所から、すくり、と、立ち上がる。
長い脚、すらりとした立ち姿。ただ、立つ――――――それだけで絵になる男。
『ひょっとして、自分と違う人種を見たコトすら、初めてだったんじゃないのか?』
腰にぶら下げた、瓢箪を煽る。
熱い塊が、体内の中心を落ちてゆく。
「もっと、色んなものを見せてやるよ。それがお前にとっては祝福か、不幸なのかは知らないがね」
最後の言葉は、劉協には理解できなかった。他民族と交わるごとに、大衆の間で変容していったこの国の公用語。それは、生粋の皇族である劉協には読解できない。
『…………』
その後ろ姿を見送り――――――言葉を理解できぬままに、劉協は再び、丘からの景色を振り返った。
眼の前には、ただ田畑と農民と、堆肥の混じる土の匂いがあるだけだった。
「なんだァ、確。その傷」
――――――鉄血の騎馬の会合には、嘶きと沈黙だけが満ちる。
その静まりの裏には、刃の如く研がれた血の臭いが隠れている。
「出てくるときに成廉に引っ掻かれたんだよ」
「お前、兵隊辞めたら、孤児院の先生でもやれよ」
六尺もやや上回る大柄、精悍な顔の右目、ちょうど上下に、子供の指が付けたような引っかき傷があった。
大方、成廉をからかって逆襲されたのだろう。
泣く子も容赦無く斬り捨てる鬼将・李確だが、もし、生まれる時代が違ったのなら。
刃の扱いなどろくに知らずとも、生き残れるような場所で生きていたのなら、案外、子供と友達になるのが得意な、ごく無害な青年だったかもしれない。
彼らが百戦錬磨、大陸最強の民族として恐れられる事も、あるいは、蝶の羽の羽ばたき程度の、ほんの些細な巡り合わせがもたらした末の結果に過ぎぬ――――――の、やもしれぬ。
「張繍、後軍はどうなっていた?」
「総指揮は例によって、郭汜将軍が執られるようですね。前陣は徐栄殿、側面は魏越嬢、成廉嬢……まあ、いつもの通りの陣立てです」
蜥蜴のような眼をした、長身の声が頭から降ってくる。
張繍は、いつもの通り張り付けたような笑顔で、飄々としている。
「順、オメー大将だろ? 布陣くれー把握しとけよ」
「お前に言われちゃア、俺もおしまいだよ、確」
高順が、酒を煽る。おりしも李確が、まったく同時に自らの腰に携えた酒を煽った。
鋭い酒、甘い酒。どちらもそれは、酷く、熱い。
「確、張繍。お前らは二千で官渡を急襲しろ」
「あそこに霞んで見えてる砦か?」
「最前線の防衛基地ですね。承知いたしました」
ぐふっ、と、張繍が哂った。
張り付いた笑顔の、目尻がさらに細くなる。
「俺は残りで陳留を奇襲する」
黄金色の汗血馬が一つ、嘶く。高順の手綱を包む、たてがみが躍った。
「千でか?」
「ほう……?」
「悪いが、お前らにはやらねえぞ。本拠は俺が貰う」
張繍の、細い眼が妖しく輝いたのも、高順は目敏く見つけて、機先を制す。
諌める片の掌にも、相変わらず、瓢箪が入っている。
「それに、多分俺の方がラクだ。そっちのほうが、きっと噛み応えはあるぜ」
「ふむ。その心は?」
「勘かな」
「勘かよ!」
「そうなりそうな気がする」
「…………ふむ」
「納得したのか? 張繍」
「将軍の勘は良く当たりますので」
「フッ」
そうしてまた、酒を干す。それは、冷ますため。
涼州の戦士は、自らを煽り立てる為に酒を食らうのではない、少なくとも、高順は。
ただ、その喉を焼いて胃腑を刺すような酒よりも――――――満ちる血液が、さらに滾って熱いから。
沸騰する血潮の熱を冷やすために、彼は酒を飲み干すのだ。
「さて、準備は……あァ、もう出来てるな。聞くまでもねェか」
狼の狩りが、冷静の中に興奮と狂気を満たしている事と同じだった。
その美しく、しなやかなヒトの身に、獣の性をそのまま残している。
それは、彼が遠い祖先、大陸を駆け巡る原野の民であった頃から、無くさぬまま継いできた血の宿命ゆえ。
変えようのない事。
狼が狩りの直前、眠りによって狂気から理性を守り、じっとその時を待つように。
その強靭な肉体にとって、あまりにもなけなしの狂い水の毒が、高順に平静を保たせる。
「じゃあ――――――行こうか。殺しに」
毒が、解毒される頃。
巡る血液と感覚は、鋭敏さを取り戻し、理性は、本能の錠を外す。
自覚する、空腹。
それが、剥き出しになった神経と本性の鋭さに、自らの身を委ねる事を許す合図。
――――――その時が、もう、すぐ近くまで来ていた。
リア充ぶっ殺してえ。
どうも、ななわりさんぶです。
華琳が怪物に見えるか、高順が強敵に見えるか? がキモ。
以前から武術について語れ、という種のお便りやレスやをちらほら頂くので。
ちょっと語ろうと思います。
語るのは、「私に武術ネタは語れません」という事です。
はい、すいません、出落ちです。
いやいや、真面目なお話ですよ。御説明致します、
どういう事かと言いますと。
作中に武術ネタを使うのはOKなんです。なんとなれば、フィクションであるから。
かの手塚治虫神に「ブラックジャックは医学的にはまるでデタラメな描写ばかり」と、噛み付いたインターンが居たそうですが、神は「幼稚な指摘。デタラメじゃねえ漫画なんてあるか」と一蹴したそうです。
重要なのはリアリティであって、実現可能かどうか、は問題ではないのですね。作品のコンセプトによっては、リアリティも放棄しちゃっていいんじゃないですかね、多分。
例え、実際に武術の上で使用されている技術を作中に利用して書いていたとしても、見ている側にはどっからどこまでフィクションかわからんですから、ドヤ顔してわかったふりしたって一向に構わない。
めだかボックスに出てくる柔道とか空手とかサンボのネタには、「武道を志す者」としての視点からみた場合、核心や的を射た要素は何一つありませんが、もがにゃんが可愛けりゃ、それで良いのです。あと赤さんのガーターベルト。
そもそも、便宜上自ら書いたものを「作品」と呼称しているだけで、私は只の、空いた時間で趣味として妄想を文章に書き起こしてブログの如く更新している若造、でありまして、作家でもなんでもありませんので。
ですが、それとは別に独立して武術論を語るというのは、出来ない事なのです。
私にはそれだけの理解が無いからです。
わかってる事よりわからん事のが遥かに多い。そもそも、わかっている事ですら、わかったつもりになっている事、に過ぎないのかもしれない。
一つの道ですらまだまだ前前半でありますのに、武術論・武道論など、とても語れるだけの含蓄は持ち合わせてはおりません。
そもそもですね、みんな、黒帯だとか先生だとか聞かされると、構えてしまうんですけれど、それにしたって、「修行者」である事には変わりなく、そういう意味では、色帯で頑張ってる子供たちや、入門したてのパパさんママさんらと同列です。
少なくとも私に関しましては、未だ一介の修業者、であり、修業を完遂した者、ではないのです。
何をまかり間違ったか、未熟者ながら師より少年拳士らへの空手の指導という、身に余る大任を仰せつかってはおりますが、私が保証付きで語れるのはその指導員という役の範囲のみで、それを超える領分で武を語る事は、私には許されてはいないのです。
わかっとらんものをわかったフリして技に関して語ったら、そらあ、詐欺ってもんですわ。語りじゃなくて騙りです。
フィクションじゃないんだから、思い付きでデタラメ吹いちゃダメ、ってことね。間違っている可能性のあるものを、おいそれと人に語る事はできません。
宮本武蔵のレベルからでしょう、語れるのは。完遂者、とは、その域になって初めて言える事なんじゃないですかね。
修行者は自らの師の下で、師に許された領分の中でのみ、武を語る事が出来るのであり、それを逸脱してしまうと、騙りとなってしまいます。
つまりは、私には、独立した私個人として正否の判断を下し、武を語れるだけの実力はまだ無い、という事ですね。
ですから、私が語れるのは技術論、理合いではなく、心構えですとか、気持ち的な意味でのよりベターな姿勢ですとか、そういう所です。
その部分について、少し所見を述べさせて頂き、武術についての語りに代えさせて頂きたいと思うのですが――――――残念ながら、いささか長すぎたようですね。
そちらについては、またの機会に。