反董卓連合編・四十八話――――――「絶人」
背の向こう側の馬車の盾になるような構図で、男は立っている。
周泰はある程度まで近づき、背中の柄に手を添えて、深く構えながら、その男を観察する。
やや、遠間より、相手が剣を振っても打ち込んでも、あるいは一足進んでも、いずれでも対応できるという間合いから。
まず、周泰の眼についたのは、その長い得物。自らの太刀も長いものだが、あれはそれより、さらに長大。
「……これは、貴方がやったものですか」
くっきりと、なにか、結界の様に分かたれた赤い線。あの男は向こう側、そして、自分達は此方側に居る。まるで、何事も無かったかのような、静かなあちら側に対し、自分達の踏んでいる、此方側は地獄絵図だった。
刎ねられた頸、腕。あるいは、深く斬り込まれた胴や脳天、あるいは目、あるいは米神、眉間の急所。すべての骸が、一太刀か、多くても二太刀で仕留められている。
奇妙だった。
その切り口が、あまりに見事過ぎた。切り口から覗く、脳や臓器、血管や骨や筋肉、それらすべて、はみ出したり千切れたりせずに、綺麗に納まっていて、断面は、整い過ぎて逆に不自然な程に、皮に肉に“中身”が、すべて、滑らかに切り揃えられていた。
奇妙だった。
彼女の知る、およそ戦場、修羅場というものは――――――
こんなに見事で、整っていて。美しいものではない。
……ふと。
胴から斬り落とされた、転がっている生首と眼が合った。確かに、眼が合った。
切断され、首だけになって土の上に横たわっているそれは、確かに周泰の眼を見て、ぴく、ぴく、と、二度ほど瞼を痙攣させて、睨む様な眼光を渡して来た後、やがて焦点は外れて、死んだ目になった。
「……!!」
ぞわりと、寒気が襲った。背筋が泡立ち、弾かれたように、顔を再び上げた。
たゆたうような黒い髪、同じ濡れ烏色の、まどろみの瞳。象牙から彫り起こした様な、完璧な容姿。
美しかった。
返り血一つ浴びていない。濡れているのは、切っ先の一尺のみ。そこだけ、銀色の上に、鮮紅の血脂に塗られて光っていた。
赤い線と、太刀の一尺と、それより向こう側の土を踏めた者は居ないのだろう。
屍山血河の向こう側に、涼やかに佇んだ、返り血一つ浴びぬ、綺麗な男。
まるで其処で世界が分かたれたように、不自然で、不気味で、それでいて、完成された一つの絵だった。
「…………」
ちらり、と、警戒は解かぬまま、再び視線を下にやった。
転がった首、その目は確かに、何も映さぬ。死んだ目だった。だが、確かに生きていた。
色の無い眼で、だが、確かに、こちらを見ていた。
生きながらに、殺されていた。あるいは、殺されながらに生きていたとでも云うべきか。
――――――どれほどの、冴えで。
どう刀を振るえば、生身の“ヒト”を、あんなふうに斬れるという?
「お前たちは」
ふと、薔薇を溶かした陶器のような唇が、言葉を紡いだ。
「俺を殺すのか?」
ぼそりとした呟き。それにすらも、語気に澄んだものが湛わる。
海の底を、さらさらと流れる様な響き。
「越えるか、越えぬか」
すっ、と、自然体でぶら下げたままだった切っ先を、此方側へ向けて来た。
ゆったりと、しかし、流れるが如き動き。
まるで、線を。その紅の線を、なぞるように。
「好きにしろ」
ピタリ、と、周泰の鼻先、その延長上に、切っ先が止まった。
地に引かれた、赤い線。その向こうの、血みどろ。
そこに侵入した、真っ赤な一尺の切っ先。ぴったり、一尺分だけ、二つの赤が重なる。
――――――越えるか、越えぬか。
「…………」
ジリッ……、と、二人をして間合いを計りつつ、近づく。
数の上では、二対一で此方の利、だが、まるで優位に立っている気はしない。
体重は、前足と後ろ足でほぼ五対五、直立に近い。構えと言えば、無雑作に近い、片手を遊ばせ、右手だけで斜に構え、切っ先を此方に向けている。
ただ、立つ。そんな構え、だが。
それを崩せる気が、全くしない。
「…………」
あの切っ先、どう飛んでくるか。
まるで、読めぬ。
二人が左右に広がる動きを見せても、あるいは前後を入れ換えても、揺さぶられる気配すら見せない。
袖の中に仕込んだ得物に掛ける、祖茂の指が、汗でじとんだ。
あの、漆黒の瞳。魅入られる様な、美しいそれ。
こちらの全てを、見透かしている様な。
それでいて――――――
何も見ておらぬような。
「…………ッ」
呼吸が、浅くなっているのを感じる。
否、これは弾みか。
周泰は、自分の肺の底が、上擦ってせり上がっている様な感覚を覚えた。
いつもよりも、空気が身体に入っていかない。
その原因は、恐らくは焦り。
相手が隙を見せぬ、という焦燥が――――――
逆に自らの調子を狂わせていく。
「ふッ!!」
一足。腰を沈め、収めた太刀の柄に手を掛けた構えのまま、一息に間を詰める。
間合いを計らせない、刀身を背に隠したまま送り足で間を詰め、速度に乗ったまま斬り伏せる、彼女得意の型。
動かず、膠着する空気の中、動いたのは、周泰。
「明命ちゃんッ!」
否、動かされた、というべきか。
慎重に機を読んでいた祖茂が、はっとして叫ぶ。
動かぬならば、自分から出る。留まった流れを、自ら変えに行った。この場で最も若い周泰が。
勇敢に見える。だが、それはその実、焦れての事。
相手は崩れる兆しを見せず、なのに、調子の狂ったままの運足には、一分の粗さ。
――――――故に、その飛び込みは、一瞬だけ遅い。
一手の詰めの甘さ。それは時に――――――
結果の上では、絶対の差として現れる。
「っつ!?」
パッと、目の前を、真っ直ぐに一筋の線が過った。
光った様にも見えた。唐竹割りに通っていった軌跡のカマイタチが、周泰の前髪を巻き上げ、赤い雫が、数滴、額に飛び散った。
「……!!」
振り切られた、それが佐々木小次郎の打ち込みだと認識するのに、一瞬の間が必要だった。
飛び込んで来る周泰に合わせ、体重は移動させぬまま、左手を軽く添え、打ち込んだ。
――――――反応、出来なかった。
それほどに速く、無駄なく、淀みなく。
眼で捉えた時には、既に振り切られていた切っ先が、切り上げの頂点の位置で翻っていた。さながら、燕の切り返しの如く。
周泰は今、反応できない。脇に居た祖茂の片足が、地面から離れる。
飛燕の太刀はその間に、先程と全く同じ軌跡を、真っ直ぐに往復していった。
「不用意にして、無防備。だが、当然だ」
佐々木小次郎の両脚は、その場から一歩も動いていない。直立のまま振るわれた備前長船兼光は、周泰が動けない間に、二度、翻った。
「……ッ」
切っ先は、周泰の鼻先。赤い線から、ぴったり、一尺。周泰の脚は、それより一寸ばかり手前。
――――――越えてはいなかった。
「自分より速い相手に、出会った事など無いのだろう」
周泰の手は、未だに背の柄。はばきが鞘から覗いていた。
汗が、滲む。
身動ぎすれば、恐らく此処で死ぬだろう。
「大切にしろ」
黒い瞳と、周泰の視線が交錯する。
切っ先が引いた。
「どうせ、あと何十年も持たぬ命だ」
「出せ、文和」
「ちょ、何よ、急に!」
合図も無しに、ばさりと馬車の天幕をくぐって、長身を折り曲げて馬車に乗り込む。
賈詡に抱かれるようにしていた董卓が、びくり、と身を震わせたが、敵ではなく小次郎だと気付くと、やや安堵した。
小次郎は気にする事もなく、やたら壁に寄っている賈詡と董卓の開けた空間に、ゆったりと腰を下ろした。
「物干し竿の血が固まる。早く出せ」
「出せって言ったって、何処よ!?」
「何処でも良い、街だ。早く手入れをせねばならん」
「簡単に言ってくれるけどねえ、この状況で郊外に脱出すんのがどれだけ大変か、あんたわかってんの!?」
「知らん。露払いはした。いいから出せ。留まっていると、また捕まるぞ」
「あ~もう!」
不躾な物言いに賈詡が声を荒げるが、すぐに馬車の引き手に指示を出す。鞭の唸る音が空気を裂いて、車が揺れ始めた。
「……ねえ、あいつらは良いの?」
「これ以上、人を斬ると、刃がいかれる」
窓からちらりと外を見遣ると、二人の敵が外に残っていた。
不審に思って聞いてみるが、随分と個人的な返答が返って来て、賈詡はぶすりと眉間に皺を寄せる。
「未熟さが、命を救うという事がある」
「何?」
「抜かなかったのは、若さ。体に漲る若さ故。勢いゆえの粗さと、己の速さに対する過信が、不用意な一足を生んだ。そして、その不用意さ故に――――――奴は刀を抜かずに済んだのだ。だから俺は、奴を斬るまでもなかった」
「はぁ?」
「最初から俺を自分より速いものと見做し、刀を抜いて警戒するだけの慎重さと、もう一呼吸待つだけの懐の深さを持ち、その上で飛び込んだのならば、俺は奴を斬っていただろう」
「…………」
「少し、寝るぞ」
また、唐突にわけのわからぬ事を言い出した、と、賈詡が訝しい顔を作った。
気にせず、小次郎は頭を壁に預けて眼を閉じた。
馬車は滞りなく、戦場から遠ざかっていった。
「申し訳ありません、花蓮さま……」
「気にしないの、明命ちゃん。生きててよかったわ」
「ですが、私の迂闊さで、みすみす大魚を逃してしまいました……」
「あなたが死んじゃったら元も子もないじゃなぁい。あの馬車にホントに董卓ちゃんが乗ってたかどうかなんてわかんないんだしぃ」
「でも……」
「いいの。とりあえず、最低限の工作任務は果たしたんだからぁ、今回はそれで良しって事にしときましょ? 妥協って大事よぉ、結構」
馬車が立ち去った後、しばらく呆然としていたが、呼吸が整い、冷静さが戻ってくると、ずーん、と、周泰は暗い表情を作っている。
温和で明快な気質だが、生真面目な所があり、過ぎた事を引き摺る傾向にある。
祖茂は、あっけらかんと笑いながら、戦場の跡を見遣ると、転々と装飾品や宝物が散らばっているのが目に付いた。
恐らく、あの馬車は逃走するうちに、先程の一団に捕まり、それをあの男が撃退した、という所か。あれらは、襲撃を受けた際に落としていったものだろう。
回収もされず放置されているのは、翡翠などの宝石や、陶器の食器、金縁のつづらからひっくり返っているのは、貴人の服か。
周泰には、董卓とは限らない、と言ったが、これらの品々の質の高さと、護衛であるあの男の腕前を考えれば、恐らく……
――――――だが、それは云っても栓無き事。
今度は後ろを見遣る。
惨劇と言っていい、夥しい死屍累々。塗り固められた血。二十人は斬られているか。
じっくりと慎重に間合いを量っていても、あれほどの遣い手を崩す事は不可能だったろう。
睨み合いのまま膠着している間に、馬車の方に逃げられてしまえば元のもくあみだ。
何より、戦慄したのはあの、速さ。
周泰と自分の二人で持ってしても、結局、掻い潜る事は出来なかったろう。
「……」
足元を見遣る。赤い線。
これを越えていれば――――――自分達も、この肉片の中の一つになっていた筈だ。
それは避けるべき。この戦は、何も命を捨ててまで重要視せねばならぬものではない。
(あくまでこの戦は、中央政府の反董派と董卓との争い。孫家にとっては代理戦争に過ぎない。ならば、この場は五分に分けておけば充分……)
被害が零であったなら、それだけで収穫。
そこまで考えて、祖茂の頭に、最強の外交札である「董卓の身柄」が過るが。
(……欲張れば、きりがないわねぇ)
視線を宙に移し、ふーっと溜息を吐くと、思考をそこで結論づけた。
「帰還しましょ。これだけ働けば、この場はもう充分よぉん」
「……はい」
未だに顎を引いて、視線を落とす周泰の肩をポンと叩いて、祖茂は歩き始めた。
(……?)
――――――ふと。
偶然、それは本当に偶然だったが。
董卓が落としていったと見られる宝物。華美さは埃に煤けて見る影もなく、繁雑に散らかされていったその中の、錦で仕立てられた巾着袋が目に入った。
「ッ!! これは…………」
祖戊が、にわかに目を見開いた。
“命を天より受け 既に寿くして 永く昌んならん”
中を開いて取り出された龍をあつらえた印章には、その文言が記されてあった。
――――――同刻・虎牢関。
「戦況はどうなってる!?」
「はっ! 張郃・高覧の部隊は左右に展開、伸びた敵騎兵の後続を挟んで締め上げております! しかし、これらを突破した先鋒の勢いは緩まず、連合軍の各陣を破りつつ、なおも侵攻中!!」
「各軍の指揮官は!?」
「それはまだ、発見できず……」
「一刻も早く捕捉せい! 速さと破壊力でもって、こちらが迎撃態勢を整える前に決着してしまうのが奴らの戦法だ! 思う壺に嵌ってはならぬ!!」
淳于瓊の怒号と手の合図が、兵を動かす。
しかし、ここで、総的兵力の利という点が裏目に出る。大軍ゆえの指揮伝達の鈍さと、混成軍団ゆえの意志疎通の拙さ、明らかに、激しい騎馬の機動力に対応しきれていない。
歴戦の猛将に、焦燥が浮かんだ――――――その時。
高台のすぐ近く、本陣に肉薄する一角の陣が、轟音とともに突き崩された。
「俺をお呼びか? オンナじゃなけりゃあ、お断りだが――――――良いぜ! 特別にな!!」
ばッと、振り返る。同時に、傍らの得物、愛用の戟を携える。
冀州が誇る勇卒を一瞬で屠った、一陣の黒い風。すでに骸を置き去りにし、本陣の守りなどあらぬが如くの進撃、袁紹の据わる司令部に怒濤の勢いで駆け上がって来た、傲慢なる暴威。
董卓軍の鬼将・李確。脇を固めるのは、郭汜・徐栄。
血で血を洗う、涼州の餓狼たちが、鉄血の竜騎を駆り従えて、連合軍の喉元に襲いかかった。
現在書いているのは、源氏物語で言えば末摘花的な部分。
一番目立ってるのはアニキかな。