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黄色頭巾編・二十九話――――――「へび」

死ぬのが怖い、って言う奴の事が、俺にはよくわからないんだ。

――――――生まれた所に還るだけなのにさ。




李通には、名前が無い。

李通の生まれた村の子供は、半分以上がそういう子だ。


孕み易い遊女や双子を産んだ女は俗に畜生腹と呼ばれたそうだが、人間様が生んで畜生とは、これやいかに。

犬猫のようによく孕むとか、一度にたくさんのお産をするからそうだとか言われるが、そんなものは後付けだろう。

人と言うのは、人の形で生まれて、へその緒を切って、泣き声をあげて、それでようやく第一歩だ。

――――――なりそこないしか産めないなら、そりゃ畜生だろ?


この国は貧しい。北の方は特に。

牛馬は骨で、烏は痩せこけて、人は殆ど、髑髏と変わらん。

大体の奴は耕す土地なんて無いから、地主の所で小作人をやる。と言っても、作物などまともに実りはしない。

冷害と土地枯れで、4年に3年は凶作だ。そもそも普通作でだって、実り豊かな南方全般や冀州に比べれば下の下、地主すら、いっつも腹を空かせている。

奴隷と大差ないような小作人が毎日まともな物を口に入れようだなんて、贅沢を通り越して、夢だ。

三日にいっぺん、何かが舌に当たればそれで御の字である。

この当時の中原なんて大体そんなもんで、とりわけ青州の、戸籍から外れた水呑百姓どもの生活なんて、大体そんなもんだった。



人間様がその辺の烏と大して変わらぬような物を食って、どうにかこうにか生きている状態だったから、とにもかくにも飢えていた。ひもじさというものは、息をしているのと同じくらい、日常の感覚に組み込まれていた気がする。

いっそ飛蝗でも来てくれればそいつらを獲って食う事も出来るが、あいにくバッタが食い散らかしに来る分の稲すら、無い。

――――――烏を獲って食えばいいって?

ムチャ言うなよ。頭が良いんだぜ、あいつら。きっちり自分のヒナに餌持って帰ってやるんだから。

ようするに、蝗を呼び込む分の作物すら、容易に確保は出来なかったという事。

だから女はみんな、孕むと鬼産婆にかかる。

産婆と言っても、やる仕事は助産じゃない。頭に鬼が付いたら、やる仕事は真反対。


……要するに、堕児。


人ではなく鬼なのだから、やる事が陽から陰に転ずるのは、まあ、そうだ。

洒落た言い方で子返しとか口減らしとか言う。言い方を遠回しにした所で、ようは子捨てに変わりはないが。

人間様すら食えない時勢、牛馬家畜を養えないように、腹の中の子にまで食べさせる余裕は無く、まして双子なぞ、とても。

孕んで間もない時は引きずり出す。股に木の根など突き刺して殺し、ひり出させて掻き出す。


乱暴なもんさ。


まだ人の姿をしていない、グズグズの血の塊みたいな赤ん坊を、一緒に剥がれてきた胎盤や、手術の時に女が垂らした糞や小便やらの汚物と一緒にして、まとめてタライにぶちまける。

間引きが間に合わなくて産み月に達した子は、自然に産まれる前に腹を圧して外に出させ、へその緒を切って、縊る。息もしてないうちにな。

そして女の胎内の中身と一緒に、同じくタライにぶちまける。

まだ蛹の中身の様に柔らかいから、すぐに身体が千切れたり、頭が潰れたりもする。首は大抵、引きずり出す時に捥げるな。

出来かけている、顔貌。まだ出来て無い、腸や骨。それらも全部、無慈悲に、ポイ。

何体も何体も。生ゴミみたいに、ポイっと。

一日、患者を処置して纏めて積み重なったそれに宿る命の面影は、滓のような黒くて赫い血と、うっすら出来かけたグミのような手足や骨。人間に成り損なった、踏み潰された赤ん坊。

そうして日が暮れる頃、それらは全部一緒にされて、川に投げ捨てられにいく。

ドボドボと流される、母体から切り離された胎児の残骸は、血が通わなくなってぶすいろにくすみ、底に沈んで、ぱんぱんに膨れながら真っ黒になって腐っていく。

だから、李通の生まれた村の川はいつも黒い。


――――――畜生腹。つまりは、そういうこと。


その辺の烏にも出来る事が出来ない胎。生きた人間を一人前の形で産めない胎。

そして、胎の中で人間になろうと頑張ってるガキを、人間様扱いはしない腹だ。

宿児を命と見做さない胎。生ゴミみたいに使う胎。命を、産めない腹。


人間の腹じゃねえ。

つまりは、そういう事。


李通もそうやって生まれた。

“産まれる”前に、生まれた。


背骨とアバラが浮き出るぐらい痩せ細った女に宿った胎児は、まるでこれからの自分のやるべきコトがわかっていたかのように、ガラガラの母体から必死に栄養を吸い取って、小さいながらも、子宮の中で人のナリになるまで育った。

きちんと人の姿をして、腹から押し出され、縊られ、捨てられ。


息を吹き返した。


産まれる前に殺された赤ん坊は、呼吸と鼓動を止め。

一緒くたにぶちまけられた汚物と、同じ誕生日の間引きっ子達の残骸に埋もれて。


蛇は生まれた子の顔を見る事は無いという。

産んだ卵の近くには二度と近寄らず、子は母親を一切知らずに、卵の殻を破った時からたった一人で生きるという。

彼はさしずめ、蛇の子だった。

暖かい揺り籠の代わりに、糞尿と血の混じった仄暗くて冷たい川の水に抱かれ。

母の乳白色の温い血液の代わりに、沢でぐじゅぐじゅに腐っていた友達の、ブヨブヨの手足をしゃぶって生き延びた。

黄河まで流される前に打ち上げられた、小川のじめじめと水草の生い茂った岸で、両の掌に乗るくらいの小さな小さな赤ん坊は、仮死状態からヘドロの詰りかけた喉からカハッと乾いた音を上げて後、ようやく産声を上げた。


力いっぱい、静かに泣いて、命を灯らせた。

たった一人で。



……おぞましいよな?







言葉を喋り始めたのは案外に遅い。六つか、七つの時。

それ以前は、そもそも話す相手が居なかった。

基本的に人間ってヤツはその辺に転がってる餓死者と、水の中でパンパンに膨れて腐ってる間引きっ子くらいしか見ない。大体、野犬やネズミに食われてるか朽ちているかで、人の形も留めていないが。


――――――ガリッガリの骸なんて、骨しゃぶるくらいしか出来ねえ気もするが。肝かね? 食うのは。


ごくたまに遭遇する生きているのは、李通とさほど生まれの変わらないような、親無しっ子だけ。

ひとり、ふたり。何処からともなく皆で寄り集まってきたが、そいつら皆、李通と同じく喋れなかった。

当たり前だ。多分に全員、親とは名前すら付けてもらう前に別れたんだから。


仲間内で、陳恭だけが喋れた。恭だけが、名前というモノを持っていて、“言葉”と言うモノを知っていた。

自分で立って、流れ着いて来る水っ子の肉片以外に、その辺の虫や何やらを獲れるようになった年頃に出会った、白い肌を真っ黒に汚した女の子。銀色のザンバラ髪で、ボロボロにほつれた、ひらひらした布を纏い、蝿の集った死体の傍で、烏にくたばるのを狙われながら虚ろな目で蹲っていた所を、李通らに拾われた。

その布が“服”というものだという事を知ったのは、言葉を覚えた、その次。

恭は皆が知らない色んな事を知っていて、仲間になったその日から、色んな事を教えてもらった。


言葉は、一番最初に皆が教えてもらった事。



女の子は、よく、ままごとをやっていた。その辺の頭蓋骨を集めてきて、お父さん、お母さん、なんて役割を決めて、人形遊びみたいな事をする。これは、恭が来てから増えた遊び。


お父さんとかお母さんとか、概念自体、知らなかったしな。


たまに、まだ肉の付いてる、死んだばかりの捨て子や水っ子を持ってくる子も居たが、それはよくない。

可愛い顔をしていても、結局、朽ちて骨になってしまう。

一度、腐って縮み始め、臭いがきつくなってきたのを、仲間の一人の男の子が食ってしまった事がある。「どうせ骨子になるなら」と。

案の定、次の日に吐いた。そら見た事かと、皆でゲラゲラ笑っていた。

朽ちた骨子と大差無いような、げっそりと痩せた身体で、ゲラゲラと。


男の子はチャンバラごっこ。たまに皆でままごとをやったりするが、やっぱりヤロウは、退屈してくるとチャンバラに流れる。

木の枝なんて拾ってきたら、そいつはその日のヒーローだ。使いやすい上に、遊び終わったら皮を剥がして食える。まあボソボソで、旨いもんではないけれど。

ただ、中々良い感じのものは、そうそう見つかるもんじゃない。だから基本的にはその辺の骨を死体から抜いて拾ってくるのだが、当たりが悪いと中身がスカスカで、簡単にぼろぼろと崩れるので、すぐ負けた。


李通は仲間の中で、これが一番強かった。上手い事、男のスネの骨なんぞ拾って来た時はもう、木の枝はおろか、極々まれに手に入る、戦場跡の野晒し太刀なんかを手に入れられても、誰も勝てたもんじゃなかった。

誰も、触れやしなかったからな。

皆、飢えていた。それに、寒かった。もっともそれは、彼らにとっていつも当たり前に付いて回って居た感覚だったのだけれど、仲間たちと遊んでいる最中には、それを感じる事は無かった。


――――――そういう事だったんだろうなあ。きっと。


遊びに夢中になっている時は、苦痛を忘れる事が出来る。人が遊びを止めないのは、そのためだ。

李通がそれを頭で理解して、客観的に考えられるようになったのはずっと後、戦場を駆け回って、女の味も夜の愉しさも覚えた頃だが。

自分の食い扶持すらままならない男と女が、育てる気も無い子を作るのは――――――

それくらいしか、紛らわす方法が無かったんだろう。飢えと貧しさでどうしようも無くなった人間の遊びなんて、まぐわいくらいしか無かったんだろう。

あるいは上手く身売り出来りゃ、腹も満たされて、その日の内は、暖かい寝床で寝る事が出来たんだろう。


――――――何よりの事じゃねえか。




十一、十二にゃ、もう普通の子。

大きくはなれなかった。赤子の時分に乳を飲めず、満足な栄養も取れないまま飢えながら育った体は、ずいぶん早くに背の伸びが止まった。

通った鼻筋には肉が無く尖って、げっそりこけた頬では大きめの目が爛々と輝いていて、風貌はまさしく、親無し名無しの餓死っ子そのものだったが、それでも中身は、立派にいっぱしの人間様。

初めて人を殺したのは……そう、まだ、背が伸びていた時。

その頃にはもう、普通の会話が出来るくらいには知恵が付いていた。


李通らは何度か大人に襲われた事がある。

一番最初の時だ。李通らと変わらないような痩せ方をした男。

近くで横たわっていた、それを李通らは真新しい骸だと思っていた。だから気にせず、その近くをその日の寝床と決めた。

とりあえず土の中で寝ていた芋虫とその辺の草だけ腹に入れて、後は互いに離れすぎないようにしながら、思い思いに遊んでいた。

突然、傍らにあった骸が立ち上がり、いきなり気がふれたように飛びかかって来て、ままごとで遊んでいた恭の腕に齧りついた。

ガイコツみてえにがらがらの癖に、これでもかと言う力で、ぎりぎりと、もう何本かしか残っていない、茶けた歯茎に生えたボロボロの歯が、血を滲ませて細くて白い恭の腕に食い込んだ。

彼女が悲鳴を上げると同時に、近くでチャンバラしてた李通が、バッと身を翻して躍り出た。

そして持っていた木の枝で、恭の腕に齧りついて離れない、その骸男の片目をブッ刺したのだ。

子供の力ではあったが、走り込む勢いでそれは、滑るように中にズプッと、李通の持つ手の根元まで入った。

噛み付きの力が緩んだ瞬間、恭がそれを振りほどいて、李通と一緒に遊んでいた仲間達が一瞬遅れで駆けつけ、続いて滅多刺しにした。

脳味噌まで達した李通の空けた穴と、片側の目も、口も、突かれて、やがて動かなくなった。一滴の唾液も付いていない恭の腕には、くっきり歯型が残っていた。男の口の中は、乾き切っていた。


――――――スープにされなかっただけ、俺らはツいてる。


ボソッと、李通が呟いた。

赤ん坊のスープ――――――

何の事を指しているのかは、皆よくわかっていた。

死んだそいつの着物を剥ぎ取って、その日は皆で、それにくるまって寝た。とても全員を包むには足りなかったが、それでも、いつもより暖かい。


その時を境に、生きた人間は飢えたり凍えたりする以外に、叩いたり刺したりすると死ぬという事、死んだ人間から引剥ぐと、寒さがしのげる事を知った。

その日から李通たちは、その辺に転がる骸の中から、着物を着ているものを選んで、自分たちの物を見繕うことにした。

“服”が恭だけの物じゃ無く、皆が持っている物になった。


ある時、畑で芋を獲った時に、仲間の一人がヘマをやって、そこの主に見つかった事がある。

恭によるとそれは“ドロボウ”と言う奴で、“盗み”が見つかるとそのブツの持ち主に殺されるらしい。

李通はその辺りの倫理とか道徳の事は知らないから、「畑という、食い物のある柔らかい土の敷かれた囲いに入った時に、大人に見つかると殺される」と認識していたが。


サッと蜘蛛の子を散らすように逃げ、“大人”が見失った頃合いに、後ろから身を隠していた数人で足下に抱きつき、転ばせる。股間を踏み潰して、最後まで息を潜めていた李通が躍り出て、コケたそいつの目玉を刺す。

根元まで一息に差し込み、動かなくなったら一丁上がり。しぶとく生きていたら、その辺の石で頭や首を殴ってやればいい。とにかく、一撃で急所を捉えるのがコツ。

李通はそいつの引剥ぎをしている時に、生まれて初めて、カネと言うモノを見た。

そこらで野垂れ死んでる骸や白骨は持っていなかった、石より冷たくてなめらかな、平べったい妙な玉。袋に纏まって、ジャラジャラと入ってる。

恭曰く、それは銭と言う物で、お店と呼ばれる所に持っていくと、食い物とか服とか、色んな品物に変えてくれるという。

半信半疑、彼らは奪った芋と、飛び出たそいつの反対側の目玉を腹に納めて、恭の説明と勘を頼りに歩いて、人里に下りた。

山の中や農村とは違う、街と言う所の、裏通りのドヤ街みたいな露店の軒で、その不思議な輪の開いた玉は、米と言う、アホみたいに甘くてふわふわした、死ぬほど美味いものに化けた。

皆で分けたら一口しか食えなかったが、甘いも美味いも、そういう味覚を李通たちはその時、生まれて初めて知った。


こりゃあいい。彼らはその日から、農村と街の半ばの街道をアジトにした。

強盗や追い剥ぎは、そこらで虫や草の根を齧るよりもよっぽど“美味かった”


そんな彼らが戦争に行く事になるのは、極々自然な成り行きだったと言える。恰好は、ようやく人並のナリになった時分だが。

官にしてみれば、彼らの様な戸籍の無い浮浪児は使い捨てとして格好の兵力だ。


――――――罪人が、なんで官軍にしょっ引かれないで、軍に入ってるのか、って?

そりゃあ、あんたにゃ悪いが、おめでたい質問ってヤツさ。育ちが良すぎるんじゃねえ?

罪人を罪人として始末できるきちっとした官軍なら、殆ど飢民と変わらねえ賊軍になんざ負けやしねえだろ。

ようは、賊と大差ねえ連中でも何でも、使わねえと勝てねえのさ。





彼らは殆ど消耗品扱いとして、絶えず前線の一番、死に率の多い所に送られる。

もっとも李通らにとっては大した問題ではなくて、いつもの稼業の延長線上に過ぎなかったが。

何せ付いて行くだけで、毎日、決まった時間に一度、飯が出てくるうえに、寝る場所まで付いて来るのだから。

李通は兵士になって、生まれて初めて布団と言うモノを見た。兵舎と言うしっかりした作りの建物で、凍えない夜と、安眠と熟睡を体験した。

そして、飢えと言うのが、息をする毎に常に付いて回るモノではない事を。

腹に物をちゃんと入れれば和らいだり無くなったりするものだってのに、この時にようやく気付いた。

一日一食、寝具は薄い毛布二枚だけという、待遇としては下等なものだったが、李通達にとってみれば、十二分だった。三日食わないのは当たり前だし、屋根のある場所で寝る日の方が少なかったからな。


勝った時には、豚汁が付いたし。


難しい指示が無いのも良かった。命令なんて、ただ突っ込んで、敵を殺せ、だ。

最前線の兵卒には、兵法だの軍略だのなんてものは関係ないんだよ。


それでよかった。李通は普通の会話は出来たが、字は数字くらいしか書けないし、読めないものだからである。

金を人並に使うようになってからは、金勘定の必要があったからだ。だから、それだけ、ダマしダマし覚えた。

と言っても、億までとりあえず覚えたが、憶なんて単位は滅多に使わないので、それより先は知らない。


一番でかいのと二番目をくっつけてみた。

李通が「万億」と言う名を名乗っていたのは、ただそれだけの理由。


体格も顔色も良い兵士がひしめく中、生半可なれど、急ごしらえは急ごしらえなりに一応の訓練を受けた軍にあって、小さい顔で、目ばかり大きい痩せこけたチビが一番前に出張っていたのは、ずいぶん場違いな図だったかもしれない。

それでも李通は誰より速く、疾駆して矢の雨を駆け抜けて、刃の林を掻き分けた。


力が強かったから?

否。彼は最も小さかった。

技の冴えか?

否。彼は武術の師事などした事は無い。


それでも彼は、昨日まで夜盗に怯えながら畑を耕していた、寄せ集められたような農家の二男坊や、いっぱしの国士を気取って集まった中流階級のお坊ちゃんらや、新兵も新人士官も、首を飛ばされる同僚に怖れて、皆が顔を青くして逃げ惑う狂気の最前線で、いつも一番最初に敵に当たり、一番早く、血を浴びた。

恐怖?

そんなものはない。


このクソッタレな世の中の、一番底で生まれた彼は。


誰よりも幼い頃から、人死にに触れて、誰よりも幼い頃から、人殺しのやり方を知っていた。

“死”と言うモノに触れていた期間の密度の色濃さで、恐らくは誰よりも、彼は死の臭いに慣れていた。

いつ死んでいても、おかしくは無かった。

彼は一番、地獄に近い所で生まれた子だった。





「おい李通! もうそろ行くぜい」

「んー? はいよ」


小さな鏡を覗きながら、帽子の位置をしきりに確認していた李通に、彼よりもさらに一回りばかり小柄な、黄色い頭巾を被ったチビが声をかけた。


「何だよそれ? みょうちくりんな被り方しやがって」

「ニットキャス、知らない?」


斜めに被ったツバにそれっぽく指を添え、帽子の影の隙間から、視点を下のニキビに流す。


「ったく、チャラ男がぁ~」

「チャラくはねえだろ。雰囲気良くない? コレ」


強靭でしなやかな、黒の似合う色男。

ケンカと夜とファッションが好きな、どこにでもいる、普通の青年。


「お前にはこの黄巾の良さがわかんねーのか!?」

「センス無いって、それ……」


十三で、夜盗と傭兵の間を行ったり来たり。

いや、どちらも線引きできるような物ではあるまいか。

どっちにしろ、闇の世界の……いや、そんなに洒落たもんじゃない。

釜の底の住人だ。


ある戦いで、奮戦する前線だけ切り捨てて、城の中に逃げ帰って行った周直。

生き残って帰還した万億は腹立ちまぎれに殺してしまった。以来、彼の生活の糧は流浪の戦場。

今じゃ、小さい頃の仲間は陳恭だけで、皆、散り散り、はぐれちまった。

まあ、達者にしているだろう。生きてさえいれば。


「ケッ、ガキにゃあこの粋さがわかんねえかなあ」

「そりゃ、特殊嗜好ってヤツだろ。世の中のニーズはゼッタイ俺だね」


極彩色の蛇を彫る。


ボロを纏って凌いだ凍えを忘れた頃、伸ばし放題の蓬髪をカッコ良くカットして、流行ってるってファッションを適当に見繕ってそれっぽくキメて、楽しむ事を覚えた。


米を、魚を、肉を、卵を知り、“美味い”と言う味を知り。

金の自由さを知り、夜の街の享楽と陶酔を知り。

大きくなれなかった、飢えた勇敢な少年には、やがて屈強で俊敏な、戦士の身体が寄り添った。


理不尽と思った事は一度もない。


「おいすー」

「おいすー、チビはん」

「おいすー、相変わらずでけえな、お前ら」


遥か頭上から声を落とすデクと手を軽く叩き合わせながら、目線はたわわに重そうな剥き出しの胸元にやる。

全く色気の無い眼で、そう言って見せる。


「あ、アニキ、お疲れっすー」

「オウ」


兵たちのたまり場を軽く見まわし、やがてノッポを見つけて声をかけた。

人の群れる中、李通はチビに倣うように歩く。


「ちわ」

「おう李通! テメエそんなカッコしてきやがって! 汚して後で泣くぜ?」

「大丈夫だよ。黒系だから血ィ付いても目立たねえもん」


「そういう問題ではない!! ちゃんと規定の鎧を着用せんか!!」

「ん?」


李通は、まるでこれから街にでも遊びに行くかのような場違いに小洒落たファッション。

ノッポの揶揄でヘラヘラ笑っていると、後ろからニキビの声が飛んでくる。

彼は上から下までピシッと軍支給の制服に規定の鎧を着用しながら、甲高くて硬い声を周囲にうるさく飛ばしており、すっかり風紀係の様な調子だ。


そんなものだから、すぐ後ろで、


「見て見て、凪ちゃん! このスカート、一目惚れして即買いしちゃったのー♪」

「沙和……これから任務だぞ? もう少し動きやすい恰好で……」


と言う会話がするやいなや、今度はそっちに飛んでいく。

忙しい男である。


「……あれ、隊長は?」

「ダンナぁ? ダンナは嬢ちゃん達と会議だろ。斥候隊はアニキの指揮さ」

「へえ。やっぱ偉いんだな、あの人」

「あんまり見えねーけどな。俺たちの口利きしてくれたのもあの人だしよ」

「ふーん…………ん?」


と、話していると、後ろから服を軽く引っ張られた。

振り返ると――――――人の群れの中で、ぽつんと浮き彫りになったような女の子が、黙ったまま指先でちょんと、李通の服を摘まんでいた。


李通よりもさらに下の目線にある、ザンバラの長い銀髪。それに映える、綺麗な白い肌。

小さな、小さな女の子。

青い目が、そっと李通を見上げていた。


「ご飯食べた? 恭」

「…………んっ」


李通が自分の被っていた帽子を、ぽん、と陳恭の頭に乗せる。

陳恭はくっとそれに両手を添えると、声か吐息かわからないような音を喉からかすかに出し、コクッ、と首を少しだけ縦に動かした。


ご飯食べた?


李通達が小さい時からずっと、挨拶代わりに使っていた言葉。

ある時、日暮れの後に寄った街の酒場で、国の行く末に付いて熱く論じていた、いかにも尚学の気風高い、裕福な家庭に生まれたような文人肌の若者に同じように言ったら、「何を言っているんだ?」と、怪訝な顔をされた。


そんなのあたりまえじゃないか、と。

夕飯時なんだから、と。

飯など食えて、“当たり前だ”と。


理不尽に思った事は一度もない。一度だって、無い。





――――――地獄なんて、無い。

李通は知っていた。


妙な男に唐突に名前を貰って、李通になる前から。

火の玉みたいにハネ回りながら、ドヤ街でだけで通じる適当な名前を名乗って、万億になる前から。

ノライヌと一緒に、腐った皮膚と肉を掻きわけて、ザラザラと溢れるようにへばりついて蠢く蛆を除けながら、食える部分を探して漁っていた名も無い時よりも、ずっと前から。


暖かい家も、包んでくれる親も、満たされた肉体も、言葉も、名前すら。

普通の人間が、生まれてきたその瞬間から温かく享受出来るそれが、彼には無かった。

ただただ、凍えていた。


――――――理不尽は一コもねえ。

彼は冷たい手で、すべて手に入れた。

ウィットの利いたジョークの利き方も、クールな服も、カッコイイ刺青も、遊んで飲んで、好きな豚のスープを好きな時に食べるカネも、戦場を駆けて生き残る腕っ節も、名前も、人間らしさってヤツを、すべて。

全くのゼロから、すべて。

誰から貰わずに、すべて。


だから、理不尽なんて何もないのさ。






あれは、地獄なんかじゃなかった。


河の水。灰色の空。湿った水草。ぼうっ、と、見つめる、仄暗い水に沈んだ、崩れて垂れ流した腐汁が混ざり合う、死んだ赤子の黒い瞳。

それが、彼の生まれた所。それこそが彼の世界。


現実だった。


身を切るような寒さは肌にこびり付いていた。臓腑を潰すような飢えが身体を焼いていた。

おとぎ話でも、空想の物語でも無い。

どうしようもなくリアルな質感と、揺らぎようの無い世界。

骸と汚泥に囲まれた、抱いてくれる人は無く、ごまかしようの無い、独り。

それこそが、彼にとって何よりも中間色な“現実”だった。




人は、何も持たずに生まれてくる。

死ねばただそこに還るだけ。


要はただ、それだけの事なんだぜ――――――――お分かり?


このタイミングなら言える!

僕はπタッチが大好きです!

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