なぎの間編・六十二話―――――――「在りし日の追憶は、忘却の向こう側で不意に蘇るもの」
十話ごろの設定を、覚えている人が果たしているのだろうか?
俺自身、いつ書いたか忘れていて何話だったか確認したくらいだぜ。
・
怒号が聞こえる。否、これは、喚声か。
四肢と頭を地に投じ、泥と血に濡れた男には、それもどこか、遠く。
―――――――敵わなかった。なにひとつ。何もかも。
関行、簡雍、共に戦った、同胞。それらの安否を、気にやる余裕はなかった。
ただ、脳裏に過る、その言葉だけは、決して受け入れまいとしていたが。
割られた額が、動かぬ五体が。それを現実のものとして、冷たく語っていた。
「…………」
いつもより、ずっと重たい頭。気を抜けば、すぐにでも地に這い蹲った手足のように、沈んでしまいそうだった。
それを、伏す事を掠れた意識で必死に拒否し、目線を上向けた。
上を向こうとして――――――頬と顎がずるずると引きずられ、泥に塗れる。それでも、強引に向く。
靄のかかった脳、自らの額から噴き出した血によって覆われた目では、その姿を、認めることは叶わぬ。
辛うじて見えた影は、長い髪、長い身の丈に――――――携えた、長い長い、大太刀。
「死ぬのか? ……生きるのか」
声が聞こえた。それもどこか、遠く。
必死で繋ぎ止めている意識が拾った、わずかなそれ。
「死ぬならそれは、力無き故」
美しい声だった。さらさらと、水底を流れるかのような。
地に伏す男の、遥かなる頭上から、流れてきたその声は、とても静かで。
怖いくらいに、冷たく、静かで。
「生き残るのも、また…………運命だ」
ただでさえ遠かった声が、にわかに、遠のいた。踵を返した、その声、その視線。
声音はどこか、つまらなそうに。
―――――もはや、興味も無いかのように。
「…………」
待て、と、言おうとした。しかし、男の口がむなしく動くばかりで、喉笛はかすれ、意味のある言葉を発さず。
身体が、とたんに重くなる。泥のように――――――地面の泥と一体に、引き込まれるかのように、重たくなった。
得物を抱く右拳が、地面から剥がれてくれない。着いた両膝は、立ち上がってはくれなかった。
頭が、冷たい。視える世界が二重になる。
ぐらり、と。
血が、失われてゆく。
「…………ちきしょう…………」
意識が遠のいた。すでに、引き戻せない所まで。
朦朧とする中で、引き絞るように、発した声。それは果たして、意味のある言葉として、空気を揺らしたのか――――――
それが、戦の喧騒に去りゆく、艶やかなる鞘を背負った大きな背中に届いたのか、それすらもわからぬまま。
男の頭は力無く崩れ落ち、肉体と共に、地に伏すように沈んでいった。
某日、満月、未明。
時間は、少しさかのぼる。
それは、武蔵隊に、夏侯淵援護の達しが出された、その日のうちの事――――――
「…………」
むら雲の隙間の月明かりに照らされて、夜の舞い降りた静かなる訓練場で一人、剣を振るう男が居た。
長身痩躯。ひゅるりと長い腕に、薄い身体。くたびれた目元に、すれた不精髭。
「っ」
ヒュン、と、細い体がしなると供に、剣先が打ち出された。
青白い月光を照り返すそれは、空気に浸み込んだような、夜を斬り裂く。
――――――十年ほど、前の話になる。
帝室乱れ、国が病む帝政末期、反政府を掲げた騒乱の火は、まず中原より遠く離れた、辺境の地より始まった。
当時の幽州は、中山太守・張温を中心に治められていた。その頃は寒冷地ゆえの不作に、異民族の脅威、さらに中央政府への不満が折り重なって、民心は酷く不安定であった。
そんな折、張温の次官であり、将軍の位に就いていた張純が謀反し、張温を殺害、烏丸の首長であった丘力居と連携して幽州を乗っ取り、漢帝国からの独立を宣言するという事変が起こる。
世に言う、「張純の乱」である。
これに、兼ねてより漢帝国に対して不満を持っていた民衆は、安定王を自称した張純に同調、独自体制を取るようになった。
幽州の保守派志士・盧植はこの動きに反発、有志を率いて張純に戦いを挑む。この時、彼に従ったのは、蘆塾の塾生を主とした若獅子たちであった。
結果的には――――――その闘争は敗北に終わる。しかし、盧植率いる保守派志士は最後の一兵となるまで抵抗を敢行、張純軍を食い止め、壊滅する寸での所で、派兵された官軍討伐隊が到着。共闘し、張純を破るに至る。かくして、幽州は再び、漢帝国の治世の元に戻った。
盧植は、命を賭けて国家の為に戦った功績が認められ、次代の太守に推薦されたが、多くの門人を死なせた事を悔いて、それを辞退。隠遁する生活へと還った。
蘆塾三羽烏などの音に聞こえた名士達も、生死知れずの散り散りとなり、蘆塾は解散した。革命を肯定した民衆は、また何食わぬ顔で、元の治世へと戻ったと言う事である。
鈍色の銀。それは、天上に高き月明かりよりも遥か、暗く、低い光で、鋭く闇に裂け目を作る。
何度も、何度も、何千度も。見飽いた軌跡だ。
――――――十九の頃、以来か。
十一の頃から、ひたすら剣を振り続けていた。今まで、それしかなかった。
――――――今更、その名を聞くとは思わなかったけどな。
一筋に、鍛えた。出来損ないなりに。
積み上げたそれは、初めての戦場で、何の役にも立ちはしなかった。
一閃の向こうに一瞬だけ垣間見えた、否、正確に影を捉えられていたのかも、定かではないが……
…………美しい、男だった。
色の白い、長髪の、鶴の様な大男に、見動き一つ出来ぬ間に敗れて、彼の初陣は終わった。
彼が童貞を捨てたのは、およそ華舞台とは呼び難い、場末の酒場の喧嘩だった。
戦争のゴタゴタをどうにかこうにか落ち延び、ほうほうの体で、裏町をうろついていた時に絡んできた、潰れかけた酔っ払い。
およそ武の鍛練など積んだ事のないような、千鳥足の素人を、緊張の余り肩を強張らせながら、型も糞もあったもんじゃない、大上段の大振りで、夜の闇の陰で無理やり打ち(ぶち)殺したのが、彼に与えられた初勝利だった。
――――――それなりの自信はあった。でも所詮、そんなもんさ。
少年の頃に、供に切磋琢磨した友の行方を、彼は知らない。
何度も手合わせし、稽古を重ねて、そしてついに勝てなかった、あいつの顔も。
思い出す機会も無くなり、灰色の想い出になっていくだけの年月を、彼は経ていた。
――――――大した人間なんて、そうはいねえ。
殆どの人間に、それを思い知る時は来る。彼にも来た。
別に、強くはなかったのだと。
だが。
不思議と、剣を手放す事はなかった。
――――――何故、なんだろうな。
返す者はいない。
ただ、暗い銀色が木枯らしのように鳴き続けるだけ。
「色っぽく月明かりに映えるような、艶やかさではないが」
低めの声が、闇の中から現れた。彼の、背後から。
夜の闇は嫌いではない、彼は、その静かさも。だから彼は、夜を好む。ひとりの夜は、嫌いではない。
誰も、居なかったはずだが――――――
「こうして観ると、その草臥れた背中も中々魅せる」
笑んだ武蔵は、彼よりも、静かに。
深く、色濃く、一層、夜の闇に馴染んでいた。
「悪くない」
構えていた刀を降ろして、武蔵はたらんとぶら下げた。右片手の人差し指と親指の間に、本鮫柄が引っ掛かる。
「稽古の址が窺える」
武蔵が、いつものように気安く、へらりと笑ったのがわかる。
残身を取ったまま、彼は一間ほど足を引いて、そうした後、得物を脇にし、黄色頭巾を下げて一礼した。
「…………」
武蔵は、ふゥ、と。
細く長い息を、雲間からちらりと覗くだけの、朧な月に向かって吐く。
天狗の様な体躯が、薄明るい月光に浸る。
「いい風だ」
するりと――――――右手の太刀を元に納めた。
風、と、そう聞いて、ノッポは、はたとした。風など無かった。
夏、特有の温い大気が、滑らかに皮膚の周りをたゆたっていのを、ぬるぬると身体を覆っているだけだと。
彼は、そう感じたからだ。
「眠れぬ夜だ」
深呼吸のように、深く。
肺に夜闇を満たして、紡ぐのは低い声。
「勝たねばならぬ男がいる」
ふと、点された。
暗闇の中に、ひとつの声。
融けるような語気。
「俺にとってそいつは、もう二度と巡り合うことはない相手だ」
顔は、よく見えない。月は、再び隠れた。
声だけが、低い声だけが、彼に語りかける。
「あの時よりも強くなったのか? 弱くなったのか? あの時の奴との差は――――――どれほど縮まったのか?」
語調は、いつもと変わらない。
まどろむように、比較的平坦な、ゆっくりと。
「それを知るには勇気が要る。それでも行くべきだ」
淡々と。
「そんな特別な奴には、そう何度も巡り合うことはできない」
――――――静かに。
「もし、そいつがふと、目の前に現れたとしたら――――――決着をつけに行くべきさ」
夜は、更けていく。
暗闇の中で、透明な液体を捉える。
茂る木々によって、そのけもの道は闇に閉じ込められていた。星も、届かない。
静けさの中には、囀る虫の色だけがある。
男は、片膝を付いて獣のように、湧いている水を、感覚のみで探り当て、片手で掬い、食らうように、噛み、飲み込む。
清水か濁流かは、判別がつかぬ。温いという情報だけが、舌を伝ってもたらされた。
飲めれば、それでいい。戦場で血を吸うものは、そんな事には構っていられない。
「…………」
濡れた顎を乱暴に拭い、立ち上がって東の空を見遣る。高い所で、空が赤く燃えている。
敵襲を食らった時、この男は伝令を待つ間もなく、一番奥に居ながらにして、誰よりも早く反応した。
得物で林を斬り払い、脚を止める事無く、一気に坂を駆け抜けた。あの赤い空の下に居る、逃げ遅れた仲間は、既に悉く駆逐されているだろう。
だが――――――構わぬ。確かにあれらは、自ら率いてきたものには違いあるまいが。
一人だ。元々。
俺が生き残れば、それでよい。
「…………ふん」
がさり、と――――――気配がした。
忍び寄ってきた。が、殺意を隠す気は無いようだ。
バキバキと乾いた、枝をへし折る音がする。数までは、わからぬ。
方向は――――――後ろ、三方か。
「ッ!!」
一斉に、示し合わせたように掛かってくる。
存外に、速い。この暗闇、この足場であるにも関わらず、迷いが無い。
目玉の端で捉えた、一瞬きらめいた得物は、剣か。柄の短い武器は、障害物の多い山林の戦いに適している。
なるほど。
中々に手練、戦慣れもしているらしい。
男は一息に駆け出し、敵の居らぬと見える前へ抜け、素早く向き直る。
そして、すぐさま、斬って捨てた。
殆ど振り向きざまでありながら、素早く体を決めて、得物――――――青龍偃月刀を突き込む。
それは、刺客の一人の喉を貫いた。その手応えが手首に伝わってきた瞬間、脳に認識として伝達されるよりも、身体は速く反応して、出足を大きく滑らせながら、水平に平薙ぎを打つ。それがまた、隣の仲間の米かみを砕いた。
「…………」
素早く得物を戻し、男は残身を取る。暗闇から、追撃は来ない。仕留めたのだろう。
だが―――――――……構えを解くことはない。じりッと、足の裏を擦って、地面を掴む。
感知器官、なによりも、実戦勘が訴えている。先ほど感じた気配は、三方。であるから、少なくとも三人以上。
つまり――――――まだ、居るのだ。
「…………!!」
襲撃を掛けた、最後に残った兵士は、咄嗟に木を盾にして、身を潜ませた。あの男の、身のこなしを見てからの判断である。
この窮屈な環境、不安定な足場で、奇襲を受けながらにして、瞬く間に2人を斬って捨てた。
一太刀、一合で斬り捨てる腕、並みではない。
長柄の得物を携えているのを確認して、小周りは利かないと見て配置を取ったが、最後の最後で、詰めが甘かった。
あと一足分、こちらの動きを察知されずに接近出来ていたならば、一斉に掛かって仕留められたものを、損なったは、各々、平地よりもそれぞれ一拍、挙動と連携に遅れが生じたが故。
あるいは、こちらの見積もりを超える敵の技量か。
いずれにせよ、失態、とは言え、遮二無二掛かって全滅するわけにはいかぬ。じっくりと粘ってでも、作戦は完遂するべし。
刺し違えてでも、斬らねば。
「ッ!?」
警戒しつつ、木を盾に、隙間から様子を窺う。
が――――――そこには、もう、いない。
すぐ、側まで迫っていた。
闇の中を音もなく忍び寄り、不意に現れた影が、上段に構える。
唐竹割に振り下ろす青龍偃月刀が、バキバキと周りの葉や枝を巻き込んで、唸った。それら障害物は、その力強い打ち込みの切れを、一切、阻害する事もなく。
兵士は咄嗟に、得物を片手だけで振り上げた。しかし、その軌跡同士が交差する事はなく、重苦しい青龍刀の刃が、脳天を打ち砕いていた。
「――――――」
すぐさま、飛び退く。得物を存分に振り回せるような、開けた場所に出る。
片手構えで、周囲を警戒する。一……二……三……四……
「……フン」
――――――襲撃は、無い。
返り血を浴びた身の、神経を解く。
どうやら、あの三人のみであったか。
「――――――しばらく見ねェうちに」
「!」
いや――――――もう一人、居た。
やや、高い所から声が聞こえた。深緑と暗闇に紛れて、姿は見えぬ。
だが、隠れるつもりはないようだ。
「おっと」
バサバサと、乱暴に木々を揺らして、そいつは降りてきた。
小高くなっている、上の坂から、飛び降りてくる。
膝を曲げて、男の前に降り立った。ましらのように、飛び、屈む。
「ずいぶんと、ツラぁ、変わったなァ、関行」
とん、と、降り立ち――――――やがて、ゆっくりと立ち上がる。
やや長身だが、細身。ひょろりと、手足が長い。不精髭を生やしっ放しにし、黄色い頭巾を被った、敵。
男は構えを取りながら、その痩身の男を、訝しげに、見遣る。一目ではわからなかった。
だが、その軽口、その表情。
右肩だけを、しゃくるように竦める仕草を見た時―――――――関行は、その男が誰かに気づいた。
「……! てめえ…………糜芳か!?」
関行が、言った。
「……へッ」
男は動じず、懐を深く取るようにゆったりと立ち、鯉口を切った。
「もう、そんな大層な名前じゃねえ。俺ァ、名無しの―――――――」
そこまで言って、一瞬、言葉を留める。
ほんの少し、本当に少しだけ間を溜めて、何かに対して、鼻と唇だけで、溜息のように小さく小さく笑った後、彼は一気に剣を抜き去り、足を前後に開いて決めると同時に、得物を懐に深くまで引いて、切っ先を向けた。
敵へ。
「――――――ただの、ノッポさ」
覆われた、森の隙間、ちょうど月が覗いて、差し込むように照らし出した。
血濡れた、刃。それは互い相い、鈍い銀色を刺し、向かい。
そして二人の男の貌を、闇の中に浮かび上がらせた。
車の中で、たった一人で「最強のフュージョン!!」を熱唱。
ふと我に帰った時のいたたまれなさったら、無いぜ。
ドラゴンボールのモーションは、恐ろしいほどに素晴らしい。
格闘描写のある漫画は半無限にありますが、キャラクターに体軸が存在していると言えるのは、非常に少ないと思います。
ドラゴンボールは、その少ない中の一つです。ピッコロがドロダボの突きを捌き、構えを下げさせて横蹴りを見舞うワンカットなどは思わず「お見事!」と言ってしまいたくなりますし、ベジータが原作でもよく打つ、腰を沈めて打つ中段突きなど、見るからに重そう。安定した下肢から切った腰を伝わり、体重の乗りきった拳が勢いのままにみぞおちに放られるという、力の流れがたった一コマから伝わってきます。
もし、鳥山明先生になんの格闘経験も無いとしたならば、感覚のみで何となく、あの体の動きを表現しているということでして、これはもう、生半可なセンスではない。ドラゴンボールほど身体の運動を上手く書いていると思える格闘漫画は、僕が知っている限りでは、はじめの一歩、バキ、修羅の門くらい。映像作品では、劇場版DBに匹敵するのはストⅡmovieくらいだと思います(ちなみに、三作品の作者諸兄はみな格闘技や武道に携わった事のある方達で、ストⅡのモーションアドバイザーはあのアンディ・フグさんが務めて居ました)。
鳥山作品を見る際、ついつい、ブルマの生尻とか、ランチさんの寝姿とか、ランファンの脇とか、人魚さんのTシャツの裾縛った、その下のへそとくびれとか、みどり先生のトイレシーンとか、そんな所にばっかり目が行ってしまいがちですが、実はあの格闘描写にこそ、鳥山先生の非凡なるセンスが反映されているのだと思います。
……ふぅ。