黄色頭巾編・三十二話――――――「曹操の民」
「……ッ!! 貴様らぁ……!!」
剣を抜き、前を見、後ろを振り返り、眼に映った黄色い頭巾に、一人の青年が苦虫を噛み潰すような顔で歯軋りした。
だが、ふてぶてしいくらいの面構えで得物を携え、それでいて構えを作らずに自然体の立ち方でこちらを覗きこむそいつらは、恐らくは彼の知る黄巾党とは全くの別物。
「お、おい、まさか、あいつ…………」
「ば、万億……!?」
何人かは、一足後ずさった。
その反応に、「あ?」ととぼけた声を出す、両掌の間を、短く丈を詰めた棒杖を滑らせて遊ばせる、小柄な若い男を見て。
「おいおい李通! テメー今までどんな戦い方して来たんだよ? 結構、顔が知れてるみたいじゃねーか」
「知るかよ。朝起きて戦行って豚汁食って戦行って行水して戦行って寝る、って、ずっとやってただけだぜ」
「マジメかオメーは! 毎日毎日、そんだけ働いてりゃ顔も知れらァ!」
「どっかの企業戦士みてーなんだな」
その表情を見逃さず、うろめいた奴らを切っ先で指し示すチビ、無味乾燥的な声で答えた李通に、デクが落として周りが笑う。
油断か、余裕か。
いずれにしろ、袋小路の窪地となっている山道で、前後を挟まれ切羽詰まった表情の彼らとは、明確に対称的な顔だった。
「――――――もう少し居ると思ったんだがな」
涼やかな声。
低めの、渋い、静かな声。
風に交じって――――――山林の中から流れてきた。
「些か、大所帯で来すぎたか」
紅い髪、琥珀の眼。鞘に収まったままの二本差し、そして、手に持った直剣。
山道に居る彼らよりも少し高い所、些か急な林の中から姿を現した大男。
彼らを統べる主、宮本武蔵。
否、彼だけではない。
彼の近くにも二人の、黄巾を被った兵士が侍り、さらに道を挟んで反対側、逆側の獣林にも、三、四人程の黄巾が、林に紛れて現れた。
道の前後、左右の林。
真ん中に据えた、青年達の集団の四方を取り囲むように、黄色い頭巾の集団が散らばっていた。
「すでに包囲されていたか……!!」
高所にある武蔵らをぎっと睨み、一人の若者が呟いた。
武蔵は、いつもの掴みどころのない、まどろみとほほ笑みの中間の様な、老人くさい穏やかな笑みを浮かべていた。
――――――傍目には、そう見えたろう。
春蘭か秋蘭ならきっと、口の端が意地悪な、悪戯臭い角度で吊り上っていた事に気付いたかもしれない。
いつもの組手稽古で、春蘭の額に打ち込む瞬間の、特に、攻め気に逸って空振りした春蘭の死に体、しまったという風に焦った表情を浮かべた春蘭に打ち込む寸前に見せる笑顔に、そっくりだったのだ。
決まってそういう時、側で見ている秋蘭は目を閉じて人心地ついたように微笑む。
“大所帯”というのは、恐らくははったり。
実際には二十程しか連れてきていない。「本陣から、少女を含めた数十名の一団が脱出」という報を秋蘭から受けた武蔵は、適当な人員を見繕って切り離し、隊の統率を凪に、秋蘭の一軍との連絡役にニキビを置いて、後の指揮を委任し、気取られぬ可能な限りの速度で追いかけてきたのだ。
故に数的には互角――――――むしろ最初の段階では劣ってすらいたが、林に身を隠し数を晦ませ、奇襲による三姉妹の奪還、この構図の形成と武蔵の言葉の細工により、聡明な若者はその巡る頭ゆえの深読みから、うろめいてくれたようだ。
実際には手持ちの殆どの兵は奇襲を加えた者であり、林に控えている兵は、今、山道近くまで下りてきた、数名のみであるが。
四方を囲まれた状況、姿を現した隊長。先見のある者ならば、この林の向こうに大勢の兵を隠していると見切っても無理は無い。
時として、見えるが故に盲目になる事もある。
利発な兵士は、すっかり包囲されたと思い込んでいた。
――――――もっとも、この独り好きの糸の切れた凧のような男の事だ。
二十程の兵であっても大所帯で動きにくいと、本気で思っている節も、案外に無くは無いかもしれないが。
「……貴様ら、何故邪魔をする! この国の存亡が見えぬのか!?」
「何故、だァ? そっちこそ何故に天和ちゃんを攫うんじゃボケ! 斬るぞテメエ!」
「革命の足掛かりだ! この国を変える為には改革が必須……」
「仲間見捨てて無理矢理、地和ちゃんを連れて行った奴らが賢いフリしてんなよコラ! 改革だの革命だのの前に我がフリ省みろやボケ! ブチ殺すぞ!!」
剣を振り、論戦を持ちかけたが、罵声混じりの怒号でかき消された。
睨みながら剣を振りかざしても奴らは引かない。
明らかに、彼らの知っている黄巾の徒とは違った。
「――――――革命、ねェ」
気だるげな所作で、細身の長剣を肩に担いだ。
長身痩躯の男。刃に日光が照り返し、鈍く煌めく。
「てめえら、しすたぁずのライブ観に行った事あんのかい?」
「あ!? しすたー……?」
「しすたーずじゃねェよ、しすたぁずだ」
冗談めかした口調で、笑いととも漏らす。
だが、覗きこむようにこちらを見据える沈んだ色の瞳は、全く笑っていない。
「てめえらは、自分が足掛かりにしようとした神輿の名前も知らねえでいたのか?」
「…………つっ!」
スッと顎を上げる。硬く冷たい声調に変わって届いてきた。
「そ、それがどうした! そいつらの名前など大した問題ではあるまい! 問題は影響力だ!」
「…………へッ」
存外に上擦った声が出た、が、男は口髭を歪めて冷笑したのみ。
とっさに取り繕おうとしても、一度見透かされたものは、覆い隠す事は出来ない。
失念していた、足下。
「盛り上がるんだぜぇ? 照明がキラキラ~ってキレイでよ、人和ちゃん達の歌が会場中に響いてなァ」
「そうよ! 何より地和ちゃんの見えるか見えねーか位のスカートチラリズムがたまらねー……」
「……チビ、お前ちょっと黙るんだな」
「まあよ、楽しいのさ。夢心地浮かれる、っつうのはまさにあの事よ」
アニキの剣の腹が、ぱぁん、とチビの鼻先を叩いた。
潰れたようなチビの呻きと、淡々としたアニキの声。
――――――それ以外は何も聞こえない。
「だからこそ。終わった後は物寂しいもんだぜ。祭りの後は、何時だってそういうもの」
革命ってテーマの祭りは、さぞかし盛り上がるんだろう。
きっと語ってるうちに、何でもできるように思えてくるんだろうな。
――――――でも、家に帰らなくちゃならねえ時が、きっと来るのさ。
「俺達は革命ってモンがわからねえ。言っちゃなんだが、そんなもんにはまるで実感を持てやしねえ」
楽しかったから帰ります、じゃ済まねえよ。
ゴミ拾いはしなきゃなんねえ。夜が明けたら、また仕事。
避けられねえもんが、ある。
それは決してロマンチックじゃなくて、やたら殺伐として、いたしかたないモンなのさ。
「こっ……これほど言ってもまだ、わからんか! この国の政治を変えるにはまず王朝打倒……」
「――――――なぜなら俺たちゃ、人斬りだからよ」
飾り立てた美辞麗句で彩る理想は、さぞかし聞こえが良いだろう。
いかにもそれっぽく語った理論は、真っ当に筋が通ったように思えるだろうさ。
――――――でも、柄握ったらやれるこたァ、一つっきゃねえのさ。
地に足の付いた場所で出来る事なんて。
「アンタら、自分で言ったよね。血の犠牲って」
棒杖を翻し、蛇の刺青が歩み寄る。
恐らくは国や大義や革命という言葉の前に、人殺しのやり方を覚えた男。
「お兄さん達ャ、お前らよりもずっと若え頃から、斬った張ったよ。革命って字は書けねェよ。何度死にそうになったか知れねェ。でも、生き残ってきたぜ」
ゴブリンみたいな小さな身体に、舌をべろりと突き出した凶悪な顔。
血に塗れた白刃を拭おうともせず。
「言うのとやるのじゃ大違い、って言うけどなあ。結局、柄取ったらこれしかやる事ねーんだな。世知辛いけど」
ユーモラスな外見。のんびりした語気。
暴力的な棍棒、空で振るった腕には一欠けらのためらいも無く。
「いい加減、勘違いはやめようや。大義も論説も、此処じゃ言葉じゃ通らねえ。此処で通るモンは、一つだ」
指導者も総帥も英雄も居ない。
ここは、百万の憂国の士を熱狂の聴衆に変えるような、演説をかます高台じゃねえ。
浅い峠の、ちっぽけな中腹。戦場の端っこ。
居るのは、ただの兵士。
この場所に、英雄は居ない。
居るのは、ただの兵士。
彼らは人を救わない。
彼らはただ、戦うだけ。
「大人をナメちゃあいけねえよ、小僧共」
切っ先を向けた、痩身の細剣。
一足下がった、青年達。
それ以上は退がれない、後ろにも敵、だから。
わかってるさ。お前らもお前らなりに、本気だったって事くらい。
だから形振り構わず剣ブン回して、なんでもかんでも、刃にかけて来たんだろう?
けどな、いや、だからこそ、仕方ねえのさ。
大人の世界ってな、生き馬の眼を抜くよりもずっとシビアだ。
「――――――おう、気付かん内に、どうやら」
ふっ、と武蔵が呟き、空を見上げた。
中天に坐していた日輪が、傾いてきている。気温も冷えてきた。
あと二、三刻で、夕焼けになる。
武蔵隊の面々が一斉に構えた。
包囲された彼らに緊張が走る。四方からの圧力で、団子のように固まった。
怯えているか? あるいは、憤っているか。
――――――でも、仕方がねえよな?
「こうやって過ごしてきた時間はずっと長い。お前達よりも」
狂乱のステージ。加熱する思想の語り場。幼すぎた理想。
あれは、夢さ。
足下。現実は、こっち。
革命の、新時代の指導者の雄姿は、何処にもありはしなかった。
居るのは、ただの、兵士。
「子供はもう、帰る時間だ」
日が暮れる前に、帰らなきゃ。
遊びの時間が終わるのは、夕焼けが教えてくれる。
夜まで遊んでいてはいけないよ。
怖い怖い、大人が居るから。
――――――血飛沫が舞った。地面を蹴り、林を越え坂を下り、死に体の敵へ飛び掛かる。
怒号と剣撃の音も。
すぐに収まるのだろう。
現実って奴は、いつもどうしようもなく誤魔化しの利かない形で横たわっている。
たとえそれが、どんな姿をしていようとも。
“ナマ”って奴は、どうしようもなく動かし難いのさ。
「――――――以上が武蔵隊の確定している経過と、戦果報告となります」
屹立し、抱拳礼。
戦時にあっては平伏はしない。それこそが曹操軍の作法だ。
「現場での臨時的な指揮の引き継ぎ、初期任務の完遂、追加指示への対応」
華琳は何かを言い含めると、すらりと細い脚を組み換え、いつものように手すりに肘を掛け、頬杖をついた。
「楽進の用兵は、武蔵よりも堅実で丁寧ね」
「はっ……」
「いっその事、あいつの指揮権を凪に譲渡させた方が宜しいのでは?」
「い、いえ、そのような事は……」
からかうような、相手の反応を楽しむ微笑の華琳と、それを、いやにまんざら、冗談でもなさそうな桂花の言葉で、凪が仏頂面をしどろもどろとうろたえさせたが、特に問題無く報告は進む。
「しかし、あやつは何をしておるのだ! もうとっくに戦は終わっているというに!」
「そう急くな、姉者。焦らぬでも日が暮れる前には帰ってくるさ」
武蔵が三姉妹奪回のために戦線を離れたのは、太陽が日輪を周って少し経った時分だ。
その時にはすでに、敵前線は九割型抜いており、武蔵が離脱して程なくして戦線を攻略し、本軍へ進攻。
加えて春蘭と戦った西軍が惨敗した事、指揮中枢が消滅した(三姉妹の離脱により)事を受け、ほぼ戦わずして全軍が投降した。
圧倒的兵力差で始まったこの戦であったが、蓋を開けてみれば、曹操軍の早期圧勝で決着がついてしまっていたのだった。
戦いらしい戦いは、小一時間ほど続いた最初の交戦の競り合いのみであったと言ってもいい程である。
あるいは、戦える人間の大半はその緒戦で既に戦線離脱してしまった、ということであろうか。
「そうよ、あの人の遅刻癖なんて、今に始まった事じゃないでしょ?」
「華琳様……姉者の此度の働きは目覚ましい物がありましたから、一刻も早く、あやつに褒めて貰いたいのですよ」
「なーっ!?」
秋蘭の方をばッと向いて、素っ頓狂な声を上げる。
相変わらず、彼女が一番元気が良い。
「あら、そうなの?」
「最近、すっかりあやつの方にばかり懐いてしまいましてな。物寂しい限りです」
「ふふっ、そう言われれば、そうねえ。私も春蘭が甘えてくれなくなって、寂しいわ」
「しゅ、秋蘭! 私は別にそういうつもりで言ったんじゃない! わ、私は華琳さま一筋ですからっ! 私は華琳さまのお褒めのお言葉だけで十分ですからっ!?」
「そういえば、アンタ、からかわれたらいつも本気で怒るのに、あいつに弄られる時は妙にチャラチャラしてるわよねえ? デコピンされるの、案外癖になってるんじゃないの?」
「け、桂花ァ!! 貴様、華琳さまの御前で何を言うかァ!? 斬るぞ!! あんなもの、私に取ってはその辺の木端の次くらいにどうでもいいわ!!」
「あーら、アンタ、私室に後生大事に飾ってある猫のぬいぐるみ、アレ、あいつにせがんで作って貰った物じゃなかったっけ?」
「!! な、なぜその事を……」
「意外よねえ、豪将・夏侯惇殿が、あんな可愛らしい猫ちゃんを枕元に置いてあるなんてねぇ~、よっぽど、思い入れがあるのかしら?」
「き、斬る! ぶった斬る! そこになおれ桂花!!」
ギャーギャーと喚きながら、桂花と春蘭が報告などそっちのけで騒ぐ。
華琳は面白そうにニヤニヤと笑っているが、自身の報告の最中にその喧騒が突然始まった凪は、ひたすらに戸惑っている様子だ。
「大体、お前とて、あやつに華琳さまの写し身を描いて貰ったろーが!! 三枚も何に使う気だ!!」
「私はあくまで華琳様の絵メインよ! 誰がアンタみたいに好き好んであんなのと四六四中一緒に居るもんですか!」
「そ、それじゃあ何か! 私が何時でもかつでも、べ、ベタベタしておるとでも言うのか!!」
「あいつがぬいぐるみ縫ってる間、ずーっと隣に居たじゃないの! エサ待ちの犬か!」
「だから何故知っとるんだー!?」
大声で煽り合い、ぜえぜえ、と肩を弾ませる。
天幕の外まで聞こえているのではないか? と思わせる程の、キンキンと耳に付く、声の高い女、特有の怒鳴り声だ。
「じゃ、春蘭の為に伝令でも使わして、さっさと呼び戻そうかしら」
「月が昇る前には帰還するとは思いますが……ふむ、姉者の機嫌が悪くなるのは、忍びないですからな、それも一つの手かと」
「……あうぅ」
からかい尽くされて、春蘭は真っ赤になって撃沈した。
もっとも、彼女にとっては何ら他意はなく、ただ普通に過ごしているだけなのだから、この揶揄や仕打ちは理不尽と言うほか無い。
まあ、そんな理屈は到底通用しないだろうが。さらに面白がられるのが関の山であろう。
「ベタベタなど、しておらん……くそぅ」
他意は無い。無いのだ。
「――――――で、実際のところ、どうなの? 捕えられる見込みは?」
「宮本の他にも十数組程、各隊から派遣させましたが……逃げた三姉妹の連れていた供は数十ほどであったと言います。加えて、いずれの組も急ごしらえですから、一昼夜中に発見できなければ、任務を継続させても成果は芳しく無いでしょう」
「そうなれば、この戦の後処理の後、改めて非常線を張る、と言う方法になりますね。もっとも、兗州から出られてしまえば、捕縛は困難となるでしょう」
頬杖を突いたまま、人差し指と中指をこめかみのあたりに添える。
少数であれば、山林に紛れて逃げられると、七割型、手が届かなくなる。解散されればなおのことだ。
兵の一人でも捕らえられれば情報は得られるだろうが、はたして親玉の居場所を割るか。
そもそも、そういう場合に備え、バラけて逃げる時は予め行き先を告げない場合もあるから、張姉妹を直接補足出来ない限りは、彼女達を捕えられる保障が無い。
「あの奇書の行方はどうなっているの?」
「はっ……彼らが降伏した後、幕営をくまなく捜索致しましたが、それらしき書は発見できませんでした」
「そう……なら、いいわ。燃やしなさい」
「は?」
「黄巾党の幕営よ。禍根は断ちなさい」
「……宜しいのですか?」
「それも私の天命でしょう。手に入らないならそれまで。それに……危険性は今回の一件で十分把握できたしね」
ふっ、と一息付くと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
それなりに広い天幕だが、秋蘭は一歩下がり、それを受けて、他の者も皆一様に端に寄った。
あえてか、思わずか、それはわからない。
とにかく、道を開けた。上座から天幕の外へと続く、一直線の道。
王の道を。
その人の群集は、幕営に収まりきらぬ程に膨れ上がり、繫がれすらせず、ただ武器のみを取られ、粗雑に列していた。
地上から見れば甚だ圧倒される光景ではあるが、蒼天から見れば、どうだろうか。案外、虫の群れか何かに見えて、気味が悪いやも知れぬ。
「……」
それを見張るように、武器を携えて構える兵士の中に、我関せずとばかり、気ままな顔でぼうっ、と、ハイカラな帽子を弄ぶ少女。
小柄で、青い目、白い肌。ザンバラの長い髪。
「恭ちゃん、李通くんが心配?」
上から降ってきた声に、ひょこっと目線を上げた。
とろんとした海色の目と、ぱっちりとした活発なグリーンの瞳が交錯する。
顔にかかり、背中まで伸びる髪を揺らせて、フルフルと首を振った。
「だよねー、強いもんね、李通くん」
「沙和は」
「?」
「沙和は、隊長が心配?」
「隊長? うーん……」
沙和を見上げながら、コクン、と、頭を少しだけ傾げる様にした、小動物の様な仕草だと、沙和は思う。特に言外に出さず、なんとなく抱いた感情。
彼女よりも大袈裟な仕草で小首を傾げ、人差し指を顎に当て、上目遣いで視線を外し、思案に耽る。一瞬だけ。
「あんまり心配じゃないかも。隊長がどっか行っちゃって、少ししたら帰ってくるのって、いつもの事だしー」
ケラケラ、にこやかに話す。彼女はいつも笑っているけど。
栗色の髪が、日光を照り返す。
「それより、アニキさん達の方が心配かも。あの人達、ちょっぴりお調子者だしー」
「……」
ころころと表情がくるくる変わる。愛嬌に溢れた表情達。
人に憎まれた事も、憎んだ事も無い事が、その屈託の無さからにじみ出ている。
陳恭は口をきゅっと結び、眠たそうな青の瞳で彼女を見ていた。
「ほれ、二人とも、華琳さま、出てきはったで」
水を打ったように、波紋、一つ。
それ以上は何も残らない。
凪ぎの水面のように、ざわざわと飛び散っていた雑多な音の雫が、一様に収まった。
10万の群集が静まり返る――――――たった一人の小さな少女が、天幕をくぐり、衆人の前にその姿を現しただけで。
「多いわねえ」
ざらっと見渡す、人、人、人。
全てが、彼女を見ていた。彼女も、すべてを見渡していた。
一つ一つ、違って見えていただろうか? それともどれも、同じに見えていただろうか。
それはわからない、彼女以外には。
「殺しましょうか」
ザワッと、緊張が走った。
眼下の聴衆に狼狽した蒼い顔を幾つも見つけて、華琳はくっくと喉を鳴らす。
口元には、面白げな三日月を浮かべた。
「冗談よ」
逆立っていた空気が、クーッと落ち着いていくのがわかった。
華琳は白魚の様な指を口元に添え、微笑を湛えたまま。
「けどもし――――――この戦を始めたのが私では無く、漢王朝であったなら、あなた達は死んでいたわよ。問答無用でね」
また一つ、色が変わる。今度は怪訝な色、そして、少しの反感。
それを映す華琳の瞳の色は変わらない。
「あら、あなた達……まさか、人畜無害でいれば、日々是平穏を通せるなんて、本気で思っていたわけではないでしょう? 逃げ回っているだけで生き延びられるなんて、そんな甘い事を」
不思議な光景ではあった。
恐らく、その場にいた誰もが、その異常さには気を留めなかっただろうが――――――
「戦う事を放棄した命に、何の価値も有りはしないわ。命は弱さを許さないから」
華琳の声。美しいというよりは愛らしいという言葉が似合う、その容姿そのままの甘くて甲高い声。
それを張るわけでも無く、語りかけるように、人の海のように広がる捕虜たちに向けている。
「貴方達は機会を得た。官軍十万の連合に包囲され、剣を持つもの、持たざる者の区別無しに反逆者として皆殺されるはずだったあなた達は、選択する機会を。天命と解するか、ただの成り行きと解するかはあなた達次第だけれど」
にも拘らず――――――それを聴き漏らす者は一人もいない。
「もし、あなた達が私に従わないのなら――――――やっぱり殺すわ」
聴衆と化した、捕虜たちの顔が引きつるのがわかる。
それでも、異を唱える事は出来ない。しわぶきすら、皆無。
「無駄飯を食わせられるほど、この国に余裕は無いからね」
怯えた彼らに、華琳は小首を傾けるようにして、クスッと笑いかけた。
「安心なさい。戦うという事は、何も殺し合いだけじゃないから」
遮る事は出来なかった。遮ろうとする者はいなかった。
その少女の声を。
「商人は銭、農民は鍬、職人は槌。皆、戦っている。己の得物に命を懸けて。生きる為にね」
武人の剣と同じもの、各人、それぞれが持っている。
戦うために、それは即ち、生きる為に。
「生きる権利は戦う者にのみ与えられる。あなた達は何で戦う? いや――――――何でも良い、重要なのは戦う意志があるのかどうか」
彼らの多くが、兵や識者ではない。ほとんどが、ただの路傍の雑草の様な流民だ。
あるいは流民で、あるいは信者で、あるいは流兵で。
皆、逃げ、追いやられ、そして此処に追い詰められてきた者たち。
にも拘らず、皆、耳を傾けていた。自ら、その言葉を聴こうとしていた。
10万の捕虜たちは、華琳一人の聴衆と化していた。
「生きると言う事は、それ、そのものが問いなのよ」
戦う事の意味と意義。生きる事の、意味と意義。
それは勝つ事、負けない事。
“死”という、これ以上ない絶対的敗北を拒むために戦い続ける。あるいは剣、あるいは鍬、あるいは算盤、あるいは筆で。
「生きたいならば、戦いなさい」
戦うと言う事は、自分の足で生きると言う事。
目的は何でも良い。崇高な理想でも、好きな三姉妹のライブに行く事でも、昨日より美味くて贅沢な飯を食う事でも。
「……俺には、耕す畑なんかねえ」
群集の中、ぽつりと泡のように沸いた声に、水が注がれるように視線が集まった。
同じ目線の者たちがぞろぞろと此方を向く目、そして、上座からそれとは違う、カッと、はっきりとした、別格に眼光煌びやかな視線が向けられた。
美しい少女の青眼。
怪訝さや訝しさだけのマナコの中で、唯一それは違う輝きを、鮮烈で、強烈な興味の色を持っていた。
涼しげな目許は全く崩さないけれども、それでもわかってしまう、奥にそういう、並の人間とは違う、異質な彩を秘めていた事を。
声の主の男はその眼差しに射抜かれながら、一瞬だけたじろぎ、しかしぐっと肝を一旦据えて、吐き出すように言った。
「俺の名は何立だ! だけど名前をくれた親は7つの時に死んだ! 豪族の小作人になって食うしかなかった人間だ。その主人も賊に攻められて殺された。もう夜盗になる以外で食ってく方法は無かった。それでも、まだ戦えるって言うのか!」
くっ、と唇がつり上がった。
微笑みから、より一層の笑みへ。
「何立。それが国の役目よ」
凛と、透き通った声。
美しかった。
「鍬を与えましょう。大地を与えましょう。この国の大地の、荒れ果てた荒野を豊かな耕地に変える事があなたの戦いよ」
剣は与えよう。戦場も与えよう。
だから、戦え。
「……お、俺は農家の二男だ! 一家総出で農業やって、飢饉の時に奉公に出された。力仕事のくらいしか出来ねえ。それでも、大丈夫か?」
別の、隣に居た聴衆が、また叫ぶ。
「兗州にいらっしゃい! 土嚢運搬に城壁の左官、大規模な都市開発が必要な今、そういう仕事は常にあるわよ!」
「わ、私は書生の子で、文を学んだ事があります。都で役人には成れませんでしたが……こんな私でも、戦う場所はあるのでしょうか!?」
「ならば書をしたためなさい! 書簡編纂から記録書記まで、文字の読める人間の為すべき事は山ほどあるわ!」
「お、俺は天和ちゃんを守りてえ! もう、あちこち回って苦労はさせたくねえ! 何の気兼ねも無く、歌ってて欲しいんだ!」
「それは我が軍の最精鋭よ、武を修め、剣を取り自らを研磨して励みなさい!」
一つの泡が弾けたのを皮切りに、燃え広がるように、其処に居る聴衆は自分の心情を言葉に乗せて並べていく。
華琳に釘付けである事は変わらない。
だがその眼は、初めとは違い、はっきりとした目的を、色を持ち、その少女に注がれていた。
流される民ではない、自ら一人一人が政に携わる民として、国に交わり、自らを発露する。
そうして言葉が溢れる程にまで満ちた時――――――スッと華琳は、指揮者の様な仕草で、おもむろに空を掴む。
その拳の中に吸い込まれるように、音が止んだ。
「剣を持ちたければ戦場を。鍬であるならば耕す大地を。あなた達に与えましょう。もしあなたたちが、天の下に生きたいと言うのなら――――――」
強大な貧困と暴力に戦う術を奪われた哀れな民草。
この過酷な乱世に、戦う場所すら追いやられ。力拙く踏み潰された、弱くて儚い、哀れな民よ。
戦う舞台は与えてやろう。その意志を見せるなら。
願いが、あるのなら。生きたいのなら。今一度、戦いたいと望むなら。
だから、王が望む事はただ一つだけ。
「抗って見せなさい。最期の時までね」
高く、甲高い声。響くのはそれのみだった。その声のみが、この空間を支配していた。
10万の捕虜は、もはや彼女一人の為の聴衆と化していた。
「戦うのなら、返事をなさい。目一杯に声を張り上げて」
彼女の手ぶりが、語気が、その蒼い瞳が。
例外無く、全てのまなこの中に居た。
この場に居る全人民の、一人の例外も無く、全ての人の中に、曹操が居た。
「その意志を持つ者を、この曹操の民としましょう」
翻り、背を向けて天幕へ戻る。聴衆を取り残し。
その熱狂を見る事は無い。言葉を置き去りにして背を向けた後、堰を切った様に木霊した絶叫を、一瞥もする事は無く。
雨の様な喝采を、一目も見遣る事は無く、振り返りもせず、ただ背中で受けたのみであった。
数日後――――――
黄巾軍10万が一昼夜にして降ったという知らせは全土に知れ渡った。
元々知る人ぞ知る人物ではあったが、この一件によって各地の官人、有力者達はより曹操を知る事になる。
だが、後の史家の筆が魏史の冒頭に綴った、この黄巾賊吸収の一件が――――――
真の意味で曹操の覇業の始まりであった事を認識していた者は少ない。
中華の民、曹操を知り、
魏武の強は此処に始まる。
フハハハハッ、あずささんのプロ太郎は貴様らではない!
そう、僕だァーーーーーー!!