黄色頭巾編・二十一話
武蔵は絵が好きで、小次郎は詩が好き。
彼之者、門人トシテ修行ヲ為シ、技量之程熟達シ、当流ノ妙機ヲ得ジタ由ヲ認ズ。
富田流・鐘巻派太刀法
高上極意五点
一、妙剣
一、絶妙剣
一、真剣
一、金翅鳥王剣
一、独妙剣
神文之上、相伝之事トス。
富田勢源流・後学鐘巻自斎。
「小次郎」
「はっ」
牡丹雪が、ほんの少しだけ降った。
水を多量に含んだそれは舞うでなく、落ちる。
春雪。
弥生の月、越前はまだ寒い。
「幾つとなった」
「十三にございます」
「そうか……」
それは、確認だった。
歳ではない。この、もう黒髪の中に大分白髪が多くなった老人が、この少年の歳を知らぬはずがない。
彼の父が死んでから、もう五年が経った事。当時八つばかりだった彼が中条流を学び直すためにこの老人に引き取られてから、もう五年が経った事。
それはつまりこの少年が、この老人が生涯を懸けて得た剣の理の全てを、僅か十三の齢にして修めた天才だと言う事の確認だった。
「………………」
じっ、と眼を細める。その少年はそこに居るだけで、外を彩る自然の創り出した絶妙の雪華結晶を霞ませる。
美しかった。
寒気がするほどに。身が泡立つほどに。
神童――――――そう、まさに神の子。
この少年は、天に愛されていた。
その瞳の、冬の夜闇の最も澄んだ虚空を切り取って、一切の不純物を排除し、混じり物の無いまま封じ込めたような色が表しているように。
この子は天が創るすべての人間の、美しい至純の部分だけを集めて創られたのだろう。
――――――だが、その瞳は。
ぼんやりと、この老人の皺で厚くなった瞼の間に埋まる目を覗く、眠るような眼差しは。
今、どれだけ明確にこの世界を映す事が出来ている?
本当に、この老人の像を結ぶことが出来ているのか。
眠り猫と謳われた戦国最強の小太刀、父の剣才を余す所なく受け継いだ天稟は、かつて彼の父を太祖と仰ぎその妙機を伝承し、己が物とした後も長きに渡り研鑽を深め、ついに自らの剣を興すに至ったこの老人の技の悉くを、水を飲み込むが如く瞬く間に体得した。
天賦の英才。
それは、その血と天の愛とが混ざり、絡み合って結晶した、至美なる宝石。
「…………」
――――――それなのに、なぜ。
なぜ、その陰りまで受け継いだ。
そこまで美しくありながら。その血筋と剣の神が生み出し得る、疑う余地のない最高傑作でありながら。
どうして“すべて”でなければならなかったのだ。
「……小次郎」
「はい」
「…………渡したい物がある」
見出した才、それは奇跡のように美しいもの。老人が生涯で出会った何よりも強烈なもの。
しかしそれは日輪ではなく。
高く、鮮やかでありながら、影を帯びて光る月のそれだった。
何故、天はこの少年をこれほどまでに完璧な形に創っておきながら、天衣無縫のままに地に生む事を拒んだのか。
「これは……?」
「その昔、お前の父君が朝倉家から拝領されたものだ」
「………………」
「備前長船兼光。紛れもなく、当代随一の名刀よ」
――――――それこそが天意であったと、今はわかる。
「これには、『物干し竿』という忌み名があってな」
「……兼光が、ですか?」
「この長さゆえ、な。兼光の中でも指折りの業物でありながら、使いこなせる者が居らぬ。故に無用の長物。斬れぬ刀、物干し竿」
静かな眼だ。本当に、静かな眼だ。
その髪の艶と同じ。
深い深い、黒。
揺らぎの無い瞳の光は、未だ人の血を吸わぬ、その異様に長い刀の無垢で妖しい輝きにも似て。
「小次郎、物干し竿を兼光とせよ」
天下無双と思えた時もあった。
西国の鬼・新免無二、京の神剣・吉岡憲法。
それらと同じ掌の指に数えられた事もある。栄光の時代、彼らと戦ったとして、遅れを取るなどとは露ほども思っていなかった。
「わしが師から得たもの、わしが自ら見出したもの、すべてをお前に託した」
力は失った。
誇りは穿たれた。
自信を見失った。
日輪は沈んだ。もっと強く、傲慢なまでに煌々と自らを誇示する太陽によって。
しかしそれも、今ならば許せる。
「これからはそれを振え。小太刀の冴、中太刀の妙を息づかせ、大太刀を振るってわしと打ち合い、立ち合い、その機を見定めよ」
穢された、「己」
故に理解出来た、天の玉たる才を。
「中条流のみでは足りぬと?」
「足りぬ。お前はそれには収まらぬ。人の身では到達し得ぬ剣、お前にならば振える」
画竜点睛を欠いた剣の神、その目を入れるのが自分の役目。
物干し竿を、兼光に。
この剣を極るべし。
「剣理を得よ。高みの境地に至るのだ」
堕ちた日輪なら、燃やし尽くして月を照らそう。
この妖しく煌びやかな月を、太陽よりも眩く照らそう。
命をやろう。
この抜け殻の肉体もその太刀に。
この枯れた血液もその刃に。
すべてを捧げ、それを失い、死の足音のする今、この刻に。
鐘巻自斎は、己の天命を知った。
「佐々木か! 水を差すな!」
得物の大斧を馬首の上で一度唸らせ、吠える。
スラリと長い四肢、引き締まった身体、線がやや細すぎる印象を残すものの、女の武人においては、かなり理想に近い肉体。
機能美もさる事ながら、造形としても美しい。
華雄。
「これは私とあやつの一騎打ちだ! お前が出る幕ではない!!」
身体中に力が漲っている。まさにそんな印象だ。
自慢の騎兵を解き放ち、圧倒的優位でありながら、あえて一騎打ちに応じたこのうら若い女戦士。
小次郎に怒鳴っている姿を見ると、孫夏との死力を尽くした打ち合い、それによる身体の摩耗は、彼女にとっては炎を炊き付ける追い風であるのだと思える。
風が強すぎると火は消えるが、火の方が強ければその圧力を駆って勢いを増す。
負担がかさめば疲労となって身体は萎えるが、血が巡れば身体は温まり活性化する。
今の彼女は後者なのだろう。
まさに今、その熱量と駆け巡る血液の回転数は最高潮に達しようとしているはず。
仕上がった身体で、最高の剣を振るう歓び。
振る舞いが体現していた。
――――――だが。
「……………」
果たしてそれはこの男に届いているか。
「――――――――…………ひどく、眠くてな」
多分に、否。
風のように、ただ周りを吹き抜けていくだけである。
「何度も舟を漕いで、馬から落ちそうになった
「……はぁ?」
「……………」
「昨日は早く寝たんだが。寝覚めが事に悪い。しかも行軍するに従ってみるみる――――――」
そこまでつらつらと言の葉を並べて不意に、目を閉じてゆっくりと、息を深く吸い込んだ。
血風の中、起きぬけの様に穏やかな深呼吸で。
「――――――まあ、そういう事だ」
やがて、その呼吸と同じ位にゆっくりと目を開けると、途切った残りの言葉は外に発されないままに、彼の中で空気に融けて吐息となった。
末尾の〆だけが形を留めたまま残っていて、余って吐かれた。
「いきなり出てきて意味不明な事を……こいつは私の首級だ!! 引っ込んでいろ!!」
「ああ……そうだ。圧してるにしては長々とやってるな、と――――――つまらなければ帰ろうと思ったんだ。が……」
――――こいつは岸の柳か。
激昂する華雄を気にも留めず、気ままにゆらゆらと揺れている。
その覇気に比べると、微塵も気迫など感じられない。
「なかなかどうして、そそられた」
超然としていた。
それは、直感。
武人としてではなく――――――多分にそれ以前の、人間としての根源的な嗅覚。
「獣のような若き猛者、圧倒的な兵力、倒れ伏す味方。それを留める、ただ一人の烈士」
騎馬の武威、それを率いる灼熱の烈将。
まさに「暴」をそのまま体現したかのような、破壊的な軍団。女子供、皆是兵。戦の民。馬上の住人。
――――――そのただ中にあって、この男の静けさはどうだ。
「刻が刻なら、戯曲になっただろう名も無い詩」
血埃を巻き上げながら猛り狂う、圧倒的な無秩序の力を誇るこの集団に在って、
その長身の優男だけが一切、その匂いを纏わず、まるで一面真っ白の空間にたった一人で佇んでいるかの如く、そこにいたのだ。
何物にも侵されず、ただ、静かに、そこに。
それが悟らせた。この男がどれほどの長い時間をかけ、いかに研ぎ澄まされ、磨かれて来たのかを。
――――――それは恐らく、凡百に在っては見ることすら叶わぬ、この上もなく絶対的な純度。
(たった一目だけで……交えずともわかるものか――――――)
少しだけ、笑みをたたえていた。
「長々と観る気はない。しかし終幕は見届けたい。なるべく早く、そして、近くで」
清澄ささえ感じさせる、怜凛な静けさで。
「矛盾していると思うか?」
その瞳は、美しかった。
深い深い、黒。
どうしようもなく濃密で、純一色なそれに魅入られて。
恐らくはその精強騎馬兵にあって、その人ありと讃えられていようとも何の違和も持たぬ、この華雄と打ち合っていた時にも流れる事はなかった冷たい血と汗が、沸騰しているそれに交じって一筋、背中と鳩尾を縦に割って、スッと流れて行った。
「……………………」
――――――――されど。
「…………舐めるなよ、若造ッツツ!!!!」
その男、一代の「勇気」に。
“逃げる”という選択肢はなかった。
「この命、この生涯……」
喝。
恵まれた剣才、そして勢い溢れる若さを併せ持つ、類まれな闘士との打ち合いで覚え始めていた疲労という名前の淀みは、今一度胆の中から吐き出された。
前へ。
戦うために、前へ。
未だに抜かぬ、この若造の微笑を掻き消すべく。
己と仲間と友の矜持を貫くべく。
前へ――――――
「剣、交えずして退かせられるほどに軽くは無いッツ!!!!」
この男の命。それに懸けた誇りと想い。
それが、恐らくは常人では埋める事の出来ないであろう、絶対の一歩を進ませた。
馬を蹴らせて、向かってくる。
強大なる兵の流れに逆らうように、たった一騎で向かってくる。
それは恐らく剥き出しの魂そのものであり、振り上げた戟にはプライドが乗っていた。
「――――――それでいい」
長い指が、そっと絡む。
左の掌、背中に背負った兼光のこじり。
それと同時に合わさった右手の小指と柄。
実によく馴染んだ手応え。
もうずっと、幾十年、何千万度と繰り返して来たかのように感じられる動作の感触。
迫る敵、振り下ろされた、銀の牙。
誇りと命と魂の、すべてを込めた袈裟掛けの一撃。
果たしてそれは、届いたか。
微笑は消えなかった。それどころか、ふっと歯を見せるような、ため息のような笑みが僅かに零れた。
目の端に移った、般若の様な華雄の顔。両かかとの手ごたえを腹で感じ、首を使いだした素直で賢い乗り馬。
景色の様な、流れていく騎兵、薙ぎ倒されてゆく歩兵。
そのずっと向こう、ちらりと米粒の様に、小さく見えた土煙り。
それらを覆い包む様な、高い青空。
そして目の前の男の、戟の向こうにある表情。
命の光りの一番強く輝いている部分さえも。
全て一切が、その眼に濁り無く澄み渡って見えていた。
――――――人生の大勝負。
冷や汗すら掻かせる相手に立ち向かっていった俺を。
今生の遭世で、二度と出会う事はないであろう剣と相対した俺を。
見てくれているか。
例え閻魔の使いか、天の御剣がこの身を斬り裂こうとも。
お前の誇りを奪わせはしない。
一閃。交差した二対の鋼光。
しかし、噴き上がった紅は一筋。
「死者の声は永遠」
魂の豪打。
それよりも速く、後から放たれた真円が如き完璧な軌跡を描いた神速の剣が、光の様に通り抜けた。
「故に、二度と震えぬ」
振り下ろされた戟、それはあるべきところには無く、慣性のまま空を舞った。
まさに打ち込まんと旋回させ、引いた左手から零れていった。右腕の肘から先は戟に添えられたまま、同時に投げだされるように落とされた。
その美しい顔の眉間を捉える刹那、物干し竿の通り道にピッタリと重なった首と一緒に。
備前長船兼光の刃は、その走る所に存在した全てを斬り棄てて行った。
戟の一打も、それを放った肉体も、命も、魂も。
「――――――お前の詩に還るがいい」
笑みは消えていた。
残ったのは陶酔の残滓。
楽しい物語を読み終えてしまった後の喪失感。
物寂しく。
佐々木小次郎の剣は、全ての熱を凍えさせた。
――――――友よ、どこに居る?
笑っているか。
その夢は未完か。完結だったのか。
魂の残り火、刎ねられた首は。
友の姿を捉えていたか?
終幕を迎えて。
―――――誇りは生きていたか。
その答えは彼しか知らない。
そしてそれは、彼だけが知っていたらいい。
誰にも触れられぬものであれば、救われていたのだ。きっと。
犯されざる、真実が――――――
逢魔ヶ刻動物園は面白いですよね。あの人は良い漫画家。
大熊登場からのサラブレッド登場の流れが素晴らしいよね。
動物園は続いてほしいわあ。あの人は良いよ、画力有るし。
掲載順位危ういし、新連載始まってるし……ちゃんと買うかぁ、ジャンプ。購読者さんはアンケ入れてください、お願いします。
多分打ち切られたらリアルにテンション下がる。剣豪漫遊記の完結が2年遅れるくらいには下がる。