なぎの間編・六十三話―――――――「かつての」
腫れモノ扱い、というわけじゃないが。
糜芳は少し、変わった存在だった。
名門・糜氏の落ちこぼれ、学の方はからっきし、得意なものは腕っぷし。
そもそも、蘆塾は学問を修める所だ。だから、彼の様な人間には、皆、近寄りがたかった。
悪い遊びは、しなかった。もっぱら、彼は剣を修めた。
それしか、やる事が無かったとも言えるが。勉強が出来ないのだから、必然だ。
――――――青春の記憶と言うのは、宝の様なものだという。
それは、ただ、愚直に直向き(ひたむき)に、自分を信じていられた時間だからだ。
『がァッ!』
『――――――ふッ!』
糜芳が突っ込み、木剣を振るう。相対した男がそれに合わせ、構えた長柄の得物を真っ直ぐに突き出す。
――――――もう、追憶となった記憶だ。
はたして、糜芳の打ち込みは届かずに空に泳ぎ、それと交錯して、たんぽ槍の穂先が強かに、彼の右目の上を捉えた。
『ッ!! ぐっ……』
顔が跳ね上がり、たたらを踏む。
目をちかちかとさせながら、堪えて、崩れた体勢を立て直す。
泳ぐ足を踏ん張って、腰を再び立てると、気炎を相貌に点し、強い表情で、顔を上げた。瞼は腫れ上がり、鼻血は出て、身体にも、既にいくつも痣がある。口の中も切っていた。
眼の前の青年は、汗こそかいているものの、まったく綺麗な顔のまま。有効打を当てても、すぐにまた、元の澄ました構えに戻る。
すらりとした、立ち姿だった。
若々しい、涼しげな切れ目、束ねた長髪が翻る。
夏夜の爽やかさ。薫風の如き男。
『ッ――――――まだまだァ!!』
『フッ――――――』
雄叫ぶように、裂帛の気合いを上げ、糜芳は再び打ちかかる。
男もまた、口元に爽やかな笑みを湛え、身体を躍動させて、それに応えた。
暗闇も、疑いも、痛みも無い。眩しいばかりの青い時代。希望の塊だった頃。
ただ、ひたむきに、あるがままでいられた時。
彼が自らのそれを思い返すとき、その中では決まって剣を振っていて。
互いに切磋琢磨した、自分よりもずっと、目映かった男に挑んでいた。
もう、十年以上も前の事である。
「――――――しばらく見ねェうちに、随分まあ、おっかねえツラになったじゃねえか。ええ、関行よ?」
一定の間合いを保ち、ゆるり、と、歩みを横に滑らせる。視線は、外さない。
まっすぐ伸びた背筋、涼しげな形の目元、気品のある細面。そして、一房にまとめられた、艶やかな黒い長髪。
元は、優男の様な、柔らかい印象の顔立ちだったのだろう。
だが、唇の端から顎先にかけてと、右目の下から耳まで一気に横たわって刻まれた、それぞれの疵痕、そして落ち窪んだ目と眉間の険しさが、野生の狐の様な、独特の威圧感と、刺すような圧迫感を、相対するものに与えた。
「そりゃあこっちのセリフだ。草臥れた面になりやがって、一瞬、誰だかわからなかったぜ」
関行もまた、それに合わせる様にして、歩を進める。
円のように、互いに。なぞる様に、違える様に。
一筋の風も、そこには無い。ただ、生ぬるい空気が肌をまとっていくだけ。
「で―――――――……やるのか? 糜芳」
「やるのか? って……そりゃー、おめえ……」
ゆらり、と。
視線は外さず、うなだれる様に、覗きこむように、首を傾ける。草臥れた面、無精髭。
黄色い頭巾。
「かつての剣友が、戦の外れで鉢合わせ……片や大将、片や兵卒」
くっ、と。
その、痩せぎすの長身が、右肩をしゃくり、竦めた。
「勝負だろうよ」
「――――――だろうな」
ぐん、と、大きな旋回音を鳴らし、青龍偃月刀が翻る。
片手に引っかけたままだった、既にべっとりと血を啜ったそれが、辺りの空気を一遍に捲き、その凶悪な切っ先を剥く。
「結局、俺に勝った事は一度もなかったよなぁ、糜芳よ」
「……ああ――――――だから今夜は、最初で最後の白星だ」
両者の間合い。言い表せない、独自の、間合い。
二人が、図っているのは。
果たして、間合いか、呼吸か、拍子か――――――それとも、別の何か、か。
「変わったなァ」
「ああ」
「……人殺しの、ツラだ」
「お互いに」
変わった。物腰も、口調も、雰囲気も人相も、互いの間の空気感も――――――
「「ッツ!!」」
――――――そして、声もなく組み交わされる初太刀の感触も、
懐に飛び込んでいく瞬間の、全く表情を変えぬままの顔付きも、おそらくは。
「これで、終いか?」
血をたっぷりと吸った地面を、十二文の草履が踏み締めた。
既に、戦場の喚声は聞こえない。余韻だけ。
つわものどもが、夢の跡。敗者達は、屍となった。
すっかり勢いの衰えた火の手が、そこらで燻ぶる様に、パチパチと音を立てているだけだ。
「隊長、汗を……」
「ん」
武蔵の傍らに侍ってきた凪が、武蔵に対し、手拭いを手渡す。
そうして、岡目にはろくに息も乱れていないように見える巨漢が、生返事をして受け取り、顔と、髪の毛の張り付いた額を拭う。気が利く事に、ほんの少し湿らせてあった。
ぬるり、と、気味の悪い感触がする。あぶら――――――布の水分と相俟って、中途半端に融け出した、それ。
まとめて、一通り、拭き取った。手拭いには、薄く引き延ばしたような赤い滲みが、じわーっと付いていた。
それは、武蔵の血ではない。汗と混じった、返り血。
誰とも知れぬ、転がっている、誰かのもの。
「きゃーっ!?」
「なんだな、沙和。でかい声出して」
「な、なんか目玉みたいなもの、踏み潰しちゃったのぉ~!!」
「ケッケ、ンな、きゃるきゃるした靴で来るからだろーがよ。軍足で来い、軍足で!」
「うぅ~……買ったばかりだったのにぃ!」
デクとチビの間で、沙和が両拳を胸の前に持ってきて、素っ頓狂な声と一緒に、ぴょこんと、小さくとび跳ねた。
地面の上には、細切れになった肉片が、血だまりの上に散乱していた。
靴の裏に、べちゃべちゃと、ぬめり付く。泥と混じった、それ。
中身の食み出た骸に、吹っ飛んだ肉体の破片。それが生きて動いていた頃、中にぎっしり詰まっていた、赤身、赤身、血液、血液。
臓物。割れた骨。
惨たらしいのを修羅場と云うなら、これを修羅場と云うのだろう。
“凄惨”が飛び散っていた。
こうなっちまえば、もう、解体される家畜となんら変わりはしない。人間と言ったって。
極限の緊張の中、最後の瞬間までたっぷりと恐怖を味わい、温い血を抜かれて死んでいく。体に食い込んでくる白刃に、慈悲はない。
「……で、こいつらは一体、何だったんだ?」
「傭兵、の、ようなものだな」
赤黒くて生臭い足跡を付けた、武蔵の背中に、夏侯淵が声を掛けた。
「ほう?」
「関行は、各地で乱を起こす反政府勢力から、所属や思想を問わず金で仕事を請け負い、戦場への従軍や破壊工作を行う事を生業としている、傭兵集団の頭目だ」
「ふうん。撃退のみならず、壊滅に拘ったのはそういう事か」
「ああ。関行を捕える事ができれば、奴に依頼をした者が誰なのかを突き止める事が出来る。乱の芽は叩き潰さねばならん」
群雄割拠に伴い、出現したのが、関行のように武曲を率い、金で依頼を請け負って、各地の戦争・紛争に参加する、傭兵集団である。
彼らは多くの場合、所属や政治思想を問わず、積まれた金の額で味方を決める。まさに、乱そのものを生業としている男たちだ。
しかし、為政者にとっては、金さえ積まれれば何の遺恨も理由も必要とせずに、武力を行使してくる戦闘集団は、要するに、常に敵であるのと同じ、危険極まりないテロ集団である。
それに、彼らに、曹操軍の所領を脅かす仕事を依頼した者が誰か判明すれば、誰が次の乱を起こそうとしているのか、明らかになる。
「しかし、首魁の関行を捕らえたという報は、まだ入ってはいません」
稟が、眼鏡の縁に人差し指と親指をひっかけ、やや、低い声で、そう言う。
「関行というのは、どういう男だ?」
「さあな。何処から流れてきたのか、どういう経歴の人物なのかもはっきりしない。ただ、黄巾の頃から、黄巾党や黒山などらの引き起こすドサクサに紛れて、各地の紛争に参加するようになったようだ」
「お前は、二度ほど奴と切り結んだらしいな」
「別に、一瞥か、二目ほど顔を見たに過ぎんが……腕の立つ男であるし、機知にもそこそこ、富むのであろう印象はあった。ただ……諜報によれば、奴は昨日までの味方を裏切って敵方に付き、かと思えば寝返る、という事を、何度も繰り返してきたそうだ。そして特定の勢力には肩入れせず、各地の戦場を武曲を率いて転々と渡り歩いている。単純に、金を多く積む勢力の味方に付いて、戦争に加担する。奴には、政治思想によって左右されるという事は、全くと言っていいほど、無いと見える。傭兵らしいといえば、極めて、らしいがな」
我々、曹操軍には、何の遺恨があるわけでもないのだろう、と、後に続けて、秋蘭は休めの足を取り、普通の女よりも、かなり高い位置にある腰に、右手をひっかける様に添える。
「所詮、何の主義も主張もなく、この場に拘る事もない。逃げ足は速かろう。そういう類の輩であるからこそ、確実に仕留めねばならん。野に再び放てば、また新たな戦の種を作り続ける」
秋蘭は、冷たい語調で言った。
「……………………そういえば」
ぽそり、と――――――鈴の鳴るような、小さな声が聞こえた。
視線の、遥か下の方。ザンバラのざらりと長い銀髪、ほとんど顔を覆ってしまっている前髪の隙間から、青い瞳の覗く極めて小柄で細身な少女が、おもむろに呟いた。
「どしたん? 陳恭」
たゆん、と、豊満な胸を揺らして、小さな彼女の顔を覗きこむように、真桜がそちらを向く。
「アニキが居ないね」
その催促に応えたのは、陳恭ではなく、そのすぐ隣に侍る様に立つ、肩に乗せた白樫の棒杖を血みどろに染めた、李通だった。
「――――――っ!」
闇の中に、鈍い銀色が煌めく。
すれ違いざまに切り結ぶが如き、飛び込んだ一瞬の交錯で、剣閃が弾け合った。
「…………」
衝撃の余韻は、すぐに、その場に置き去りにする。
一合結び、即刻、離れた。およそ、二間ほどの距離。
素早くこなす身体を構え直し、切っ先の向こう側を見据える。
相も変わらぬ偃月刀、分厚い、武骨な冷たい刃が、牙を剥いて待っている。
朧な月明かりだけを照り返した、黒金に近い、鈍い銀色。その大雑把な刀身は、既に啜った人間の血脂で、赤黒くぬめってる。
向かい合った、その、重っ苦しい切っ先は、こっちの喉笛の奥の奥――――――
どくどくと脈打ってる塊の、ど真ん中を抉り取ろうとしてやがる。
――――――洒落くせえッ
「しゃッ!!」
鋭い息吹きが、歯と歯の間を突いて出た。
蛇のぜん運動のように身体を翻し、低い姿勢で、再度、その長身痩躯は一息に突っ込んだ。
「ッツ!!」
鞭のように身体をしならせ、飛び込んでくる。滑る様に、這う様に。
――――――速いッ
暗闇からぬるッと、抜け出してくるような感触で、迫ってくる。こっちを向いた剣先は、まるで、べろべろと獲物に向ける蛇の舌。
かつて、何千度も組み交わした太刀筋が、違って見える。
木剣にはなかった。氷のように冷たい、金属製の光沢。闇に灯る、鈍い、銀色の、剣先。
その、眼。
なるほど。
これが、お前の――――――“殺意”か
「ッ!」
長い腕が、諸手突きを打つ。ギリギリの間合い。細い薄刃の切っ先が、関行の頬、そのすぐ横の空気を刺す。
関行が一足、下がる。ノッポがそのまま足を進めて、おっつける様に上段を打っていった。
「っ!?」
しかし、それに反応した関行の手に、手応えはなかった。
その細剣は、一旦、見せた面打ちの挙動から、まさに蛇のようにいやらしく、変則的に軌道を変えた。
弧を描くようにし、外から回し、下段を打つ。
半身になりつつ、片手だけを伸ばすようにして打ったそれは、剣先の方で、関行の脛を捉えた。
「――――――チッ」
ノッポは、舌打ちをする。コッ、と、くぐもった衝突音。
柄を握る右手に返ってきた感触は、肉の柔らかいソレではなく、弾かれる硬い感触。
服の下に、脛当てでも巻いていたか。
「…………!」
出足を取られた関行は、一言も発する事はない。
だが、その瞳には瞬間的に瞋恚が宿った。
不覚――――――味な真似をッ。
「ッツ!!」
「っ!?」
関行は一旦、自ら構えを解いて、無形となると、顎を引いて身体は前へつんのめる様に、頭だけ突き出すようにして、頭突きを見舞う。
それは、強かにノッポの鼻っ柱を捉えた。
「ふかッ……!」
ゴッ、と、重たくて嫌な音が、骨の内側を通って響いた。
鼻を摘まんだような、間抜けな声が、口と鼻の境目あたりから漏れる。
塩酸の様な感触が鼻腔にもわりと広がり、両目に涙が薄く、滲む。鼻を潰されたが故の、生理現象。
奥の方から、どろっと、熱さがせり上がってきた。
「――――――ふんッ!」
ノッポの顔が、仰け反る。それによって、空いた、空間。
それを使い、偃月刀特有の、丈の詰まった短い柄をこなし、目にも止まらぬ下段を打つ。
「ッ!」
発火のように、鋭い払い。右足に襲い掛かる。しかしよっては、受けるも受けたり。
ノッポはそれに反応し、猫のように飛び退いて、避けた。
「――――――……ッツ!!」
しかし、それは関行の織り込みの内。
すぐさま、ノッポも、“避けさせられた”事に気がついた。
間合いが、開いている。
青龍偃月刀を、渾身の力で振り切れるだけの。
「さァッツ!!」
思い切り振り切った、真一文、水平薙ぎ。
後ろに傾いていたノッポは、かろうじて得物を盾に、正面からそれを受けた。
「うおッ……!?」
稲妻の様な炸裂音、そして、森の中の暗闇に、稲光の様な閃光。
衝撃に、身体ごと大きく後方にずれ、二間ほども、すっ飛ぶ。
尻もちをついた。ノッポはその勢いを利用して、身を転ばせ、そのまま立ち上がって、構えた。
「…………」
じりッ……と、互い。一転して、静かに。
「……相変わらず、小賢しい変則ばかりが得意な男だな」
「へっ、てめえだって、馬鹿力でゴリ押しするだけの、変わり映えしねェ戦い方じゃねえかよ」
フンッ、と、ノッポが鼻を強く鳴らす。血が飛んだ。
再び、見合い、機を窺い合う。
ゆる……り、と、抜き足のように、一歩、二歩。互いに、円を描くように歩を送る。
(……ああいう、型に沿った、手本のような突きを打てる男だったか?)
柔らかい地面に、大きめに開いた両脚を張る。
分厚い偃月刀を、重々しく構えた。
(身体の“腰”を飛ばして来るかのような踏み込み、身のこなし。そしてあの、ずるりと、落下するような力の剣法……あの種の技は、蘆塾時代には無かった)
ひゅるりと、薄く長い、影、形。右片手で柄を握り、自身の顔の横に持っていき、左手は剣先に添える様にして、切っ先をこちらに向ける。重心は、やや後屈。構え自体は、関行が良く知る、昔の頃からさほど、変わってはいない。
だが、自分の体軸ごと、一気に前に送り出すかのような打ち込み、踏み込みの推進力を利用した、身体全体で打つ刀法。
より、前へ、前へ、と。突進してくる、鋭角的な力。
あれは、関行の知る、糜芳の太刀遣いではない。
力強さ、というか、鋭さ、重さ、“疾さ”が、明らかに異質だった。
(…………フン)
技が増えている。そういう事か。
「…………」
見据える、ノッポの眼。
照準は、眼前の、どっしりと居着くような、仰々しい構えの男。
(……ずいぶん、強引に突っ掛けてきやがった。あんなに喧嘩腰の戦い方をする奴じゃア、無かった筈だ)
その、重量感ある得物のもたらす威圧感は、かつてに比べて、まるで衰えてはおらぬ。
だが、今の関行には、それだけではない、何か、暴力的に感ずる類の臭いが纏わっているように、ノッポには感じられていた。
綺麗な、“打物達者”ではない、野生の狐の様な、粗暴さと、容赦のなさ。
(いや……お上品にやるだけじゃァ、人は斬れねえと、よく知ってる……ってトコか)
ノッポが、どうやら折れたらしい、自分の鼻に親指を当て、圧す。
コリ、と、奥から、軟骨の擦れる音がして、鼻の位置が元に戻る。
激痛と、奥の方からさらに、血がどろりと流れていった感触がしたが、その表情を変えるほどのものではない。
ぼたぼた、外に垂れてきた血の塊を、再び、フンッ、と、弾き飛ばした。
「…………へっ」
それは、関行という男が、乱世で揉まれるうちに身に付けた、生き残るための術なのだろう。
――――――死線を越えて。
ここまで、辿り着いたというというわけだ。
お互いに。
――――――ふたりの動きが、止まった。
空気、音、虫の音、月。それらのうち、両者の立ち合いの空間の中だけ、そこに存在するものの吐息が、止まる。
沈黙、静止、見合い。数秒――――――あるいは、一瞬か。
見動きまでも。剣撃の音は無く、足捌きすらもなく。構えたまま、睨み合った瞬間があった。
手は出ない、しかし、その時ですらも。機を、呼吸を、隙を、拍子を。取り合い、読み合う。
せめぎ合っていた。
「また、“待ち”の構えか? 関行」
ノッポが、軽口を叩く。傍目には微動だにせぬまま、構えたまま。目のみ、口のみで、相手を捉える。
「少しは自分から動いたらどうだよ? 横着すんじゃねェや、ビビってんのか?」
「そいつは、三下のやる挑発だぜ、糜芳…………来な」
「けッ」
言葉よりも、脚は速い。
跳ぶ、という動きではない、這うような動き――――――滑走? 否、そういう類とは、少し違う。
沈み込む、そんな感じ。傾き……落下、か。
傾いて倒れる力、落下する力を、推進力、一足の幅に変えている。息を吸うよりも遥かに速く、瞬間的に、そいつは迫ってくる。
関行の学んだ武術に、そういった技法はない。そういった類のものがあるという、知識もない。
けれど、積み重ねられた経験、それに基づく彼の戦闘感覚が、それが、そういう“感じ”だと、皮膚の裏側で、そう捉えさせていた。
「ッツ!」
速い。
外せず、思わず、受けた。
この初太刀が、鋭い。遠間から一直線に突っ込んでくるのに、それに反応した時には、もう目の前に居る。
――――――だが、技は増えていても。
お前の癖、お前の挙動、お前の拍子、お前の目線は。
「知ってるぞ、糜芳」
「っ!?」
鍔迫りのまま、奥手の方の柄を器用に使って下に払い、足を入れ替えて一歩下がって、剣の間合いから外れつつ、右側から下段を払う。
「ちッ!」
素早い返しからの打ち込み、しかしノッポは、その打ちに速度が乗り切るよりも速く、偃月刀の刃の根元に近い部分を目掛けて、足裏の蹴放しで蹴り返す。
「――――――ッ」
関行は止められた得物を、腕力で強引に、そのまま翻す。
その場で切り返し、今度は上段に向かって、逆袈裟に打ち放った。
「っ!」
スパッ、と、速く、軽く放られた、斬り上げ。
迫る、血濡れの白刃、ノッポが、身を仰け反らす。
一閃とともに、鮮血が飛び散った。
「――――――へっ」
それは、皮一枚だった。
長身痩身が俊敏に反応し、大きく翻って、飛んで、下がった。
「知ってるぜぇ? 関行」
顔面には、鮮血。
草臥れた眼光は、不敵。
「……遠慮すんなよ、関行」
一筋の掠り傷が入った、右目の付近、瞼と眉の間辺りを、親指でピッと拭う。
二度目の血は、滲んでは来ない。浅い傷。出血という意味では、鼻からのそれの方が、よほどに派手である。
戦闘能力に支障はなさそうだが。
「皮じゃア、人は殺せねェ」
闘争において、人は、襲い掛かる刃に対し、それを見止めてから、対処の動作を開始しているわけではない。
一種の矛盾ではあるやもしれぬが、ヒトの肉体が生み出す攻撃は、ヒトの持つ反射神経では、『確認してから反応する』というのは、不可能に近い。故に、如何な達人同士であっても、勝負は一瞬の交錯で決する事がある。
鍛えられた武の一振りが、目標物に到達するまでの時間差は、わずか、瞬き一つする間よりも短いもの。
ならば、その千分の一秒を、如何にして奪い合うのか――――――それは予測で成り立っている。
とどのつまりは目の良さと、経験だ。
剣先の微妙な揺らぎ、腕や肘の動いた方向、足先の含み、構えにおける重心の掛かり具合、表情から伝わる感情、目線が訴える狙い。
間合い、呼吸。
打ち出される、動作の“起こり”。それが伝える、剣の起こり。
それらの情報から、次の動きを予測する。それは、言葉では容易に表わしきれない、勘、と呼ばれる類のもの。
研ぎ澄まされた視神経が、それらの情報をつぶさに捉え、皮膚感覚として伝える。
そして、戦闘経験に基く条件反射と判断力――――――それこそが実戦勘を約束する。
経験則から得られる、条件反射的な判断に基づいて、人間は身体をこなす。
それは危機回避と、ふと、顔を出す、相手の隙を逃さず貫く一撃に、無くてはならない必須の因子だ。
「らしくねェな、関行」
それらの予備動作や戦い方、いわゆる、その人独自の癖や呼吸というのは、たとえ型を変えてもそうそう、がらりと変わるものではない。
いうなれば、“におい”だ。
そいつの発する、殺意の予兆。
この技の次には、何が来るか、こういう場面では、どんな手を出したいか、距離感はどの程度か……
彼らはそういう、お互いの呼吸、手の内を知り尽くしていた。幾度となく手を合わせ、頭ではなく、身体が覚えていた。
「浅いぜ、今日のお前は」
一進一退の攻防、受けては、返す。互いに、二の太刀を繋ぐ暇を与えない。
相手の間合いには、絶対に入らない。
慣れ親しんだ、互いの呼吸、で、あるからこそ、両者の立ち合いは拮抗していた。
「ケチ臭く、チマチマ受け返してんじゃねェや。突っ込んでこいよ、ここに」
ノッポが、左手の親指一本で、自らの胸を指す。
そこは、鼻血がかかった赤いまだらで、襟を汚してはいたものの、未だ、この立ち合いにおいて、刃が肉薄した瞬間は無い。
牙を剥いて、噛み砕く機を狙う、青龍偃月刀。その刃は、まだノッポの懐まで、届いては来ていなかった。
「いや…………」
「あ?」
言葉は続けず、関行は代わりに、少し、冷淡に嗤う。
静かな、笑み。
「もう着いてるんだよ、勝負は」
「ああ――――――? ……ッ!?」
不可解な関行の言の真意を、問いただそうとした、その時――――――
ノッポは自らの右の目に、かッと疼く、熱を覚えた。
「ッ!! ぐっ……」
じくり、と、灼けていく。内側から肉が泡立って燃え上がるような、強烈な違和感。
これは――――――
「こちとら、とっくに童貞じゃないんだぜ。正攻法だけだと思ったか?」
顔の右半分を掌で押さえたまま、項垂れ、耐える様にしていたノッポの顔が、ゆっくり上がっていく。
左目が、涼しい表情の関行を捉える。ノッポの額には、冷汗。
そっと、覆っていた掌を外した。
「…………狡いマネしやがって……」
そこはすでに、ぶす紫に腫れ上がり、炎症を起こした瞼が、右の目を塞いでいた。
――――――毒だ。
青龍偃月刀の刃、それは、ただの鉄ではなかった。
毒の牙。カス当たりだった、あの切っ先には、毒が仕込まれていたのだ。
「…………らしくねェなァ、おい」
附子色が、右目の周りに広がっている。
ノッポは、小さく、小さく、口の中で舌打ちした。
今日道場に行ったら、鍵待ちの生徒が居ない事に気が付く。
珍しい事もあるもんだと、鍵を開けて中へ、そそくさと着替え、待つこと十五分。
……あるぇー? 誰も来ねえ。不審に思う事2秒、思案する事1,5秒、そして気付いた。今日祝日じゃねーか、ちきしょう!!
春香さん並のうっかりを披露し、さりとて突っ込んでくれる人も無く、一人崩れ落ちた、僕。
ま、どうせ誰か来んだろう、と思い直し、基本をやりながら待つ事10分。来たよ、案の定。
平常時の稽古開始時間2分前に高校生2人登場、いつものかったるそうなカンジでドアを開け、入った瞬間「!?」という表情。
「今日休みだおwwww日程表くらいちゃんと見ろおwwwwバカスwwww」と、せっかくの祝日を潰して来てくれた高校生を一通り罵倒し、「お前らのように間違ってくる奴が居るだろうと思って、わざわざやってきて待機していたのだよ!」と説明。
自主練方式でフリーランスな感じでやろーぜー、と言う事で、立ったまま礼、基本やって身体あっためたら、即約束組手、そして残りの時間は全部組手&スパー。ハイペースで進む。子供いないし人数も少ないんで、当然僕も入る。10代怖い。
普段の時間で言う2部に、いつも出稽古に来てくれる中学生登場(本来、大人の稽古は2部からなのであるが、先述の二人は1部から顔を出してくれるのである)、やはり「!?」という顔をする。
再び基本を一通り行い、残り時間はミットと対人稽古ですべて消化。
スパーは気分で縛りを変えつつ、回し回し。やはり顔有りが楽しい。
組手は年少者には配慮する形で。
しかしまあ中高生、勢いは良いんだが、どうしても所々が粗い。ワンツーに右ハイ合わされてどないすんねん。ガード上げろぉ~
……なんて言ってたら、もの凄いキレのいいワンツーが、綺麗に僕の顔を捉える。やべえ、不覚。
稽古終了、全員、血だらけで帰る。組手なんて普段はあまりしないが、たまにはこういうのもよかろう。毎回こんなペースでやってたら死人出るけど。
帰り際、とらのあなに行こうかと思ったけど、時間ないからやめた。
なかじまゆかさんの新作、待ってます。