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中原動乱編・六十九話――――――「痛み」

銃が人を殺すんじゃない、人が人を殺すんだ――ジェサイア・ブランシュ


『素敵だね、愛紗』


私の髪を結い終わった兄の手が、そっと離れていく。


『そうして可愛くしているのが、お前にはとても良く似合っているよ』


離れ際、そっと、私の耳から頬を撫でた、大きな掌。

胸の奥の奥の方で、濡れるように湧いた温さが、はにかみになって私の唇を滲ませる。

側頭部で纏めた一房の髪。赤いリボンが、兄の髪を束ねたそれと、お揃い。

私は、ただそれだけのことがうれしかった。胸の奥が温もって、側にいれば安らいだ。

優しい兄が大好きだったから。


『――――――関行! 速くしろい、稽古いかねーのか!!』


――――――だから、その声がとても嫌いだ。

ふわふわ、やらかく、包まれた私の心地を、泡のように弾いてしまう。


『ああ、今行く』


その嗄れ声気味の声のせいで、私の優しい眼が、つい、とそっぽを向いてしまった。

見上げるように、大きな兄様。着物の肌蹴目、影になった首の筋が見える。


『良い子にして待っていろ、愛紗』


ぽん、と、私の黒髪を揺らした。

そうやって兄様が笑う時、私はいつも寂しかった。

――――――優しい兄を奪っていく、あの人が嫌いだ。


『糜芳、お前午前の講義に出ていなかっただろう? 簡雍と博打だな?』

『…………出だしは良かったんだがな』

『いつもじゃないかよ』


痩せぎすのノッポと、大柄な二つの背中。楽しそうに笑いながら、私の手は届かなくなる。

遠ざかって行く後ろ姿を、家の門でずっと見送るのが、私はとても切なくて。

――――――それでも。

良い子にしていれば、兄様は必ず帰ってくると思っていたんだ。






薄絹が、その美しい肉体(からだ)を隠す。

姿見が、その綺麗な顔を写し出す。

咥えられた、髪結い紐。唇が色っぽい。しゅるりと、黒髪。艶めかしい。

膝を立てた裾から、太腿が覗く。どれほど鍛え上げたとしても、女の股はどうしてこうも白く、肉が乗って柔らかいのであろう。掌で押せば、それは、吸い付くような瑞々しさ。

やがて、すべてを鏡の前に曝け出す。

凛とした顔は、見事なまでに左右対称、神がのみを振るったが如き美しさ。

その処女の肌は玉の如く。つんと上を向いた乳房、うっすらと浮いた腹筋、それら、身体の作る非人造の曲線は、流れるように滑らかだ。

胸がすっとするような、とでも、言えるだろうか。黄金律に忠実に整った、美しいものをパッと目にした時、人間はそういう爽快感を覚える事がある。その裸は、まさにそういう美貌だった。

足袋を履き、肌着を身に着ける。それが、零れんばかりの乳房を隠す。身に付けていく、戦装束。腰巻きと上着を着る。身体の線にピタリとはまる、動きやすさを追求した服が、白い肌を覆った。

その上から、胴当て、脛当てを填める。


「――――――関羽、いいか?」


室の外から、呼ぶ声がした。

闘争の装束を整え、最後に、震えるような紅い唇にあった、赤色の髪結い紐を。


「ああ、今行く」


くっと結び、黒い艶髪を一房に纏め上げると、そこには絵にも描けぬが程の、凛とした戦乙女が現れた。






「伯珪殿、曹操の軍勢、どれほどの勢いだ?」

「既に彭城まで来ているらしい! 途上にあった支城はすべて降伏した!!」

「くっ……!」


弾かれる様に出撃して、公孫賛と関羽は一心不乱に南に向けて馬を進めた。

袁紹軍の追撃から逃れた彼らは、ここ、徐州まで流れ着き、州牧・陶謙の下に身を寄せ、客将の様な形で数千規模の兵を貸し与えられていた。

そのうち、関羽と公孫賛が駐屯していた東阿は、徐州の主都・下邳の東北に位置する。


「関羽、少し速度を落とせ! 馬がへばっては戦えんぞ!!」

「彭城には、桃香さまが居られる! 悠長にしておるわけにはいかん!!」


曹操の進軍は、火の様に速かった。関羽らが陶謙から火急の出陣依頼を受けたのが、昨日のこと。曹操はたった一日で、沛城を含む途上の要塞をすべて攻略したのだ。

彭城を超えれば、もはや下邳は目と鼻の先。陶謙はさぞかし、今や生きた心地がせぬであろう。

関羽の気も逸った。まさに、主都防衛の最後の砦である彭城に駐屯するのは、他でもない、主・劉備なのである。一宿一飯の義で、最前線の盾となっているのだ。

もっとも陶謙も――――――その腹積もりで彭城に劉備を置いていたのであるが。

街道沿いに走れば、沛国に入る。そこから追いかければ、すぐ其処だ。が、果たして間に合うか。


「ッ! 関羽!」

「ああ、見えたぞ、白珪殿!」


国境が見えてきた。『ここより沛国』、そう刻まれてある石標。

あれを超えれば、徐州。

そのままの速度で越えた。大通りを雪崩れ込むように突っ走る。


「ッ! …………?」


だが、次第に気付く。

その、不自然さに。

突き進んできた一行は既に、郊外の集落の中ほどまで入っていた。関羽達の軍勢が行くのは、漢帝国の名の下に作られた凱旋街道、つまりは国道であり、あらゆる土地で大動脈の役割を果たす、最も人口と活気に溢れた通り。

本来、そうであるはずだ。


「……どういう事だ? ひとっこ一人居やしない」

「いや、これは、人どころか……」


そこには、気配がなかった。

否、生き物の息吹、息使いが無かった。存在していなかった。

人はおろか、犬の足音ですらも。

幽霊街のようだ。無人の街には、さびしく虫の声がわずかに聞こえるばかりで、あとは空風が吹くのみである。

不気味さを後に引く歩を進めながら、一行は誰も居らぬ市街を抜けた。

そして、しばしの峠を越え、農村に入る――――――

そこで、絶句する事になる。


「なっ……」

「…………っ!!」


――――――如何な乱世とはいえ。

これほどの凄惨な光景は、この場に存在している人間の誰ひとり、未だ、目にした事は無かった。

息を呑み、血が凍った。

これまで、影たりとて見る事の無かった“ヒト”が、山ほどいた。集められていた。物言わぬ姿で。

文字通り、山ほど、であった。恐らくは、この地に住まう全員分。文字通り、見たまんまの――――――


“皆殺し”


「河が、死体で……な、なんちゅう…………」

「曹操は…………曹操は鬼か!?」


黄河と海と交わって栄養と恵みをたっぷりと含み、田畑に豊かな水を運んでくる徐州の河、その水底の土が剥き出しになっていた。

人間だけではない、牛馬、犬、豚に至るまでもが。すべて土嚢の様に無残にも積み上げられ、河の水を堰き止めていたのだ。

すでにそれには、夥しいばかりの蠅がたかり、烏がいくつも群がって、黒い霧のようにになっている。干上がった川底には、どす黒い血と腐汁が染み出していた。

人間の持つ、獣性か、悪意か――――――否、その創り出した力の根源を、言葉や論理として正確に捉え切る事は、およそ不可能であろう。

ただ、その光景のみが、そのまま物語っていたのだ。そういう風景が、まざまざと、兵士たち一同の目に突き刺さるように、眼前に横たわっている。


「ここまでやるかよ…………曹操ッ」


ギリ、と、臼歯がこすれる音がした。

それが目に入った次の後、にわかに強烈に臭って来た死臭と血臭さに、腹の底から気味の悪いものが反射的に込み上がってくる。

しかしその嘔吐感はみぞおちのあたりで、上から降りてきた土台の様な確固とした赤い固まりに、圧し潰される様にして消えて無くなった。

塗り潰した感情の名は、噴怒。

公孫賛は、少し手綱を強く握り込み、しかし、決して激高を露わにする事も、まして錯乱する事も無く、ただ、睨み付けた。

見たまんまの光景に対する、純粋な“憤り”――――――生理的嫌悪感と言う、反射的な感情を、さらに上回るその衝動的な感情が駆逐し、肚の中を占領した事が、結果的に、却って公孫賛の精神に安定を留めさせていた。


(――――――わからん!)


しかし。この時、関羽の脳裏に、真っ先によぎったのは、強烈な腐臭のもたらす嫌悪感でもなく、憤りでもなく。


(なぜだ、曹操! なぜここで、このような無意味な蛮行に出る!)


疑問と戸惑いであった。彼女の気真面目な気質からすれば意外にも――――――というところであろう。

関羽は、曹操という人物をかつて直に見た事がある。自らを配下に迎えたい、と、勧誘してきた、反董連合の陣営でだ。

実態のつかみにくい女ではあった。思えば、あの語り口には終始、酔狂と真剣が入り混じっていたような気もする。

人形の様な小さな肩、小さい頭に大きな蒼い目、愛らしい唇に、揺れる金髪。見た目はまさに少女、語り口調も謎かけの様な意味深な、それでいて何も意味は無いような、悪戯っぽい笑い方。

しかし、一貫してあったのが、彼女が“冷静”であった事だ。曹操は、最後まで腹の内を明らかにさせず、最後まで煙に捲くようにして去っていった。

性情定かならぬ性質には間違いないが、短絡的な暴挙に出るとも思えなかったのである。


(たとえ、陶謙殿が賊と結んでいたという噂が事実だとして、それを討伐するという所以であっても、これほどの虐殺……市井の者たちを巻き込むまでの、この様な無差別無道を行う必要は無い筈だ! ……まさか!)


そうして、思案の糸が一点の閃きに突き当り、うつむく関羽の頭は弾けた。

跳ねる様に、鉄砲駆け。公孫賛が、おい――――――と、呼びとめたのも置き去りにして。


(――――――董卓(ゆえ)か!?)






叫びがした。

この世の全てを引き裂いてしまうような、それは、この天と地の間に存在しうる悉くの中で、何よりも悲痛に響く音曲であるに違いなかった。

地獄の声、だったのだ。絶望の軋りだったのだ。

肺腑を抉るそれを、ただ“悲鳴”としか表せない――――――この言葉という名の道具の、なんと惰貧で、なんと脆弱な事であろうか。





「左翼、弾幕薄いよ! なにやってんの!」


細腕を振るい、大剣でもって指揮を執る。華美な装飾の施された宝剣は、泥と埃に汚れているが、血に塗れてはおらなんだ。

その華奢な体に、屈強な敵兵を打ち払う力はない。ひとたび、押し寄せてくる殺意の群れにふかれれば、たちまちのうちに薙ぎ倒されてしまうだろう。武の才拙く、にも拘らず、彼女は絶えず前線に居た。


「重装隊は前へ! 盾で守りを固め、決して戦線を後ろへ下げさせないでください!」


鼻から抜けるような甘ったるい声を、目一杯に張り詰めさせ、喉を枯らし、必死に檄を飛ばしている。

押し寄せる曹操の軍兵は、一言も発さない。組と列を一歩たりとも乱す事無く、極めて作業的に、合理的に、眼の前の敵を“殺害”する。

盾で防ぎ、矢を射かけてその前進に決死の刺し込みを仕掛けるが、降り注ぐ斉射にも重歩兵の密集戦術にも、奴らは表情すら変えはしない。

暴力的な衝動を剥き出しに、唸りと馬蹄に乗せて叩き付けてくる涼州騎兵とはまるで違う。全く違った種類の――――――悪魔だった。

感情の気配も滾りも揺らぎも、微塵も外に発さぬ殺意。健気な非力はそのすぐ前に立ち、味方を鼓舞して、最も侵攻の激しい、この東門を死守し続ける。


「…………ッ!?」


戦場の右から左、前から後ろ。神系を最大限に使い、はしっこく出来うる限り、端から端まで、くまなく情報を読み取らんと目を配らせる劉備の視界に、仰天するものが入ってきた。

自身が指揮を執る所よりも後列側、慌ただしく乱れ始めてきた味方部隊のさ中、土埃に塗れて――――――少女。

最前線で敵を切り崩すべく奮闘している義妹ではない。まさしく、ただの子供である。武装などしている筈も無く、格好は見るからに庶民。見上げるほどに大きく、必死の形相を浮かべて吼える大人たちの足元の間を、不安そうに右往左往している。

その子に、劉備は見覚えがあった。


「封ちゃんっ!」

「!! …………おねえちゃん~っ!!」


劉備が、空気を裂くような鋭い声で彼女の名を呼んだ。

少女は、ハッとして振り向き、劉備を見つけるや否や、震えていた蒼白の顔をくしゃくしゃにし、一目散に走り込んでくる。

しゃがんだ劉備の胸に、体当たりのような勢いで飛び込み、抱きついた。

劉備は一旦、彼女を懐に受け入れると、そっと両の手で肩を抱くようにし、少し身体から放して、顔を向い合わす。


「だめじゃない、こんなところに来ちゃ! お母さんはどうしたの? 一緒に逃げたんじゃないの?」

「おねえちゃん~!! …………えぐっ、ぅえっ、えっ」


飛び込んできた際に、劉備の襟元を濡らした涙はなおも枯れる事無く、嗚咽をする毎に弾けるように、彼女の顔に溢れる。

劉備の掌に、体のふるえが伝わってくる。よほど、怖かったに違いない。当たり前だ。ここは戦場の真っ只中なのだから。


「一人で来たの?」

「えぅ…………」


ひっく、ひっく、としゃくりあげながら、こくん、と、ただ、頷く。

出陣の前に、領民はすでに、郊外へ疎開させた筈だ。

彼女に何があったのかはわからない。親とはぐれたか、もしくは――――――

ともあれ、一緒に避難した市民では、どうにも出来ない出来事があったに違いない。この子に、頼れる大人がいなかった、もしくは大人に相談するという所まで発想が回らなかったのかはわからないが。

唯一、顔を知っている劉備を思い当って、それを頼って、必死に此処までやってきたのだ。


「ひっく、ひっ…………」

「…………」


喋れない彼女を、とりあえず劉備は抱き直して、とんとん、と、優しく背中を叩く。耳には、鬨の声が痛いほどに響いている。

そうしていると次第に、彼女の呼吸が、深く深く、深呼吸をするようなものに変わっていくのがわかる。


「…………伯ちゃんが…………」

「え?」

「伯ちゃんが……ひくっ…………居ないの…………」


劉備の鎖骨の辺りに目元を押しあて、ようやく泣き止んできた彼女の涙声が、耳元で震えた。


「みんなで一緒に、たくさんになってお出掛けする時にね……ひっく、怖い人に……会ったの。怖い人がね、剣を持ってね、たくさんになって、みんなにね、わーってやってくるの……すごくね、すごくね……こわかったの……」


まだ語彙の足らない子供特有の、抽象的な説明が並ぶ。

頭をゆっくり撫でながら、劉備は推測する。「たくさんになってお出掛けする」というのは、民衆の集団疎開の事を言っているのであろう。怖い人、剣……

恐らくは、避難する道中、武装した何らかの集団に襲われた……という事なのであろうか。


「お父さんがね、わたしを抱っこして、すごく速く、逃げたの。みんな、そうやって走ったの。お父さんが降ろしてくれた時には、もう、怖い人たちはいなかったの。でも、伯ちゃんもいなかったの…………きっと、まだ街の中に居るんだって思って、わたしね、怖かったけど、探しに来たの。でも、どこにもいなくて、お姉ちゃんなら知ってるかも知れないって思って、それで…………」


耳のあたり、頬、掌でしっとりと、押さえるように、撫でる。


「待ってて」


劉備は、すくりと立ち上がり、駆け出した。


「ッ!? 劉備様、どちらへッ」

「ごめんなさい、すぐに戻るから! その子の事、お願いします!」

「なっ!? い、今は交戦の真っ最中ですよ!? ここであなたに持ち場を離れられては……!!」

「お願い!!」

「…………っ!!」


側近の声を背中に受けて、劉備は走り、前線を離れた。







「はっ……はっ……はっ……」


劉備が走る市中に、既に人気はない。鬨の声が遠くに聞こえる。

が、その“無人感”は廃墟や、未開拓地のそれとは違う。

伝熱のような気配が残っている。これは、引き払った民衆の塊が残したものか、それとも――――――


「ッ!」


路地裏から気配がした。建物同士にさえぎられて、陽の当たらない陰の所。

小さな影が動き、注視して、それが見覚えのある少女だとわかる。


「伯ちゃん!」

「ッ!! お姉ちゃん……!!」


劉備の張りつめた顔が、幾分、ふっと緩まって、思いのほか張りのある声が飛び出した。

少女は、反射的にその大きな声にビクッと肩を竦ませ、そして劉備を認めると、心底ほっとしたような顔になって、そちらに駆けていく。

一歩、二歩、と、身を弾ませ始めた矢先――――――

その、小さな体が振動し、浮いた。


「ッ!!」


あッ、と、桃香の顔が固まったまま、声にならない声が出た。

その女の子の、小さな胸の真ん中から――――――冷たい刃が突き出ていた。

体中の血液が、止まったような錯覚があった。音が消える。そんな感じがした。

桃香が、走り出す。赤い水を溢れ出しながら、少女の身体は、前のめりに打ち倒される。

もんどりうって、慣性のままに大通りの大路まで吹っ飛ばされて、糸の切れた人形のように、どさっと地面に落ちた。

路地からぬっとい出た影が、うつ伏せに倒れ落ちた少女に追い掛かり、全く、遠慮もなく――――――振り絞るように、切っ先の濡れた得物を下ろした。


「っつ!!」


血が飛沫く。切り裂かれた。

咄嗟で庇った劉備、少女とその兵士との間に、無我夢中のまま己の身体を滑り込ませ、覆い被さる様にして、斬撃の盾となる。

容赦なく振り切った剣の切っ先は、劉備の肩を強かに切り裂いて、浅くは無い傷跡を作る。

染まった切っ先を、さらに上から赤く濡らした。


「…………ッ!!」


ジン、と、焼けるような痛みが、腕から肩口の辺りにかけて走った。何の躊躇も無かった。

しかし劉備はそれを気にも留めず、少女の身体を掻き抱いて、自分の身体で隠すと、ぎっ、と、屈んだままに兵士を睨んだ。


「何してるの……!! 何してるのっ!? 子供でしょう!! この子は、兵士じゃないよ!!」


甲高い静寂だった。

不気味に、不思議に、劉備の声だけが、切り貼られたように響いた。


「――――――曹操閣下の名義の下」

「!っ」


その兵士は、大きく見えた。

覆うようにズンと立った、見上げたその姿は大きく、から繰り仕掛けの様に無機質に見えた。

声には、鉄の様に熱も色もありはせず。


「………………くっ!」


あまりにも無慈悲に、振り下ろされた、それ。

桃香はただ、力を失った少女の身体を掻き抱いて、耐える様に目を瞑ることしかできず。


「――――――しゃアッツ!!」


――――――滑走してきた一つの影が、阻むように軌跡の延長線上に立った。

銀の一閃が遮られ、煌きが一つ、鳴る。

切っ先の一瞬。打ち下ろしを摺り上げる様に凌いだ細身の剣がすぐさま、翻り、小手を打ち返した。

そこから右足を一歩、斜に送り、身体を捌く――――――までが、流れるような一つの動作。


「!?」

「ッ!!」


冴えた打ちは、手首を打ち砕くや、バネのようにすぐさま引き戻り、捌かれる身体と共に自然と上段の構えとなって、二の太刀を打ち込んだ。

曹操兵の反応よりもさらに速く、物打ちが強かに脳天を捉え、パン、と、頭蓋の割れる乾いた音が響いて、屈強な兵士は、糸が切れるように崩れ落ちた。


「全く、いつでもかつでも危なっかしい嬢ちゃんだ! 前線を離れるなら、その前に一言云ってくれ!」


軽やかに弾むような足捌きで残身を取りつつ、簡雍は言葉を肩越しに置いていった。

しかし、いつものような、鼻にかかる甘ったるい返事が聞こえなかった。予想外れの背後を、駆け付けたばかりの簡雍は訝しげに振り返る。


「はっ、はっ、はっ…………くっ……!!」


過呼吸の様な、小刻みにブツ切りにするような、浅く速い呼吸。開いた瞳孔、滲む汗。焦燥と不安、表情にありありと顕れていた。

必死に顰めて、一心不乱に食い縛る歯。体重を掛けて、両手を赤黒い、濡れた穴に押し当てる。

地面に直に横たえられた子供の肉に、桃香の白魚の手が沈むように押し付けられた。

胸に空いた傷口を、必死に塞ごうとした。けれど、白い手と少女の胸の隙間から、そして地面と背中との間から、それは、とめどなく溢れていく。

どくどくと、じゃぶじゃぶと、出た。いやにぬるぬると、赤く、温いそれが、まるで水みたいに。肉と肉の裂け目は、どろどろ。胸から背中まで貫かれた傷口から、少女の肉体から、あまりにもお構いなしに、考える間も許さないかのように、滾滾と抜けていく。


「お姉ちゃん…………」

「喋っちゃだめ!! ……大丈夫、大丈夫だから!」


蚊の鳴くような、灯火の様な少女の呟きを、桃香の悲痛な声が掻き消した。

それは、叫ぶようですらあった。


「お姉ちゃん、腕…………」

「わかってるよッ! 大丈夫だよ! 血は止めるから!!」


遠目で見れば眠る様にも見えかねぬ、少女の虚ろな、ある種、穏やかな瞳に、ぼんやり映った、それ。

桃香の返事は、噛み合っていたとは言えない。それくらいに、必死であった。桃香には、少女の腹から胸を貫き、大量の血を流し続ける痛ましい致命傷しか目に入らない。

少女が気に留めたものの事など、どうでもよかった、というより、頭の中にすら入っていなかった。


「助けるから! だから……うん! がんばろ!?」


そう口では言っても、何を言いたいのか――――――否、何を言えばいいのか、わからない。とりとめのない言葉が、口をついて、ただ、でる。

口で上手く言えない分、桃香は、笑顔で元気づけようとした。しかし、笑い顔を作ったつもりのその表情は、唇から歯が覗いただけの、ぎこちないものにしかならない。

口では闇雲に励ましたが、胸中には迷いしかなかった。どうすれば救えるのか、桃香にはわからない。そうしている間にも、多量の出血は止まらない。どうにか留めようとして、どうにもならない。こんこんと、出てゆく。


(どうして……っ!!)


我武者羅に、両手を重ねて、一層、力を込めて傷口を圧迫した。

意味のない。頭のどこかでは分かっていた。これが適した処置であるとは到底思えない。

ただ、素手で押さえつけているだけだ。それで血が止まるわけがない。それでも、どうしようもない。どうしようも出来ない。衛生兵でもない劉備に、こんな突発的事象で、適切な処理が出来得る筈がない。ただでさえ、お構いなしに溢れ続ける血の速度が思考を焼いて、冷静さと判断力を奪っていくのに。


(血が……血が、止まらないっ……!!)


ただ、必死で。どうにも出来ず、それしかできず。

勢いが弱くなったのを、桃香の掌が感じた。


「くっ……!!」


劉備の八重歯が、削れんばかりに食い縛られて擦れる。

必死な形相は――――――悔しそうであり、泣きそうでもあり。

肩から二の腕の中程まで、ざっくりと入った傷口から、止まりかけた血がにじんできた。赤い涙のように、新たな流血が線を上描く。

外側を、つっと伝い、その華奢な掌まで落ちて、その下の傷、相変わず間欠泉のように噴き続ける、少女の出血と交わる。血の海に紛れた一滴の雫として、それは区別を持たなくなった。

白魚の手は、既に真っ赤の中に浸されている。


「お姉ちゃんは…………」


ふっと、力みが緩まった。

まどろむ様な、穏やかに――――――少女は、静かに微笑んだ。


「お姉ちゃんは、優しいね…………」

「…………?」

「お姉ちゃん、わたしね……」


それは、ほとんど吐息の様なものでしかなかった。

桃香はそっと身体を倒し、耳を澄ませた。


「大人になったら……大人になったらね…………お花屋さんに……なりたかったの……」


その声は、か細く、弱弱しく、危うく、無垢で、罪は無く。


「もし……お姉ちゃんみたいな、優しい人が王様だったら……私達は、大人になる事が出来たのかな?」


真っさらで、澄んで、静かで。


「だめッ!!」


消えそうな声を否定したように、煽りたてるような語気で、桃香が叫んだ。


「これから、楽しいこといっぱいあるの!!」


鼻にかかる甘ったるい声が、鋭く尖って突き刺さる。

しかし、それを打って返すところは無く――――――ただ、戦場の虚空に吸い込まれてゆくのみ。


「明日の朝ごはんは、キミの好きなものかもしれないんだよ!? 今度やる蹴毬じゃ、一点入れられるかも知れないよ!?」


懸命で、悲痛な、桃香の激励。(から)に、虚しく。

それは、消えていく白い息を必死に掴むが如きに似ていた。


「キミにはやること、やらなきゃなんない事、もっともっといっぱいあるの! いつか素敵な王子様と出会って、キミみたいな子供を産んで……」


軋んで、擦れるような声だった。


「ありがとう、お姉ちゃん」


笑った気がした。


「もう、痛くない。痛くないよ」


少女は、桃香の表情(かお)とは違っていた。

ただ、穏やかで、安らかだった。それ以外、無かった。

清らかに、清らかに、その子は熱を失っていった。





「どうしてっ……!!」


そこに項垂れていたのは、英雄・劉備ではなかった。

ただの少女だった。


「止まって……止まってっ…………止まってよッ……!!」


――――――もう、血は止まっていた。通い、流れるだけの血液はもう、その肉体に残ってはいなかった。

力を込めすぎた桃香の指の先は白くなり、その亡骸の肋骨は折れていた。

それでも。

桃香は、重ねた掌を離す事が出来なかった。


「桃香……」


簡雍は、ただ――――――

うずくまる少女を、見遣る事しかできない。


「いたぞッ!」

「生き残りだ! 殺せ!!」

「ッ!!」


刺すような声が、現実に引き戻す。

ハッとして、振り返った。


「ちッ……!」


大通りの、向こう側から向かってくる。先ほど打ち払った兵士と、同じ鎧を身に着けた者たち。

走る最中にも散開し、包囲の陣形を取って、素早く襲いかかってくる。


(四対一か!)


迎え撃つ構えを取りながら、一瞬だけ、肩越しに背を確認する。

劉備に動ける様子はない。


(鈴々はいねえ! 俺じゃ、四人を一度にゃ捌けねえ!!)


振り返りながら――――――南無三。破れかぶれの様に、遮二無二、特攻。

広角に広がった敵を迎え、一歩大きく踏み出し、脇から剣を抜く。


「くそったれがァ!!」


真正面で当たった敵との、互いの刺殺の間合いが交錯する刹那――――――巨大な影が、頭上を覆った。


「!?」


馬体の轟音と不意の驚きが、一緒くたになって目の前に着地し、今まさに、横薙ぎに振り切ろうとした剣の通り道を、簡雍の視界ごと塞いだ。


「ッ!!」


馬上の一丈青は、声も無く。

華奢にも見える肢体を一つ捻るや、それに呼応するように、唸りを挙げたは青龍、大柄重刃の偃月刀。

翻れば、それはまさに疾風迅雷。一息で吹き飛ばすが如く、瞬く間に四者の刺客を斬り払い、伏せて散らした。


「おおっ!」


その一閃の武威に、簡雍がふわっと、気の抜けた表情を浮かべる。


「――――――遅くなりました」


草刈りの様に、主に迫る敵を打ち払ったその雄姿は、まるで、どうという事も無い風に。

凛とした顔に汗を滲ませ、馬の背にまたがったまま、極めて澄ました冷静な顔で振り返って、関羽は淡々として、そう告げた。






「桃香様……」


関羽は下馬し、そのまま、言葉を失った。

放心状態で、少女の骸の傍らに座りこんだまま。その表情は、項垂れて落ちた前髪の影に隠れて、ようとして察せられぬ。

力無く腰を落としたその姿と、眠るような顔で、(はらわた)の食み出た子供の亡骸を見て、聡い少女は、全てを察した。ゆえに、何も言う事が出来なかった。

この優しすぎる主に、何と声をかければ良い?

少女は、墓石の様に座して固まり、黙して語らぬ。

唇をくっと噛んだ関羽の傍らで、簡雍は憚らず、ぶしつけにも思える挙動で、桃香の二の腕を引っ掴み、がッ、と引き上げた。


「っ!」


かなり強い力で引っ張られて、桃香の体勢が崩れる。乱暴な所作に、剣呑さを感じて、関羽が思わず、簡雍を見遣った。

しかし、簡雍の表情に変調は無い。


「立ってくれ、劉備。張飛が、皆が。まだあそこに居る」


強い所作に反して、その声は静かだった。

低い、壮年の男の声。

しん、と、語りかけるような、あるいは諭すような、そんな風な語気だった。


「お前が居ないと戦えない」


怒ってもいなかった。笑ってもいなかった。

ただ、逸らさずに、まっすぐに桃香を見ていた。

桃香は、下を向いたまま、だらりと下がっていた左腕を目下に押し当て、拭う動作をひとつ、すると、やがて顔を上げて、その視線に瞳をぶつけた。


「…………はい!」


甘ったるい涙声で、真っ赤にはらした大きな眼で、劉備ははっきり、そう言った。





劉備の「いっぱいあるの!!」のセリフを、間違ったふりして「おっぱいあるの!!」のまま投稿しようと思ったけど、俺だって空気くらい読める。

今年の投稿はこれで終わりかなあ。取り合えず今日から26日まで、リア充どもに世界中の痛みと悲しみと別離が、泣いている子供達にその分だけの幸福と豊穣が訪れる祈祷を行う作業に移りたいと思います。


――――――竜宮小町とりっちゃんについて?

だから、僕は当初からPK商法だって言ったじゃないですかぁ。


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