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反董卓連合編・三十七話――――――「諸侯、動く」


董、天を欺き地を晦まし、君を弑し国を滅ぼす。

今、天子の勅を奉じ、大義の兵を挙げて群凶を誅滅せん。


漢の朝臣、橋瑁の発した檄文は大陸を駆け巡った。


――――――冀州。


「おーっほっほっほ!!!!!!」


壁と高い天井に所狭しと描かれた花鳥風月、それを金箔で覆った、眩いばかりの宮殿に高笑いが響く。

エレガントとゴージャス。優美な気品と贅沢な華やかさ、矛盾する二種類の美しさを併せ持った美女が、その贅を尽くした中央の座で、底抜けな喜色で愉快そうに笑った。


「普段まるで仕事しない姫が文書持って笑ってるよー、明日は雪だな、斗詩」

「あーら、猪々子さん、冬に雪が降るのは当たり前でしてよ。斗詩さん、読んでさしあげて下さいな」


ボーイッシュカットの少女が、高座の下で頭を掻く。床に座り込んで、至極、てきとうな口調を付く。


「文ちゃん、パンツ見えてる! っ……ととっ」


胡坐をかき、真っ白い脚をスカートから無防備に晒した、相方のだらしのない恰好を咎めながら、反対側に侍るおかっぱ頭の少女が、ピッと投げて寄こされた文書を、お手玉しながらキャッチした。


「えーっと……反董卓連合の儀、河北の雄・袁紹殿を盟主に据え、決議されたし。どうか、誠の義を知る漢の忠臣たる諸将が逆賊・董卓を討たんがため奮い立たん事を……」

「そう! そこですわ、斗詩さん!!」


つらつらと、斗詩がごく平坦な抑揚で文面をなぞっていくと、途中で高座に座る女が、バッと組んだ脚を解いて立ち上がった。


「この私、袁本初! 四世三公の名族・袁家の名を継ぎし袁紹を是非とも盟主に仰ぎたいと! この橋瑁という男の慧眼、中々のものではありませんこと? まっ、この袁紹が諸侯の指揮を執ると言うのは順当中の順当ではありますが……」


わたくしの生来の高貴さから言っても当然ですわね、と、再び甲高い声で高らかに笑う。

上機嫌の袁紹を放置して、猪々子が両手で組んだ足を持ち、身体を揺すりながら斗詩に声をかける。


「なー斗詩ぃ、この董卓ってアレじゃねえの? 涼州のさあ」

「うん……多分、前に国境の境で兵馬掾をやってた、董君雅さんのお子さんだと思う。娘か息子かはわからないけど」

「あー、やっぱし、あのオッサンのでしょ!? いい人だったな~、あたいガキの頃、あっちの方に住んでたからさ。よく牛さばいてもらってたよ」

「……でも、これには暴虐と狼藉の限りを尽くして帝を蔑ろにしてるって書いてるけど」

「すぐに出陣いたしますわよ! 斗詩さん、ただちに文官と将軍を集めなさい!」


雑談まがいの会話をつづけていた彼女らの間に、高らかな宣言とともに袁紹が割って入った。


「ええぇっ! ちょ、ちょっと待って下さいよ、まずは郭図さんや淳于将軍達とも相談してから……」

「何をちゃらんぽらんを仰いますの、斗詩! これはこの袁本初を主とする戦、云わば聖戦ですわよ!? 理由などそれだけで十分でしょうに!!」

「そ、そんな無茶なぁ~、諸侯がどれだけ参加するかもわからないし、董卓に関する情報だって全然……ほっ、ほらっ! それに文ちゃんの昔馴染みの縁者なんですし、ねっ、文ちゃん!」


わたわた、と如何にも焦っている風な身振り手振りで言葉を並べて、そっと相方の方に目配せする。


「あたいは別にかまわねえよ? それとこれとは話が別だし、ゴチャゴチャ外交だの政局だの考えるより、ドカーンとやっつけちまった方が手っ取り早いっしょ?」

「文ちゃん~っ!」


全く役に立たなかった。


「さあ、斗詩、猪々子! 軍を動かしますわよ! 優雅に、華麗に、美しく! おーっほっほっほ!!!!」

「もう~っ!!」


半ベソをかく斗詩の嘆きを呑みこんで、高貴なる甲高い笑いが何処までも響いた。




――――――徐州。


「ふむ、動く、動くとは思うとったが、此処まで派手とは」


恰幅の良い小太りの身体。何となしに親しみのある可笑しげな体型には、あまり似つかわしくない虎髭とドングリ目を備えた四角い顔。

白いものの混じった髭をいかにも大層な風で撫でながら、左手に摘まむ書状をぎょろりと見遣る。


「しかも担ぐのがあの袁家の小娘とは。あんな女児の力に縋ってまで、胡人が権力の座に居るのが気に食わんか」

「して……陶謙様、いかがなされます? 捨て置きまするか」

「いや、兵は出す。曹豹、遠征軍はお前が率いよ。六分の力を全力に見せて戦い、被害は千に抑えて帰還せい」


軍装姿の男の進言に、にべもなく答えた。


「恐らく、この戦は痛み分けで終わる。連合に董卓を討つ事は出来ぬ。が……董卓が洛陽に勢力を維持するのも難しくはなろう。なればその時、帝を握って居る者が次なる外交の相手」


そこまでいうと、陶謙は重たそうな身体を揺らして大儀そうに席に付き、一筆の書状をしたため始めた。


「帝が玉と見なされて居る以上は、全ての政局は帝を中心に展開する。戦事も所詮、外交手段の一つに過ぎん。それがわからん英雄観に酔った若い才から潰れて行くのだよ」

「はあ」

「とりあえず今は、連合に名を連ねて諸侯への名分を立てておくだけで良い。朝廷内の権力争いに協力してやる、それ以上の義理も旨みも無いわ」




――――――西涼。


「韓遂様、董卓誅滅の檄文、如何になされます?」

「捨て置けい」


台座に腰掛けた男は、束ねた長髪と髭は真っ白、顔は皺枯れ、黄味を帯びた瞳だけが浮き出るようにぎらりと光っている。研磨された瑪瑙を思わせる独特の質感を具えた瞳は、西方出身者に良く見られる特徴。つまりは彼が、西の民の血を色濃く引いている事の証だった。


「これはまさしく、漢民族の戦だ」


しかし老人然とした顔の下の首は太く、肉体を構成する筋骨は凄まじく逞しい。

黒い毛皮の外套を被り、その肌は殆ど見えないが、頬杖を付くその手の甲には夥しい程の傷痕。


「残忍、暴虐、悪徳、不仁。あらゆる言葉を持って敵を誹謗し、言葉によって大義という衣を繕い、頭から爪先まですっぽりと被らなければ、心安らぐ事が出来ぬ」


手綱を握り、矛を振るう手に刻まれた、その傷痕。それはつまり、彼が馬上で生き戦場で死ぬ、戦う為の民族として生まれた宿命を、その長い人生を通して完遂して来た事の証明。


「敵を貶め、自らの正当性を殊更に喧伝せねば、矛を取れぬのだ。奴らは、自らの矜持に従って戦いぬく事が出来ぬ。戦う理由を言い訳がましい大義という衣で包んでやらねば、戦場に赴く事すら出来ぬ。故に奴らの戦いは、ひどく不細工で醜悪だ。それは西涼の血を流すべき戦では無い」


それこそが、西の民の証。


「ですが、馬超の軍勢はすでに連合側での出兵を決定したらしく……」

「馬騰の忘れ形見か」

「はっ、董卓も我々に近い血脈を持つ者、互いに相食むのは好ましくないのでは……」

「捨て置けい」


側近の進言に対し、男は先程と全く変わらない平坦な語調で答えた。


「所詮は漢民族の混じりものだ。漢に交わり漢に染まり、漢の尺度に毒され、西涼の在り様を見失った者達。故に自らの言葉を持たぬ董卓は漢朝の権力闘争に漢民族のやり方で巻き込まれ、自らの矜持に不明な馬超は風評に踊らされ、漢民族の戦に漢民族のやり方で身を投じた。戦とはあくまで自らの尺度に準じて行い、自らの矜持の中でその意味を完結させねばならぬもの。他者に植えつけられた風評や世論の類に踊らされては、絶対にならぬ。それを犯す戦は、西涼の戦では決してないのだ」

「……はっ。では、その様に」


語り終えると、韓遂は一つ大きく鼻で息を付き、また深く押し黙った。

側近はそれ以上は何も言わず、一度礼をし、そのまま立ち去っていった。


「……生き物は“戦う”。それは真理」


たった一人になった大広間で、ぽつりとつぶやいた。低く、掠れるような重い声。

目が閉じられると、深く刻まれた目尻の皺が静かに寄った。


「――――――真理に理由を求めるのは、知恵を具えた人間の傲慢でしかない」




――――――幽州。


「董卓の暴虐、ここに極まりて、国、荒廃す。憂国の義士なれば、この危急存亡の時にこそ立ち上がらんや……ふむ」

「どういうことなのだー? 朱里」


艶やかな黒髪を一房に束ねた美女が、口元に手をあてて文書を読む。

それを背伸びしながら覗いていた少女が、その内容を文章を音読していた美女に……ではなく、それを挟んで書状を覗く、自分と同じ程の金髪の少女に問うた。


「おい、鈴々、何故私ではなく、わざわざ朱里に聞くのだ」

「愛紗は難しい事を難しいまま言うから、鈴々が聞いても意味わかんないのだ。朱里は鈴々にもわかるように説明してくれるのだ」

「むっ……」


濡れ烏色の髪の女が、見るからに規律規範の堅物然とした物腰をつっかえさせるようにして、思わず、口を噤んだ。

この義妹は思った事をそのまま口に出す気性だが、それが妙に的を射ている事がある。


「はわわ、えっと……すごく端的に言うと、『都に悪い人が居るからやっつけましょう』……ってことかな?」

「なーんだ、それなら簡単なのだ。要するに、そのトウタクってヤツをぶっ飛ばせばいいんでしょ?」


一本一本の毛が細い少女時代特有の、色素の薄い金髪をわたわたと揺らしながら、たどたどしく説明する少女に反し、鈴々は頭の後ろで両手を組んで、あっけらかんと結論を出した。

浮かべた笑顔は向日葵の様で、まったく邪気の欠片もない。


「また、戦……か」


ふと、溜息の様な呟きが一滴落された方に、三者の首と眼が振り向いた。

香り立つような長髪、蒼空のような瞳。声だけが、頼りなげだった。


「桃香様」

「先の戦争も終わって……ようやく、平和になるかなって、涿県に戻って来て、みんなの笑顔見て思ったのに、また……」

「桃香様……お気持ちはわかります。が……」


すっ、と、火が消えていくように、沈黙の色がその場にたちこめる。

愛紗はあえて気丈に、声を張り、やや硬い声質を作って進言した。


「鈴々の弁では、さすがに大雑把ではありますが……しかし、それは決して的を外した事ではありません。悪政を布く者を除かなければ、民の安寧はありえませぬ。それに、太守である公孫賛殿も出陣の意志を固めておられます。上司であり盟友関係でもある公孫賛殿の出兵に呼応しないというのは信義に……」

「うん、わかってる……でもね、やっぱり考えちゃうんだ。戦ってる人達の事……」


控えめに、あくまで本当に控えめにだが、それでも、愛紗の言葉を止める事が出来た。

この少女の語気には、不思議とそんな力がある。


「戦って、怖くて、痛い思いして……たくさんの人が死ぬの。でも、敵にも味方にも、大切な人が、帰りたかった家があって……きっとそれは、董卓さんの兵にも、董卓さん自身にも。そう考えたら、本当は死んでも良い命なんて、ひとつだって無い筈なんだ」


少女は続ける。


「もし、和議の使者とか送れたらさ、ホラ、お互いの主張を聞きながら、ちょっとずつ譲り合って……そうやって、隣の人に少しだけ親切にしてあげるように、この国の人達みんなが優しくなれたら……戦なんて、いらないのに」

「……桃香様、それは……」

「――――――ごめんね、変な事言って」


何かを言いかけた、愛紗の言葉を、再び止めた。

今度は胸を張り、凛として。


「わかってるんだ。それじゃ、ダメだって。戦う事は避けられないんだって。そうやってまごついてたら、もっと多くの人が悲しむ事になっちゃうから。大丈夫、覚悟決めたもん。愛紗ちゃん達が私と一緒に戦ってくれるって、私に力を貸してくれるって言った時から。その時が来るまで、私は絶対、戦う事から逃げたりしないから」


愛紗は、思わず眼に力を入れた。

何故、この人が戦わなければならないのか。蚊を殺す事すら躊躇う、この少女が。

そうして気丈に振る舞った精悍な表情の裏で、倒れていく味方一人一人、会った事の無い民草にまで思いを馳せて、心を痛め続けるのだろうに。


――――――否、だからこそ、だ。

そういう御人であるから、そうして道を歩く上で当たり前に足を動かす様に、生きていく上で人への慈しみを忘れない方であるから。

そういう御方だからこそ、私はこの人を主に戴きたいと思ったのだ。


「みんな、死んじゃうかもしれない、大切な人を亡くすかも知れない。それでも、それでも私と一緒に、天下の平和を目指してくれるのなら……お願い、私と一緒に、戦って」

「……はッ!!」


愛紗が力強く拳を抱き、左脚を引いて跪く。

二人の少女もまた、言葉は無いながらも力強く頷いた。




「――――――しっくり来ない事がある」

「ん?」

「董卓を攻める名分だ」


兗州では、既に董卓攻めの為の準備が行われている。

武蔵と秋蘭は喧騒の合間を抜けて、私室で碁を打っていた。


「董卓は朝廷を蔑ろにし、本来、皇帝の持つべき権力を不当に占有している」

「不当に?」

「本来は朝廷の護軍を統率するに過ぎなかった董卓は、陛下の許可なく勝手に軍備を増強し、政治にまで権威を及ぼすに到った。これは本来の分を超えた明らかな専横だ。そしてその為に自らに反抗する者を粛清し、権力の独占を図っている。その為に、民は喘いでいる」

「要するに董卓は悪者で、連合は大義を持った正義の味方なのか?」

「…………」

「そこで黙るのが、お前が他の奴と違う所だ。春蘭は特に深い事は考えずに華琳に従うだけだろうし、桂花は基本的に勤皇派だしな」


だが、この美女は心情は曹操に寄り添いながらも、何時も一歩遠巻きに物事を見ている。さながら鷹の様に。

あるいは、漢土の風習をハナから全く身に馴染ませておらぬ武蔵の様でもある。

パチリ、と武蔵が白石を打った。

盤上は中盤戦、お互いの陣地がはっきりとして来た境界を割るように寄せていく。


「政治的に董卓に居られると邪魔だから、攻め落としちまおうというならわかる。利害が合った奴らと連合を組もうというのもわかる。が、それに都合以上の大義とか正義とかくっ付けて説明しようとすると、にわかに胡散臭え」

「…………」


秋蘭は答えはせず、無言で武蔵の受け手に応じる。


「董卓は黄巾の乱以前から官軍の主力として戦ってきた。その董卓が勢力を伸ばしたのは自然の成り行きだ。いち小豪族に過ぎなかった華琳が、州牧に成り上がった様に」

「…………」

「政治をしてりゃあ、反対勢力が出来るのは当たり前だ。連合が董卓を討たんとするように」

「…………」

「董卓のやっている事は、全て政治行動のもたらした結果だ。道義や道理で是や否を問える問題じゃねえ。むしろわざわざ戦を起そうとする連合軍側の方が民を疲弊させているだろうし、天下の宰相たる相国の位に就いた人間に兵を向ける方が逆賊だろう。董卓から言わせれば、そういうさ」


武蔵の打った白石が、左側一帯を占める黒石の、下方と上方の連絡に楔を入れた。

黒の地の内側に打ち込まれた白は、外を包囲する白の砦と呼応し、黒の地をじわりと荒らしていく。


「桂花に言わせりゃきっと、伝統から言って、相国は蕭何と曹参にしか許されん位だとか、国政を意のままにする事は臣の道に叛いているとか理由があるんだろうが、漢人じゃない俺にしてみりゃ、董卓が相国になっちゃいかん理由がわからねえし、天子から権限を下賜された董卓が権力を振るって咎められる理由がわからねえ」

「…………」

「お、勝ったんじゃねえか、これ」


渇いた音を立てた白の一石が、下方の黒石の機能を完全に殺した。

黒は上右隅に勢力を残すのみとなり、白は下方を併呑し、盤上の四分の三を占め、ガッチリと基盤を固めた。

武蔵が秋蘭から白星を得るのは、かなり久々の事である。



「――――――答えにくい質問をしてくる男だ」

「聞き流してれば勝ったかも知れんのにな」

「自分からし始めたくせに、そういう事を言うのか?」

「こんな話をまともに聞くのはお前くらいなもんだ。普通の人間は取り合おうとはせんぞ。そんな事を逐一気にしていたら、隠者のように山にでも籠って、俗世と離れるしかないからな」


負けた方が石を片づけるのは暗黙の決まり事だ。

秋蘭がジャラジャラと碁石を回収している最中、武蔵は茶を含んで一息付く。


「要はな、不義だの簒奪だの大義だのと理由を付けても、水掛け論にしかならんという事だ。白と黒ではっきり分かれる物なんてのは、それこそ盤上の勝ち負けくらいしかない」

「あるいは、敵か味方か、か?」

「それすらも今回に限っちゃ、一概には言えんだろうよ。白と黒の間を行き来する灰色、白に近い黒に、黒に近い白、あるいは人畜無害。何十万の色の違う人間が混然一体になって一か所に集まる。現世の混沌だよ」

「見誤る華琳様ではないさ」


白と黒がごちゃごちゃに混ざり、盤上の上で踊る。

秋蘭の白く、弓の妙手とは到底思えぬすらりとした豆やささくれの一切無い指が、それらを白と黒に一つ一つ、選り分けていく。


「オルレアンの乙女、という話はした事があったか?」

「なに?」


碁笥にすべての石を収めて、再び碁盤を挟んで武蔵と向かい合ったが、不意に投げかけられた横文字には少々、不意を突かれたようだ。

思わず聞き返す彼女は、普段、殆ど表情の彼女にして、珍しい顔をしていた。


「西洋の話でな、林羅山という男がしてくれた話なんだが……」

「ふむ」

「これが実に変わり者でな。誰も聞いとりゃせんというのに、自分の頭の中に詰まってる膨大な学問や歴史や宗教の話を、思い付いた様に喋るんだよ。おかげで切支丹でもねえのに、耶蘇に詳しくなっちまった」

「…………」

「なんだ、その眼は」


類は友を呼ぶ、という格言を瞳に込めて見つめてみたが、あいにくその念は届かなかったらしい。しばらく無言を続けていると、武蔵は勝手に喋り出した。

……だれも、「話してくれ」、とは聞いていないのだが。


オルレアンの乙女(ラ・ピュセル)。ジャンヌ・ダルクと呼んだ方が通りは良いだろう。

武蔵の時代より二百年前、秋蘭よりは千二百年後。神の声を聞き、フランスを救った一人の少女の名。

うら若い娘の身でありながら軍に身を投じ、祖国の聖地であるオルレアンを解放に導くも、次第に宮廷内で疎まれ、孤立し、最期は味方に見捨てられ、援軍の無いまま敵陣内に取り残され捕虜となり、十九歳の若さで異端者として火あぶりにされた非業の聖女の名。


「何処か似ていないか?」

「何?」

「国の為に命懸けで戦い、大功を挙げたが、やがて政治的な思惑から孤立していき、今では天下の大悪党として、数の暴力に粛清されようとしている」

「…………」

「だがな、結局これも、是も非もねえ話だ。この乙女は祖国の為に戦ったし、国王は王として、一人の指揮官に構う暇は無かったろうし、英国は同胞を殺した女を、許すわけにはいかなかったろう。董卓と連合の争いも、要は一緒だ」


皆、思惑があって戦っている。その結果、敵と味方と、それ以外に分かれただけだ。


「あえて言うなら……民衆って奴が、俺は一番始末に悪いと思うよ」

「民が?」

「風評が右といえば右を向き、喧伝が左といえば左を向く。良い時期には英雄と祭り上げ、落ち目には魔女だと罵る。すぐに掌を返し、そのくせ戦った人間の考えなど、まるで知らん。そして大抵は無関心で無責任だ」


武蔵は今度は黒石を持ち、ころころと掌で遊ばせる。

そして少し考えて、右側の星に石を打った。


「そういう、自分の中に善も悪も持っていない人間こそ、一番タチが悪いと俺は思うね」

「……それは、そうかもしれん」

「ん?」

「兗州には人が集まってきたが……それは恐らく、人の流れに乗っているだけだ。それを作りだした華琳様の政策を、理解している人間は少ない。まして華琳様の心情や真価を解している人間が、一体どれほどいるのか」

「…………」


パチリ、パチリと、武蔵と春蘭は二つずつ星を埋めた。そして武蔵が右の上隅の小目に打った時、ガチャリ、と扉が音を立てる。


「――――――おい、秋蘭。華琳様が……む? 宮本ではないか」

「春蘭か。他人の部屋に入る前には一声かけろ」

「なんだ、突然入られて、何かマズイ事でもあるのか?」


左手を懐に入れた武蔵は、春蘭の声を認めて、指先に触れた金物は手に取らず、そのまま手を引き抜いた。

春蘭はジトっと武蔵を見遣ると、お構いなしにドカドカと部屋の中に入っていく。

部屋の主である秋蘭は、特に咎める様子もない。


「まあ、一緒に居たのならちょうどよい。華琳様が、軍編成に付いて、これから会議を設けるらしい、早く来いと仰せだ」

「おお。春蘭が真面目な言葉を使っているのは、なにやら新鮮だな」

「やかましい! さっさと来い!!」

「ふむ、では行くか、宮本」


ムキになる春蘭に、秋蘭はスッと立ち、武蔵はそれを受けて大儀そうに、のっそりと立ち上がった。




「――――――すでに諸侯は、反董卓の連合実現に向けて動いているようだ」

「…………」

「小次郎殿」


優雅に見える白鳥も、水面下では必死にもがいているもの。

この漢帝国の首都、洛陽がまさにそれ。

一見、平時と変わらぬ風雅さを堂々と誇る宮城の水面下は、今まさに激動と混乱が渦巻いていた。


「貴殿には、董卓様の護衛を任せたい」

「…………」

「筋を違えているのはわかっている。本来なら、食客である貴殿に頼むべき事ではない。だが、現状、この任を頼める中で最も信頼できるのは貴殿なのだ」


そのような状況下で、董卓に次ぎ、朱儁・王允に並ぶ軍権を持つ、中郎将、左将軍を経て、車騎将軍まで歴任した大物軍人、皇甫嵩が護衛も付けずに一人で居ると言うのは、よほどの内密事があるのであろう。

あるいは、対面に静かに座するこの美しい男が、百人の護衛よりも強力である事を知っているからこそだろうか。


――――――今、表面化こそしてはいないが、首都内の勢力も董卓派と反董卓派に二分しつつある。

即ち、董卓に従って入朝した者たちと、朝廷の生え抜き組との対立である。

とりわけ、董卓の台頭により都入りしたのは各地を転戦し続けたガチガチの武闘派達の集まりであり、対して、元々から朝廷に所属していた者たちは、皆三代以上は続く中央高官の家柄、いうなれば、真反対の色の組み合わせだ。

また、この“色”というものは、単なる比喩で終わるものではない、つまり、目や肌や、髪の色。

即ち、純血の漢人と非漢人の間に隔たる、人種的差別観である。

中央政府、殊に高官の位に就いている者であれば、必然的に格式高い家柄に連なる者が多くなり、その大半は漢人で占められる。

対し、董卓を含む辺境の州は、時代を遡れば元々は異民族・先住民族の土地であり、現在もそれらの地方の出身者はその血を色濃く受け継いでいる。南方の浅黒い肌や、北方系の透き通るような白い肌の持ち主や、白銀や赤の頭髪を持つ者、そしてそれらの諸民族の特徴を併せ持つ混血。

「漢」とは、まさに漢民族である高祖・劉邦が建国した、漢人による、漢人の国である。元々、古来より存在した多民族に対する価値観の相違は、漢帝国という強大な国家の出現により、中華に置いて漢民族と異民族、つまり“漢人”と“非漢人”という大別的差別観を決定的なものとした。


「わざわざ俺が警護に付かずとも、董卓の身はその子飼いの兵が守るだろう」

「それでは足りぬ。すでに彼女の敵は外の連合軍だけでは無い」

「…………」

「……頼む」


――――――そこへ行けば、皇甫嵩は漢王朝に置いて一族は皆、中枢に置いて出世を果たした軍人・太守の家柄、自身も孝廉によって推挙された、まさに純血の漢民族である。

それゆえ、彼女の指揮する皇帝直属の精鋭軍も、生粋の漢人揃いであり、董卓に悪感情を抱いている者も少なくは無い。

だからこそ、彼らをわざわざ董卓の護衛に付けるよりは、あくまで皇甫嵩個人の食客であり、この問題に関しては全くの中間色である小次郎を抜擢する方が、軋轢が少ないと判断したのだ。


「…………俺の国では」

「……?」

「受けたものには必ず報いる事が美徳だ。恩も、恨みも」

「…………」

「宿と食い扶持。それと市外の墾地からこの宮殿までの道案内。お前に受けた恩は残っている」


――――――コトリ、と口付けていた杯を机に置く。

中身は酒では無い、ただの水。


「引き受けよう。お前の頼みなら」

「――――――かたじけない」


返って来た言は、承諾の意を表す無味乾燥な一言。

だが、佐々木小次郎のそれは、皇甫嵩にとっては確かに信義を感じさせる響きであった。


「その用心棒だが」

「……む?」

「俺の担う役目は“護衛”のみ……あくまでも、そう捉えて構わんのだな?」

「うむ」

「そうか。わかった」


そう、短く確認だけすると、小次郎はスクッと席を立った。

木枯らし混じりの冷たい風に包まれてたなびく黒い髪。冬の訪れを感じさせる東屋の外の景色に、その美しい立ち姿は良く栄える。


「…………小次郎殿」


立ち去ろうとする小次郎に、皇甫嵩はおもむろ声をかける。

小次郎は返事なく、ただゆらりと彼を流し目に見遣った。


「前から疑問に思っていた事がある。それほどの腕前がありながら、貴殿は何故、要職に仕えぬ?」

「…………」

「以前、皇帝陛下の護衛として私が推挙しようとした時も、貴殿は拒んだ。何故だ? それほどの腕と才気があれば、武を志す者が望む多くの栄達は思いのままだ。否、貴殿の才を鑑みればそれこそが相応しかろう。何故、世に出る事を拒む? それが目的でないのなら、何故、貴殿はその武を磨くのだ」


皇甫嵩が董卓の護衛に小次郎を選んだ理由。それは立場的な中立さもあったが、何より、佐々木小次郎の剣の腕を知っていたからに他ならない。

初めて小次郎の剣を目の当たりにした時、皇甫嵩は戦慄よりも先に異様さを抱いた事を覚えている。

十数人の男を、返り血を浴びず、一歩も動かず、ある地点から内側の間合いには全く入らせずに斬って捨てた。

斬り捨てられた骸は、まるで初めからその形に造られた人形のように、ある種の鮮やかさすら具えて殺されていた。

あの惨劇から垣間見えた、極限なまでの技功。

十人を一度に相手取れる猛者は存在するやも知れぬ。だが、あの絶妙な斬り口、そして気味悪さを湛えた、実に奇妙なあの、ある種の美しさを生み出せる技を持った武人は、数多くの戦場を潜り抜けた皇甫嵩をして、二人と見た事がない。


そして、それ程の剣の冴えを持ちながら――――――俗世での栄達を一切望まない。

自らの腕を頼みに志を為そうとする者は、今の時勢、大勢いる。だがこの男は、要職に推挙される事は自ら拒み、皇甫嵩の依頼で戦場に出る事はあっても、その功による感状や役職は受け取らなかった。


「…………」


豊満な胸、雅な腰つき、女性としての魅力を十分に含んだその肢体を、野暮な軍服で隠している。

この軍装の麗しき美女に見つめられても、佐々木小次郎の振舞いは全く変わらない。

皇甫嵩は、さぐる。されど、凛とした表情で、見据える先の美貌の顔の奥に隠れた心情は、ようとして図れぬ。


「――――――伊藤一刀斎は」


皇甫嵩が霧の中を探るような表情を浮かべているうちに、小次郎は唐突にある名前を呟いた。


「剣士としての己を全うして死んだ」

「…………何?」

「強い男だった。あの剣に相対した時、本当に時が止まったかのように錯覚した。戦慄を覚えたよ」


聞き覚えの無い名が出て、皇甫嵩は訝しむ。しかし、小次郎はそれを気に留めず、気侭に言葉を続けた。


「己の人生の全てを注ぎ込む事が出来た剣とは、これほどに凄まじく、そして祝福されたものなのだと」


しかし、皇甫嵩は、その独白にも似た言葉に、口をはさむ事をやめた。

この男がこういう語り方をする時、それはこの男の心の音に触れる事の出来る機会だと言う事を、彼女は知っているから。


「富田勢源は病によって失明し、憂悶のうちに剣を置いた。鐘巻自斎は弟子に敗れ、失われた誇りを、二度と取り戻す事は出来なかった」

「……」

「だが、それでも剣の道から退く事は無かった。父は見えぬ眼で死ぬ間際まで俺に剣を教え、師は俺に命を懸けて己の全てを相伝した。彼らもまた、命の全てを剣に捧げ、そして死んだ。紛れもなく、剣の道の上で」


小次郎の瞳が映すのは、枯れ木と曇り空の、穏やかな初冬の景観。

そろそろ、雪の降り始める頃か。


「――――――俺は、父の血を濃く継いだようでな」

「…………」

「十五の頃からか、徐々に物の色や輪郭の端が滲むようになった。四十の頃には完全に見えなくなった」


皇甫嵩が小次郎を見遣る。奥底の見透かせぬ顔、瑞々しい肌、黒々とした艶髪。

美男という言葉が立ち姿から自然と湧いて生まれてくるような、年若い青年の姿。

その青年の、深い色をした黒い双眸は、ひらりと落ちた枯れ葉をゆったりと追い、眺めていた。


「だからこそ、俺の記憶にある最期の時は、充たされていた。あの瞬間、俺は確かに剣士足り得た。それ以外のものは、俺には余分だ。俺には、それさえあればよい」

「………………」

「願わくば――――――」


そこまで語り、小次郎は言葉を止めた。途切れたか、曇ったかは分からないが。


「喋りすぎたか」


少し笑って、小次郎は皇甫嵩を見た。滅多に見た事の無い表情であった気がする。


「……小次郎殿」

「…………」

「貴殿は、剣と供に常にある生き方を求めている。純粋に、ただ全身全霊で剣士である事を本懐としている。ならば、それ以外の物は、貴殿に取っては不要か? 貴殿の名が天下に知られずとも、貴殿の存在が歴史から消滅しようとも、貴殿には剣さえ有ればそれですべてか?」


小次郎の瞳が、皇甫嵩を写し出す。


「自らの天命を、知らぬまま死ぬ人間の方が多いだろう。俺は幸いにも知っている。生まれたときから――――――それ以上の幸福があろうか?」


途方もなく、深い色。魅入られそうなほど、美しかった。


「俺は、ただ剣士である事に至福を感じる。剣と供にある時、俺は命の息遣いを感じる事が出来る」

「…………」

「最期の時まで剣士として有れたなら、それは俺にとって、何よりも祝福された天命だ」


御免、と、小次郎は一礼し、そのまま立ち去らんと、踵を返す。

その背中は、長身で、静かで、優雅。


「小次郎殿!」


皇甫嵩は今一度だけ、小次郎を、今度は少し強い語気を持って呼びとめた。


「ならば、なおさら解せぬ! ただ純粋に剣士である事に喜びを見出す貴殿が、他の物を一切必要とせぬ貴殿が、何故、私の願いを聞き入れたのか!」


小次郎はそのゆったりとした歩みを止め、今一度振り返った。

ゆらりと、黒髪が揺らめく。その顔は相変わらず変化には乏しいが、普段の彫刻の様な表情に、僅かに笑みが湛えられていた。


「言ったろう、受けたものには報いる」

「……私が、勝手に貴殿を留めただけの話だ。私はそれに、恩賞や褒賞によって報いる事が出来ると思っていた。だが、貴殿はその類の物を望まぬ。ならば、なぜ貴殿は此処に居る?」

「…………」

「…………」

「……初めて対面した折り」

「……?」

「お前が馬から下りぬまま俺に名を訪ねていたら、自ら名を名乗らぬまま俺に名を訪ねていたら、俺はここにはいないだろう」


皇甫嵩は、要領の得ないような表情を浮かべた。

それを見て、小次郎の口角が、もう少しだけ、上向きになる。


「だがお前は俺と同じように地面に立ち、同じ高さの目線で、俺に礼を尽くした。だから俺はそれに報いる」

「…………」

「俺はお前が気に入っている。恐らくは、お前が思っている以上に」

「…………」

「真摯な人間は、俺は嫌いではない。ただ、それだけの理由だ」


小次郎はそれだけ言うと、再び踵を返し、今度こそ立ち止まらずに立ち去って行った。

あとに残された皇甫嵩は、しばらくそれを見送った後、景色に目を映した。


(……やはり、掴み所がない。心情一つ押し量るにも困難極まりない。が……)


北の空気を含んだ風が、少し強めに皇甫嵩の脇を吹いていった。

寒い、そして、渇いている。


(様々な主義と思想と思惑とが混沌と入り混じる中で、ただ純粋に剣士たらんとする。そういう者こそが、実際は最も至純であるのやも知れぬ。戦う理由として……)


―――――――もうすぐ、ここは戦場となる。

様々な理想と謀略が交錯し、玉石の区別なくこの中華に生きる人材が大戦という舞台を設け、一堂に会す。


(小次郎殿にとっては、戦いの動機や理由はあくまで結果に過ぎぬ。どんな戦いで、誰に付いて戦おうが、自らの剣の在り様を変えようとはしないだろう。あの剣はそういう剣だ。鳥が天を往き、馬が地を駆けるのに理由を必要とせぬのと同じだ)


その中で、果たしてどこまで己の矜持を見失わずに戦い続ける事が出来るのか。小次郎は、そして、自らは。


「――――――やっぱり、何考えてるのかわからねェな」


木枯らしに混じり、それとよく似た色の声が流れて来た。

鋭い冷気を持った、しかし才気の滲む声。


「小次郎じゃない。あいつも読めねえが、俺がわからねえのは、アンタだ」


はた、と、皇甫嵩は振り返る。

いつの間にか背後に現れた、その声の主と相対する。


「何故アンタが董卓を護る? 本来ならむしろ逆のハズだろ?」


黒い髪、皇甫嵩と同じ系統の肌の色。

スラリとした身体の線、あっさりと整った顔立ちで光る瞳は、灰色。

西の民の血筋しか持たない、冬の月のような白銀の眼。あるいは、狼の牙に似ていた。


「――――――アンタが今、董卓を殺せば、天下はアンタのモンだろうが」


涼州騎馬軍筆頭・高順。

血と殺戮に活きる、董卓の精鋭騎馬軍団に置いて、(つわもの)どもの人心を一身に受ける若き英雄が、危険な台詞を事も無げに言い放つ不敵さを笑みに浮かべて、冬景色を掻きわけて佇んでいた。


真と一緒にドライブ行きたい。君が好きだと叫びたい。

峠の中腹で、快晴の空の下で一緒におにぎり食べたい。

もうなんていうか、要するに好きです。

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