邂逅編・第二話
「姓は宮本、字が武蔵か……ふむ」
「………字?」
字とは、明で使われた人名の一種である。
諱を呼ばないために使うもので、たとえば武蔵は諱が玄信と言って武蔵が通名にあたるが、基本的にそれを「字」という人間は主に明の方の人間だ。
「変わった名前ですねー」
「南方の出身なのですか?」
「どっちかというと西の方なんだが……」
思えば先ほどから妙であった。
考えてみればこの程立、戯志才という名も明らかに日ノ本では見ない名で、むしろ漢民族のような名前である。
何よりも「宮本武蔵」の名をまるで聞いたことがないかのように話すこと。
武蔵の意思に関係なく、その名は天下に知れ渡っているのである。このような反応は滅多にお目にかかれない。
―――――――どうも、おかしい。
先ほどからの特殊な状況に混乱していた武蔵であったが、
「―――――武蔵殿、私と手合せせぬか?」
武蔵の混乱に拍車をかける女が、そこにいた。
「いきなり何だ?」
「だから、手合わせ願いたい、と言っている」
自分と手合せを願いたい。そういう人間は、それこそ売るほどいた。
かの「宮本武蔵」を倒し、名を上げる―――――血気盛んな若武者にはそういう野心をもった沢山人間がいる。
仕官のための売名、もしくは兵法者として「俺は強い」という箔付けが欲しい。それは武蔵がかつて吉岡一門にしたことでもあった。
「……なんのために?」
だが、目の前の少女は宮本武蔵を知らない。
それなのになぜ自分と戦いたがるのか。あるとすれば、ただひとつ―――――――
「誰よりも強くありたい。誰だって思うことだ」
星は槍を一度頭の上でぐるりと回すと構え直し、その切っ先を武蔵へと向けた。
「強き相手に出会えば血が騒ぐのが武人であろう?」
ただ、戦いを求めている―――――――そういう人間が、稀にいる。
強さの果てを見てみたい、それだけの理由で戦い続けられる人間がいる。
「お前は抜き身の刀か。親からもらった身体を、どうして大事にしないかねえ」
「そういうな。その剣、鞘に納めてあるだけの飾りというわけではあるまい?」
刀を抜けということ。恐らく彼女には、その意味が分かっている
何を疑いもせず、命を賭ける事を恐れず、出会ったすべての者に戦いを挑む。それはまるで――――――
「……一度抜けば」
武蔵はその凛とした立ち姿に、特殊な感情を抱いていた。
危うさを。そして、懐かしさを。
何処かで、見た様な気がした眼。
「死ぬまで、戦い続けることになる」
武蔵は太刀を抜くとそれを地面に突き立て、かわりに鞘を帯から抜いて手に取った。
「さ、来い」
刀ではない、鞘。
そればかりか、武蔵は構えすらとらず、ぶらりと両手を下げ、足はそのまま肩幅に開いたまま。
そうして、おもむろに「来い」と。
――――――私の穂先を、その目線の先と結んでいるにもかかわらず。
星はそれを受けて、その柳眉を逆立て、わずかに眉間にしわを寄せた。
「………この趙子竜も、舐められたものだな」
「チョウシリュウ?」
武蔵が一瞬、いぶかしげな表情を貌に浮かべる。しかし、それはその口から突いた名に対してであり、次にはもう、平静の眼になっていた。
その適当な構えか、鞘で立ち会われたことに対してか、あるいは両方かは知らぬが、彼女のその、飄々とした立ち姿に余計なこわばりと、眼に一抹の怒りが宿ったことを見てとったからだ。
(――――――危うい)
「………はっ!!!」
星は声とともに一瞬で間合いを詰め、武蔵の胸元目掛けてその槍を放つ。
間違いなく天賦の才に愛された、綺麗で速い良い突きだった。
だが――――――
「………!?」
その突きの先には貫くべき胸は無かった。かわりに羽織をばたつかせただけだった。
武蔵は左足を軸にして右足を回転させるように引き、半身になってその槍を躱していた。
恐らくは、決めるつもりだったのだろう。かなり前方に重心を持っていった構え。しかし星は無防備だと思っていた武蔵に槍を外され、その懐深くまで突っ込んでいた。武蔵の身体スレスレの打ち込みであったがそれ故に、死に体になってしまっている。
―――――カン、と、パン、の中間の音。小さく、乾いた音がした。
星の先手の一つ後ろに打ち込まれた武蔵の鞘は、派手でもごつくもない、一発の拍手のような音を立てただけだった。
入った、とは言えない、ただ当てた、もしくは置いた、というだけの打ち込み。
しかし、それだけのことで星は大きく後ろに跳んで、武蔵の間合いから脱出した。
「…………っ!」
詰まるような表情を見せ、そこから一気に退く。そうして足が落ち着くと、ふーっ、と、深い所から空気の塊を吐き出した。
息を整え、先ほどより広く間合いを取って武蔵を見る。相変わらず両手はだらりと下げて無造作に足を開いた自然体。簾た髪の中から覗く、眠たげな眼。
だが、彼女にとってそれは、さっきまでのそれとは全く異なるものだった。
彼女だけには、さっきはまったくの隙だらけに見えた構えが、今は一寸の隙間も無いように感じられていた。
両者はそのまましばらく、一定の間合いを保ちながら見合っていたが、
「星ちゃん、お兄さん、もうお開きみたいですよー」
程立のおっとりとした響きを含む一言によって、立ち合いの空気は唐突に打ち切られた。
見れば遠くに砂塵と曹の旗。それが地響きを立てながら、こちらに向かってきている。
「官軍か………」
「……得物を突き合わせて立ち会っている所を見られると、少々面倒なことになりそうですね」
戯志才に暗に諭されて、趙子竜は槍を引いた。
それを見て武蔵も地面に突き立てていた太刀を引き抜き、鞘におさめる。
「趙子竜」
「………?」
武蔵が声をかけると、程立達と話していた彼女が振り向く。
盗賊共を追っても息一つ乱さなかった彼女だが、今は額に若干の汗を滲ませていた。
「殺すつもりだったのなら声を出さずに殺せ。そしてなるべくなら………あまり、気の向くままに戦うのはよせ。命の懸け処など、放っておいても向こうからやってくるものだ。つまらん奴に斬られる事ほど、つまらん事も無い」
武蔵は鞘を再び腰に収めると、険しかった顔を柔らかくして言う。
「お前は余計な力の抜けた立ち振る舞いのいい女だ。それを忘れなきゃ、今よりずっと強くなれる」
「………………武蔵殿」
彼女は武蔵の方に向き直ると、はっきりとした口調で告げる。
「私の名は趙雲。字は子竜。……真名は星だ」
「星!?」
「………」
真名を明かした星に戯志才は声をあげて驚く。
だが程立はそれとは対照的に、ただ上目使いで星と武蔵を眺めていた。
「それでは、御免!」
「ではでは~♪」
そして三人はあっという間に姿を消した。
そうして、次に武蔵の前にやってきたのは――――――
「………随分まあ、大所帯で来たもんだ」
武蔵の周囲をとり囲んだのは、騎馬の群れ。たった一人を囲むには、ずいぶんな大人数である
「華琳さま!こやつは………」
「……どうやら違うようね。連中はもう少し年かさの、壮年頃の男だと聞いているわ」
「どうします? 連中の一味の可能性もありますし、収縛しますか」
騎兵を合間を縫って出てきた三人の―――またも女だ。特に真ん中の女は、武蔵にしてみれば孫と言っても過言ではないような幼げな少女。
彼女を中心に、なにやら武蔵にとっては穏やかでない会話を繰り広げている。
「そうね……見るからに普通の民間人ではないようだし、とりあえず連れて行きましょう。半数は残って辺りの捜索を続けなさい。残りの者は一時帰還するわよ」
「はっ!!」
(俺の意志は無視か……)
「星ちゃん、どうしたんですかー?」
先ほどから口数少なく、険しい顔で何か考え込む星を見て程立が声をかける。彼女がこれほど深く考え込むのは、メンマ絡みをおいてそうはない。
「本当に。あんな出会ったばかりの男に真名を許すなんて」
恐らくさっきの立ち合いが原因なのだろう。戯志才は唐突に真名を明かしたことについて、そう問うた。
「……斬られていた」
「何?」
真名を明かした由来の代わりに返ってきたのは、あまり穏やかではない回答。
その言葉に、戯志才は訝しむ。
「いや、実際にはわからぬが……少なくともあれは、並の達人ではない」
「そうですかー。星ちゃんが言うんだから、そうなんでしょうね~」
「ふむ……素人目には、あの男が辛うじて星の槍を避けただけのように見えたのだけれど」
思い思い、思い付いただけの様に、言葉を紡ぐ。
(……辛うじて?)
だが、趙雲だけはその口に重さがあった。
(辛うじてではない。あれは私が追い込んだのではなく、「呼び込まれた」のだ)
わざと無防備な無形の形で構え、打ち気を誘う。
足捌き一つで突きをギリギリでかわし、体を残したまま自分の間合いへと入らせる。
そして星の槍に鞘が当てられたのも苦し紛れの一打ではなく、「いつでも打てる」という意思表示
そこに星の油断があったことは確かである。
心の一角にあった密かな「負けるわけがない」という慢心故に立ち会い、そして自尊心から来た怒りが、あの不用意な突きを打たせた。
しかしそれ以上に、それは武蔵には星の槍がはっきりと見えていたことを意味する。
盗賊ども相手にたった一度見せただけで星の槍は見切られていたのだ。それどころか、ともすれば油断と危うさにつながるその誇り高い気性すらも。
星は武人として随一の実力を持っているが故に、あの一合のみで武蔵の力量を理解することが出来た。
そして真剣ならどうなっていたかも――――――
考えてみれば、これ書いたの一年以上前だよなあ。読み返すと非常にこっぱずかしい。