邂逅編・第五話
実際の宮本武蔵は、頭に乗っけた米粒を髪の毛を全く斬らずに真っ二つにする事が出来たらしいね。
「よう」
武蔵が懐に右手を突っこんだまま馬群の中からふらりとやってきて三人と対面する。
兵は相変わらず華琳の抑えに従い注意を解かず一定の間合いで包囲を保っているが、武蔵の登場にはいささか狼狽している兵も居るようである。先ほど尋問した未だ正体のわからぬ男が丸腰でひょいと武器を突き合わせる場に出てきたのだから、当たり前と言えば当たり前ではあるが。
しかしそれでもなお警戒を解かない所からよく訓練を積んでいることが見て取れた。
「おめえは……」
「アニキ!! コイツあんときの錦の羽織ですぜ!!」
「ハッ……カモがネギ背負って向こうから来たってか?」
「おお、次いでに鍋も付けて持ってきてやったぜ」
「……あぁ?」
皮肉を乗る形で返された首領は怪訝な顔をするが、武蔵は相変わらず懐に手を突っこんだままである。
いかにも何かある風な言い方だが、武器も持たずに突っ立っている目の前の男に備えがあるとも思えない。
「見ての通り俺は使いッパなんだがな……ざっくり聞くが、お前らも本気でこっから逃げられると思ってるわけじゃねえだろ?」
「……」
武蔵の指摘は当たっていた。
この三人組も、力ずくで包囲を突破して逃げられるとは思っているわけではない。考えてみれば先刻の立ち会い、星の力を冷静に見切り逃げの一手に徹した男たちが、そんな蛮勇に頼むわけもないのだ。
余裕綽綽の顔をしているが、実のところ威圧してこちらの隙を作ろうとしているだけなのである。剣を抜いたのも挑発も、ありていに言ってしまえばハッタリに過ぎない。
もし賊と見たら真っ先に逃げ出す腰の抜けた官軍ならばその方法も通じたであろうが、華琳の下知を今かと待ち構えているこの精兵達にそれは通じまい。彼らもそれは多分に勘付いているであろう。
「まあ力ずくでふんじばるのもアリだが……こっちとしても死人ケガ人は出したくないのな。そこでだね――――」
武蔵は突っ込んでいた右腕をするりと懐から抜いて、三人組の首領と眼を合わせるようにして言い放つ。
「――――俺と立ち会って勝ったらお前らを逃がしてやる。その代わり負けたら降伏せい。悪い話じゃあねーだろ」
「はあぁ!? 何ワケのわかんねーこと言ってんだテメエ!! そんなモン聞くわけがねーだろが!!」
「……待て、チビ」
言い回しは少し変わっているが、これは降伏勧告である。となれば、チビと呼ばれている小男のように撥ねつけるのが普通。
だが、目の前の男が言うようにまともにやってここから逃げられる可能性は低い。それならばこの口車に乗るのも一つの手。
もちろん罠の危険性もある。油断させて一斉にかかってこられるという事もありうるが、無駄に面子を気にする官僚がそれをしては名に傷が付くだろう。たった三人を捕えるのにそんな凝った事をするとは思えない。
だとすればこういう所ではそれなりの猛者が出てくるのが相場であるが、目の前の男は先ほど「仕事相手」だったあの物静かな若造。それも丸腰。
第三者から見れば一見警戒するような場面でも――――現場の人間と言うのは多角的に考えられる余地が狭まる分、どうしても思考が単純になってしまう。
そこで二者択一の条件が提示されれば、自然と一見して簡単そうな方へ流れてしまうものだ。なまじ頭を回して、状況を把握したと思い込んでいるから、その決定をそれ以上改めて深く分析しようとはしなくなる。
武蔵が付け入るのは、まさにそこだった。
「それに嘘はねーんだな?」
「乗るなら馬、降りろ。安心せい、俺一人だ」
「へっ……手柄焦ってんのか頭悪りーのかは知らねーが……よっぽどの死にたがりみてーだな」
武蔵の提案に乗って三人が馬を下りる。その中には若干の誘導が含まれていたが。
武蔵が勝手に事を進めてしまう様子に兵士たちは次々に華琳を見遣るが、華琳は武蔵から渡された刀を持ったまま下知を出さず、ただ武蔵達を見据えるのみだった。
「…………さて」
武蔵は両手は開き、やや右足を引いて楽な姿勢で立つ。どっしりとは構えず、さりとて軽くは無い。
「三人いっぺんか? 一人ずつか、どっちでもかまわんぞ」
「へっ……」
薄ら笑いを浮かべて、小男が武蔵の方に二、三歩無造作に歩み寄る。
「調子くれんのもいい加減にしろよコラァ!!」
そのまま抜き身の剣を振り上げて武蔵に飛びかかる。
いきなり斬りかかった事は不用意だがそれでも勝算は十分、そしてその判断も間違いではなかった。
実力は先ほど確かめた、相手は丸腰、数の利もある。戦いが始まる前にこちらに利があるならそれを損なわないうちに一気に勝負を決めるのも定石の一つ。
そう、間違いではない――――――ただ知らなかっただけなのだ。彼の名を。
――――――――…………ッ!!
「………………がっ…………」
小男が武蔵に斬りかかった瞬間、その剣は遮るものなく首を落とし決着は早々についた―――――
――――――はずだった。
「……むう、こりゃ、一体どういう鉄で出来てる? 造りは粗雑、血の錆もまるで落としていないと言うのに、この刃の輝きは……」
「――――んな!?」
確実に仕留めたと確信していた、首格の男と大男が目を見開く。
武蔵を斬ったはずの小男は武蔵と交錯するようにもんどりうって倒れており、振り下ろされたはずの剣は武蔵の手の中にあった。
武蔵は三人――――否、何が起こったかわからずあっけに取られている敵味方すべての衆人皆を尻目に、しげしげと飾りもなく簡素な拵えの剣を眺めている。
「カハッ! げほっ……て、め…………な、に……した…………!!!!」
「何? 観たままだろう。素手とて備えがないとは限らん」
武蔵が言うとともに刀を痛めない程度にかるく指で刀身を弾くと、チン、という音がした。
かすれ声で呻き未だ立てずにいる小男に対し、武蔵はその横でゆったりとたたずんでいるだけである。そして言葉では小男に反応していても心は留めず、目の端にはしっかりと残りの二人の像を映していた。
(確かに種も仕掛けもない――――打ち込んできた刹那、一撃入れて剣を奪い取ったのだわ……倒された方が何をされたかわからないほど速く、鮮やかに――――!!)
殆どの人間があっけにとられる中、華琳の瞳だけは正確にその技を捉えていた。
敵が踏み込むのに合わせ被せるように前に出て間合いを潰し、大振りを捌きつつ内に入りざま喉を強かに打ち効かせたところで剣を奪う――――と、言葉に表せば簡単な当身による後の先の技。
しかし、それを実戦の中一瞬の交錯のうちに決めるのがどれほど洗練された妙技か。
スタスタと歩み寄る様に一足踏んで、無雑作と思えるほど力みなく、拳を突き出して一打。その間、重心が縦にも横にも全くぶれず、動作の起こりも無かった。
まるで、痒いから背中を掻いた、とでもいうかの如く――――――そんな感じだった。
無論、遠目に見ていた中では眼で見ることの出来た人間はいただろう。だが見えていたとしても、その業の冴えの程を真に理解することは並の武人には到底不可能なことだった。
それは、この三人も同じなのであろう。
「チッ、デク!!」
「お、おうっ、なんだな!!!!」
首領の声に促されて、止まっていた敵は再び武蔵に斬りかかる。
が、与えてしまった一瞬の間は、宮本武蔵を相手取るにはあまりにも大き過ぎる隙だった。
「ほっ」
武蔵は片手持ちのまま、大男の棍棒の振り下ろしに合わせるように柄尻を打つ。
カッという乾いた音と共に棍棒は大男の手から勢いよく弾け飛び、二、三度回転するように宙を舞って地に落ちた。
「その大振りは、さすがに貰ってやるわけにはいかん」
「なっ、なな……」
先ほど三人は間違ってはいない、と言ったが、確かに普通に考えれば不安要素は少ない。だが残念ながら満点ではなかった。
彼らの犯した過ちは大きく分けて三つ。
一つ目は、各自バラバラに斬りかかったこと。油断と盛んな血気から、別々に攻めたため武蔵に一人ずつ戦う余裕を与えてしまい、数の利は半減した。
二つ目は丸腰だとタカをくくったこと。彼は厳密に言うなら剣術家ではなく兵法家である。武芸百般に通じる達人、新免無二の子として当理流の御膝元で幼きを過ごし、諸国を放浪しあらゆる技を修めた武蔵にとっては、いうなればその五体すべてが得物。いきなり大きく斬りかかったのはあまりにも不用意だった。
三つ目は先ほどの「仕事」で彼の実力を見切ったと思い込んでしまったこと。かつて名だたる猛者を相手にことごとく勝利を収め、最強の名を欲しい儘にした彼の力は、刃も合わせずに推し量れるほど浅いものではない。
公式通りなら三人の手は及第点ではあるのだが、この戦いを普通の物差しで判断するのはあまりにも思慮足らずだった。
彼は――――――宮本武蔵なのだから。
「くッ……」
ベッ、と、最後の男は唾を地面に吐き捨て、肩に乗せていた剣をジャリン、と鳴らして、一つ払った。
開けちまったのは、とんでもねー魔天の蓋。そう思った。ヤキが回ったというには迂闊過ぎた。
じわりと、頭巾の中の頭皮に、無数の針が突き立ったような感覚に襲われる。
男とてこの世界、短くは無い。だからこそわかる。赤ん坊と大の大人。憶万に一つの番狂わせすら起きぬ。そういう次元の力の差。
心境は、蛇の巣に投げ込まれた蛙。がんじがらめの、リアルな死の恐怖――――――
「怯えていたとしても」
「……っ!!」
あとひとり――――ただ一人未だ得物を持っている最後の敵に、武蔵は構えを取らず歩み足でにじり寄る。
その一歩だけで、肺が潰れた。
そう、錯覚した。
「決して、命乞いだけはするな」
瞳孔が開く。それに、その赤毛の大男が映り込む。
涼しい顔、そう、ひたすらに――――――涼しい顔だった。
「どうせ、生かすも殺すも俺の勝手だ」
武蔵は表情は一切変えず、首領が自分の間合いに入ったのを見計らうとゆっくりと剣を掲げ、その頭蓋へと一閃した―――――――
「う………………うお、ぉっ……!!」
呻きにも似た搾られた声を発する。首領は一寸も微動だに出来なかった。少しでも身じろぎすれば、目の前にある刃で傷ついていたことだろう。
放たれた武蔵の剣は頭頂で止まり、血も出さず、髪の毛すら損なわせなかった――――ただ、男の頭巾だけが真っ二つにされ、はらりと頭から舞い落ちていた。
武蔵が刀を引く。男は腰を抜かしたように、へたりと座り込んだ。
「約束だ。付いてきてもらうぞ」
周囲は武蔵の剣に圧倒されしばし水を打ったように静まり返っていたが、武蔵が一言云うとそれに反応し、どっと力が抜けおちる様な溜息の音がして、一様に兵たちが収縛を始めた。
武蔵は抵抗の様子もなく冷や汗を浮かべた顔で呆然としていた三人を一瞥して、すっと踵を返した。
「すまんな。勝手に兵を動かしてしまった」
武蔵は持っていた直剣を地面に突き刺して、空にしてあった自分の馬に跨る。
「かまわないわ。それより……どうやってあそこまで極めたの?」
華琳は隣に馬を合わせた武蔵に、敵だけでなく統制された華琳の精兵すらも一瞬で呑んでしまったあの絶妙の技の由来を尋ねる。
「あんなもんは、六十過ぎりゃ誰でもできる」
だが武蔵はそれにはっきりとは答えず、フッと低い声で笑い、冗談めかしてそう言っただけだった。
「……あれがあなたの言う王の裁決と言うものなのかしら?」
華琳が言う王の度量とは、先ほどの話との絡めての今回の武蔵の処遇だろう。
此度武蔵は一滴の血を流すことなく事を終結させたが、それは先ほど武蔵の説いた王の条件に適っている。
人を傷つけるべき戦いの場において敵を生かす――――その矛盾を実行した武蔵の思念を、華琳は一人の王たらん人間として聞いておきたかった。
「そんな大層なもんじゃねえ。あくまでそれは理想論だし、毎度あんな戦い方ができるとも限らん。ただあの場で勝ったのは俺だから、あいつらの命は俺のものだ。お前の裁断は、しかるべき所で下せばいい」
武蔵は確かに先刻「不殺の境地」を語り、今回それを体現する形になったがそれは武蔵にとっての本質的な理念ではない。
戦いの勝者となった時点であの場で相手を殺傷する必要がなかった――――もっともそういう状況に持って行けると確信していたからこその今回の戦法であるが、その上で殺すよりは生かした方がいい、と判断しただけのこと。もとより治世者としての罪の裁断は武蔵でなく、華琳の元にあるべきものなのであろうから。
武蔵は力なき正義も根拠なき慈愛も説かない。今の戦いは「傷つけずとも勝てる」という所まで技を極めた武蔵だからこその戦いぶりなのだ。
『生かすも殺すも勝者の自由。敗者の命は勝者のモノ』
武蔵にとって戦いの原点とは「勝ったものがすべて」という所に帰結する。
人を活かす云々ということは、あくまでそれを越えた上での話なのである。
「でも、刀は抜いたらあとは斬るだけなんじゃなかったの?」
「俺は抜いてないだろ?」
くくっと、喉を鳴らす音が聞こえる。
「抜かずに勝つのもまた剣よ」
武蔵は華琳から手渡された自分の刀を受け取りながらニヤリと笑う。
華琳もそんな武蔵の顔につられてため息交じりに笑った。
「それって詭弁じゃない?」
「男ってな、言い訳しながら生きて行く生きもんなのさ」
はぐらかされた格好の華琳ではあったがその胸中は決して不快な色をしていなかった――――
今のそこは彼女特有の、得がたき才に出会った時に感じる爽やかな高鳴りで満ちていたからである。
「ここら一帯を根城にする盗賊団……? いや、俺たちは知りやせんぜ」
「貴様等ァ……この期に及んでまだとぼけるつもりかッ!!」
「ほ、本当でさぁ!! 俺たちゃ黄河の沿いから流れてきたもんで、この辺りの事は知らねえんですよ!!」
ここは、陳留、政庁。陳留刺史、曹操こと華琳の本拠である。
武蔵が下手人である三人組を捕えたので春蘭、秋蘭の隊を含む分散した兵と合流し帰還した次第だ。
そして華琳ら首脳陣が直々に尋問を行っている所なのであるが、どうも話が食い違っている。
聞けば彼ら三人、華琳の追っていた賊とは関わりが無いのだそうだ。
「その黄色の頭巾はどうなのだ? ただの賊ならそんな目印のようなものは被るまい」
とは秋蘭の詰問だが、
「やあこれはなんつうかその……個人的な趣味といいますか譲れないものがそこにあるといいますかなんといいますか……」
とのこと。
所々要領を得ないところもあったが大雑把に三人が言うことをまとめると、彼らは流れ者の野伏のような者でその日暮らしで追剥や略奪行為を行ったり、行き場に困ると各地の賊等のはぐれ者の食い扶持のありそうな集団に付いたり離れたりして各地を流れてきたのだという。
「……どうします? 華琳様」
「そうね……」
彼らの言葉を信用するなら華琳の目的である古書の存在など当然知らないであろうし、その罪も華琳の治める区域で起こしたものではないため、華琳が決裁することも出来ない。
「春蘭の雷鳴り声でも何も出んのだから知ってる事はもう打ち止めなんだろう」とは武蔵の弁だが、確かにこれ以上叩いても埃はでなさそうである。
「武蔵、あなたに任せるわ」
「うん?」
「華琳さまッ!?」
華琳の命に春蘭と武蔵が目を丸くする。特に春蘭はただでさえ大きな目を飛び出るほどに見開いているが。
それもそのはず、今しがた抱えたばかりの武蔵に、今度は捕虜の処遇も任せるとはまた突飛な発案である。
先ほどの尋問の席と言い、今回と言い、武蔵の知っている曹操も史書から人を振り回す性質の人間であることがうかがい知れるが、彼女もその例に漏れないようだ。
「戦いの主であったあなたの裁量に委ねましょう。それとも春蘭は私のお願いを聞いてくれないのかしら?」
「うぅ……」
「ふむ……」
武蔵は右腕を袖から引き抜いて懐から出し、髭の伸びた顎に手を当てて考え始める。
華琳はそのシャリシャリと音を立てる無精髭にやや顔をしかめた様だったが、ほどなくして、
「よし、お前ら。逃げていいぞ」
「はあ!?」
「へっ!?」
その提案に春蘭はさっきよりも大きな声を出し、審判にかけられていた三人も素っ頓狂な声をあげた。
秋蘭も虚を衝かれた様に顔をこわばらせ、華琳だけが何か察しているように不敵に笑みを浮かべている。
「えーと……何も御咎めなし……ですかい?」
「ちょっと待て!! そやつらは華琳様に剣を向けたのだぞ!! それをわかって言っておるのか!?」
「陳留の法じゃこいつらは裁けんと華琳も言っただろう。俺の懐加減の裁量なら、何か物申す理由もない」
三人にとっては死罪も覚悟していただけに青天の霹靂であろう。
法に元付いていると言っても所詮はお上の気分しだいで決まってしまうのがこの時代の裁判だ。
ただでさえ自分たちは法に背く存在であるし、今回は官軍に直接刃を向けた上での裁きである。
なによりも、その気になれば先刻この男を引剥しようとした事だけでも十分罪に出来るだろうが、この男は先ほどからそこはぼかしている。
「武士の心構えとは、何だと思う?」
「へ?」
「それは、人を殺す事だ」
その場にいた一同の表情から、ぽかん、という音が聞こえた気がした。
武蔵のみが、涼しげな表情である。
「武士だの武人だの、そう嘯いている人間には、命懸けである事が誇りだと吹聴して回る人間がいるが、そんなものは別段、武に生きるものの専売特許でも何でもない。農民は死ぬ気で畑を耕すし、坊主は死ぬ気で念仏唱える。女は恋に死ぬ気になる。そんな中、武人だけが死ぬ気という奴になって、それだけで満足して良い訳が有るまい。武の道とは、あくまで勝つ事だ。主君の為、家族の為、自分の為、何であれ、な。死んで満足、など、片手落ちも大概だ」
武蔵はしゃがみ込み、手を付いて跪いている彼らと目線の高さを合わせる。
ぎょろりと向く琥珀色の双眸が、彼ら三人に思わず生唾を呑ませる。
「だからこそ、“人を殺す”からには、最後までそれに徹さねばならん。農民は田畑を耕す事を止める事は出来んし、商人は商いを止める事は出来ん。ならば武人も、一旦、剣を持つ生き方を選んだならば、勝つまで剣を手放してはならん」
命乞いをして、途中で降りる事ほど無様な事は無い。また、自刃だの玉砕だのというのも、片手落ち。それには何の意味も無い。あくまで、勝つ――――――その努力を、命ある限り続けなければならない。
生き延びる事、あるいは美しく死ぬ事、それそのものが目的となっている輩が居るが、それでは駄目なのだ。あくまで、それらの手段は“勝つ”事のために費やされねばならぬ。
その結果、例え田畑を失い、店の暖簾を失い、誰かに斬られて果てようとも、それを受け入れなければならぬ。
そして、その道程でどんな憂き目を負おうとも、命続く限り、その生き方を止めてはならぬ。それこそが、真の意味での“命懸け”であると、武蔵は言う。
「例え、身も心もガタガタ震えて、怯えきっていたとしても、胆の底ではそれを覚悟しておかねばならぬのだ。だから、それが出来ていたお前らは偉い」
口元で笑い、着物の袂から、ジャラジャラと音の鳴る三つの巾着袋を出す。
「お前らの様な人間が、未だ、天下には散らばっているかも知れん」
そしてそれをそれぞれ、三人に一つずつ手渡した。
中身は、銀だ。
宮本武蔵は、生涯、金に困った事がなかったという。常に金を蓄えており、晩年には気に入った人間に、よくこうやって銀の詰まった袋ごと、旅の手向けにくれてやるという事をしていた。
「それを手繰れば、どういう人間が集まるのか、楽しみだ」
「しかし甘いなお前は。そんなことでは到底この乱世を渡っては行けんぞ!!」
「はっはっは。そうかね」
「そうだ!!大体将と言うものはだな……」
武蔵と春蘭が、なにやら騒いでいる。武蔵はカラカラ、笑うのみ。
「……華琳さま。よろしかったのですか?」
「何がかしら?秋蘭」
談笑に花を咲かせている武蔵と春蘭から離れて、秋蘭がそっと主君に耳打ちする。
「もしあの三人が兵を募って帰還したとすれば……それは華琳さまの兵ではなく、宮本の兵ということです」
三人が恩に応じて募兵してきたとすれば、その信は華琳の元というよりは、実質的に助命を為し、金銭の支援をした武蔵の元にあるだろう。
また秋蘭は知らないが、三人には武蔵に罪を見逃してもらったという義理もある。
それは曹操軍の中に居ながら、独立して動く武蔵の私兵のようなものである。そんなものを抱えては後々禍の種にならないだろうか。
華琳の懐刀たる夏侯淵秋蘭が懸念するのは、そういう所である。
「なるほど。武蔵がそれを使って何かよからぬ事を企むかも知れないと?」
「……あるいは」
秋蘭の顔は相変わらず険しいままだったが、華琳は先ほど見せた不敵な笑みを浮かべて秋蘭を見上げる。
「そういう心配事も不穏な兵も、すべていっしょくたに抱えて呑み込むのが、天下の士たる度量ではないかしら?」
どこかで聞いたような言い回しで華琳は言う。
たとえどんなものでもその器に取り込み、治める。それは華琳の描く王の姿にも通じるところがあったのだろう。
「……それに、あの男はなかなか面白いかも知れないわよ」
なにやら騒がしく春蘭と話し続ける武蔵にそっと眼を向ける。
漂々と掴みどころなく、その実態もいま一つわからない――――が、垣間見た「誇り」は紛れもなく本物。
誇りの意味を知っている男。故に、信義に報いる方法を知っているその男。
「おう、ところで華琳」
「何よ?」
噂をすれば影、と言うが、武蔵が不意にこちらの方に振り向いた。
「“軍資”の賄いなら利いたりせんか?」
そう。先ほど武蔵が渡した路銀は個人的な施しのほかに、勢力のための募兵の資金という意味も持っている。
つまりそう考えるなら公費から出る、という考えも出来なくはないが――――
「あら、あれはあなたの懐加減の裁量でしょう? 主のあなたが賄いなさいな」
「……やっぱり?」
あいにく、曹孟徳はそこまで甘くはないらしい。
不思議な空気をまとった、滅法強いこの男。小さい身体に機知を詰めた、器の大きなこの少女。
「そうだ。まだ一つ聞いてなかったわ」
「何を?」
「丸腰で挑んだのも戦略の内? 油断を誘って挑発に乗せるための――――」
「いや……まあそういうのもないこともないが」
武蔵は意味ありげにふっと首を振って、華琳の空と同じ色をした瞳を見つめた。
「報いるもんには報いるさ。言葉より態度、だろ?」
「……いいのよね? そう考えて」
「ああ」
「そう。なら――――歓迎するわ。武蔵」
本来なら、決して巡り合う事の無かったこの二人。
それぞれ真名と刀に誇りを託し、預け合う儀式を真に交したこの二人。彼らがどうなるのか、それを知るのは、恐らく、この広大なる蒼天のみである。
ものすげ~眠っ。寝るっ!