反董卓連合編・四十三話――――――「常山の龍」
「前に会ったのは……春と夏の間くらいだったか」
今は、すっかり空気が冷たくなった。木枯らしが舞う季節だ。
約半年ほどぶりか。この、美しい顔と面を向き合わせるのは。
「はい」
「……女の心変りは早い、なんて、俗に云うがな」
あの、不敵な表情が消えていた。
変わった、と感じた。
挑戦的な笑みが消え、代わりに、懐を一歩深く持ったような、そういう印象を受けて取った。
「成程」
武蔵はゆっくりと身体を傾け、掌を胡坐をかいた膝の上に付くと、そのまま大儀そうに腰をあげる。
緩慢にも思える動作でじわりとして立ち上がり、すっくと背筋を立てて、趙雲を見遣った。
「――――――佳い女になった」
「……私も」
「うん?」
「遠目には、さながら良家名門の若頭。以前出会った時の、不逞浪人のような蓬髪の容貌を思い返せば、まるで別人」
その揶揄に、武蔵は唇を少しだけ吊り上げて、肩をすくませる。
趙雲の目は揺らがず、依然として武蔵の姿を捉えていた。
「だが、その武の位は隠しようもない」
武蔵が腕を組み、片眉を上げた。手の先は、そっと袂から外に出す
趙雲の言動、佇まい、仕草。眺めるようなまなざしでありながら、その一つ一つを捉えていく。
「武蔵殿」
既に武蔵の眼は、旧知の者を見る眼では無かった。
今、初めて会った者を見る様に、趙雲を見ていた。
「今一度――――――」
趙雲が、左脚を引き、跪く。
右足を立てたまま、槍を己の左に置いて、胸の前で掌と拳を合わせた。
「この趙雲と立ち合って頂きたい」
「……はぁ!?」
「ッツ!!」
その申し出に、桂花と稟が、目を見開いた。
清澄な面持ちの、綺麗な武人の姿を見遣ったまま。
風の瞳に潜む色は、ようとして判別し難く。
武蔵の眼だけが、動かぬ水の様に、奥まって鎮座していた。
武道の礼法において、流派・流儀を問わず広く共通するものとして、座る時は、必ず左脚から引いて片膝を付く、という決まりがある。
これは左側に佩いた刀を、如何なる状況でも素早く抜ける様にとした、兵法・武術に置ける身体操作上の気配りが、武道となるにつれて作法化したものだ。
それはつまり、闘う者の心構え。退かぬという意志。
「あの時」
今ここで、寄らば斬るぞという気組。
「俺は、お前に言ったな。刀は、玩具の様には抜けはしねえと。勝負とは、技や力の比べ合いでは無く、命の遣り取り、そのものだと」
「はい」
「それでもなお――――――お前は、抜けと言うんだな?」
彼女にそう言った知識は無い。
武を道とし、一つの文化として捉える思想は、この時代には未だ存在しない。
だが、
「――――――はい」
凛とした、綺麗な女。
返り血など、到底、似合いそうに無い。
だが、左の膝のみを着き、槍を左脇に侍し、武蔵の頸を真っ直ぐに射る眼光を伴った、その姿は。
今すぐにでも、抜けるという意志。
魂魄を懸けて戦いに臨むという、不退転の決意を現していた。
「――――――槍を持て、趙雲」
「ちょ、ちょっと! 待ちなさい!!」
槍を取り、立ち上がって一振りする趙雲。それに応える様に、組んだ腕を解いて一歩前に出でた武蔵に、待ったをかけたのは桂花だった。
「あんたたち、まさか本気で陣中で私闘を始める気じゃ……ッ!?」
桂花の問言は、軽く挙げた武蔵の左手が遮った。
「あいつの眼。一歩もこっから退く気は無いぞ、と言う眼だよ。一合受けてやらねば、蟠りを残す。奴にも、俺にも」
武蔵の眼は、既に桂花には注がれてはいない。桂花からは、武蔵の顔を見遣る事は出来なかった。
「ちょうど、華琳も居らん。奴の心中は定かならんが」
武蔵の眼は、趙雲の、玉から切り出した様な、艶を持った瞳を視止める。
強い意志が宿っていた。
「あれは、受けてやらねばならん眼だ」
並々ならぬ決意、想いを抱いて、此処まで来た者の眼だった。
「来な」
「――――――……っ」
稟の首の裏に、気味の悪い焦燥が去来する。険しい表情が、一層深まっていた。
趙雲―――――星がこの曹操軍の帷幕に現れた時、彼女はすぐにその望みを悟った。
あの飄々とした彼女が、毎日の突槍千本を欠かさぬようになったのは、武蔵と出会った次の朝からだ。
彼女の、風に乗った柳の様な気性こそ変わる事は無かったが、その槍の穂先には、いつも武蔵の像が住み着いていたのだろう。
元々、人の見ている前で汗を流すなど、到底、好みはしなかった彼女が、眼光を研ぎ澄まして、息を弾ませ、時に腹から気合を発して己を鼓舞する姿を隠さなくなった。
敗北を知らなかった彼女は、以来、武に対してある種、執着のような真剣味を見せる様になった。傾いた自由人の顔の裏に隠した熱意は、並ならぬものがあったに違いない。
中華は広い。一度別れれば、二度と逢わぬ事もあろう。
武蔵への拘りは腹の底に納めながら、静かに、烈しく、粛々と己の武を磨き、一介の武人として各地の戦場を転々とした彼女が、今再び、武蔵その人と巡り合った事は、天命にも似た宿運やもしれぬ。
だが、
(……理で考えれば、この決闘がもたらす利は、何一つ無い!)
趙雲は公孫賛が一目も二目も寵愛を置く武人であり、武蔵は今や曹操軍において、一介の軍事顧問には留まらぬ重きを為す重芯。
何よりも、今この場は、董卓軍と対陣する反董卓連合の陣中。
この状況において、公孫賛軍と曹操軍のそれぞれの要人同士が斬り結ぶなど、言語道断。あまつさえ、どちらか一方が殺傷を被れば、連合の亀裂にも繫がりかねない。
武蔵と趙雲の共通の友人である事以上に、参謀としての怜悧さが、早急に、この立ち合いを穏便の内に止めるべきであると、稟に命令していた。
「……」
桂花の危惧も、まさに其処であろう。
稟は緊張の面持ちで唇を噛みながら、慎重に一歩を踏み出さんとする。
「綺麗ですねえ、稟ちゃん」
思考が巡っていた最中、傍らの、小柄な相方がぽそっと呟いた言葉が耳に届いて、引っ張られるようにそちらを見遣った。
彼女は不意をつくと言うか、意識が別方向に集中している時に、ぽたりと水滴を落とすように言葉を点す。
「やっぱりあの姿が、一番絵になるのですよ、星ちゃんには」
言葉を発さんとしていた稟の唇が、止まった。風の眠たげな眼差しの方に視線を滑らせる。
星は既に構えている。重心はやや後ろに取り、槍は真っ直ぐに相手に向けた姿。
涼やかな目元。
「……っ」
見れば桂花も、稟と同じ表情をしていた。笑みを浮かべる、武蔵の後ろで。
割って入る事は、叶わなかった。
雪辱せぬ事に誇りは無く。
それを受けねば武士ではなく。
剣士二人。
知に活きる者に、それを押し留める術はすでに無く。
星の脳漿は澄んでいた。
稟を通じて面会を求めた時点までは理性の力が働いていたが、一度頭をまっさらにして武蔵に会ってみると、心の奥にあった望みが、一番最初に口をついて出た。
武蔵の後ろで少女が何か言っている風であったが、星は自らの希望を率直に口に出したに過ぎない。断られれば、引き下がるつもりであった。
だが――――――
――――――うむ、よい。
いま、この状況に置いて、趙雲は自らの心と体が、互いに逆らい合わず、素直に調和しているのが解った。
我を失っていたわけでは無かった。自失では無い、軽率でもない、余計な迷いの無い、心地良い集中。
――――――“こうしたい”と、心が望むままに向かい立つ事が出来ている。
良い感覚だった。
趙子龍が、ただ一個の槍の遣い手となるための。
「…………」
真っ直ぐに構えた槍の穂先の切っ先に、武蔵の琥珀色の双眸が映る。
構えは取っていない。太刀は鞘に納まったまま。無雑作で、不用心。だらりとした印象の立ち姿は、あの頃と変わらない。
変わっていたのは、それを捉える星の眼だ。
好奇心の様な、騒がしい気持ちが無かった。ただ冷静に、それを目の内に刷りこむ。
「そういや」
武蔵が口を開く。右腕はダラリと下げたまま。
「前に立ち合った時も、こんなふうにいきなりだったなぁ」
星の口は、それには答えなかった。
目には、武蔵の唇、身体の全体像、少しだけ引いた右足、それらの動きを、すべて収めていた。
聴覚は、反して、どこか遠く。
それはそうだろう。他人様の所にやってきて、二言、三言交わしただけで切っ先を向ける。頭では、それが如何に不躾かは理解していた。
だが、心の働きは、それに支配されてはおらなかった。
――――――余計な力の抜けた、立ち振る舞いの良い女。
武蔵が前に、そう言っていたのを思い出す。
心を頭で縛らない彼女の行動原理そのもの、それが生み出す彼女の美点は、思えばあの時から変わらず、そのまま残っている。
その質には、些かの変容があったが。
「……」
改めて、観察する。その姿。
強い、と思った。平衡に保った心の中で。
天衣無縫な星に、武人としての拘りのようなものが生まれたのは、この武の器に触れて以降。
あれより後、武人としての明確な人格が、星の中に存在していた。
だからこそ、こういう視点でこの男を捉える事が出来るのか。
再度、見遣る。改めて、人並み外れていた。
強靭なる骨格、それに搭載された、限界まで練り上げられ、発達した筋肉。太い首にすだれた、麒麟の様な赤い髪。光る様な琥珀の双眸。
だが、その武の本領・本身は、そんな外見的な威圧感の奥にこそある。
(無防備に見えて……)
その実、その間合いの計り様、身体のどの部位にも無理がかからぬ、完璧な姿勢。
分厚く、深く、その器の底はようとして見透かせず、その器の全貌は量り難く。
故に。
ただ、立つ――――――それだけの事で、凄さがわかった。
達人だった。
「…………」
あの時。
量ろうとすらせず、無邪気な自尊心のままに砕けるつもりでいた以前の自分の心境を思い起こして、唇には現れぬ笑みが湧いた。
――――――強いのだ、この男は。
今はそれが、ありありと解る。その力量が、全く押し量れぬ。それを自覚しているからこそ、理解出来る。
かつては、それすら解らなかったのだから。
元来、奔放な性質の自分には、余り無い類の落ち着きだった。
静かであった。だが、決して不快なものでは無く。
心と体が、自在であると感じていた。
「…………」
柄に手を掛けぬまま、静かに鯉口に手を添えた。太刀は未だ、抜かぬまま。
改めて見遣る、得物を携えた趙雲は、やはり変わっていた。
身を取り巻く雰囲気、その、性質。
整っている、前から、そういう印象があった。構え、立ち姿、呼吸。
だが、あの火花の様な軽さが無い。代わりに静かで、沈み込む様な印象があった。
(……以前であれば、これだけの隙を見せていれば、迷わず飛びこんで来た筈)
目の前の女を見遣る。呼吸を鎮め、じっとこちらを捉え続ける、瞳の奥。
――――――量りかねていた。
「…………っ」
稟の喉が渇く。視線の先の二人は未だ一合も結ばず、時折、足を送って左に回る。どちらかがその動きを見せると、片方も対応し、同じ動きを見せる。間合いを計り合う二人の表情は、傍目には変らない。
稟には、その動きの裏にある、彼らの心中を量るだけの武の位はない。ただ、徐々に空気が張り詰めていくのと――――――少しずつ、少しずつ、間合いが詰まっているのだけがわかった。
(――――――……)
琥珀色の眼が、少しだけ細まる。
向けられている、穂先の向こう側。珠の様な瞳、端正な顔。
綺麗な女だった。
恐れを知らぬのが蛮勇。恐れを知ってなお挑むのが知勇。
そういう事か――――――
「――――――ッッツツツ!!!!!!」
武蔵が少し、唇を開いた。
何かを問おうとしたのか、息を吸おうとしたのかは定かではない。
だが、
その瞬間、弾けた。
「「ッツ!!?」」
稟と桂花の瞳孔が開く。が――――――その時には、もう居ない。
この場に居る人間の、誰の反応速度よりも速く、槍の麗人の身体は動いた。
そう、誰の目にも止まらず――――――否、ただ、一人を除いて。
(――――――ほう)
その一足の伸び。驚嘆に値した。
僅かの呼吸と呼吸の間、其処を突いて、ギリギリの間合いから飛びこんで来た、その身のこなしは、あの時よりも遥かに無駄なく、疾く、鋭利。
その、洗練された身体操作の素晴らしさ。
先程の静かな構え、零から一瞬で最高速まで達するその瞬発力は、並の者では凡そ、体現する事は敵わず。
(成程――――――)
あの、沈み込むような重さの本性は。
――――――本来の紫電の如き疾さを内に溜めこみ、爆発させる刹那の機会を窺っていた閃光!
「ッ!?」
電光が如く。瞬きより速い速度で飛びこんで来た、その瞬速の中段突きに武蔵は反応し、打ち落とすべく柄に手を掛ける。
が――――――突きは来ない、否、機動が変わった。星は中段に突きを打たない。穂先がそのまま、滑るように上を向く。
「ぬッ……!!」
武蔵が反応した突き、それは幻――――――星は飛びこんで来た脚が決まると、その勢いのままには腕を伸ばさず、身体の、中心やや後ろ側に置いたままだった軸を、突きの軌道を変えるとともに、上半身で持って、前へ突き出す。
真の狙いは上段、中段から連携しての喝咄、中上の二段突き。
「はァッツツ!!!!」
一瞬溜められた、前へ貫く力がそのまま、下半身から腰、上半身に両腕と連動し、全て淀みなく槍に乗る。
見事な二段突きが、必殺の速度を伴って、武蔵の喉仏に放たれていった。
「――――――綺麗だな」
「……ッ!?」
渾身の力が、全て余す所なく放たれた。
それを可能にした、実に理想的な身体の連動、そして、相手を崩す、技の妙。
それが生み出した、趙子龍、最高の突きが貫いたのは――――――空。
「実に、綺麗な突きを打つ。鶴の舞の様に品良く、静かで、そして鋭い」
武蔵の身体は、前には無かった。
武蔵の手は柄に添えられたまま――――――刀を抜かず。
前に出ていた右足をそのまま斜め前に送り、左手を槍に添え、受け流すように、身体と星の槍を捌いた。
取られた先の後ろを取り、その先を取った。
「宝蔵院流の至宝、高田又兵衛吉次の――――――」
左手を槍をなぞる様に滑らせて星の先手まで昇らせると、その細い左手首を、がしりと掴んだ。
決してゆるくない握力で、手首の可動部分、横から鷲掴みにするのではなく、さながら一本の腕と為すが如く、縦に、骨の形にぴったりと添えて、離れぬように、取る。
「あいつの得意な連突きに、よう似ている」
柄に添えた右手を、太刀から脇差しの方に持ち替え、改めて握る。先程、初手の突きに反応した時とは逆、逆手で。
逆抜刀の構え。
「――――――ッツ!!」
手首は極められたまま、逃れは出来ず。
深く、がしりと、大地に張った両足の土台から抜かれた逆抜刀が、真っ直ぐに星の頸を狙って突き上げられた。
「――――――そこまで!!」
武蔵の脇差しの、柄頭。
「…………っ!!」
逆手に抜かれたそれは、仰け反る様にした星の、喉元直前で止まっていた。
血は、無く。両者とも、立ったまま。
立ち合いを止めたのは、甲高く、甘い声。
少女の声であり、そして――――――この幕営の、本来の主の声だった。
「私の留守中に、一体何をしているのかしら?」
桂花と稟、それよりのんびりした動作で風が、一様に目線を映す。
後から付いて入って来た、春蘭と秋蘭が怪訝な顔を浮かべた。
咎めを出した、華琳の顔にはいつもの微笑がある。
「お前こそ、他人の幕舎に押し掛けに行った成果はどうだったい?」
得物を持ち出し、見慣れぬ者と立ち合っていた本人は悪びれもせず、逆に質問で返す。
構えを解き、極めた手首を放すと、脇差しを払って、何事も無かった風に鞘に納める。
趙雲が、緊張が解けた様に、ハアッ、と、息を吐いた。
「あら、その娘……趙子龍、だったかしら?」
華琳は華琳で、武蔵の問いには答えず、二、三歩前に出ると、星を見て、しげしげと言った。
「……私を知っておいでで……?」
「先の戦で、公孫賛を死地から救い出した武人の名を、知らぬ筈が無いわ」
いつの間にか、米神から流れて来た汗には気を留めず、星は華琳と視線を合わせる。
華琳は面白そうな、興味深い様な、好奇心の光りを瞳に宿らせていた。
「で……?」
「何だ?」
「強いのかしら?」
「ん……?」
華琳はそのまま、流し目だけで武蔵に目配せし、問いを点す。
武蔵はそのまま、何かを考える様に視線を宙にさ迷わせ、
「ぬ?」
春蘭を一瞥すると、何故かフッと、一つだけ笑みをこぼし。
「ああ。強いぞ」
再び華琳に視線を戻して、そう答えた。
「驚いた」
「うん?」
「曹操軍は、かように美味な米を兵糧に使っておるのですか」
「そりゃあ、お前さん、命、張るんだぜ。いつもより良いもん食わんと、割に合わんだろう」
先程、一合交えた陣から武蔵は星を伴い、給仕場に赴いた。
まだ飯を食っていなかったという理由で、武蔵は二人分の椀を要求して炊かせ、適当な所に腰を降ろし、食う。
華琳からの咎めは、特には無かった。
土地柄的に、決して農業に向いているわけではない兗州を本拠とする曹操軍が、何故に水準の高い兵糧を用意出来るのか。理由はいくつかある。
その一つに、大規模な都市開発と経済振興、事業に大量の人員を動員し、次々と政府側から資金を注ぎ込むことで物流の活性化を促している事。
その源となっているのが、自身に非協力的な豪族や軍閥を解体して没収した財産や私有民、そして、各地の有力な商人から大量に借り上げている貸付金である。
特にあの、武蔵と懇意にしている、あの推量容易ならぬ初老の親爺などは、有力な出資者である。
彼は資金的な援助のほかに、ほぼ自ら一手に占有している、荊州の実り豊かな大地で生った米の仕入れ販路から、御用商人として、優先的に兵糧米として軍に売りつけている。
「…………」
「…………」
しばらくまた、静かに食っていた。時折吹く風と、箸と食器が擦れる音だけがある。
「趙雲の槍は」
食い終わると、武蔵は椀に箸を置いて、おもむろに一言、紡いだ。
はた、と、星が隣にある、その横顔に眼を向ける。椀には、まだ半分以上飯が残っている。
「少し見ぬ間に、随分とした変わり様だった。見違えるほどに、その器を深めたな」
趙雲は、一塊の飯を、はぐり、と、口に運んだ。もぐもぐと食うと、芳醇な甘みが口に満ちる。
荊州産の良米は、痩せた幽州の米とは品質が格別に違った。
「……見出したのは、貴公と私の、呆れるほどの技量の隔たり」
「うん?」
「この趙雲は生きながらにして、既に二度、死んでおります」
「……ふむ」
星は、武蔵と目を合わせず、前を向いたままだった。
今度は逆に、背筋を伸ばして飯を口に運ぶ星の横顔を、武蔵が見遣る構図になる。
二度の一度目とは、いわずもがな、最初の立ち合いの事であろう。
二度目は――――――
「あの一瞬。貴公は、私を殺そうと思えば、殺せたのでしょうから」
「…………」
身体を入れ違わせ、槍を打たせ、後の先を取ってからの逆抜刀。
あの時は寸止めであったが、あのまま、柄頭で星の喉を打っておれば、それはそれでよし。
だが、実際にはそういう技では無い。
逆手のまま引き抜いた刀の刃を、あのまま首に添えるようにし、抜き放つままに動脈を引き斬る。あるいは、抜刀した切っ先で、逆手のまま相手の身体を突き刺す。
逆抜刀とは、本来はそういう技なのだ。
それに加え、武蔵は、あの詰まった間合いに対応する為、太刀では無く、脇差しを抜いていた。
自身の会心の突きを、其処まで完璧に防がれ、さらに武蔵には、星を殺さぬように配慮する暇までもがあった。
その余裕が、目に見える決着、刹那の交錯で実際に顕れた紙一重の差以上に存在している、彼我の実力差である事に気付けぬほどに、星は鈍くは無い。
「あの二連突きは」
「はい?」
「何度も見ている技だったからな。だから、対応出来たまでの事。初見だったら、どこまで反応出来たかわからん。案外、そのまま首根を突かれていたやも知れん。それぐらいには、あの技はキレが良かった」
「……何度も?」
その言い回しに、星は怪訝を示す。
あの技は、武蔵に見せた事は無かった筈。そもそも一度目の立ち合いは、ほぼ何もせぬまま終わってしまったのだから。
「高田又兵衛……という、男が居てな。槍の名手だが、特に突きが得意だった。一段目を受けようものなら、二段、三段と、立て続けに突きを繰り出してくる。だから奴と組太刀する時は連打させん為に、一段目は必ず、外す様にしていた。あの二段の可変突きは、奴が最も多用していた技だ。奴はさらに、あそこから次の技を繋げる事が出来たがね」
高田又兵衛吉次とは、武蔵と同時代に活躍した、江戸初期を代表する武芸者である。
宝蔵院胤栄から直々に宝蔵院流免許皆伝の印可を賜り、後に宝蔵院流高田派槍術を創始、生涯に二度に渡り、将軍の御前に置いてその武芸を上覧した。
大坂の陣では武蔵とは反対に豊臣方に付き、敗走して市井の人となるものの、後に小笠原に召し抱えられて島原の乱に参加、槍一隊を率い、原城本丸を陥落させる働きを見せた。
又兵衛と武蔵は、小笠原家に居た頃に交流があったとされる。伝記には彼らの立ち合いの記述が残っており、また武蔵が熊本に移ってからは、武蔵から又兵衛へ、知己の証として一振りの短剣が贈られたという。
「たったそれだけの事さ。俺とお前の差なぞと言うのは」
「…………」
「俺は、お前の齢よりも遥かに長い年月、剣を振っとる。俺とお前に差があるとすれば、それはそのまま、単純に年月の差に過ぎん」
星の横顔。歳の頃は、十代の、半分から後ろか。いっていたとしても、二十歳を少し過ぎた程度だろう。
年月の差。それはつまり、今に至るまでに、経て来た戦いの数の差だ。
武蔵は、星の年齢を倍するよりもさらに長い間、剣を振って来た。戦って来た相手の数も、積み重ねた勝負の数も、それは幼い星の比では無い。
より多くの技と、強い男たちを知っていた。ただ、その差のみだと、武蔵は言う。
「お前はまだ、若い。もっと多く、積み重ねる事だ。勝ちも、負けも。焦らずにな。今よりずっと強くなるだろう」
「…………」
「――――――などと」
ぼすっ、と、武蔵の大きな掌が、星の頭に乗った。
サラサラの髪が、麻の様に揺れる。
「それっぽい事を言ってりゃあ、如何にも、剣の達人らしく見えんかね?」
星が見上げると、琥珀色の瞳をおどけさせて、片頬を吊り上げた顔があった。
星もまた、唇だけで笑った。
「ふむ、ならば、決めましたぞ」
「む?」
「この趙雲、今日より、武蔵殿の門人と相成る事に致す」
「……何ぃ?」
「ひとつひとつ、地道に積み重ねていったのでは、貴公の境地に達するのに幾十年かかるやら、わかりませぬ。それならば、千の技を知る貴公に付いて学ぶほうが、よほど手っ取り早い」
「…………」
はぐはぐと、しばらく粛々と椀に向かっていた星だが、やがて食い切り、箸を置いて手を合わせると、おもむろにそんな事をのたまった。
「なに、安心めされい。何も一から手解きして貰おう等と、都合の良い事を考えておる訳ではありませぬでな。身体で覚えまする」
「おいおい」
「ああ、それとも我が師は、生娘を自分好みに一から染め上げるのが、お好みでございますのかな。それでしたら是非もない、未だ男を知らぬ肢体ではござりまするが、私は唇を噛み、睫毛を震わせながら期待と恐怖に耐えまする故、主は私の身を手取り足取り、どうぞご自由に為されるが……」
「誰が主だ」
「あいた」
懐から取り出した煙管で、ごつりと星の頭を小突いた。
軽くであるが、煙管は鉄製なので、些か痛い筈である。
「いきなり、そないに言われてもな。華琳が何と言うか、わからんぞ」
「何を。この趙子龍は穀潰しではございませぬぞ。何処に居ようが、食い扶持分はきっちりと働きまする」
「……お前、公孫賛はどうした? そっちを無視するわけにもいくまい」
「ふむ。実は、それが一番の問題でして」
「うん?」
「殆ど、白珪殿に有無を言わさぬ形で飛び出して来てしまいましてな。今更、戻れませぬ」
「…………」
「置いて下され」
星が武蔵の腕の裾をクイ、と摘まんで引っ張る。
その顔は笑っていた。
武蔵は組んだ手をほどくと、返事はせず、そのまま煙管の吸い口を口に含む。
「……む」
「どうぞ」
「…………」
が、すぐに火が無い事に気付いた。
すると星はそれを見るなり、すぐに火打石と藁のひと房を着物の袂から取り出し、二擦りほどですぐ、火種を作り、悪戯気で、得意げな笑みを崩さないまま、武蔵の火皿にそれを灯す。
二、三拍子、黙って――――――武蔵も、ようやく笑った。
「ほれ」
「ふむ、失礼して」
武蔵は軽くひと吸いすると、すぐに星に煙管を手渡した。
「……けほんっ」
「ん? 何だ、吸わんのか」
「申し訳ござりませぬ、実は、煙草は嗜んでおらぬものでして」
煙が目に染みるのか、少し、瞳を潤ませた星が、咳き込みながらそう答えた。
それを受けて、武蔵はケラケラと笑う。
「俺もだ。恰好だけ付けてるだけさ。殆ど、吸えん」
そう言うと、武蔵は穏やかに目を細めて、改めて一服する。
細く、ゆっくりと、香りを楽しむように、煙は肺に入れず、口だけで吸う。
「…………」
「…………」
「……主よ」
「あん?」
「天下には、貴方よりも、強い者が居るのですか」
「さあな。そりゃ、知らん」
「…………ふむ、そうですか」
ぷかり、と、口から煙、一塊を吐き出す。
灰色の紫煙がくゆり、揺らめいて、すぐまた、空気に溶けた。
「――――――居るよ」
「――――――東、長安去ること、万里の余。故人、なんぞ惜しむ、一行の書」
永遠の都、洛陽。
東に連合の大軍あり、西には馬超の精兵あり、四海は敵に覆われ、都の足元も又、不穏の兆しに、庇はようとして休まらず。
しかし、春には桃の花が咲き乱れる、都の中央に座する桃園院は、冬の寂しくも趣ある景観を、乱などいざしらずとして、保っている。
ある種、滑稽なほどに。
「玉関、西望すれば、腸断つに堪えたり。いわんや、復た明朝、是れ歳除なるをや」
その美しい場所の中心に設けられた一室に、その美しい男はあった。
詩を吟ず声は、滲み入る清水が如き音色。
流れるような、長い髪。その瞳の色は、それと同じ。
深い、深い、黒。
「董卓よ」
犯され難き、美しさ。
目の前に座る、可憐な少女の物憂げな眼に、その容姿はまた映えて。
「どうやらそろそろ、この静けさも望めぬようだ」
佐々木小次郎。
彼の身は、洛陽――――――太師・董卓の、すぐそばにあった。
2ちゃんの怖い話まとめが怖すぎたよパパン。怖すぎて寝られない間に朝になってしまったよママン。
どうせ起きてたから更新。もう心霊的なものマジ勘弁。今日は夜まで暇だから良いけど、昨日は結構疲れたもんで、速く眠るべきだったのだが……
怖いのに続きが気になってしまう辺りが卑怯すぎる。