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反董卓連合編・四十四話――――――「志、千里」



神龜雖壽。猶有竟時。騰蛇乘霧。終為土灰。驥老伏櫪。志在千里。

烈士暮年。壯心不已。盈縮之期。不但在天。養怡之福。可得永年。

幸甚至哉。歌以詠志。


「志在千里」


温き卯月の風香る、陽を弾く緑の中に融けていく言ノ葉は、東漢末期発祥、建安文学の傑作。

曹操作、歩出夏門行の一節。

軒先の老翁が紡ぐその声は、涼やかに流れる、清水のような色。


「良い詩だな」





さらさらと揺れる髪、風にたゆたう。

殆ど白髪である中に交じる黒が、元々はそれが黒髪であった事を示している。

細く、年取った髪。

老人の眺める庭は、見事であった。調和の取れた庭石に小池、柔らかく、包む様な大樹。

その身は非常に長身であり、そして、小さく、細かった。

老いていた。

美しい、灰色の翁。軒の梁に、身体を預けて座っている。その佇む姿は、ゆるやかで、静かだった。

まるで自身も、その景観のひとつで在るかの如くに。


「…………」


佐々木小次郎、旧名、富田小次郎という。

日ノ本五指に入ると言われた稀代の名人・富田勢源の末子であり、父の弟子、鐘巻自斎に剣を学ぶ。

十三の齢にして中条流を極める。その剣才は並外れ、自斎の元に居た頃より、腕前は既に絶人の域であったと言う。

やがて自流を名乗ると、尚武の気風で知られた細川家に招かれて指南役に付き、後に豊前の豪族・佐々木氏の女を娶り、一門となって、佐々木姓を名乗った。


「小六よ」


老人が、畳みの上に正座した若者に、ふと声をかけた。

振り返る。ゆっくりと。


「お前は、どんな詩が好きだ?」


海の底を流れるような声が、耳に届いて来た。

長い白髪が顔にかかった、小次郎はそれに構う素振りは無い。

そちらを向いた小次郎の顔。刻まれた皺が歳を感じさせたが、その容姿は、まるで彫刻に血を通わせたかの如く、完璧な造形をしていた。

しかし、その眼は、小六と呼ばれた若者の、精悍な顔を真っ直ぐに捉えている様で、捉えていない。

漆黒で在るべき筈のその瞳は、灰白色に濁っていた。


かつての神童・佐々木小次郎。

年月は、ある一人の天に愛された少年を、古今、不世出の達人へと変えたが、やがて、その力を全て奪った。

彼の父、富田勢源は類稀なる剣才を持ちながら、僅か三十半ばにして、眼病により失明した。

その血を色濃く受けた彼が、その天稟と供に眼の患いを継いでいたとしても、それは宿命というものであろう。希望も憂いも、彼は合わせて受け継いだ。

否、そうでなくとも――――――彼は既に、齢五十を数える老人なのだ。


小六は、ぐっと目を凝らす様に、眉間に皺を寄せる。捉えた手首、肩、身体の線は、まるで枯木の如く、細い。

見えなくなった、眼。

衰えた、骨。

老いた、肉体。


「……」


佐々木小次郎。

天才と呼ばれ、やがて羅刹となり、修羅として生きた男。

間違い無く、ある時点に置いて、この天上天下の、誰よりも強かった男。

その身体に、今、どれほどの力が残っているのか。

それを思うと、自分の好きな詩を答えようとして――――――

答える事は、出来なかった。





「…………」


返事が無くとも、小次郎は咎めない。正面に顔を戻し、佇む。

といっても、何かが見えているわけではない。その視界は、恐らく闇だろう。小次郎は何も見ず、縁側の風を顔に受けて、ただ静かに、佇む。

たおやかに流れる時間、その緩やかな時間の、体現者の様であった。


「……」


小六は顔をしかめる。苦渋の顔。

その裏に、ある一つの決意があった。


豊前佐々木氏は、本姓を副田といい、遡って鎌倉時代に端を発す土着勢力である。

古くは田川郡副田庄の支配者であり、文保元年(1317)に、台頭して来た島津氏に地頭頭の座を奪われるものの、その後も長きに渡り、有力土着勢力として九州に居座り続けた。

秀吉九州攻めの際には島津家に付いて岩石城に立て籠り、毛利の治世となると、一揆を起して岩石城に籠城、と、時の政府に対して常に何らかの行動を起し続けてきた一族である。

そして関が原以降、新たな豊前小倉の統治者となった肥後細川家にとっても、在野に在りながら諸領内で隠然たる影響力を持つ、この土着豪族の存在は悩みの種であった。

そして、細川家武芸師範・富田小次郎が佐々木氏から妻を娶り、佐々木姓を名乗り始めると、元から微妙であった雲行きが、にわかに怪しくなってくる。


「…………」


細川家中に置いて、厳流の門弟は実に百を超える。小次郎はその宗家である。

小次郎は三十余歳で細川家に召し抱えられて後、忠興の護衛附きを務めた頃を挟んで、既に二十年近く指南役として籍を置く、今や武芸指南の中でも最古参・筆頭の師範であり、その派閥も家中勢力に置いて、無視できぬものがあった。

無論、小次郎自身が、それを意識したか、せぬかは、定かではないにせよ――――――

丹後・宮津城主時代より、慶長四年の光成襲撃、翌年の関が原決戦と、共に修羅場を潜った、この古馴染みの老剣士が、騒乱の種になりかねない在野勢力と接近しているという事情に、忠興が猜疑をかけたとしても、無理からぬ話ではあろう。


そんな折に、他ならぬ忠興自身の提案により、ある決闘の話が浮上した――――――剣聖・佐々木小次郎の絶技を、是非、今一度、真剣勝負の場で観たい、というのである。

そもそも、失明を理由に小次郎を一線から退かせ、後進を育成するべくとして、護衛役から指南役への役替えを命じたのは、他ならぬ忠興である。その忠興が、今更になって、唐突に小次郎の戦いを見たいという。

――――――その意図は、あからさまな程に明らかだった。

佐々木小次郎を、殺す為。

決闘に託けて、小次郎を亡きものにせんとする目論見が見え透いていた。

才気煥発にして、冷酷で知られる細川忠興である。たとえ二十年来の戦友であろうとも、障害となれば抹殺する事になんの躊躇いもない。

まして、小次郎を排除する事が出来れば、かねてから細川家に反抗的な佐々木氏の勢力を一気に減退させる事が出来る。

佐々木小次郎を繋ぎ役として、佐々木氏との融和を図る―――――などという悠長な発想はあろうはずもなかった。

敵は殺す。それが乱世を生きた大名の所作である。

当然、小次郎に近しい弟子達はこの無茶な提案に反発し、「厳流の技をご所望なれば、宗家に代わって自分が」と申し出る高弟も居たのだが、「そなた達は兵法の腕を持って細川に仕えて居るのに、その兵法比べに置いて、自らの師匠の技を信用しないのか」と封殺されると、それ以上の反論は出来なかった。

そうこうしている内に、小次郎自身が、決闘の話を承諾してしまった。


「…………」


小次郎は、変わらず佇む。それを包む、美しい春の庭。

小六の眼は、とてもそれを愛でるという様な眼では無く。


「……厳流先生!!」


険しい表情から、カッと目を見開くと、がばりと拳を畳に打ち付け、額を擦らんばかりの勢いで、身体を伏す。


「門下一同、魂魄を懸けての願いでございます!!」


背骨を伝って走った、凍るような感覚を、振り払う様に小六は声を張った。

――――――自分は今、敬愛する師の誇りを汚そうとしている。

武術の練達に身命を賭す兵法家に取って、最も唾棄すべき、侮辱に等しき要求を、弟子の身でありながら付きつけようとしている。

汗をかきながらも、頭からは、血の気が引いていた。

それでも、間近に迫った畳みの目を睨み、一瞬の躊躇の後、額を打ち付けて、舌を動かした。


「……何卒、何卒、此度の立ち合いだけは、お止め下され!!」


――――――この人を、死なせてはならぬ。

その一心で、口も腐る思いで、小六は早口に、それを告げる。

仕合を止めろという――――――それは、自らの師の勝利を疑っている、という事に等しい。

いうなれば、自らの師の剣を否定する事でもある。

だが、それでも小六は、小次郎を止めねばならなかった。


「この戦い、仕組まれたものである事は明らか。その上……」


此度の決闘、明らかに佐々木氏の排斥、そして小次郎を暗殺する為に仕組まれたものである事は明らかだ。仕合の行方がどうであれ、決闘に託けて、間違い無く小次郎は殺される。

勝てば良い、という問題では無い。仮に勝ったとしても、決闘に立ち合った細川藩士が、小次郎が再びこの下屋敷に戻る事を許さないであろう。

それほどあからさまでも、この催しが兵法者同士の腕比べという建前である以上、剣士の誇り、否、厳流門人全体の沽券に賭けて、避けるのは不可能であった。放棄すれば、厳流は逃げた、と罵られ、細川家に置いての厳流の立場は無くなる。どの道、巌流門下の立場は苦しいものとなろう。

だが、それに目を瞑ってでも、小六は小次郎を押し留めんとする。


齢五十、もはや、仕合どころか、剣を振る事すら難儀である筈の御身体、その上、眼も見えぬ。

しかも――――――細川忠興は、寄りにも寄って、最悪の対戦相手を用意したのだ。


「……相手はあの、宮本武蔵!!」


――――――宮本武蔵。

日ノ本の兵法家で、その名を知らぬ者は居ない。

各地で名だたる豪の者と立ち合いし、只の一度も敗北は無し。

柳生の高弟・柳生と大瀬戸、伊賀の宍戸をはじめ、いずれも世に知られた遣い手が、悉く武蔵に敗れた。

未だ二十七、八あたりの齢にして、既に最強の名を欲しい侭にしていた武蔵は、間違いなく、“今の”天下無双であると言えた。


あの吉岡も、武蔵によって倒された。

清十郎憲法、伝七郎直重の、京八流開闢以来、最高無比の遣い手と言わしめた宗家兄弟を相次いで連破し、憤り立った吉岡門人百余名をも逆に返り討って、かつての扶桑第一の名門を、完膚なきまでに叩き潰したという、伝説じみた血闘。

それがどこまで正しいかは定かではない、が、現実として吉岡は、武蔵との抗争で多くの遣い手を失い、清十郎に代わって、分家筋である吉岡重堅なる者を当主に据えたものの、かつての隆盛は取り戻せず、また、武蔵との抗争によって命を散らした者達ほどの技量の持ち主も、もはや残ってはおらず、兵法一門としては、今や過去の強豪となっていた。

いずれ、歴史の闇に埋もれるであろう。衰退するまま、後世にあの絶妙の剣技は、遂に伝わるまい。


――――――厳流を、吉岡に倣わせてはならぬ。

余りにも危険すぎる。この人を、師を、厳流を、むざむざ死に往かせるわけにはいかぬ。

小六の想いであった。


「何卒……厳流門下の心情を慮り……此度限りは、ご自愛下さいますよう……!!」


血を吐く思いで、言葉を綴る小六。


小次郎は、静かだった。

静かに、そこに在って、桜の花びらを運ぶ風に、頬を撫でられるまま、じっと瞑目している。


「――――――伊藤一刀斎は」


やがて、温い風と花びらに絡むようにして、静かなる声がそよいだ。


「剣士としての己を、全うして死んだ」


はた、と、小六が顔を上げた。

見遣る、我が師の表情は穏やかなるまま。


「――――――行くのですか?」


不意に、新しい声が流れて来た。

襖の方から、流れて来た美しい声。凛とした、女の声。


「行くのですね」


小六が、そちらを振り向く。立っていたのは、妙齢の美女。

肌は褐色に似た浅黒だが、薄絹の様に滑らか、切れ長の目には才気が宿り、柳眉には色気があって、唇は牡丹一華の紅を塗った様に紅く、すらりと背は高い。

趣のある美貌だった。


春雪(はるゆき)


小次郎には、その姿は見えない。だが、声を聞くと、そう呟いた。

はるゆき。

本来の名前は雪という、小次郎は自分の妻を、好んでそう呼んでいた。


「貴方は、剣士ですもの。どうしようもないくらいに」


小次郎より、二十歳ほど年下の美貌、たおやかに歩み寄って、小六に茶を出すと、もう一つの茶を、小次郎に出し、その傍で、同じように佇んだ。

庭の風が、ふわり、と、彼女の髪を揺らす。流れる様な髪が、桜の如く舞う。


――――――春の雪に似ているから。


詩を好む、小次郎らしい例えだった。

風に舞った髪を、小次郎が春に咲く吹雪に例えて笑ったのは、もう十四年も前。


「小六よ」


時の流れが、ゆっくりと進む。

小次郎と相対している時、そういう感覚が、小六には合った。


「馬は老いてなお、千里を欲し、燕は片翼になってもなお、蒼天を望む。何故だと思う?」


ふと、雪夫人が、髪をそっとかき分けた。

白と黒の髪が、風に交わって、互いに舞う。美しかった。


「それは、馬は馬で在り続ける事を欲し、燕は燕である事を、止めようとはしないからだ」


包み込む大樹、さし込む陽気、舞い遊んでくる花びら、気侭な風、湖面の様な婦人の眼差し。

生命の息吹が満ちていた。そうあるべき姿で其処に在る様に、老いた男も、また、其処に在った。


「春雪」


小次郎が、呟く。夫人は答えず、無言のまま、すっと、その場を立つ。

小次郎は、衣擦れの音でそれを察したらしい。表情が、僅かばかり動いた。

やがて、夫人は座敷の奥の太刀置きに置かれていた刀を腕に抱くと、そのまま戻ってくる。何でもない、日常そのままの動作で。

その刀は、長大だった。鞘に収まった刃渡りだけで三尺余り、柄頭まで含めれば、四尺を優に超える代物。

夫人が、抱きかかえる様に運んで来たそれを小次郎に渡すと、小次郎の表情が、少しだけ、安らぎに綻んだような気がした。


「こいつは、俺が使ってやらねば、何も斬れぬ。亡き父も我が師匠も、こいつを使いこなす事は出来なんだ。俺が使わねば、こいつは只の物干し竿」


備前長船兼光。

かつて小次郎の父・勢源が隣国の主、斎藤龍義に招かれて武芸を照覧した時、既に盲目であった。

その折に対戦した、神道流の梅津なる名人を、勢源は一尺二寸の薪で持って打ち据えたという。

越前に帰国し、その武勇に感嘆した大名・朝倉義景は、勢源にその長大なる業物を下賜した。

だがその長さ故に持て余され、勢源、鐘巻自斎と中条流の達人の間を渡り歩いたが、遂にその遣い手は現れなかった。

故に、無用の長物。斬れぬ刀、物干し竿。

小次郎の手に抱かれて、物干し竿は初めて、兼光となる。


小次郎も、又然り。

この長大なる得物を自在に振るえたのは、遂に小次郎、只一人であった。

厳流の門下には一身一刀の技の型こそ伝えられたが、燕返し、虎切と称されたその神髄、技の冴えを真に体現為し得たのは、小次郎のみである。

佐々木小次郎と物干し竿。

どちらも、一つ。当代限り、天下に双つと無きもの。


「重い」


緩慢にすら見えるほどに、彼はゆっくりと立ち上がり、庭に下りて、二歩ほど進む。

桜が舞っていた。

小次郎は、桜が好きだった。

花見と言えば梅と相場が決まっているが、小次郎は桜を好んだ。

春の卯月のひとときにだけ咲き誇り、瞬く間に散る、雪の様に儚い花を。

散る時こそが、最も美しいこの花を。


「氣が抜けていく。泥の様だ」


身体中から、力は無く。熱は無く。


「目も、もう視えぬ」


剣の軌跡を、その白く濁った瞳が網膜に通して捉える事は、二度と無く。


「だが」


散った花びらが、小次郎の揺れる白髪にまとわった。

(いろ)、鮮やかな、春の景観。小次郎の眼に、その温かな煌びやかさは、もはや、映らぬ。

痩せ細った背中。背負っていた兼光の鞘は、もう、その背には似合わない。


「だが、それでも」


それでも物干し竿は、未だ小次郎の掌の中に在り。

すらりと抜かれた刃が、ゆったりと空気を縫う。陽のきらめきを白刃が照り返し、風に交じってそよぐ様は、さながら、銀の蝶の様。


「この感触を、紛う事は無い」


ぴたり、と、その切っ先は、正眼に構えられる。その刃先に、舞い落ちる桜の花びらが重なる。

そこから片手のみで、刃を真上に翻して、小次郎は空を斬った。

ピウッ、と、真っ直ぐに走った、一筋の一閃。細い、枯れ木の様に痩せた肩と手首から、放たれた、それ。余分な挙動は、一切無く。

一瞬の静寂の後――――――花弁は二つになって、再び、ひらひらと、舞い落ちて行く。

それは、偶然だったのかもしれない。たまたま、小次郎の剣舞に巻き込まれただけの。


「俺は一介の剣士だ。見失う事は、決して無い。燕が空を飛ぶ様に、馬が大地を駆ける様に」


――――――散った桜が、戻る事は決して、無い。

だが。それでも。散った、花を付けぬ枯れ木だとしても。

美しかった。

彼は往くだろう。思惑でも面子でも名誉でも、後世の繁栄の為でも義務の為でも、恐らくは、生き残るためですら無く。


「ただ、佐々木小次郎は剣を振るのだ」


ただ――――――剣士、足り得んがために。

“活きる”為に、往くのだろう。



亀の命は永くとも、いつか潰える刻が来る。

昇り龍は霧に乗れども、ついには塵芥へ還る。

老いたる駿馬は、厩に伏し、されど尚、志は千里に在り。

烈士は暮年に至れども、その壮心は已む事無し。


片翼の燕は、捥がれた翼で蒼天を目指し。

枯れた剣士は、老いた背中で太刀の下へと赴くもの。

愛しき人も、淡い安らぎも。すべて、春風の向こう側に置いて行こう。

持っていくのは、只一つ。胆に抱えた志だけで良い。


盛きと縮きのさだめというのは、

ただ、天命のみには非ず。

歓びを養い、福に往けば、

永き生を得るべきなり。

幸は甚だしく、到れる哉。

さあ、此の充足と祝福を持ち、

高らかに志を謳いあげん。


桜花は誇り、乱れ、舞い散る。

春雪、春雪。吹雪けや、吹雪け。

牡丹雪の如く、儚い花よ。それが故に美しいのか。

果ての刻を迎えるまで、命が己、足りえんがため。





慶長十七年、四月十三日。関門海峡に浮かぶ、小さな砂州のような小島で、その決闘は行われた。

恐らくは、日本武道史上、最も有名な仕合である、舟島の闘い――――――


世に云う、巌流島の決闘である。


この戦いの勝利によって、天下無双・宮本武蔵の名は、後世四百年に渡り、語り継がれる事となる。

だが、一方――――――武蔵と戦ったとされる剣豪の素性は、ようとして知れない。

宮本武蔵を綴った文献、伝記、著書が数多くあり、存在そのものが日本武道の神の座にまで祭り上げられ、その流派である二天一流が今日まで継承されているのに対し、この剣豪の記述は巌流島の決闘に関する範囲でしか明らかになっておらず、その流派も断絶し、今や諸文献の端々に、それを匂わす微々たる記述が残るのみである。

この剣豪について、現在までに伝えられている確定事項は、たった二つしかない。

それは、氏素性、定かならぬ、小次郎という名の、厳流を名乗っていた男である事。そして――――――

巌流島にて宮本武蔵に敗れ、敗死した事。ただ、それのみである。






「力、山を抜き、気は天を覆う。時の利非ずして、騅、逝かず。騅の逝かざる、如何すべき。虞や、虞や。汝を如何にせん」


くっと、小次郎は杯を空ける。

例によって、水盃。


「董卓よ。王とは、悲しいな」


その声は、海の底で、さらさらと流れるようであり。牡丹雪のように、しとやかでもあり。

少しだけ微笑みを湛え、涼やかなる眼で董卓を見遣る。

その瞳は、美しく。

深い、深い、黒。


「覇王は逆らう者を鏖し、世の全てに憎まれて八つ裂きにされた。高祖はかつての功臣を次々と陥れ、粛清の血で固めた玉座に座った」


小次郎が語りかける、董卓は相変わらず、少しの憂いを帯びた表情で、じっと体面に座っていた。


「王とは、無数の怨嗟を纏いながら、厚顔な威容を誇って君臨せねばならん」


小次郎は相変わらず、たゆたうように、佇む。


「……垓下歌は」


ふと、しばらくの静かな時間が流れた後、董卓が控えめに、口を開いた。

玉の転がる様な、綺麗で、華奢な声。


「虞美人に対する、項羽の想いが伝わってきます。きっと、この人は優しい人でした。劉邦も和を重んじ、部下の言う事を良く聞きました。そんなに、悪い人じゃ無かったと思います」

「かもしれんな。だが、それはあくまで、項羽、劉邦の話だ」


すっ、と、優美な眼を少し、伏せた。

その意図がわからず、董卓が、小首をかくんと傾げる。


「人である彼らと、王である彼らは、不可分にして、別種のものだ。項羽は王を志した時から、捕虜を悉く生き埋めにする残虐な覇王となり、劉邦は人を欺き、姑息に立ち回って天下を盗む、薄汚れた高祖となった。だから、王とは、醜い。醜い役だ。そうでなくてはならない。本人の人格がどうであれ、な」


小次郎は、トクトクと水差しの中身を杯に注ぐと、再び、口を湿す。

これを机に置いていった賈詡は、奥の間で策の写しと、地図とのにらめっこを続けている。

彼女はもう、ここ二日ばかり、そこで寝起きしていた。


「王とは、後ろめたいものだ。白々しく、陰湿で厚顔で濁っている。そうでなければ、滅ぼされるからだ。そういう意味では、項羽はまっさらだったのかも知れない。己を誤魔化し切る事が出来なかったが故に、身を滅ぼした。劉邦は違う。人を騙し、へつらい、欺き抜いた。だから奴の王朝は生き残った。四百年もな。その年月の長さはそのまま、こびり付いた汚れのしぶとさだ」

「…………」

「王とは薄汚れており、百万の怨嗟を抱きながら、聖人君子の顔をして、民を導かねばならない。その役を演じられる者こそが、王足るものだ」


ふ、と笑う。

悪魔か、あるいは、天上人か。その美し過ぎる顔の作る微笑は、何故か寒気がする。


「胡人である董卓が、この漢人の創りし国の中央に坐る」

「……」

「それは、確かに、漢人以外を決して中枢に入れる事の無かったこの国の政治と、決して国の中枢に昇る事の無かった北方民族の歴史に風穴を作った。史上、胡人と呼ばれる民族が、これほどの強権を握ったことも、都の中央街を大手を振って歩いた事も無かっただろう。その点においては、確かに北方民族の地位は、暫定的にとは言え引き上げられたといっていい」


小次郎が、杯の中の水を揺らす。

彼はいつも、水杯。


「だが、それは結局、漢人を異民族が圧しやって居場所を作った、という事に過ぎぬのだ」

「……」

「肌の色を違うものを忌むという、輪禍の根底そのものを根絶やしにしたわけではあるまい。所詮は、為政者が挿げ変わったという事に過ぎぬ。それは、真の意味の改革とは程遠い」


揺れた水面が映すのは、小次郎の黒い眼か、それとも、董卓の瑪瑙の瞳か。


「そして、その革めるべき闇とは、今日まで……否、遥か後世まで、人間という生き物が、生まれながらにその血に持つ、ついに壊せぬであろう巨大な宿命である事は、疑いようもない。それを為し得る者が居るとすれば、それは恐らく、世の覇権を握る民族の主席に立ちながら、自らの血と肌を顧みず、その価値観と存在そのものを超越するような人間だ」

「……」

「そしてそれは、全人類の心に住まう観念を根底から引き剥がして一新し、それによって生じるであろう巨大なうねりを、一呑みにしてしまう器量を持った者でなければ務まらぬ役割だ」


静かな声、さらさらと流れていく。


「それは、董卓という娘の事ではあるまい」


コトリ、陶器の底と装飾の象られた机とが、交わって、音を発す。


「王とは、お前ほどに優しくはなく、お前ほどに小さくはなく。お前ほどに美しくはない」

「……」

「否、お前でなくとも――――――たった、一個人の中身に、そんなものを納めて御する事などが、果たして可能であるのかどうか」


そこまで語り、小次郎は背もたれに体重を少し預けて、ふっと、笑った。

董卓が中央に参政し、その独裁者にまで登り詰めた、何よりの理由――――――

それは、辺境の地に追い遣られた非漢人達の、解放と地位向上を目指しての事に他ならぬ。

しかして、董卓の台頭により、涼州人を中心とした北方系人種の中から、より多くの人士が中央政治に参加する事になり、中央の政府は漢人一辺倒では無くなった。このまま董卓の治世が続けば、政治の舞台のみならず、社会全般において、北方系人種の地位は向上していく事になるだろう。

だがそれは、結局、漢人と北方人との溝を、さらに深める結果にしか繋がらなかった。そして起こった“うねり”が、反董卓戦役という新たな混乱だった。

つまりは、どちらかの民族が一方を駆逐し、勝者が権力を握るという、古来、先人が飽きるほどに続けてきた闘争の結論をなぞったに過ぎなかった。

もし――――――この国に巣食う、民族同士の対立・摩擦というものを根絶やしに殲滅するというのなら。

それは民族という概念そのものを覆す、人の意識そのものを革めるという程の事でなくてはならない。

それはもはや、この中華という、国家の成り立ちそのものを一新し、果てはヒトの歴史すらも新たな局面に導く、それ程の事でなくば、およそ不可能であろう。

そして、それに伴い生ずる“うねり”は、未曾有のものである事には疑いない。

それをすべて飲み干し、億万の人間を導く――――――それは一個の人間が、一生の間で行うには、余りに遠大で、無間に限りなく近い事業である事に違いない。

始皇帝から始まり、劉邦も劉秀も、所詮は古から続く宿命から脱却することはなく、闘争の結論を解いたに過ぎぬ。

少なくとも、史上未だかつて、誰も為し得た事の無い――――――というのは確かだ。


「……貴方の眼は」


――――――鈴のような声。


「私よりも、ずっと多くの事が見えているのでしょう」


涼州人らしい、白銀の髪と瑪瑙のような瞳を持つ、美しい顔貌。

董卓は、少女の顔だった。

穢れの無い、どこまでもまっさらな顔だった。


「貴方は、とても強い人。他の人が全く理解出来ないほどに強い人です」

「……」

「孤高の人。でも、頑なで、とても寂しい人」


そう綴った董卓の表情は、儚げで。

何故か、今にも消えてしまいそうな、雪の結晶の様であり。

小次郎は背もたれにゆったりと身体を預け、切れ長の眼をまどろむように細めて、包むように、それを見ていた。


「……もう少し、話せていれば面白かったが」

「?」


少しすると、おもむろに小次郎が腰を上げ、椅子から立ち上がった。

董卓がはた、とその挙動を目で追ったが、小次郎は、特に意図を返さず。


「盲人には、目開きの人間には無い、独特の勘のようなものがある。失った目の代わりをしようとする。鼻が、耳が、指先が、皮膚が」


ぎしっ、と、机に手を掛け、物干し竿を携えると、そのままゆっくり、歩み始める。

室の出入り口の方だ。


「俺は、父の血が濃くてな。目の患いを貰った。十五で物が霞み、三十の頃には色がわからなくなり、四十で失明した」


スタスタと、そのまま普通に歩いていく。

三歩、二歩、一歩。


「光りを失った俺に、何故、今再び視力が戻ったかは定かではない、が、」


そして扉の前まで来ると、不意に、物干し竿をさっと抜き――――――

いきなり構えも取らぬまま、無雑作に扉を貫いて一突き、すぐに引き戻すと、返しで蝶番を打った。

唖然とする董卓を尻目に、蝶番を失った扉が、ゆっくりと倒れてくる――――――此方へ。


「ッ!!」


やがて、バタン、と、思いのほか大きな音が響いた。

その、倒れて来た扉に圧し掛かる様に、扉越しに胸を貫かれた一人の兵士が、鮮血を流して、扉に張り付く様にして倒れて来た。

見れば、扉の外れた向こう側、室の外には、数人の男がいて、いきなり仲間が斬られたのに面を食らっていた様子であったが、その武装、そして既に抜刀している体を見ると、凡そ、董卓の味方では無い事は明らかであった。

さらにその奥を見れば、聞こえてくるのは、さっきまでは扉に阻まれていた遠い喧騒、そこから、さらに十数人ほどの一団が、殺気だって、がやがやとやかましく、此方に殺到して来ていた。


「どうやら盲人の勘は、両目が開いている今でも、無くならずに残っていたようだ」


小次郎がすっ、と、兼光を一つ、払った。流すように、ゆっくりと。

それに反応し、刺客達が、新たに構える。

小次郎と――――――恐らく、その奥に居る董卓に向けた敵愾心が、その殺気だった眼差しから、ありありとわかった。


「ちょっと、大丈夫、月! 今何か、おっきな音が……!?」


奥の部屋から、勢いよく賈詡が駆け込んできて、同時に状況の異常性を察する。

小次郎は、刺客に目を向けたまま、耳だけで背後の様子を確認すると、ふっ、と、一つ、溜息の様に、静かに微笑った。





パソコンの調子が悪いのって、どこに電話すりゃいいんだ?

サポートセンター? 修理屋?

てか忙しくて電話する暇ねーよっ! チャリのパンクも直してないのに!!


TVで「全くのデタラメ記事で特ダネを新聞に載せ続けていたジャーナリストの半生が映画化された」ってのをやってた。

一緒に見ていた母、一言。

「なんでいちいち騒ぐんだろうねぇ、マスコミは嘘吐くのが仕事なのに」


ウチの母名言多いんだよ。

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