反董卓連合編・三十六話
月は浮かぶ。この世の全てを淡く照らして。孤高に、優雅に、そして、冷たく。
天が愛した至高の芸術の美しさは、恒久に永久に、色褪せる事は無く。
誰が疑おうか、その永遠の輝きを。
月より前に月は無く、月より後に月は無く。
故に、月は月なのだ。
「――――――神武以来の天稟か。こんな佐倉の山奥でも……」
こおろぎの鳴く音が、盃の中の水を揺らす。
開け放たれた縁側からふわりと、二人の男の間に絡まり、風のように流れていく。
「どうして、月夜にゃよく映える」
その広い背中の持ち主は、すくっと背筋を伸ばしたまま、男臭い笑みを浮かべた。
「三十手前にしちゃあ、草臥れた風がまるでねえ。が、三十手前じゃ培えねえだろう余裕がある」
秋も深し。その深い夜の闇に、美しい剣士の姿は良く映えた。まさに男の言うとおり。
蓄えた髭に、乱暴に髪を束ねた総髪の壮年。美剣士の対面に座る、その男の名を知らぬ者は天下に居ない。
――――――伊藤一刀斎。
諸国を遍歴し、勝負する事三十余、只の一度も敗北は無し。
徳川家兵法指南役・小野忠明の師匠であり、扶桑無二の誉れ高き達人。
鐘巻自斎門下であった経歴もあり、その技は中条流の流れを汲む。即ち――――――
「色気があるわ。なあ、小次郎よ」
この、佐々木小次郎の兄弟子。
「お互い初めて会うってのに、名前だけは知ってる……てのも、妙な話だな」
鐘巻門下で皆伝――――――高上極意五点を授けられたのは、たった二人。
一人は当然、一刀斎。
「いや……それよりも兄弟弟子だってのに、こういう形で会う方が珍しいか」
もう一人は――――――
「お前、鐘巻先生を斬ったろう」
――――――佐々木小次郎、その人である。
「然りで」
「――――――そうか」
静かに発せられた、低めの声。
躊躇いも戸惑いも無く、淡々として、そして寒気がする程に、美しく響いた。
「先月の話だが……典膳が徳川に仕えたのは、知ってるか?」
「存じております」
「そうかい」
涼やかな風は、秋の深さがもたらしたものか。それとも、この男の纏う空気か。
身の毛のよだつ程に。
その男は、美しかった。
「儂が典膳に流儀を継ぎ、そのすぐ後に、鐘巻先生を斬った弟弟子が訪ねてくる……」
フフッ、と、一刀斎は笑った。
だみのかかった低い声。
「このまま老いて静かに死ぬのか、あるいは儂を殺しに来るのは典膳か、等とも思った事も有ったが……まさかこういう形で、あの佐々木小次郎とツラを交わすってのは、想像しちゃいなかったがよ」
「…………」
「因果かねぇ、こいつも」
師殺し。それを、何故? とは問わない。
剣士と剣士が刃を交えるのに、理由は要らないから。
中天にまたたく太陽は一つ。唯一無二。翳った日輪は没するもの。
かつて一刀斎自身が、剣理の為に師を倒し、自らの剣法を拓いた様に。
「…………」
彼らの間に言葉は少ない。ただ、淡々と。静かな時の流れの間に、味の薄い言葉が混じって、相槌が返されるのみ。
彼らの間をつなぐのに、言葉は大して意味を持たない事を、彼ら自身が知っている。
ただ、“そこ”に導くための物に過ぎない。言葉では、彼らを語る事は出来ないから。
一刀斎の着物はみずぼらしい。
戦国一の大豪傑、その触れ込みから想像すると、やや意外な程に細相な印象を受ける体躯の理由は、ペラペラの着物の端から覗く、絞り込まれた薄い皮膚と、その下の、幾重にも浮き上がった筋肉の筋が示していた。
月代をせぬ総髪は、彼が一度たりとも、武士としての権勢の地位に昇った事の無い証拠。
即ちそれは、その四十余の人生と有り余る資質の、その悉くを剣の為に費やした事の証明。
「時は、移ろうもんだ」
彫の深い、一刀斎の眼。
小次郎の瑞々しい顔とは違う。その目尻には、皺とシミが刻まれている。
移ろった時の証。
ただの前原弥五郎が、伊藤一刀斎になったように。
「なあ、小次郎」
「はい」
「先生は……鐘巻先生は、儂を何と言っていた? 恨んで、いたか」
「…………先生は」
人生、四十路。時は移ろうもの。
かつて暴威のまま、気侭に剣を振るうだけだった男が、師を超え、数多の血闘を踏み越え、天下に二人と無い達人となり、その研鑽の実を後進に継がせ、やがて朽ちて枯れるのも。
それも、等しき時の定め。
「――――――ただ、ひたすらに、強いと」
「…………」
「お前が真に、未だ誰も知り得ぬ剣の境地に至らんと欲するのならば」
ならば。
「必ず、その頂に最も近い場所で、交わらねばならぬ剣だと」
「…………」
「そう、申されておりました」
なればこそ、時の流れが。
一刀斎が一刀斎足り得る間に、その事を許してくれるのならば。
「…………」
夜は更けた。水盃に映るのは、月。
一刀斎が口を湿す。映り込んだ月が揺らいだ。
「やろうか」
「――――――ええ」
言葉は、要らぬ。因果も、宿運も。
静かだった。
部屋の中よりも虫の鳴き声が、やや透き通るようになった気がするが、それだけ。
開けた庭には、よくならされた土が敷き詰められてあるだけ。手入れの必要も無さそうな程に、石畳も植木もない。
妨げるものは、何もなかった。二人の剣士と、二振りの太刀だけがそこに存在した。
観ていたのは、暗い空だけ。
「――――――――――――…………!!」
ハッとした。
雲間から顔を出した月光が――――――
備前長船兼光の柄に手を掛けた、佐々木小次郎を照らした時。
「…………フッ」
「……?」
「時は、移ろうもんだ」
一刀斎が笑う。
顔ににわかに広がった閃きの色が、どっしりとした納得の色に落ち着いていく。
「なあ」
「…………」
「聞いておきてえ事があるんだが」
小次郎は無言。
一刀斎は微笑。
――――――お互い、初めて会う――――――
否。初めてでは無かった。
この眼を見るのは。
「――――――お前の目は見えているのか?」
かつて、北陸にその人ありと云われた剣豪が居た。
越前・美濃・越後、三国にあってその人の上に居ずる者無しと謳われた稀代の名人。
「お前の目は、まだ剣の影を追えるのか?」
類まれなる天稟を許されながら、三十半ばにして眼病により失明し、剣を置いた小太刀の鬼才。
中条流中興の祖、富田勢源。
鐘巻自斎の師、つまりは一刀斎の大師である勢源が鬼籍に入ったのは、彼が十九、二十の歳の頃。
まだ、前原弥五郎であった頃。
若年ながら、既に鐘巻門下有数の高弟として名を連ねていた彼は、自斎の供としてその葬儀の末席に参加していた。
勢源の弟・富田景政に、その門下、富田の三剣。音に聞こえし富田の名人達が一堂に会したその葬儀で、一刀斎は確かに、彼を目にしていた。
名前は変わっていた。体躯は面影なく、雄大になった。
変わらなかったのは、その眼。
「――――――然り」
澄んだ声が、一筋、走る。長い指が背負った長剣の柄に絡み、ゆっくりと、その刀身を闇夜に現す。
月に青く照らされた銀色の名は、備前長船兼光。小次郎が八相に構えた長い長い、その影は、かつて太祖・勢源が、朝倉家より賜りし大業物。
満月を映す漆黒の光りが、揺らぐ事無く一刀斎の視線と絡んだ。
切れ長の完璧な形の目に嵌め込まれた、美しい、それ。
それは、闇夜の虚空色。
深い、深い、黒。
「…………」
大昔に仰ぎ見た大師の眼は、既に白く濁っていたが。
その面影を残す怜悧な切れ目は、確かにその血を引いている気配を感じさせた。
「――――――そうか」
チキリ。
僅かな音がして、鯉口が切られた。それは、音に聞こえた瓶割刀ではない。
十年に満たぬ修行で師を超え、鬼夜叉と呼ばれ剛勇無双を誇った男の愛刀は、一刀流の相伝とともに、小野忠明に受け継がれた。
時は移ろうもの。
溢れる才を奔放に撒き散らしていた兇猛児はやがて、絶人の剣を遣う達人に。
時は全ての物に対して平等だ。
この男にとっても、また。
「小次郎」
年月は神童を、天魔の如き剣士に変えた。
あの七つか八つ程であった、幼い少年。喪服に身を包み、父の位牌を前に一片たりとも揺らぐ事のなかった、あの漆黒の瞳だけは変わらずに。
ふ、と。一刀斎が息を溜めて、今再び笑った。
小次郎を見遣る。その涼やかな眉目に、勢源の面影。体重を五対五に置く足幅と、ゆったりと握る手の内に、自斎の匂い。
しかし全体像として観るならば、それは間違いなく、今、初めて見る構え。
つまりはまさしく、佐々木小次郎、独自の型。
ただただ、見事であった。
佐々木小次郎。伊藤一刀斎。天下に無二のその名前。その強さを称えた、百万言の美辞麗句。
それらの合切、この空間には必要なかった。
名前は無くてもいい。言葉も要らない。一振りの刀と、動く心臓があればそれでいい。
――――――思い出させてくれた。
時は、移ろうもの。
時は忘れさせた。自分を脅かす者はいなくなったその時から。この感覚を。
長い間、ずっと彼は頂点にあった。彼に迫るものは皆、姿を消し、彼に追い付くものは無く。小野忠明ですら、彼の命に肉薄した事は、終ぞ、かなわず。
極みの場所に在って、彼の本領は露わにならぬまま、彼の中で眠ってしまった。
「佐々木小次郎」
この身が衰える前に、眠らせたまま老いる前に、一刀斎が一刀斎でなくなる前に、お前は現れてくれた。
当たり前の事を思い出させてくれた。呼び覚ましてくれた。その、真円の如く、何にも勝る完璧な姿で。
――――――お前の眼が、俺の剣の影を捉える事が出来る内に。俺の身体が、お前の剣を捌く事が出来る内に。
互いの剣を、交えるこの瞬間を許してくれた。
――――――剣の神サマよ。
「ありがとよ」
たったそれだけ。
今要る“すべて”は、たったそれだけ。
ただ、祝福された天命に告げよう。
己の培った力の全てを、一滴たりとも余すところなく、燃やしつくせる喜びに。
最高の敵に。
感謝を。
「――――――ッ」
一刀斎が大上段に構えると、にわかに小次郎の全身が泡立った。
体中の毛が逆立ち、瞬く間に血液が隅々まで流れ込んで行くように。
一刀斎の、小次郎から見て三寸余りは小さい筈の身体が、一回りも二回りも大きく感じられた。
ピリピリと空気が渇き、張り詰めていく。
一瞬だけ、時が止まった。そう感じられた。
虫の音も、風も、雲の流れも、あらゆるものが一刀斎を中心に呼吸を止め――――――
そして、弾けた。
獣のように伸びてきた一足、爆ぜるが如き怒濤の剣速。
世界が急速に色を変え、閃光の如く全神経に戦慄と電気信号が伝達する。
そしてそれより尚も疾く、刹那の何十分の一かの間が勝負の際である事を、小次郎の当世随一の研ぎ澄まされた感覚が告げていた。
剣が迫る。壮絶に、重厚に、疾風の如く、圧倒的な圧力で。
血も、身体も、天分も経験も命も、何もかもが凝縮された“凄まじさ”。
五体全て、足の指から剣先まで、纏っている空気までもが。
伊藤一刀斎の悉く全ての事象が、一個の濃密な武の塊となって、小次郎に叩きつけられた。
日輪を追い落とし、中天でただ一人。煌々と燃ゆる太陽。それも又、いつか翳る。
ならば、沈む際には燃やし尽くそう。血の様に紅い夕焼けを。
夕空に燕は舞う。太陽が、最期の一瞬に残した最も美しく雄大な烈火を、斬り裂く様に飛翔した。
後に残るは、暗闇。すべて呑みこむような常闇。凍えるように静かな漆黒。
深い深い、黒が訪れ、神は愛し子を抱く。欠ける事の無い真円を。犯されざる白銀を。
高く、高く。触れ得ざるまで。
その姿は、どこまでも美しい。そして――――――孤独だ。
伊藤一刀斎と佐々木小次郎――――――
この両者の立ち合いの事実を伝える史料・伝承・記録・文書。
及びその他諸文献・資料の類は皆無である。
ただし。
大剣豪・伊藤一刀斎景久の名は、一五九三年、文禄初頭、自らの流儀を相伝した小野忠明を徳川家康に推挙した事を最期に、
そのまま忽然と歴史の表舞台から姿を消し、それより以降を綴る史料には、一切登場していない。
「――――――秋の終わりらしい、高い夜空だな」
洛陽城の一角で一人、優雅に佇み月を望む。
永遠の都に相応しき麗人は、ふわりとその長い黒髪をたなびかせて振り返る。
「嫌味な程に、月見酒の似合う男だ」
気だるげな笑みの主は、亭の柱に背中を預けて、腕を組んだ男。
月明かりに照らされたのは、西方民族出身らしい、頭身の高い細身の影。
小次郎のものとよく似た色の黒い髪。すっきりとした顔立ちの中で異様に目を引く、月の銀を溶かした様なグレーの瞳。
異民族の多い董卓軍の中でも特別、混血の特徴が色濃い高順の容姿は、馬上に在らずともよく栄えた。
「…………ただの水、さ」
天上人のような俗世離れの美しさを持つその男も、流し目だけで微笑を浮かべる。
「縁起でもねえ」
水盃を艶美に味わう小次郎を、高順は鼻で笑って肩を竦めた。
「こうやって観る月も綺麗だが」
凍るように高い月を、高順は柱にもたかかったれたまま、屋根越しに眺望する。
幻想的な美しさを誇るそれは、しかし彼の心を揺らすまでには至らない。
「どうも、この贅沢な都で観る月は俺には合わねェ。ずっと小さい頃に母親と見上げた月が一番好きだよ」
高順は夜を見上げたまま。言葉は星の様に、何処からともなく漂って、やがて融けてゆく。
今日は瓢箪も持っていない。酒の香りもなく。
「――――――月は、いつも違う」
小次郎の瞳は揺るがない。
この夜空と同じ。
深淵に、あるいは天空に通じる程に、深い、深い、黒。
「月は、太陽の光を照り返して、碧く輝く。太陽の光を吸う程に、高く、高く」
「は?」
「そういう話を宣教師から聞いた事がある」
「太陽……日輪の事か?」
「真実かどうかは知らん」
「……よくわからねえな。月は、月だろ。夜だけ光って、昼は消える。次の夜には違う顔でまた顔を出す。そういうものだ」
「そうだ。月はいつも違う。昨日の月と明日の月は別物だ。が……」
今宵は、満月。狼の牙の様な、冷たい銀色。
「何処に居ても……何をしていても……見上げた時、夜空に在るのはいつも、月だ」
あるいはそれは、高順の眼の色にも似ていて。
「満月でも三日月でも、結局、月は月だ。他のものでは決してない。不変に、夜を照らし続ける。故に――――――月はいつも違って、それでいて全て同じだ」
「……ああ、それは少し……わかるような気がする……かもな」
二人を頭上から眺める月は、雲がかかり、また気まぐれに顔を出す。
例えどんな色をしていても、眺め方が違っても、ある者が銀色で、ある者が金色と表しても。
月は変わらず、月。誰が見ても、何処で見ても。
百変化の如き見え方の違いはあれど、月が月である事は、絶対に変わらない。揺らぐ事は無い。
「今宵の月は――――――俺の国の月に少し似ている」
小次郎の瞳の漆黒と、夜空の漆黒が重なった。
暗闇は深く、深く。
その色は、この空間のどの闇よりも、最も色濃く、そして美しく。
浮かべていたのは、喜か、哀か。ついに、それを推し量る事は叶わず。
ただ、その場の何色にも勝る存在感を持って、そこにあった。
「………………小次郎」
相槌は聞こえない。言葉はたゆたう。小次郎の手の中の、盃の水の波紋の如く。
それでも二人の間合いの波紋が、歪に崩れる事は無かった。
そうして、しばらくの静寂の後――――――あるいは何秒かの間だったかも知れないが――――――狼の牙に似た流麗な眼を浮かぶ月に交わらせたまま、静かに高順が口を開いた。
「――――――皇甫嵩が呼んでるぜ」
「――――――反董卓連合?」
平服姿の武蔵が、軒先で間の抜けた声を上げる。
対して、その後ろで武蔵の赤茶毛の長髪を手櫛で梳る秋蘭は平静そのもの。
「知らんのか? 市井でも既に話題になっているぞ」
「最近、幽州の方に行っとったからなぁ」
「本来なら厳俸ものだという事にそろそろ気が付いてくれ」
長く、白い指が紅茶色の髪に絡まり、繕っていく。
癖の強い、伸びるに任せた髪は、同じ個所を十数度往復してようやく直毛に近づいて来る。
気長な作業だった。
「俺は禄なぞ食んどらんぞ」
「詭弁は武士の舌には似合わんな」
「次からは、気が付いた時に気を付けよう」
女性としてはやや高めな身長の秋蘭だが、大柄な武蔵の髪を梳るためには膝立ちの姿勢を取らねばならない。
武蔵は片膝を立てながら、どっかりと座り、庭で身体を動かす凪達を眺めていた。
「凪!」
「はっ!」
「それ。後ろと左右も同じようにやってみな」
「はい!」
ふと、思い付いた様に、武蔵は凪を呼び止めた。
組み手構えのまま、一歩出て、一つ、二つ、拳を振るう。ひたすらその動きを繰り返していた凪が、今度は十本ずつ、後ろ、左、右、と進む方向を変えて、元居た場所を中心に、延々と十字の動きを繰り返す。
「稽古じゃねえんだから、あんなに気張らんでもええのになぁ」
「お前にあるよ、ああいう所は」
「ん?」
愚直な凪の姿に武蔵が言うと、相槌を打つように秋蘭が呟いた。
武蔵は振り返らずに聞き返したが、頭越しには、ふふっ、と、微笑が漏れて来ただけで、返事を聞く事は出来なかった。
「あー、疲れた。もームリ、もー動けねえ」
方や、やたら気合の抜けた声が、武蔵の左手側から流れて来た。
先程まで組手をしていた李通が、陳恭を伴い、米神に汗の筋を光らせながら、ドスンと縁側に腰掛けた。
「そうか? 中々、余裕を持って捌いていたように見えたが」
「流してただけだって。あんなのと五本も十本も打ち合ってたら肺が破裂するよ」
武蔵と秋蘭の座っている所とやや距離があったため、彼に声をかけた秋蘭の声は少し遠かったが、李通はダルそうにしながら右手の棒杖で庭先を指す。小柄な李通だが、隣にちょんと座って、李通をせっせと仰ぐ陳恭に比べると、やはり男の腕である。そもそも、身体つき自体は屈強なのだが。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉりゃぁぁぁあああああッッッツツ!!!!!!」
「だああああああァァァァァりゃあああああァァァァァッツツ!!!!!!」
先程まで李通と組手を行っていた春蘭は既に、火の玉のような裂帛の気合を上げて季衣と
撃剣を交わしていた。
見るからに全弾渾身の打ち合いは、さながら戦場の気合のノリで、全く妥協の色が無かった。
「……本気だな」
「ガチでしょ?」
「いやあ、春蘭は体力あるねえ」
すこしくたびれ気味の声を発す秋蘭と李通に対し、武蔵だけがケラケラ笑っていたが。
「とりゃー! ガトツ・ゼロ・スタイル!!」
「なんのっ! エターナルフォース……え~と、トンファー!!」
「思い付かなかったからテキトーに言った臭がぷんぷんするの、真桜ちゃん」
遊び半分どころか、完全に遊び八割の隣の沙和・真桜組との温度差たるや、凄まじいものがある。
その手前で、恐い位に一心不乱に拳を振り続けている凪の生真面目さを、こちらは少し煎じて分けてもらった方が良いだろうか。
「陳恭」
「…………?」
「後でお前も、秋蘭に髪を梳いて貰いなさい」
「…………」
不意に声をかけられた、長い髪をザンバラのまま伸ばしっぱなしにした色白の少女は、じーっ、と武蔵の目を無表情のまま眺め、やがてコクっ、と頷いた。
言葉は無かったが、それはいつもの事である。
「では、一度部屋に戻って櫛を取ってくるか。新しく仕女が買って来てくれたものがあった筈だ」
「何? そんなもんがあるなら、俺にも手櫛じゃなくてそっちを使ってくれ」
「お前の髪は硬過ぎて櫛の歯が立たん」
(……獣の毛繕いみてーだな)
李通が陳恭の髪を掌で遊ばせながら、武蔵と秋蘭を見ながら甚だ失礼な思い付きを陳恭に耳打ちする。
陳恭は相変わらず言葉では返事をせず、眼を細めて、ゴロゴロと喉をならす小動物のように、時折頭を撫でる李通の手に身を任せていた。
「みんなー、お茶が入りましたよー!」
和気あいあいとした空間の中に、気立ての良い声が流れて来た。
流琉が盆に茶と菓子を乗せて、パタパタと歩いて来る。
「何ィッ!? 菓子だと!?」
「それ流琉の手作り!? 食べたい食べたい!!」
すると、軒先から一番遠くに居た筈の春蘭と季衣が、凄まじい瞬発力で走り込んで来た。
お茶と言っているのに菓子の部分に反応して、汗も引かぬ内に滑り込んで来るほどの勢いである。
「こら、二人とも。まずは手水鉢で手を洗って来い」
「ぬぅっ、よし、行くぞ季衣! 宮本、その餡団子は私のものだからなっ!!」
「あ、ボクは杏仁豆腐が良いです! あー、春蘭さま、待ってー!!」
秋蘭に諭されると、キキッ、っと土埃を上げながら急旋回し、庭の端にある手水鉢に特攻していく。
予め手洗いを済ませた三羽烏が、すれ違いに歩み寄ってきた。
「ウチ水羊羹がええ。あ、取り皿これでええのん?」
「沙和は芝麻球~」
「……すまない、流琉、かける用の刻み唐辛子は無いだろうか? 七味でもいいんだが……」
「凪、あんまりトチ狂った事を言うたらアカンで」
世にも恐ろしい事を口走った凪だが、二人はすっかり慣れているらしい。
「んー、甘~い!! 流琉ちゃん、これすっごくおいしいの!!」
「えへへ……ありがとうございます」
沙和に至っては完全にノータッチで、我関せずと口もとを掌で隠し、くりんとした目をパチリと開いて、大袈裟なリアクションで舌鼓を打っていた。
「そういえば、ノッポ達がおらんが。今日はどうしたんだ?」
「なんや隊長、聞いてへんの?」
「何が?」
「今日はしすたぁずのライブなのー、久々のおっきい会場だからーって、地和ちゃん達張りきってたよー?」
「……おお、そういやあ、ノッポが『親衛隊の真価が問われる決戦の日でさァ』って言っとったな」
「……お前、三姉妹の仕事の日程くらいは把握しておけ」
「みんなー!!!! 今日はノッてるー!?」
「ほあああああああぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「そんなんじゃ足りなぁい♪ ほらほらぁ、二階席のみんなも、ノッてるー!?」
「ほあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
千、いや、二千人は居るだろうか。
花火の大喝采の様な雄叫びが、訓練場に設置された舞台に向けて木霊する。
その中で特に、一階席の最前列に陣取った、百人余りのやたら屈強な連中が占める一段の異様さと言ったらまこと、言葉にし難い。
「ほあああああああ!! てんほーちゃーん!!!!!!」
「うおおおおおおお!!!! 俺の方寸が輝き叫ぶー!!!!」
「赤壁は真っ赤に燃えているぜぇええええええッッツ!!!!!!」
その一団の、さらに最前線に陣取る三人の男たちの狂乱ぶりは、確実に常軌を逸した何かを孕んでいた。
その中で、左、右、後ろをそいつらに囲まれた短髪の青年は、逆に浮いている程の仏頂面。
額のニキビは、めでたく痕まで完治した。が、今度は頬にでかい腫れニキビが出来てしまって、しきりにそっちを気にしている。
「式典というから来てみたら……お前ら、これから歌を聞くのだろう、もう少し静かにだな――――――」
もったいつけて、大儀そうに声を出すと、隣接していた三人の男の眼が、ギラリと光った。
「うるせーお前は! 少しは空気を読め、このニキビ野郎!!」
「いつまでも硬派ぶりやがって! そのニキビ引き千切るぞ、このムッツリ野郎!!」
「いい加減、誰派か吐いちまうんだな、あとそのボーズでも角刈りでもない半端な髪型が気に入らねーんだな、この虫野郎!!」
「うおお!!? なんだ貴様ら!! というか後半からただの悪口だろうが!! 虫野郎はさすがに酷くないか、おい!?」
三方向からの口撃と拳撃の波状痛打にニキビが攻め込まれている間にも、会場のボルテージは昇り詰めていく。
「さぁみんな、準備はオーケイ? さっそく一曲目、いっくよー!!」
「ほあっ、ほあっ、ほああああああああああーーーーーーッッッッツツ!!!!!!!!!!!!」
「ほあああぁぁぁ!!!!」
「ほあああああああー!!!!!!」
「うおおおおおッツ!!!! ほああああああああッツ!!!!!!」
「…………バカ、ばっかりだ」
宴は、まだ長い。
「――――――まあ、大丈夫だろ、多分」
「……まあ、基本的には警備隊が暴動防止や三姉妹の身辺警護に当たる事にはなっては居るが……」
しかめっ面の秋蘭をよそに、ずずっ、と武蔵は茶を啜る。
「俺と恭にも何かちょーだい、スイーツ的なヤツ」
「あ、どうぞどうぞ! 自由に取ってくださって構いませんよ♪」
寝っ転がるように身体を伸ばして、這うようにして李通も茶菓子に手を伸ばす。
流琉がその度に甲斐甲斐しく世話を焼くのは、やはり性格からだろうか。彼女は誰に対しても気が付き、優しい。
「あ~、じゃあ俺は茶碗蒸し貰おうかな」
「隊長、このラインナップでチョイスそれ!? 渋いイメージに準拠するにも限界があるのー」
「というか、よく作ってあったな茶碗蒸しが…………」
まあ、何はともあれ、平和であった。
――――――本当に本当に、束の間の平和ではあるけれども。
「して、反董卓連合――――――あなた達はどう見るの?」
曹操の私室。その部屋が、州牧が起居する間としてはずいぶんに質素で狭い原因は、軍議や客の詰め所に使う間を非常に多く取ったこの宮城の構造にある。
普段、会議の類はそれらの部屋で行われるが故に、曹操の幕僚に置いて、その私室に入る機会が許されるのはごく一部の人間しかいない。
例えば、今、頬杖を付いて涼しげな眼で机に広げた檄文を眺めている、華琳の傍らに侍る三軍師などがそれだ。
「稟、あなたの言は?」
「はっ、我が軍の当面の第一目標は内政、つまりは純兵と民屯の充実、そしてその寄る辺となるこの兗州の開発にあります。また、不穏な噂はあれど董卓も又、漢の臣。現段階ではその大義の在り処も霧中であり、今、兵を動かすのは得策ではありません」
「ふむ……桂花は?」
「名分の所在から明らかにするならば、董卓はその先代は西方の防備とその治安を維持する為の一軍の将、また董卓自身も、先の黄巾の乱の功績にて洛陽守護の役に正式に就いたとはいえ、あくまで武官であり、政権への関与は認められてはおりませんでした。しかし、董卓は自身の兵力を背景に朝廷を脅迫して相国の位に就き、今や権力を私物化しております。これは臣下の分を超えた明らかな専横であり、漢朝への忠義に基くならこれを正す事こそが正道です。また、このまま董卓を野放しにすればその権力は日増しに膨れ上がり、いずれこの兗州に類を及ぼすは必定。ここは多少の綻びを晒してでも、董卓を討つべきです」
風を挟んだ横並びの位置で、凛と桂花がちらり、と互いの目を見合わせた。
華琳は未だ目を机の上に落したまま、耳と心だけを彼女達に注ぐ。
「風」
「はいー、外交情勢から鑑みればー、河北の袁紹殿を初め、南陽に座る袁術殿、さらに豫州の孔由殿や董卓の本拠に程近い涼州軍閥から馬騰派の軍勢が挙兵を明らかにしておりますー」
二人よりやや間を開けて、早口で捲し立てるように喋る二人とは対照的な、のんびりとした語気で風が喋り出した。
「さらに、河内太守の王匡殿が、すでに一足早く挙兵して、李確の一軍に返り討ちにされていますねー。先の四名はこれに反応しての挙兵ですし、それぞれの地方で影響力の強い彼らが兵を挙げれば、それに追従する諸侯もかなりの数になるでしょう。何より、王匡殿の軍勢三万が木端微塵にされた事で、地方有力者たちの間には『打倒・董卓!』の空気が高まっていますからー、事の是非にかかわらず、反董卓連合が結成されるのは間違いないでしょうねー」
「大義の在り処は定まらなくとも、既に天下の気運は反董に向いていると?」
華琳が含み笑いをしながら、流し目を風に送る。
初めて彼女らの方に目をやり――――――そして初めて、面白そうな顔をした。
「まあ第二の董卓やその下で実権を握ろうという算段の方が大半でしょうが、先の軍事衝突と董卓の専横許すまじ、という名分という名前のタテマエがありますからー、また、これら諸侯のおよそ中央に位置する兗州が兵を挙げないとなると、集結してくる反董卓連合の加盟軍といらない摩擦を引き起こす事にもなりかねませんし、董卓の力の増大をそのままにすれば、遠からず我が軍は董卓軍の下風に立つであろう、というのもその通りです。要は華琳様がそれを良しとするか、良しとせぬかで決まるものかとー」
少し皮肉めいた言い回しの風を、桂花はムッとして横目で見遣るが、風はいつものようにつらりとして、閉じているのか開いているのかわからない目をして眠たそうにしている。
「――――――成程」
掌に可憐な顎を乗せた華琳は呟くと、脚を組み直して、机の方を向いていた身体を座ったままに翻し、三人へ向き直った。
「つまりは新たな戦の匂いに、気配を感じつつ静観するか、それとも自ら飛び込むか」
語気はあくまで冷静。鈴の鳴るような、まだ声変りもしていないような、甲高い少女の声。
しかし、そこに覇気が混じる。
「しかし今の世を乱世とはっきり言いきってしまえばどうか」
「っ!」
稟と桂花が、びくりと肩を震わせた。声こそ出さぬが、表情には少なからぬ驚愕の色がある。
“乱世の表題を示す”という事。つまり今の世を乱世と表すこと。
それはつまり、四百年の栄華を誇る、漢帝国の治世に置いて、帝国に仕える者同士が、帝がまるで居らぬかの如く、奔放に武を露わにし、相食み、争う。
即ちそれは、今日、その権威が失墜し、国家の理が崩れ、中華を治める力を失っている事――――――
それを事実として、はっきりと言い切ってしまうと言う事。
市井の民草では無い、先の黄巾の乱で大功を挙げ、漢帝国の臣として一州を預かる身に任ぜられている、曹操がそれを言い切ってしまうのだ。
漢に力無し、と。
それはつまり、漢の時代の――――――
「龍とは天下が乱れる時、天命の移り変る機を捉え、天に昇る者。だから人は、龍の事を英雄と呼ぶ」
赤い薔薇を塗った様な唇が、そっと紡いでいくのは、王の語るべき言葉。
閉じていた風の目が、じっ、と片側だけ、開かれた。
「稟、風、桂花」
今一度、はっきりと、華琳は三人に目を合わせた。
それに応え、三者は改めて背筋を張り、礼を取る。
「軍を動かすわ。天意に身を委ねれば、滅ぶ者は滅び、活きる者は活きる。ならば君主の条件とは、それを見極める目を持つか、否か!」
「はっ!!」
この年の初冬、漢帝国に置いて相国の位に就き、中央政府に置いて絶大な権限を握る董卓に対し、反感を抱いた地方有力者や軍閥が一斉に挙兵し、軍勢を洛陽に向けて進めた。
この「反董卓連合」と呼ばれた地方太守や牧を中心に結成された連合軍には、世に名高き武人・将・軍師が参加し――――――曹孟徳もその中の一員として、身を投じる事になるのである。
晩酌うめえー!!
そんなテンションで更新。誰と? いおりんと一緒に呑んでるよ?
バーチャル? 違う! 彼女は幻なんかじゃない、このディスプレイの向こうに彼女は居るんだ!!
それはそうと、明日学校なんですけど僕はどうしたらいいでしょう?
現在、書いてるのは五十話地点くらいなんですが、頭の中で思い描いているのは数話先。構想に筆が追いつかないのがもどかしいです。
ラストシーンはもう決まってるんだけどなー