黄色頭巾編・二十八話――――――「主魁、発覚」
「ねーねー、おじちゃん。それで、孫行者はどうなっちゃうの?」
「うん?」
遠く、店先の大通りに眼を遣っていた武蔵が、裾を引く小さな力に応じて足元を向く。
店内の椅子を野外に持ち出して、そこに座る大男を中心に、小さな子供達の人垣が出来ていた。
「さんぞーほーしは食べられちゃうの?」
「悟空は間に合うのかなぁ?」
「早く! おじちゃん、続き続き!」
武蔵の裾を引っ張った一人の少女を皮切りに、周りの子供たちも一斉に催促する。
膝に乗っかってくる子、髪の毛を引っ張る子、武蔵のように椅子を店内から持ち出して来て、その上でぴょんぴょんと跳ね回る子。
反応も様々なら、気になる内容も十人十色。黄色い歓声がその一帯に満ちた。
「ああ。銀角を妖術と鉄拳でぶっ飛ばした、孫行者。奪われた如意棒を取り返し、満を持して決戦に臨む……だったか?」
武蔵が組んだ腕をほどき、空いている方の左膝に肘を掛けると、やいやいと騒いでいた子供たちの声が、一斉に、ピタリと止まる。
「孫行者は囚われの八戒、悟浄、そして三蔵を助けるために、一人、筋斗雲でかっ飛んで行く。山を越え、雲を突き抜け、鳥を追い抜いて、ぐんぐんと金角の待ち受ける砦を目指した」
子供たちが、武蔵の琥珀色の目を覗く。
孫悟空と同じだという、金色の瞳。
「やがて見えた大仰な門構え。門番の蜥蜴の妖怪二人が叫ぶ、『なんだ、お前は!?』、『知らねえのなら、その身で覚えろ!』――――――言うが早いか、筋斗雲から飛び降りて、嵐の如き如意棒捌きで、瞬く間に二人を倒した。そして門を薙ぎ払い、こう叫ぶ。『おいらこそが義武聖君、天下無敵の大妖怪、斉天大聖、孫悟空様だぜ!』」
おぉ~、と、子供たちの喝采。この決め台詞が出るたびに、子供たちは大いに沸く。
「さあ、ついに金角と決闘だ。砦に居やがる魑魅魍魎を蹴散らして、ついに砦の一番上、雷様の様な雄叫び一つ、『お師匠様、助けに来たぜぇ!』、と。さあ、果たして仲間達と三蔵法師を、救い出す事が出来るのか……」
――――――と。
そこまで話して、武蔵は語りを区切った。
こちらに軽く手を挙げて歩いてきた、青のドレスの美女を見つけて。
「悪いな、お前ら。この続きは、また、今度だ」
「えぇ~~~~~~!!?」
大顰蹙の中心で、武蔵は膝に持たれていた少年の頭をぐりぐりと撫でると、大儀そうに立ち上がるのだった。
「どうしたい? ニヤニヤして」
「いや……中々に盛興だったみたいじゃないか」
「西遊記は人気でな。春蘭もイチ押しだ」
「フッ」
形良くきゅっと締まった顎の、凛とした小さな顔、女性的なラインの中で、ふと雰囲気の変わる、猛禽類の様な精悍な眼が、談笑の頬笑みで和らぐ。
背中から太腿まで、流れるようにスラリと伸びた、そのしなやかな美しいシルエットはまるで羚羊のよう。
スタイリッシュという言葉をそのまま絵に描いたような秋蘭だが、それが武蔵と連れ立っているのは、まさしく美女と野獣の図である。
「まあ内容はその都度、その場で考えてるからまちまちなんだけどよ」
「それはいかんな。子供たちが後日、同じ話題で盛り上がれないじゃないか」
「毎回同じ話をしてたら、被ってつまらん」
街の流れの中を、それに沿うようにして歩いて行く。
目立つ男と、眼を引く女だが、素性に気付く人間はいないようだ。
気付いても確認する前に流れて行ってしまうからかもしれないが、まあ私服ならそんなものかも知れない。
「しかし、店の前であんなに子供を集めては、営業妨害ではないのか?」
「親爺にも一応断ろうかとは思ったんだがなぁ……何でか知らんが、居らんかった」
「……それは、世間一般的には無許可と言うんだ」
売り子の娘が差し入れに白湯を出していた事を見ると、それほど嫌がられていた風では無かったが。
まあ、それを抜いたとて、考えて見ればこの男は、あまりその辺りを意に介すような気性では無い。それがどこででも通じるかと言えばまた別問題だが。
ともあれ、あそこは、よく待ち合わせに使う常連の部類に入る店だ。とりあえずは問題ないであろう。
「しかし……」
秋蘭は唇を再び何かを紡ぎかけたが、その先は続けず、代わりにくっく、と笑いだした。
「おじちゃん、か」
「うん? 良いだろ、おじちゃん」
「お前からすれば違和感が無いのかもしれんが……いや……ふふっ」
武蔵が何を言っているのか、という風に腕を組んだまま、自分の肩口程にある秋蘭の顔を、目玉をきょろっと動かして見遣ったが、秋蘭はツボにでも入ったか、口元に手をやりながら肩を小刻みに揺らしている。
「中身はともかく、私とそう変わらぬ年頃の、こんな荒々しい風貌をした男がな、子供たちにおじちゃん、と慕われながら、無邪気にそれと戯れているのは……」
しばらくそのまま、隠す手を下げて、渋顔の武蔵の隣で愉快そうに笑い続けた。
愉快そう、と言っても、歯を見せて馬鹿笑いするような笑い方でなく、抑え気味に喉を鳴らして笑うのだが、これほど長く人を憚らずに笑い続けるのは、彼女にしてはかなり壺にハマっている部類に入る。
何せ、滅多に感情を表に出さない事で有名で、美将軍の上に、氷や鉄仮面の形容句が付く類の人間である。
勿論、親しい者はそこまで極端ではない事を知っているが、それでも部下が見たら、目を丸めたかもしれない。
「滑稽なものだよ、傍目には非常に面白い」
「そんなにか?」
「面白いさ、おじちゃん」
自分で言って、自分で笑っている。
滑稽な武蔵、は、よほど氷の美女のお気に召したらしい。
普段は見せない笑顔が増えるたび、武蔵の顔は甚だ何とも言えぬ色になっていくのだが。
まあ、彼女の笑顔はそれだけ貴重、と言う事で御納得して頂きたいものだ。
「おじちゃん、って言うがよ」
「ん?」
ホラ、と、長い腕をスッと伸ばし、未だに笑い袋になっている秋蘭に前を示す。
「兄ちゃーん、秋蘭さまー! こっちだよー!」
その先に、店の前で女ばかり数人で固まりながら、一際元気に手を振る少女が居た。
「俺だってわりと、若いんだぜ?」
流し目でニヤリとする武蔵を見て、もう一度だけ、フッと鼻を鳴らして笑った。
「……お前ら、最近、仲が良いな」
「春蘭、そう言う時は巷の若いのの間じゃァ、あべっく、って言うんだぜ」
「なにっ……!? い、いや、もちろん知ってたぞ! お前ら! 最近あべっくが良すぎだぞ! 宮本、秋蘭に手を出したら許さんからな!」
「……あんた達、その辺の通行人と会話してみなさい、空気凍るから」
間違った流行語を得意げに使うじじいと、間違った使い方で覚えさせられる春蘭。
桂花の眼はどこまでも冷ややかだ。
「ほら、遊んでないで行くわよ」
「割り勘か?」
「あら、年上の殿方が持つべきじゃなくて?」
「男ってのは、損な生き物だね」
なかなかに風情ある門構えを、駄弁りながら一行は潜っていく。
高級志向の店、と言うか、まあ大衆飯店、と言う風では無い。料亭、という雰囲気が近いか。
庶民なら出費の心配が為される所であるが、考えて見れば、武蔵の扶養費は兗州から出ているもので、元はと言えば納税者の血税である。
いつの世も、搾取する側と言うのは羽振りが良い。
「これは曹公。どうぞお越しくださいました」
「あら、ご当主。店に居るなんて珍しいじゃない」
「ええ。曹州牧のご予約が入ったと伺いましたので、ちょうど所用もありましたし、挨拶にと」
「御苦労な事ね。傘下の飲食店一つにわざわざ顔を出さねばならない程、せせこましい商人では無いでしょうに」
「とんでもございません。手前共など、一銭の価値に執着する商売でして。何より、こうして乱世で商いを続けることが出来るのは、他ならぬ曹州牧のおかげでございますから」
入店し、玄関で何名かの従業員が先頭を行く華琳に礼をする中、特に正面で待っていた、深々と頭を下げる初老の男性に声をかけた。
男は柔らかな物腰で人の良い笑顔を浮かべ、まずは礼でもって彼女らをもてなす。
「あれっ?」
「おや」
ゆっくり顔を上げる。
そうして、リラックスした表情の華琳をもう一度、商人くさい人当たりの良い笑顔で一瞥した後、可憐な乙女たちの中で、一人、異質に目立つ、赤毛の伊達な男に目を止めて、しかし怪訝な顔では無く――――――何かに気がついたように、その糸のような目を開いた。
「旦那じゃないですか。将軍様方と、お食事ですか?」
「親爺こそ。何をしてんだ、こんなトコで」
「何をしてんだ、と申されましても。ここは、私の店ですから」
「いつもの飲み屋はどうしたよ? さっき行ったんだぜ」
「あれは、自宅みたいなものでございますから」
貼り付いていた親しげな笑みが消えて、パッと砕けた調子になった。
若者と、親爺。
どっちが年上か、恐らくそれは人間的な年季を積んだ者でなければ察せられないと思う。
「御主人。いつもウチのが世話になっている」
「おや、夏侯淵様。こちらこそ、御贔屓にして頂いて何よりでございます――――ささ、立っているのもなんでございますから、皆様、此方へ」
が、この辺りはさすがで、すぐに再び、人好きのする笑顔を秋蘭に向けて、談笑の和やかな雰囲気をうまく引き継いだまま違和なく促し、店内へと手招き入れた。
中々、どうして、格調高し。
均等に切り分けられた石廊下に、気品のある、柔らかな檜造り。
調度品などはあまりなく、客人を威圧するような仰々しさ、ごてごてしさはないが、纏まった品の良さがある。
予約してある客は、取った部屋の間に案内される方式のようである。
「お前さん、存外、景気の良い親爺だったんだな」
「いやね、旦那の仰ってた緑のお茶、あれを取り寄せて食事受けに付けるようにした所、飲食店系が軒並み、伸びに伸びまして」
「茶を、か? そりゃあまた、怖い勝負を仕掛けるもんだ」
華琳の頭越しに、先導する親爺と武蔵が言葉を交わす。
武蔵はあくまで自分の基準で世間話ついでに語っていたが、茶が庶民の間で常用されていた江戸時代とは違い、薬用としての認知もされている中原である。
後半生から長らく、金銭的に困らぬ立場にあった武蔵の金銭感覚を差っ引いても、江戸の世に比べて相場としては遥かに高価で、それを飯の付け合わせにする、と言うのは、中々に冒険的な販売戦略だった筈だ。
「そこは旦那、一生に何度も無い、肝っ玉の使い道、という奴で。商人だって、際の際と見定めますれば、命くらい張りますよ」
「ははっ。違いねェ」
剣だろうが銭だろうが、そこの所に差はない。
自らの稼業、本分に命を懸ける事は、人間共通の所作であり、武士の特権では無く、農民、商人であっても同じだと言う。
五輪書に記された一文だ。
武蔵の笑いは、実に小気味よかった。
「ま、益州の方で、上手い具合に普通の茶より安く買いつけられたって言うのが、勝ちの目の出た所だったんですけどね。旦那の言う所の、“勝つべくして勝つ”という奴ですか」
「向こうではこちらでは見られない珍品や、異人の貿易商の出入りも多いと聞くわ。上手く相場を見切れば、莫大な利益を上げられるでしょうね」
「さすがの御慧眼でございます、曹州牧」
にこやかに笑い、それ以上は何かを語る事はなく、食事の席へとゆるやかに案内した。
武蔵と、いつもの奥間であれば、緑茶との相場の差異、販路や茶の店での運用法など、込み入った所まで話し込んだであろうか。
否、さすがにそこまで迂闊では無いだろう。
「旦那、今日のお代金は、いつもの帳簿に付けておきますか」
「あら、あなた、そんな事やってるの?」
「ダメだよ兄ちゃん! お金はちゃんと払わなきゃ」
「おいおい、バラすな、親爺」
やがて座敷に通され、各々、指定の位置に着いた後で、菜譜などの案内を受けたが、去り際にふっと漏らしていった親爺の思わぬ一言で、華琳が悪戯気に笑い、季衣に真面目な顔で抗議を受ける。
武蔵は季衣の頭をポスポスと撫でながら、苦笑いを親爺に向けた。
「ははっ。では、私はそろそろ別の仕事に参りますので、これで。後の事は、支配人と従業員になんなりとお命じくださいませ」
「悪いわね、ご当主」
「いえいえ。ごゆるりとお寛ぎ下さい」
「……ほう。これが、緑茶か。なるほど、良いものだ」
「ええ。武蔵の話でしか聞いたことはなかったけれど……とても食事に合うわね。良い味よ」
さて、前菜が運ばれ、談笑や感想も交えて、さっそく五人で料理を楽しみ始めたが――――――
一番騒いでいたのは、意外や意外、武蔵である。
「おおっ、旨いな。なんだ、これは?」
「なんだ宮本、お前、唐揚げを知らんのか?」
「おお。こんなに瑞々しくて濃厚な鳥料理は、今まで食った事がねえ。天ぷらともまた違うな」
「はっはっは。まったく、お前は物を知らんな! ほれ、この鴨の照り焼きも美味だぞ」
隣では春蘭は大いに胸を張り、自分の膳からひょいひょいと、自身の左手を跨ぎながら、武蔵の膳に鶏肉をせっせと移す。
興味森々に春蘭の手さばきに眼が釘づけになっている武蔵に、いつもの落ち着き払った風はまるでなかった。
「こうして、唐辛子をささーっと振ってだな……」
「……ぬう、これは…………」
パタパタと世話を焼く春蘭に、大袈裟な反応で感激する武蔵。
いつもと真逆の構図であった。どうやら、威張れる時は存分に威張っておきたいらしい。
可愛いものだ。
「六十年近く生きてきたが、鳥はこうやって食うもんだったか。いや、世の中にゃあ、知らん事は山ほどあるもんだ」
ちなみに唐辛子がアジアに伝わったのは十六世紀頃、高火力を要する鳥の唐揚げは二十世紀以降、日本への伝来は第二次世界大戦後とも言われる。
――――――何か問題でも?
「……う~ん」
「どうしたの季衣? 口に合わなかったかしら」
「そんな事ないです! とっても美味しいです!!」
「何か、気にかかるような事があるのか?」
何かしっくりこない表情をしていた季衣に華琳が気付いたが、すぐにその言及の意図はない事を否定した。
秋蘭が尋ねると、箸は動かしながら料理は淀みなく取り皿にとって、しかし小首を傾げる。
「う~ん……なんかこの味、どこかで食べたような気がして……」
「あら、以前にも来た事があるの?」
「まさかぁ、一人じゃ来ませんよ、こんな高級そうなところ」
桂花がテーブルを挟んで聞いたが、季衣はチリソースで和えられたシャコを口に運びながら、ふるふると首を振った。
「宮本! このお通しも美味しいぞ!」
「おお、なんだろなこれ。あんきもか?」
こいつらは相変わらず騒がしい。
「ああ、そうだ、せっかくの機会だから、言っておくけど」
店の空気と座敷の居心地にも慣れてきたか、と言う所で、華琳が改まって口を開く。
皆の箸が、一様にピタリと止まった。
秋蘭が軽く口元を拭い、桂花は箸置きに箸を一旦置く。
季衣と春蘭は直前まで無邪気に頬一杯に頬張って、もぐもぐとしていたが。
武蔵は?
彼は未だに箸を止めて居ない。
「八日後に張角を攻めるから。皆もそのつもりでいて頂戴」
「ッツ!!」
料理に目を向けながら、全く変わらない調子で華琳が告げた言葉は、和やかな団欒の雰囲気に、完全に身も心も委ねて泳がせていた彼女たちにとって、この上無い不意打ちだった。
「ようやくか。早えな」
唯一、動じなかったのは、相変わらず箸を動かし舌鼓を打っていた、この男。
皆の視線が華琳から武蔵へと泳ぐ間、武蔵は口の中にあったくらげを咀嚼し、次の料理を啄む間に、非常に端的な二言だけ落としていった。
動じる事が無かったのは、この男の気質によるところが大きいが、この店に入った時から、何か、重要案件についての話があるな、と言う意識は、なんとはなしに頭の隅にあった。
だから、普通の大衆的な飯店では無く、個室で身内だけの空間を形成する、こういう体系のお高い店が選ばれたのだ。
個人的に懇意である故に彼女らは違和感を感じなかったかもしれないが、わざわざ幹部四人と親衛隊の筆頭を一度に集める、という時点で、ケースとしてはそもそも珍しいのである。
「ええ。でも、これでも早期に発見できた方よ? 黄巾の発端が旅芸人だ、なんて情報を掴んでいるのは、恐らく私達だけでしょうから」
ようやく、と言うのがこれだ。
黄巾の乱、勃発してから久しかったが――――――ようやく、その首魁を突きとめる事が出来た、と言う事である。
「……という事は、友軍は無し、と?」
「ええ。官軍に敗れた敗残兵が、張角を頼って続々と集まっているらしいのよ。張角の素性を知らない諸侯は、ただの有力な頭目の一人と目しているのでしょうけれど……このまま放っておけば、いずれ反乱の全勢力が一カ所に集う事になる。そうなる前に叩くわ」
こういう、戦いの機に関しての嗅覚に一番長けている秋蘭が、華琳の語る所の端々から、みなまでは言わせずに、その答えに辿りつく。
華琳が張角だと言う情報を掴んだと言う事は、恐らくその主軍はこうしている間にも、急速な勢いで増えているのであろう。それくらい、派手な動きであると言う事だ。
史実では黄巾の叛徒は、全土で優に百万を超えたという。
何儀、孫夏、波才、彭脱、張曼成――――――と、ここ数日で反乱軍の有力者は立て続けに官軍に敗れた。必然、多くの流兵が出ているはずだ。
恐らく、それが活発になる動きの最大の理由……そして、それが集中すれば、史実の示す通り数十万を超える勢力になる可能性も有り得、その上で指揮系統の確立された大軍隊となってしまえば、これは脅威と言う言葉では済まなくなる。
そうなる前に叩く。
こうした華琳の判断は「拙速を尊ぶ」兵法に照らした戦略眼から見れば、理にかなっている。
早い、というのは――――――
「し、しかし華琳様っ、八日というのは、期間としてはあまりにも少なすぎます!」
そう、華琳の示した、出陣までの期間。
その日数の少なさ。
秋蘭が友軍無しに独力で攻める事を先読み出来たのは、この準備期間の少なさから察せられる拙速さにもある。
つまり、華琳はこの情報を他の諸侯に流して、援軍を求めるつもりはないと言う事。
あるいは、それを犠牲にしてでも、早さを優先させたと言う事だ。
そして類まれな経営戦略眼を持つ桂花が、それの意味する難所を解すのに一瞬とかからなかった。
「討伐による大小の実戦。警戒・防衛を農兵と入れ替える事での常備軍の定期的休養。練度は十二分よ」
「た、確かに、我々の直属軍の実戦勘は仕上がっておりますが……それでも、戦闘のみを専業とする “純兵制”を完全に敷けているのは、現段階ではこの野人の隊のみです! 半数以上は通常業務を兼事している彼らを、今すぐ戦闘態勢に切り替えると言うのは……」
「明日から直ちに治安維持・土木作業などに従事している常備軍の一切の業務を中断させ、未出陣の農兵に引き継がせる。それで事足りるわ」
アリス人形のような、持ち前の愛くるしい気品を目一杯に焦らせ、身を乗り出して抗議をかける。
軍師として、主君の突発的な無理難題に慌てまくる桂花に、話のダシでビシッと思い切り人差し指でさされてしまった武蔵は、苦笑いを浮かべながらわざとらしく仰け反ってみせるが、当の華琳は、事もなげにそう言い放った。
「そ、そんな人事をたった一日で……それに、戦闘態勢に入れるとしても、物資調達の方がとても……」
「桂花」
なおも食い下がる桂花だったが、華琳はパチリ、と箸を置き、その舌の動く最中に言葉を挟む、そして、
「今夜は寝られないわね?」
クスッと笑い、とても魅惑的なセリフと秋波を最愛の右腕に送った。
桂花は可愛らしい口をあんぐり開けて、まるで石化でもしたかのように、真っ白になって固まっていた。
言葉も出ないほど嬉しかったのだろうか。そうに違いない。
「しっかしまあ」
箸を左手に持ったまま腕を組み、グーッと後ろに仰け反る。
その気安い態度を取るのがだれかは、決まっている。
「毎度の事ながら、素っ頓狂な用兵をするわな。常備軍単一編成なんぞ、下手すりゃ一万切るぜ」
「兵数で劣っていても、兵力で負けるとは微塵も思っていないわよ。それに……振りかざす太刀の下こそ地獄なれ……でしょう?」
ひと足すすめ、先は極楽――――――
踏み出せずに竦んだ者に勝機は無いのだ。
まして天下に挑み、億千の民の主とならんことを欲する英雄であれば。
華琳と武蔵。
魅力滴る可憐な美少女と、野性味湛えた、獅子の様な男。
まさに対極に位置する人間の二人であったが――――――その表情の色は、全く同じだった。
「――――――さ、食べ直しましょうか。そろそろ、次の料理も来るころよ」
華琳の声で、ふっと、その場の空気が和らぎ、緊張の解ける音がした。
皆の顔から戦の匂いが消え、再び和気あいあいと、料理に箸をつける。
桂花だけは、何故か物凄く追い詰められた表情をしていたが。
「ねえ、兄ちゃん、結局、どういう事?」
「そうだ、なんなのだ、一体。結局、戦うと言う事でいいのか?」
テーブル越しに季衣が、袖をちょんと引っ張って春蘭が、この場、唯一の男に尋ねる。
かくん、と一様に肩を透かせたのは、女性陣。
「ああ、それでいいんだ」
武蔵は季衣に柔らかく笑いかける。
「大物だからな。気ィ引き締めてかかれ、って事さ」
「んむっ」
そして、口の周りを餡でべたべたにしながら、ぽおっ、と無邪気な顔で上目遣いに見る春蘭の唇を指でさっと拭い、そのまま口に突っ込んでやった。
歯と舌が、その指にちろりと触れた。
「しかし、本当に美味しいわね、此処」
「はい~、とっても美味しいですー♪」
「うむ。美味し」
「ありがとうございます、華琳様っ!」
皆、楽しそうに食卓を楽しむ。
口々に喜びの感想を詠う彼女らを見て、フッ、と、秋蘭が優しげに微笑んだ。
「……えーと、とりあえず書官を総動員して、人員整理の方をまず終わらせるでしょ? で、御用の商人たちに片っ端から付け届けさせて……同時進行でないとダメよね、ああっ! でも、あんまり国債使うとダメだし……やっぱりこっちも私が指揮を取らなきゃ……」
チャカチャカと神算鬼謀の頭脳をフル回転させ一人、全く穏やかでなさそうなのが居るが。
まあ、それも含めて、憩いの食卓であった。
「――――――失礼します、次のお料理と、お酒の方、お持ちいたしました!」
明朗で気風の良い声が、団欒を通り抜けて行った。
「ええ、御苦労さま」
それは、決してその和やかさを妨げるものでは無い。
秋蘭が、ふと華琳の許しを得て入ってきた給仕に目を遣った。
成程、気立ての良さそうな少女がせっせと手際よく、世話を焼いてくれている。季衣あたりと、同じくらいの年頃だろうか。
軽く笑いかけ、スープを啜る。
血埃煙る戦場に生きる女の、ささやかな安心。
穏やかな表情は、とても優雅で、美しかった。
大切な、大切な、安らぎの時――――――
「あーーーーーーーーーっっ!!」
「あああああああぁぁぁっっ!!」
――――――二つの重なったドでかい大声で、豪快に斬り裂かれて行った。
いきなりの大音量に、さしもの華琳と秋蘭もびくっと肩を震わせ、危うく食べていたものを落としそうになる・
春蘭が思いっきり噴出したお茶が、対面の桂花の顔面に派手に降り注いだ。
「流琉!! どうしてたのさー今まで!」
「どうしてたの? じゃないわよぉ!! 手紙一つ寄こして村から呼び出したっきり、ちっとも音沙汰無しでぇ……待ってたんだからぁ、もー!!」
気管にでも入ったか、げっほげほ、と咳き込む春蘭に、「熱っつ! 熱っつ!」と顔面を押さえてのた打ち回っている桂花。
華琳と秋蘭は唖然として、両掌をがしっと合わせ、取っ組み合いはじめた二人の少女に眼を取られていた。
―――――武蔵?
奴は我関せずと、微動だにしないで炒めアワビを食っていた。
「何処にいるかわからないなら、ボクに連絡してくれればいいじゃないかー!」
「連絡先書いてから言いなさいよぉ!」
降ってわいた修羅場だったが、だんだんと激しさを増していく。
甚だ、やかましい上に、どかん、どかん、と暴れるので埃が舞う。
怪力の持ち主である季衣と取っ組みあって一歩も引かない少女の剛腕もさるものであったが、それはこの場にあって、状況を悪化させるタネにしかならない。
「…………」
ふと、秋蘭の眼が細まる。
瞋恚の兆しが宿ったような気がした。
否、瞋恚というには、小さな小さな苛立ち程度でしかないかもしれないが――――――
その極めて冷静な普段の物腰から、完全無欠の印象があるが、彼女とて、春蘭と同い年の若い女だ。
静かな時間を愛する彼女の気性にとって、普段の激務から解き放たれ過ごすひと時は、彼女にとっては、非常に肌に合う時間であり、貴重な時間なのだ。
彼女の大切な空間と、彼女好みの、ゆっくりとした時間。
「おい……」
無論、そういった私事は抜きにして、行動の真意はあくまで年長者として、であるが。
頭からつま先まで浸っていた、非の打ち所のない彼女の世界が阻害されたことに対し、殆ど反射的に生まれた苛立ちが、その声色に混じっていたのは、無理からぬ話であろう。
「――――――美味い!!」
秋蘭の開きかけた口からでは無かった。
ぎゃあぎゃあとけたたましい黄色い声が行き交う中で、ピッと、一筋の張った低い声が突き抜けて行った。
声質が全く違う故に、際立つ。
はっとして、過中の少女二人がそちらを見る。
「このスープは何だ? 鱶鰭か? いや、絶品、絶品。いったい誰が作った?」
「えっ……あ……」
いきなり畳みかけるように問われて、言い淀む少女に、武蔵は琥珀色の目を丸くし、「ん?」と、問いかける。
荒れかえっていた室内の言葉の波が、凪になった。
「えと……そ、それは、私が担当させて戴いたものですっ」
「ほお! 若いのに大したもんだな。これ、もう一つ持って来てくれんか?」
「え!? よろしいんですか!?」
「ああ。追加で。頼むわ」
にこやかに美味い美味い、とたびたび会話に混ぜる武蔵に、少女は季衣からパッと離れて、「ありがとうございます!」と、手を重ねて深くお辞儀した。
「あ……でも、単品追加だと、別途で料金かかっちゃうんですけど……」
「構わんよ。大至急な。すっかり、気に入っちまった」
言いにくそうにその旨を告げるが、武蔵が快諾すると、ぱっ、とその顔が明るくなる
「わかりました、すぐお持ちします!」
「うん…………あー! 待った待った、お姉ちゃん!」
退出しようとした給仕の少女を、武蔵は思い出したように呼び止めた。
顔に? を浮かべて、少女が振り向く。
「鳥の空揚げと鳩の照り焼き。そっちも追加で宜しく頼む」
「…………う」
嵐が過ぎ去り。爪跡は深く残された。
即ち、先ほどの取っ組みあいで派手に散らかった内装と、な~んとも微妙な、気不味い雰囲気である。料理が辛うじて無事なのが、唯一の救いか。
「季衣」
恐らく、冷静に我に返ってその雰囲気を察したのであろう、季衣が華琳の静かで硬い声に、びくっと身体を震わせる。
武蔵はいつもの眠たそうな眼に戻って、既に何事も無かったかのように、平然と食事を再開させているが、ようやく回復した桂花と春蘭以外は恐らく、確実に徐々に重さを増す空気を敏感に感じていた。
「食事は座って取るものよ。お母さんに習わなかった?」
「…………はい。ごめんなさい」
「よろしい」
しょんぼりして、素直に再び席に着いた季衣に、華琳は厳しげな眼をすっと和らがせた。
同時に、冷たい空気がだんだんと元に戻っていく。
「おら、季衣。冷めん内に食え」
「うん…………兄ちゃん、ごめんね」
「ごめんはな、一回でいいんだぜ」
自粛したように小さくなっている季衣に、からから笑って、武蔵は取り皿によそってやる。
しばらく遠慮していたようだが、食べ始めると、程無くして笑顔が戻り、元気も出たようである。
ふと、武蔵が秋蘭に視線を送り、笑みをたたえながら、片眼をくしゃりと潰した。
秋蘭の顔から、険しさがスッと抜けていった。
「そういえば季衣、あの女の子は知り合い?」
「流流ですか? はい! ボクと同じ村の生まれで、料理も上手いし、とっても強いんですよー♪」
「そう……そうなの」
武蔵はこの時、「また例の病気が始まったな」くらいに思っていたのだが。
食事を終えた後、華琳自らが店主との激しい舌戦を制して口説き落とした、この流流という少女が、あの『“悪来”典韋』その人であった事を知り、しこたま驚くのは、城に帰った後の話である。
「しかし、此度の戦、お前は大変だな」
「なにが?」
「お前の隊の大半は張角の支持者だろう? それと戦うのだ、士気の落ちは否めまい」
「ああ……いや、そこら辺に関しては、全然問題ねえと思うぜ。たぶんな」
「?」
「いいかあ、テメエら!! ついに、ついに! ついに、この時がやって来たァ!!!!」
兵法天下無双、二天一流開祖・宮本武蔵自らが率いる直属隊、武蔵隊。
彼らは武蔵が直々に指導・監督する投降兵・志願兵を含めた万を超える兵から選抜された最精鋭であり、曹操軍の提唱する新軍事雇用体制の一つ、特別戦闘専業常備軍制度、通称“純兵制”の元に、その100%が純兵で構成された、現状では唯一の部隊である。
純兵は農業や治安維持活動など、通常の兵士が従事するあらゆる一切の業務を免除され、完全に戦事のみを生業とする。故に平時は農業に従事する農兵、戦時・平時を問わず組織され、様々な業務を兼用する通常常備軍とは異なり、戦闘訓練と実戦のみを任務とする、純粋な戦闘兵である。
その性質から、出陣率と部隊単位での練度が最も高く、歩兵のみの隊でありながら、ゲリラ戦においては軍中最強の呼び声も高い…………のだが。
「奴らは黄色い頭巾をしちゃいるがァ! 俺達の妹、地和ちゃんのファンでもなんでもねェ!」
「黄巾を隠れ蓑に、コスい盗人稼業で群れて、あろうことか俺等の聖母、天和の冠に“暴徒の頭目”なんつー小汚い看板くっ付けやがった不届きモンだな!」
「この暴挙、この無道! たとえ神様、仏様、武蔵様が許しても、俺らの人和ちゃんがァ、許しちゃくれねえ!!」
壇上にいるのは、何故か隊長の武蔵でなく、黄色い頭巾の三人衆。
デブとチビが煽りに煽り、アニキが拳を突き上げるたび、猛者の怒濤が木霊する。
「犬畜生どもの魔の手から、しすたぁずを救いだし、これを正道に正す、聖戦の刻がついに来たァ!!」
「うおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」
荒れ狂う気炎の紅蓮は、山を貫き、天を穿つ。
勢いだけなら、ハッキリ言ってどっちが暴徒かわからない。
是を束ねる、アニキの無類の統率力。
旧ナチスの大総統も、多分、これには及ばないと思う。
「……隊長、コレ、どういう状況なん?」
「なんか凄く、恐ろしいものを呼んでるような気がするの……」
「……俺にだってなぁ、わからん事くらいあるんだよ」
「隊長……何があろうとも、自分は隊長に付いていきますから!」
その袖にあって眺める、未知を忌避するヒトの本能が、三者三様、如実に出ていた。
凪だけが健気にも、真っ直ぐな瞳でグッと拳を握り込む。
「さあ行くぜ、最強のバカ野郎共! 必ずやこの戦いを制し……オフィシャルファンクラブの座を、俺ら“数え役満☆しすたぁず親衛隊”の掌に!」
「中黄太乙!!!!」
「在天黄老!!!!」
「ほあっ、ほあっ、ほああああああああああーーーーーー!!!!!!!!」
太陽よりも熱く、激流よりも激しく。
陳留の一角で、誠の志に燃えた男たちが居た。
「……え? 何、ココ、こーいうノリ?」
「…………バカ、ばっかりだ!」
新参の万億改め李通は、全く何が起こっているのか把握できず。
ニキビは天を仰ぎ、夕空に嘆いた。
黄巾狂想曲最終章、決戦の緞帳が上がる、その日は近い――――――――!!
文章の量があからさまに多くなってきた。
我那覇さんを嫁に下さい。