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黄河の峻才編・三十三話

「うむ、美味し」

「素材が違いますからね」


銀シャリと玄米と雑穀。

混ぜて、大きめの丼一杯に盛ったそれに、ダシとしょうがと漬け鮪、その上からお茶を注いで、軽くほぐして飲み物のようにすする。

簡素だが、貧相ではない材料の滲み出す旨味が品の良い均衡を伴ってお茶と絡み合い、昆布と鰹ベースのダシが実に口に良く馴染む風味を出す。

背筋のスクッと立った姿勢の若者と、上品に音を立てずに食器を扱う初老の親爺。

昼飯と夕餉の間の時分、ちょっとした腹を満たす一品を摘まんでいた彼らとは裏腹に、時の止まった様な座敷の外では気忙しく人が動いていた。


「ずいぶん、賑やかなもんだ」

「政を司る側の身としては、やはり冥利に尽きますかな?」


コトッ、と食器を置いて、背もたれにふっと、その分厚い身体を預けながら人心地付くと、部屋の向こうの向こう側から、賑やかな人の活気が聞こえてくる。

店の主人がのんびり客人をもてなしている間にも、ホールフロアでは注文と客同士の談笑が飛び交い、入れ替わる客に鬼の様な忙しさであろう、従業員の慌ただしさが目に浮かぶ。


「どうだろうな」


口直しの漬物を食みながら、耳だけで外の様子を知るこの男も、そのやかましさを連れてきた当事者の一人だ。


曹操――――――華琳はまず、収合した10万人とその家族全てに戸籍を与えた。

そして、政府主導で進めている事業に、片っ端から斡旋していく。

兵と農、さらに技術者や土木作業員、役人など職はさまざまであったが。


今回、特に兵と農民を雇用するにあたって、新たに“民屯”という制度を導入した。

元々は桂花の草案であり、今回の運用に合わせて華琳が修正を加えたものだが――――――


まず、戦乱で地主が追われるなどして、耕す者が居なくなった土地を官営とし、これを土地を持たぬ者に貸し与えるのであるが、この際、彼らを兵役から外させた。

つまり、従来であれば農兵として有事にあたり兵役を兼業する所を、完全に農業専業とさせたのである。

彼らには“屯田民”という区分がなされ、土地に加え牛馬、農具など政府からいくらの貸与を受けたかによって税率が通常の市民よりも割高となったが、荒地や痩地を担当している者には特別手当を支給する、等の措置を設けた。

無担保で土地や農具を貸し、公共事業を斡旋するとあって、仕事の無い流民や降民はこれらの政策に飛び付いた。


「人の流れは、ずいぶん活発になった気がするが」

「ええ。あのお嬢さん方は、商売というのがどういう物かをよく知っておられる」


特筆すべきは、これらの政策を元々の自領民だけでなく、領外からの移民にも広く適用した事だ。

つまり、移住してきた移民を戸籍に載せ、仕事を与え、税を徴収する。

これにより兗州の経済活動の活性化を促す――――――とともに、人口の外部流入を防いだわけである。


「武力のある人間は金が無くなると手っ取り早く略奪で賄おうとしますがね、それじゃあ、今回の件は解決いたしません」


そもそも、昨今の貧困の根源的な原因は土地枯れによるところが大きい。

さらに戦乱によって各地の領主や豪族が倒され、それらの私有民が大量に外の地域へ逃げていった事。

この二点において、気候的に冷害の煽りをまともに受けた上、反乱の中心地ともなった中原は最も顕著である。人口が減少すればあらゆる産業が零細化するので、経済が萎む事は言うまでも無かろう。


そこで華琳は、私有民が浮遊した事を逆手に取り、彼らを戸籍に載せる事で官の管理下に戻すと同時に、次々と事業を打ち出し、働き口を与えて人口の流出に歯止めをかけ、根本的な経済の再生を図ったわけである。

事実、各地から居場所を失った流民が、続々と曹操領に集まって来ていた。


「物の売り買いで差し引き的な利益を得るってのは、素人でも出来ますわな。玄人は経営で金を増やします」

「親爺が華琳に、しこたま銭を貸し付けてるのもそういう理由かい?」


「もちろん」


人が集まれば産業が興る。産業が興る事によって金は回り、その回転率が活性化することで経済は成長していく。

下は失業者から、上は商人、特に、急激な人民受け入れと事業展開によって莫大に必要となる資金を、政府に貸し付ける親爺の様な有力商人まで、悉くその影響を受ける事になるのだ。


「ま、楽な事ばかりじゃ無いがな。税金はやっぱり高ぇとよ」

「そりゃあ旦那。“働く”というのは、そういう事でしょう?」


ずっ、と、親爺が食後の茶を啜った。


「もし曹操様が借金の帳消しや民衆に金を配る徳政のような、下らぬ民衆の人気取りしか出来ない政治家でしたら、私は融資などしておりません。思うに、福祉という奴は、お上が取る政策の中では最悪な部類のもので。年は十を数えぬ内に奉公に出て、真面目に働き続けてきた手前共の様な者は、まるで阿呆でございましょう? 働かぬで家で昼寝をしておれば、税金で飯が食えるのでしたら。やるなら銭では無く、職ですよ、旦那」


親爺は恰好をやや崩して、親しげに話すが、べらんめえ調の言葉には妙に真に迫るものがある。

それは恐らく、この親爺も元は一介の丁稚奉公に過ぎぬ身であり、雑用や小間使いをしながら商人としての才を磨き、着々と地位を固め、やがて暖簾分けされて独立し、店を育てて遂には官に融資するほどの一廉の商人へと昇った、その経緯があるからに違いあるまい。


労働の世界だって、詰る所は弱肉強食なのだろう。

環境もあろうが、それでも、勝っている奴は勝っているのだから。

ならば、政府がやるべき事は尻を叩くことであって、甘やかす事ではあるまい。


仕事に環境という水と鉢を与えれば、才ある者の芽は萌えるものだ。


「あの若さでその事がきっちりわかっている、あの曹操様はやはり只の娘では無いですな。しかしそれだけに、投資する価値があるというもの」


そして華琳が一州の長で満足はせぬように、彼もまた兗州のいち商会の元締めで終わるつもりは毛頭、ないのであろう。


「そうだ。銭の話で思い出した」

「はい――――――? …………ああ、それですか」


武蔵がふっと、おもむろに背中を背もたれから浮かせると、やや余裕をもった、懐の中に手を入れる。

やや不可思議そうな目を作った親爺だったが、よくまあ懐に入っていたな、と言いたくなる、大きめの、立派な桐の箱が出てきたのを見て、合点がいったような反応を見せた。


「拝見しても?」

「ああ」


親爺が一応、ちらりと目配せしながら確認をとったが、武蔵はごくごく気安い返事をして、また箸を持った。

親爺は長方形の桐箱を一旦、自分の手元に引き寄せ、丁寧な手つきで箱を開ける。


「蓬莱仙島、でございますか?」

「ん」


箱から取り出し、広げた図は、水墨画だった。

霞がかる東海、その中に、ぼんやりと浮かぶ蓬莱山。それを山東の聖地・煙台から望む始皇帝。

墨一色でありながら、その濃淡の使い、絶妙の明暗のコントラストが淡々と、それでいて味わい深い情景を立ち上らせる。

そして、背後にすかん、と大きく余白を取った、そこぽつりに描かれた、祈祷台で五体を投地する始皇帝が、中華全人民の頂点に登り詰め、栄耀栄華を極めながらも、届かぬ不老不死を求め、なおも跪き彼方の神の島を仰ぎ見る一人の人間の、どこか哀れを感じさせる滑稽さが、見る者の胸に何とも言い表し難き寂寥感を、墨汁のように染み込ませていくような印象を与える。


その端々に、武蔵作品特有の、非常に素早く鋭い筆遣いが見られる。

それが作品全体の雰囲気に、より鋭利なものを加えた。


「琅邪台には行かれましたか?」

「チラッとだけ、散歩がてらな。見ながら描いたわけじゃないが。蓬莱が見れんで、残念だったよ」

「そりゃそうでしょう。あくまで、伝説ですから」


人の良い顔で武蔵の冗談に笑った親爺に、武蔵もふっと静かに笑みを浮かべたが、それのみだ。

伝説に残る蓬莱山が、恐らくは海越しから見た倭国――――――日ノ本である事を武蔵は知っている。

だが武蔵は自分の故郷の事については特には語らず、品定めを再開させた親爺を眺めながら、口に茶を付けた。

恐らく彼らは、東の果てを越えた秘境に、倭という島国がある事を存じてはおるまい。

後漢書にぽつりと残るだけの漢委奴国王の事が、頭に留め置かれているとも思えぬ。

後の日出ずる大国も、この時点では位置すら怪しい辺境の、一部の史学者でもなければ知らぬような東亜の蛮国でしかない。


取るに足らぬ事だが。

口に出すほどの意味も無く。


「この賛は、曹操様のものですか?」

「ああ。そうだよ」

「ふむ……」


左隅に書かれた、流麗な四行ばかりの詩。

一段下がって、曹操、と書かれているそれを、ことさら眼を細めて親爺はじっ……と見遣る。


「……旦那、このシミは?」

「む……? あ、スマン、タレこぼしたんだ、ソレ。流琉が作ったみたらしをさ……」

「前衛的表現技法の一つという事で売りますので、その裏話はこの場で握り潰して頂けるよう。あと、箱には筆を頂いた方が望ましいですね。鑑定書もお付け致しますから」

「おお、気合入ってるな」

「この出来ならば交渉次第では、謁者を競り落とせる程度の値では売れるでしょう」

「……お前は錬金術師か!?」

「いやあ、“玄信”名義で曹操の詩が付いておりますれば、高官の好事家などなら即決でも買いましょう。金はある所にはございますから。官位では無く、しっかり銭で捌いて参りますから、ご安心ください」


武蔵は『本朝古今書画便覧』において、「二天(武蔵)の筆力、長谷川等伯に似る」とされ、『画道金剛杵』では、海北友松に次ぎ、円山応挙に勝る、とされた。

また、曹操が建安文学の大家・三曹七子の一人として、永らく中国文学史上の最高位に座していた事は、今更、禿筆を呵すまでもない。


「いやはや。描いた身で言うのもなんだが、二日でちょいちょいと手慰みに描いたモンが、そうホイホイ売れちまってもいいのかねえ」

「おや、これは、武蔵の旦那のものとはとても思えぬご発言」


ん? と、きょとんとした顔を作って、おもむろに茶をすする親爺を見遣った。


「才の無い者が同じ事をやっても、それこそ手慰み程度の物にしか、なり得ますまい。ようは外を汗水たらして歩き回って働いてる人夫達の一年よりも、旦那の暇潰しの二日の方が価値があるって、それだけの話でね。私も然りで、座ってるだけで金は入ってきます」


武蔵が、欠伸を一つだけした。


「そして年端もいかぬ小娘が数十万の民を治めるのも、ひとえにそれを皆殺せる権力者だからでございます」


スルスルと絵図を畳み、元の箱に戻す。

所作に淀みは無し。


「相変わらず、勘定に長けたせせこましい答えだよ」

「商人でございますから」


は、と、僅かばかり口角を上げて、武蔵は杯を持ったまま親爺を指すように、中の茶を揺らす。

親爺の、茶を啜る音が聞こえた。


「理と利を求めるばかりに、花を愛でる余裕を失する者は、まだ青いですな。その花が何十万銭の富をもたらすかやも知らずに、みすみすそれを捨てるのですから」

「賢しらに合理主義者を気取ってるうちは、まだまだ半人前、ってかい」

「然りで」


武蔵がお茶をクッと飲み干したのを見ると、親爺は卓の隅に置いてある鈴をチリンと鳴らした。

「失礼致します」と声が聞こえて、割烹着の様な衣装を着た給仕の女性が茶を汲みに入ってくる。扉が開くと、店側からであろう、賑やかな喧騒が流れてきた。

武蔵と親爺の茶を注ぎ直し、御茶請けを整え、親爺が向けた笑みを合図に、武蔵に軽く品の良い会釈をし、部屋を出る際、再び一礼して、改めて出ていく。


「だからこそ、あの曹操様はつくづく、油断のならぬ御人なのですよ。あの若さでその辺りをよく心得ていらっしゃる」

「話してみるとワリと普通なんだがな」

「ははは。そういう台詞を聞けるのも、旦那の口からくらいなものですな――――――そういう、御せぬ旦那は御せぬままに、懐に入れておく……そのような所作は、手前程の歳になっても、中々出来るもんじゃあございませんよ」


武蔵が盆に盛られた鮭とばの皮を咥えて、ビーッと剥がして食い千切る。


「いっそのこと、臣下の礼を一向に取らぬ旦那に業を煮やして手討ちにするような俗人でしたなら、舌先三寸で如何様にも操れたでしょうにな」

「怖え事言うねえ」

「まあ、そうであれば、旦那と曹操様が巡り合ったかも定かではございませぬが……」


言っている内に、もく、もく、と、武蔵は残ったとばをすぐに口の中に仕舞ってしまう。

すぐに飲み込み、次に手を伸ばした。


「俺だって、仕事ぐらいするさ。いくつか頼まれてな」

「ほう」


クーッ、と、干し鮭の塩で渇いた喉を茶で潤して、一息付くと、再び背もたれにゆったり身体を預ける・


「人は増えただけじゃあどうにもならん。鍛えんと」


10万の降民、そして内外から曹操治下に集まってくる根なし草達――――――

華琳はこれに伴い、さらに多くの兵を募った。

先の民屯、そして、曹操直下で動く常備軍の設置――――――ひいては“純兵制”を早期に形とする事を重視していたからである。

まず降伏させた十万の内、特に有望とみられる数万を選抜し、残りは屯田民、もしくは通常の農兵とした。

さらに、追加で民間公募の募兵、先の選抜組と合わせて、さっそく訓練と所属の選別を開始。

その部隊単位での訓練を春蘭、総監督を秋蘭が担当し――――――そして戦闘術の指南役として、武蔵にも御鉢が周ってきた。

というか、黄巾党六千から純兵制試行人員として選抜し、編成された武蔵隊の事情を鑑みれば、彼がこのプロジェクトに投入される事はむしろ当然の処置だ。


「はあ、そいつは大義にございますね。数万人の武芸指南ともなれば」

「いや、まあ……俺が稽古を見てんのは、上の方の一部の奴だけだがな。下の奴らの面倒は、ウチの子らがやっとるわ」

「へえ」

「特に一人、おあつらえ向きの人材が居てな」





「――――――こらァウジ虫共!! タラタラタラタラやってんじゃないの!! この程度で動きの鈍くなるような駄馬以下の穀潰しは、タマ抜きにして宮中勤務に回してやるぞー、なの!!」

「ひいいいいいいいいい!!!!!!!!」

「情けない声を上げるなこの糞虫共!! 娑婆っ気は今すぐ捨てろ! 曹操軍に苦痛という感情は無い!! その弛みきった性根を叩き直し、貴様らシャバ僧共を戦える男にしてやる! どうだ、うれしいかー!」

「お、おー!!」

「何だその返事はァ!! 返事はおー、じゃない! さー、いえっさー、なの! わかったか糞虫共!!」

「さ、さーいえっさー!!」


此度の選抜制、本格施行の折りにあたり、人員の動員増加に伴って、現役の戦闘部隊員からも何名か教練官が臨時に選出されたわけだが、武蔵が推挙したその任にあたる者の中で、他を圧倒して存在感を示していたのが沙和だった。


主に担当しているのは戦闘術の教練だが、今や一度で千人単位の新兵を管理し、それを完全に掌握している。


「貴様らに許された人権はたった一つ! それは上官の命令を謹んで拝領する権利なの! 上官の命令は絶対! そもそも、便所のクソ虫にも等しい貴様ら如きが、天にも等しい上官様に楯突こうなど言語道断なの! だから有難く粛々とその権利を拝領しやがれ! わかったか、クソ虫どもー!!」

「さー、いえっっさー!!!!」

「よーし、良いお返事だー! とりあえず手始めに千本突きからー! はじめーい!!」

「さー、いえっっっっさー!!!!!!」








「はは。それじゃあ旦那よりお嬢ちゃん達の方が、ずっと真面目に働いていらっしゃるじゃないですか」

「怠けてるわけじゃあ、ねえがな……」


ずっ……と、お茶に口を浸けた。

香りがふわりと鼻腔にそよぐ。


「自分の事がまず、ままならんのに、仕事で数百や千単位の人間の稽古を見ろっていうのは、難しい話だよ、実際」

「ほう、未だ修行が足らぬと……」


言い訳するつもりじゃないが、と前置きして再び茶請けを頬張った武蔵に、親爺はおもむろに片眉を上げた。


「今や中原随一の達人と……比肩する者は無し、と御自ら宣言致されましても、異を挟む者は現れぬとは存じますが」

「……いつも聞くたび、誰の事か、と思う。そういうのさ」


斜め上に視線を飛ばす。

水気の抜けた鮭とばを咥えて。

腕を組みながら、背もたれに身体を預けた。


「俺は、自分が強いと実感できたことは一度もないよ」






「あ~! 武蔵さん、おーそーいー!」


大衆的な生活感に満ちた活気が溢れていた。

一つ一つのテーブルではそれぞれが談笑に興じ、幾重にも声が混じり、跳ね返り合う。

所狭しとごった返す客の合間を縫って、給仕の娘達が張りのある声を響かせながら、せわしなく働いている。

重くも無い門がまえから、血液のように絶え間なく流れていく街道から人が入り、別の客が、又すぐに出てゆく。

その度に、客を送り、あるいは迎える従業員の挨拶が、一層賑やかに響いた。


そんなせわしない喧騒の中に、店の関係者しか使わないような奥側の通路から、ふらりと現れた大男を、窓際に陣取ったかしましの娘達は目聡く見つけた。


「いやいや、すまんな。つい話が盛り上がって」

「も~すぐ来るって言ってたのにー、もう食べちゃってるよ」


でかい図体をしながら、混み合う人と人、椅子と椅子の間を器用に縫って、店の隅の三人の娘が囲うテーブルまで淀みなく辿り着く。

ぷりぷりと怒る天和が武蔵の腕を取り、壁に隣接して設置されている長椅子に導いて、自分の隣に座らせた。


「一口くれ」

「春巻きでいい? はい、あーん」

「ちょっ、姉さん、それちぃのだし!?」


腕組みして、んが、と開けた口に応じて、つらっと地和の皿から春巻きを掠め取る。

武蔵の大腿に左手を乗せて、身体を預けてくる、やわらかな体温と、ふわりと香った、甘ったるい髪の匂い。

差し出された右手が思いのほか、近くにあったが、特に表情を変えず、顎をやや引いて春巻きを一口で口に仕舞う。


「……姉さぁん、なんでそんなに武蔵さん気に入ってるわけ?」

「う? ん~……何かね、横顔がタイプ♪」


やたらに太い、組まれたままの両腕に、それと対称的な細い腕をするりと差し入れて、両手で抱え込み、胸に引きよせ、腕と身体とで武蔵の右の二の腕を挟むようにする。

おもむろに顔を合わせた武蔵を、肩に頬っぺたを預けて、若干酔気でもあるかのような、なんとはなしに色気のある顔が覗いた。


「李通の方が男前だろう?」

「え~、李通くん、小っちゃいもん。この角度が好きなの」


見上げるようにして、クスッと笑う。幼い顔だが、どこか、人を惑わすような色彩が見え隠れする。


「デクは俺よりでかいぞ」

「デクさん首筋無いから。優しいけど~」

(哀れな……)


武蔵は何とも居た堪れない様な顔を浮かべながら、天和の身体を振り解かない様に体重を椅子に残したまま、左腕をぬっと伸ばして、机の上にあった茶を口に含んだ。


「……ん!? あー! 武蔵さん、だからそれ、ちぃのだってば!!」


渋顔を溶かすように茶を啜る武蔵、その所作が余りに何気なかったので、気にも留めずぼうっと見ていたが、一瞬遅れてその、何食わぬ顔で取っていった茶が自分のものだった事に気付き、地和は再び、大袈裟に騒ぐ。


「ん? おお、ついうっかり」

「お姉ちゃんももらおーっと」

「ちょ、ちぃの杏仁豆腐ー!!」

(似た者同士なのかしら……)


けらけら笑いながら、当然のごとく再び茶を啜り始めた武蔵と、その隣で自由気ままに地和の杏仁を掠め取っていった天和を見て、人和は口の中で呟いた。


さて、彼女ら三姉妹だが――――――現在は曹操治世下の保護下にある。

元々独自で興業を行っていた彼女らだが、先の大乱の後ではそういうわけにもいかず、曹操の管轄下に入ることとなる。

それに伴い、民衆扇動の防止、興業活動の支援、安全保障等々――――――等を曹操が負担する代わり、その事業は官営となった。

まあ今回の都市活性化の一環として、体よく組み込まれたわけである。

彼女らとしては図らずとも、悪名高い「張角一派」であり、それが露見する可能性がある以上、もはや単独での活動は不可能であったため、曹操の庇護を拒む道理はなかった。

現在、黄巾の乱のほとぼりが冷めるまでは大々的な活動は避け、「数え役満☆しすたぁず」として、領内の店舗宣伝や慰安公演などを行っている……


「姉さん、ゼッタイ趣味悪いってー、間違いなく何人も斬り殺してきた顔だって、堅気じゃないよ、堅気じゃ」

「今時、人殺しなんてめずらしくないよ?」

「さらっと凄い事言うねえ」

「もう、姉さん達ったら……」


――――――しかし、これがあの気丈な娘と同じ者か。


武蔵は地和の茶を我が物顔で啜りながら、三人の娘を見遣り、あの峠の戦闘を思い出す。

無邪気というか、暢気というか、それでいて、見るからに武の心得も、身の安全を保証する何の後ろ盾も無い彼女らが――――――

刃の下にありながら、健気な非力で、目一杯背筋を伸ばし、一歩として退かなかった。

死の予感を前にしてあれほどの胆力は、いかに剛の者であってもそうそうは練れまい。

武蔵は彼女達が如何に、自分の「芸」という物に対し、一身を賭していたかを、垣間見た気がしたのである。

それを嗅ぎ取ったのもひとえに、剣に一身を賭して幾重の齢を重ねた、武蔵の求道者としての心持からだろうか。


「わっかんないなぁ~、恐いじゃん、武蔵さん。壊されそう」

「カワイイ系よりはお姉ちゃん、こーゆー人の方が好きなんだよね。エロい感じ?」

(当人を目の前にしてようまあ…………)


……否、ただ図太いだけ、か?


「ああ、そうだ。人和」

「? はい」

「実はな、急な用事が入っちまった。すまんが、この後は三人で暇潰してくれねえか」

「え~、もう行っちゃうの?」

「ちょっとぉ、武蔵さん、お酒の美味しいお店に連れてってくれるって約束だったじゃない!」

「……今後の活動とギャラの歩合についての打ち合わせも兼ねると言う事でしたが」

「いやあ、ほんにすまん。今日はこの金で遊んでいいから、勘弁してくれ」


武蔵は左手で手刀を作って顔の前に立てる仕草を見せて、その手で懐から小袋を一つ取り出し、人和に投げて寄こす。

人和の胸元、両手で作った杯の中に、ズシッと、中々の重量感を伴って収まった。


「あん、お姉ちゃんのが年上なのにぃ」

「末の子が一番しっかりしてるもんさ。俺の所もそうだった」


右腕をぐいと引き寄せる天和に、武蔵が鼻を突き合わせるように顔を合わす。

金の管理が不満らしいが、元よりこの姉妹の財布は人和が握っているので、どの道人和の元に行くだろうが。


「こんな危ない時勢で、美少女あいどる三人に護衛も付けずに街に放りだすワケぇ? ちぃは曹操軍の扱いに不満をもーしたてる!」

「俺の言う事なんぞ聞かんで、勝手に沙和と買い物に行くだろう、お前は」

「そう言えば、代わりの人が来たりしないんですか? その……あの、口髭の人、とか」

「ノッポか? あいつは今日は春蘭の部隊と合同訓練だよ。俺が居ない時は、あいつが一番偉いからな」

「ほぇ~……結構凄いんだね、あの人たち」

「てっきりカモ……ゲフン、ファンクラブの会長ってだけだと思ってたけど」

「一応、あんなんでも精鋭の一員なんだぞ。“えりぃと”ってヤツだ」

「オタ芸完璧にマスターしてるのに?」

「ああ」

「ライブの二日前から場所取りして並んでるのに?」

「ああ。バカに暴利の揮毫入り手拭とかを褒賞金はたいて買い込んでるが、そうなんだ」

「手拭て……タオルって言ってよ。それに揮毫じゃなくて、サイン!」


非常に残念なエリートである。


「あんなの、言ってくれたらタダであげちゃうのにねえ、友達だし」

「会員としてそれはいかんらしい。演奏会で買うから良いんだと」

「演奏会じゃなくて、ラ・イ・ブ! もぅ、これだからオジンは」

「…………“オジン”も、あんまり若い子は使わんのじゃあないか?」


やいのやいのと、この場にいない人間を肴に話は盛り上がるが、やがて一段落つくと、給仕の女が茶を汲みに来る。

清楚そうな笑顔で茶を注ごうとする女を、武蔵はやんわりと断った。

――――――その際に、ぽそり、と女が耳打ちをしたのに気付いたのは、恐らく体面に座っていた人和だけだろう。


武蔵はタン、と、飲み干した地和の杯を机に、少し音を立てるように置いた。


「……ま、そういう事でな。すまんが今日は許してくれ。急なもんで、代理も立てられん。明日か明後日にでも、暇取って埋め合わせはするさ」

「むぅ……まぁ、そういう事ならしょうがないけど、今度はちゃんと付きあってよね」

「……今夜寄ってくれたら許してあげるんだけどなぁ~……」

「そいつは魅力的だが、秋蘭に怒られる。それに、ウチの連中に袋叩きにされてしまうよ」

「……では、業務連絡もその時に、という事で」

「迷惑をかけるな、人和」

「いえ」


優しく天和を振りほどくと、彼はゆっくりと立ち上がり、袖の中から新たに二枚、銀貨を机の上に置くと、そのまま席を後にする。

店の入り口まで行き、会計の給仕の女性と二、三、何か言葉を交わすと、そのまま暖簾を潜って、人のごった返す、日中の雑踏に消えていった。






(――――――それでしたら、旦那の仕事は訓練と、三姉妹のお守りと……)

(まだある。あと一つは人探し……)

(ほう)

(ひと月前にあった牢破り、知ってるか)

(ええ、勿論存じておりますよ。李通さんをお雇いなさった、件のでございましょう?)

(ああ、アレだがな……李通は首謀者とは全く関係なかったんだが、どうもある罪人の始末を付ける為に仕組まれたもんらしい)

(――――――陰謀? それは初耳ですな)

(うむ。商屋の金家の事は知ってるだろう?)

(金……ああ、居りましたね。確か、脱税の罪で、財産や販路や小作に至るまで、全て差し押さえられて、曹操様お預かりになった……いやあ、恐ろしい話でございますねえ)

(嬉しそうに恐がるなよ。で、だ……その牢破り騒動で死んだ罪人の中に、金屋の元支配人が居たんだと)

(……ははあ、成程)

(何かまずいネタを持ってたんだろうな。牢番か衛兵あたりに小金握らして、ついでにヤクザも雇って罪人を煽ったら、後は戦のドサクサで殺しちまえば目的達成だ)

(暴動なんて、それこそこのご時世、あっちこっちで起こっていますしね。首斬りも同然……余程のご要人でもなけりゃ、死んじまったらそれで終い、でしょうな。まして今回、あの夏侯元譲が本陣まで斬り込まれた程の事態だ。たった一人悪徳商人が死んだ所で、死んだものとして済まされてしまうでしょうな)

(……まあ、李通程の手練が混じっていた事は、金屋の奴だって想定外だったろうが)

(しかし……)





「――――――景気はどうだい?」


ふらりと現れた男に、不意に声をかけられた、そのほったて小屋のような粗末な家屋の、扉の外れた入口の前で番をしていた三人ほどの男が、声は発さぬながらも、気だるげにたむろわせていた、壁に預けて寄り掛からせた身体の芯をハッと伸ばし、目をやや見開かされたのも、無理はあるまい。

こんなごつい大男が腰の物をぶら下げて、思いもがけずにこのような場にやって来たら、番を預かっている身が、反射的に警戒心を抱くのは当然だった。


「何だいアンタ……どこぞの用心棒か?」

「いや、打ちに来たんだ。今からでも入れるか?」


大男が、厳つい風貌からは存外に穏やかな声調でそう答えると、男たちの顔から、クッーっと逆立ったものが治まっていくのがわかった。


「ああ、それなら中入って台帳に名前付けたら、次の周から入んな」


親指で屋内を指した、短い袖の二の腕から、派手な色彩の刺青が覗いた。

見るからに遊侠者とわかる、硬派な柄の彫り物だった。


「待ち」


軽くうなずいて、扉の無い、吹きっさらしの入口を潜ろうとする大男を、一人の男が、やはり刺青が手首からびっしりと入った腕を伸ばし、行く手を遮る。


「寺銭は此処で置いてけ。こっちも商売なんでな」


男が言うと、頭上からスッと目線が映された。

一瞬だけだったが、その眼は酷く冷たかった――――――気がした。

二回り程大柄な体で、上から流された瞳は、虹彩の輪郭が、常人よりもひと際目立つ琥珀色。

麒麟の様な、跳ねた赤毛の長髪の中から覗いた、眠たそうなどんぐり眼に。


「――――――ああ」


そんな印象を受けたのもつかの間で、大男はふっと笑みを浮かべると、袂を探って、銭を一束、少し押されたように顔を後ろ側に逸らせた、男の掌にポン、と握らせた。





(――――――それじゃあ、金屋の件は迷宮入り、でございましょう? なんでまた。調書から割り出せたんですか?)

(いや。奴が捕えられたのは、農民の殺人の罪に問われてだ……こっち側から調べたんじゃ、脱税には結びつかん)

(すると、何処から)

(…………一部始終、調べ上げてタレ込んで、褒賞金たんまり貰った浪人が居たのさ)





家屋の中は何もない、板の間の二十数畳のすかんと空いた一間があるだけだった。

そこに御座を敷き、けたましい声と熱気を揚げて賭博に興じている。

――――――鉄火場、とはよく言ったものだ。


(……しかし、それだけじゃあ旦那が動く道理にはなりませんな。監察方に任せればよい)

(ああ。その監察にな、ちょっと聞いたのさ。そいつの事を。そしたら面白い事に……)


ふと、武蔵はその御座の周りを回りながら、ゆるゆると見渡す。

只でさえ人より高い目線から、座り込んで、賭場を囲む奴らを見下ろす。ゆるゆると。


――――――見つけた。


(その浪人の風体ってのが、面白いくらいに、俺が見知った人間にそっくりだったんだ)


男達に混じり、ひと際、小柄。

えげれす人の様な、抜けるような白い肌、金の糸を束ねたような、長く、ふわりと揺れる金髪。

ふわふわとした明風装束の、頭に妙な人形を乗せた美少女。

その、場に酷くそぐわない、妖精の様な姿を認めて、武蔵はニィ、ッと口角を上げた。


おめでとう、チーム角居、ありがとう、ヴィクトワールピサ!

千早への有り余る愛を叫ぶ事を曲げてもなお、祝辞を上げなければならぬ日本競馬界にとってのドでかい風穴なのです。万歳!


大体一万字強だが、長いかな? 大丈夫?


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