黄色頭巾編・三十話
「たいちょー、夏侯将軍ー、斥候隊李典、アニキはんと一緒に、ただ今帰還しましたでー」
「御苦労。首尾はどうだ?」
「いやあ……なんつうかねえ、ていたらくですわ」
ていたらく。
ノッポの使う言葉はぞんざいと言うか、ずいぶん大雑把な表現だったが、持ってきた情報を、開いて見てみれば、なるほど――――――
それを表すのに、ていたらく、と言う言葉以上の適切な表現は無かったと思う。
推察全体兵力、およそ10万以上。
という開口一番には、さしもの秋蘭も度肝を抜かれたが。
二の言には、それらも含めて、今度は拍子を抜かれる事になる。
「実質戦力が半数に満たぬとは、どういう事だ?」
「どーもこーも。武器は足らんし、怪我人多いし、ぶっちゃけ、あら軍やないですよ。でっかい難民キャンプや」
彼女らが言うには、戦装がまるで足りておらず、また、健康な兵自体が少ない、と言う。
まあ敗残兵が纏まった傷物軍団だから、そこに関して言えば当たり前と言えば当たり前なのだが、それ以前に指揮官らしき人間がいなく、ただ無秩序に人間が密集しているだけで、簡単な師団組織すら為されている様子が無い、との事。
そもそも駐屯施設など、兵を受け入れる態勢がまるで出来ていないから、今まで戦ってきた、まがりなりにも官軍とまともに戦え、ともすればそれを撃破するだけの力を持った賊に比べると、とても「軍隊」と呼べた代物では無かった。
まさに彼らの言うとおり、寄り集まった人の群れ、でしかないのである。
「まァそもそも、そこらの荒くれの頭領とは違って、天和ちゃんは武将でも何でもねェ。そりゃあ烏合の衆にも成りますわ」
「鎧とかもまちまちやったしな。仲間内でツルんで適当に集まっとるだけみたいやし、一枚岩ですら無いわ」
「ほう、黄巾以外にも居ると?」
「むしろそっちのが多いみてェで。ま、それ以外はその他大勢って感じですがね。どっちにしろ、黄巾でまともに戦える奴なんざァ、殆どいねえでしょうから、無視しても構わねえんじゃねェすか」
根本的な話で、黄巾党は兵では無い。
彼ら流に表すならファン、さらに言えば、より訓練された「信者」と言うヤツであり、桂花に言わせるなら「アホ」だ。
元々、張三姉妹はこの一連の大乱のきっかけではあっても、主導者では無いのだ。実際に武力を持っていたのは、何儀や波才ら等、黄巾党の暴動に紛れ、便乗して決起した武闘派達。孫夏の様な、以前から叛旗を翻している者も居たが。
つまるところ、黄巾を戴くものは、彼女らを純粋に歌い手として支持しているだけで、戦闘要員でも何でもないのである。
武蔵隊の母体ともなった、アニキが率いて帰順させた六千が黄巾を戴くのは、アニキら三バカ集団の布教の成果に他ならず、彼らもまた、元々は武力にモノを言わす、荒くれの集まりだ。
「なんや、ここまでグダグダやと、こっちが遠慮してしまうわ。ほふく前進で百里走ってへばりきっとる相手に殴りかかるようなモンやで」
こうなってくると、張角の名を頼ってきた敗残の徒も哀れだ。
武運拙く破れ、官軍や落人狩りから逃れつつ、再起の一縷の望みを賭けて、同じ反乱の同志だと思って頼ってみたら、実際はただの旅芸人の追っかけ集団だったわけだから。
半数弱は兵ですら無く、各地から集まった敗残兵の半分は戦闘不能で、それを纏める将が居らぬどころか、戦うための軍としての体系すら為していない。
まさに、ていたらく。
これでは、僅かばかりは居るであろう剛の者も、まともな戦いなど全く出来ぬまま敗れてしまうだろう。
「しかし、お前達にはすまない事になったな。同じ志を共にする者達と、戦場で相対す事に……」
「謝らんでください。宿命ってもんです。こんな時勢だ、信じた嫁に心中する。信者なら、その覚悟は出来てるでしょう」
「うむ……」
憂いを帯びた表情でフッ……と寂しげに笑ったアニキに、秋蘭はその運命の因果さを思い、悲壮な覚悟を持って戦に臨むのであろう、目の前の烈士の心情に乗せて、わずかに顔を歪めた。
眉一つ動かさぬ鷹の眼、氷の美将と呼ばれはしても、その実、誰よりも情深い。
それが夏侯秋蘭という女だ。
「それに……」
スッと黙想するように静かに目を閉じ、一拍してカッと見開く。
「オフィシャルファンクラブ、会員NO.一ケタの座ッツ! それだけは絶対に誰にも渡しちゃならねえッツ! 例え、信者同士でもなぁ!!」
作った右拳の中に、闘志を握りしめていた。
まさに、戦士。
そう、目的のためなら何をも辞さぬ、鉄血の闘士が、そこに居た。
「……おい?」
「野郎共! 中華一の大親分・宮本武蔵殿を仰ぎ、全土一のトップアイドル・しすたぁずへの愛に一点の曇りも持たねえ、心の兄弟よ! 情け容赦なんかいらねえぞ! 漢にゃあ、何にも代えて譲れねえもんがあるって事をとくと見せたれや!!」
「うおおおおおおお!!!!」
秋蘭が声を漏らしたが、アニキは歯牙にもかけず振り向き、仲間を鼓舞した。
その声は雫の如く、彼らの熱気の前に蒸発してしまう。
張角討伐軍、最も士気の高い部隊は間違いなく此処だった。
「……そのナントカ、と言うのは、そんなに栄誉あるものなのか……?」
「いや、知らんよ」
問われた件の大親分だが、すでに考えるのを止めたらしい。
サラリと流すように、眼を見合わせる事すらなくそう言われた。
「拙速は尊んだらいかん」
「ん?」
「よくある誤用だが……」
兵は拙速を尊ぶ、という諺があるらしいが。
元となった孫子では、「拙速なるを聞くも、巧久なるを見ざる也」、である。
下手で早く終わらせた、は聞いても、上手くて長引かせた、は見たことがない。
つまり、のんべんだらりと長引かせるよりは、下手でも早く収めてしまったほうが幾分かマシ、程度の意味合いであって、
孫子は決して拙速を尊んでいるわけではない。
と、いうのも、戦争というのはとにかく労力がかかるので、長引かせると国がボロボロになってしまう。だからいったん始めたらすぐに終わらせよ、という趣旨の訓戒なのであり、
「彼を知り己を知れば、百戦危うからず」の言葉通り、事前の体勢を整えておくことこそが重要である、という事を孫子は説いている。
元来は、そういう意味なのだ。
「やってみたら案外、どうにかなるもんだ」
「うむ」
縁側の翁のようにまどろんだ眼で、武蔵はつらり、つらり、と言葉を流し、秋蘭は十年かかあのような、聞いているのかいないのか、判断のよくつきにくい相槌を打っている。
「――――私のおかげでねっ!!」
そして、後ろから飛んできた声に振り向くタイミングは、鏡で合わせたように同時であった。
背後に侍る、凛とした精強そうな女兵士達を一度も振り返らずに歩くだけで率いる少女の顔は、ひたすらに不機嫌極まりない。
潔癖なまでの男嫌いが、主の模倣の如く、美しく清い処女のみ選りすぐって、わざわざ仕立てた望み通りの白百合一色であるというのに。
「おう桂花、来たのか」
「肉体労働なんて、アンタら半獣人の仕事だからね、言っておくけど」
「眠ってねえな?」
「あんたが暇持て余して絵ばっかり描いてた間もずーっっと仕事よ!」
「孔子も彫ったぞ。よう良い値で売れたわ」
「やかましい!! そんな小遣い稼ぎしてる暇があるなら少しは手伝いなさいよね!?」
エルフィンのような潤んだ瞳ときめ細やかな肌の、愛らしい美少女。
それを台無しにしている不健康な隈と、でろんとした徹夜明けの目付きが、蛮勇的で強引な拙速を、迅速・的確な神速に仕立て繕えた理由だ。
「軍師殿の手伝いなぞ出来んて。獣並みじゃあな」
「ぐうぅ……ああ言えばこういう……」
とぼけた顔を作って馬の上から顔を寄せると、桂花は顎を引きながら、感情の尖りとささくれを全く隠さない、しかめっつらを見せた。
「まあ、ここの立派さは獣並みだな」
「凄え奴はデカくなくても凄えんだがなあ」
秋蘭の細く、長い指が這う、極太のモノ。
無雑作に掴まれた武蔵の二の腕は、太すぎて秋蘭の指が周らないほどである。
「華琳様はもう御着陣なされたのか」
「ええ。私とご一緒されていたからね」
「姉者は?」
「西の最前線よ。今頃、騎兵の一番前で鼻息鳴らしながら突撃の合図を待ち構えている所でしょ」
「騎兵?」
不意にぬっと居出る、渋めの声はやたらと目立つ。
「春蘭は騎兵を率いてきたのか?」
「はあ? 何言ってんのよ、あんた軍議出てたじゃない。もう、ちゃんと聞いてなさいよね」
「ふむ……」
桂花から、おもむろに視線を外して前に向き直り、武蔵の目は南西に向いた。傍らの美女でなく、その先に居るであろう敵に。
――――――もっとも、彼が“敵”と目するような人間が居るとは思えぬが。
孫子は、拙速を尊ばぬ。
むろん、のべつ幕無しマニュアルの言うとおりにしなければならないと言う事ではないが。
「どうもな」
「む?」
「何故こうも急ぐよ?」
敵の体勢が整わない内に襲いかかる、速攻の有効性。敵の状況を鑑みて見れば、この急速専行の戦略は正しい。
正しいが、事務を酷使して、慌ただしくこの急ピッチで急襲してきた理由が、今ひとつ見当たらない。
顔色のどんよりした、その辺の野烏のような酷い眼つきになっている桂花らの尽力があってこそ、どうにか仕上がったわけだが、数は補給線を確保する輜重隊を込みで、一万に満たない。歩兵だけならまだしも、飼料の必要な騎兵を含むとあらば、負担は想像に難くない。
諸侯と連絡を繋ぎ、じっくり体勢を整えて、五万、十万の連合で戦うやり方でも良かったはずだ。そちらの方が、よほど負担も少なく、無難な手だろう。
「だが、そうこうしている内に、お前の戦った何儀や波才の様な者が現れてこの群衆を軍に仕立てたら、それこそ事なのだ。それを防ぐ華琳様の策は間違ってはいまい」
「孫子に照らすなら、“巧久なるは見ざる”よ。最悪の手を打つよりは、困難の合間を縫って上手い手を打つのが巧者でしょ」
「ふぅむ……」
軍学に関して言うなら二人は武蔵よりも専門家だろう。武蔵も二人の説く所の理はわかるので、それ以上反論することもない。
それに、実態的には武力を持たないとはいえ、外部的にはこの乱の象徴ともいえる非政府組織だ。
反政府組織の勢力が後退している今、黄巾党という一大派閥を無力化させる事ができれば、それがこの集団蜂起の風潮の止めになるかもしれない。
だが武蔵には、この強行軍にはさらにもう一つの意図があるように思えてならない。
(他の諸侯の介入を嫌ったか? つまり自分の意図以外の行動を嫌ったという事……)
もっとも、それは特に根拠のない勘のようなものだが。
なにか、武蔵にはこの戦の勝敗の外に、何か別の理由があるように思えた。
それが何なのか、見えそうで見えない。大きな蟠りではなく、意外な所に落ちている落し物のような、小さく、素朴な疑問。
「直接行って、本人に聞こうか?」
秋蘭でなく、桂花でなく、身体の下の貴婦人に独り言のように問うてみる。
彼女は嘶き一つもせず、澄ました顔で、面倒くさそうに首を二、三回、フルフルと震わせた。
「さて」
何を思ったか、武蔵が不意に下馬した。
「ちょっと、もう始まるわよ!?」
「だからだ」
「は?」
不可解な行動に疑問を呈した桂花だが、武蔵は意に介さず。
「真桜、下げといてや」
「はいよー」
そしてくいっと親指で陣中を指すと、真桜が間延びした返事を残しながら、貴婦人の轡を持って誘導しようとする。
「何、どういう事?」
「貴婦人は群衆がお気に召さんのじゃ」
武蔵が跨る雄大な馬格の優駿は、皮膚の薄い漆黒の身体に、流麗なトモの脚線が非常に美しい牝馬だが、その垢ぬけた馬体が大地を踊るのを見られる機会はかなり稀少だ。
と言うのも、実は彼女、類まれなる気難しい気性を持った馬なのである。
夜闇のような青毛に一筋の大流星が煌めき、深く澄んだインディゴブルーの瞳が輝く、そのミステリアスな気品ある顔立ちは利発な賢馬を思わせるが、その中身はすこぶる、ものぐさ。
馬にあるまじき生粋の面倒臭がり屋で、いつも寝そべりながら草を食べており、調教どころか、放牧中も駆け足すら見せるのは稀である。
そのくせ狭い所は大嫌いで、馬房に入れておくと癇癪を起して暴れまくる。二度ほど馬栓棒を打ち壊して脱走、勝手に自分の放牧地に柵を飛び越えて侵入し、翌朝うたた寝しているのが発見される、と言う事件を起こした前科者だ。
そんな気性だから戦など以ての外で、武蔵がリンゴのような珍味か、何か良い土産を持って彼女の所に出向き、一日中座っている彼女のたてがみを撫でて機嫌を取ってやらないと、その気になってくれない。それでも馬具を付けるのを嫌って、ついに出陣しなかった、なんて事もある。
いくら馬が貴重だと言っても、彼女が恐らく並みの駿馬程度であったなら、とうに処分されていても不思議ではないかもしれない。
“貴婦人”はまさに、その我儘っぷりとそれが容認されている名牝ぶりを象徴する、彼女にピッタリの仇名だった。
「人間にゃあ誰にでも悪癖と言うもんがあるからな。責めても栓無い」
「お馬サンやけどね、貴婦人」
「お前も何十度遅刻しようが、全く直る兆しがないものな」
「秋蘭様はまだええよー、ウチらとご飯行った時なんか、一回すっぽかされたんやで~?」
「それはいいじゃねえか、今は。ホラ、はよう連れてったれ」
上がる批判に、武蔵は面倒臭そうに、バテレンのような赤茶けた髪をがしがしと掻き混ぜて、真桜に誤魔化すように左手を振って、さっさと貴婦人を連れていくように促す。
「……類は友を呼ぶ、ってヤツ?」
真桜は談笑に盛り上がって、そのままだらだらと駄弁っている。
ほったらかされ気味にされている貴婦人の首を桂花が撫でたが、彼女は我関せずという風に、一度首を振ってたてがみを舞わせただけ。
しばらく――――――
「――――――む」
「……始まったか!」
遠く遠く、やまびこの様に細長い鬨の声が、風に運ばれて響いてくるまで、その和やかな雰囲気は続いた。
「れんほーちゃーん! お、な、か、すーいーたーっ!!」
庚子の日。
黄色の大天幕は揺れに揺れていた。
「ご飯は粟飯ばっかりだし、おフロもろくに入れない……あー、もー! なんでこういう事になるのよ~!!」
ありのままに起こった事を話すと。
大陸一の芸者を目指して歌って踊って頑張っていたら、いつのまにか反政府組織の頭目に祭り上げられていた。
大賢良師・三公などと巷に呼ばれる、実態とは全く異なる有力テロリストの偶像に重ねられた、三人のしすたぁずに降りかかった運命はこの上もなく理不尽だ。
「冗談じゃないわね……しかも最近は、何かわけのわからない武装した連中まで合流してきてるようだし。これじゃあ武力集団って言われても、言い訳できないわ」
「どーすんのよ人和! このまんま役人に首斬られるなんて、ちぃ、絶対ヤだからね!」
「私だって嫌よ。けど、ここまで騒ぎが大きくなった以上、降伏するにしてもよっぽど上手くやらないと、問答無用で首斬りよ? かといって、今までみたいに土地を転々するのはもう無理そうだし……」
「あぁ~もう! このまま死ぬなんて絶対あり得ない! まだキスだってした事無いのにー!!」」
「何でもいいけどぉ、おーなーかーすーいーたー!!」
否、理不尽な目に逢っているのは、彼女らだけではない、その信者もだ。
三姉妹のパフォーマンスが大好きで、一生懸命、中黄太乙を叫んで応援していただけなのに、いつのまにやら暴動だの蜂起だの言われて、官軍に追い掛け回されるハメになったのだから。
それで三姉妹と一緒に、法の網とお宮の目を避けながらあちこち流れてきたのだが、そこかしこで信者が増えるので、雪だるま式にファンクラブは大きくなっていく。
彼女らも健気に付いて来る彼らを見捨てていくには忍びなく、なあなあのままにして、ついに身動きが取れない所まで、数が肥大化してしまったわけだ。
しかも最近では、別に彼女らの歌を聴きに来たわけではない食い詰めや、身を隠すように逃げてきた兵士崩れや野党崩れも合流してきて、集団内の治安も、悪化の一途。
色々な意味で、もう限界がそこまで来ていた。
「張角様、張宝様、張梁様、一大事ですっ!!」
議論と愚痴合戦の中間の言い合いの最中、駆けてくる足音とともに、天幕の向こう側から男の声が割って入る。
三人の声はそれを合図にピタッと止み、人和が自分の眼鏡と天幕越しに居るであろう、急報を持って来た人物に尋ねた。
「どうしたの!?」
「に、西側から騎馬の一軍が突っ込んできました! 青地に夏侯の旗、恐らく、曹操軍の両夏侯のどちらかの軍隊です!!」
「えぇーーっつ!?」
「……なんですって!?」
人和の眉間にヒビが入り、張角と張宝の甲高い驚叫びがこだました。
――――――転がっていく石は加速し、その脚を止める事はない。
黄巾党、進退の極まりと破滅へのカウントダウンは、もう秒読みに入っていた。
最近、ふとした瞬間にガチで雪歩を抱きしめてあげたい衝動に駆られるんだが、
ひょっとして僕は、かなりヤバい状態にまで片足突っ込んでるんじゃないだろうか。