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中原動乱編・第六十八話―――――――「激動を運ぶ風」

新章突入。こっからが佳境です。

陽の光が、柔らかに降り注ぐ。表通りは、燦々と輝いている。

子供の笑う声がした。

毬遊びをする子供、鬼ごっこをする子供、おままごとをする子供、戦いごっこをする子供。

指を背中で重ねて、歩く少女の足が自然と立ち止まり、そちらに引き付けられて、ふわりと微笑んだ。

その顔は、とても優しい。


可愛いなあ、もう。お友達と仲良くしてね。あわっ、危ない。怪我しないでね。


子供達の跳ねまわるような一挙手一投足。その甲高い声が満ちる空間は、とても眩しいものだ。

はしゃぐ子供達と同じような反応で、遠くから眺める少女の顔はころころ変わり、ハッとし口元に手を当て、ホッと胸を撫で下ろす。

無邪気、そのものの光景。

しばらくそうしていると、不意に、弾かれた毬がその足元に転がって飛んできた。


「あ、劉備様だー」

「劉備さまー!」


とととっ、と、ふたりの子供が駆け寄ってくる。それに釣られて、残りの子供達も、一斉に、わーっと集まってきた。


「劉備お姉ちゃん、あそぼー?」

「あそぼ、あそぼっ」

「毬やろーよ、まりー」

「ええっ?」

「はやくっ!」


きゃっきゃっ、と、返事を聞く前に、子供達は跳び跳ねはじめる。

屈託の無い顔で、小さな両手が、劉備の右手を掴んで、引く。

はじめは困惑していた彼女の顔が、その笑顔に釣られて、すぐに綻んだ。


「ようっし! お姉ちゃん、負けないんだから!」


胸の前で、両手をくっと握りしめる。

笑いながら投げられた毬に対しては、両手で、足元を狙って放るように投げ返した。





「うぉわっ! ……ったたっ!」

「あはは、お姉ちゃん、へたくそ~」

「へたへた~」

「あはは…………めんぼくない」


毬を蹴ろうとして、躓いて尻もちを着く。子供達はケラケラと笑う。桃香は、照れ隠しのように頭を掻いた。

綺麗な服に泥をくっ付け、額にうっすら汗を滲ませている。

きゃっきゃと、夢中になって遊ぶ子供達に混じってその表情は、同じようにきらきらと、純粋だった。


「りゅ、りゅ、劉備様ーッ!!」


無粋な浮世の声が、その憩いの空気を崩した。

子供達が、そして劉備が、振り返る。


「火急の用件に御座ります! 至急、宮城までお戻りくださりませ!!」


そうやって、それはいとも簡単に平穏を取り去っていく。





――――――初平二年、夏。天下は大いに乱れていた。

先の虎牢関の戦いにおいて、董卓軍を中原から追いやり、王允が謀略によって朝廷を握った後も、中華が一向に治まる事は無かった。

元より、王允に諸侯を再び纏める器量はなく、むしろ董卓という共通の敵を失くしたことで、却って一層、漢帝国は分裂を深めた。さらには、黄巾の残党、黒山賊、さらに大小の傭兵団に、自ら王や皇帝を自称し始めた、漢にまつろわぬ豪族に軍閥。それらの台頭を止められぬ朝廷の権威は日に日に衰え、各地に争乱が蔓延る。全土は乱世の火で燃え続け、四海は混沌を深めるばかりであった。


「華雄さ~んっ、とうっ!」

「むっ…………」


――――――曹操は、未だ兗州牧のまま。

一介の将軍として、地方の百戦に奔走し続けていた。


「……許緒、飛び付くな。馬が驚く」

「華雄さーん、馬の乗り方、ボクに教えてよぉ」

「鐙があれば、誰でも乗れる」

「あれ無しでも乗れるようになりたいの!」

「馬に跨って生活すれば、何度も転げ落ちるうちに自然と、慣れるものだ」

「えー、痛いのヤだから教えて欲しいんじゃんかー」


仏頂面の華雄の背に、首に両手を回して、小柄の季衣がへばり付いている。

勇壮にして寡黙な、一糸乱れぬ騎兵団の行進にあって、そこだけが、場違いにのどかである。


「許殿は、華雄殿によく懐いておるな」

「季衣は、人の心に敏感な子だ。季衣のほうが懐いておる、というよりは」

「うん?」

「この曹操軍は、気質も規律も、涼州の軍とはまるで異なる」


趙雲と轡を並べるのは、夏侯惇。

二人を眺めておもむろに呟く趙雲を相手に、許緒を評す。


「馴染みもせず、自ら馴染もうともしない華雄が孤立せぬようにという、季衣なりの気遣いだよ」

「――――――ウチの話をしていたか?」


後ろから、いきなり肩を組まれて、やや、虚を突かれた顔をした。

何気ない光景ではあるが、夏侯惇の間合いに入れる人間は、それほど多くはない。


「……同じ董卓軍でも、お前は呆れるほどにすんなり馴染んだな」

「人徳って奴と違うんかな? まあ、好え人が多いおかげやろなァ、惇ちゃん♪」


陽気に笑い、夏侯惇の顔を引き寄せる、小麦色の肌。

北狄系人種の色だ。


「しかし、孟ちゃんの本隊に、ウチとかゆっちの騎馬隊、ほんで惇ちゃんの大軍に加えて、星やんの指揮しとる純兵の特殊部隊」


ぐるーり、と、張遼が辺りを見回す。

威容を誇る騎兵、精悍骨太の歩兵、居並ぶ丈夫(ますらお)が地を埋める大軍、しわぶき一つ上げずに、重重しい軍足の音を、規則的に鳴らし続ける。鉄の様な鈍色の進軍。


「陶謙ごときに、こんな大仰な兵隊さんが必要とは思われへんなァ。ここまで道中、なんぼか砦にも当たったけど、ちょいと突っついただけで降って来よったやん」

「数が多い故、というのもあろう。彼我の戦力比で勝っているほど、損害が少なくて済む、というのは古の兵家も教える戦の常道」

「だが、それよりも効いているのは、華琳さまの“名の威”だ」


趙雲の応えの後に繋いだ夏侯惇の二の口は、彼女らしからぬ、淡々とした語気だ。


「至弱の頃より、官に出仕し、兵を挙げて既に幾年、黄巾・虎牢関の大戦を経て、ようやくその勇名が風に乗り、実を持ち始めたのだ」


手綱に軽く手を掛け、背筋をぴんと張る。

まっすぐに前向くその目付きは、どこか遠くを見ているようでもある。


「勝つべくして勝つ。戦う前から勝っているのが、戦の正道。武名はまだ、中華最強・董卓軍に及ばぬが」

「……………………くふっ!」

「何だ?」


至って、真面目な顔をして語る春蘭を、しばらくぽかんと見ていた張遼だったが、やがて、吹き出す様に笑みをこぼした。


「いや、なんちゅうか」

「?」

「あんた、喋りが武蔵ちゃんに似てきたなぁ?」


けらけら、狐のほころぶような笑い方をする霞に、む、という、何ともいえぬ顔を表情をして、春蘭は彼女と目を合わせた。





「んで、陶謙は何で、孟ちゃんに目ェ付けられとってん?」

「漢帝国に仇為す賊を、裏で支援していたのだ」

「あん?」

「支援……というより、実質的な黒幕、といった方が正しかろう。霞殿、闕宣という者をご存じか?」


なんのこっちゃわからん、と、表情だけで夏侯惇に返答した張遼。

代わって答えを返したのは、趙雲である。


「わかれへん、誰や?」

「天帝教とかいう、新興宗教の教祖で、十万の信徒を率いて泰山で皇帝を僭称した男だ。それを支援しつつ、裏で糸を引いていたのが陶謙らしい」

「ほお」

「加えて、あの関行と契約を結び、各地の官軍を襲わせていたのも陶謙だそうだよ。奴らを使って、生まれた権力の空白に出張って根を張り、勢力の拡大を図っていたようだな」


反政府の武装勢力を手引き、自らに反抗的な諸勢力を討伐するための軍事力として使う。それのみならず、自ら大っぴらには手を下せぬ対象への攻撃、つまりは官舎や太守を襲撃させて追い出し、そうして無政府状態となった地域を、“徐州刺史”として後から出て行き、何食わぬ顔で統治する。

そういうやり方で、陶謙は徐州全域、並びに、青州にまで勢力を伸ばす事に成功したのだ。


「ははァ。ほんで、今度は西やー、言うて、関行に金積んで、孟ちゃんにちょっかい掛けたんやな。そら、見誤ったなァ」

「陶謙は闕宣を殺し、身の潔白を証明したようだが、曹操殿はそれを無視した。この局面で闕宣を殺せば、自らと闕宣の同盟関係を自白するようなものだが……まあ、曹操殿の進軍に対し、焦るあまり、逆に名分を与えかねん悪手を打ってしまったのが、陶謙という人物の限界か」

「いくら若くてちみっこいからって、ナメたらあかんわ。あんなおっかない娘、他におらんねんでー」

「尤も……」

「うん?」

「この遠征は、逆賊の討伐ではなく、案外、たった一人の女の為の戦やも知れぬ」

「女?」

「実はな、袁紹に滅ぼされた公孫賛が、劉備一派もろとも、陶謙の下に転がり込んでいるらしい。当然、そこには関羽も居るだろう」

「ほんまか、そら」


関羽、の名前が出た時、春蘭のこめかみに、ぴきり、と、青筋が浮かんだ。


「曹操殿は相当、関羽にご執心であったようだからな。あの御人なら、一人の人材の為に戦を起こすという事もやりかねん」

「関羽なあ~、確かに……関羽かァ」


霞が、その名を一度呟き、そして溜息交じりに、うっとりと、改めて、その名を紡ぐ。


「あんなシュっとした顔やのに、えらいごっつくて、むっちゃ綺麗やってんもん。あんな絵になる武人おらんて。そら、孟ちゃんかて惚れてまうよなァ~」

「…………フンッ!」


頬に片手を添えて、はぁん、と、しみじみ語る。

春蘭が憤然と、鼻息を荒くした。


「そんなに嫉妬しいなや、惇ちゃん。孟ちゃんはちゃーんと、惇ちゃんの事も愛してくれはるて」

「誰も嫉妬なぞ、しておらんわ!」


けらけらと笑って、霞はからかうように、春蘭の肩を叩く。

がおっ、と、鼻息荒く、春蘭が怒鳴った。


「……けど、かゆっちには、関羽が向こうに居るって事、言わんとってな。なんや知らんけど、あの子、関羽に拘っとるさかい」

「む……」

「うむ……平静さえ保てば、華雄殿はしかと任務をこなす良将だ。あえて、心を乱すような情報を与える事もあるまい」

「――――――伝令でございます!」


三者の雑談を遮ったのは、駆けてきた早馬。


「曹閣下よりのお達しであります。張遼殿、華雄殿の騎馬軍は、それぞれ左右両翼に分かれ、前曲で展開、趙雲殿の部隊は、曹閣下の指揮する本隊の護軍に付き、奇兵の一つとなって、常に遊撃に出られるよう、待機しておくように、とのご指示です」

「任務、ご苦労。私へのご指示は無いのか?」

「はっ。夏侯将軍はこのまま、後曲の軍勢を統率すべし、との事」


馬上のまま、軍礼だけを取り、遣わされた伝令は、抑揚のない声で、淡泊に情報のみを伝える。

傍らの霞が、ぐるーりと、右肩を回し、大儀そうに愛馬の轡を締め直した。


「りょーかいや。ほんだら、働こかァ。かゆっち、行くでぇー」


ピッ、と、手綱を一回、振るうと、スパッと流れるように、馬が駆けだす。

そのまま、前方で馬を歩かせていた華雄と並び――――――春蘭と星の位置からでは、何と言ったかまでは聞き取れ得なんだが――――――少し言葉を交わしたように見えるや、華雄が季衣を背中から降ろして、二つの騎馬はそのまま、左右にそれぞれ、分かれていく。

得物を振って二、三の挙動で合図を送ると、ゴゴゴ、と、地鳴りのように馬蹄が響き、やがて騎兵の群れが滑る様に流れ、隊列を揃えて移動を始める。


「……春蘭よ、霞殿の前では話せなんだが」


動き出す“群れ”の作る轟音の中、呟くような語気で、星がそう一言、落とす。


「董卓軍か」


音の氾濫に飲み込まれそうな、その静かで凛とした声は、しかして、春蘭の耳は捉えたらしい。

また、春蘭の返事も、それと同じような、落ち着いた、水滴の様に静かな声である。


「高順が、関中以西の敵対勢力を一掃し、西方の騎馬民族を涼州軍の旗の下に統一したと聞く。近いうちに、間違いなく再び中原を目指して進軍してくるだろう。曹公がいよいよ、覇を唱えんとするならば、決して避けては通れぬ相手」


それの意味する焦点は、ひとつの帰結にしかありえない。


「“その時”を迎えて、なお、霞殿や華雄殿が、我らと供に戦えるか。戦えぬ、なら…………」

「――――――斬らねばならぬ、な」


一言、云う。

ひっそりと、はっきり、春蘭はそれを口にした。


「敵となるなら、斬らねばならない。たとえ同胞であり、共に飯を食った間柄であっても。それが乱世の所作、なれば」


凛とした声、彼女の良く通る、張ったような爽やかな声。

いつもと同じ色で、いつもよりも静かな語気である。


「霞と華雄が、たとえどちらに付こうとも、そしてひいては、我らの身の置き所が何処になったとて、それは変わらぬものであろう」


流れるように、すらりと伸びた黒髪。ぴんと立った腰、背筋。

清廉の美女は、軍人の顔でそう言った。

あどけなげな眼も、隻眼も、まっすぐに、同じ向こうを見据えていた。


「……ふーむ」

「何だ」


しばらく、黙っていたと思ったら、何やら、星がひとりごちる。

神が削り出した様な顎に、白魚の様な長い指を添えて、人差し指で紅い唇をトントンと叩きながら、まじまじと、一見、神妙に春蘭の顔を覗き込む。

あまり首を振り向かせず、片目だけ、流し目のようにして見遣り、いぶかしげに、春蘭は問い返した。


「いや、なに、立場が人を作ると巷では申すが、あの可愛らしい春蘭も、兵を率いて数年すれば随分、将軍らしくなるものだな、と」

「ああ?」

「まあ、私は二年前の、反董連合の頃からの春蘭しか知らぬが。お師匠がよく、若かりし頃のお主の話を聞かせてくれるのでな」

「な!?」

「最近、随分大人っぽくなってしまったが、ときたま、出会った頃のように初々しくも愛らしい顔を見せてくれると」

「な、何を聞いた!? 何を聞いたぁー!?」

「はっは。それはもう、いろいろと」


がなる春蘭を、文字通り尻目において、かぽり、かぽり、と、馬を進める。


「しかしまあ、私も、お師匠のように、したり顔で悟った風な物言いをするお主より、そうやってコロコロと表情を変えるお主の方が、面白いし、可愛らしいとも思うよ」


顔に血管を浮き上がらせて、ぽかんと開いた口から、八重歯が覗いている。

対して、振り返った星の顔は、非常に涼しげ。


「さて、では、私も前衛に往こうか。後曲の統率は頼みましたぞ、惇将軍」

「ぐ……!」


首まで真っ赤にしながら、ぎりり、わなわなとふるえる春蘭が、カラカラと笑って去っていく星の背に、吠えた。


「おっ……お前こそ、そういう、話の腰を折って、人をからかって茶化す所が、あの男とそっくりなんだーっ!!」






「暇だなあ」

「暇でございますねえ」

「くあ……」


食事処の午前中は、時が止まったかのように穏やかだ。

その番台の所に設置された二畳ほどの畳で、将棋盤の前に置き石のように胡坐をかいた、“青年”。

獅子の様な大あくびをする。日向ぼっこでもしている、それであるかのような表情で。


「縛られている時は、無性に抜け出したくなるものだが。一旦、糸の切れた凧のようになってみると、ふと、道筋の決められた生活が恋しくなったりもする。人とは、難儀なもんだ」

「ほう、旦那も、そういう生活を経験した事があるのですか。宮仕え、お勤め奉公……」

「いや、無い」

「……で、ございましょうな」


ずずず、と、緑茶を啜る。蜀の方から仕入れてきた新茶だ。

その掌は、すっぽりと湯呑を覆ってしまうほど大きく、その指は、べったりと張り付くように長い。

この大きな手は、ある時は絵を描き、ある時は像を彫り、ある時は剣を振るう。その得物が何であれ、たとえば筆であれ、のみであれ、あるいは太刀であろうとも、気紛れの様に、余暇の暇潰しの如く手の中で遊ばせるだけで、たちまち、絶人の業となってこの世に現れる。

絶技を生み出す、閻魔の指先。それが織る天外の造形物があれば、糧を得る事に困りはしないのだろう。

凡人は、それを得るために死に物狂いで働き、社会に適応し、あるいは、それが叶わず、死ぬが。それは、凡夫の理屈。彼は、凡夫ではない。そこに“居る”……存在している、というだけで、価値が発生してしまう人間なのだ。

そういう事は、確かにある。


「まあ、軍属様がお暇なのは、泰平の証でございましょう」

「俺が暇なだけで、戦っている連中はたくさんいる」

「それは、旦那がそれだけ上の格に上がっているという事で」

「冗談言うない、大御所で軍を動かしとる大将より、ど真ん前で敵に突っ込む兵卒の方が英雄だ。たとえ、歴史に残るのが武将の名であり、兵は埋もれるものであっても」

「そういうものですか」

商人(あきんど)は、まあ、暇であるほど優秀な証だろうがな。自分の靴を汚さねば汚さぬほど、上等」


盤を挟んで対面に据わる、白髪の目立つ初老の親爺。皺の目立つ、張り付けたような人の良い笑顔で、細い眼でしみじみ、茶を啜る。

すっと伸びた姿勢だが、身体の線や骨格は、武蔵と比べれば、巨人と小人のそれである。


「そんなに暇なら、葬儀屋でもやったらどうだ?」

「葬儀屋?」

「これからの鰻登りの産業だぜ。間違いなく」

「これは、これは……」


感情の読めぬ表情で、その場にたゆたう、時が緩やかになったかのような空気と同じ、静かな調子で、其処にある。場の雰囲気と、すっかり調和した落ち着きがあった。

枯れ節の様な指先が、ぱちり、と、駒を弾く。小気味の良い、乾いた音がした。


「さすがに、算盤を弾く手間と手形を検分する忙しさくらいは無ければ、おまんまの食いっぱくれでございますがなあ。こうまで暇ではね……はい、王手」

「この時間帯は、こんなもんだろう。昼飯時は、もう少し先…………ふむ」

「最近の小競り合いばかりではねえ。黄巾、虎牢関のような大戦でもあれば、再び、特需で稼がせて頂けるのですがなぁ…………詰みでございます、よと」

「むっ……相変わらず、罰当たりな爺だのう…………しゃあねえ、次は囲碁だな」

「手前どもは、利を商う者に御座いますゆえ。建前を商うのは、士太夫様方の稼業でございます……はて、遅れを取った方が片付ける、という決まりであったと記憶しておりますが」

「負けとらん、次で返す」

「旦那には敵いませぬなぁ」


低い声で微笑し、親爺がゆっくりと正坐から膝を立てて、奥の間の方に一旦、引っ込む。碁盤を取ってくるのだろう。

武蔵は肘を付いて頬杖をかき、盤上を一瞥して、それから、表の通りの方に視線を移し、少し、陽の光を眺めた後、しげしげと、将棋盤を片づけ始めた。


「――――――武蔵さまは、武蔵さまは、おられるや!!」


止まりそうなほど、緩やかだった時は。

氷を叩き割るような、その鋭く焦った声によって、一気に外界と繋がり、流れ出した。


「あん?」


いきなり駆けこんできた、声の主。

何の危機感も無い返事を返した武蔵と、実に対照的に、肩で息を吐いていた。

やや背の高めな、すらりとした短髪の娘。軍指定の制服を着用していて、すぐに、曹操軍の者であるとわかった。


「むっ、武蔵さま! 急報! きゅ、急報にござります!!」


ちょうど奥間から戻って来た、碁盤を抱えた親爺が、細い目を、さらに訝しげに細くする。

それにも気付かず、遣いの女は、軍礼をとりつつ、いまだ、焦りに浮足立つ舌を、なるたけ早く回すべく、努めようとしていた。


「洛陽が…………帝都が、陥落!! それに、こっ、皇帝陛下が…………!!」

「何……?」

「なんと…………ッ!?」








「お前が、天子か」


馬上から見下ろした、白銀の瞳。

それを迎え撃つのは、美しい青だった。まるで海の如く、深く煌く様な瞳。

この国で最も高貴であり、侵されざるべき存在は、今、地べたの上に捕えられて、血の付いた得物を携える者たちの見降ろされていた。


その、黒鹿毛の獣達が、一足、訪れ、侵した瞬間――――――

永遠の都は、瞬く間に殺戮の焦土と化した。

電撃の如く洛陽に攻め上った涼州軍。反逆の羅刹ども。彼らがひとたび咆哮するや、帝室直属の精鋭部隊は為す術もなく、土くれの様に打ち砕かれた。

疾風の征服者は、その狂猛な速度に任せて疾走し、都として培われた、洛陽のことごとくを虐殺していった。

国境守備隊を蹴散らし、侵されざれるべき洛中を蹂躙して、帝のおわす嘉徳殿にまでも攻め入り、皇族も貴人も大臣も、関係なく皆殺した。そして、皇帝をも玉座から引き摺り下ろし、その御座も打ち壊し、宮廷を破壊した。

漢朝の栄華のすべてが焼かれ、暴かれ、踏み躙られた。


「王允の首は獲ったのか」

「はっ、ここに!!」


黒く燃え尽きた、宮殿の跡。人の脂と血の臭いのたちこめる、屍の山の中で。

近従の兵士が、即座にい出て首を差し出す。

掲げた生首は、皺の深いこけた頬を、断末魔に歪ませていた。鷲掴みにぶら下げられた、白髪。

ただの老人だった。陰謀によって漢朝を牛耳った梟雄の顔も、かつて横行する汚職を弾劾した硬骨漢の表情も、名門王一族の長たる気品の色も、既にそれには無かった。見開いた、何も写さぬ開き切った瞳孔は、ただ“怖れ”のみを映しており、もはや人間ですら無く、肉の剥製に過ぎなかった。

帝国の執権が、為す術もなく討たれたという事実――――――

紛れもなく、漢帝国の首都、洛陽は、たった一夜にして壊滅したのである。


『……貴様ら! 地を這う下賤の分際で、日輪に手を掛けて良いと思うておるのか!!』


無遠慮で無配慮な、その首実検を目の当たりにしても、人馬一体の悪鬼どもが跋扈する軍中に、ただひとりひっ立てられたその子は、身動ぎもしない。

十二歳か、そこら。美しい金髪だった。それはかつて、この国を建てた男、劉秀と同じ髪。

朝服を纏い、天冠を被った少女は、少年のようにきッと眦を締めて、気丈な表情を崩さなかった。


「あァ? 何言ってんだ、この餓鬼」


無頼な気配を隠そうともせず。

血塗れの李確が、野放図にそう言い放つ。


「何て喋ってんだか、さっぱりわからんぞ」


皮肉の色ではなかった。

言葉として通じていない、そういう語気で、李確は言った。


「……我々胡人・南人…………非漢民族出自の者が使うのは、かつて劉秀が我らの祖先を支配した際、漢人と意思の疎通を図りやすくする為に作った、云わば公用語だ。現在は漢民族を含む殆どの民族間で、訛りの差異を抜けば共通語として通じるが」


敵の(はらわた)を革鎧にこびり着けた郭汜の声は、不気味なほどに、怜悧、冷淡。

まるで、黒金の様な男。


「皇族は下々の俗言語など学ばぬのだろう。この子の使っているのは恐らく、外来語や他民族言語の影響を受けていない、高祖の時代から変わらぬままの、元来の中華語だ。漢人同士でなければ通じまい」

「……へえ。そりゃア、難儀な家に生まれたんだなあ、この餓鬼もよ」


小指で、耳の穴をかっぽじる。李確が、無頓着に。


「下賤な蛮族と話す言葉などねェと、当たり前に育てられた。それがどれだけ傲慢な事なのかにも気付けずに、最後はワケのわからねェ言葉で話す蛮人に囲まれ、ワケのわからねェまま振り回されて頸斬られるんだ。漢人はそれを“天命”というらしいが。俺ァ、ごめんだな。よりによって皇帝が、だぜ。何もわからねェガキだってのによ」


ぬらりと光る、その矛には、どろどろの肉の破片が、べったりと。


「しかし、まア――――――さいなら」

「…………っ!」


凛とした瞳、その奥に潜んでいた“怯え”が、初めて、表に姿を出した。

それは、ただの子供の顔であった。

だが。

その切っ先に、躊躇いは無いのだろう。


『陽の沈む帝国だったってだけの話さ』


振り上げられた矛――――――それが、止まった。


「……?」


李確が、訝しげに高順を見遣る。薄笑いを浮かべた眼は、眼下の天子の目を見ていた。

彼が一言発した、耳慣れない、聞き取れなかった言語が、天子の眉間を的として、突かんとして弓を引いた李確の矛を、引き絞った頂点で止めさせた。


『劉邦が前漢を建て、王莽に滅ぼされるまでが二百年。劉秀が後漢を建て、俺に玉座を暴かれるまでが二百年。日没には、丁度いい刻じゃないのか?』


思わず、息を呑んで開いた唇を、はっとして締め直し、瞑り掛けた瞼をきッと開いて、先ほどと同じ顔を作って、再び高順を睨む。

まだ、震えの収まらぬ瞳で。健気にも、幼い顔を張り詰めさせながら。

高順の表情は、穏やかで、静かで、おもしろげだった。


『荒地の月を見た事はあるか?』


皇帝(みかど)は、帝国の太陽。天子は社稷と同義であり、玉座に天子があり続ければ、国は明るく照らされ続ける。

日が沈めば、夜が来る。凍えた夜だ。そこでは星々が煌めいては落ち、人を食う餓狼が跋扈して、互いを食い合い、月に吠える。

冷たく、長く、暗い夜だ。


『吹雪の山を、荒れる海を、原野の獣を、骸の転がる戦場を。都の外にあるあらゆる世界を、歴代の皇帝は見る事もなく死んでいった。お前の父も、爺も、玉座のある豪勢な宮殿が、こんなに簡単に攻め落とされる砂上の楼閣であるとすら知らずに、惰眠を貪り続けて一生を使いきったんだぜ。哀れなもんさ。天子と呼ばれた奴らの天下は、この洛陽と言う桃源郷の中だけで完結する狭いものでしかない。そこまで萎んだ日輪に、今さら世の中を照らす力があると思うか?』


不可思議に妖しい輝きを持つ、白銀色の瞳。冬の月のようなそれ。

天冠を頂く少女は、見上げながら、しかし、逸らす事は無かった。

高順の紡ぐ言葉は、他の誰にも、意味のあるものとして伝わらない。その言語を理解出来るのはこの場でただ一人、その少女のみである。

故にそれは、両者の一対一の対話に他ならなかった。


『幾つかの空を観てみるんだな。そうすれば、この洛陽の空が、如何に浮世離れしたまやかしか……少しはわかるだろう。知った所で、お前にとってそれが良いのかは知らないがね』


高順は少し笑い、鼻からすり抜けるような息をひとつ吐いて、丁度、李確の矛の切っ先の線上の上に、遮る様にして右手を掲げた。


「連れて行け」

「はッ!」


皆に通じる言語で、一言で指示を出した。

近従の兵士は、なぜ、とは問わない。兵の指導者に対する返答は、いつでも応の一択である。

後ろ手に縛った縛を引いて、馬にまたがったまま、兵士は少女を連行する。

たとえ天子であったとしても、縄を打たれれば単なる捕虜である。それが涼州の所作であった。


「あのガキは、俺が預かる」

「何?」


唐突な言葉。

思わず、と言った風に、郭汜と李確が高順を見返した。


「小間使いが欲しかった所だ」

「正気か? 天子サマだぞ、皇帝だぞ? 殺せよ」

「ただのガキ一人に、拘る事もないさ」

「子供ではない、帝だ! 漢帝は漢人にとって国家の象徴、即ち、我らにとって打倒の権化! それをただの、とは解せんな。まさか今更、幼子を憐れむ等というわけでもあるまい」


高順が一歩、馬のを歩を進める。静かな蹄の音とともに、おもむろに辺りを見回した。

漢朝の栄華の象徴であった嘉徳殿。帝居は見る影もなく焼け落ち、崩された御座に皇帝は居ない。

涼州兵は、すべてを奪い、滅ぼし尽くす。彼らの攻め入った土地の、後には荒野しか残らない。二百年間、彼らはずっとそうやって生きてきた。


「今すぐにあの天子の首を掲げ、天下万民に向けて大号令を発せよ! 帝国は死んだと!さすれば胡人・南人のみならず、漢に虐げられてきた異民族のことごとくが、漢帝国打倒の為に立ち上がる!!」

「他人の武に頼るのが、俺達の戦か?」


不敵に嗤うのは、美しく光る、刃の様な横顔である。


「天子なら、俺達が宮殿に押し入って、玉座から引き摺り下ろした時点で死んでるよ。俺達は、間違いなく漢の帝を殺したのさ。漢人のガキ一人、殺そうが殺すまいが変わらねェ」


一歩、一歩、高順の跨る汗血馬は、賢くも器用に、まるで人の様な足運びで、階段を昇る。

焼け落ちた、見る影もない玉座に向かって。


「俺達は誰の言葉にも左右されずに己の意志で戦い、中華のすべてを敵に回してこの戦いに挑むんだ。それが俺達の誇りだろう。そして俺達は、自らの手で漢の幻想を屠り、自らの手で漢の残骸を殲滅する。乗っかりたい奴は、乗せてやればいい」


玉座の傍まで登りきったとき、強い風が頬を叩いた。

高く、聳え立つような宮殿の壁も天井も、もうこの天子の御座を囲ってはいない。

全てが焼け落ち、壁画は風、大天井は青空。すべてを取り払ったそこからは、洛陽の街がよく見えた。

内城の外側にある、碁盤の様に整理された洛陽の商業地域、その真ん中を貫くような大通り。郊外に居を構える、装飾鮮やかな貴人の邸宅。

燃やし尽くされた桃の庭園が目隠ししていた、都市街の外れにある痩せた寒村、そのそばに連なる様に形成された、生塵臭い貧民窟。

いまやそれらに区別は無く。ただ、血染めの路と、山の様な死体だけが、すべて等しい。


「どうという事もないもんだな、こうして観ると……」


帝都の、郭の中にある全てが、高順の掌にすっぽり収まる大きさだった。


「宋憲」

「はっ」


振り返る、壇上の騎士。

その一騎に施された化粧は、血のりと戦塵のただ二つ。

甲冑も、馬鎧も直垂(ひたたれ)もない。剣と弓と、強靭な肉体だけを持っていた。


「洛陽の富は奪い尽くしたか」

「牛馬に稲、備蓄の飼料に金銀財宝、陵墓に納められた副葬品。庶人・貴人の区別なく、すべて万端、完了しております」

「よし」


涼州の戦士が、自ら何かを生み出す事は無い。すべては、戦いによって奪い取る。

それが、宿命。


「じゃあ、滅ぼすか。漢が俺達に命じた、二百年来の(さが)に従って」


白銀の瞳は、ただ、遠い大地を見据えた。



「――――――皆殺しだ」



涼州軍南下、洛陽陥落――――――そして、漢帝廃位。

西に住まう騎馬民族の電撃戦は、中国全土を震撼させる事となる。

ただ、その衝撃の報せが全土を巡るよりも疾く――――――彼らは、次なる獲物を食い千切りに掛かっていた。


お久しぶりです。

最近、リヤルがトンと忙しく、全く書き進めておれません。

なので、描きため分を放出します。申し訳ありませぬッ

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