邂逅編・第四話
「しっかしたった三人を見つけるにしちゃあずいぶん大袈裟じゃないかい?」
「それだけ、連中の奪った古書が大袈裟なものだということよ」
「眉唾臭い、神仏の加護を受けたとか夢で指南を貰ったとか、そういう話だろ?」
「まあ、実際にどれほどのものかは捕まえてみてからのお楽しみね」
現在、曹操――――華琳らは先ほど武蔵を連行するにあたり捜索隊を割けた際、連れて来た兵ををさらに春蘭、秋蘭の元において三分割し、賊の捜索を再開した次第である。
ちなみになぜ半数をさらに分けたかと言えば、
「相手が三人とわかった以上、これだけの人数はいらないわ」
と言う華琳の言である。
武蔵の情報で敵の兵力と捜索対象の詳細が明らかになった以上、一方面には最低限の人数だけで持って手広く捜査した方がいい、という至極単純な理由だ。
なお、その証言者である武蔵は華琳と同行している。
「しかし……」
武蔵は鞍の上で揺られながら、やや離れて隣を行く華琳に尋ねる。
「俺が嘘ついてたらどうするよ? 実はもっと大勢で、お前らの兵を分けさせてハメようとしてるかも知らんだろ」
「そのために私が一緒にいるんでしょ?」
――――――なぜ州刺史たる華琳が先ほど会ったばかりの武蔵と共に居るのか?
一つは彼が犯人の目撃者であるという事、そしてそれ以上に得体のしれない人物だからということが大きい。
重要なもの、何より危険なものは自らが管理する、それは帝王学の基礎である。
武蔵が下手人を発見すれば真っ先にそれを判別し確保に向かうことが出来、また賊の内通者なら即刻頸を刎ねることも出来る。非常時に際し最も迅速な判断を下すため。危険性の孕む武蔵を手元に置くのはそういう理由であった。
「……ふむ、あっさり信用したかと思うとなかなかどうして抜け目がない」
「褒め言葉ね」
もっとも、その線の心配もほぼ消えていると言っていい。
ただの賊の一味であれば本来、討伐隊を撃破することではなく、逃げることが目的なのだから、敵中のど真ん中に乗り込む危険を冒してまで、策を弄する必要はそもそもない。もし暗殺者の類ならば猛将夏侯惇、夏侯淵を含める騎兵隊を指揮する曹操とうっかり遭遇、などというヘマはしまい。いくら腕が立つといってもそんな状況で暗殺などとても不可能だし、連行された時点で機密保持のために自刃するであろう。
仮に小回りの利かぬ馬上にあって、曹操直下の騎兵部隊に四方を囲まれているという、この状況から脱せられるほどの凄腕ならば、夏侯姉妹が両脇を固める先の尋問の席でも、構わず既に本懐を遂げているはず。尋問の最中いつボロを出すかもしれないのに、ここまで粘る意味はない。一度接触すればなるべく早く実行に移すのが暗殺の鉄則である。好機を待っているうちに感付かれる、など愚の骨頂。
故に、この時点で曹操の指揮する隊列に堂々と居るということは、少なくとも敵意を持っている可能性は消えているのだ。
華琳は、武蔵の尋問をはじめ、その挙動や何気ない会話の最中からもたらされる情報と状況を分析し総合的に判断した上で、武蔵を味方に引きいれたのである。
「しかし鐙のない馬とは乗りにくいもんだな……」
「鐙?」
「ああ、足引っ掛けるとっかかりみてーなもんよ。ないとこんなに身体が振られるとは思わなんだわ……」
難色を示す言葉とは裏腹に武蔵の騎乗にそれほどの乱れはない――――が、内腿と体幹には普段のそれより確実に一分増した負荷を感じていた。
鐙とは騎乗時に足を乗せる、二対になったペダル状の馬具である。その起源は諸説あるが紀元前四世紀頃、世界最初の騎馬民族と呼ばれる遊牧民スキタイによって初めて発明されたとされ、中国では四世紀~五世紀頃に伝来し軍事利用されるようになったという。
これに両足の爪先を掛け、体重を調節しながらバランスを取る。慣れたものは鐙に足を掛けずとも馬を疾走させることが出来るというが、恐らく乗馬を一度でも体験したことのある人間ならば、鐙のあるなしでどれだけその難度が変わるかお分かり頂けると思う。
事実、史上において鐙の登場により、乗用としての馬の汎用性は爆発的に伸びた。故に、それ以前の時代の人間にとって乗馬と言うのは、一種の特殊技能だったのである。
「…………なるほど。天が授けし文殊の知恵、かしらね」
「む?」
なにやら意味深な言い回しを使う華琳だったが、武蔵の問いかけにはただ含み笑いを返しただけだった。
「やっぱり役に立ちそうね、あなた」
日本において漂流者がひょんなことからもたらした鉄砲により合戦の様相が一変したように、時として蝶の羽ばたき程度の些細な事柄が歴史に大きなうねりをもたらすことがある。
そして歴史においてその案内役を担うのは、例えば武蔵が何気ない会話でこぼした呟きだけでそれの持つ有利性を理解できるような、この少女が如き天才である。
天性の閃きとは大抵仰々しい大舞台でなく、えてして凡人が聞き流してしまうような日常に紛れているものなのだ。
この些細な雑談が生み出した一つのさざ波はやがて魏武の躍進の一角を担う津波となるが、それはまた後の物語である。
「曹…………いや、華琳」
「あら、まだ慣れないのかしら?」
「夏侯惇……春蘭が言ってた事を聞くとどうもねえ」
「でも、あなたは本当の名を私達に呼ばせていたのでしょう? 私もあなたに呼ばせなければ信にもとるじゃない」
真名。それは彼女達の最も貴ぶべき生き様の象徴だという。(夏侯惇に言わせれば『神聖なる名』との事)
不躾に呼ぼうものなら、手討ちにされても文句の云えぬ尊い名前。
一応それを呼ぶことを武蔵は許されてはいるが、いざ呼ぶとなると口にし難い。
どれほど大事かもさることながら、よく知りもしないのにそういうものをおいそれと呼ぶのは憚られるものである。
「そもそも、そういう大事なモンをそうそう簡単にバラしていいのか?」
その考えに対し、武蔵は疑問を持たずにはいられなかった。
華琳達も星達にしても武蔵に聞かれるのに遠慮することなく堂々と名乗り合っていた。彼女達の説明から察するに武蔵の世界でそれに該当するのは「諱」だが、それは口に出すことを「忌む」ほど大事に扱う「名」なのであって、彼女達のように会話の最中に飛び交うものではない。だからこそ通名が存在するのである。
彼女達の「真名」は第三者に知られる事を厭わないが、呼ばれる事は極端に嫌う。武蔵の世界の基準では、今一つ理解しがたい思想である。
「……なら、あなたの誇りは他人の眼からコソコソ隠さなければならないようなつまらないものなのかしら?」
華琳は前方から視線を外して器用に手綱を捌きながら、人形のように端正な顔を神妙な面持ちに変えて武蔵を見る。
「私たちにとっては知られたことじゃなく、預けるか否かに意味があるの。真名は私達の魂。私はそれを人から預けられて自分だけ伏せているような、そんなしみったれた誇りを名乗っているわけではないのよ」
「……俺は別にそういうつもりで名乗ったわけじゃないんだが」
「あなたがどうって問題じゃないの。私の流儀よ」
そう言われても武蔵の生きてきた世界では真名と言うものは存在しないし、それでなくとも武蔵自身名前には無頓着なものだから、その価値観はどうにもしっくりこないのである。
現に彼は諱ですら生家から貰った「玄信」以外にも政名、義貞、義軽など何度となく変えている。
唯一「武蔵」は生涯使い続けたが、それはある恩を受けた御人に貰った名だから使い続けたのであり、生き様だとか神聖だとか大層な意味はなかった。
「なら、そうね……あなた、自分の得物を軽々しく人に渡したりするかしら?」
「?」
「あなたの『武』と言い換えてもいいわ。それが見ず知らずの人間に好き勝手語られるのは気分が悪いはずよ。でもそれは堂々と誇るべきものでしょう?」
「……ああ。成程。そうか、そういうことか」
――――――剣は俺の生きてきた道そのもので、俺が俺である証だ。
決して譲れないものであり。人に知られるのに恥じる所は何一つない。
武蔵にとって剣は、誇りであり魂であり、「己」である。
それらすべてひっくるめて自分という存在を象徴するものに例えられて、武蔵はようやく理解することが出来た。
「理解した? 私にとっては、それほどのものをあなたから無条件に許されている事になるの。そこまでされてそれに報いなほど、私は阿婆擦れた女に見えるかしら?」
華琳はそれまで固く結ばれていた表情をふっと緩め、口元だけで悪戯に笑った。
「私が預けてあるのだから、それなりのものとして認識しておきなさい。もし粗末にすればどうなるかわかっているわよね?」
「ところで、三人を見つけたらどうする?」
「そうね、まずは古書と賊の本隊の情報を聞き出し……まあ罪によっては殺害もやむなしかしら」
「早急だねえ。善人も悪人もいっしょくたに抱えるてやるのが王様じゃねえのか?」
「法に反し罪を見過ごす国に民の安まる庇は無いわよ。路傍の石が如き一介の盗賊に、妙な仏心を出してそれを曲げる王はいないわ」
「名の無い庶人に構う事が出来るのも、王様の度量だろう」
『法でなく徳を持って治める』など所詮綺麗事にすぎない。王とは道理を通すために不条理を行使する存在である。
例えば穏便に事を収めようとしても、盗賊が抵抗するなら暴力で捕えるしかないだろう。右の頬を殴られて左の頬まで差し出す事など、凡人にはそうそう、出来る物では無い。
それが出来たのは史上に数えるほどしかなく、その最初の一人は、人を超えて神になった。それほどの難題なのだ。
また法という一定の規律に従わず情という揺れ動くものに従っていてはそこに秩序は存在しない。
「なるほど、全く同感だ。刀は刀で、一度抜いたら斬るだけだ。けどな……」
武蔵もそれは良く知っていた。勝負とは、「己」を懸けて戦うこと。「刀」とは、人の命を奪うもの。
命を常に晒している戦いの場にあって理由や善悪に意味はなく、あるのは勝者と敗者だけである。敗者は何も語らず、死んだ者に口はない。勝者こそがすべてであり、生きた者が正しいのだ。
それが飽くなき決闘を繰り返してきた「宮本武蔵」という男の教示。恐らくそれは一貫して武蔵の中に横たわり、消えることはないだろう。
「英雄だろうが乞食だろうが、骸になったら等しく肉の塊よ。だが、生きてれば必ずなんかの役に立つ。殺すよりは活かす方がなんぼかいい」
だがそれでも、長くその道をひた走っていれば違う景色も見えてくる。
無論、千者の命をその手で屠ってきた身で慈悲深き仁義の人を気取るほど彼は傲慢ではない。
しかし剣は人を殺すでなく活かす事が出来ると――――――その矛盾もまた、宮本武蔵が幾星霜の殺し合いの末に見出した一つの境地でもあった。
「……ま、難しい事は当面の目的を終わらしてから考えるかね」
「あら……眼がいいのね?」
そこで話は終わって、華琳の合図とともに部隊全体が馬脚を速めた。
武蔵が馬を蹴歩させることに集中し、強くなった風と揺れを感じながら目指す先には――――見覚えのある三つの黄色が点のように地平線にぽつりとあった。
「……なーんも無いっすねー、アニキ」
「全くだ……あのアマがいなけりゃあの錦俺らのモンだったんだがなあ」
仕事をしくった男三匹。ぼうっと空を眺めて往く。
「チ、チビ……なんか変な音がするんだな」
「そりゃオメーの腹の虫だ。ドドドドドって馬の蹄かオメーのハラは」
もしくはジョジョ……いやいや、違うか。
「しかし……デクじゃないっすけどハラ減りましたねえ。官軍もうろついてるみてーですし早いとこバックレた方が良くないっすか?」
「そだなあ。獲物もいねーし、こりゃあどっかの『同志』ントコにでも転がり込むか……」
うだつの上がらぬ中年三者。人にタカるも飯のタネなり。
「アニキ……ア、アレ……何なんだな?」
「あれっておめえ、こんな所にゃなんもねー……って、うおお!!! なんだぁオイ!?」
今日はとことん、ついとりゃせん。
男があげた素っ頓狂な叫び声は、疾走してきた地鳴りがかき消してしまった。
三人が馬首を返すうちにはもう華琳の指揮する馬の群れは整った隊列を波打たせる様にして急停止し、馬蹄の轟音とともに三人を取り囲んでいた。
「この三人で間違いないの?」
「うむ」
聞かれつつ武蔵は順繰りに三人を見遣る。
小男、ノッポ、大男……紛れもなく先ほど出会った三人であった。
「っ……噂をすれば影ってヤツか、ちきしょうめ!!」
舌打ちをした首格と思われる背の高い男に倣って三人組は馬上にあるまま一斉に剣を抜いた。
罪状を言い渡される前に迷いなく抵抗の意思を見せるところ、もうすでに心あたりはあり過ぎるほどあるのだろう。明らかに野党のような粗末な装備ではない華琳の兵達を前にして臆したようなそぶりはなく、眼には一兆前に気組が据わっている。
「どうする? 華琳」
「捕えるわよ」
「窮鼠猫を噛むっつう言葉もあるぞ」
「フン。犬猫は噛まれても、虎や狼が噛まれる事はないわ」
華琳は自信ありげにそう返すが、追い詰められた人間と言うのは存外恐いものだ。
武蔵はそれを猫として何度も見てきたし、時には鼠として体現してきた。それに虎は噛まれずともその部下の猫達までそうだとは限らない。
「はっ! 何が虎だ!! ちょいと小突いただけで町も金も全部ほっぽり出して逃げてく、腰ぬけの官軍様がよ!」
首領の口上と共に三人はゲラゲラと嗤う。
最近の賊の出没とともに怖れをなして逃亡する州牧や太守がいる――――という話は武蔵も先ほどの探索中ちらっと華琳から聞いていた。
恐らく彼らは、そういうお飾りの官軍の治める土地を狙って、何度も略奪を続けてきた中の一味なのだろう。
そういう野伏の集まりがやがて、戦利品の分け前や食糧の枯渇でもめてちりぢりになり、再び彼らのように各地に散らばる、というのはよくあることだった。
妙に場慣れしている風から考えても、彼らは各地を流れながら揉め事や蜂起に加わって転戦してきたのかもしれない。
「確かにまあ、木刀もロクに握ったことのない奴がいくらいても、使いもんにはならんわなあ」
「……同調してどうすんのよ」
思わず敵の首領に同調してしまったが、なるほど武蔵にも心あたりはあるのだ。
真剣での斬り合いなど到底したことはなく、刀を抜く機会も失い手入れもしないので値だけは張る自慢の銘刀を赤く錆びさせてしまう似非侍。
格好つけに道場に籍だけは置いてるものの、肝心の稽古は流してどこかで聞いたような道場訓を黙想しながら唱えるばかりに懸命になり、それで強くなった気でいる張りぼて剣士。
ろくに修行もしたことがないくせに、秘伝だとかいう謳い文句の怪しげな兵法書だけさらっと読んで、知ったふうな口を叩く講釈垂れ。
泰平の世になって出てきたのは、そういう剣のけの字の左の縦棒すら知らぬような形骸した武の姿だった。
恐らくそれは、漢朝四百年のなれの果てだというこの世界においても変わらぬのであろう。
武蔵にとっては兵法を礼だの品格だのという物にすり替えて鍛錬を怠る頭でっかちの輩よりは、目の前の下品に笑う無骨な無頼漢のほうが幾分か好ましくすらあった。
「別に華琳の兵がそうだと言ってるわけじゃない。馬捌きも凄いしな。ただ……あんな鼠でも噛んだら痛いかも知れんぞ」
「全く……そんなに言うなら、あなたの剣とやらを是非見てみたいものね?」
「見たいか?」
華琳が柳眉を釣り上げて含みのある台詞を言うと同じに、武蔵は華琳のすぐ隣に馬を寄せた。
「ほれ。よく見とけ……っと」
そう言って武蔵は華琳に自分の腰に差した二本の刀を手渡すや否や、馬を降りてそのまま三人組の方へ歩いて行く。
――――――そう、手渡したのだ。武士の魂である、刀を。
「ちょっと!? なにを――――」
「華琳。しっかり持ってろ」
丸腰で敵の前に無造作に出て行く背中に、さしもの華琳も面喰った様子を見せたが、武蔵は刀の扱いに気をつけるように釘を刺すと、首だけ振り返ってニヤリと笑った。
「――――――預けるぞ」
逢魔ヶ刻動物園面白いよね。