反董卓連合編・四十話
漢帝国中興の帝・光武帝劉秀は稀代の名君と伝えられる。
王莽の革命により、一度は吹き飛んだ漢を再興させた中華の誇りは、その卓越した政治手腕、立ちはだかる逆賊を次々に打ち滅ぼした武勇、旧来の漢の版図を回復させ、さらに広げた統率力。それのみならず、奴隷階級の解放、辺境の未開の部族には進んだ教育を与え、裁きは常に公明正大であった。
それらの政策や人格まで全ての要素に置き、理想の指導者として絶賛され、彼の名は高祖・劉邦と同じく、中国史上屈指の巨人と称えられる。
――――――というのは、あくまで漢民族の口から語られる劉秀で。
例えば、奴隷解放は奴隷を自由民に戻して市民とし、戸籍に載せて税を取れるようにする政策で、生活保障や根源的な格差を無くす事を目的としたものではなかった。民族迎合は、早い話が占領地の同化政策である。また彼は後漢の歴代皇帝の中で最も多く酷吏を用い、自身に反抗的な豪族や不穏分子と見なした士大夫を次々と弾圧した。
人道主義的な聖人君子というプロパガンダ、実際の彼は極めて合理的かつ標準的な、そして著しく有能な戦国期の軍政家の姿そのものであり、その規格から大きく逸脱するものでは決してない。
かつて西涼は、遊牧生活を営むチベット系民族の自治区であった。
高祖・劉邦が、漢民族が漢民族たる由縁である一大連邦国家・漢を建国した時代から、既に一定の勢力を持っていた彼らは、その後の王莽による新の建国、その体制の崩壊、新末の大乱と、時代の移りを経てなお、漢民族とは異なる民族として独立し、それを保っていた。
やがて中華の覇権を握った劉秀の侵攻に反抗、決戦し、破れる。
劉秀は切り取った領土を漢の国土とし、新たに「涼」と名付け、州の一つとした。
即ち、涼州である。
劉秀は彼らに漢民族式の教育と語学を与え、彼らの民族の言葉は禁じ、漢人の言語を使わせ、漢字の名前を名乗らせるようにした。
それに伴い、彼らの伝統的な芸能、芸術、民族衣装など、民族に纏わる独自の文化とその活動を統制し、労働は国境の防備のみに従事させ、世襲して任に当たるよう課した。農作や商売などの生産及び商業活動は一切禁じられた。
儒教には、自ら物を生み出す労働は上等で、そうでない物を下等とする価値観がある。
つまり、自ら物を生産する農民は上等、彼ら生産者の商品を取引する商人等はそれよりも下等、それら物流の営みに一切関わらぬ戦事の生業はそれ以下、というわけだ。
今ではすっかり廃れた考え方だが、儒教の大家・王莽に依った覇権、引き続き儒教を国教とした劉秀の治世では、これ等の考え方はまさに全盛であった。
そうして西涼の民、その本来の風俗を取り上げ、漢人としての名と言葉を強要した劉秀だが、一つだけ与えなかった物がある。
それは、真名。
漢王朝は彼らに漢字の姓、漢字の名を名乗る事を強制しながら、最も重要である真名を名乗る事は許さなかった。
涼州人は「漢人に有ら非る漢人」となる事を強いられたのだ。
だから、今でも生粋の涼州人は、真名を持たない。
名も文化も奪われた彼らには、唯一、「戦う事」のみが、民族の象徴として残った。
非漢人と蔑まれ、最も下等な生業を持つ民族と卑しまれ、それでも彼らは戦い続けた。
漢の中の劣等者の役目を課せられながら、彼らは孤独に戦い続けた。幾人もの、同胞の血が西涼の大地を汚した。
苛烈な運命と歴史であった。
それでも彼らは、戦い、殺し、奪って、生きた。
馬上に生きて、馬上で死ぬ。絶え間なく戦場を疾駆し続けた。
後漢県立より二百年間、涼州人は戦う事のみを誇りとして、その血を重ね続けた民族だった。
「納得がいかんッツ!!!!」
怒号が木霊する。空気が痺れ、振動する。
華雄の怒鳴り声に、張遼は片目をつぶって顔をしかめた。
「如何な戦略!? 何故に籠城!? 機動力と突進力こそが我ら董卓騎馬の強さであろうが!!」
唸る激情を隠そうともせず、ぶちまける。
かぶりを振るように大袈裟な手振りで振りまわす腕は、すらりと長い。
腰の位置は高く、四肢の形は見事で、肌は抜けるように白い。髪の色素は非常に薄く、瞳の色は瑪瑙色。
典型的な西涼美人。胡人系の、それも特に涼州の民の血を色濃く受け継いだとわかる容貌。
「なのに何故、城に籠りあの叛徒どもに良い様に攻めさせる!? 董卓殿や賈駆は漢民族にへつらうあまり、涼州人本来の戦い方すら忘れたのか!!」
「かゆっち、そういう言い方はないやろ。月や詠かて、ウチらの軍権を安堵させるためにおもんない士大夫高官らと話つけとうのやろ?」
「中央で下らぬ利権争いばかりに執心している馬鹿どもに、何故、我らの戦に干渉されねばならん!!」
「そういう兼ね合いも必要なんやて。わかってあげな、仲間やんか」
「……ッ、貴様ら并州人に、我らの憤りはわからん!」
戦が始まってから数日、汜水関こと虎牢関に籠った董卓軍は未だに出撃せぬまま、連合軍の波状攻撃に晒され続けている。
殆どが騎馬民族出身者で構成される、後漢最強の誉れ高き董卓騎馬軍、ひいては自らの率いる涼州騎馬ならば、数の不利など跳ね返して寄せ集めの連合軍など粉砕できる。
彼女はそう言って幾度も野戦を主張したが、董卓の据わる洛陽の本営から、出撃の許可は一向に下りない。
その不満が、普段は深層心理に隠れている不満と絡まり、引き出して二重、三重となる。
「家系に漢民族の血が混じった事を論って蔑下する気は毛頭ない。生まれは本人には左右出来んからな、だが董卓殿も賈駆も、あくまで涼州人の筈だ! 朝廷に漢の位を授けられ、儒を学んで知識人を気取り、士大夫だの名士だのと良い気になって朝政に携わっているのはどういうつもりだ!? あまつさえ真名など名乗り、漢民族の真似事か!? 涼州民族の誇りと歴史は忘れたとでもいうのか!?」
張遼は溜息を一つ、深く吐き、そっぽを向く様に激昂する華雄から視線を外した。
こうなってしまったら、後は華雄が疲れるまで怒鳴らせて、聞くに徹しているしかないのだ。戦友として浅くない付き合いなので、その辺りの気性はもう理解している。
「…………くそッ!!」
しかし、張遼に怒鳴っても状況や戦況が好転するわけもなく。
華雄はひとしきり吠えると、あからさまに、胆に未だ燃え燻るものが残っているのを表情に隠しもせず、またかぶりを振るような大袈裟な手振りで踵を返し、早足でその場を去っていった。
「…………」
「――――――まあ、仕方ねーさ。あいつは入朝する時だって、一番渋ってたんだしな」
渋い表情で華雄の後ろ姿を見つめるように見送った張遼に、背後から声をかける者があった。
振り向けば、長身で筋肉質な、精悍秀麗な容姿を持った、白髪と金髪の中間のような、銀色の髪を持つ男。
一目で、華雄と同じ系統の人種だとわかる。純血らしい涼州人的な風貌を持った男。
「涼州人てな、荒っぽいからよ。どうしても武働き偏重みてーな所がある。だから、中央で指揮取ってるだけの董卓ちゃんや賈駆には、どうしてもああいう態度になりがちなんだろうな」
蜂蜜色の瞳を、軽薄漢を気取る様な笑顔に光らせた――――――
「それでなくとも、漢人に与する――――――それだけで華雄の憤りの理由としちゃア、十分だ」
――――――名を李確という。
董卓軍の主席に常に身を置き、涼州騎馬軍の中でも高順らと並び、その最精鋭を率いる猛者である。
此度の連合に先駆けた一戦、諸侯に先駆けて反董の兵を挙げた王匡の三万を、僅か一夜で敗走させたのはこの男だ。
「しゃーかて、ウチらが味方してやらんかったら、月も詠も味方、無うなってまうやん」
「まーよ、でも、あいつにしてみたら、そもそも帝室の為に働くなんてのは、夜も寝れねェくらいに虫唾が走る事だろーしな。なり行きとはいえ、自分自身がそうなっちまってる上に、賈駆の取る方策もまた、成り行き上とはいえ、朝廷にべったり組み付くやり方だ。どうしようもなく、ムカつくんだろう。真名とかは特に」
「真名て」
賈駆は、純粋な涼州人ではない。両親ともに涼州人だが、少しだけ漢民族の血が混じっている。董卓は純血の涼州人だが、董君雅がその勢力拡大に伴い、娘の一人を漢人に嫁がせ、代わりに漢人の妻を一人娶った経緯がある。
後漢も代が進み、地方の土着豪族が軍閥化してくると、やがて彼らは中央から正式に地位を与えられるようになる。地方の有力者達と友好を深め、その独立を牽制する、いわゆる融和政策だが、漢の高官を婿とし、正式に地域支配者としての官位を下賜された馬騰などは、その最たる例であろう。馬超はこれの娘に当たる。
また、そういった知識人層を親戚に持つ若者が、太学に留学する事も見られるようになった。陽州の名家・周家は、それらの人脈からしばしば中央に取りたてられ、太尉を二人輩出している。周瑜はこの一族の出身であり、尚書令を務めた周栄を祖父に持つ。
この地方軍閥の取り込みにより、時代が下るにつれて却って地方の独立性が強まったのは、正式な支配権を認めて、支配下に置くという目的の元に施行されたこの制度の皮肉な所ではあるが、ともあれ、馬騰の例にもより、差別の歴史に晒された涼州もこれから漏れるものでは無く、賈駆も母方に、官の要職に就いていた漢人の祖父を持つ。董卓もまた、先の経緯により漢人との交流を持っていた。
もっともそれは、董卓の様な大派閥の首長や、賈駆の様な高官を一族に持つ知識人階級の話であって、華雄や李確のような庶民階級出身者には、まるで縁の無い話である。
故に、漢人かぶれ、売国奴ならぬ売“族”奴――――――漢人勢力に結びついて権力を強める彼らのやり方に、そう揶揄して反発する兵士は少なくない。涼州人は、董卓軍の中でも、その傾向が最も顕著に見られる民族である。
「今日び真名なんぞ漢人だけやのうて、どいつもこいつも名乗っとるやろ。『真名には誇りと魂が~』なんて、カビくさいコト言う連中、それこそコテコテの漢民族だけやわ。由緒正しき~、って感じの」
「まあ、お前らはそうだろうけどよ、俺らの御先祖様は真名を名乗って無かったからな。だからあえて、意地でも真名なんぞ名乗らねーっていう奴も多い」
今では、むしろ純粋な漢人の方が少ないのかもしれない。先の融和政策によって、民族同士の血が混ざったからだ。元来は漢人の中でも、特に高等教育を受けた儒教の徳目に篤い者の間の風習であった真名であるが、これも今は市井に広く認知されている。
だが、現実として民族間の隔たりが無くなって来たのは張遼らの世代の話で、李確や高順らの少年時代は、当然のように人種によって居住区が分けられていたし、差別も露骨だった。
漢の興りによって作られた差別観が、漢の衰退によって崩れていくのも、また歴史の必然か。
もっとも、それも政治や世俗の表面側だけでの話なのだろう。現在でも潜在的な差別・被差別意識は未だに取り払われていない。門閥の格差もあり、中央府に推挙される者達は、未だ生粋の漢人が占めている。
董卓らのように実力で官職を獲得した、僅かの例外を除けば、後漢発祥から今に至るまで、ずっと漢人が高位を独占しているのが現状だ。
自らの民族性に頑なな涼州人が、漢との迎合を特別、毛嫌いする傾向にあるのも、無理からぬ話であるかもしれない。
それは涼州人が、統合された“元”異民族の中で、最も差別を受け、最も過酷な労役を強いられ、最も多く反乱を繰り返してきたからでもある。
「アンタが民族の誇りなんてもんを大事にする様な、律義な人間とは思われへんがな」
「俺はンなモンどうでもいいんだって。けど、だからって真名なんぞ、別に欲しいとも思わねェしな。それに俺らや高順の代は、お前らの頃より肌や血の色への拘りが激しかったのさ。混血児への差別なんざ、酷ェもんだったぜ。馬騰や賈駆みてェな金持ちの家がどうだったかは知らんがな」
「華雄はウチとタメやで」
「ガンコなんだよ、涼州人は。つーか……」
李確は話しながら、腰にぶら下げた瓢箪の口を開ける。
しかし、口に運ぼうとしたその中身が既に空だったのに気が付いて、やや残念そうな表情を浮かべた。
「お前の真名、シアっての、并州人の言葉で、ちゃんと意味があるんだろ?」
「うん、あるよ? シアも霞も同じ意味やけど」
「漢字当てたら中途ハンパじゃねーか。音だけで良いじゃねーか」
「そんなん知らんよ、おかんに言ってや。ウチかて、真名の在り様なんかに拘りあらへんし」
深刻な社会問題の筈だが、渦中にいる彼らは非常にあっけらかんと話のタネにしている。
意識というのも、個々人によってまちまちだ。それは気性の違いであったり、境遇であったりするのだが。
「――――――并州人だって、同化政策は受けたんだろうからな。あからさまに原民族の言葉使っちゃマズいんだろう」
立ったままつらつらと雑談していた彼らに、声をかける者が居た。彼らにとっては、聞き慣れた声だ。
スラリとした美しい容貌、黒髪に、灰色の瞳。
漢人と胡人の両方の特徴を備えた容姿は、董卓軍にあってもなお目立つ。
「張遼の母さんの優しさだろうさ。大事にしてやんな」
恐らく我が子の為に、漢字と民族の言葉、同じ音で意味の共通するものを、一生懸命に考えたに違いない。
そうすれば、例え漢字に直されても、民族の言葉、民族の名前を、誰にも曲げる事は出来ない。誰に咎めることも、汚す事も出来ないからだ。
それは高順の推測にすぎないが、恐らくは的を射ているのであろう。
「じゅっちー、聞いてや。かゆっちがぁ」
「さっきすれ違ったよ。随分キレてたな。まあ、大体見当はつくが」
「どーすんだ、順。あいつ、下手すりゃあのまま出撃しかねねーぜ」
「ああ、丁度良かったから、さっきそう言っといたぜ」
「あ?」
「出撃だ。俺らも出るぞ、確、張遼、支度しな」
「はい!?」
二人が、事に張遼が大袈裟な反応を見せる。
李確は素っ頓狂な声こそ上げなかったが、張遼と同じように目を丸めた。
「オイオイ、いいのか、順。出撃の許可出てねーんだろ?」
「現場判断だ。このまま騎馬の足を止めて置くのはありえねえ。華雄でなくたってそう言う。西には馬超が居るし、洛陽にだって潜伏してる反董は居るんだ。悠長な事は言ってられねえ」
皇甫嵩は、反董では無い事を明言し、この内乱を収める為、宮中の董卓と反董勢力の仲介役になっている。
が、血を見る沙汰にならないと言う保証は何処にもない。そもそも出撃を禁止している事自体、彼らを虎牢関に釘付けにし、連合と争っている間に決起の準備を整える為の、時間稼ぎである可能性があるからだ。
「……せやな。とっととウチらがこの戦、終わらさんと、いつ月達に危害が加わるかわからんしな」
もちろん、董卓を守護する軍勢も洛陽には残しているが、主力となる騎馬隊は虎牢関に入っている。西からの脅威に備え、函谷関にも軍勢を配置しているため、その守りは必ずしも盤石とは言えない。
悠長に構えている暇は無いのだ。
「まーよ、俺もとっとと洛陽に帰りてーしな。新しい女出来たからよ」
「またか。いい加減、一人に絞ってみたらどうだよ?」
「いーじゃねーか。宮女と付き合うなんてこーいう機会じゃねーと滅多にねーぜ」
「宮女に手ェ出したのか? そりゃあまずいぞ」
「男と女の間にあるのは、いつだって情熱と無責任だろ」
言葉と裏腹に、フッと笑った高順の表情を受けて、李確は戯曲の様に、わざとらしく髪を掻き上げる仕草を見せた。
少し金色が混じっているが、殆ど白銀に近い。
「お前、いっつもタラシっぷりを自慢するけど、ハッキリ言ってじゅっちーとか佐々木のがイケメンやで」
「満足を知るものは恥辱を受けないって格言を知ってるかね? 張遼クン」
冷ややかな視線を浴びせる張遼だが、李確は肩を竦め、両手を広げて鼻で笑うのみだ。
「俺と順と佐々木小次郎を並べても美男が三人になるだけさ。俺の美しさが損なわれるわけじゃないし、俺が美しいという事実は変わらねー」
三人で歩を進める中、李確はくるりと振り返り、後ろにいた張遼の顔に指を指す。
「所詮格付けや比較論なんてのは、持ってる人間の輪に入れねー持たざる人間が、外から眺めて語ってるだけの実の無い言葉遊びさ。ブスがいくら痩せた所で、細いブスになるだけだし、ブ男がいくら髪型を弄ろうが、チャラいブ男になるだけだ。美男女は何をしてても絵になるように出来てるけどな。なあ、順?」
「なー、じゅっちー、ウチは涼州モンのこういう、時々小難しい事言いよる所がニガテなんやけど。こいつの顔ヘコましてええかなあ?」
「そういうめんどくせえ話題を俺に振るな、お前ら」
人差し指を得意げに立て、くるっと、再び身体を前に翻す李確と、長身のその首に飛びついて強引に絞めかかろうとする張遼が、揃って高順に目を遣る。
背筋を伸ばしたまま、首だけで億劫そうに振り返った高順の目は心底どうでもよさそうだ。
「けどまあ……確の言ってる事は、あながち間違いじゃねえかもな」
「何がや?」
「馬走らせて敵に突っ込む時に、武器や技能の差がどうとか強さの評価がどうとか、そんな下らない事は考えやしねえだろ」
一度前を向いて、再び、おもむろに振り返る。
落ち着いた表情。しかし、笑みの色は不敵。
「要はどっちが潰すかだ。それ以外は、そんなに重要じゃねェ」
言葉の最期に少しだけ、涼州訛りが混じった。
「……順、呂布や徐栄はどうした?」
「郭汜が率いる。お前らは俺とだ」
「さよか」
灰色の眼光が、一層、深まった。
「――――――行くぞ」
「きいいいぃ!! まだ敵の関は落ちませんの!?」
後方から遠望してみる前線では、土埃と、一定の間隔で城門を打ち叩く硬い音、その間に鬨の声が挟まれる。
着陣してからは、ずっとこの光景の繰り返し。静観しているだけの本陣は、何処か長閑ですらある。
戦場には違いないが、戦の雰囲気は無かった。
「無茶言わないで下さいよ、麗羽さまぁ。攻め始めてから、まだ五日も経ってないじゃないですか」
「それに、ここはまだ敵の本丸じゃありませんよ。あと幾つか関を抜かないと虎牢関には辿り着けません」
「え? そうなの、斗詩?」
「文ちゃん……あなたはわかっててよ……」
袁紹の諸軍に達した作戦の速達状は非常に簡潔としたものだ。
“雄々しく、勇ましく、華麗に前進すべし”
――――――この三語のみである。当然、参陣した諸将には不満と批評の嵐であった。
といっても正味な所、攻城という戦はこれ以上の基本戦略が無いのだ。要するに敵の城を落とすまで攻め続けるしかない。
兵力的に有利な連合側が長期戦に臨むのは下策である。また、絶えず攻めて圧力をかける事で、敵の主力を此方側に釘付けにしておけるという効果も発生する。
そもそも講談でもあるまいに、茸狩りの如くぽんぽんと城を落せるような上手い策などがあるわけはないのだ。物事の大概は、有効と思われる手段を目的を達成するまで積み重ねて行くしかない。地道なものなのである。
むしろ小難しい言い回しを使わず、実に簡略に意図を伝えられると言った点では、この指示は優れているとすら言えるかもしれない。
それ以前に、おおよその要綱は先の軍議で郭図が説明してしまったから、諸侯も文句を付けようにも、付けどころが満載なようで、無いのである。
問題があるとすれば、当の袁紹自身は、その辺りの意味合いを全く考慮しているわけではない、というところであろうか。
「文醜さん! 顔良さん! 貴女達、今から敵の城に乗り込んで将を討ち取ってしまいなさい!! 敵将を討ち取ってしまえば向こうから開城してきますわ!!」
「無理ですよ、連中、亀みたいに丸まってるんですから」
「亀ならばひっくり返して腹をつついてやれば首を出すでしょうが!」
「……へー。姫もたまには冴えた事、言いますね」
「え?」
キンキンとがなる袁紹だが、売り言葉に買い言葉の調子で捲し立てていると、突然、ころりと文醜が態度を変えた。
その表情の変わり様に、思わず袁紹の方が意表を突かれたようだ。
「――――――既につついた奴が居る」
輿車に乗る袁紹に、声をかけに来た者が居る。
軍服の上に平服を羽織っている、男の身体は細く、顔は不健康に白い。
「あら公則さん。何か動きがありましたの?」
「馬超が函谷関に攻撃を開始しました」
郭図は口頭で袁紹に簡潔に意図を伝え、手に持つ伝令の書かれた二枚の割符を顔良に渡す。
事務的に尽きる無味乾燥な口調に、袁紹は何処か面白くなさそうな顔を浮かべた。
「申し上げます! 敵の依る関が開門、敵騎馬隊、打って出ました!!」
そのすぐ後、伝令が走り込んで来る。
驚きと、戦況が動いたことによる思考のほぐれが本陣に行き渡っていく。
その中で、その不健康そうな男の眼が、鋭さを増した。
(首を出したか……さて、劉備はこれをどう捌く?)
ピシリと、一筋の亀裂が入った様に緊張が走った。
殻に閉じこもるように城壁に依った敵を打つのに、慣れと僅かな弛緩が生まれて来た頃。それは突如だった。
開かれた門、怒濤の勢いで騎馬軍が殺到してくる。
噴き溢れる激流が如し。
獰猛極まりない。黒鹿毛の色をした、圧倒的な疾さと圧力の塊が、前線の兵を一瞬で飲み込んだ。
その速度の変化は、まさに豹変という表現が正しい。
静かに堅守に徹していた董卓軍がここに来て指して来た攻めの一手、その速度差に、劉備軍は全く対応する事が出来なかった。苛烈と表現するべき勢いだった。
殆ど無防備に近いまま蹴散らされた前陣を見て、その後ろの部隊がようやく迎撃態勢を整えはじめる。しかし、その暴力的な速さを持った集団の中で尚も逸早く抜け出た一騎、血飛沫を挙げて微塵にされた惨状を既に置き去りにして突破した一人の騎兵が、中陣が構えを取るよりもさらに速く、その一点に楔を打ち込んだ。
「――――――我が名は華雄!! 敵将ッ、憶せぬなら名を名乗れい!!」
血と汗と埃の混じった煙の中に、太陽を照り返す銀髪が踊る。
華奢にすら感じる、細い女の体躯と反比例するような大斧が一瞬で一人の兵を叩き潰し、漆黒の馬体を持つその愛馬は、立ち塞がる兵の群れを抉じ開ける様に薙ぎ倒し、跳ね飛ばす。その勢いにたまらず死に態となった兵に、翻った大斧が再び叩きつけられた。
「其処の敵将! そこまでにして貰おうかっ!」
「ッツ!?」
既に劉備軍の先陣を踏み潰し、後続の兵の一部が華雄に追い付き、同じように中陣への突撃に掛かっていた。
その最中、我が身を運ぶ駿馬の進路を変えさせぬまま、烈女は敵を見るより早く、眼の端に映った一筋の白刃の影に向かって、強引に得物を薙ぎ払う。
――――――思わず歩を留め、そして目を見開いた。
柄を通して掌には、一刀両断の手応えは無く、代わりに阻まれるような衝撃があった。
自分と同程度の威力を備えた一打。
「劉玄徳が第一の家臣、関雲長! 義によってお相手致す!!」
瑪瑙の様な質感の、黄褐色の瞳が殺気を微塵も隠さず光る。
それが映したのは、装飾鮮やかな青龍偃月刀を馬上で構え、凛として高らかに名乗った美髪の君。
手首の骨の奥に、まだ一抹の痺れが残っていた。
「ふん…………小賢しいわッツ!!!!」
血風吹き上げる戦場、華雄はその獣性を剥き出しにし、人馬を一体にして身を翻し、猛虎の如く襲いかかった。
「董卓軍が打って出たようだな」
「ええ」
周瑜の眼鏡に、先程まで城に張り付いて攻めていた劉備の先陣が、突如として乱れた様子が映った。
劉備・公孫賛軍のすぐ後ろに布陣する孫策軍には、前で起こっている戦の様子がよくわかる。
「しかし、てっきり防備を固めて我らの疲れを待つ心積りだと思っていたが」
「兵法書読みながら戦するのは素人だけだって事よ」
主である孫策は、感慨も薄そうに答えた。
しかし、ぶっきらぼうなその答えは本質を捉えている。
連合軍に比べ董卓軍は寡兵、されど強固な城砦に依る。ならばそれを活かし、堅守に努めて、大軍の補給と体力が尽きるのを待つべし。
――――――というのは、如何にも漢人らしい、堅実な定石だろう。まず知識が先立つ者のやり方。
しかし、兵数と兵力は必ずしも同義語ではない。戦の拍子、敵を崩す戦機を正確に掴む事が出来れば、定石は覆る。
大陸を駆け回り、数多の戦いを繰り返した董卓軍には、その勘が具わっている。
そして孫策もまた、類まれなる稀有の戦術使いなのだ。
「……雪蓮、貴女、さっきから何故そんなに不機嫌なの?」
だが、現状としては未だに連合軍が有利である。
あの騎馬の勢いを真正面で迎え撃たねばならない劉備軍は難儀ではあろうが、そのすぐ後ろには公孫賛が居る。
騎兵は、正面への突破力に優れるが、方向転換の難しさゆえ、側面からの攻撃に脆い。
だから、劉備を攻撃している華雄の横っ面を叩く事が出来れば、あの勢いを挫き、軽くはない出血を与える事が出来るだろう。実戦経験の浅い名士層出身の諸侯であればいざ知らず、騎馬の扱いに長けた公孫賛がその機を見誤る筈もない。
現に、本陣の左右に従えている自慢の白馬義従に、左右側面から縦に伸びた華雄の騎兵を遊撃するよう指示を出している。
「そんなんじゃないわよ。ただ……」
故に周瑜には、この主が不穏な表情を浮かべている理由がわからない。
「イヤな予感がするのよ」
「公孫賛というのは、人が良いんだろうな」
「ああ、先程のか?」
劉備・公孫賛の先鋒が、董卓軍と交戦を開始したという報は、既に曹操軍の陣内にも入っている。
公孫賛――――――と言えば、先程、武蔵らは軽く歓談したばかりだが、その話によると、竹村政名こと兗州を抜け出して放浪していた武蔵が守った商隊というのは、公孫賛軍ご用達の塩商人だったそうだ。
戦闘を仲裁し何処かに去っていったという、竹村政名の武勇と曹操軍の人材の豊富さを称賛する公孫賛の隣で、武蔵は公孫賛に背中を叩かれながら、ひたすら愛想笑いを浮かべていた。
その時の様子はというと――――――
「竹村殿に、あの音に聞こえた宮本武蔵。しかも、天の御使いとかいう隠し玉までいるんだろ? いやー、選り取り見取りで羨ましいよ。武蔵ってのはどんなだい?」
「髪は蓬髪、体躯は大柄。身なりは気遣わず、瞳は琥珀に光り、髭をいつも伸ばし放題にしている異相の男です」
「ははっ、そうかいそうかい。じゃあ、あんたの方が男前だね、竹村殿」
「恐れ入ります」
――――――などという調子だ。
言うまでも無く、全て同じ人間の事を言っているのである。
「しかし、袁紹というのは中々の大器やも知れんな」
「アレの何処に器を感じるってのよ。アンタ目が潰れてるんじゃないの?」
秋蘭に話していたつもりであったが、その言葉には桂花が反応した。
「作戦も何もあったものじゃないでしょ、アレじゃ。春蘭でも、もう少しマシな立案をするでしょうよ」
「なんだとぅ!? それはどういう意味だ、桂花!」
「しかし、桂花よ。現実問題、この布陣で攻め立てる以上の策が、果たしてあるかね?」
「答えだけ合ってればいいってもんじゃないでしょ。あの女は、中身を絶対理解していないわよ」
「そう。それが普通の人間の考え方だ。理論を組み立ててから答えを出す。だがあの娘は直接答えを出す事が出来る。故に、その間の判断がいらん」
悪態を吐く桂花に、武蔵は春蘭の頭越しに腕を組んで微笑している。いつもの、眺める様な眼だ。
「たまに算学で公式を使わずにお題を解く奴が居るが、あの袁紹はまさにそれだな。最終的な答えを感覚で理解しているんだよ」
「フンっ、思い付きをそのまま喋ってるだけよ。郭図がいなきゃ、中身はカラッポだわ」
「まあ、武蔵の言っている事にも一理あるわ」
「かっ、華琳様っ!?」
遣り取りを、携帯用の簡易椅子に尻を乗せて聴いていた華琳が、話が面白くなってきた所で口を挟む。
「馬鹿と天才は紙一重、というしね。とすれば、麗羽と私も紙一重しか違いは無いのかしら?」
「華琳様! この猿人の妄言を真に受けないでください! その紙の厚みには万里の長城以上の隔たりがあるのですから!!」
「それに…………私だって貴女という智嚢があってこその存在だもの。ね? 桂花」
「――――――ッッ!! …………はぅぅ、華琳さまぁ……」
不意に華琳が、自身の少女の美貌に妖しい笑みで色を付けると、桂花の顔が恍惚とし、朱に染まった。
「よし! 春蘭、稽古行くぞ。戦に備えて、軽く汗流そうや」
「な、なんだいきなり? 別に構わんが」
「…………宮本、前々から思っていたのだが、お前、実はこういう絡みが嫌いなんだろう?」
「……袁家の妾腹に、劉姓を頼りに皇族の末裔を自称する詐欺師。上役殺しの人食い虎の娘に、売官で成り上がった宦官の孫。よくもまあ、こんだけキナ臭せー面子集めて、人の事を逆賊とのたまったモンだぜ」
「薄ら暗い呼び名は慣れっこだろう? 正義の味方と言われる方が、俺は却って痒い」
「まーよ」
漢帝国の都、洛陽を守護する鉄壁の要塞・虎牢関。それを南北から挟むようにそびえる険しき断崖。要所と天険の組合せこそが、虎牢関が難攻不落と呼ばれる所以である。
「しっかし出撃っつーから俺らも門から出るもんだと思ってたら、まさかの崖かよ。俺、高けー所ダメなんだぜ」
「馬の上なら、崖だろうが壁だろうが全部“地面”だろ。何も変わらねえさ」
「まーよ」
関の壁よりもさらに高い崖の上からは、戦の様子が丸わかりだった。
崖に挟まれた隘路にひしめいて狭苦しそうに蠢く、連合の大軍。鎧の色と旗の位置から、どの軍がどこに陣取っているかも全てが一目でわかる。関門の前では、彼らに先駆けて前線を崩した華雄の一軍が激突を繰り返しているのが見える。
――――――そして彼らが悠々と見下ろす最中、逆に上を見上げて、彼らを発見した者は居ない。
漢民族の常識では、そのような場所からの襲撃は凡そ、考えうるものではないからだ。
「郭汜の軍は何処にいてんの?」
「南側の崖」
「ん……お、居った居った」
張遼が視線を前に向けると、対面する崖の上に、布陣している見慣れた騎兵の集団が合った。高順らと同じように、佇むように戦場を見降ろしている。
戦場の中に、両翼から睨まれた事に気付いた者は、未だ一人も居ない。
「順、一つ気になってた事があるんだけど」
「なんだよ?」
「こいつらはみんな漢の臣下なんだろ?」
「言葉の上ではな」
「じゃーよ、都に兵を向けるってのは新手の反乱なんじゃねーのか?」
高順が、少し笑った気がした。
犇めくヒトの群れを眺めるように見降ろしたまま、腰にぶら下げた瓢箪の口を開ける
「それだけ、帝室の権威ってものが無視されてんのさ。戦う事に理由を付けまくってたら、いつのまにか矛盾だらけになって、」
「それでも、帝をあくまで“玉”と見做してんだもんな。おかしな奴ら、」
「…………ぷはっ、美味いわ」
「あっ、張遼! てめー、全部呑みやがったな!?」
「おいおい、俺の酒だぞ」
会話の端々に挟むように、酒を一口ずつ回し飲みして行った。張遼は一言も発さず、代わりに残った酒を全て飲み干したようだが。
「奴らは大義ってものを重視するが、実際の所メチャクチャなのさ、大義の在り処なんて」
諸侯を位に封じたのも、董卓が相国に任ぜられたのも、本来は帝の名の元であったはずだ。
しかし、本来、帝の臣である者同士が相い食み、各々勝手に結論付けて兵を挙げている。
帝に後見と政権を任された筈の、董卓が逆賊という事になっていて、この国の首都に漢の臣が血の雨を降らしにやってくる。朝臣が勝手に作った詔によって。
元はと言えば、董卓を上洛させたのも、皇帝の名のもとに判断を下した、周囲の政治家だろう。
一連の事がらに、帝の御意は何処にも存在しない。
「でも、俺達にとっちゃ、そんなもの何処に有ろうが関係ないだろ?」
高順が器用に逆手のまま腰に佩いた刀を抜き、刃を外に向けて口に咥えた。
空いた両手で、弓を構える。瓢箪の脇に下げてあった小瓶の中身、着火用の蒸留酒を鏃に絡めたボロ布にまいて、火を付けた。
騎馬民族が騎射に好んで使う短弓。高所特有の強い風に揺らめく火の中に包まれた鏃の睨む軌跡と、銀色の瞳の視線が重複する。
意義も意味も、この戦で誰が得をするのかも関係ない。この炎こそが、彼らが戦う理由。
ただ、この矢の合図が示すままに戦う。
剣の刃が命ずるままに、馬が駆けるままに戦うのだ。命、尽き果てるまで。
彼らにとって戦とは、ただそれだけのもので良い。
一瞬だけ、風の煽りが弱まった。風と風の隙間を縫って、高順は矢を放つ。
それは鋭く速く、空気を貫いて滑り、充満する敵の群れの中で殊に目立つ、ひと際壮麗な、「袁」の大旗を射抜いた。
虎牢関に狼が咆哮する。
旗が燃え上がった瞬間、両崖の上の騎馬は静粛である事をやめ、火の様になって、一気呵成に敵の海へと駆け降りて行った。
真夜中にパソコンの前で一人で董卓討つべしコールしてたら、何か董卓討てそうな気がしてきた。