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邂逅編・第六話


ぴい、と高く遠く鳴く。

その音の主は、誰にもはばかることなく雄大な大空を一人滑っていく。蒼の中に、ただ一つの白。

国が変わっても、この蒼さだけは変わらない。

空はどこにあってもこの蒼さを誇るのだろうか。それとも空は一繋がりで、その下を生きる人が勝手な区分けをしているだけに過ぎないのか。


何十年と生きて、そんなことさえ定かにならぬ。


人が一生の内でわかりえることなど天から見れば無に等しいのかもしれない。

それでも、なお真理を求めてやまないのが人間というものだ。

ならばその偉大なる景色を描いて表わすのも、それを絵にして自らの手に入れたいという、人間の業にも似た願いから始まったのかもしれない。


「こんな所で何をやっとるんだ? お前は」

「む?」


城壁の広場に座り込み、この時代では未だ貴重品である紙を広げて筆を走らせているのは――――かつて天下無双と謳われた男、宮本武蔵。

比類なき剛剣の使い手であり、それに見合う強靭な体躯の持ち主であるが、こうして剣でなく筆を握る彼にはその雰囲気はみじんもない。

恐らく今の彼を見ても余暇に趣味を楽しむ穏やかな若者にしか見えぬであろう。

若者、というとまた語弊があるのだが。


「ほう……綺麗だな」

「わかるかね」


屈みながらその絵を覗き込む彼女は春蘭――――――

史書において曹操が全幅の信頼を置いていたとされる、忠侯・夏侯惇である。

曹操に次ぐ軍権を持ち、破格の待遇で遇されたその右腕。

ただそれが伝えるところと大きく違うのは、長い髪の似合う美女だという所だろうか。


「うむ……なんというか、不思議な絵だ」

「もうちょっとわかりやすいのも描こうか?」


そう言って武蔵はまだ何も書かれていない真っ白い紙に新たな絵を描き出していく。

和の感性で描かれた濃淡の味わい深い水墨画ではなく、簡単に身姿を再現した写実画。

走り書きでさっと描かれたそれは、ほどなくして像を結んだ。


「それは何だ?」

「美人だな」


そう言って武蔵が紙の両端をつまんで向き直らせた絵は。

長髪で額が広く気の強そうな眼差しをした、春蘭の特徴を良く捉えた美女だった。


「は?………………ッッ!!!? なっ、な、ななな何を言うか! べ、別に貴様なんぞに褒められんでもそんな、び、びじ、びじんなどと……」

(うーむ、わかりやすい……)


一泊して絵を認識し、二泊目で意味に気が付いて顔を紅くしてしどろもどろになる。

武蔵はそんな春蘭の期待通り過ぎる反応を見て、どこと無しかしてやったりな表情である。

孫をからかう爺の様だ。

だが紛れも無く一方は宮本武蔵で、もう一方は夏侯惇なのである。


「人は見かけによらない」とはよく言うが、二人の掛け合いほどその言葉を表わしているものもないかもしれない。





「……だから華琳さまの胸はもっと大きく描けと言っておるだろう! あれで結構気にしていらっしゃるのだぞ!」

「いや、そこは譲れねえ。そこだけは譲れんよ……」

「なにおうっ! お前のこだわりより華琳さまの尊厳が大事だ! 譲れ!!」

「尊厳と見栄は違うわっ! あるがままの魅力ってのがモノにはあんだよ、若い奴にはわからねえだろうが」

「むむむ……」

「ぬう……」

「……何を武蔵と遊んでいるの? 春蘭?」


何やら白熱した議論を交わす二人に待ったをかけるように現れたのは、ここ陳留の長である華琳とその横に侍る春蘭の妹、秋蘭。

曹操の噂をすれば曹操がやってくる、という諺が実際にあるが――――――

華琳は「超世の傑」と評された偉才、曹操であり、秋蘭もまた曹操軍が急先鋒として突出した武功を挙げた、夏侯淵その人である。

なお、例にもれず美女。


「かっ、華琳さま!! これは宮本が華琳さまの心の傷を抉り取るのを必死に止めようとしておるのです!! 決して遊びでなど!!」

「華琳、俺は嘘はつきたくない。自分に正直に生きていたい」

「…………何のことやらわからないけど、まあいいわ」


彼らは互いに譲れぬものがあったようだが、華琳にとってはどうでもいいらしい。


「春蘭。兵の装備の点検と最終確認の報告、受けてないわよ。順調なの?」

「あっ……! は、はいっ!!すべて滞りなく、今すぐにでも出陣できます! 宮本に呼び止められたため、報告が遅れました!」

「待て、何かが違うぞ春ら……ん?」


武蔵はやや慌てた様子の春蘭に、先に話しかけてきたのはお前だろう、とか、「華琳さまを描け! 部屋に飾る!」と熱烈な眼で依頼してきたのはお前だろう、とか言いたいこともあったようだが、


「出陣?」


どうやらそれより重要な疑問が湧いたようである。




「戦か?」

「ああ……近頃、隣県で賊による略奪行為が頻発しているようでな……華琳さまの追っている賊の可能性もあるので、追討に赴く事になった」

「……『宝探し』ってわけな。しかし、俺は出兵の話は初耳だが……」

「……それはあなたが“散歩”と称して一月近くも政庁に戻らなかったせいではないかしら?」


三人組の一件で華琳に召し抱えられた武蔵であるが、役職もなければ武曲を率いて帰順したわけでもないので兵を預けられているわけでも決まった政務があるわけでもない。

従って扱いの上では部下でなく「客将」という事になっている。ある意味武蔵がもっとも慣れている位置付けな気もするが。

そんなもので、最初は気まぐれに練兵に顔を出したり平民に交じって農作業に従事していたのであるが、ある日突如として「ちょっと出てくる」と華琳に言い残して姿を消してしまった。

華琳も最初は「地理に明るくないのだから、あまりほっつき歩かないことね」と軽い気持ちで送り出したのであるが、さすがに数日や一週間経っても戻らぬとなると「出奔したのではないか」「騒動に巻き込まれたのでは?」といった疑問が生まれてきた。

一人客分が居なくなっただけなので此度の出陣に関する軍議含め政に直接の支障を来すことは無かったが、それでも捜索隊が派遣されるなど首脳部ではなかなかの騒ぎになっていたのである。


無論、「ただいま」と思い出したようにひょっこり帰って来た武蔵に、扶養金の減額と厳重注意が言い渡されたのは言うまでもない。


とてもいち地域に置いて軍権と統治権を掌握する太守に抱えられている要人の取る行動とは思えないが、実は武蔵の放浪癖は今に始まったことではない。

元来生まれついての旅烏だったが、自流を興し大名家に抱えられるほどになっても時折何の前触れもなく共も付けずに旅に出てしまい、しかも気の向くまま各地を渡り歩くものだからいつ帰るか、何処にいるかも見当が付かぬ、という始末である。

振り回される周りはたまったものではない。本人はそれで「散歩」と言い張るのだから、大したものと言えば大したものだが。


この悪癖こそ円明流時代の内弟子に始まり、小笠原、細川両家の世話役や息子・伊織を悩ませた頭痛のタネだったのであるが、それはまた別の話である。


「ん? いやー、はっはっは……」


武蔵はいつもの年季の入った笑みでなく、どこか引きつった笑いを浮かべる。

さすがにまずい手を打った自覚はあったようだ。もっともそれは武蔵を出迎えたときの捜索隊の物々しさと華琳らの剣幕が気付かせたもので、本人にとってはあくまで「散歩」なのだから困りものであるが。


「そう思うなら働くことね。明後日には発つから従軍出来るよう準備しておきなさい。いいわね?」

「承知」


武蔵は胸の前で拳と掌を合わせ、最近覚えたこの国式の軍礼で軽く頭を下げる。

いかにも、という風にやっているが、明らかにおどけている。あくまで、臣下の礼を取るつもりは無いのだろう。

武蔵は武蔵、というわけだ。


「ああ、それと再点検した兵糧の収集状況を確認してきてくれないかしら? 係の方で仕事は済んでいるはずでしょうから、帳簿を取ってきて頂戴」

「おう」

「悪いわね、小間使いのようにして」

「なんの」

「恐らく監督官は今馬具の調整を行っているはずだ。厩に行ってみるといい」

「すまんな、秋蘭」




「……ふむ」

「まだ武蔵を警戒しているの? 秋蘭」

「いえ……ただ、図りかねてはいます」


武蔵が参陣してから日が浅いが、秋蘭が武蔵と接する機会は何度かあった。彼は一度だけ彼女の部隊の練兵に参加したこともある。

それだけに、武蔵が只者でない事を感じ取ることは容易だった。ただ彼のすべてを見透かせるわけではない。それは彼女の心にしこりとして引っかかる。


とるに足らない男なら彼女の眉間のしわが増えることはあるまい。


その得体のしれない男は漂々としていてまるで底を見せぬ。だからこそ迷う。彼は曹孟徳の剣となるのか、仇となるのか。

その無視できぬ力がどう転ぶかが未だわからぬ故に、彼女を迷わせていた。


「毒にも薬にもならない男を抱えてもつまらないでしょ?」


だがあくまで華琳は、その笑みから余裕の色を無くさない。


「そして毒とするか薬とするかは、使う私次第よ。秋蘭は私の器を疑うの?」

「いえ、そのような事は……」

「なら、曹操を信じなさい」


そして峻才の少女はおもむろに武蔵の散らかしていった絵の中の一つを手にとって眺める。

豊かな感性で描かれた作品は、作り手の想いが宿るという。


「へえ…………上手いものね」


果たして武蔵の絵は、華琳に何を語るのか。

彼女は物憂げに眼を伏せ、そっと自らの胸に手を置く――――――


「やっぱり小さいかしら………………もうちょっとくらい………………」




「厩、厩は~っと……あれか」


ほどなく武蔵が歩いていると嘶きとともに厩独特の臭いが流れてきた。

生き物、獣の匂いだ。

見ると厩舎から何頭かを連れ出し、兵士が鞍を乗せたりハミを噛ませたりして作業をしている。恐らく、あそこであろう。


「責任者は……?」


武蔵はその監督官の顔を知らない。まあそれは誰か捕まえて聞けばいいだけの話なのだが、


「おら、モタモタしてんじゃねえ!! 馬ぐずらせんなよ!!」

「おーう、これ分けといて。錆びてて使えんわ。替えを早く」


なかなかに忙しそうである。作業を中断させるというのはよろしくない。となると呼びとめるのは比較的手の空いていそうな人間でなければならないが。


「だれか……ん?」


一人、現場から少し離れて働きぶりを眺めているような少女を見つけた。何かの図面らしき物をを持っている所を見ると、彼女も作業員だろうか。

なにやら高級そうな衣服に上品な顔立ちで、無骨な兵士が忙しく右左に行きかうこの場にはかなりちぐはぐな立ち姿。華琳と同じくらいか、下手をするとそれよりも幼く見える容姿は余計にそう見える。


(……本当によく女の働く国だな。さて……)


彼女も仕事をしているのだろうが、現場から離れている分声はかけやすそうではあった。


「おい」

「………ひっ!?」


いきなり声をかけたのが悪かったか、武蔵の声に振り返った瞬間少女が息を呑むような声をあげた。

しかし声に驚くならともかく、姿を見てから後ずさる、という、非常に珍しい、もとい若干失礼ともとれる驚き方ではあったが。


「い、いきなり何よアンタ! 山賊!? いや強姦魔!?」

「待てい。色々とおかしい」


訂正、若干どころの騒ぎではなかった。

まあ髭を無雑作に生やした大男がいきなり声をかけてきたら、うら若い少女としては驚くのも当然かもしれないが。


「じゃあなによ、山猿?」

「俺は狼藉者でもなければ三蔵法師のお伴でもない。華琳の使い走りだ」

「なっ…………!! なんであんたなんかが曹操さまの真名を……!!」


武蔵が華琳、と口にしたことにいきなり少女が目を見開いた。

ばれたら不敬罪で手討ちよ、とも言う。

ただそういう反応には武蔵はもう慣れていたようで――――――


「さあ……華琳が呼べと言うんだからいいんじゃないか?」

「嘘よ! 曹操さまが、ご自身の崇高なる真名をあんたみたいな猿にお許しになるワケがないわ!」

「そこまでいうなら当人に聞いてみればよかろう……」


華琳の真名を許可なく呼ぶなど首に値札を下げてどうぞと差し出すようなものである。何にはばからず華琳の真名を連呼している武蔵の態度がなによりその言に真実味をもたらしている。

食い下がる少女の思考もやがてそこに辿りついたのだろう。手の甲を額にあてよろよろと二、三後ろに下がると、天を仰いで嘆いていた。


「ああ……なんてこと。曹操さまの真名が、こんな見るからに品の無い下劣な野人のような男に穢されるなんて……」

「……俺とお前は初対面だよな?」


果たして俺は人にどんな見られ方をしているんだ、と、無節操の代表のような武蔵に思わせた少女は、実は相当な大物かも知れない。


「フン。男の顔見知りなんて欲しくもないわよ。で? 何の用? 私も暇じゃないんだけど」

「華琳に言われてな。兵糧の帳簿を監督官から貰ってこい、と」


「曹操さまの命!? それを早く言いなさいよ!」

「……で、責任者はどこだ?」

「私よ」

「お前か……」

「何よ、文句あるの? 私が監督官を務めていることであなたの人生に致命的な問題が生まれるとでも言いたいわけ? もしそうだと言うならそこの所を論理的に説明してみなさいよ。少しでも破綻があれば、もう二度と口をききたくなくなるくらいに徹底的に論破してあげるけど?」

「……」


畳み掛けるような口撃にさしもの武蔵も気圧されたが、がしがし、と間を取る様に頭を掻いた。

そして、なるべく早めにこの場を離脱する一手を打つ。


「それよりな、早く持っていかないと華琳の機嫌がどんどん悪くなるんだが……」

「なっ……だからそういう事は何よりも優先していいさいよ!! え、と……これね。早く曹操さまにお渡しして! 曹操さまの機嫌を少しでも損ねたらただじゃおかないわよ!!」

「お、おう……」




「…………凄まじい…………」


武蔵が凄まじいと評したのは、果たして一文官をも心酔させてしまう華琳のカリスマ性か。

それとも先ほどの少女の忠誠心とその舌の達者さであろうか。その胸中は武蔵のみぞ知る。


「遅い!!」

「おう、すまんな春蘭…………ほれ、華琳」

「……あなた、なんか疲れてない?」

「まだ此処に慣れんでなあ」


足早に先ほどの場所に戻った武蔵であったが、華琳達はさすがに待ちぼうけていたようだ。

華琳はやや憔悴したような武蔵から帳簿を受け取り、パラパラと目を通していく。


「あれ? 俺の絵は?」

「先程、お前を待っていたときに華琳さまが『気に入った』といって何枚か自室に持って行かれたぞ。華琳さまの肖像は姉者が頂いたようだが……」

「そうか。まあいい。今度、お前にもなんか描こうか?」

「そうだな、私は――――――――」

「秋蘭」

「――――? はい」


武蔵と秋蘭が話している最中、不意に書類に目を通していた華琳がぴしゃり、と秋蘭を呼ぶ。

どこか、その眼差しは険しい。


「この監督官というのは何者?」

「はい、先日志願してまいりました新人です。手際が良いので、今回の食糧調達の任に当たらせてみたのですが……なにか?」

「ここに呼びなさい。大至急よ」

「はっ!」




「何を怒ってる?」

「……当人が来ればわかるわ」


沈黙。華琳の端正な顔は見るからに憮然としていて、腹を立てているのが一目でわかる。

春蘭もこの空気の重さは感じ取れているようだ。しかし――――――

食糧、と言うのは戦争に置いて最も重要な要素と言っていい。それは戦史をひも解けばあきらかだ。

故にその食糧を監督する人材は相応に優秀な人間でなければならなく、適当な人物に任せられる仕事ではない。


(……秋蘭の眼に曇りがあったとは思えん。それに……あの少女)


弁が立つから有能とは限らないが、まだ相当に若い――――にも関わらず馬具の監督等、他の仕事を兵糧管理と並行して任されているということはかなりのやり手のはず。


(……そうそう下手を打つとは思えん。華琳をあからさまに怒らせるほどの……)




「……華琳さま、連れてまいりました」


武蔵がしばらく思案を巡らせていた後、秋蘭がくだんの監督官を連れて来た。

武蔵の予想通り、先ほどのその上品な顔立ちからは想像できぬ毒を吐いた少女である。


「君が食料の調達を?」

「はい。必要十分な量を用意いたしました……何か問題でも?」

「……どういうつもりかしら? 指定した量の半分しか用意できていないじゃない」


(……ふむ)


言葉だけ信用すれば、それは華琳の怒りももっともである。

単純に考えて片道分しか用意していない事になり、このまま出撃すれば行き倒れは必至だ。


(しかし……そんなわかりやすい怠慢をするものか……?)


少女は責任を問う華琳に対し、萎縮した風は微塵もない。


「ですから、それで十分だと申し上げています」

「……なんですって?」


「理由は三つあります。お聞き願えますか?」

「……」


先に述べたとおり、兵糧の管理と言うのは軍事に置いて相当に重要な問題である。故に責任も重大。

華琳を説き伏せられなければ、場合によればこの少女の首が飛ぶ。それが、一軍何千人の生命線を担う責任だからである。


華琳は依然、殺気ばった雰囲気を緩めず眼に厳しさをたたえたままだ。

しかし、その姿を見ても少女の立ちふるまいからは胆が萎えた様子は無い。


「……ご納得いただけなければ、この首、如何様にでもされて結構にございます」

「ふん……春蘭、絶を」

「はっ!」


その言い様に、華琳はそばに侍る春蘭に、華琳の大鎌を手渡させる。

てらてらと光る刃は、獲物を見定める鷹の眼の光に似ていた。


「その論に矛盾があれば私が君の首を刎ねる――――――述べなさい。命をかけて」

「……はっ。ではまずひとつ目……」


少女は心持ち息をすっと一つ大きく吸いこみ、眼に光を宿らせて粛々と語り出した。


「輸送する食糧が少なければ必然、荷駄は身軽になり、全体の行軍速度は上がります。現在想定されている工程より大幅に行軍期間を短縮できるはずです」


確かに、物理的に考えて荷を軽くすればそれだけ行軍速度は増すだろう。それは考えるまでもない。

増して本来想定していた負担重量の半分ならばその効果はかなりのものであろう。

だが……


「むぅ……? なあ秋蘭?」

「どうした、姉者」

「行軍速度が上がったら移動の時間が早まるのはわかるが、それだと討伐にかかる時間までは短くならない……よな?」

「ならないぞ」

「おお、良かった! 私が阿呆になったのかと思ったぞ」

「ああ、よかったな姉者。偉いぞ」


そう。戦いに要するのは、なにも行軍時間のみではない。敵を討伐する以上、戦闘があるのだ。

また人間、常に動きっぱなしであるわけにもいかず、いやがおうにも休息が必要である。食事もとれば、睡眠もとる。

そもそも、単純に積み荷を半分にしたからと言って行軍にかかる時間まで半分になるとは限らないのである。子供の算学とは話が違う。


「二つ目は?」

「……私の策を用いていただけますれば、戦闘に要する時間ははるかに縮まります。私の想定した兵糧の量で事足りるほどに、です」


そこまで言うや否や少女は眼に込めた力を一層強め、鉄芯が入ったように背筋を伸ばして掌と拳を合わせた。


「曹操さま! どうかこの荀彧めを、軍師として幕下にお加えくださいませ!」

「なっ……」

「なんと……」

「……むう」


秋蘭、春蘭、武蔵が一様にその申し出に驚く――――――もっとも武蔵の驚きは、春蘭、秋蘭とはいささか別の所にあるようだが。


(…………荀彧)


荀彧、字を文若。王佐の才と評された、曹操配下が随一の謀臣。

かの荀子より代十三世、後漢王朝きっての名門出でもあり、曹操の相談役として数々の献策のみならず、その人脈を駆使した人材登用、国政の中枢管理などあらゆる面でその覇業を支えた人物。

その活躍は、一介の参謀の枠に留まるものではない。まさに曹操と表裏一体と呼べる人物であり、史実が伝える彼の人の功績は他に比するものがない。

またその曹操と最後に袂を別ったことも、史書の伝えるところである。


その荀彧と名乗った少女は、カッと眼を開き一歩も引かぬ構えで華琳の眼をじっと見据える。

だがその視線の先にある蒼色の瞳は熱にほだされることなく、冷やかさをたたえたままだ。


「――――為すべき任を果たさず、一文官の身で軍をかき乱し、その上、策を用いろと?」


華琳は片手で大鎌をヒュッと一つ振ると一足進み、そっと左手を柄尻にかけた。

そして大きく頭上へと持って行き――――――


「無礼ね。そしてこの上なく厚かましいわ」


振り下ろされた刃は鎌独特のうなりをあげて、細く白い荀彧の首に襲いかかった。


「…………ッ!!」


荀彧を含め周りに寄った三人が息を止めた――――――

だがその白い肌から血が噴き出すことはなく、


つきつけられた刃からは、亜麻色の髪がはらりと数本落ちただけであった。


「……なぜ避けなかった?」

「私には、曹操さまの刃を避る武技はなく。天命を預けんとした御方の所作なれば、それは拒むものではありませぬ。何よりも――――――」


その声には、一切の淀みは無く。


「王足る者に智をもって仕えんとする者は、それを誤れば死ぬしか道はありません。全ての進言、元よりその覚悟の上なれば」

「……ふん」


華琳はゆるりと鎌を引きながら、改めて荀彧を見遣る。

その顔に怖れの色は無い。


「あなた、真名は?」

「桂花と申します」

「なら桂花、最後の理由を言いなさい」

「はっ……曹操さまは自力の御方。必ず、最後はご自身の目ですべての確認をなさるでしょう。その際兵糧に問題があればこうして責任者を呼ばれます。故に、兵糧が枯渇することはありません……そしてその曹操さまであれば、約を違えて私の首を刎ねられることもなければ、短慮を起こして斬られる事も考えられませぬ。これが、三つ目の理由にございます」


華琳はその言を聞くと手に携えた鎌を春蘭に手渡して、厳しさの消えた顔でニヤリと笑った。


「なるほど。私があなたと向かい合うのも、あなたが生き残るのも……すべてあなたの思い通りだったと言うことね?」

「……恐れながら」


あえてミスを犯し華琳と引き合わせるように仕向け、自らの論を展開し、そしてそれを裁かせて曹操と言う人間の度量を試す。

曹操さまは必ずや自分を召喚なされるはず、曹操さまは必ずや自分を見定めようとするはず、曹操さまは必ずや自分の言をお聞きいれになられるはず……という予測。

華琳の人となりを見抜き、分析してそこからもたらされるであろう事象を頭の上に地図として描き、自らの思惑どおりに運んだ。

すべては荀彧――――――桂花の掌の上の出来事。彼女は天命などではなく自慢の脳漿に己が命運を託したのだ。


「――――――天命を預ける主と定めた者を手中に乗せ、その器を測り、堂々と自らをそこに入れようとする。その傲慢さ、そして自らの才に持つ自信は尊大そのもの」


彼女が持ってしたのは、一文官の身でありながら曹操の軍師に足る才だと言う自負と、その曹操ですら手玉に取らんとした頭脳への自信、そしてそれに命を預けられる胆力と、曹操を前に危険な賭けを挑んで一歩も引かなかった太い心である。


「でも、私のそばに侍るのなら、その尊大さと才気は必要よ」


そして、華琳が彼女を用いるところまでが、荀彧の脚本なのだろう。

そういう彼女の思惑を知ってか知らずか――――華琳はからからと声を出して、天を仰ぎ笑った。


「いいわよ桂花。その知と度胸、気に入ったわ! 私を華琳と呼ぶことを許す。以後、私の張良として私を支えなさい」

「はっ!」

「まずはこの討伐行を完遂させて見せなさい。あなたの軍師としての力量、どれほどのものか……見せてもらうわよ」

「御意!」




曹操と荀彧。華琳と桂花。恐らくは、出会うべくして出会った二人。

この出会いが何をもたらすか。

今はまだ誰も知らない。知るのは天のみである。


大学生活というぬるま湯に絶賛ハマり中。実際、シーズンオフはニートみたいなもんだな。

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