なぎの間編・五十五話――――――「和ぎの日よりに」
「おらあっ、休むな! 稽古ってのは、血ヘド吐くまで疲れて、ボロ雑巾の様になってからが稽古なのー!」
「サー!」
「挺身肉薄決死必殺! それこそが武蔵門下の気組なの、気合入れろー! くたばるまで身体動かせー!」
「しゃー!」
雷鳴のような気合い声が木霊する。今日も今日とて、訓練、訓練。
俗に武蔵組、武蔵隊などと呼ばれている、昼間の城内練兵場は専ら、武蔵直隊の彼らが使用する事になっている。今日の稽古指導員は沙和であった。
彼らの基本構成としては、隊員の上にそれら何十名かごとを纏めている組長が居て、その上に武蔵が居る、という単純なもので、組長格は皆、同格なのであるが、その中では普段の稽古を任されるのは、比率としては圧倒的に沙和が多い。別に凪やアニキがやっても問題は無い筈であるが、何故だかそういう事になっている。またその師範ぶりが、若輩にも拘らず、随分と板に付いたものであった。
「ふんッ、はッ!!」
「…………」
彼らが列を組んで基本稽古に汗を流す後ろ、空いたスペースを使って型を打っているのは春蘭。
その傍らに座り込み、何やら棒を削って作っているのが、武蔵であった。
「…………」
「……ん?」
何本か、生真面目に型を打っていた春蘭だったが、ふと、しゃがみ込んで武蔵の手元を見る。
物珍しげな視線に気付いた武蔵が顔を上げると、左目を覆った眼帯と目が合った。
黙ったまま。黒猫の様に、じっと見てくる。
――――――眼帯の、黒地の革の上に施された蝶の装飾は、武蔵と真桜が作ってやったものだ。
ちなみに、それを作るに当たって、少々の紆余曲折があった。
武蔵は最初、可愛らしい猫をあしらったものを提案したのだが、
「ちっちゃい子か、私は!」
と春蘭から拒否され、却下された。
そこで、春蘭はヒトの髑髏のようなデザインが良いと言ったが、それは、
「気味が悪いだろ」
と武蔵が反対、御破算となる。
その後、二人であーだこーだと思考錯誤を続けた結果、現行の黒揚羽のモチーフに落ち着き、武蔵が絵に描き現したそれを、真桜が金型にして完成させた、という次第である。
「楊弓に使う為の木だ」
「ほう」
至極、端的に武蔵が意図を述べる。
「春蘭、そこの仕切り石をひとつ持ってこい」
「ぬ?」
武蔵の視線は、シャリシャリと音を立てながら木片を削る手元に落とされたままだ。
春蘭は今一つ曖昧な返事で、しかし小走りで言われたとおりに駆けて行く。
視線を落としたまま、春蘭の居た足元、汗の水滴が地面を湿らせているのが目に入った。
――――――素直な子だ。
武蔵の口の端から、言外のまま微笑がこぼれた。
「持って来たぞ」
「おう、其処に置け」
「置いたぞ」
「よし、割れ」
「は?」
「頭で割ってみろ」
ぽかん、と、春蘭は右目をまん丸に開く。
きょとん、とした。いきなり何を言い出すかと思えば、突拍子もない。
武蔵は笑っている。
「何を言っておるんだ、お前は?」
「出来るだろう? お前さんなら」
意味がわからぬ。
が、しかし、「出来るか?」と問われると、意図の云々やどうこうよりも、まず「やれる!」と示さねば気が済まぬのが、夏侯惇という人であり。
「出来るに決まっておろうが、ふん!」
間の抜けた表情から、む、と唇を結び、眉間をきゅっと締めると、頭突きを直下に叩き落とし、見事に長四角の石を割って見せた。
「おお、すげえすげえ。何かもう、年頃の娘としては終わってる気がするが、まあ、ともかくさすがだな」
「はっは! 恐れ入ったか」
甚だ無邪気に背筋を伸ばし、立ち上がった姿で腰に両手を当て、自信満々に胸を反らす。
傍から見れば微笑ましいが、実際にやっている事は相当に無頼だ。褒められているのだか、貶されているのだかも定かではない。
武蔵は真っ二つになった石に一目やり、一拍の間を置くと、トントン、とおもむろに自分の目の前の地面を棒で指す。
ちょっと此処に座れ、と言っているらしい。
「?」
今度は何だ、という顔をしつつ、そこに正座する。
素直な子である。
「……」
「??」
じー……っ、と、武蔵が春蘭の広い額を見つめる。そうしてしばし後、一瞬、チラッと目線を下に落とした。
春蘭もそれを追って――――――
「ちょうっ」
「うぁいだッ!!?」
釣られて下に視線を落とした瞬間、鋭い衝撃が額の硬い部分に炸裂した。
バチン、という、すこぶる切れの良い音が空気に走る。
「くわっ……つ~~っ…………」
くわん、と、頭の中の重さが宙に浮かんだような感覚がして、それが元に戻ると同時に、皮膚の表面に猛烈に赤い感覚が広がってくる。
痛みに耐える様に、座ったまま前のめりに崩れ落ちた。
「効いたか」
「当ァたり前だ、この馬鹿っ!! いきなり何なんだ一体!」
「はっはっは。それが技の妙、って奴だ」
「あぁ?」
がばりと顔を置き上がらせ、涙を溜めながら武蔵を見上げる。
武蔵は人の頭をあんなに強かに打っておきながら、右手に摘まんだ棒で、自身の左掌をぺしぺしと叩いて遊ばせながら、カラカラと笑っている。姿勢は胡坐のままだ。
「…………?」
――――――いや、待て。
ぐわっと噛み付きに掛からんばかりの勢いだった春蘭が、ふと、ある事に気付く。
……こいつは、一体“なに”で打ったのだ?
「…………」
一瞬、前後不覚になるほどの痛みが加えられたが、憎たらしくも面白げに笑っているこの男が手に携えて居るのは、殆ど重量など無いに等しい、小枝の様な棒きれだ。それを親指と人差し指の間につまんで、プラプラと遊ばせている。
――――――あんな、子供のチャンバラごっこの玩具にもなり得ない様な細い棒が、あれほど鋭い一撃を生み出したというのか?
「それが“身体”だ。こんなちっぽけな枝で、座ったまま、せいぜい、手首から指の先だけで打った打ち込みで、ごつい石の破片を砕く事なんぞ、到底出来やせん」
さらに二回、春蘭が割って見せた石の片割れを枝で叩く。ぽす、ぽす、という、頼りない音。
「だが、鋭く、速く、ピシャリと打てば、石をも砕く頑強な肉体を持った夏侯惇を悶絶させる事が出来る」
語るまま、武蔵は空で棒をしならせた。手の内で締められた小指がテコを作り、ヒュンと風を斬る音がする。軌跡上の大気が弾けたのだ。
「人間の身体というのは、面白いもんだ。脆くて強い。堅いのに柔らかい。鍛え抜かれた拳法家の拳は猛牛をも屠るだろう。だが一方で同じ達人が、自分の“かかあ”の張り手を頬に貰えば、目を白黒させる程に痛え。何故かは知らんが、そういうふうに出来てる」
人を打っておきながら、けらけらと、武蔵は気楽そうに笑う。
春蘭は自ら押さえていた額を指でこすった。ヒリヒリと広がる痛みの発生源は、ものの見事に正中の線上だった。打たれたのがもう少し下、眉間、鼻先、人中などであれば、春蘭はうめき声すら上げる事が出来なかっただろう。
「独眼というのは、どうあれ大きな不利である事には疑いない」
「ぬ……」
ぐい、と武蔵が首を伸ばして、頭を前に突き出す。
春蘭の赤くなった額と、合わさるほどに近くに寄る。一転して、武蔵は真顔。少し声を低目に落とし、鼻先に息がかかるくらいの距離で、囁く様に言う。
「よもや、今のお前を下手だと云う人間は居るまい。強い奴とも、幾つか戦った。今更、説く様な事では無いやも知れん。が……“人を倒す”という事。どう敵の身体を打つのか、またその為にどう自らの身体を使うのか。どう力を生み出し、それを無駄なく伝えるのか。そういう事を、お前は他の武人よりも、もっと深い所で知らねばならん」
琥珀色をした二つの目玉が、独眼一つに映し出される。
「この頼りない枝切れに力を乗せるのは難しい。増して人を倒すとなれば至難だ――――――が、決して出来ぬ事では無い。それが“術”というもんだ。よくよく、稽古をしておけ」
その死没より四百年、日本武道の神の座に在り続けたある男は、その晩年に自らの兵法の極意をこう示している。
『兵法の理とは、状況や得物による差異無く、等しく発揮されるものである』と。
一刀であれ二刀であれ、剣であれ槍であれ空手であれ、あるいは携える得物が扇子や孫の手であれ、またある時には立って構え、ある時には無防備に寝転がっていたとしても。
正しき兵法の理に則れば、水が自由自在に容れ物に合わせて形を変え、地形に従い流れ落ちるが如く、その時々に際した最適の形で身体は動く、という。
その完成された理合いが、後の不世出の杖術大家、若き日の夢想権之助を相手にして、ちっぽけな木片でその眉間を打ち、昏倒させるという、特等と言うべき離れ業を可能にしたのだろう。
「という訳で、俺らも混じるぞ。講釈ばかり垂れとっても、何の稽古にもならん」
「おおっ」
すくりと武蔵が立ち上がり、ゆらりと、裂帛の気合が乱れ飛ぶ兵達の群れの方へと歩を進める。
春蘭はそれに倣って、とたとたと付いて行った。
「チビ! ちょっといいか」
「なんスか?」
既に稽古は、乱取りに入っていた。
巨漢小兵、入り乱れ。大人数が二人一組を作り、それぞれ一斉に打ち合う様は、まさに合戦の如しだ。
鬨の声のような、雷様の唸りを思わせる空を裂く気合いが、あちらこちらから互い違いに飛び行き交い、撃剣の炸裂音と風切りの轟音が反響しあって、木霊する。それら幾十重の音響の閃光と、密集するようにして所、狭しと体を捌いて動き回る、組太刀の合間を縫って、武蔵と、その一歩後ろを付く春蘭が紛れていく。
乱取りを行っていたチビは、そうやって組手と組手の間を縫ってやって来た彼に呼び止められて、はたりと構えを解いた。
「竹刀貸してくれ」
「へい」
「……ん?」
チビから竹刀を受け取り、被せている革袋の紐をほどく。
と、武蔵が何やら気付いて、片眉を吊り上げた。
「チビよ、お前、やっぱり竹割るの怠ったな?」
「すいやせん。ついほったらかしに」
「てめっ、何か堅いと思ったら!」
「ま、いい」
武蔵が妙な手の感触に気付いた。どうやら、中身の竹を割らずに、そのまま革を被せただけで使用していたらしい。
チビの受け手をしていた兵士が怒る。
袋竹刀は、割った竹を纏めて束ね、馬の革をなめした袋を被せたもの。
云わずと知れた、日本武芸の偉大なる父・上泉信綱が考案した、稽古用の模造刀だ。竹刀の登場により、それまでの木刀稽古よりも遥かに安全かつ、思い切りの良い打ち込み稽古が出来る様になり、引いては全体としての稽古量が飛躍的に上昇する事になったという事は、今更、禿筆を呵すまでもない。
剣道史における大きな躍進と言えるこの発明は、武蔵が五輪書で言及していた事から、既に武蔵の晩年には、かなり一般的に普及していたと考えられる。
さて、竹刀というのは言うまでもなく画期的な稽古刀であるが、真剣の握り方を覚えぬまま竹刀稽古を積み、あまりそれに慣れてしまうと、今度は刃物を使う際に、刃筋が立てられぬ癖が付いてしまう懸念がある。より実戦に近い打ち合い稽古を行う、という理念から生み出された竹刀のもたらした結果としては皮肉なものだが、武蔵もかつて、「竹刀で、腰の入らぬ軽く打ったものが小袖や裾を掠めただけで、勝った負けたと騒ぐ。あんなもので人は死なないというに。竹刀があまりにも広まり過ぎたため、逆に武術の稽古は実戦から掛け離れたものになってしまった」と、晩年時に当時の風潮について苦言を呈したという。
よって、曹操軍の訓練において、現状で竹刀稽古が導入されているのは、彼らの様に既にいくつかの戦場を経験した、熟練の部隊のみである。
「…………」
武蔵はプラプラと、中身の青竹を取り出して、手首の先だけで軽く二度ほど振ると、中腹辺りに手を持ち替える。
春蘭とチビ、そしてチビの相手の兵と、五つの目玉が不思議そうに見ていた。
おもむろに青竹を鷲掴みにし、その極太の前腕の、筋肉と血管の作り出す筋が、徐々に現れて行く。
そして――――――
「ぬんッ」
一気に握り込んだかと思うと、たちまち筋肉が躍動とともに隆起し、パァン、と、細く、鋭く、乾いた破裂音が響き渡った。
チビが、信じられないものを見たかの様に、目を真ン丸くする。
武蔵の大きな拳の中で、まるで藁束の様に細かくなって、青竹が握り潰されていたのだ。
こんな伝説がある。武蔵が熊本入りした後の話だ――――――
千葉城の一角に屋敷を与えられ、兵法の研究に勤しみつつ、悠々自適の生活を送っていた武蔵の元に、ある時、細川家の旗奉行がやってきて、数十本の青竹を見せ、
「この中から旗指物に使う丈夫な竹を選んで欲しい」
と言った。
そこで武蔵がその竹を刀の様に持って、一、二度振ると、殆どの竹がその力に耐えきれず、たちまちのうちにバラバラに割れてしまった。
手当たり次第に振り、片っ端から握り割っていく。
そうして殆どの竹を割り終えると、最後に残った数本を差しだして、
「これぞ八幡大丈夫と存じます」
と言ったという。
忠利はこの話を後になって旗奉行から聞いた時、「成程、武蔵にしか出来ぬ旗選びだ」と、その剛力を褒めた。
当時、既に晩年、六十の老境に差し掛かる頃であったと云う。
「かつて、これを見た細川の奉行が『お前にしか出来ん芸当だ』と言ったが、成程、こんなものはまさしく“芸”だ。それ以上のものにはなり得ん」
あんぐりと口を開けて見ていた彼らに、武蔵は割った竹束を纏めて袋に詰め直しながら、しれっと言って見せた。
「竹は所詮、竹だ。竹を潰せるからといって人の腕を同じように潰せるかといったら、そうじゃねえ。人間を倒そうと思えば、人間の扱いを知っておかねばならん。例えば……」
ずい、と、武蔵が右手をチビに向かって差し出した。さながら、握手のような格好。
チビが武蔵の顔をぽかん、と見返したが、「ほれ」と、いわんばかりに右手を出してくるので、そのまま普通の握手のように手を握った。
「――――――うおぅっ!?」
「手首の何処をどうすれば極まるのかを知っておれば、そっちの方にやってやれば極まる。力なんて要らんよ」
「痛だだだだだだ!!!」
「他にもある。例えば、相手の手の、小指と中指の付け根で薬指を挟んでやるようにするとだな」
「あァででででででッ!!!!!!」
傍目には、武蔵とチビの組んだ手の中で何が起こっているのか、とんと判断が付かぬ。ひとりでにチビが倒れているようにも見えるが、武蔵が手首の先をクッと上に傾けたり、握りを改めたりするとチビが呻き、膝を付いて地面を空いた手でばんばんと叩く。
「型を打つのも、木切れや巻き藁相手に打ち込むというのも、自分の身体の動きを練るという意味で大切な事だ。が、敵をどうこうしようと思えば、やはり人間相手に稽古せねばならん。そうして得られるのが術理というもんだ。これも、よくよく、鍛錬すべきだな」
「あだだだだだだ!!」
打ったり打たれたりという経験を積まずに、術理だけ掠め取ろうという程、横着な話も無い。
また、ロクに木剣を振った事も無い癖に、書だの何だので兵法の文言だけを頭に入れて解った気になって吹聴する輩が居るが、ああいうのが、最も悪しと云うべき類の者であろう。
「では、戦う上では術理さえ身に着ければ、膂力は要らぬと?」
「いや。勿論、そんなに簡単な話じゃねえ」
「うあででででで!!」
チビの相手をしていた兵士が問う。
「些か、極端な話をするが。いくら達人、名人と言ってもよ、六十過ぎて寝たきりになっとる死に際の爺にゃお前ら、負けやせんだろ」
「くっ……うぉお……」
パッと、武蔵がチビの手を離した。
ずっと響いていたチビの絶叫が止み、膝を付いた体勢のまま、ほっとした表情で自分の手首に息を吹きかける。
「肉体の力と技術の理というのは、武においては必ず、不可分だ。どんな人間でも、一番最初は、力と力でぶつかるだろう。その内に工夫が生まれてくる。もし、そのまま練り上げ、やがて到達するのが理合だとすれば、それらの下敷きになっているのは剛力だろう。どちらかが欠けて良い、という事は有り得まい」
口をくくった袋竹刀を、大きく回す様に、ゆっくりと振る。
すうっ、と流れる様にそよいで、真っ直ぐに落ちる。
「ならば、兵法の奥儀とは、その二つを両立したものこそが剣の理想形ですか!?」
「……それは果たして、言葉で現しても良いものか?」
熱のこもった眼差しで問うてくる。
だが、武蔵の双の琥珀は、未だ切っ先の虚空を見つめた。
「俺達は、打ち合いの拍子、あるいは普段の打ち込みの呼吸、そういうものから、少しずつ、理を摘み取って行く。そうして自らの剣の形を作っていく。そうして来た筈だ。ならば“それ”も、恐らくはそういうものなんだろう。少なくとも、言葉でわかりやすく表現出来るものではない筈だ」
左前屈、軸を前足に乗せ、重心は一定の高さのままに、ゆっくりと右足を引いて来る。
そのまま軸の中心に、両の足を一つに集め、流れのまま送る様に、軸を乗せ換えた右足を前へ。
舞う様に、水のように動き、それに従って、ゆっくりと剣を振り降ろしていく。
「すぐに強いとか弱いとか、人は簡単に纏めようとしちまうもんだが。この地上に生きた千年の達人名人が、一生を懸けて解き明かそうとした真理は、そんな一言や二言で済まされちまう程……底の浅いものではない――――――と、俺は思うぜ」
カッと、澄み渡った気がした。
電光石火、その類では無い。一切の淀みを排した、ゆったりとした武蔵の剣が、二つに割る様に、虚空を斬り裂いて行った。
「……まっ、言葉で剣を考えるのは、振れなくなってから十分という事だ。難しい事を考えんでも、剣振ってりゃ勝手に腕力付くし、理想的な形を身体が覚える様になる。とにかく、稽古は欠かさん事だな」
しばし、言葉を忘れた様に、ぼうっと惹かれるまま武蔵の舞を見ていた目を、ハッと元の調子に戻したのは、武蔵自身であった。
地面に転がっているチビを引き上げ、そのまま竹刀を手渡し、しれっと言って見せた。
「よし……李通、趙雲、凪! 何処だ!! 次は私とやるぞ!!」
すぐさま、春蘭が鼻息荒く、肩を大きく回す様にして、群衆に紛れて好敵手を探しに行く。
「ほれ、チビ」
「おつつ……へ?」
「何呆けとる。稽古だ」
いまだに手首を摩りながら、竹刀を持つチビを武蔵がせわしたてる。
見れば、武蔵が小枝程度の棒切れを構えて、切っ先をプラプラと揺らめかしていた。
「マジッすか……?」
「そりゃ、マジだよ」
武蔵の面白気な笑みと、チビの引き攣った笑みが向かい合った。
「とうっ」
「あでえーーーー!!」
強きへの道は、険しく……
女にしては高めの長身が、すらりと伸びた背筋から、弓を番える。
右目片一方を前髪で隠した麗人が、その鷹の様な眼で的を睨むと、その視線に吸い込まれるかのように矢が射こまれる。
大樹の太い幹に向かい、次いで二矢、三矢、四矢、五矢。中心に射こまれた一矢の上下左右、殆ど等間隔に突き立った。
「――――――髪型変えたか? 秋蘭」
不意に背後からかけられた、その低目の声で、六射目は木の幹を擦る様に掠り、そのまま逸れて行った。
武蔵が秋蘭の背負う矢筒から、一本の矢を拝借し、彼女の隣に立って楊弓にて大樹を射る。
楊弓は本来、座った状態で射る事の出来る、遊戯用の玩具の様な弓だ。兵器として十分な殺傷力を持つ秋蘭の弓に比べて、その速さと威力は大きく劣り、遥かにのんびりとした軌道で、木に向かって飛んでゆく。
それでも、秋蘭の作った四方形の中に収まる様にして、樹の幹を射止めた。
「見事なものだ」
「弓は武芸十八般の基本だろう」
秋蘭のすぐ脇にどかっと座って、次いでもう一射。またしてもゆるゆると弧を描くようにし、ストン、と突き刺さる。
そうすると、武蔵は秋蘭に楊弓を差し出しながら、ちょいちょいと地面を指す。
秋蘭はその場に腰をスッと降ろして、武蔵の隣で、同じように座った状態から、楊弓で射る。ピッと射ち出された矢は、真っ直ぐに飛んで木の幹に突き刺さった。
「お見事」
「お粗末さまだ」
端的な一言だけ交わして、二人で同じように、声を出さずに唇と鼻だけで、フッと笑う。
人によっては無愛想にも見えかねないが、なぜだか、この二人はそれでよかった。
「春蘭は、良い妹を持った。よく出来、気が利き……いつも姉を後ろから支えている」
「私はいつも、姉者に守られてばかりさ」
スッと、武蔵が一瞬だけ、視線を落とした。笑みは、うっすら浮かべたまま。
右手の先が、懐に隠れる。
「春蘭の左目にお前の責は無い」
言いつつ、懐からくろがねの煙管を取り出して、一服、ぷかりとやった。
紫煙がくゆる。
「小さいときから、そうなんだ」
美しい瞳。
春蘭が眼帯をするようになってから、彼女はその右側を伸ばした前髪で隠すようになった。
だから、伏せられた右眼がどんな色をしているのかは、武蔵の所からでは判別しづらい。
「父と母がな。私は人前に出せん、と言ったんだ」
浅く口を付けた煙草が、しばし止まる。灰色の煙が、あても無く立ち上って、たゆたう。
秋蘭の色素の薄い髪と白い肌は、北方系民族のそれに近いものがある。
春蘭は違う。黒髪に肌色だ。
「夏侯の家には、姉者が居れば良かったんだ。私は余計だった」
豫州の豪族・夏侯家の始まりは、劉邦の側近だった夏侯嬰。純粋な漢民族。きっと春蘭の様な、美しい黒髪であったに違いない。
全く同じ両親から生まれた秋蘭は、そうではなかった。青白い異境の民の、蛮族の容姿だった。
何故かはわからない。夏侯嬰から数えて夏侯姉妹まで四百年。その間に異民族の血が混じったのかもしれないし、単に秋蘭の個性だったのかもしれない。黒い髪の両親の子が明るい髪の色になる事は、遺伝学的には有り得る事。でも、それが卑しい異民族の色である事に変わりは無かった。
特に、高祖の代から続いた生粋の漢人一族である、夏侯氏にとっては。
さらにいえば、彼女達は双子だ。双子と言えば、畜生腹。そう言われている。
人が一度に産むのは、一人だ。一度に二人も三人も産むのは、犬猫、獣の類。つまりは、畜生。生前、悪行を尽くして畜生道に貶められた人非人が、前世の業を払い切らずに、人間となっても、獣と同じ産まれ方で生まれてくる。畜生腹から産まれた二人は、さしずめ畜生娘か。
そんな俗信も、唱え続けられれば一つの価値観となる。双子への風当たりは強い。昔から、不吉なものだとされている。多くの者は、身内にそれが居る事も、それを他人に知られる事も忌避する。親であれば、尚の事かもしれない。
双子は、決して産声と共に祝福されるものではない、家にとっての恥部――――――「忌むべきもの」なのだ。
「私は人目から隠して育てられた。尤も、殺されなかっただけマシなのかもしれん。離れの一室に住まわされて、外出は許されなかった。何らかの拍子に廊下ですれ違った時、私の姿が眼に入っただけで、父は酷く怒った。だから、使用人も、私の世話をするのは嫌がったな」
いずれにせよ、途中で蛮族の血が入ったと思われる事も、双子を産んだ事も、夏侯の家にとっては大っぴらにしたい様な事でなかった事だけは確かだ。
しかも、純粋な漢人の容姿を受け継いだ姉に対して、片割れの妹は異民族とのあいのこのような容姿。夏侯の家にとっては、なおさら秋蘭だけが一目に触れさせたくない、隠しておきたいものだった筈である。
夏侯家には春蘭さえいれば良かった訳で、秋蘭は“余計なもの”だったのだろう。
「幼い頃の私の相手をまともにしてくれたのは、姉者だけだったな。一度、正月の祭りに、こっそり連れて行ってもらった事がある。姉者に手を引かれながら、窓から抜けだしてな、滅多に外出した事がないから酷く疲れたものだが、楽しかったよ」
「そうか」
「結局、母にばれて、私は二階に移されてしまったが。もう外に勝手に出ぬようにと、両脚とも折られてな。だがその日の夜に、どうやってか家の者の目を盗んで姉者が再びやって来て、私をおぶって外に飛び出したんだ。信じられるか? まだ七つにも満たない女の子が、同い年の子供を背負って二階から飛び降りるんだぞ。昔から、無茶をする所はちっとも変っていないんだ」
「はっは! 春蘭らしい」
「後には引かない子だったからな。姉者の背中を、私はいつも付いて行く」
ふっ、と、武蔵が短い煙を吐くと、それが流され、霧散していく。
少し、強い風が吹いた。冬の暮れ、空気は未だ冷たい。
「そう……いつも」
風が揺らして、前髪の簾から秋蘭の右目が露わになる。
左目の目縁を、そっと指でなぞった。
秋蘭の鷹の目。春蘭が失った左目。
秋蘭の手を引いて、外を見せてくれた背中。秋蘭を背負って、連れ出してくれた背中。自らの片目と引き換えに、呂布から妹を守り抜いた背中。
秋蘭の右目は、生まれた時から、ずっとその背中を見ていた。ずっと、妹の為にあった、姉の背中。
「…………」
掌越しの鷹の目が、少しだけ鋭くなる。
残した左目は、春蘭の左目。右目は隠した。もう、背中は見ない。
春蘭がその右目までをも、失わなくてもいいように。
「血は、水より濃い」
ぼすん、と頭を何かが叩いた。
温い重みが、髪を覆っている。
「春蘭は、お前に背中を預けているからこその春蘭だ。お前が背を支えているからこその春蘭で、春蘭が背で支えるからこそのお前。本当の意味で、お前らは一身同体なんだろう」
わしわし、と、髪の毛がからまって擦れる音がする。
「莫逆の友というのは、死ぬまでに一人、見つけるのも難しい。年を食えば、尚の事さ。生まれた時から供に居たのは、僥倖」
老いるほどに、なおさら、と。
武蔵の、わしゃわしゃと髪を掻きまわす手が止まり、そっと髪の流れに沿って撫ぜられる。
「血の縁がくれた、得難き出会いだ」
双子は、前世の業を捨てきれぬ魂同士の、歪な繋がりなのだという。
しかし、ならばそれは、きっと。
生まれ変わっても、側にいられるようにとの――――――
髪が潰れて、垂れた前髪が目元を隠す。
そのせいで、うつむき加減の表情はよく見えない。
「……すまんな」
もぞりと、掌の下の頭が動いて、見上げて来た。
くしゃくしゃの髪から美しい顔が、ぎこちない表情を作って覗いている。
「どんな顔をすればいいのかわからん。こんな風に、誰かに撫でられた事がないんだ」
「俺もだ」
するりとなめらかな肌を滑って、ごつごつとした掌が、頬と耳を撫でる。
「もっとこうしてやればよかったと思う」
涼しげに笑う琥珀色の瞳が、秋蘭の眼と絡まる。
武蔵には、子が数人居た。また、決まった妻はいなかったと聞いている。
長男は、若くして主君の追い腹を斬った。他の男児も、早い内から大名に小姓として仕えて、晩年は殆ど会っていない。
少年時代の武蔵が自身の両親とそうだったように、図らずとも、武蔵もまた、自身の子らと一緒に過ごした時間は、決して多くは無かった。
「……私は」
温もりが頬にあったままで、ふと、呟いた。
「私は、父と殆どまともに喋った事がない。だから父というものが、今一つどういうものなのかわからない。が……」
「?」
「お前は、良い父親であったと思う」
「…………」
しばらく、静かな間が其処に流れた。武蔵の掌から、高い温さがじわりとして、肌を透けて伝わってくる。冷たい体温の秋蘭が感じる、その熱の差は顕著だった。
「うおっ」
「……っ」
風が尾びれをばたつかせて、強く吹き付けた。
目に強く当たり、思わず二人して瞑る。バタバタと髪を散らかしていく。毛先が、顔を叩いて、痒さに似た痛みを作った。
「…………はっくし!」
「…………ふっ」
冷たい冬の風が去って、お互い、呆けて目を合わせる。
ぐしゃぐしゃに乱れた、武蔵の癖毛が顔を捲いているのを見て、やがて飛び散った煙管の灰を吸い込んでくしゃみをしたのと同時に、秋蘭が吹き出した。
くっくっと喉を鳴らして笑うのにつられ、次第に、武蔵も唇の端を柔らかく吊り上げる。
「冷えて来たな」
「ああ。戻るか」
「うむ」
秋蘭がすくっと立ち上がり、武蔵の手を引っ張って起こす。
大儀そうに、ぬっと巨体が影を作って、くたびれたしぐさで、尻や着物に纏わる草を払った。
「なあ、武蔵」
「うん?」
「お前はいい男だよ」
「はっはっは」
いつも通りの、平坦な語調で、静かに言葉を交わす。
武蔵は腕を組んで、ゆっくり歩を進めながら、からからと笑った。
僕は基本、処女厨なのですが、決して、経験済みの女性に惹かれない、という事ではありません。
特に、清純で全く男の臭いがないにもかかわらず、やる事はしっかり経験している大人の女性、男に縁がほとほと無く、男慣れしていないけれど、一応、一、二度の経験はあるセカンド童貞ならぬセカンド処女の友達感覚な気楽な同輩、
などというケースに、言いようがなく胸が詰まり、ジョニーが打ち奮えてしまうのはなぜでしょう、僕が変態だからでしょうか。