なぎの間編・五十八話
「すでに、主要な都市は七割方傘下に入った。あとは公孫賛を敗走させれば、全てを掌握出来るだろう」
カッ、と、軍足を鳴らして現れた、威厳ある容貌に髭をたくわえた武骨な男。
袁紹軍大都督・淳于瓊。袁紹の元、全軍を統率する権限を引きうけている将軍である。
「公孫賛が、交戦していた烏丸の軍と和睦したらしい」
「何?」
「此方の動きを受けてからだとすれば、中々に速い処置だ。思い切りは良いと見える」
馬に乗ったまま、もたらされる諜報に目を通していく、顔色の悪い、細面の男。
袁紹軍軍師・郭図。今回、公孫賛攻めを進言した人間だ。
「だが、外交感覚は今一つだな。この状況で烏丸と手を結び直せば、此方の名分をわざわざ確固とするようなものだ」
「しかし、公孫賛と烏丸が和睦し、共闘の構えを見せれば、それはそれで厄介だ。白馬義従と烏丸突騎の轡が並ぶというのは脅威に尽きる」
「織り込み済みの展開だ」
「何?」
「そもそも、公孫賛の領内に烏丸の賊徒を侵攻させたのは俺だ」
郭図がさっと馬から降り、陣の脇に積み重ねられてある、折り畳み式の椅子を広げて、淳于瓊に座る様に促す。
淳于瓊はその脇を大股で通り過ぎ、郭図の用意した椅子には座らず、自ら椅子を引き出して、改めて自分がそこに座る。
和らぎの無い淳于瓊の、厳然とした表情を見遣り、溜息のような笑いを一つだけ漏らして、郭図は自分の出した椅子に、自ら座った。
「あの烏丸賊の頭目とは、既に密約を交わしている。長城を越えて公孫賛と適当に戦い、我々の侵攻に合わせて和議を結べと。そして公孫賛の敗走に従って北平まで追従し、しかる後の彼の地での決戦で、此方に寝返る手筈となっている」
薬指で、自分の前髪を一掻きする。
「戦後は“公孫賛と烏丸の賊が結び、漢への反旗を翻したが、結局、賊は漢に帰順した”と内国に向けて喧伝し、朝廷に上奏する。袁紹軍は反逆者を討ち、異民族の賊徒を降伏させた、正義の味方と言うわけだ。良い脚本だろう?」
淳于瓊が、おもむろに腕を組む。威厳を湛えた厳かな顔は、未だ険しいままだ。
「閣下は何処に居られる?」
「兵に向かって演説をしておられる」
「……いつからだ?」
「四刻あまり、ずっとかな」
「…………」
「侍る顔良が、疲れきった顔をしていたぞ。文醜は寝ていたな」
少し上半身をのけぞらせるようにした淳于瓊の反応を見て、郭図がくっく、と喉を鳴らして笑う。
「…………」
その後しばし、押し黙った後、やがて再び厳しい顔つきに戻り、おもむろに口を開く。
「取り繕った大義。その裏に縫い付けられた謀略と野心」
改めて、郭図を見据えた。
「貴様、袁家を天下の逆賊とする気か?」
威圧感のある双眸。
正道を何よりも是とし、曲がった事を何よりも嫌視する男の、根の部分が出た眼光である。
「例え漢から天命が離れたとはいえ、謀を駆使して天下を盗んだものが天命を受ける事はあるまい、結局は鼠賊の謗りを受ける事を免れんぞ!」
既に漢王朝に天命は無い、郭図はそう言った。淳于瓊だけに漏らした言葉だ。
今回の公孫賛討伐、諸将には異民族の頭目と結んで、漢朝への反乱を企てる公孫賛を討つ、という大義であると伝えてある。
だが公孫賛を謀略に嵌め、その兵馬を奪わんとする所業は奸賊の所業であり、国士の為す事では無い。
天道に背き、王たる者として天下に君臨する事が出来るのか。
「姫の声を聞いたか」
「何?」
「相変わらずだ。高笑いが、実に良く響く。風格がある、綺麗な声だ」
「…………」
「あの方の無根拠な堂々たる自信を見て、民は逆賊だと思うだろうか? あの底抜けな気楽さに触れれば、異を唱える気も無くす」
「…………」
「あの方は、自分に疑問を持たれた事が一度も無く、行いに負い目を感じられた事は一度も無い。常に自信に満ち、気質は満面の陽で、陰に入る事は無い」
郭図は、ただ涼やかな面構えをしている。
「生まれながらにして、王者の在り様を心得て居られる御方だ。姫ご自身が智や武を具える必要は無い。ただ袁紹が袁紹足り得れば良い。それは、後天的には容易に得られぬ貴重な資質だ」
顎先から口元に手を掛けて、うすら笑いを浮かべる。
「覇の道にあれば、兵が動く。兵が動けば人は死ぬ。常人の神経は、千万の人間が作る死と生活の輪過を背負う事には耐えられぬ。あの底抜けの楽観と自信は、それに耐えうる稀有なる王者の格だ」
否が応にも。
「現に、この幽州の民の悉くは、袁紹の名の下に降っただろう?」
「……」
幽州の民衆は、袁紹軍の占領に対し、殆ど反抗を示さなかった。
袁紹軍参謀・郭図の草案を元とし、袁紹軍は『租税を、公孫賛統治下の六公四民から、四公六民にする』とする政策案を布告した。
また、それを発布する際に、『公孫賛は不当に高い税を取り、民の生活を顧みず、私腹のみを肥やしている。我々はそれを正常な税率に正す為に、公孫賛を放伐しに来た』という趣旨の演説を、何度となく諸地で行って来た。
公孫賛の六割税は、長城を越えてやってくる異民族や、各地で反旗を翻す賊から幽州の民を護るためのものだ。多くはその軍事費と、戦乱によって枯渇しがちな備蓄物資の補充に充てられており、実際には、公孫賛やその家臣たちの懐に入る額は口に糊をする程度の分でしかない。
袁紹軍はそうした事由は一切説明はせず、実質的な数値や情報を明らかにはせぬままに、「税が高いのは、公孫賛が私腹を肥やしているから」として、現政権への不信感を煽る様な飛語を使いつつ、「庶民の事を考えないダメな公孫賛と、それを正す袁紹」という漠然とした印象を民衆に植え付け続けた。
結果として、大半の民が「公孫賛よりも袁紹」と、袁紹を支持し、その支配下に入る事を拒まなかった。
現実的に考えるならば、仮に税金が軽くなるとして、袁紹が租税を軽くできるのは、その代替えとなるべき犠牲があるからに他ならない。
例えば別途の税金であり、密約を交わしている異民族達へ何らかの形で明け渡す特権であり、売官であり、領土拡張による販路の官有化であるかもしれない。そのいずれか、あるいは別の何かかは定かではないが、無い所から財源を取ってくるというのは不可能だ。となれば、軽くした税の分だけ、他の個所から継ぎ足さねばならない事は明白だろう。子供でもわかる足し引きだ。
また、その税制が一律のものである、という保証も何処にもない。戦争が始まれば、莫大な臨時徴税が設けられるだろう。これも、時勢に照らし合わせれば、童にでも解る理屈。
それでも、民衆というものは、そういう物事の深い所は見えない。政治の仕組みを知らない、否、知るのを面倒臭がる。裏側に発生しうる事象の可能性、というのを読み取ろうとしない。表面だけの、なんとなく耳触りの良い言葉や語り口調に反応し、それで満足し、与えられるだけの情報を鵜の様に飲み下すままになっている。
「そういうものなのだよ、民とは。然の如くとして御旗を振りかざす指導者に、当然のものとして従う。彼らは我々が思う以上に原始的で、利己的で、頭が悪い。勢いの弱い権力に対しては侮って反抗し、勢いの強い権力には迎合して屈服する。理屈の介在しない、直感や印象で判断する。“雰囲気”に騙されるのだ。理論は、どうでもいいのだよ」
だからこそ、何かが終わった後によく、彼らは「騙された」と嘆く。政治家やマスメディアに対してだ。
尤も、だからといって、彼らがそういう短絡的発想を改める事は決して無い。世論や宣伝行為の作りだす印象に便乗し、乗せられ、また同じ事を繰り返す。
人間というものの大部分は、それほどに浅慮で、無思慮だ。
そして大衆、民衆とは、その大部分に属する、人間の塊の事こそを指す。常に、無知は有知の何十倍もの割合で存在し続けている。
「故に、自身の振る舞いに一抹でも疑問を持ってしまう者に、それを扇動する王者たる資格は無い。堂々たる、自信に満ちた振るまい、私こそが正しいと、民にそう『思わせられる』事こそが、王者としての格なのだ。世の中を治めるには道理に沿う必要があるが、民衆というものを扇動するのに、道理は不要だ。大衆が是とした事こそ、世においての正義なのだ。実態なぞ、それ、そのものに意味はない。治世においては、外向けの道義に準ずる事こそが正とされるというだけの話」
愛されたる指導者とは、万人にとって、直感的に好ましいという印象を与える者の事を指すと云う。
――――――実態がどうかなどは問題では無い。民衆がそれを政治的指導者に求める時、彼らは劇場を見る様に政治を捉える。
大衆というものは、“実態”を見抜ぬ群れの事である。
「そして、今は乱世。秩序が崩壊し、無秩序が蔓延する。それまで国という土台に依っていた無数の人間が宙に浮いた状態。今、優先すべきは、道理を踏襲するよりも、時勢を自ら作る事」
郭図はスッと立ち上がり、籠に差されていた巻物の中で一つの大きなものを取り出し、地べたの上に広げた。
それは、地図。漢帝国十三州、広大な領土がが描かれている。
「姫には全てがある。高貴な出自、豊かな食料と金、兵に人材、そして、王者の格。権威と勢力。漢という寄る辺を失い、反発し惑う大衆が、迷わずに回帰し、集うだけの要素を、示し合わせた様に持っている」
郭図が、すっと掌を地図の上にかざした。
遠近で、広大な漢の版図が描かれた地図が、すっぽりと郭図の痩せた掌の中に収まる。
「謀略も戦も、それのもたらす兇相も一顧だにせず、袁紹閣下はただ公然と、当然の様に王者として振る舞えば良い。さすれば天下は、水が上から下に流れるが如く、当然の物として劉から袁のものへと移行する。道理を持って世を治めるのは、乱世が収まったその先からで十分だ。そしてその頃には、既に大義の在り処は問うまでも無く、王者・袁紹の姿こそが、大義として其処にある世になっているだろう」
「趙叡! 既に公孫賛の勢力、殆どが袁紹殿に降ったというぞ!」
「おうよ、韓莒子! 我が袁紹軍の勢い、まさに竹を一息に割るが如し!」
幽州電撃侵攻作戦、一息で成功させた袁紹軍は、そこから手を休める事無く機動隊を分離、速攻を加えた。目標は烏丸賊軍と公孫賛軍の交戦地・漁陽。
奔流のような勢いに任せて大地を駆け抜ける、先鋒の二将。
「しかし趙叡! この騎兵は素晴らしいな! 火の如く疾く、激しい! 質・量ともに最強だ!」
「しかもだ、韓莒子! この精鋭を統率するは、かの名将・麴義殿! これほど完璧な軍容は、天下に二つと有り得まい!
「趙叡よ! 俺は今、王者の軍たる威容の先陣を切る歓び、古の勇者に劣らぬ戦士としての自負を感じているぞ!」
「おお、韓莒子! この威容を持って、この戦、一気呵成に決りを付ければ、天下も次代の覇王が誰かを知るであろう!」
「然りだ、趙叡! 領土・兵力・人材! 全てを備えし王者の天命! 我らが矛で示すべし!」
土煙を巻き上げて驀進する大騎馬軍、その猛る様な気炎に押されるように、先鋒の二将は速度を増す。
「おお、見えた、見えた、見えて来たぞ!」
「あれに見えるが、敵影か!? 数は如何ほど!?」
「陣を布くのは、目算、千!」
「たったそれだけか! いじましいかな、公孫賛!」
「しからば、趙叡!」
「おうよ、韓莒子!」
「我ら、袁紹精鋭騎兵、その先鋒の誇りにかけて!」
「惰弱な敵を、一息にして轢き殺すべし!」
殺到する騎兵の大軍が、津波の様に押し寄せる。
目の前には、自軍に比して甚だ脆弱な、僅か千ばかりの敵。
趙叡、韓莒子の二将は、勢いのままに抜刀する。
そしてその中央に立つ、一人の少女の姿を認めた。
「何だ、女か!? それも兵より前に立つとは!」
「何と無謀! しかしなれど、勇気だけは勝ってやろう!」
「そこな敵将!」
「名を名乗れい!」
そうしている間にも、両軍の間合いは見る見るうちに接近していく。
やがて、肉薄するほどに近づいた時、うつむく様に視線を下げていた少女の瞳が、カッ、と強い力で、迫りくる敵軍を毅然と見据えた。
「漢朝四百年、民は惑い、国は病む」
馬蹄の轟音にかき消されそうなほど、静かな声。
「私は甚だ、未熟です。天の理を論ずる事は叶いません。しかし、それでもわかる事はわかります」
されど歩みは、確かに前。
「珀珪殿に私心は無く、抱いているのは国を憂う義心のみ。栄達を望まず、自らの領地に住まう民の、安寧と笑顔を願う心に偽り無し。彼女が義士である事は、愚かな私にでもわかる、なればこそ!」
幼けない、甘い瞳。
翡翠と同じ色をした眼差しが、怒濤の大軍勢を真っ向から迎え打つ。
「貴方達に道理があるなら、無知な私に教えたまえ! 何故、国境を侵し民を脅かす者達と戦わず、民の安住する幽州に攻め込み、何故、平和を一心に想う珀珪殿に矛を向け、何故、民を護るべく戦う我らが軍に襲い掛かるのですか!!」
どんどん、声色に勢いが増していく。
一歩も引かぬまま、柄を握らず、空手のままの右の掌を、切っ先の様に突き付ける。
「振り上げたその矛、大義はどこにあるのか!!」
甘ったるい、甲高い独特の声が、ピン、と一本張って、馬蹄の轟音の最中を吹き抜けた。
「青い事をほざくな、小娘!」
「どう道義を語ろうと、所詮、戦場は血飛沫を上げる場ぞ!」
「然り! 小賢しい舌先だけの問答は不要!」
「ただ、武人の礼に依ってのみ語るべし!」
「さあっ、敵将! 今一度!!」
「剣を取って、名を名乗れぃ!!」
問いには、答えず。
刃が、降りかかる。
「―――――無頼に名乗る」
「「名など無しッ!!」」
「「ッ!?」」
言葉を一蹴して、二将が刃を振り上げた、その矢先である。
少女の鼻にかかるような声が、にわかに鋭く引き締まったかと思うと、傍らから二つの矛が躍り出て、次の瞬間、二つの頸が飛んだ。
止めようのない勢いで殺到して来た騎馬軍が、敵と真っ先に当たった所で上がった、その不意の血飛沫に、思わず、行き足を鈍らせる。
ドンッ、と、二つの生首が地面を叩いた。
「言葉を持たぬ暴ならば」
さらに一歩、その少女は前に出る。
静かに、あくまで静かに、すらりと腰に佩いた直剣を抜く。
「是非も無し」
ピッ、と、切っ先を、見渡すばかりの袁紹軍に向けた。
打って叩いた様に、傍らで二つの剛腕が唸りを上げる。それは、戦慄を与えた。
大軍を威圧する、とてつもない武威。
グォン、と空気を軋らせ、先程血を吸ったばかりの、身の丈ほどの大得物を一振りして空を鳴らし、仁王の様に立ちはだかる女丈夫。
美髪君・関羽。
万人敵・張飛。
そして、無言のまま刃でのみ示して屹立する、この二つの豪勇が奉る少女の名は――――――
「中山靖王劉勝が末孫、劉玄徳! 我らはこれより死地に赴く! 義を以て我が名の下に集う者は、決してこの理不尽な侵略を許してはいけません!!」
傍らの、関羽・張飛が目をいからせ、構えを改めて新たにした。
「戦友たちよ! 勇ましき心で奮い立て! 滾る心胆を刃に乗せよ! 決して退いてはならぬ所だ! 総員……ッ」
「突撃ーーーーー!!」
勇猛なる烈将が、何よりも先駆けて足を止めた騎馬軍に突っ込む。
その気炎に引っ張られる様にして、勇者が、何倍もの敵に挑みかかった。
「はぁぁぁああッ!!!!」
「うりゃりゃりゃりゃー!!」
雷撃の如き青龍偃月刀が唸ると、一群の敵が、薙がれる草の様に砕け散る。
蛇矛を振るう小柄な体躯が突撃すると、たちまちに敵の一角がひしゃげて、押し込まれる。
敵の群れに穴を開けるかのように、まるで寄せ付けない。その戦場にあって関羽と張飛は、全く別次元の強さを持っていた。
「! ちっ……」
――――――だが、たった二人の武威で止められるほど、名将・麴義率いる袁紹精鋭騎馬軍は甘くは無かった。
眼前の向こうにある、数十の敵を構えひとつで威圧しながらも、次々に脇を抜けてゆく敵を目の端で捉えて、関羽は小さく舌打ちをした。
初めこそ、二将を討ち取った勢いそのままに突撃してくる劉備勢に対し、受け身に回った袁紹軍だったが、体勢を整えると、ほどなくして攻守は交代した。
元々、数的にも圧倒的な隔たりがある。関羽・張飛の侍る所はさすがに堅固だが、袁紹軍は一斉に足並みの揃った攻勢を、劉備勢の勢いの弱い所を的確に見定めて加えてくる。押し潰す様にして続々と第一線を突破し、其処を楔として、効率良く劉備勢の陣を崩していった。
もはや劣勢というべき状況であったが、それでも劉備勢が潰走しないのは、残った前線の部隊が、しぶとく踏ん張って戦線を保ち続けているからであろう。
「きゃっ!!」
再び、隊列を組んで一つの塊となった兵の群れが突進する。
劉備軍は一糸乱れぬ袁紹軍の攻撃を受けて、またも大きな後退を強いられる。
押し込まれ、兵達が将棋倒しに崩される。最前線で指揮を執り続けていた劉備も、それに巻き込まれて、弾き飛ばされる様に地面に倒された。
「大将首、もらったッ!」
「……っ!」
敵の一人が、目敏くもそれを見逃さなかった。手綱を思い切り引っ張って、突入していく馬の脚を強引に止め、地面に倒れたまま、ハッとして顔だけで振り返った劉備に向かって、馬上から身体を投げ出す様にして、剣を振り降ろす。
「――――――っ!」
斬られる――――――死に態のまま、どうにも動けずに劉備は片目だけを、こらえる様に咄嗟に瞑った。
「……毎度ながら、危なっかしい嬢ちゃんだ」
だが、過った予感通りの痛みは襲ってこなかった。
そこに斬りかかる袁紹の兵士を、横合いから飛んできた細身の剣が打ち払った。
「しャッ!!」
斬り上げに手首を打ち、劉備を斬らんとした攻め手を潰してからすぐさま、翻して殆どカチ上げる様な動作で、切っ先で喉笛を、引っ掛ける様に打つ。
甲状の軟骨が砕ける手応えがして、そのまま血が噴き上がって、劉備に届く事無く馬上から糸が切れた様に、地面にどさりと落ちた。
残身を取りつつ、構えを保ったまま劉備の傍までザッと駆け寄る、一人の男。
「簡雍さん!」
尻もちをついたまま、ぱっと劉備の顔に、安堵の色が広がる。
「ありがとう……危なかったぁ」
「おう。パンツはアウトだけどな」
「? ……!? わわっ!!」
ほっとした表情で溜息を吐いた劉備に、簡雍は目線は前に上げたまま落とさず、フッと鼻を鳴らす様に微笑した。
劉備がきょとんとして、視線を落とす。そこで初めて、自分が無防備に脚を開いているのに気付いて、慌ててめくれ上がった腰巻布を片手で抑えて下着を隠すと、すぐさま、両脚をぴったりとくっ付けて、弾かれる様に、ばッと立ち上がった。
「お前は下がれ、玄徳。敵と切り結ぶ所は、雲長と益徳に任しときゃァ、良い」
「! それは……駄目」
簡雍は切っ先を前に向けて、敵と入り乱れる土埃に向かって構えたまま、劉備の一歩前に立ち、後方に下がるよう促す。
しかし劉備は、静かな、凛とした声でもって、それを退けた。
「皆が戦ってる。ギリギリの所で戦線を支えてる。ここで私が下がったら、皆もそれに吊られて下がって、一気に押し込まれてしまう。皆の命を預かったのは私。皆の頑張りを、私が無駄にするわけにはいかない。だから、ここで私が退いちゃ駄目!」
構えを保ち、気を前に向けたまま、チラリと一瞬だけ、後ろの劉備の顔を見遣った。
いつもの、のほほんとした、人を和ませる気楽な表情は、其処には無かった。
白磁器のような綺麗な顔が、土と擦り傷で汚れている。瞳には力があり、勇気が宿っていた。
――――――なんつう眼をしやがる。
細い腕、細い体。取るに足らない、非力な彼女。関羽や張飛の様な、常識の枠から外れたような力は、彼女には無い。汚れも知らない様な、無垢な彼女。本当の意味で、劉備は只の少女だ。
にも拘らず、敵の殺意を持った刃に晒されて尚、恐れないのは――――――それを上回る強靭な意志を持ち得るからである。
彼女は自分一人の為なら、恐らく虫も殺せない。金を騙し取られても笑って済ますだろう。ひょっとしたら、辻斬りに遭ってもなお、いつものように困った風に笑って、相手を咎めぬままに死んでいくのではないか――――――横顔を見ていて、本気でそう思えてしまう所がある。底抜けのお人好し。
彼女が剣を取るのは、いつも決まって、“誰かの為”だ。
『何が正しくて、何が悪いのかは、正直、私にはわからない。けど、私が迷う事で、私と一緒に笑う人が泣くのなら……私は、迷うよりも戦いたい』
かつて黄巾の乱に前後し、百人ほどの義勇兵の長に祭り上げられた彼女の言った言葉だ。
虫も殺せない様な少女が、人が死ぬことに誰よりも心を痛める少女が、剣を持てば、いつも相手に吹っ飛ばされてしまう程に非力な少女が。
ただ、その念だけを以て、苛酷な戦場に立ち続けるのである。
「…………フっ」
そういう彼女だから、関羽が、張飛が、そして彼が、いつもすぐ隣にいて、離れないのだろう。
「――――――拙い武技で、ひ弱な力で。健気にも、よくやる」
ふと。
そこに、毛色の違う、涼やかな声色が。
そいつはいつも、足音すら無く現れる。
「っ? ……小次郎さん!」
「おう、色男。相変わらず土壇場でやってくるねェ」
はっとした、次。2人が、その声の主が誰かに気付いた。
この一際目立つ長身端麗な容姿で、どうしてこう、誰にも気取られずに背後から現れる事が出来るのか。
幽霊の様に、さらさらと海の底を流れる声と一緒に、いつもの通りに不意に現れた。
「公孫賛が烏丸と和睦した。暫し耐えれば、救援に来る」
「え?」
「良いのかよ、そりゃ。とても信用出来るとは思えねーな」
「そうしなければ、此処で滅ぶ。それよりはましだろう」
スタスタと、何事も無いかの様に、歩をゆったりと前に進めていく。
戦場にあって、一人だけ岸の柳が如く。
「劉備よ」
静かであった。
「公孫賛は佳い女だ。天下の全ての民を睥睨するだけの気宇は無い。だが、目に届く範囲の民への配慮には愚直なまでに誠実だ。それは一見、その気になれば誰もが出来る様で、その実、持たざる者には永遠に持てぬ貴重な資質だ」
歩むまま劉備に並びかけ、一瞥もせず、まるで散歩の歩みの様に、そのまま歩いて行く。
ゆったりと。
「それは、長きに渡ってお前の助けになるだろう。大切にしろ」
歩調と同じ、緩慢にすら思える拍子で、長い指が背負った長剣の柄に絡まる。
すら、すら。濡れた様な刀の刃紋が、艶やかなる鞘の中から姿を露わにしていく。
無雑作に、無防備に――――――小次郎の姿は、そうとすら思えた。
その調子を乱す様に、小次郎がさらに一歩を進めた瞬間、前線の混戦が巻き上げた土埃の中から、不意に一人の騎兵が飛びだして来た。
「! おい!」
「危なっ……」
二人が咄嗟に口を開き、何かを叫ぼうとした、その矢先。
その続きを喉から放ち終えるよりも、それは早かった。
「…………ッ」
閃光のように煌めいた、一筋の銀の線。
男の纏う空気は、一切変わらず、淀まず。遊歩する様な、柳の如き歩みのまま。
猛獣の様に躍り出た騎士が飛び掛かり、その銀の閃光がきらめいた瞬間、首が胴から飛んでいた。
駿馬は、天を突く様に勢いよく血を噴き上げる首無しの袁紹兵を乗せたまま、背の高い、優美な男と擦れ違う様に駆けて行き、そのまま呆気にとられる簡雍と劉備の傍を抜け、やがて弾む様な歩様に変わって、駆ける脚を緩めた。戟を振り上げたままの姿勢で固まっていた肉体が、どさりと、荷物の様に地面にずり落ちた。
小次郎の様子は、何一つ変調は無かった。呼吸一つ、歩む足一つ、乱れはしない。ただ、左手の指が柄の小尻に添えられており、既に右の掌の中には、抜き身の三尺長刀、長船兼光が抱かれてあった。
逆袈裟に斬り上げられた体勢で残身していた愛刀を、一度、中空でピッと弾く。血の一滴すら、其処からは飛ばない。
そうして何事も無いかの様に、涼やかな表情のまま、ゆったりと歩いて、最前線の血埃の中に消えて行った。
「はあッ!!」
剛腕が唸る。実直な軌道の横一文字は、目の前の兵士の構えを圧殺した。
受けた刀ごと、崩す。相手は身体が流れ、勢いに圧されるまま無防備に後退する以外に、術がなかった。崩すというより、文字通り弾き飛ばすという様な――――――大きく前に押し込んでさらに一歩、唐竹割りに振り下ろす。単調だが、関羽のそれは恐ろしく速く、何よりも凄まじい圧力を持っていた。
最初の一太刀で、勝負は決まっていた。二の太刀でそのまま真っ二つ、青龍刀が脳天から胸元まで、一直線に人体を搔っ捌いた。
「う~~~~っ……りゃッ!」
一際小柄な体躯が、地を滑る。猫の様に俊敏な身のこなしが、目の内に漸く止まった、その時には、既に蛇矛が喉笛を突き破っていた。
喉元を穿たれた敵兵が倒れるよりも、そして周囲の兵が反応するよりも速く、張飛は蛇矛を手元まで引き戻し、ほぼ真半身、背中に隠す様に右片手に抱えた独特の構えで、足を刻む。
やや前足に体重を乗せつつ、左手を下げて、下から上に覗きこむ様に、相手を見遣る。
トン、トン、と小刻みに飛び、一定のリズムで、短く水平に切り揃えられた前髪が、自身の額を叩いている。
やたらに大きい目が少し動いた瞬間、目にも止まらぬ速度で、その身が翻る。獣の敏捷さで振動した身体から伸びた矛は、また、一人の兵士の首筋と動脈を一瞬で斬り裂いた。
この戦場に、少女の疾さについてこれる人間は皆無だった。
「鈴々! 一人の敵を深追いするな! 敵を討つ事よりも、抜かせない事を優先しろ!!」
「そんな事言ったって愛紗、一回には一人しか相手に出来ないのだ」
汗と泥と血を巻き上げながら、敵中真っただ中で関羽と張飛が背中を合わす。
既に互いの得物は、血と脂をべったりと柄まで吸っていた。
「出来なくても、やれ!! 我々は多勢に無勢、既に各陣が崩れかかっている。一人でも多くの敵の足を止めねばならん、その様に戦え!」
「むぅ~……鈴々だけなら、何人来たって負けやしないのに……っと!」
じり、じり、と、二人に向かって包囲を狭める敵の中から、一人の兵士が飛び込んできた。
踏み込むと同時に剣を振り上げた瞬間、蛇矛が開いた胴を強かに貫いた。
動きと反応の速さが明らかに違う。狂乱と混戦の最前線のただ中にあって、いとも簡単に後の先を取る少女に、再び、袁紹の兵は警戒を強め、二の脚を踏む。
しかし、やはりその脇から、突破していく敵兵の脚は絶えない。
「何千人もの人間で作る流れだ。お前一人が生き残った所で、それは勝利では無い。一人で全ての敵を討ち尽くせる訳でもあるまい」
――――――ふと、涼やかな声が流れて来た。張飛が首ごと振り向き、関羽は目の端と耳でそちらを探る。
そちらの方で、一人の敵兵の顎が吹っ飛んだ。がくん、と首から上が一瞬、激しく震え、かち上がった顎の真ん中から一筋、血が吹き出る。
その兵士は、何が起こったのか、把握できていないようだった。一度、何も無い中空で剣を振るったが、それは力無く流れ、そして、ぐにゃりと崩れる様に腰が落ち、そのまま地面に昏倒した。
その傍らを擦り抜ける様に、佇む様な風で、長い髪を艶めかせながら、その男は出で、現れた。
「……佐々木小次郎!?」
関羽が構えは崩さないまま、名を口から突いて出す。
「どういうことだ!? 珀珪殿の食客である貴様が、何故このような所に居る!」
喧騒に掻き消えぬよう、強めに言葉を放ちながら、敵兵を振り払う。
小次郎は人間と血埃の間を縫う様に、関羽と張飛の間へ歩を進めた。
「公孫賛が救援に来る。合流したら、そのまま退くといい」
「……!? そうか……くっ、漁陽は袁紹の手に落ちることになるか」
「関羽」
「何だ!」
「劉備を劉備足らしめているのは、お前だ。今後、劉備が天下の士である事を望むなら、何があろうと、あの少女の元を離れるな」
「は!? なんだ、急に!」
「張飛」
「にゃー?」
脈絡のない言葉を紡ぐ小次郎に、関羽はやや早口でその真意を問いただす。
小次郎は、何も気にかけぬが如し調子で、今度は張飛に眼を向ける。
「詠と月は、巣の無い雛のようなもの。帰る庇を持たぬ幼子の様なものだ。お前が護ってやってくれ、頼むぞ」
たゆたうような言葉と、流れる様な歩みで。佐々木小次郎は、前へ歩み出す。
「おい、貴様、何処へ往く!?」
ただ、ゆったりと。戦場にあって、静かに。
「あの男が、南に居る」
ふと、ともす様な声で、関羽に答えた。
それとともに、飛び込んできた二人の兵士。
「ただ、それだけで良い。あの男が居るから、俺が往く!」
銀色の燕が、飛沫く鮮血の間を、優雅に舞った。
長躯が、振り降ろされた二つの刃の間をするりと抜け、ゆらりと、たおやかにも感じる動作で、その、長い長い刀の、先端一尺ばかり、僅かにもくぐもらぬ光りを称えた切っ先を払う。
置き去りにされた二つの身体は、空に向かって振り抜いた勢いそのまま――――――まるで時間そのものに隔たりが付いたかのように――――――前のめりに、地面へと落ちた。
神速の剣閃の主は、何も見ておらぬかのように、視線を足元に落としたままだった。
やがて、一瞬の静寂、のような“間”の後に、伏せた瞳を、上げる――――――
それは、深い、深い、黒。
「――――――佐々木小次郎。参るぞ」
さながら、それは歌舞伎。切り取られた、凛々しき一画。
男は、一人。
血腥さの極むる中で、艶やかに立つ。
この“漁陽の戦い”を機に、袁紹と公孫賛は戦争状態へ移行した。
公孫賛軍は、先鋒となった劉備軍を初めとして気を吐き、しばらくは寡兵でよく粘ったが、袁紹軍を撃退するまでには至らず、やがてやってきた公孫賛本隊の救援と合流し、退路を断たれる前に速やかに戦線を放棄、北平へと撤退した。
なお、この戦いによって、袁紹軍の名将帥・麴義が戦死する事となる。
その死に様は実に不可解なもので、麴義が据わっていたのは、劉備軍と交戦していた最前線からは、かなり離れていた中陣であった。
一刀の下に刎ねられた彼の首は、そのまま打ち捨てられてあった。その切断面は、そのまま切り離された胴とくっ付きそうな程に無駄な損傷が無く、骨、皮、血管や筋肉の中身、繊維一本までが悉く一様に揃って、異様なまでに鮮やかに斬られており、さながら生きているかのよう――――――で、あったという。
麴義を討ったという、“長剣を背負う、長身の、長い黒髪の男”を、袁紹軍はすぐに調べさせたが、何故かこの男は忽然と姿を消し、密偵を放って探らせてみても、ついに公孫賛軍にそれらしい男を発見することはできなかったのである。
この、名も顔も知れぬ、まるで幽霊の様にふっと現れて消えた刺客を、兵たちは誰ともなく、「首攫いの幽鬼」と呼んだ。
――――――男の行方は、誰も知らない。
なぜ最近のニコニコ動画はエラーが頻発するのか。
酷くないpの次回作はいつなのか。
盆の時期に更新して誰か見る人なんて居るのか、そもそもこのssの需要は一体どこにあるのか。
こんな忙しい時期にこんな事をやっている、僕はいろんな意味で大丈夫なのか。
そんな事を考えながら、徐々に書きためています。




