なぎの間編・六十話――――――「夜を越えてやってくるもの」
中華の最東端・徐州に、ある二人の兄弟がいた。
彼らの生家である糜氏は先祖代々、官僚や政治家を輩出した事もある門閥であり、莫大な資産、小作を抱えていた富豪の家である。
兄の糜竺はその一族の経歴に漏れず優秀で、幼い頃から将来を嘱望される存在であった。施された英才教育、周囲の期待を裏切る事無く、与えられた課題を常にそつなくこなし、国家最高の教育機関である太学にも、滞りなく合格する。
一方で、その弟――――――糜芳の方はと言えば、優秀な兄と比べると、全くの落第生、といってよかった。
順調にエリートとしてのキャリアを積み上げる兄に対し、まったくもって凡庸なる弟。兄が受ける期待と称賛と同じくらいの、裏返しの落胆を、彼は両親をはじめとした、周囲から向けられていた。
優秀な兄の影に隠れた、落ちこぼれの弟。期待されない存在。彼の評価は、そういうものだった。
それでも、かつての名門・盧塾に拾われたのは、ありがたかったと言える。
中央から遠く離れた、幽州涿県の片田舎であるものの、皇帝の側近である侍中、尚書を歴任した孝廉の名士・盧植が塾長を勤める、かの名塾に入塾できたことは、糜氏の社会的信用と、財力があればこそであろう。
名門・糜家にとっては、出来損ないの厄介払いだったにせよ――――――
生家から遠く離れる形で遊学した糜芳は、盧塾では専ら、文事よりも武芸の修得を好んだ。
学業では上手くいかなかった彼だが、そちらの方は肌に合ったのだろう。盧植の方針から、盧塾が文武の両立を重んじ、学塾としては尚武の気風高い場であったことも幸いであった。
とはいえ、武芸ばかりにのめり込み、学問の方がまるで足らなかった糜芳が、劣等生であったことは変わりないが。
当時の漢の価値観でいえば、社会的地位が高いのは役人だ。出世を望むなら、学がないと話にならない。武官にせよ、文官にせよ、国家の公務に従事する身として、それなりの地位に就こうと思えば、どうしても学問が必須だ。
無学の者が付ける役職はせいぜい、下っ端の警備兵か、門番くらいのもの。
だから出世しようとする者は、皆、学問を修める。どこそこの有名な先生の私塾に入塾して勉強しました、という『学歴』は、官に推薦される際の、貴重な査定要素となる。
国立教育機関である太学は、それら私塾とは比ぶべくもない、最高峰の権威である。ゆえに名門の子は、一族の官吏や知識人の推薦を受けて其処に入学し、将来の高級官僚となるための英才教育と『学歴』を身に付ける。
それでも、糜芳は時流に逆らった。名門出でありながら、学を修める事を嫌い、あえて卑しい兵卒の技術である武を修めた。
尤も、彼にはそうするしか、選択肢が無かっただけなのかもしれないが――――――
机に向かう時間を、放棄するほどの勢いで武芸に傾倒し、着実に剣の腕を上げていく。
やがてその技量は、同門であった簡雍・関行と並び、盧塾三羽烏――――――と、称される程となる。
盧塾三羽烏の剣名は、一時期は涿県、さらには涿郡においても、広く庶人に知られる程であったという。
糜芳・簡雍は学の方はからきしながら、剣においては盧塾の双頭、門下ではお互い以外に並ぶ者なし、という腕前であった。
尤も、それはあくまで、二番手か三番手の争い、という処であったのだが。
誰もが異論を挟まぬ一番手が居た。それは盧塾随一の使い手にして、学問においても一級、塾長・盧植の文武両道の教えを、弟子の中で最も体現したと云われる逸材、幽州の出来人――――――
それこそ、盧塾三羽烏筆頭・関行その人であった。
「兄さん、いい加減起きなやぁ、も~」
真桜が腰に手を当て、起き抜けの猫のような、面倒くさそうな表情、声色で見下ろす。
「兄ぃ~さぁ~ん?」
「ぐぉぉぉ…………」
「……アカンわ、こら」
ぐい~、と、顔を近づけて、捻じ込むような声を耳元に落とすが、眼に映る痩身の男は寝台で無防備にも大の字になり、涎を垂らして一向に反応する気配がない。
「んがっ……がぁぁぁぁ……」
真桜がお手上げ、という風に額に指先を添えた眼下で、景気よくイビキをかき続けている。
「う~早く起きてくれないと~、まかり間違って、遅刻魔の隊長より遅刻しちゃうなんて事になったら、シャレになんないの~」
「それは有り得へんから大丈夫や。とはいえ、さっさと行かんと、集合に間に合わんで」
「副長、お疲れなのは存じておりますが、そろそろ起きて頂かなければ……」
「ノッポさーん、起きてー、起ーきーるーのー!」
寝台を取り囲む三人娘、沙和がゆっさゆっさと、仰向けのノッポの胸辺りに両手を添えて体を揺するが、ノッポは気持ちよさそうに寝入るばかりだ。
「これはアレやな、あの方法しかないな」
「あの方法?」
たゆんと、たわわに豊満な胸に両腕を乗せるような形で組み、探偵のように顎先に人差し指を添える。
どうも、豊かな胸囲を強調するような格好だが、彼女に言わせると、胸の重量で肩が凝るので、自然と、こういった所作になるらしい。華琳あたりに聞かれたら、容赦なく頸を飛ばされそうな話である。
はてさて、いつも通りの所作を取り、目を糸のように細めて、もったいぶって言った真桜を、沙和はこくんと小首を傾げる様にして見遣った。
「凪!」
「なんだ?」
「アンタ、人和のモノマネやり」
「はぁ!? な、なぜ!?」
「兄さんの魂ったら、しすたぁずやろ。特に人和の信者やろ。せやったら人和の声で起こしたら、起きるかも知れへん」
「そんなバカな……それに、それなら別に私じゃなくたっていいだろう! 沙和や真桜がやったって……」
「声質的に、人和やったら凪が一番似とるやろ、ウチらん中では」
「ぬっ、濡れ衣だッ!?」
凪が、自分の身体を両腕で抱きしめ、小さく跳び上がる。
これでもか、という拒絶反応。
「隊長かて云うとるや~ん、“振りかざす、太刀の下こそ地獄なれ”て。一回吹っ切れてやってみたら、案外楽かもしれんで。ほれ一発、キラッ☆、っと」
「お前、面白半分で言ってるわけじゃ……」
「んなことないて。ほら、早よせんと遅れるで。はいっ、凪ちゃんの良いトコ見てみたいー♪」
「なーぎちゃんの良ーいトーコ見ーてみーたいーのー♪」
「お、お前らぁ……」
かしまし娘二人は、ニヤケながら手拍子。凪は引くに引けず、オドオド。
きゃっきゃ、きゃっきゃと騒ぐ、三人の横で、ノッポは依然、爆睡を続ける。
やがて、顔を真っ赤に染めた凪が、目をきゅっと瞑り、わな、わな、と肩を少しいからせるように震わすと、おもむろな咳払いをひとつ、次にカッと目を見開き、覚悟を決めた顔をした。
そして――――――いった。
「リンリーン、とっても可愛い人和ちゃんだよっ♪ お兄ちゃん、早くしないと、遅刻しちゃうぞっ、起ーきてっ☆」
全力だった。とびきりの営業スマイル、鼻の頭から出たような甘ったるい高い声で、キラッ☆まで、やった。
ピタッ…………と、沈黙が舞い降りた。イビキすら消えた。幕舎の中でありながら、木枯らしが一陣吹いた。夏なのに。
沙和と真桜が、笑いを堪えてプルプルと、凪が目をうるうると潤ませてプルプルと、全く違う表情で、頬を限界まで膨らませ――――――
「ひゃぅわっ!?」
と、いきなり、ガバッと、ノッポの体が翻った。
「ふっ、副長!?」
翻ったというより、地を滑るように這ったというべきか。まるで虫を捕える爬虫類のような動きで、静から動、ポーズを決めたまま固まっていた凪のふともも辺りに、体を寝かしたまま、うつ伏せになって抱きついた。
「……人和ちゃあん♪ …………にしちゃあ……太い……つーか固い? ゴツい……ん……? ……ぐー……」
そのままの体勢のまま、何かごにょごにょと呟き、そのまま、まどろみの中で途切れ途切れの言葉で、再び眠りに落ちていく。
顔を伏せ、寝ぼけたままのノッポには――――――当然、ピシリ、と固まり、そしてわなわなと拳を震わせ、ゆっくりと自身の胸まで引き上げてきた凪の、まるで不動明王のような立ち姿に、気付く由もなく。
「い~い加減に……して下さいっ!!!!」
「んがッ!!」
アニキの、黄色頭巾のずり落ちた、むき出しの後頭部に、凪の鉄拳が炸裂した。
「寝てる奴に下突き入れる奴なんて、初めて見たぜ……」
「知りません! 副長がいつまでも起きられないからですっ」
ザッと、軍足の揃った、地に跡付ける音がした。
その歩の中で、アニキが自らの後頭部を、おもむろに撫でていたが、凪はぷいっ、と、素っ気ない。
居並ぶ兵士たち、軍中のど真ん中を、その兵団が足並み揃えて行進する。
曹操軍で最も規律的で、最も組織的と謳われる部隊・夏侯淵直属隊は、陣中を横切るその兵団に対しても、何ら気を取られることもなく、持ち場を離れることはない。
「…………」
身体と心はそうではあるが――――――任務に徹していながらも、やはり目は一抹、こちらに注がれるものがある事を、楽進は感じていた。
(……品定め、というほどのものではないだろうが――――――)
殆どが農兵や、有事の際に奴隷等を徴発して兵に仕立てていた漢代以来の軍体制において、専業の常備軍というのは、未だかつて本格的に施行された事のない体制であった。
戦闘の専門家、純兵。武蔵隊は、曹操が桂花の草案を元に採用した、その特殊な兵雇用体系を実施された最初の部隊であり、その全てが純兵で構成されている現状では唯一の部隊である。
常に臨戦態勢を整えており、出撃命令が下ればすぐさま、遊軍として四方の如何なる戦線にも参戦する、機動的ゲリラ部隊としての任を負う精鋭部隊。
ではあるが――――――彼らは、あらかじめ特別な訓練を受けて練成された兵士でも、各軍から特に選抜されて組織されたエリートというわけでもなかった。
元は、黄巾党と大梁義勇軍を一緒くたに新兵として纏めた浪士隊、しかもその中身は、ごろつきやあぶれ者、農家の次男三男といった、いつ死んでもいいような連中の寄せ集め。
武蔵隊とは、それら志願してきた、臨時的に得られた大量の人的資材を、そのまま純兵制の試運転として、実験的な制度施行に使用した結果の産物。何の身分も実績もない有象無象に、過酷な戦闘訓練と実戦のみをひたすらに課して、元の数千を数百にまでふるいにかけて削ぎ落とし、生き残った者らが、武蔵隊と呼ばれているに過ぎない。そもそも、戦時でなければおよそ、ありえないような編成の部隊。
強く、精鋭であるとは言っても、文字を読めすらせぬような無学の徒や、かつて犯罪を起こした者なども混じっている。彼らの経歴や背景に、何の積み立てや後ろ盾も無い事は、動かし難い事実である。
武蔵隊は未だ、全軍の信頼を得ているとは言い難い。根っからの叩き上げである武蔵隊が友軍の信頼を得、特に、軍人としての英才教育を受けた、将軍付きの直衛・直属の兵士から認められるには、とにかく実績を積まねばならぬ。
それも、純兵としての特別待遇に見合うだけの、作戦全体の要を担う、重要な役目を……
「凪!」
「……はっ」
先頭を往く武蔵が、振り返らずに、通る声で言った。
足元を見ながら後ろを侍っていた凪が、顔を上げる。
「あまり難しい事を考えるない。細かい事を考えて肌荒れを起こすのは、ニキビだけで十分だぞ」
茶化したような物言いに、ニキビは顎の下の腫れにきびを摩って渋顔を浮かべ、その周囲からは、中くらいの笑いが漏れた。
「遠路はるばる、ご苦労」
「いや、近いさ」
秋蘭が胸の前で、拳の先を手刀で押さえて迎えた。顔を突き合わせるのは、およそひと月ぶり程になる。久し振り、というべきであろうか。
「苦戦と聞いていたが、そんな風にも見えんな」
「戦況そのものは、こちらの優勢です。敵には援軍も無いようですし、このまま陣を敷いて向かいあっていれば、敵は手が出せないでしょう」
武蔵は、右手を袂に入れたまま、左手のみを晒し、整然と陣を張る夏侯淵隊の威容を、おもむろに眺め、見回して言う。
秋蘭より、一歩後ろ、副官のように侍る稟が、知性の薫る眼の色は怜悧なまま、すらりとした人差し指と親指を、眼鏡の縁に軽く掛け、淡々と告げる。
「しかし敵は地形の要害を利用しつつ、散開と集合を巧みに繰り返し、こちらの攻撃を受け流してきます。あの無軌道な動きを捉えるのは、現在の我が隊の編成は適切ではありません」
「それなら、逃がしてやればいい。孫武もそう言っている」
「いや」
肩を竦めて、眠たげに言う武蔵の口に、秋蘭が言葉を挟んだ。
「彼らは我々の領境を不法に越え、こちらの再三の警告を介さず、近隣への略奪・攻撃行為を繰り返した。国法に則り、殲滅せねばならない」
秋蘭は、いつもの微笑で。
語気もまた、低く、穏やかな、落ち着いた艶声のまま、揺らぐ事はなかった。
ふん、と、武蔵は眼を閉じるようにし、鼻からひとつ、息を吐いた。
「貴方の部隊なら、敵の変則的な動きにも対応する事が出来るでしょう。早速、今日の夜半より、敵の本隊に襲撃を掛けていただきたいのですが――――――」
「ん」
今度は、稟の言葉を聞くのもそこそこ、くるりと振り返った。
「今日の夜は、酒でも呑んでゆっくりしていたいが」
大きく、分厚い背中である。座敷から、そのまま出てきたような出で立ち。
それがいつもの武蔵であった。着流しではないが、平服のままで、戦場だというのに、鎧を纏う事もしない。
「空が白む前には終わるかねえ、終わらんかねえ」
そうして、ついに一度も机にはつかないまま、立ち話と口頭だけで打ち合わせを終え、ケラリと一つ、笑いながら、引き連れてきた若衆の元へ帰って行った。
「日が傾いたころに出陣だってよ」
「うへえ。着いたばっかで、きっついな」
「少し休ませてほしいのー」
「全く。一日くらい、酒の一杯でも引っ掛けてゆっくりさせてほしい」
連絡係代わりのチビが仲間たちに触れ回ると、沙和や真桜は露骨に億劫そうな顔をして、星は冗談交じりに、親指を下唇にあて、くいっ、と、酒を呑む仕草をみせた。
彼らの長、武蔵はと言えば、
『ちょっと休んだら行くぞー』
と、まるで散歩か遠足にでも行くかのような調子で、実に端的で簡潔に言い残して、また、どこかにふらりと消えてしまった。
「めんどくせえー」
「一番、乗り気だったじゃねえかよ」
だらりと、両手を背面の方に投げ出すようにしてつっかえ棒にし、地面の上の、小柄で強靭な身体を怠けさせている李通の隣に、ノッポが寄って、座ってきた
それよりもさらに一回り小さく、それゆえ不釣り合いな、大きな弩を抱える様にして、李通の胡坐をかいた膝を枕に、丸くなって寝っ転がっている陳恭が、猫のような目付きの悪い流し目で、地面に広がった長い長い銀のザンバラ髪の隙間から、チラリとだけ、ノッポの影を見遣った。
「戦争は好きか?」
「どうだろうね」
「じゃあ、平和は嫌いか」
「知らない」
「へ。ま、そりゃあ、そうか。俺らは、平和ってのは知らねえもんな」
「治世ってのは、嫌いだけど」
へっへ、と、気安げな笑みを少し浮かべて、ノッポは靴を履き直す。
「流琉のオニギリ、もうお前食っちまったか?」
「貰ってすぐに食ったよ」
「なんだよ。余ってたら貰おうと思ってたのによ」
「残しとくわけないじゃん。パクられたらもったいないし」
今回の出征にあたり、典韋が監督する炊事班が、人数分の握り飯を用意してくれた。
一晩で数百人分を用意できる。飯炊きひとつとっても、曹操軍の抱える経済力の太さと、人材の豊富さが顕れている。
「美味えよなあ、あいつの握り飯」
「うん。典韋が作るのは何でも美味いね」
そういえば、出撃するわけでもないのに、許緒が便乗しておにぎりをねだり、結局、一人で十個も平らげてしまう、という一幕があった。
それを思い出し、またノッポは、くっく、と笑う。
「でも、あいつは、あの美味えオニギリを握ったのと同じ手で、何十人も殺してんだぜ」
ノッポの声には、何の抑揚もない。上ずる事も、逆に不自然に厳かになる事もなかった。
ただ、平淡に話す。
「普通じゃん」
「……そうだよなぁ」
靴ひもは、まったく淀みなく結ばれていく。
少し、内巻きになった靴の踵を合わせる指もまた、迷う事はない。
「俺たちにとっちゃ、それは“普通”だ」
靴の合わせが終わり、片膝立てて、肘をひっかけた。
ただ、座る。穏やかではある、いつも通りの憩い。
「けどよ、あんな男と女の区別すら、漸く付いたばかりのようながきんちょが、何十人もの人間の脳みそをぶちまけてるのを、おめえ、本当に普通だって言えんのかい」
李通の方は、見なかった。眼の先には、和気あいあいとする、三人娘の姿や、黄色頭巾を被った若者たちの姿がある。
李通の胡坐の中では、陳恭が静かに安らいでいた。
「六十年くらい前の本には、子は親を敬い、親は子を愛し、人は家庭を作る、なんて書いてあるけど、そんなの俺ァ実際にゃ、見た事ねえよ。親は子を食っちまう。子は親を殺す。兄弟なんぞは早々に捨て、女もガキも方々で作る。そもそも、親の顔を知ってるヤツのが少ないかもしれねえ。俺たちはそういう風に育った」
彼らは、平和というものを知らない。世間で説かれる、泰平の世などというものを、およそ実感として触れていたことは無い。
親が子を殺して食うのも普通、子が親を殺して食うのも普通。料理を作るのが好きな優しい少女が、腹一杯食べて幸せそうにしている、いたいけで無邪気で清らかで、まっすぐな少女が、同じ顔で躊躇なく、同じ姿でためらいなく、血の通った人間の頭蓋を次々と叩き割って、それに何の違和も抱かぬのが普通。
隣の誰かが、いつ死んでもおかしくはない。仮に、李通とノッポのどちらかが死に、話す相手がいなくなっても、今と何も変わらぬ顔で、地べたに座っているのだろう。
彼らは、乱世の民。
「俺たちにとって、平和ってのは、未知だ。ひょっとしたら、戦争に慣れた俺達にとっては、さぞかし生き辛いものなのかもしれねえ」
「…………」
「けどよ。世の中ってのは、やっぱ平和じゃねえといけねえんだと思うよ」
ノッポは懐から、いつもの安い紙巻煙草を取り出そうとし――――――ふとして、やめた。
煙草はすべて処分してきて、既に懐には無い事を、手を差し入れたところで思い出した。
よく訓練された兵士は、戦に出る数日前から、煙草を断ち、香を焚きしめることを止める。
体に染みついた匂いによって、風下の敵に居場所を察知される事を嫌うからだ。
軍人にとっては、当然の心得だが――――――“日常”の中にいては、緊張感のない時はついつい、“日常”の仕草が出てしまうものである。
……それくらい、『戦争』と『生活』の境界は、彼らの中で曖昧に、互い混ざり合うものであった。
「李通」
「ん?」
「おめえ、昔の夢って見ることあるか?」
「なにさ、急に。見たの?」
「ああ」
代わりにノッポは、爪楊枝のようなものを取り出し、歯で挟んで、咥える。
口寂しさを、紛らわすためだろうか。
「いや、お前は見ねえか。そういうのは」
「……見るよ」
楊枝を咥えたままの、少し隙間の空いた薄い唇から、上向き加減に、フッと息を吐く。
数拍の後、一言、李通が呟いた。見るよ、と、小さく。
「昔の友達が死ぬ夢さ」
視線は、ぼうっと前を向いたまま、くしゃり、と、李通は自身の膝でまどろむ小さな少女の、長ったらしい細くて柔らかい髪を撫でる。
「あいつらはもういないのに、夢の中では生きてて、そして死んでく。俺と陳恭だけを残して。何度も。いつも、俺と陳恭しか残らない」
「…………」
「――――――まあ」
ポン、と、髪の中に埋めていた掌で軽く、頭を叩いた。
億劫そうに――――――その細くて小さな肩の少女が、もぞもぞと身体を起こす。
「だからどうだって事も無いけどね」
頭をもたげるに従い、ふぁさりと、糸のような髪が、滑り落ちていった。胡坐の中が空になるのを見計らったように、彼はスクリと立ち上がった。
履物の尻に着いた土を、両手を回して、パッパと払う。
陳恭は眠たげに、両目を掌でくしくしと擦りながら、やがて一度頭を振って髪の毛を顔から払い、ひょこりと立ち上がって、李通の後ろについていった。
「夏侯淵の様子は?」
「篝火が消える様子は無い」
「夜襲は無理そうか?」
「どうだろうな。昼間よりは警戒は緩そうだが」
暗闇の落ちた森の狭間で、丘の下を覗く視線があった。
それは、一つではない。幾数、十幾の目玉の群れ。
そしておそらくは――――――その姿無き、静かなる視線の奥、内側に潜んでいる人の群れは、述べで千と数百までには上るだろう。
それらが、じッと、林の持つ独特の色濃い夜闇と湿気の中で、息を潜めていた。
「どうする? いくか」
「待て。まずは、本隊に報告だ……」
『そんなに、ノンビリで良いのかい?』
「「――――――ッツ!?」」
一瞬、敵か味方の区別も付かなかった、否、むしろ、味方だと思った。
だから、急に何を言い出すのだ、と。訝しげな思いが、ちらりと頭をもたげたが、その一瞬では、それのみだった。
そして、次の瞬間に暗闇の中から、姿無く上がった悲鳴で、即座に状況を理解し、そして、血は凍った。
「てっ――――――!! かッ……」
声を上げる間もなく、後ろから顎を、掌で掬い、押し上げられた。
見えぬそれは一切の躊躇なく、冷えた薄刃をがら空きになった喉に宛がい、引き斬り――――――それら、暗黒の中で、作業の如く迅速に遂行された動作の後、声と草木のざわつきは闇の中へ消えた。
「――――――ちゃんと、一人は逃がしたか?」
「はっ、ぬかりなく」
「見失うなよ」
「へい」
「夏侯淵の動向はどうなっている?」
「わからん。斥候が戻り次第だな」
「もはや、夜陰に紛れて撤退すべきではないか? 今さら粘る理由もあるまい」
「そうだな……既に、報酬に見合っただけの仕事はしただろうしな」
山林の中腹、広場になっている地点を、草を刈って地をならした、簡易的な陣地。
がさり、と、擦れた葉と枝の軋む音で、見張りの兵が振り返った。
「おお、帰ったか!」
「……って」
バサ、バサ、と、茂る暗い葉緑をかきわけて来たのが味方だとわかり、見張りの兵は通る語調で声を飛ばした。
バキリ、と、枝が折れる乾いた音と共に、よろよろと、転げるようにして林の中から出てきた。
「はぁっ……はあっ……」
「おい、どうした?」
「……って」
「て?」
「…………敵」
「敵が、どうした」
声を掛けた見張りの兵たちの所に駆け寄るよりも先に、膝に手を付いて、息を切らし、荒く、ぜえぜえと吐いた。
泥だらけの鎧、遮二無二、駆け回ったのであろうことを、額の汗が物語る。掠れるような声、数度、問いただし、漸く、意味のある言葉を発することができた。
「敵――――――がっアッ……!!」
「!!」
そこから一旦、飲み込むようにし、幾分か呼吸を落ちつけ、顔を上げて、彼は言った――――――言おうとした。しかし、それは叶わず。
「おお~、居た、居た。こんなところで。よう我慢して潜んでいたもんだ」
その断末魔に、見張りの兵は、身をたじろがせた。
一瞬目を見開いた後、背中から血を噴き出し、前のめりに崩れ落ちていった男のうしろから、その、気の籠らない独特な、低めの声は聞こえてきた。
闇に、ぼうっと浮かび上がる。ぎょろりとした、琥珀の目玉。月明かりでもわかる、麒麟の鬣の様な赤茶毛。
何よりも、仁王の様な極厚の体躯が。
「――――――大将は、どいつだ?」
「知らん」
「首一つで、十と七万銭だったか。安いんだか高いんだかわからねえな」
「関行の首なら十倍だぜ」
茂みの向こうにある暗闇から、得物を携えた、そいつらはわらわらと。
その、たらんと右手に、ぶら下げるような形で、真新しい血の付いた太刀を携える、巨漢に従うようにして現れた。口々に、品定めを呟いて。
「真桜」
「はいな!」
ほうほうの体で帰ってきた味方を、背後から一刀の下に斬り捨てた男。
全く表情を自然なまま崩さぬ、この巨漢。怖ろしいほど穏やかな、焦りも上擦りもない落ち着いた声で、一言、ぼそりと言った。
呼ばれた、いつのまにかその傍らに寄ってきた女。彼女は待ってましたと言わんばかり、顔に喜色を浮かべて、その腰元に巻きつけた二本のベルト、そこに付いたホルダーの中から、何やら大きめの筒を取り出した。
「ほんじゃあ、いくでぇ~~~~? せーのっ……ほいっ!!」
側面から伸びた、細い鉄棒のようなものを逆手でガシャン、と手前に引っ張ると、両足の間隔を大きく開いて腰を落とすと、その筒を相手の兵士――――――ではなく、天空へと向けた。
すうっ……と、息を吸い込む。その一拍の後、明朗な掛け声とともに、彼女は景気良く、引き金を引き絞った。
「むっ! 合図か!」
篝火を焚き、陣を張る秋蘭の鷹の目が、森の中腹あたりで、パッと光った、鬼火の様な閃光を捉えた。
それより一瞬遅れて、パン、という破裂音が、大気中を伝わって鼓膜を叩く。
武蔵隊は敵の本隊を見つけた後、周囲に火を放って、夏侯淵隊に知らせる手はずであったが、なるほど、わかりやすい合図を用意していたものだ。
「武蔵殿でしょうか?」
「うむ。違いなかろう……しかし、案外に派手な事を好むな、あいつは」
「目立つのは、関心いたしませんがね」
「ほどなくして、火の手が上がるだろう。場所が分かれば、後は作業だ。速やかに軍を動かすぞ」
「はっ!」
「げほっ! けぇほっ! あ゛ー……」
顔を真っ黒に煤けさせた真桜が咳き込み、おやじのようなだみ声をだして、喉にからみついたイガイガを吐き出す。
「一発撃つごとに銃身が破裂していたんじゃ、とてもじゃないが、兵器としては使えんな。次回作に期待」
弾が打ち出される前、武蔵はそれを見越してしっかりと、真桜から二歩と半分ほど離れていた。
かつて、籠編みの機械をいじった時に、煤塗れにされたのを覚えていたに違いない。
「やっぱ竹で作ったんや、衝撃に持たんなあ」
「鉄砲、花火にゃ程遠いな……いや、竹筒砲、か」
武蔵が、すっと左手を振った。後ろから、次々と火矢が飛ぶ。
油をたっぷり染み込ませた紙を詰めた鏃が、手当たり次第に木葉に炎を捲いて、やがてあたりで火の粉が燃え移り、メラメラと燃えだす。
そうしている間に、武蔵と、それを取り巻く兵士たちの背後から、辺りを照らすほどの、煌々とした火の手が上がった。おそらく、廻っていた武蔵隊の兵士が、油をぶちまけた中に火を投じたのだろう。
「これ、ちょっち、油、使い過ぎとちゃいますかぁ?」
「景気が良いだろ?」
後ろを振り返って、燃え上がる火の勢いに焙られながら、いかにも熱そうに、真桜は豊満な胸元の襟を、ぱたぱたと扇いで、中に空気を入れる仕草を見せる。
武蔵はただ、くっく、と、含み笑いをしてみせた。
「こんだけ火ぃ焚きゃ、秋蘭も見つけるのは容易かろうよ……さて」
和やかな表情で、味方の方に首を向けていた武蔵が、表情は変えず、前を向きなおった。
炎を背にして、その陽炎の中に浮かび上がる、筋骨逞しき巨体。びくり、と、敵兵はその一挙手に対し、身構える。
「夏侯淵は、速いぞ。ここまで来るのに、そうはかかるまい」
武蔵は、一歩も動かない。代わりに、武蔵の周りに侍る兵士たちが、ずい、と、その前に一歩、出でた。
「それまで、少し、付き合ってもらおうか」
ピカチュウのなつやすみのEDfullを聞いて、なんかもう凄い打ちのめされた僕。
あの当時は、「自分もいつか大人になる」なんて、本当の意味では考えもしなかった。
けーどろで逃げ切れるか、ポケモン151匹集められるか、ドッジボールで勝つか負けるか、かけっこで速いか遅いか、蝉の抜け殻を誰が一番集められるか、夏休みの自由研究は間に合うのか……そんな事が、あの頃の俺達のすべてだった。
DBの超サイヤ人に憧れて空手をはじめたあの頃のガキは、今はチビどもに空手を指導するようになっちまって。
今のポケモンは、データが何の前触れもなく吹っ飛ぶこともあり得ないし、裏技でバグる事もないんだと。プロアクションリプレイってのがあるらしい。稽古の小休止にDSの蓋開けてちょこっと進めて、10分後にまた蓋だけパタッと閉めて整列してるっていうチビッコギャング達。そうだよなあ、ゲームボーイじゃねえんだもんなあ。
彼らは本当に無邪気に、我々指導員が、とてつもなく強くて立派な「先生」だと信じてる。
彼らと同じ年の頃の僕にとっても、大人って人を問わず、なんだかすごく大きくて怖くて、けれど頼りになる、絶対的でかつ、自分とは全く別の生き物たった。
それが、どうだろう? こんな時間までグダグダと長々、やらにゃならん事がたくさんあるのにパソコンいじってノーテンキに遊んで、何やってんだ? 俺。
かつて抱いていた「大人」のイメージと、今の未熟さとの乖離に、なんかもう、まさにほろびのうたを聴いた気分だった。
うかつに懐メロなんか聞くもんじゃないぜ……ピカピカのあの頃が、眩しすぎるのよ。
きっと、10年たったらもっとこの思いが募るんだろう。