反董卓連合編・五十四話――――――「後日談」
なんか無駄に長くなってしまった。この話、必要だったかなあ。
かったるかったら読み飛ばしていただいても構いません。
「撤退?」
「ああ」
連合軍総司令、袁紹軍の幕舎による大本営会議にて、一人のやせぎすの青年が静かにそう答えた
袁紹以下、軍の中枢を担う幹部達の視線が注がれる。
「何故だ、郭図。我らはついに、虎牢関から敵勢力を一掃した。連合軍の勝利を宣言し、洛陽に凱旋して皇帝陛下に戦果を上奏するべきではないのか?」
「袁紹閣下」
居並ぶ顔を代表して、淳于瓊が問う。
しかし郭図は直接それには答えず、袁紹に唇を向けた。
「我らの戦いは、名利や地位を得るための戦いではありません。あくまで、政権を董卓より奪い返し、皇帝陛下に奉還する――――――という大義の為。もし軍を率い、陛下への謁見を求めて褒賞を欲すれば浅ましき卑徒の謗りを受けますが、ここで見返りを求めず帰還すれば、天下は閣下を清廉の士と褒め称えましょう」
ピクリ、と、袁紹の睫毛が反応したのが見えた。
そこまで語り、郭図は一度、前髪を払う様なしぐさを見せる。
「今、連合軍の勝利を宣言し、この戦勝の地にて軍を解散し本拠へ帰還する事が、最も袁家の威名と誇りを高める選択であると言えるかと」
続きはやや語気と、袁紹に遣るを視線の力を強める様にして締め括り、拳を抱いた。
「そうですわね……」
唇に指を当て、思案の表情を浮かべる。
椅子に軽く身体を預けた。しなる滑らかな腰、組まれた艶かしい肢。
「確かに、寒門出の成り上がり者の様に功に見苦しく執着するのは、名門・袁家の格式に相応しくありませんわね。その言、至極、尤もでしてよ、公則さん!」
椅子を引き摺る音を立たせずに、スタッと、颯爽として立ち上がり、豊満な胸を張る。
自信に満ちた直立で腰に手を当て、右腕を高らかに斜め上、天に向かう様に、指先までピンと伸ばす。お決まりの儀礼だ。
「袁家当主・袁紹の名の下に命じますわ! 今ここに連合軍の栄光ある勝利を祝し、大義の成就の下に解散を宣言いたします! この旨、早速各軍に通達なさい!」
「ハッ!」
首を揃えた幕僚達は、皆一様にピシッと着席のまま立腰姿勢を取り、命を賜る。
「袁紹閣下の御名の下に!!」
肘は肩と並行、掌は袁紹に向け、手刀の形で米神の高さ。一糸乱れぬ敬礼であった。
「……郭図、郭図!」
会議も終わり、各人が自らの持ち場へ引き上げる。
バラけて一人になった所を見計らい、淳于瓊が郭図を呼び止めた。
「何だ、淳于」
「意図を説明しろ」
「意図? ああ、何、他愛もない事だ。ああいう語彙を姫は好むだろう? 姫に進言する時は、まず機嫌をその気にさせる事が重要……」
「違うわ! あの敬礼だ、お前が袁紹殿に勧めたものだろう?」
「駄目か? ああいうのは」
「普通で良いだろう。なんだ、あの挙式は。気恥かしくてかなわんわ」
麗羽の好みそうな語句を散りばめたという郭図、彼女の幼年の頃には教育係として侍っていた事もある彼にとっては、その操縦などは朝飯前なのだろう。
気難しく突飛な施策も多い彼女だが、郭図の言う事は良く聞く。
ともあれ、派手好きの麗羽は喜々として袁紹軍総統を気取っているが、芝居がかったあの手振りや敬礼は、素朴派の淳于瓊の肌には合わぬようである。
「そう言うな。大秦では兵士も市民も皇帝に向かってやっているというぞ」
「アレを民にも広めるつもりか!?」
「団結を促す為に必要なのだ」
「単に貴様と袁紹殿の趣味ではないのか!? それがしには、肌に合わんわ……」
郭図がクックと含み笑いをすると、淳于瓊はバツが悪そうに、頭をがしがしと掻いた。
「なあ、淳于」
「うむ?」
「お前は俺にそんな事を言いたいわけではないのだろう? 話せ、何が聞きたい」
「……」
平静とした顔のまま、並んで歩く。軍足が、カツ、カツと規則正しい拍子を刻む。
ごん、と、ゆっくりと拳で、自らの即頭部を一度、叩いてみせる。
淳于瓊は顔からすっと渋い色を抜いて、軍人の表情を作った。
「何故、洛陽に進駐せぬ?」
改まって、肩口程にある郭図の顔に視線を移す。
「都に上り、陛下に功を献上する、それの何がまずい? むしろ天下の正道を正したのは袁紹殿であると、四海に喧伝するまたとない機会ではないか!」
そう大々的に宣言し、帝に謁見して墨を貰う事で、名実ともに漢の中核に“袁紹”を食い込ませる。そしてそれを足掛かりに、ゆくゆくは三公へと――――――それこそが常道では無いのか?
淳于瓊が、野太い声をいつものように張らせて喋る。
郭図の細い目の色が、少し変わった。
「今の洛陽に、それだけの価値があると思うか?」
「なに?」
「これを機に中央政権での政治力を握り、やがて中枢を握る……だが、今の状況でそれは望むべくもないし、例え官職なりを貰った所で、そんなものに何の価値もない。このまま洛陽に入れば、王允の下風に付くのがおち。漢の中央正規軍に組み込む、という名目で――――――軍を寄こせと言ってくるだろう。中央政府の権力は奴が掌握する事になるのは明白だしな」
「む……」
「仮に我々が王允政権に協力した所で、奴の下に付く事に不満を持つ諸侯は少なくないだろう。王允を頂点とする新体制の元に、各勢力がひとつに纏まるという保証は全く無い。我々がそんな泥舟に付き合う必要はない。天下への示し、という意味なら、董卓を敗走させた時点で十分に果たしている。位人臣を求めぬ清廉の義士、という御触れ付きでな」
「……えげつない男だ、お前は。洛陽で彼らに挙兵させ、董卓の背後を崩す作戦を立案したのは他でもない、お前だろうが。焚き付けた本人がそれを見限るとはな」
「戦に勝つ方策を建策したまでの事。我々は連合軍だ、共通の敵の為に共闘するのは当り前だろう? それ以上の事は知らんがな。政治的な約上があった訳でもなし……それに、俺は王允の軍師ではない、袁紹閣下の軍師だ。徹頭徹尾、姫の有益を求めるのは当然の事」
郭図の言い分に、淳于瓊は溜息交じりにその毒気を揶揄するが、郭図はフッと口元に微笑を浮かべたのみ。
王允は董卓政権時からの司徒、三公のひとつで、軍事における最高権力者である。洛中反董卓派の主導的立場でもあり、これ以後は必然的に帝の後見人として、権力を掌中に握るだろう。
董卓勢力を都から一掃し、一件落着――――――と行きたいところだが、果たしてそう上手くいくものか?
そもそもこの戦役は、「董卓の専横許すまじ」と、董卓の布く摂政政治を独裁体制と見做し、それを崩壊させるために各諸侯が結託して起したものである。だがこれでは、涼州軍閥を母体とする董卓から、後漢名門氏族出身者を中心に組まれた漢人グループを支持母体とする王允へと権力が移動しだけで、体制的には何ら変わり映えするものではない。
尤も、後漢の政治というものは百年以上前から、外戚や宦官が実権を握る摂政政治であったのだが――――――中央から遠く離れた地方太守や州牧達が、この期に及んで、そういった旧態依然の体制に、素直に従うだろうか?
黄巾の大乱以降、中央から離れた諸侯は、それぞれ個々の軍事行動を拡大するようになり、各地での独自的な政治体制を強めてきた。故に、各地方の諸侯が挙兵し連合を組む、という今回の戦役にまで発展したわけである。また、諸侯の中には公孫賛や馬超などの漢人の血の薄い、非漢人種層も多く居る。漢人一色である王允の派閥とそりが合うかは疑問だ。
そもそも、この連合は董卓という共通の敵が居たからこそ、結束が成立していた。その脅威が無くなれば、再び空中分解する事は明らかだった。
王允政権はそれらを統率し直すには不安定すぎる。それに協力した所で王允という頭の上のコブが増えるだけ。強大な軍を持つ袁紹にはそうまでして中央に参政する旨味は無い。
故に、連合軍を統率し、袁紹が実力で朝廷内の実権を勝ち取る――――――という方法もあり得ない。袁紹も所詮、現状では寄せ集めの集団の盟主に過ぎぬ。郭図はそこまで見切っていた。
「奴は総理として中央府の頂点に立つ事までが目的の男だ。そこ止まりだ。その後の事は全く考えていない。所詮、奴の器量はそこが限度だ」
「その後……」
「ああ、その後だ。先に問うた筈だ。“今の洛陽に価値があるのか?”とな」
「!ッ」
「気付かなかったか? 違うな。気付かないフリをしていただけだ。それに触れようとしないのは、お前もまた、生粋の漢人であるからだろう」
そこまで現状が明らかでありながら、誰もが指摘を受けるまでそれに思い当たらぬのは、頭が悪いからではない。
それこそが四百年続いた漢という国家への、国家元首から名も無き民衆に渡るまで、等しく万民に刷り込まれている既成概念の根深さなのだろう。
なればこそ、高級官僚の子として生まれ、国家最高の教育機関・首都が誇る官立養成学校である『太学』を卒し、漢朝きっての名門である袁家の頭脳として仕えている、まさに漢の英才教育の最先端で培養されたエリートでありながら、逸早くそこから脱却しているこの青年の先見は、やはり凡に留まるものではない。
何故、官職としては冀州という一地方の州牧に過ぎぬ袁紹が、中央での出世などに何の意味も無いと言い切れるのか?
何故、漢の最高権力者である筈の王允が、地方の寄り合い所帯が如き連合軍の軍勢を制御化に置けぬのか?
それはおのずと、一つの答えに終着している。
漢の国軍は頻発する賊の蜂起に、徐々に対抗出来なくなりつつあった。そしてその度に、各地の太守や州牧の権限を拡大し、乱の鎮圧をそれぞれ地方に委任して来た。
結果、漢の中央軍と、辺境で戦い続け、勢力を増していく地方軍のそれとの差は、日一日と縮まっていった。現に黄巾の乱で活躍したのは中央軍ではなく、曹操や袁紹、袁術に公孫賛、それにその配下の孫策や劉備といった、地方の猛者である。故に中央政府は兵力強化のために、涼州国境守備軍の一つに過ぎぬ董卓軍を入朝させざるを得なかったのである。そして起こった、地方の諸侯が結託して洛陽に攻め込むという、前代未聞の戦役。
今や中央正規軍は、朱儁隊など一部に歴戦を抱えるのみであり、その戦力は袁紹や曹操のそれと何ら変わらない。となれば、首都圏のみにしか支配力を行使できない小さな政府となるしかない。
(既に漢は、かつての十三州を掌握した巨大帝国ではない。既に自力のみでは乱も鎮圧出来ぬ小政府に過ぎぬ。いずれ、天下の万民が悟る事だろう)
肥沃な冀州、荊州、天険に阻まれた陽州、巴蜀。漢がせいぜい、洛陽近隣を統治するだけの小さな政府になるしかないのなら、それを凌駕する潜在能力を持った新天地はいくらでも思い浮かぶ。有力な軍閥もまた然りだ。
政権中枢の腐敗、それに伴う地方の台頭、軍の弱体、黄巾の乱、反董卓連合。
漢の落日。もはや論を積み重ねるまでもなく明らかな一つの事象、即ち。
(漢帝国の時代は終わった――――――これより先は、地方が独立化し、互いに覇権を争う群雄割拠の時代となるだろう。もはや漢の中枢に在る事などに何の価値もない。その中で、未だ漢の権威に拘り、その中での権力争いに終始している王允は所詮、天下の趨勢が見えていない)
漢が、国が終わる――――――目に見える祖国の衰亡の時を、青年は冷静に見切っていた。
(王允よ。貴様は旧時代の遺物。いずれ天命は劉から袁の元へ下る。束の間の栄華を味わうが良い)
軍足の音は止まっていた。戦場の風だけが、粛々と二人を叩いて行く。
「淳于よ」
「……何だ?」
「我々はこれより冀州に戻り、領地の発展に努める。お前には軍事総督として、烏丸を仮想敵として騎兵の研究をしてもらう事になると思う」
長安には未だ、董卓軍の残党が残っている。にも拘らず、その掃討をせずに黄河を隔てた冀州に帰還する。
つまりそれは、中央軍にはもう軍事的協力はしないと、言外に示している様なものだ。
「……袁紹殿から命があれば、そうしよう」
「今回の戦で、董卓軍と正面から戦って勝った軍は居たか?」
「うむ、孫策の軍が緒戦と今回の二度とも正面から交戦したが、凌ぎきっている。それと曹操だが……今回、張遼と華雄の二隊を撃破したらしい」
「……そうか。成程」
曹操。
無敵の董卓騎兵に土を付けたその名が出た時に、目新しさは無かった。むしろ、成程、と。
郭図はその名をよく知っていた。洛陽時代の袁紹の悪友。
そして郭図がかつて学生であった頃、その最終学年の時の学友――――――
わずか九歳にして超難関である国家太学に首席で入学し、その年内に全課程を修了し卒業した、天才児の名前だった。
「撤退……?」
簡雍が持って来た報を聞き直したのは、関羽である。
「ああ、さっきふらっと散歩しがてら、伯珪に話、聞きに行ったら、チラっとそんなような事をな」
小指で、耳の端をカリカリと掻いている
着崩した格好、気崩した態度、それがいつもの簡雍だ。
「洛陽の賊は除かれたのでしょう? 上洛し、中央政府の閲兵を受けるのが筋では……この場で解散して、良いのですか?」
「あ~……まあ掻い摘んで話すと、董卓を追っ払えたんだからそれで十分だと。大義の為に戦ったのに都に押し掛けて褒章を要求するのは浅ましいから……と、まあ、袁紹閣下の仰せだよ」
「それで終わり? それじゃあ、ご褒美は無いって事なのかー?」
「ああ。こっちから辞退してるって形だからな……ったく、袁紹様も、随分とはた迷惑な思い付きをしてくれたモンだぜ」
見上げて問うて来る張飛に対し、簡雍がぶっきらぼうに自身の頭を掻きながら答える。
「袁紹は大資本に物を言わせて、そういう綺麗事が出来るかも知れんが、こちとら兵站を確保するだけでも青息吐息なんだ。せめて被った損害の一部補填くらいは中央政府にして貰わにゃ、割に合わんぜ。戦った臣下の労働に見合う保障もしてくれねえなら、何のための権現様かわからんぞ」
「それよりも、漢室からは何の御沙汰も無いのですか? 命を賭して戦った桃香様が、何の官位も褒章も授けられないというのは余りに無体です!」
関羽が声を甲高くして論ずる。袁紹の弁……『褒章を辞退する』というのも、確かに一般的には徳行として認識されるだろう。一方で、関羽の言にもまた、一定の筋が通っている。
漢室から褒章を賜るという事は、働きを正式に功績として認めて貰う、という事なのだ。つまりそれが受けられないという事は、せっかくの槍働きや功績が、功として認められないという事になる。言ってみれば、反故という事だ。
それに、同じ連合軍でも袁紹と劉備では立場が違う。
まず、袁紹には諸侯の中でも随一と言っていい資本力がある。劉備、公孫賛、孫策、戦の初めに先陣を切った諸軍にポンと援助を渡せるほどのものだ。だから例えそれらの補填費が中央府から出なくとも、袁紹軍にとって遠征費や損害のリカバーは痒み程度の負担に過ぎないだろう。だが劉備は、幽州牧である公孫賛の管理下にある県の一つを統治しているだけの、小領主に過ぎない。劉備軍にとっては少しの戦費であっても身を切る様な負担になりかねないのだ。
さらに言えば、袁紹は言わずと知れた四世三公の名門・袁家の出身であり、大将軍・何進の副官を経て、黄巾討伐の際に冀州の州牧に抜擢されたという経歴を持つ、いわばキャリア組で、既に天下に広く知られる存在だ。そして何より、この反董卓連合は袁紹を盟主として決起されたものだ。たとえ公的な表彰を受けずとも、袁紹の名は万民が知っている。故に『褒章の辞退』という連合軍の行いが人の口に上れば、世の人はこう思うであろう。
さすがは名士・袁紹、まさに国士の鏡である――――――と。
劉備はそうではない。彼女の名は、未だ全国的には無名に過ぎない。盟主・袁紹の他にも、袁術や孔融あたりは認知されるかもしれない。だが劉備の様な弱小勢力の頭首の名は、このままでは有名諸侯の中に埋没するしかない。
故に、きちんとした権威に基く認知――――――漢室の詔による褒章、国から功績を正式なものとして認めて貰う、という事が必要なのだ。
まして劉備軍は逸早く先陣に志願し、他の諸侯に比しても寡兵ながらかなり勇猛に戦った。関羽らの抱く所も又、道理である。このままでは、自分達の主の功績が正当に評価されないかもしれない。
「私はそれでも良いよ? 愛紗ちゃん」
だが当の本人は、言い淀むでもなく、実に普通に、そう言って見せた。
「桃香様!?」
「だって、悪い人達はもう居なくなっちゃったんでしょ? もう都の人達は助かったんだし、戦は無事に終わったんだし。ひょっとしたら董卓さんも、考えを改めてくれるかもしれないし。もしまた何かがあったら、その時はまた皆で集まって止めればいいんだし、ね?」
「そういう問題では……」
「朱里ちゃん、兵隊さん達への御手当と、ご遺族への保険、私達だけで賄えるかなあ?」
「……そうですね、袁紹さんから援助された物資の余剰を慰労手当に充てれば、何とかなると思います。ただ、当面の税率を少しだけ上げる必要性が出てくるかも知れません」
「うっ……それは、どうにかして理解を得るしかない、かなあ……そうだ! 私の身の回りの物を処分して、何とか……ならないか。そもそも処分出来るほど物、無いし……」
「そういう問題では無く! それで宜しいのですか? 桃香様」
話をさっさと次に進めて、あーうーと唸っている劉備。
関羽が、思わずピシャリとした語調になる。
「私は、世の中が少しでも平和になればいいなって、そう思っただけだから。私自身の位とか特権とか、そういうのは別に、どうでも良いんだ。何かの為に少しでも役に立てたのなら、私はそれで十分だよ」
「な……」
「あ……でも、愛紗ちゃん達が困るよね。う~ん、私からの勲章……じゃ、ダメだよねえ、やっぱり」
部下への褒章が不十分、という段階で初めて、頭を抱え出す。
劉備のこういう性分はよく知っていた筈の関羽だが、改めて呆気にとられる。
自己犠牲というか、献身的というか、ここまで私欲が無いものか。
いくら国家の為とはいえ、自分の働きに対しては、多寡はあれどそれなりに見合った評価や報酬を得たいと思うのが人情というものだろう。道で老人に施す親切とは訳が違う、れっきとした仕事なのだから。
ところが、この人にはそういうものが全く無い。ただ純粋に、人の役に立てればそれで良いと思っているのだ。例え命を賭けた戦事であっても。そして自分の部下に報いるためには、自分の身から切って渡してどうにかしようと、何の疑問も無くそういう発想に行きついてしまう。徹頭徹尾、奉仕の精神である。
「はっは! そうかいそうかい。いや~まあ、桃香らしいっちゃあ、桃香らしいわな」
簡雍が渋顔からカラリと一転し、喉を鳴らして笑い、未だ納得の行っていないような関羽の頭を、ボスボスと叩く。
「しゃーねえやなあ。俸禄三割還元だ。明日からまた漬物飯だぜ」
「うぅ、ごめんね……本当ならお給料、上げてあげなくちゃいけないくらいなのに……」
「しょうがないのだ。お姉ちゃんのお人好しは今に始まった事じゃないのだ」
「全く……まあ私達も金を目当てにやっているわけではありませんが、生活が無いわけではないのですからね?」
「正直者が阿呆を見る、を地で行く生き方だからな、ウチの大将は」
「あうぅ……」
一転して剣呑な雰囲気は削がれ、ここぞとばかりに一同は劉備をからかい尽くす。
劉備はというと、どうにも言えないのか、いたたまれない様に小さくなるばかりだ。
「はぁ……しかし、桃香様が日の目を見る時は、果たして来るのでしょうか……」
「い~いじゃねえか。ぐるっと回りくどくても、一歩進んで一歩下がってもよ。それが俺らのやり方ってもんじゃァねえか?」
いつもの、なれなれしい調子で、今度は関羽の肩に腕を回してくる。
「この時勢にその様な悠長な……というかどさくさに紛れて胸を触らないでください、斬りますよ」
「いや~身持ちが堅いねェ。ちっさい頃から、糜芳お兄ちゃん大好きだったもんなァ、愛紗は」
「ッ! びっ、糜芳どのには幼少の頃に何度か指導を頂いていただけですっ!! というか、盧塾時代はあなたも一緒に居たではないですか!!」
「兄貴分べったりってのよりもよ、一人か二人くらいとの色事を知ってた方が、男はそそられるもんなんだぜ?」
「わたっ、私はそんな破廉恥な事をするわけがないでしょう! 人をなんだと思っているのですか!!」
簡雍が関羽の肩に腕を引っかけたまま、ゲラゲラと笑う。
関羽の甲高い声が響いた。
(……正直、今の中央府に連合軍の損害を補填する様な経済力は無い。でもそれを抜きにしても、董卓軍を完全に沈黙させるなら入洛して関中に進軍するべきの筈……これ以上中央の争いに加担する気は無いという事? いや、もっと言うなら……董卓軍を解体させる気は初めからなかった……)
わいわいと騒ぐ中で、一人、小柄な少女が顎に手を添えて、思案を巡らす。
(連合軍を使って董卓の勢力を削ぎ、かつ一定の脅威は残して中央の牽制の為の布石として置く。つまり新政権と董卓の残存勢力が潰し合う構図を作る、ならばその意図は……)
それに気づいたのは、鈴々だった。
声を掛けられて、彼女はハッとする。
「……さっきからどーしたのだ? 朱里」
「! う、ううん、何でもないよ!」
そして、手をパタパタと顔の前で振りながら、ただ、そうとだけ答えた。
「撤退?」
甘く、甲高い声が、全くの邪気を含まずに、こくん、と首をかしげた。
「はい、袁紹さん曰く、『我らは結束により、見事、逆賊を追い払いましたわ! しかし、この大功を鼻にかけて加増を望むのは君子の道に反しますわ。国家に報いるのは当然の事であり、位人臣を求めるなど以ての外ですわ、よって反董卓連合の盟主として、諸侯にはこのまま解散を命じますわ』との事で~。恐らく、“功成り名遂げて身退くは天の道なり”の故事をパクっているのではないかなー、と」
「むぅ~、な~にを言うとるのじゃ、麗羽のすかぽんたんめ。老子の真似事なんぞより、天子様の御墨付きを貰うた方が大義も名分も明らかではないか!」
頬っぺたを膨らませ、ぷんすかと両手をいっぱいに振る。
まさに少女の見た目、そのままといった仕草。
「お仕事はほーこくするまでがお仕事なのじゃ! わらわ達は天子様の為に働いたのじゃから、天子様にそれを報告するのはとーぜんなのじゃ! 七乃、わらわは南陽には帰らんぞ。帰るのは洛陽に上って、天子様の褒章を賜ってからじゃ!」
ふん、と自信満々に小さな身体を反らせるように、胸を張った。
腰元まで伸びた金の糸のような袁術の髪は、袁紹のものとそっくりである。
まさに、高貴な漢人貴族の典型と言った容姿だ。
「う~ん、ですが、実は前日、虎牢関を脱出した董卓軍が、宛に侵入したという報せが入りましてー」
「なんじゃとっ!?」
「宛には美羽様の蜂蜜も含め、大量の食糧が備蓄してありますし、紀霊将軍も『早く本隊帰って来てくんないとマジ、死ねる』という旨の早馬を寄こしてきてますのでー、今から洛陽に行ったら、美羽様の蜂蜜、ぜーんぶ盗られちゃいますよー?」
「な、七乃! 早う、はよう引き返すぞ!! わ、わらわの蜂蜜が、はちみつがぁ~!!」
「はいはい。じゃ、今から兵隊さん達に下知を出しておきますからね」
「う、うむ! 早くしてたも、七乃! わらわの蜂蜜は絶対、ぜ~ったい渡してはならんのじゃっ!」
小さな手をぎゅっと握り、わたわたと身体全体で焦りを表現する幼き主に、はいはい、と返事をしながら、副官は肩に両手を乗せて背を押すようにし、自本営向かうのであった。
(現状で入洛すれば、長安の董卓軍とそのまま戦わされるに決まってますし……今から引き返して董卓騎馬の脚に追い付けるワケ無いけど、ここはさっさと口実を付けて首都圏から離れるのが無難ですかねー)
「撤退ぃ?」
弾ける様な瑞々しい唇に、酒の器を咥えたまま、とぼけた声色の返事をして孫策は振り返った。
「ああ、袁紹が解散宣言を出した。後は各々の本拠に帰還せよとの事よ」
「ふーん。ま、敵が居ないのに、いつまでも陣を敷いてたって仕方がないしねー」
器を離すと、ぷるん、と、雫が、滴るようにその紅色を潤す。
周瑜の事務的な説明に、孫策はあまり深く思案せず、あっけらかんと返事を返す。
ひらひらと振る右腕は三角巾こそ取れたが、代わりに仰々しい装具が装着されていた。緒戦にて呂布と剣を交えた際に斬られた筋が、まだ完全には癒着していないのだろう。
それにしても、「骨まで届くほどバックリと肉が断たれた」状態であったというのに、この元気さたるや、さすがに虎の娘と言ったところか。
初めの方こそ右腕を動かすたびに周瑜が苦言を呈し、孫権ががなりたてるという光景が見られたが、いまや咎める事も無い。
そもそも、彼女は素行において、誰がしかの忠告の類をろくに聞いたためしが無かった。
猫に首輪は付けられぬ――――――と云った所であろうか。
「ですが、我が軍の褒章はどうなるのです? 一切の論功も為されぬのであれば、あれほどの強兵と戦った我が軍の兵たちの奮闘に報いる事ができません」
「ん~……それはそうなんだけどね……」
「…………?」
それについて、妹の孫権が意見を呈す。
御恩無くして奉公にどう報いるのか――――――という事だ。至極、素朴な意見だが、正論である。
しかし、孫策はなにか渋い顔を作って、自分でもしっくりこない、という風に答えた。
「なァ~んかねぇ、キナ臭い感じがするのよ。今、洛陽に上るっていうのは……あん、お酒切れちゃった」
「いつもの、第六感という奴ですかな、策殿」
半ば、ひとり言のようにも取れる間延びした口調で答えながら、自ら酒を注ぐ。が、すぐに切れた。
それを見計らったように、じゃぼん、と音を鳴らす瓢箪が投げて寄こされる。
「あら、祭、気が利くぅ♪」
「その第六感じゃが、あながち間違ってもおりませぬぞ」
「……と、いうと?」
「さっき、袁術ちゃん達が話してるのを聞いちゃってねェん」
「……うぉわっ! か、花蓮殿!」
「ちょっとぉ、蓮華ちゃん、その反応は無いんじゃなぁい!? 人をまるでバケモノみたいにぃ」
「い、いえ、決してそういうわけでは……その、不意にだったものですから」
思わせぶりな言い含みとともに、天幕を潜って帷幕の内に入って来た黄蓋に、孫権は問いかけたが、それに答えたのは、不意に背後から現れた祖茂だった。
いきなり気配もなく後ろに立たれた上に、耳元で野太い声が聞こえて来たものだから、驚いて振り返ってみると、細面におしろいを塗りたくった、胡麻塩の様な無精髭のおっさん顔。それは思わず跳び退くというものだ。
祖茂はと言えば、その反応に対して頬を膨らませ、ぷりぷりと身体をくねらせる。
吐き気がする。
「花蓮殿、一体どういう事なのです?」
周瑜は眉一つ動かさず、極めて冷静な表情で質問し直して見せた。
「高順ちゃん達、居るじゃなぁい? あのコ達、どうも昨日、南陽に侵攻った(はいった)みたいなのよねぇん」
「つい先日脱出した、虎牢関守備隊が、ですか? ……恐ろしい機動力ですな」
「成程。洛陽までお出かけしに行ってる場合じゃないわね」
「しかし策殿、今から軍を返したとしても、董卓軍の行軍速度に追いつけるのかの?」
「追い付けなくったって帰るしかないでしょ、放っておいたら、帰る場所無くなるわよ、私も、あのおちびちゃんもね」
孫策が言ったのは、いわずもがな、袁術の事であろう。
黄蓋は深い息を大儀そうに吐き、眉間に皺を寄せつつ、額に指先を押し付けた。
「全く、難儀じゃのう。我らの軍の戦傷者も少なくないというに、くたびれ儲けで終わってしまうのはかなわんわ」
実際の所、孫策軍は今回の連合において最も奮戦した軍だと言っても過言ではない。
諸侯がそれぞれ万単位の軍を組織している中で、彼女が率いるのは袁術に貸し与えられた兵を含めて三千足らず、そのうち、直属の兵は千にも満たない。
かつて最盛期で数万を誇った亡母の兵力は、その死に伴い、殆どが南陽袁氏の支配下に吸収された。今では袁術の傘の下だ。つまり孫策は、曹操や袁紹のように地方の主ではなく、また官職を持つわけでもなく、袁術の囲いものである属将でしかない。
にも拘らず、この戦いを通してずっと最前線に据わり、総攻撃の際には、急先鋒として絶えず虎牢関に猛攻を加え続けた。洛陽の反董卓派蜂起の際には、洛中での流言飛語と兵民扇動などの破壊工作を別働隊を以て担い、陥落のきっかけを作った。そして董卓軍が連合を脅かした、緒戦の奇襲と最後の突撃の両方ともをまともに食らいながらも壊走せず、最後まで戦列を離れなかったのである。
まさに獅子奮迅の奮闘ぶりであったのだが、その分、被った傷も多かった。袁術から借りた兵は殆ど潰してしまった上、直属隊も主の孫策が負傷するほどの苦戦を強いられた。
連合参戦も此処での撤退も、袁術の意向に逆らえぬ孫策軍の現状であれば必然である故、どうにも出来ぬ事ではあったが、それだけに黄蓋の溜息もいたしかたないというもの。
「…………」
孫策の例にもれず、幹部やその側近も例外では無かった。
両の手に巻いた包帯を、何やら鋭い表情で見つめる、甘寧もそうだ。
――――――血と土と人の脂を含んだぬめる風が、褐色色の肌を捲いて行く。しかし、弾ける様に飛沫く汗が、それらの泥の付着を許さずに払い落す。
その小柄な南人の少女は、まるで舞踏を踏むようにして、弾幕のような兇刃を振りかざす馬上の戦士と踊り合う。
銀の閃光が繰り出される、一つ二つ三つ四つ。矢継ぎ早の突き。それぞれ微妙に始点の位置と高さを変えながらだ。
馬の上に在りながら、自由自在。さながら人馬一体の如く。成程、これが涼州の戦士か――――――
次々と繰り出される突きのあられに、甘寧はよく反応し、左右に跳ぶ様に躱すが、その殆どが紙一重。
攻めに転ずる事が出来ない。船の上であれば此処までの苦戦は無いだろう、しかし、これほどの高所から高速で襲ってくる槍の連打を、甘寧は今まで味わった事が無かった。普通、騎乗状態という体勢からでは、取れるべき戦闘行動は地上のそれに比べて著しく限定される。標準は定まらぬ上に上半身しか使えず、ただ剣を振るというだけでもそれなり以上の技術が必要とされる、平衡感覚の保ちにくさがその所以。しかしこいつは殆ど地面の上と変わらない調子で身体を捌き、攻撃を繰り出してくる。馬の上という、絶対的に不安定な戦闘条件において、これほどまでに制約なく、縦横無尽に動けるものか。そこに騎馬ゆえの体高の高さが相まって、さながら、人ならぬ獣の類と切り結んでいる錯覚を覚えた。
齢十にて初陣を経験し、以後の人生の大半を戦場で過ごすという西涼の兵士。歩くよりも馬の上に居る時間の方が長いとまで云われる。手を合わせてみれば、その厄介な事、口で説明されるよりも遥かに実感できた。
成程、確かに、後漢最強の誉れは伊達では無い、だが――――――
「孫策軍を――――――」
「むッ!」
大きく伸びて来た突きに合わせて、一足、跳び込む。
地を這う様な低い姿勢で、頬を掠めた槍を追い越し、懐に潜る。
「嘗めるなッ!!」
そのまま水平に、剣を払った。
張繍が表情を変える――――――しかし乗り馬が反応し、前脚二本を蹴上がらせる様にして、それを躱す。そこでは止まらず追撃し、今度は馬上の張繍へ片手突き。張繍はやや体重を後ろに傾けながら、先手を滑らせるようにして取っ手を持ち替え、柄を縦にしてその軌道を外に逸らす。
三段目が来る前に、馬が後ろ向きに脚を進め、下がって剣の間合いから逃れた。
「……!」
普通の駆け足と何ら変わらぬ調子で、後ろ向きに脚を運び、着地した。
恐らくは微妙な体重の掛け方と腰の使い方で、手綱を握らずとも馬を誘導する事が出来るのだろうが、よくも、戦っている最中に馬をあんな風に動かせるものだ。
ほとんど、自らの足と変わらないとでもいうのか―――――――
「…………ふふっ」
馬術の妙を珍しがる暇も無く、甘寧は再び構え直し、その刃の様な鋭い目で、張繍の面を射貫く。
「良い眼をしています、貴女。強く、鋭く、粗暴で。退きも媚びもせず。荒々しく。甚だしく」
蜥蜴の様な貌。口元が緩んで、歪む。
笑っていた。
「とても、美しイ」
ボッ、と、銀の弾丸が撃ち出された。
ふわりと一瞬、ゆるやかな間があったと思うと、その五体は激しく震動し、唸りを上げたのだ。
その瞬間、駿馬の背と張繍の下肢は、まさしく一繫がり、一体のものであった。
大地を蹴り、ねじり込む様に踏ん張られた四股、馬体のうねり、しなやかにして巨大な筋肉の鎧が生み出した馬力は、一切損なわれる事無く張繍の太腿に伝わり、捻る腰を通って加速し、背筋、両肩へと。
打ち出された、はるか遠方まで打ち抜く様な、伸びのある突き。
それは、動物の様に鋭敏である甘寧の反応速度を上回った。甘寧が得物を携える右手、その甲に、有効射程のギリギリの遠間から打ち込まれた切っ先が突き刺さる。
「ッ!」
パァン、と、骨の弾ける乾いた音が響いた。
張繍が槍を引き、再度、往復させる。今度は、喉元狙い。一身鉤引、是を穿つ――――――
「ッ!?」
ドンッ、と手応えが伝わり、鮮血が舞った。しかし、穂先が貫いたのは少女の滑らかな喉笛では無く――――――
盾としてかざす様に、突き出された左の掌。深々と貫通して、その推進を受けとめていた。
「……言った筈だ」
「……ッ!」
一瞬のうちに噴き出した血で、そこはもう真っ赤に染め上げられている。肉の裂け目と、槍の切っ先、褐色の掌から手首まで、絵具でもぶちまけた様に、紅。
ミチリと、脂の湿った様な音。その小さな音が耳に届いたわけではない、ただ、妙な感触を感じたからだ。
即座に、槍を引く。しかし、抵抗された。何かが掴んでいる? そう――――――
甘寧が抉られた掌を、さらに押し込み。文字通り、掴んで来た。
「ぐッ……!?」
「孫策軍を、我らが江東の虎を――――――」
張繍は強引に、身体ごと使って引き抜いた。無理な動きで広がった傷口から、さらに多量の血液が飛ぶ。
甘寧がそれを気にする事はまるで無い、再び間合いを詰め、懐に入った。先程よりも、さらに近い所まで。
顎が叩ける。
「孫呉の戦士を、舐めるなァあァッッ!!」
血を撒き散らすのに一切、構わず、右腕を突き上げた。
鋭い逆袈裟の軌跡を描く。
甘寧の、刃の切っ先に良く似た眼が、自分のものではない、新たな飛び散った血飛沫を捉えた。
「…………ふむ」
「チッ……」
甘寧の一振りは、張繍の顔に眉間から額に掛けての一筋の傷を作って、逃した。
浅かったのだ。
決めを作る時、手の内が緩んだのが自分でもわかった。事前に貰った、右手甲への刺突。あれが、右手の握力を奪っていた。それ故、逸れた。万全ならば、顎を芯から捉えていただろう。
「……」
薄い肉の向こうにある、血に濡れた骨がすでに見えている。バッと噴き出た血が、紅いカーテンの様に、その白い顔面を染める。
張繍が痒そうに眉を動かすと、新たな血の滴が、平静な表情の上、血濡れのさらに上をつうっと伝わり、鼻筋を通って、唇に吸い込まれた。
「……フッ」
舌に付いたそれを舐めずり、そうするとたちまち喜色が露わになって、唇が、歪む。
「貴女は実に素晴らしい。幼くして、まさしく烈士。是非名を……いや、名乗らずともよい。聞かせて頂きたい。その強靭な精神、折れぬ心。貴女の気力の源は、果たして何です?」
血塗れの両手をぶらさげて、地面に屹立する江東の戦士に、血化粧を施した、馬上で悠然と構える涼州の戦士が問う。
「……一歩も通さん」
昂揚を内側に滲ませた張繍の声色とは対照的に。
甘寧は、静かに、低く、厳かに。
「ただ、それだけ」
指先をポタポタと血が伝っている。しかし、その切っ先のような眼光は少しも萎えていない。
「この身は既に主に捧げた。今更、何を竦む、何を恐れる。全ては郷里の誇りの為。全ては我らが孫家の為に。この身の血と命など、惜しむ余地は一つとしてなく」
力の入らない右手で、得物の呉鈎を口まで持ってくる。八重歯と歯茎が覗くほどに口を開いて、派手に血みどろになった柄を、がしりと咥えた。
召し物の裾をまくり、露わになった太腿に具え付けた革鞘から取り出す、小さな刃物。仕込み苦無か。
力を入れなくても振るえる、非常に軽量であろうそれを、毒々しく紅い肉の破れ目から骨の覗く右手に、逆手で持って構えた。
「孫策軍に退き足は無い。その誇り、容易く穿てると思うなよ」
手負いの獣が牙を剥く。まさしくそれ、そのものだった。
左脚を大きく引き、四股を張って腰を低く、鮮血を拭いもせずに、真珠の様な綺麗な歯を闘志とともに剥き出しにして、絶対に一歩も下がらぬ構えを見せる。
「…………」
孫堅が江東の虎ならば――――――こいつは豹だ。
退く事も恐れも知らず、眼に灯るのはただただ、殺気。
名は無くともよい。威風を張らずともよい。粛々と、たった一人の兵士に徹する。
縄張りを侵すものを、命に代えても八つ裂きにしてやると決意した、寡黙で獰猛で誇り高い、獣の群れの戦士だった。
「――――――承知しました」
「っ!?」
ふっ、と、笑みを一つこぼすと、張繍は構えを解き、不意にくるりと、馬首を返してしまった。
「素晴らしい闘いを贈ってくださったお礼です」
甘寧は肩透かしを食らった様に、呆けた表情を見せた。
一方の張繍は、有閑に茶を嗜んでいるかのような、優雅さすら湛えた顔。
「貴女と決着を付けるには、かなりの時間と集中力を要するでしょう。しかし、我々は一刻も早く戦線を突破して、ここから脱出しなくてはなりません。残念ですが」
紳士的、とも言える様な落ち着いた口ぶりであった。
背の高い、長髪で色白の風貌。返り血に塗れてはいたが。
「これと決めた一つの意志に、五体と命を捧げつくす。美しいですね。私は美しい人が好きです」
既に、手の一つは手綱にあった。
汗と混ざった血が、もう一筋、顔の中心を流れて行くのが見えた。
「素敵なひとときでした。次に相見える刻を、心よりお待ちしておりますよ」
そう言って進路を変え、馬を駆けさせた。甘寧は、はっとしたが、追いに掛かる前に、既に張繍の騎馬は一足目で加速が付いている。
最後に、槍をくるりと頭上で旋回させ、戦場の砂と人の群れの中に消えていく。恐らく、自分の兵への合図だったのだろうが、それはまるで、甘寧へのさよならの挨拶かのように見えた。
「――――――思春?」
「はい、蓮華様」
包帯をじっと見つめる甘寧だったが、孫権に名を呼ばれ、はっ、と顔をあげた。
孫権は、物想いに耽る甘寧の鋭い眼を見て、彼女の心情を察した。
「貴方達の孫家に対する忠勤には、本当に頭の下がる思いよ。今の孫家は、財も位も、貴方達の功に報いるにはまるで足りないけれど……せめて、ゆっくり休んでちょうだい」
「…………その言葉こそが、我々にとって何よりの勲章です」
面を伏せる様に、甘寧は礼をした。包帯の巻かれた両手を、そっと重ねて。
「まあ、それでしたら、出世払いの後払い、という事にして頂きましょうかの」
「そうですね。早く雪蓮が天蓋付きの御車に乗れる身分になる事を願うわ」
黄蓋が気を飛ばす様に豪快に笑い、周瑜はクスリと落ち着いた風に微笑んだ。
「ところで雪蓮、袁紹に借受た兵糧や武器一式はどうする気?」
「うん? 返さなくていんじゃない? いつ返すって言ってないし」
「よ、宜しいんですか、姉様?」
「何か言われたら袁術に任せりゃいいのよ。言われる前にスタコラサッサだぜぃ♪」
「はっはっは! そういう所は、母君に良う似ておられますわ!!」
快活な、陽だまり。
孫策の帷幕には、常にこういう朗らかな雰囲気があった。
「はぁ~、しかし、せっーかく中原まで出てきて、戦利品が借りパクした物資だけかぁ、シケてるわねぇ」
「策殿、これ以上は言うても仕方があるまいよ。さっさと下知をして、帰り支度……なんじゃあ、祖茂」
「……にゅふふふ」
自身の銀髪をふぁさり、とひと梳きして、黄蓋が大儀そうにすると、隣の祖茂が何やら気持ち悪い笑みを浮かべていた。
怪訝な表情で問う。
「戦利品……実は、良~いお土産があんのよねぇん」
「何?」
「カモン、明命ちゃん!」
「はい!」
思わせぶりな台詞を付いて、幕舎の面々の注目を集めると、カレンが素晴らしき腰のキレからポーズを決め、両腕をそろえる様にしてパチン、と指を鳴らす。
フィンガースナップである。しかも両手である。
するとそれに呼応して、いきなり周泰が何処からともなく現れた。
「わっ! 明命、どこから入って来たの!?」
「それより、なんじゃそれは」
孫権だけが至極、真っ当な反応を示すが、他の面々はまったく気にしない。黄蓋はごく普通に、周泰が大事そうに抱えている、巾着袋に目を向けた。
それが、どうも様子が妙だ。見るからに、ただの嚢では無いのである。ぱっと見ただけでかなりの上等品と察せられる生地、それに非常に精妙な細工の刺繍が施してある。
「明命ちゃん、見せたげてぇん」
「はい」
「……!! これはッ……!!」
促され、幕舎の中心におかれた机の上にそれを置き、かなり慎重と思える手つきで、嚢の紐をほどいてゆく。
皆が一様に覗きこみ――――――真っ先に驚きを示したのは、周瑜だった。
「つまみにあしらわれた五頭の龍、そしてこの材質は、紛れも無く白玉……まさか……」
「そ、この国の権威の象徴であり、漢が天命を受けた事を証明する神器。皇帝にしか持つ事の許されない、天下にただ一つの印綬……」
「……伝国の玉璽か……!!」
印綬というには大きい、そして甚だ壮麗な、四寸四方の、非常に純度の高い白玉で造られた龍を模した印章。
かつてこの中華に“皇帝”という概念を創造した始皇帝は、玉製の印章は皇帝のみが用いると定め、この印綬の為だけに『璽』という新たな文字を作った。
周瑜、黄蓋、孫権が目を奪われ釘付けとなる、四角い印の上に蟠った五頭の龍。そのうち一つは、角が欠けている。
その昔、前漢を滅ぼした新の王莽が、最後の皇帝であった元帝の后に玉璽の譲渡を要求した時、彼女は怒りのあまりそれを床に投げつけ、その際にその一部が欠損しまったという。
余りにも驚きが大きい時、人は次の言葉を失ってしまう。
にわかには信じ難い、しかしなによりも如実な事実として目の前にそれがある。
歴代皇帝が引き継いで来た、天下の支配者たる証。
“玉璽”。
――――――皆が硬直している中、ふと、孫策の長い褐色の指が、おもむろにそれを持ち上げた。
『受命于天 既寿永昌』―――――――命を天より受け 既に寿くして 永く昌んならん。
かつて秦の丞相・李斯が刻んだその文言を見て、孫策は面白そうに、にぃ、と、微笑んだ。
その唇は色濃く、艶やかで、可憐だった。
「では、降伏は無いと?」
五尺にも遥か、足らないような華奢な少女が屹立している。
金の髪、碧い目。漢人の、身分の高い女系の血を濃く引いている事が見るからに察せられる容姿。
「漢族には跪かん」
「簡単に乗り換えられるほど、ケツの軽い女やないねん」
碧い目の先には、縛に打たれた二人の健将が地べたに座していた。
拘束されて胡坐を組んだ格好ではあるが、背筋はぴんと立っており、軍人としての威厳を決して損なってはいない。
「従わなければ、捕縛した兵は皆殺しにする」
冷たい語気で言い放った。
二人はしわぶきひとつ、上げない。華雄は曹操の声よりも、もっと冷たく鋭い眼差しで押し黙り、張遼は目を閉じて片目だけ開き、じろっと下からめくるようにねめつけた。
「大将。アンタ、性格悪いやろ」
「反感と無道の謗り一つで、馬上の民の武の象徴が手に入るなら、安いもの」
曹操の顔は、微笑。
白い肌の華雄、浅い小麦色の肌の張遼。
そのどちらとも違う、いわゆる肌色――――――漢人が唯一、“肌の色”と形容する、自分達だけが持つ皮膚の色、華琳のその色の掌が、彼女達に向けられる。
かつて、劉邦がある一つの民族だけを纏め上げ、それを世界の中心として作った国、漢。
かつて、始皇帝がある一つの人種の生活圏のみを区切り、それこそが世界の全てであるとして作ったくに、中華。
「天下とは。蒼天の下に広がるあらゆる世界の事を指す。純粋なる蒼の下で無限に絡まり合う人の営みこそが天下。それを黄色い肌の色のみで染め上げてしまう事ほど、面白味のないものは無い」
かつて歴代の指導者たちは、漢人がある特定のひとつの色だけを肌色と言ったのと同じように。白も黒も無視してそれだけを“肌の色”と称したのと同じように。
その国の外には、肌も瞳も言葉の色も違う人間が無数に存在していたにもかかわらず、漢を、中華を、それのみを“天下”と称した――――――何の疑いも無く。
「故に、要る。白も黒も黄色も、思想の檻に囚われぬ、自らの色に誇りを持つすべての人間がね」
そうではない、そうではないと――――――
蒼という一色の下で、あらゆる色が混然と混ざり合い、変化し合って一体と為す。
それこそが“天下”であると、空と同じ色をした瞳は言った。
「あなた達がそういう人間として、その無限の営みに生きる事が出来るなら、地に民族という隔たりも、中華という枠組みも無い」
「……ほう、せやったら、あんたはそれが出来るっちゅうんか? そしてそれを作る主になると?」
「主ではない、私はその首席となるでしょう」
「何?」
「なぜなら私も、そこに生きる無数の人間の一人であるから」
四百年以上続いた既成概念。それを革める、それは即ち革命。
肌の色、瞳の色も、文化も価値観もまるで違う自分たちを、何のためらいもなく自らの掌の中に入れてしまおうとする、この少女の頭の中の天下の形。
それとは――――――
「…………ふん」
まるで天の上から睥睨するようにそれを語りながら、自分もまた地の上に活きる一人の人間であると言う、幼さすら貌に残した、この少女。
張遼がその少女に抱いたのは――――――興味だった。
「ぶっちゃけ天下国家の事には、なんも興味は無いけどな――――――面白い。使えるもんなら、使って貰おうやないか」
片膝を付き、座したまま一歩、身を前に乗り出す。
曹操は、彼女達の前に、ただ屹立していた。
董卓の勢力は洛陽から取り除かれ、司徒・王允が繰り上がりで皇帝の後見人となる。
反董卓連合の盟主・袁紹は虎牢関の戦役の終了を以て解散を宣言、何名かの諸侯は異を唱え洛陽に上ったが、大部分の諸侯はそれに従い、本拠へと帰還した。
自身の本拠である関中へと退いた董卓残党、そして帝国の核というにはあまりのも力の不足している新政権の樹立――――――
歪な構図を後に残したまま、史上名高い「虎牢関の戦い」は幕を閉じたのである。
――――――その夜、洛陽の郊外の一角で、血の雨が降った。
王允による洛陽占領作戦が電撃的に成功を収めた、その数日後、連合軍が虎牢関を陥落させたという急報が入る。
王允はそれに伴い、不穏分子を完全に駆逐する為、洛陽に通ずる各関所・役所に厳戒態勢を敷く布告を発した。
だから、不法侵入者の報を受けて警戒を強めたその関所の警備が、その少女の容姿を認めるやいなや殺害にかかったのは、当然のことである。
何故か? 論ずるまでも無い、漢人ではないからだ。赤い髪に、小麦色の肌。瞳の光りは瑪瑙の様。明らかに異民族だとわかる風貌、それが戟を携え、馬を降りもせずに厳戒態勢中の区域に侵入して来たのだから、取り調べの余地など必要無かった。
問答無用で殺して良し――――――彼らがそう判断したのは、彼らの皮膚感覚から言って、特に疑問の余地の無い認識だった。
「…………」
月光が、少女を照らす。
照らし出された光景は、さながら地獄絵図であった。
初め、その少女を発見した警備のものが、警告も無く斬りかかり、そして返り討たれた。一人目が斬られ、次いで掛かりに行った、二人、三人目が。その様を見て一転、多勢でぐるりと囲いこみ、増援を呼ぶ。
やがて駆け付けた増援とともに、遠間から矢を打ち込んで、包囲を狭めて押し潰す。
殺しにいった瞬間、その騎馬は咆哮した。少女を背負う赤毛の馬は、唸りをあげて衛兵たちを跳ね飛ばし、戟が一閃して血飛沫が舞う。
踏み潰す。そんな感じだった。小賢しいとばかりに、槍の柄も飛来する矢も蹴散らし、目にも止まらぬ疾さと圧力で包囲を蹂躙する。十人あたりが斬られて包囲が崩された時、恐慌した彼らは散を乱して逃げ出した。
その少女の捕捉に動員された最終的な人数、五十四名。そのうち半分程が骸に変わり、生前身体を満たしていた血液とともに、肉の残骸で、その場にてただ一人、生きたものとして立つ少女と馬の足元を埋めていた。
「…………ねえ」
ゆらり、と身体を揺らして、歩み寄る。小さな、鈴が鳴る様な声だった。
腰を抜かし、何処かに吹っ飛んでしまった左腕の傷口を押さえる一人の男。彼には、そのにじり寄る姿が、幽鬼か、あるいはひとつの魔物のように見えた。
「……長安は、どっち?」
心臓が掴まれたと思った。目の前に立った一人と一頭の魔物の足元で、男もまた骸となる事を覚悟した。
体中の血液が凍って逆流したような感覚に支配された時、ふと、鈴の様な甘ったるい声が、月光の中にひとつ、滴った。
緊張のあまりの耳鳴りの中で、辛うじてそれを捉えた男は、振るえる手を無我夢中で動かし、指を差した。口は動かない。ガチガチと歯が鳴るばかりで、過呼吸を起こす肺は上手く言葉を紡いでくれない。だから懸命に指を使って、ここから西に位置する、旧都の方角を指差したのだ。
「…………そう」
少女はぽつりとそう紡いで、男の脇を抜けていく。赤い肉と血が固める地面を踏み締めながら、やがて夜の闇に消えていく。
逃亡した警備兵から要請を受けた軍隊が出動したのは、夜が明けてからの事だった。
そこでは血の海と、骸に埋もれる様に気絶していた重傷者の姿が発見されたものの、結局、下手人を上げる事は出来なかったそうだ。