なぎの間編・五十六話――――――「和みの夜に」
空気を引き裂き、残像を象った白樫の竜頭が、突きを繰り出す。
その鋭さたるや、人の身ならば、急所を捉えれば一撃で壊すに足るであろう程のもの。
「……ッ」
しかし、楽進はそれに対して受けの構えを取らない。彼女の眼は、それが半歩ばかり短い事を見切っていた。
果たして、突きを打つと、鼻先より半歩前で届かず、それや否や手の中で棒を滑らせるようにして引き戻し、しかし足は左足から右足を前へ、動きの流れに任せて、一歩踏み出し、それと同時に先手を手前に引く様にして、手前を入れ換え、回転運動で竜尾を突き上げる。
この自由自在の可変が、棒術の真骨頂。鳩尾打ちと全く同じ動作からの、顎狙いの突き上げ打ち。
李通の攻めは特徴的だ。その九分九厘が急所狙い。頭と首、そして金的が殆ど。そして二段目の突き上げ顎打ちは、先の捨て打ちと違い、紛れも無く捉えに来た打ちであった。
「ッ!」
巻いた籠手の鋼の部分で、それを払い受けた。軌道が逸れる。
楽進はそれを逃がさない。受けた左手でそのまま、棒の先を掴み、それを引っ張る。
その動きと反動させ、李通の身体を引きよせつつ――――――右の正拳を、顔面に向かって打ち抜いた。
「おッ」
思わず、声が出た反攻だった。咄嗟に横滑りさせるように逸らせた頭の脇を、石の様な拳が通過していった事を、耳の届く風切り音が彼に伝えた。
そのまま、むしろ引っ張られる動きに逆らわず、引き寄せられた得物の棒にくっ付いて行くようにして、楽進に身体を預ける様に密着した。
息がかかるほどの距離まで入り、そのまま頭をぶつける。硬くて鈍い音が互いの頭蓋骨を伝って鼓膜に響くのと同時に、李通が楽進の足を踏んだ。そうして動きを制したまま、棒を掴む手を引き剥がそうとする――――――が、それより先に反撃に出たのは、楽進。
跳ねられた頭を持ち堪えさせ、僅かな隙間を縫って、棒を取る左手を離し、そのまま小さく身体を返して、拳で顎を突き上げ、弾く。ゴスッと浅く当たり、李通が嫌がって離れた。それを追って真っ直ぐの左、右。それは外すも、逃げていく李通をさらに追い打って、大きく長い前蹴りを放った。
「――――――ッ」
それを、腹筋で受けた。後ろに退がりながらだった分、威力が逃げたが、小柄な李通の身体は、そのまま弾かれるように後ろに跳ぶ。
数間の間合いが空き、互いに一息付いて、仕切り直す。
――――――軒先で行われる、掛け試しの一幕だ。
「華雄さん、一人でその場突き打ってばかりいないで、僕たちもやろうよぉ」
「おい……っ」
「いいじゃん! せっかく皆で集まってるんだからさ!」
決して小さくは無い下屋敷の庭で、しばしば見られる光景。役目の無い者達が集まり、思い思いに技を交わし合う。
軍人、武人と云われる類の人間には、身体を動かす事を好む性質の者が多い。戦となれば常に最前線に出張る彼らも、その例には漏れない。彼らにとって、それは紛れも無く生活の糧となる技能であり、仕事であるが、一方で趣味でもある。
あまり言葉を発さずに黙々と組み交わす万億と凪、ピリピリと緊迫感を滲ませながら、真剣勝負さながらに周りを威圧しまくっている星と春蘭、完全にふざけきって、じゃれあっている沙和と真桜。手水鉢の近くに喉を潤しつつ陣取るのは、ノッポら。
暇つぶしに顔を出すと、大抵、数人か居るから、皆、それぞれ気侭に身体を動かす。
誰に強制されている訳でもないのに、生真面目に手も気も抜かぬ凪、殺気丸出しで、鼻血が出るほど死ぬ気を注ぐ春蘭、やりたがりの彼女らに付き合うのは、万億と星。誘われるがまま、それに合わせてやっている感じだ。
沙和と真桜は遊びまくっているし、ノッポらは適度な気のノリで、六分ほどの力で身体を捌いている。
監督される訓練でも、任務でもないから、過ごし方、稽古の仕方に、各々の性格がよく出る。そういう意味で、遊び半分、とも言えよう。
そんな中、はぐれ銀狼のように、全く場に馴染もうとせずに、一人、隅で黙々と得物を振っている女が居た。
最近、降将として陣営に加わった元董卓騎馬軍の猛将、華雄だ。
刀の切っ先の様な表情で、ある種、思いつめた様な、と思う程に、研ぎ澄まされた、おっかない表情で空を打つ。肩を怒らせて得物を振るたびに、周囲を寄せ付けない様な気を分厚くして、辺りに飛ばすものだから、一人だけことさらに孤立を深めて、異様だった。
尤も、それは是非も無い事なのかもしれない。
彼女の涼州人としての自負と自我意識は、並々ならぬものがあった。
華雄の自己同一性――――――アイデンティティを構成する極めて大きな部分は、涼州の戦士としての誇りだ。馬の上をゆりかごとし、強さを全てとする民族の生き方だ。
そして、その民族の血に抱く誇りの純度が高いほどに、遥か昔から異民族を卑視し、冷遇して来た漢民族への反感は、裏返しの如く強い。
華雄は、極めて純度の高い涼州の戦士だった。
それでも、兵馬の命の為に節を曲げて、憎き漢人に降ったのである。
曹操に従い、兗州に入って城に参内した後も、未だ歯を見せた事は一度も無く、まるで呪詛を放つかのように、あるいは漢人の将となった屈辱を振り払うように、ただ武技の精錬にのみ没頭していた。
「ほーらっ、早くっ!」
「…………っ」
鬼気迫る表情でひたすらに一人、虚空に向かって打ち込みを続ける華雄に、最初に声をかけたのが季衣であった。
初めのうちは無視するか、一瞥しただけで、一言もくれずに、すぐまた一人稽古に戻っていた。
しかし、季衣はそんな突っ慳貪な態度にもめげず、声を掛け、袖を引く事を止めようとはしなかった。全く人を寄せ付けようとしない彼女に対し、いつものようなあっけらかんとした、屈託のない朗らかな語調と表情で接し続けた。
華雄も、そんな季衣に対して次第に無下に出来なくなっていき、今では、愛想は無いながらも、懐いてくる季衣を追っ払おうとはせずに、引き摺られるように纏わり付かれるがままになっていた。
受け入れる様な言葉は言わぬが、突き離す様な言葉も吐かずに、ただ、言葉にならない、ぶっきらぼうな硬い声だけが突いて出て、言い淀む。
引っ張るように自分の腕を取る季衣の手を、振りほどく事が出来なかった。
「やぁーッ旨ァい! 旨いわぁこの酒! 孟ちゃん、こんな良ぇモン拵えとったんやなあ」
「お前さん、結構イケる口だな」
なお、もう一人の降将である張遼は、華雄の抱く様な葛藤などどこ吹く風、あっけらかんと、馴れ馴れしいと思う程に、皆の輪にすんなり馴染んだ。
そして長刀を振るうのもそこそこに、後からやって来た武蔵が、軒で皆の様子を眺めつつ、華琳から貰った手製の酒を唇に嗜んでいるのに目ざとく反応して、たかりに行って一緒に呑み始めるような、気安い態度を見せる様になっている。
すっかり良い感じに出来あがって、片膝立てて胡坐をかき、武蔵の肩に手を回して、陽気に笑う。
「蒸留を繰り返すと、度数の高い酒になるらしい。葡萄酒の様な濃い酒になる。華琳が学徒の時に考えた酒造法だそうだ」
「へぇ。何でも出来るんやな、あのちっこい大将」
「ああ。何でも出来て、何でもやる」
すでに肌に紅みがさしかかっている張遼が、もうひとつ、ぐびりとやった。
なお、星がそれを見て、解り易いほどに呑みたそうな表情を顔に現したが、春蘭が全くそれには気付かぬ様子で、組手の続行を敢行し、彼女を解放しようとしなかった。
電光石火で一合、二合と切り結ぶが、間合いが開く度に、一瞬一瞬、チラチラと恨めしく、酒に対して物欲しそうな視線を注いでくるのに、武蔵は気付いていた。
それを見て、また、クイ、と、傾ける。
華雄は未だ、困惑の表情を浮かべたまま、自分の手を両手で握る季衣に、引き摺られるようにして、その“輪”の中に引っ張り込まれていった。
「――――――季衣とは上手くやれているか? 華雄」
すっかり人の掃けた後の庭で、ぽつりと一人残って佇む彼女に、軒から声を掛ける者が在った。
ケラケラと笑いながら、喧しい張遼と一緒に奥へと引き揚げて行った武蔵が、いつのまにか戻って来ていた。
「…………」
華雄は言葉を発さず、流し目のまま、刃の様に鋭い眼で、ねめつける様に視線を遣る。
武蔵は、口元に笑みを湛えた。
最近、漸く幾許かを腹に溜めるそぶりを見せる様になったが、初めの方に武蔵に対して向けていた、抜き身の様な眼に滲む敵愾心は、思わず、周囲の空気が変わってしまう程に激しいものがあった。
煮え立つような――――――という表現がそれらしいだろうか。
しかし、それも無理のない事である。華雄に敗北を与えたのは、他でもないこの武蔵だ。
武の術を持つ者とは、自分の強さに、自負や誇りや意地を少なからず持っているものだ。武の人としての純度が高いほどに、その想いは強い。
負けた相手と、何の気兼ねも無くヘラヘラと笑って接する事が出来るとすれば、それはもはや武人では無いだろう。それが性と言うものだ。
どれほど大人になって、巧妙に笑みの仮面で腹の内を隠していたとしても、また心胆に、優れた武を持つ相手への賛辞や尊敬の感情が混ざっていたとしても、根底には、武において引けを取った事に対する、怒りや忸怩の念が燻っているものだ。そしてそれは、どうしようもなくしつこいもので、容易く誤魔化せるものでは決してない。
華雄は、極めて純度の高い武の人であった。そして、自分の激しい気性を、わざわざ隠そうとする性質でも無かった。
加えて、漢人の手先となる原因を作った張本人なのだから、親愛の情など湧く筈がない。彼に向ける双眸は、いつも刺すようであった。
しかし、今彼女が遣る流し目は、どこかが違う。
決して親しみの情は無く、和気の気配など一片たりとも混じらない視線ではあったが、瞳の裏に満ち満ちていた、仇を見る様な殺意は鳴りを潜めていた。
「……少し、考えていた」
武蔵から、目線を外す。瑪瑙色の瞳が、ただ虚空ばかりを映した。
「あんなふうに、何のためらいもなく握るものなのだな。色の違う私の手を……」
「肌の色は違っても、同じ赤い血の人間じゃあねえか」
すらりと、伸びた掌。白く細く、美しい華雄の指。とても馬上で大斧を振るうとは思えぬ、華奢な肉体。
「涼州と中原だけが、天下じゃあるまい。それに、天下は涼州人と漢人だけのものでもないだろう。蒼天の下、色は無数にある」
朗々とした低い声が、風に逆らって華雄の耳に届く。
「今度は握り返してみな。案外、なんて事無い子供の手だ」
麒麟の鬣のような紅毛、琥珀色の瞳が、男臭く笑う。
「今から流琉が飯を作るらしい。季衣も来るぞ。一緒にどうだ?」
「漢人と交わるつもりはない」
そう、淡白に、言い放つようにして、そのまま、つい、と踵を返し、背を向けた。
「華雄、お前、今日見てたが、相手の懐に飛び込むのが上手いな。恐れがない」
「…………」
「もう少し肩の力を抜けたら、もっとスッと入れるようになるだろうよ。今度、季衣と稽古する時は、そういう風にやってみろ」
「……余計な御世話だ」
華雄は振り返らぬまま、軽やかにも身を翻して、庭石を足台に蹴り飛び、タタンッ、と塀を飛び越えて何処かに去ってしまった。
武蔵は立ち去った彼女の軌跡を目で追って、溜息のように小さく笑った。
「ああ、食った食った」
流琉が振る舞った料理で行われた小宴は、和気藹藹のうちに終わった。
かつて一流料亭に勤めていた味に舌鼓を打ち、満腹になるまで存分に堪能した余韻を胃袋に残しつつ、風呂に向かう。
「春蘭の左目ですが」
ゆらりと歩く武蔵の隣で、同じようにゆったりと足を運ぶ星が、おもむろに呟く。
「今日の掛け試しで、三度か四度、左の死角に回って仕掛けてみましたが、全て防がれました。後の方では、読まれていたようにも感じましたが」
「両目のままの感覚で戦うから、欠陥した左目の分だけ不利になる。片目の距離感に慣れ、左目側の死角を狙う相手の挙動を察する事が出来るようになれば、見えなくとも反応する事は出来るだろう。尤も、言うは易し、行うは難し、という奴だが。お前相手に問題なく戦えるのなら、既にモノにしつつあると言って良いかもな」
「失った視覚に代わる、第六感でも身につけたというべきですかな」
「春蘭は呑み込みが速い。放っておいてもこなせる……という性質の子じゃあないが、教えればすぐに覚える」
綺麗に磨き抜かれた床が、二人の像を真下から捉える。コツリ、コツリと、踵を鳴らした。
「独眼の不利が、却って有利になるという事もあり得る。本来、自在である事こそ肝要だが、相手の片目が利かんとなれば、ついそちらに狙いを絞りがちになる。春蘭からすれば、左の死角狙い一辺倒になった相手に、合わせるのは容易い」
良く使われる例え話だが、丸腰であれば、拳に蹴りに掴みに投げと、様々な術を以て戦う人間が、ふと一本のナイフを持つと、突然、そのナイフ一本に頼り切りになり、それ以外の攻撃手段が思い浮かばなくなるという。
武器という優位性を得たが故の不自由、つまり、有利ゆえの不利だ。
相手が隻眼であるとなれば、当然、その視えぬ方の側から攻撃を仕掛けていくのが基本であろう。しかし、死角狙いに拘る余り、同じ技しか出せなくなってしまうという事が多々ある。
それは上手くない。隻眼の武人にしてみれば、死角となる方の目を狙われるという戦法には慣れている。しかも、それにかかりきりになって、相手が他の所への意識が疎かになっているとすれば、これほど組みしやすい事もあるまい。他の所へ攻撃は来ず、決まり切った場所にしか攻めてこないのであれば、ただ、必ず来るとわかっている打ち込みを待っていれば良い、ともすれば、交差の格好の的ともなる。
「もしや、それも吹き込みましたかな?」
「いや。戦い方に慣れれば、わざわざ言葉にせんでも身体で覚えるだろう。あの子は、勘は良い方だ。まあ、今まで以上に相手を見ろ、とは言った気はするがね」
「全く、愛娘というのはわかりますが、些か主は春蘭を贔屓し過ぎだ」
「お前みたいな賢いのには、あんまりケチも付けようがないんでな。口を出す前に察してしまうようなもんだと、こっちも、それはそれでつまらん」
「では、次はもう少し手こずって見せまする」
「それも何か、違う気がするがね。」
雑談もそこそこに、足は浴場の入口へと二人の身を運んだ。
「ん?」
「……おや?」
武蔵が戸に手を掛けようとすると、中から何やら音が流れてくる。
人の声――――――歌声か。薄い脱衣場の壁を擦り抜けて、たおやかに流れてくる。凛として筋の通った、綺麗な女の声。
一瞬、詩の朗読かと思ったが、よくよく聞いてみると、それにしては旋律がいやに明るくて軽い。キャッチーな音楽、とでも云えばしっくりくるのか、注意して聞き込んでみれば、三姉妹の十八番だった。
「地和か?」
スッと、音も無く戸を引いて開いた。するとそこには――――――
此方には全く気付かず、鏡に向かってノリノリで歌いながらポーズを決めまくる郭嘉が居た。
「稟」
武蔵が少し大きな声で名を呼ぶと、下着姿のままの後ろ姿が、ビクンと跳ねた。
油の切れたからくり人形のように、ギシギシという偽音が聞こえそうなぎこちない動きで、後ろを振り返る。
「軍略しか詠う事の無いと思っていた喉だが、中々に良いものを持っとるじゃないか、うん?」
袂に両手を仕舞って、カラカラ笑いながら一歩、武蔵が脱衣場に踏み出すと、稟はたちまち首までゆでたこの様に紅潮し、
「い……いゃああああ!!」
着るものもロクに身につけずに、上着を胸の辺りに纏めて抱いて、肩と太腿の白さを露わにしたたま、裸足のままで武蔵と星の横を駆け抜けていった。
「歌上手いんだなぁ、あいつ」
「ええ」
意外な特技だ、と、笑っている武蔵の隣で、星は、ほくそ笑む様に両頬に笑みを含んで、唇を指先で押さえていた。
後日、何者かによって流された「姿見の前で熱唱し、一人、悦に浸っている黄河の歌姫」の噂により、向こう三週間、稟はからかわれ通しであったと云う。
「あ゛~……」
「快なりですな、主よ」
ざぶん、と湯殿に浸かり縁に両肩を預けると、内臓から震えるような声が、肺の底から抜けて行く。
「しかし、主が風呂に入られるとは、些か驚きましたぞ」
「うん? 何故」
「宮本武蔵と云えば、生涯一度も沐浴した事がない、と市井の講談師が」
「そういうのを真に受けるなよ」
宮本武蔵は、風呂に入った事がかつて一度たりとも無いらしい、というのは、実しやかに囁かれる有名な伝説だが、実際にはそんな事は無かったようだ。
熊本入りの直後、寛永十七年の十月二十三日に、細川忠利から直々に招待を受け、かつての幕府、剣豪将軍と呼ばれた室町が十三代・足利義輝の御落胤、足利道鑑とともに山鹿温泉の湯に親しんだ事が、細川奉書に日付入りで記されている。
そもそも、忠利自身がこの山鹿温泉を痛く気に入っており、自身の宿泊所や、幕府の上使や賓客をもてなす為の御茶屋を山鹿の地に特別の設けさせた、という経緯があったのだが、忠利はこの二人を自慢の御茶屋に招くにあたって、
「足利道鑑と宮本武蔵を招待するので、使用人、馬、味噌、炭、薪に至るまで万事滞りなく準備せよ」
と、自ら細かく奉行に対して指示を出している。
彼らは一週間余り滞在して、山鹿の名湯を満喫したそうだ。
「どっかでちらっと、“風呂に入るのが面倒だ”と言ったのが、いつのまにやらそういう話になっとってな。こういうのはままあるこったが、それにしたって、一生に一度も行水すらした事がないってのは、ちっと勘弁して欲しいもんだね」
ずずずっ、と身を深く湯に沈めつつ、不名誉な噂に宙空を見上げ、溜息を吐く。
伝説や逸話の類というのは案外、発祥の元を辿れば、その程度の話なのかもしれない。
「ふむ。しかし主、そんな事より」
「今度は何だ?」
「この玉の如き柔肌を見て、師は何も感じられませぬのかな?」
チャプン、と滑らかな一雫の音を立てて湯の中をすべり、胡坐を組む武蔵の脚の上に白い尻を乗せる。
湯の熱で上気し、色っぽく赤付いた頬に笑みを浮かばせながら、太い首に両腕を回し、艶やかな下唇を悪戯気に噛んで、武蔵の顔を覗き込んだ。
丁度、くびれから上、なめらかな身体の線を描き、ツンと上を向いた張りのある若い乳房までが、湯から出て露わになって、瑞々しく、雫を滴らせている。
……が、
「……主よ、確かに、いきなり獣になられても私に為す術はありませぬが。それにしたって全くの無反応というのは、些かどうかと思いまする」
「ンな事言ったってお前さん、俺もう六十だよ、末の息子は三十過ぎだぜ、今更、色事もねぇわさ」
「つまりませぬっ」
よいよいと大儀そうに、肩を竦めるばかりの素っ気ない武蔵に対して、星は、ぷんっ、と鼻息を漏らした。
からかいのアテが外れてしまったようだ。
「主は前に、余程の事がなければ、自分の息子より幼い小娘に、そうそう躊躇なく全力で打ち込めるものではない――――――と、おっしゃられました」
「ん……? はて、言ったかな。でもまあ、そういうもんだろ」
武蔵の胸に背持たれの様にして、体重を預ける。
椅子にされたまま、武蔵は湯殿の縁に両腕を回して、身体を楽に預けている。
「呂布は、余程でしたか」
「ああ」
「ふむ」
背丈に大きく差がある星の身体は、武蔵の胸にすっぽり収まる。
鎖骨の辺りに、こつん、と、星の後頭部が預けられた。
「私も早く、置き石を置いて貰わずともよい域に達したいものです」
「そのうちなる」
「皺くちゃになってからでは、仕様がありませぬ」
「佳い娘は、婆さんになっても佳い婆さんだろうよ。そんなに気にするこたぁない」
「……それは、醜女は若くとも若い不細工、と言っているようにも聞こえまする」
「ん……そうか? でもまあ、そういうもんだろ」
「世の半分以上の女性を敵に回しましたな」
「言わせたのはお前さんだ」
「ふふっ」
含み笑いを浮かべて、星が武蔵の顔を、眺める様に見上げた。
「しかし、見れば見るほど傷だらけですなぁ。この耳が欠けておるのは、誰から受けたものです?」
首筋から顎先をなぞるようにして見ていたが、やがて身体を翻し、再び対面する座位で向き合った。
そうして、星の手が、そのまま無雑作に武蔵の耳をなぞる。
「それか? たぶん、宍戸だ」
「では、この鎖骨から胸板にかけての刀傷は」
「吉岡清十郎」
「この目の下のヤツは」
「……それも清十郎」
「ではでは、この背中にばっさり走っている斜め傷は」
「それは……知らねえな」
傷を物色する、無警戒な少女の表情の下で、汗と湯の滴を弾く、水桃のような乳房が湯に浮かんで、ぷるぷると震えている。
乳首が苺の様に赤く色付いて、時折、水面から顔を出した。
「師は、髪を短くなさらないのですか?」
「童の頃に、頭にでかい腫れ物が出来てな。爛れて痕になっちまってから、月代しておらん」
背筋を伸ばす様にして、自分よりも遥か、大柄な武蔵の頭皮を濡れた癖毛を掻き分け、わしゃわしゃと覗く。
武蔵の目の前で、つんと上を向いて健やかに震える形の良い胸から、締まった腹筋が作るくびれ、臍へと、玉の肌が象った、美しい曲線が流れて行く。
何がそんなに面白くて、人の頭を探っているのかは知らぬが。
「よく見ると」
「うん」
「向こう額にも疵があるのですね。よく見なければわからぬほど、うっすらとですが」
「……額? 有るのか」
「縦に、本当にうっすらとですが」
「……そうか、遺っていたのか」
つっ、と、星の指先が、額をなぞる様に、撫でた。
「受けていないと思ったが、そうか……そうか。遺っていたんだな」
それはとても、小さく零した様な呟きではあったが。
風呂場の反響、無音の中にちょうど良く落とされて、波紋のように広がり、よく聞こえた。
「……この疵の心あたりは?」
武蔵の目の前に、綺麗な顔がある。星屑を散らした様な瞳の中に、自分の顔が映り込んでいる。
体温が上がって血行が良くなると、目立たなかった古傷などが浮かび上がってくる事がある。
武蔵の向こう額、丁度、頭蓋骨の一番硬い部分の所に、薄く、薄く、一本の縦に入った、三寸に満たぬ小さな傷痕が残っているのを、星が見つけた。目聡く、見つけた。
ともすれば、引っ掻き傷のようにも見える。それくらいに小さな傷。しかし、ピッと真っ直ぐに入った付き方が、刀傷である事をうかがわせた。
「……昔な、やたらめったら、力任せに木刀を振り回すだけの剣士が居た。いや、到底、剣士なんて様になったモンじゃ無かったな。これがとんでもなく、不細工な戦い方をする男でな。とにかく、叩きつけるばかりで剣筋が粗い。さらに始末の悪い事に、どうしようもないくらいの、命知らずの身の程知らずだった。まあ、若さゆえかもしれんが」
「…………」
「剣術のけの字も覚えとらんような未熟者の癖に、何のためらいも無く真剣勝負なんぞをやり、しかも何を間違ったか、生き残っちまった。味を占めて繰り返し続けたが、とうとう、死なんかった。相手が輪を掛けて未熟だったのか、ただ運が異常に良かっただけか、それはわからんがな」
露出した肩の辺りが、ひんやりとし始めたのを感じて、星が身を沈める。
首まで浸かると、丁度、武蔵の胸元に埋もれる様な形となった。
「何十度か超えた辺りで、“そいつ”に巡り合ったんだ。細川に仕えていた松井佐渡守の仲介で、戦う事になった。そいつは虎の牙が如き長剣を小枝の如く自在に操り、燕の飛翔が如き疾さで舞わす、古今無二の達人だと云う」
「…………」
「覚えている。確か、二十八か、九の時だよ。そいつの名は当時、天下で知らぬ者は無かった。見た事は無かったがな。生きた伝説だった。実際にはどんな奴なのか、と身構えて舟島に渡ったが……相対したそいつは、思い描いていた、無双の大剣豪じゃあ無かった。痩せ果て、細り、枯木のように衰えた、目も見えぬ老人だったんだ。覚えているよ。今でも……」
胸には、大きく開いた両腕の間に、すっぽり収まるように、星の顔。
若い肌が玉のような水を弾き、光るがごとく、美しい。
「白く、濁った目だった。一寸ばかしは利いていたのやも知れんが――――――いや、あれは、視えてはいなかったのだろうな。少なくとも奴は、俺の顔は、知らぬに違いあるまいよ。ふらふらとした仕草。目の前に居る俺を、探していたようでもあった。正午の中天、覚束ない足取りで浜の上に立つ、不似合いな長剣を携えた細いそいつの身体は、とてもとても小さく見えた……だが」
刀傷だけではなかった。
見る者を圧倒する、山脈の様な筋肉。巨体にも拘らず、その作用を隠さぬほどに絞り込まれた薄い皮膚を持つ鋼の身体に刻まれているのは、抉れた疵、強い力で弾かれたような疵、矢じりや弾丸のようなものが食い込んだ様な痕。見上げれば、顎先にも傷があった。
全ては、積み重ねた戦いの記憶。
「一間程の間合いに入った時、その白刃を見失った。その一打に、全く、反応する事ができなかった。立つのも難儀そうな老人の、真っ直ぐに打った銀の線が、目の前を掠めて通り抜けるまでの間、上段に構えた上体から、ピクリとも、動く事はかなわなんだ」
「…………」
「それが幹竹割りに振り降ろした一閃であった事、一寸、四分の三歩ばかり間合いが遠かった事を察知できたのは、下まで一直線に振り切られた刃が、返しで迫ってくるのを認めた時だった」
「…………」
「咄嗟に、殆ど下を向いたまんま振り降ろした。どうなったのかは、わからん。無我夢中とは、あの事だろう……遮二無二、木刀を振るった後に、足元に、さっきまで己のしていた、額の向こうを切られた鉢巻きが落ちていたのを見止めた時には、痩せた鶴のような爺が、長い白髪を広げてうつ伏せに倒れていた。袴の膝当たりが半尺ばかり切られていたのに気づいたのは、その日の夜、座敷に帰った後の事だが」
向こう額、掠った様な、小さな疵。
それは、とてもとても薄い。
浮かび上がって見えた。
「――――――俺は、勝ったのか?」
「…………」
「闘いとは――――――強い奴が勝つ、そういうもんじゃあないのか?」
静かであった。
豊かな湿度が、喉の奥と両目を柔らかく包む。
滴一滴の音すら、其処には無い。
「もし、あの白く濁った目が少しでも視えていたのなら、あの一寸を図り違える事は無かっただろう。あるいはもう少しでも身体が動いていたならば、俺が一振りを出す隙はなかった」
噛み締める、あるいは、口に含んで滲みこませる様な、そんな言葉の紡ぎ方だった。
「あの決闘だけではない。もし、俺の目の縁を掠め、片耳を千切って行った宍戸の鎖が、俺を血達磨にした吉岡清十郎の剣が、幾千振りの打ち込みで持って俺に殺到した吉岡百衆の刃のどれかが、あと紙一重、ずれていたとすれば、俺は此処に生きては居まい」
「…………」
「それでも、最後に立っていたと言う事が、勝っていたと言う事なら、勝ったのは俺なのだろう。だが、俺を生かしたものは? いったい何だ、単なる、運か。殆ど偶然の様な形で拾った、それを勝利と云うならば――――――強いと云うのは、果たして何だ?」
反響する、浴場の空間。
くぐもって、通って響く、独特の音で、その低めの声が広がる。
「――――――勝ったのは、俺だろう」
両肘を縁に掛けたまま、身体を滑らせ、ざぶん、と、身を沈ませた。
武蔵の胡坐の上に尻を乗せていた星が、それに引きずられるようにして沈み、鼻辺りまで湯に浸かった。
湯が顔にかかり、反射的に、目を瞑る。一瞬、闇。その間だけ、触れていた武蔵の肌の感触が、より質感を増した。
目を開けた。武蔵の胸元、喉仏。そのすぐ上に、表情。
特に変わりはせぬ、色。
「だがそれが本当に俺が強かったからなのか、ただの巡り合わせか……それは、わからん。少なくとも俺は、今まで自分が強いと、実感出来た事は一度も無い。それを思い改めさせた、あの決闘からはずっと。それより以前は、考えすらもしなかったが」
濡れた髭の張り付く武蔵の顎から、水滴が一つ、水面を叩いた。
(…………)
湯から顔半分、眼だけを出した星が、ぶくり、と小さく泡を吐いた。
強いと思えた事は、一度も無い。
強いとは、なにか。
人の一生分に比するほどの長い時間を、ずっとそれのみに費やした男が、遂にそこに辿りつけた事はないという。
並の重さでは無かった。
「…………む?」
塗り壁の様な、覆う様に広い武蔵の胸はそのまま、ふと、遠くに意識を向けた。
湯殿より、外。入口の方へと。
「何だろうな。何か来たな」
(
チャプン、と、星が自分の顔に手で掬った一掴みの湯を流し、そちらを見遣った。
濡れた髪が、頬、唇に張り付き、伝って、雫が一粒、滴る。
「…………こら、姉者。風呂場で走ると、危ないぞ」
――――――よく、聞き覚えのある声だった。
「はっは! なぁに、心配いらん。とーーーーーーう!!」
快活な声が、勢いよく飛んできた。
走り込んで来て、ぶわっと、舞う。
「…………ッ」
「…………っ」
湯煙が吹っ飛び、代わりに、巻き上げられた大飛沫。
飛来して来た裸体が作ったそれが、派手に武蔵と星に降り注ぐ。
「ぷはぁっ、たまらん! やはり大浴場はこれこそが醍醐味だな! はっはっはっ……は?」
勢いのまま底まで潜り込んだ瑞々しい肌が、ざばんっ、と浮き出て、濡れ烏の長い髪を、ぶんぶんと、水浴びした犬のように派手に振りたくる。
喜色満面で、自らが作った水の煙幕が晴れると同時に、後から付いて来るであろう妹に視線を送ろうとして、予期せぬ先客の存在に気付く。
「…………」
「あ……」
眼が合った瞬間に、その少女は口をあんぐり開けて、固まる。
「春蘭。風呂は静かに入れ」
「ひ……」
星が眉を潜めて、掌で顔を拭って水を切り、武蔵は濡れるに任せて、両肘を縁に引っかけたまま、微動だにせぬまま、言った。
「ひゃぁぁぁあっ!?」
その乙女の様な鳴き声は、湯間にはよくよく、響いた。
「おい、春蘭。手拭を湯に入れるな」
「やだっ!」
春蘭は、武蔵から大きく離れた場所に陣取り、唸る猫の様な顔で身構えつつ、自分の身体の前を、大きい手拭でガッチリと固めている。
眼帯に、蝶の装飾は付いていない。錆びにくい様にと真鍮製だが、入浴や行水に際して、取り外せるようになっている。
「秋蘭の男前っぷりを見ろ。惚れぼれするぞ」
「秋蘭! お前はもう少し隠せ! 恥じらえ!」
「気にするほどの物でも無いだろ?」
「何故、そんなに慣れた風でおるんだ……!?」
一方、武蔵が指差した秋蘭は、何に憚る事も無く、堂々と身体を開いて湯殿に浸かっている。
「いい湯だな……」
白魚の様な肌を惜しげも無く晒し、美しい乳房を露わにして、全身を湯に委ねる。
薄化粧は既に取れているが、その顔の華やかさは、微塵も衰えぬ。
むしろ、温かな湯気が顔の血色を増して色味を付け、水滴は髪と肌をしっとりと濡らして、艶めかしさを深くしていた。
縁に、楽に頭を預ける。白い喉があらわになる。
麗しやかな肢体を包む湯、揺らめく水の中で、眩しく白い、力の抜けた下腿を爪先から昇っていくと、太腿まで辿りつき、やや茂った陰毛が、妖しげにたゆたう。
「ええい、大体、貴様! 生涯、一度たりとも行水の類をした事がないのではなかったのか!?」
「おお、私も、一家相伝の教えで、身体を洗う事を悉く忌んでいると聞いたぞ。何故、風呂に居る? 明日死ぬのか」
「お前らまでもか」
物凄い勢いで言い切られた。
一拍置いて、秋蘭がフッと噴き出す。
「冗談だよ。お前が、本当は風呂に入る事くらいは知ってるさ。それどころか、いつも長湯で困る」
「全くだ。その噂だけは勘弁して欲しい」
「ふむ、詳しく聞きたいお話ですな」
「うん?」
胸の中に収まったままの星が、面白気な笑顔を浮かべて見上げてくる。
武蔵は、湯気に溶ける、まどろみの表情。
「ところで、話は変わるが」
くびれを湯の中でひねって、秋蘭が向き直った。
「馬超が、董卓軍残党に敗れたらしい」
「ほう」
「馬超にしてみれば、虎牢関を抜いて入洛するであろう、連合の援護を期待していたのだろうが、諸侯は洛陽に入らずに本拠に帰還してしまったからな。宛を迂回して来た高順に、函谷関で撃破されて童関まで退いたところを、長安近郊に出陣していた遊撃隊に迎え打たれ、追撃して来た高順らに挟撃されて潰走、長安を包囲していた部隊も内外から各個撃破され、壊滅。馬超は敗残を纏めて、安定まで敗走したそうだよ」
「ずいぶんと、克明に戦いの模様を把握しているな。見て来たかのようだ」
「斥候、さ。既に全土に放っている。北は冀州、南は荊州までな」
「ふむ……王允の救援は?」
「無かったそうだよ」
「へえ……」
武蔵は二、三だけ問い、あとは聞いているような、そうではないような、生返事の様な相槌ばかりを打つ。
気のあるのか無いのかわからぬその態度も、どうやら慣れているようで、別段、秋蘭が咎めることも無い。
「西だけではない。北では袁紹が、公孫賛に宣戦した。公孫賛が烏丸と繫がり、漢帝国への謀反を計画した――――――というのが、名分らしいが」
「……強引な。そんな言いがかりが通ると思っているのか? どう見ても袁紹の狙いは、公孫賛殿の兵馬と領土であろう」
「王允はそれに関し、調停するような動きは見せていない。事実上の黙認……と、言っていいだろうな」
公孫賛の名前に、武蔵の代わりのように、振りむいて強い反応を示したのは星だが、秋蘭は淡々として情報を述べるのみである。
「泰山では闕宣が、仏教なる新興宗教を布教する笮融という男と結び、その信徒一万余と馬三千を以て挙兵し、皇帝を僭称した。陽州では劉繇と厳白虎が王を宣言し、荊南では国境から異民族が侵入し、それに呼応した大小の叛乱蜂起が勃発しているらしい。朝廷はこれらを黙認……というか、正常に管理できるだけの支配力を、既に持ち合わせていないというのが現状だろう」
「…………」
「漢帝国の臣の身として、あからさまに言って良いのかはわからん。だが――――――」
しなやかに伸びる脚が、湯をかき混ぜながら、すらりと組まれる。
「もはや、誤魔化しようはあるまい。世はまさに、乱世だ」
秋蘭の低めの声が、艶やかに伸びて、やがて靄の中に融けていく。
長めの髪に絡まった、雫が滴る。
武蔵は、黙して。
自分の濡れた前髪を掻き上げ、身体をゆるやかにたゆたわせつつ、深呼吸と一緒に、呟いた。
「世の中が引っくり返る時期が来たか」
湯が、波紋を象る。あるいは、吐かれた言葉がか。
水面の乱れが、その下のうねりが。
粛々と、その速度を増していた。
最近、どこまで更新したか忘れる。
パンストのサントラ欲しいなあ。