黄河の峻才編・三十四話
ネタがピンとこねえやつァ、看板のピンって落語を聞いてくるがいいさ。
「――――――成程、実際にお会いしたなら、発見も、引いては曹操様への取次ぎも難しくはない……」
「察しが良いな。確かに華琳と合わせるまでが俺の役だ、が……」
コトリ、と、武蔵は、安くはないであろう、瀬戸物風の焼き物湯呑みを大儀そうに机に置き、両手を広げて、おどけた様に肩を竦めた。
「行き詰まった」
「ふむ」
親爺が、白髪頭の、生え際の後ろに下がった額に皺を作り、湯呑みを手の中で包みながら武蔵を覗きこむ。
「こいつら、例によって根なし草の旅烏でよ。見れば一目瞭然でも、居場所がわからんのじゃどうにもならん。それに、ウチの監察の連中とて馬鹿じゃねえ。そもそも寝床が割れてりゃ、俺が出る幕もなかったろうしな」
ふーっ、と長い溜息。いかにも厄介事を抱えた様にしながら――――――
武蔵はそっと、目配せするように親爺を見遣った。
「黒髪の眼鏡と、金髪で小柄な、女二人組……ふむ」
親爺は肘を付き、口元を隠すように杖を立てる。
「心当たり、無い事もございません」
そしてやがて、思案に耽っていた気品ある老翁が、ふとその細い垂れ目を武蔵に向けると、武蔵は片眉を吊り上げた。
「金髪の少女、の方のみですがね……この話の出所が、まあ遊侠者のやってる賭場なんですが」
「構わん。細かい事は言わんさ」
原則として、官に無断で行われる賭博は非合法――――――だが、一つ、話の肝に入る前に言葉を止めた親爺を、武蔵はそのまま続けるよう促す。
「はい。で……ある賭場での噂のようなものなのですがね。遊侠者が胴元を仕切ってる賭場で、貴族か士大夫の娘さんのような金髪の、小柄な少女が出入りしてる、と」
「ほう」
「これがまた、ポーっとした、如何にものんびりした娘らしくてね。そういう、良い所の御令嬢が遊び半分で覗いてくるのか、と言ったら、実際に打つんだとか……そもそも、農民や職人ら、堅気も出入りしてるとは言え、そいつら皆、ヤクザ崩れの荒っぽい奴らですからねえ。とてもそういうお嬢様が社会見学に来るような、情緒や趣のある場では無いんですが……」
「…………」
「これがね、強いらしいですよ。滅法」
武蔵は背もたれと肘掛に体重を預けながら、ぬっと腕だけ伸ばして茶を取る。
親爺は自分の膝に両手を置いたま、話を先に進める。
「そもそも、そんなあまり上品とは言えぬ場所に、解語の如き少女が出入りして、それが強いってんじゃ、噂にもなりますわな。ま、当然、面が割れてくると色々、面倒事も増えるもので、いくつかの賭場を転々、渡り歩いてるそうですが……」
ズッ……と、武蔵が茶を啜る。一拍の空白が、その場の空気に訪れる。
「今まで勝負をしくじった事は一度もない――――――そうでございますよ」
「…………」
話を聞き終えると、武蔵は湯呑みから口を離し、無言のままコトリ、と湯呑みを置いた。
「……ま、どうあれ、それは行かねばならんな」
「宜しいのですか? 非合法の賭場に出入りするような者を引き入れても」
「それがための、俺さ。李通といい、そんなもの今更だ。それに……」
「それに……?」
武蔵は背もたれから、預けていた身体をゆっくり浮かせると、自身の裾を手で掴み、ぱん、と伸ばし、襟を正した。
「話を聞けば聞くほど、成程――――――のらりくらりとして、俺が抱いている意中の人間と瓜二つだよ」
フ、と、何かに納得したように笑みを湛え、武蔵は立ち上がる。
「あ、旦那。しばしお待ちを」
そして、ごちそうさん、と一言告げて、座敷を立ち去ろうとした武蔵を、しかし親爺は呼びとめ、座ったまま言葉を告げた。
「あの三人のお嬢さま方の所に戻るのでしたら、そのまま半刻ばかり、食事を取るなりなんなりして、時間を潰して下さいますか。ひょっとしたら、今この場でも、何がしか手掛かりが掴めるやも知れません。半刻経ちましたら、従業員に言付けに行かせますから」
「……出来るのか、今すぐに?」
「まあ、保障はありませんが……手前共にとって情報ってものは、旦那方にとっての剣や馬に等しいものでして……少々探せば、案外出てくるものなのですよ」
話の合間に、茶で咥内を潤す、親爺のしれっとした表情に、武蔵は溜息を付くような笑みを零し、目尻を下げた。
「やっぱり、お前さんもおっかねえな。よくそんな情報まで、御誂え向きに引き出しに入ってるもんだ。どれだけの若い衆を走らせてる?」
「ははっ……まあ、若い内は自分の足で走り回って、仕事を自ら引っ張ってきてこその達成感ってもんでしょう。そして……」
湯気の立つ湯呑みの中身を、ほんの少し、口を湿すだけ啜る。
「そこをあえて自ら動かず、番台の上にありながら万事、滞りなく済ませるのが、老商人の粋ってもんなんですよ」
そして、老翁は静かに笑う。
「おい、嬢ちゃん! さっさと振れよ! あんたが親だぜ」
「…………」
「……おい?」
「…………ぐー」
「……まぁた居眠りかい!? とっとと起きな!」
「……っおぉ!?」
壷とサイコロを目の前にした少女、暫く反応が無いと思っていたら、ぶっきらぼうな声をかけられると、びくん、と身体を弾ませ、うつらうつら、俯いていた頭を跳ねさせる。咥えていた棒付きの飴を、一瞬落としそうになった。
しかし、眼は開かぬまま。そこだけが不自然だった。
「ったく。大して勝ってもねえってのに、暢気と言うか、大物というか」
「いやあ、風は昔から、暗い所で黙って座っていると、睡魔がつらつらと忍び寄ってくるのでして」
「ははは、暗いって嬢ちゃん、アンタめくらじゃねえかよ。暗い以外に何かが見える事があんのかい」
「いえいえ、盲人には盲人の勘、という物がありまして。例えば博打で勝てそうな時にはビビッとした予感が目の前を横切ったり横切らなかったり」
美しい少女だった。
ふわりとした細い金髪と、ミルク色の白い肌。
その小さな肩と愛らしい容姿は妖精を思わせた。
そして、目尻の下がったその両目の瞼は、眠ったように閉じたまま。
この場に居る者がもし西洋画を知っていたとしたら、きっとルノワール、と呟いた筈だ。
あの柔らかで、たおやかなる優しい色彩が一片も損なわれる事無く、三次元の質感を持って現界したような、繊細な美貌を纏っていた。
「へへっ。じゃあ今日はまだ目の前は真っ暗なままかい」
「そんな事はないのですよー、次あたりに来そうな予感が……おや、壺が見つかりません」
「おら、目の前にあるぜ」
「おおっ、これはどうも、お兄さん。いやはや、目が利かないとこういう時は難儀、難儀……」
よちよちとした、何ともおぼつかない仕草で、手探りで壺を探し、ようやく手にした。
両の目は相変わらず、閉じられたままである。
「さあ、どうぞ」
「……お嬢ちゃん?」
「はい?」
「いや……ちゃんと伏せろよ」
「む。ちゃんともなにも、しっかり伏せているのですよ。さあ、張った張った」
博徒達が怪訝な顔をしたのも無理からぬ話。少女は壺を掴むなり、ポン、とサイコロの真横に伏せると、そのまま壺を回して、さあ張れ、と言ってきた。
賽の目は剥き出しのままピンを示しており、当然、壺の中身は空の筈である。だがそれを指摘しても、少女は眉を潜め、頑なに張れ張れと急かすのみ。
その反応を見て、博徒達は二の口を噤んだ。
というのも、彼女の目は此処にいる間、一度も開かれていない。盲人ゆえに、剥き出しになった賽はその眼に入らない。彼らが告げなければ、彼女はその事が判らない。
あまりに滑稽な図で、思わず隣の男が初めに告げたが、少女の受け答えを見るに、賽が剥き出しになっていると言う事は思考の外の様だ。
このままピンに張り、賽を開けさせてピンが出た事にすれば、大勝ちできる。
しかも、この小娘は先程からそれほど冴えた打ちを見せる訳でもない、居眠りすらするほどに迂闊、さらにちっとも勝負に対して熱くなる所がない。身銭を賭けた真剣勝負をしに来ていると言うより、商屋か役人の御令嬢が、小遣いでちょっとした火遊びに来ている、と言った雰囲気だ。
その風貌とのんびりした言動が、さらにそう言った印象を増していた。
「――――――壱に、五万銭」
張るか張らざるか、思案していた博徒達の輪の外から、法外な値段を告げる低い声が流れて来た。
少女の耳が、ピクリと、僅かだけ反応する。
賽と壺に釘付けになっていた博徒達は顔を上げ――――――そして反射的に身構えた。
癖のある束ねた赤毛、切れの深い琥珀色の瞳、服の上からでもわかる、逞しい骨格。
今までどこに居たのか、というくらい目立つ大男が、座るその少女の真後に立っていた。
「なんだてめえは……この娘の用心棒か?」
「さっきも問われたが……何の事はねえ、只の客さ」
無頼どもがにわかに殺気立つ。
だが男は、まどろんだ様な眠たげな目をしたまま、涼やかに微笑んだだけだ。
「賭場に来て博打以外にやることもねえだろう?」
男はそう言って、立ったまま懐をまさぐり、とん、と二つの小袋を御座の上に放り投げる。
中で金属の擦れる音を立てながら、重たい質感でドサッと落ちた。
「随分な強気だね」
「ん?」
ぼそり、と、少女のちょうど対面側に座っていた男が、唇を歪めて呟いた。
三十、四十程か。片目には目玉の代わりに大きな傷跡を持っている、派手な着物から刺青の覗いた、髭面の壮年者。
「それほどに大振って、この嬢ちゃんを潰すつもりか?」
「これほど判り易い勝負で大振りせずに、いつ大振る?」
顔に浮かべた両者の表情は、少し似ている気もする。
「賽の目ほど公平なものもねえ。それに、この娘ならよもや、払いが利かんという事もあるまい」
「大人気ねえ……好きにしな」
大傷の男はフッと鼻で笑うと、そのままおもむろに顔を伏せた。
「おや……賭けるのは俺だけか? こんな良い勝負、滅多にねえだろうに」
ふと、何秒かの沈黙の後、大男は少女の一歩後ろ、その右隣に胡坐をかいて、見渡すようにおもむろにそう言った。
「……俺も張るぞ」
「お、おう、俺もピンだ、ピンだ」
思い出したように、身を弾く様にして周りの博徒達が続々と張り始める。
木札を、あるいは銭子そのままを自らの前に押し出し、場に出す。金額に差はあれど、張るのは全て、一様にピン一点だった。
「…………よろしいですか? お好みの目は、定まりましたか?」
今まで沈黙を守ってきた少女は目を瞑ったまま、喧騒が止み始めるのを見計らってそう告げた。
「おう、いいぜ御令嬢、空けてくれ」
「本当によいですね? 皆さん揃ってピン一点張り、偏っていて、面白い勝負ではありますが」
「ははっ、だがこれでピンが出たら、嬢ちゃん泣きを見るぜ。まあ、嬢ちゃんは見るからに、金には困った事のねえふうだがな」
「そうですか。では、改めて張りはこれで決まりですね? もう張るお方はいらっしゃいませんか?」
「お嬢ちゃん、しつこいぜ。ひと思いに開けてくれや」
「そうですか、では……」
と……少女は自分の手元に、その小さな掌を伸ばし、掴む。
「この看板のピンは風のポッケに仕舞いまして」
伏せた壺でなく、その横の、ピンを剥き出しにした賽を。
「何ィッ!?」
「おや、張った目を変えられますか? ですがもう、張りは決まってしまいましたよ」
「なんだなんだ、その看板ってのは!!」
「ですから、風はしっかり申し上げていたではないですか。しっかり伏せているのですよ、と」
にわかに色めき立つ男たちだったが、少女はそれに構いはしない。
「盲人には賽の目は見えません。ですからお兄さん達、しっかり確認なさってください」
待て、と彼らが言う前に、少女は早々に壺を開いた。
「さあ、目開きのお兄さん方の両目には……」
二度目の、鉄火場に似合わぬ沈黙の中、“風”はただ一人、その場で言葉を紡ぐ自らの口元を飴で隠す。
「…………どんな目が映っていらっしゃいます?」
今まで一度も開かなかったその瞳、ゆっくりと、眠たげに開く。
開かずの筈のその、美しいエメラルドの瞳は。
ハッキリした焦点でもって、壺から現れた六の目を、真っすぐに捉えていた。
「ちッ」
一人の男が、バッと匙を投げるように、勢いよく空の右手を振り上げた。
「ふざけんな、こんな勝負はナシだ、ナシ! 何が看板のピンだ、ダラ賽じゃねえか!」
そのまま、やり場なく拳を下げてそっぽを向いたが、やがて思い立ったようにいきり立つ。
「やめえや、張」
「いや、張の言うとおりだ。この小娘、ガキだと思って甘くしてりゃ、舐めた手ェ使ってくれやがって!」
「これは異な事を申されます。お兄さん方はしっかりくっきりその両目で賽を確認して、自ら納得して張ったのではありませんか」
「何だと……」
声を荒げた男を年長者らしき者が嗜めたが、若い者達は却ってその声に同調して熱った。
「博打ってなあ、場で朽ちるから博打ってな。昔の人は洒落の利いた事を云ったもんだが」
「あァ!?」
ぼそっと、呟きのように語り出した大男に、若者の一人は一層、声を荒げる。
が、麒麟の鬣のような赤毛を揺らしもせず、まどろんだような物腰のままに男は続けた。
「博徒は流れと機を読む者。読み違えば斬られるも道理か。いやはや、恐ろしい」
「…………ッ!! てめえ、やっぱりその小娘とグルかァ!!」
だが、その態度は若者達をさらに激昂させたばかり。
遂にその中の一人が、腰にぶら下げた得物に手をかけ、足を踏み鳴らし、勘気のままに打ちかからんとする。
「やめえ、張超ッツ!!!!!!」
が、その勢いはそれよりもさらに疾く、鋭く発せられた怒号で遮られた。
男は身体をビクリと震わせ、立ち上がろうとした片膝を立てた体勢のまま、思わず、と言ったふうにその声の主を振り返る。
「てめえらの中に、盲目と名乗っていたその娘に、賽の目が剥き出しであった事を告げた奴が一人でも居たか!?」
腹の底から響かせるような声を発するのは、先程、武蔵と言葉を交わした、どっかりと集いの中心に腰を下ろした大傷の男である。
「博打打ちが騙し合いで後れを取ったら、言い訳は出来ねえのよ。食い下がるほど、てめえの格を落とすぞ、張超!」
騒いでいた若衆――――――この張りでピンに張った者達は、皆一様にシン、と口を噤む。
木札を切らなかったのは。二人か、三人、それぞれ輪の両端の方に陣取った者と、大傷の男のすぐ隣に侍ったやや年長の風貌の者達は、そんな若衆達を、一歩遠くから見遣るようにして、目を注いでいた。
「さて…………」
大傷の奥に隠れた、潰れた瞳が男を射貫く事はない。
残った眼だけが細くまたたき、その武骨で大柄な輪郭をなぞった。
「武骨なナリで性情豊か。如何にも無頼で、そのくせ洒落が利く。懐深く、どっしり構えて、吠えられた程度じゃ全く動じやせん」
懐から取り出した煙管、傍らの男が火を灯した、それを気にかける事はない。
筆を走らせるように、箸を扱うように、身体に染みついた当たり前の動作として、自らの指の間に絡めて置いた。
「だが決して、優雅じゃねえ。必ず何処かに鋭さを残す。あんたの書画のように……」
その舌は、その大男の言の葉の調べを――――――おどけた態度と穏やかなる口調で、流れと言う物に例えながら、最後に“斬る”という言葉で結んだ、男の唇の動きを反芻して表した。
おもむろに銜えた煙管の火皿から、チリチリと、火と空気の混ざる音が聞こえた。
ふーっ、と、紫煙を細く吐く。独特の香りと、灰色の吐息が、くゆってけぶる。
目の前にかかった煙色のフィルターの向こう側に座る男の像に、あるものが映り込む。
少し前、知己の商人の、幾つかあるうちの邸宅の一つに招かれた際に見た、壁にかけられた、馬を描いた墨の画図。
彩色はなく、筆数は非常に少なくごく素朴なデッサンでありながら、大胆に取られた余白の中心にスッと迷いなく描かれた馬には、涼やかな風に吹かれるような潔さがあった。
「さる剣客が、退屈凌ぎに描かれていった」と聞かされて、妙に腑に落ちたのを覚えている。質素で、素朴で、しかし清潔で、落ち着いていて――――――という、作風にではなく。
均整の取れた流麗なラインの端々に見えた、非常に鋭く、速い筆遣い。
穏やかで大人しい馬の中に潜んだ、それ――――――
その筆遣いが、この大柄で筋骨逞しい男の発した、先程の静かな言葉に混じった言の端に、違和感無く重なって思い起こされた。
“斬”
それは、剣を思わす。
刃の鋭さ、鉄の冷たさ。
「宮本武蔵だろう、あんた」
ざわっと空気の泡立つ音がしたが、目の前の男は動じない。微笑を浮かべたのみ。
傍らの少女もまた、眠たそうに佇んでいるのみだ。
「もっと歳食った爺だと思ってたが、驚くほどに若えな」
武蔵が笑う。
唇だけで、面白そうに。
「だからその落ち着き払った物腰は……不気味だな。おっかねえよ。顔に似合わねえにも程がある」
大傷の男は足を崩し、立てた膝の上に肘を乗せた。
火皿から立ち上る煙が、霧のように流れていく。
その場にあった男達は、息を潜めるように静まっていた。息を殺すように見構え……武蔵の狼と同じ色の目玉と男の大傷の目を、両のまなこのそれぞれに片方ずつ映しつつ、彼らの挙動や表情を、峠の人間を見つめる狐や山犬のように、じっと見計らっていた。
「名は?」
「名乗らねえよ。俺はただの遊侠者。曹操の剣客が聞いてもどうせわからん」
ギシッ、と、家鳴りか、屋根が軋んだ。
それ以外は何も聞こえない。一瞬の沈黙がそこに生まれる。
「煙草。余ってるなら俺にもくれ。煙管はあるが、火種がなくてな」
「あんまり良い葉っぱじゃないぜ?」
「そんなに高級な男でもねえさ」
笑う時に眉間にしわが寄るのは、癖か。
傷で塞がった目玉はそのまま、自分の傍らの者を顎で促した。
武蔵より少し年上に見える二十七、八の若者は、座の真ん中を横切らずに、大きく回って武蔵の元へ行く。
武蔵の顔は、まどろんだように涼やかなまま。
「……野暮なもんだな、喧嘩煙管なんて。腰に立派なもんをぶら下げてんだろうに」
「抜くと手入れが面倒だ。それに……備えは重ねるに越した事はねえのさ」
武蔵はその若い男に火を貰い、黒塗り鉄の、一尺四寸はある太長い煙管を、武蔵は小さく吸って、小さく吐いた。
ふわりと薄い紫煙が舞って、すぐに薄れる。
「今度会う時もまた任侠の徒か。只の博徒か、あるいは酒の供か。わからんが、その時は聞かせてくれ」
どっこいしょ、と、大儀そうに立ち上がる。いつものように、さぞかし億劫そうな動作で。
「いこかい、程立」
傍らの少女が一つ溜息のような吐息を短く吐いて、それに倣うように立ち上がった。
「ま、調子に乗って場を朽ちさせるのも良くはありません。旧交を温めに参りましょうか」
ではでは、とちょこんと小さなお辞儀をして、つらりと少女は、男のやたらに分厚く、広い背中を、のんびりと追った。
煙草の残り香は、もう消えていた。
「若頭、次の機会には、名を?」
「名乗るしかねえかもな。二度と逢いたくはねえけどよ」
二人の立ち去った部屋では、いまはもう、再び変わらずの熱気で、博打が興じられていた。
男はそれには加わらず、世話役の供だけ隣に置いて、輪から外れた所で眺めていた。
「そんなに嫌いですか?」
「そんなんじゃねえ」
一服で吸い切る程に、深く、深く、煙草を吸う。
表情は一つもしかめずに。
「言ったじゃねえか。おっかねえ、と」
ごくごく慣れた風に、男は煙を吐く。
長い溜息のように吐かれて、紫煙は部屋中に満ち渡った。
「あいつと目を合わせてた最中、俺はずっと何時でも死ぬ身だと思っていた。名前なんぞ、どうって問題じゃねえ」
「それほどの手練でしたか」
「阿呆」
吸い殻を懐から取り出した小さな煙草盆に吐き、煙管を差し出す。
すぐに付きの男が、根っ子を火皿に入れ、灯した。
「講談や芝居じゃねえんだ。見ただけで相手の力量なんぞわかるかい」
ぷかっ、と、吐いた煙が輪になって広がり、やがて空気に溶ける。
「が……てめえに纏わった死の臭いを嗅ぎ分けられねえほど、鈍くはねェよ」
二度と開かれる事の無い片目。煙管を遊ばせる左手にも、大小の傷痕が目立つ。
色の薄れた、すっかり肌の色と馴染んだ古傷が、男がその世界に身を置いてより、経てきた年月の重さを物語っていた。
「虎や熊やらの獣は、言葉は通じなくても、キレてるか腹減ってるかくらいの区別はつく。だから身構える事も出来る、が……」
「…………」
「あの小僧、ヘラヘラ笑ってるツラの下で、何考えてんのかは全く読めやしねェ。俺だって、あのタヌキ親爺からの言付けがなけりゃあ、ヤツが件の武蔵だとは気が付かなかったろうさ」
目を前にやると、相も変わらず博打は盛り上がりを見せる。
あの男の事など、無かったかのように。
理解しえない恐怖は、恐怖では無い。
「鬼」がどういう生きものかを知らなければ、恐れようも無く。牙を剥いているのか閉じているのかすら判別付かなければ、それもまた、恐れようも無く。
男がそれを感じていながら、口には出さなかったのは――――――
彼もまた、それを完全に理解していたわけでは無かったからだ。
武蔵の力量の臨界を見切る事が出来た人間は、この場には一人もいない。
武蔵の胸中の底を見透かす事が出来たわけでもない。
だが――――――
百万の軍勢も、きっとあの男の意志を犯す事は出来ないだろう。
そして帝や神代の人であっても、斬ろうと思えば眉一つ動かさずに斬るだろう。
個の極致とはそういうもの。
そういう男である事には、ただ一人、気付く事が出来た。
「願わくば、あいつの中に一人の人間として、俺の名前が覚えられるのは御免被らァ。きっとそりゃあ、場合によっちゃ、とてつもなく恐ろしい事だと思うぜ。多分、な」
「……げっふ、げっふァ」
「お兄さん、煙草は“くーる”に吸うから“すたいりっしゅ”なのですよ。吸えない煙草はただのヤニです」
「六条……京のな。あの辺に居た時はちょいちょい吸ってたんだがな。すっかり健康的な身体になっとる」
「何時の頃の話ですか?」
「三十年……いや、もっと前か?」
「風には夢幻の様な歳月なのですよ。時間の流れとは重いものですね」
「あの大傷みてえに“だんでぃ”に吸ってみてえもんだな」
さっき貰った、余りの湿気モク。逆手で吸って、小さく、ぷかり。
小さく、小さく。
長煙管の薄いケムリ、それでも、強く吸うと軽くむせた。
喧嘩煙管に理由を付けたが、何の事はない。単に短く詰めた煙草はキツくて、こいつの喉には辛いだけだ。でかいなりには、甚だ似合わぬが。
「来ねえなぁ」
「来ませんねぇ」
待ち人来ず。
左ののんびり声は低く渋く。右ののんびり声は高く甘く。
大男と少女の、全く真逆の声質と、全く同種の声調が混じると時が滲んで、流れは一層遅くなる。
「あら? 風……今日はずいぶん待ち合わせに来るのが早いじゃない……って――――――えっ!?」
旅籠の前、待ち人来たる。
眠たげな二組の眼がぬっと動き、その間に芯の通った美しいアルトが絡むと、再び時計は回り出した。
おーまが動物園掲載順位うp記念更新。みなさんのおかげ。ありがとう。これで救われる、俺が!
お姫ちんのお尻に是非跨られたいと煩悶を抱きながら、そんな気分で迎える今日の朝日。