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黄色頭巾編・十一話


「――――――――黄巾党?」

「ええ。巷じゃあそんな風に呼ばれてるんですがね」


そう混みあいはしない茶屋。軽めのつまみを傍らに、机に置かれた碁盤を挟んで、武蔵と店の親爺とが、ゆるりと安い酒を呑む。

朝と昼のちょうど間の時間帯。真人間なら働き盛りのこの時分。昼時と、仕事終わりの宵時にはガヤガヤと賑わうこの店も、今は客もパラパラで、酔い潰れたのと暇そうなのが、二、三、居るだけである。

つまり、仕事が無く暇を持て余している店主と酒を交わすこの男は、およそ真面目な人種では無いと言う事だ。


「黄色い頭巾で黄巾? …………おい、四丁だぞ。さっさと切れろ」

「ええ。なんでも一様に黄色い布を頭に巻いた、妙ないでたちの連中が暴れまわってるって話で…………いや、全然逃げられるじゃないですか。変な揺さぶりかけないでくださいよ」


濁酒をちびちび嗜みながら、肴にするのはチャチなメンマと、騒ぐ世間の暗い話題。

会話の間に挟まれる、パチリ、パチリと、碁石を叩く背景音。

目まぐるしく動き回る浮世の中で、この空間はぽつりとそこから取り残されて、時の流れが緩やかだった。


「暴動かよ」

「ええ。危なっかしいってんで、旅の客も随分少なくなりましたよ」


楽しむ酒は、いっぱしの「大人」である武蔵らにとっては少々薄い。

だが、まだ日の高い時分、口寂しさを紛らわすにはそれでちょうど良かった。


「どういう集まりなのかねえ……」

「さあ……でも、反乱蜂起……と、言いますか? そういうのでは無いみたいで……」


これで煙管でもあれば最高だが、と武蔵は思うのだが、あいにくそこまで気の利いた代物は無かった。

強固に陣取る黒石を、如何に斬り裂き攻め落とすかが、今の武蔵の楽しみだ。


「と、言うと?」

「いやね、官軍が来ると蜘蛛の子散らすように逃げるらしいですわ。どうも戦う気が無いらしくて、集まって騒いでるだけらしいんですよ」


その取り締まる側の官軍として、思い切り当事者である武蔵だが、本人はまるで瓦版でも眺めている一般民衆のように、その件に関してはあくまで世間話程度に、専ら、盤上で来るべき決戦のための布石を作る事の方に、その心を注いでいる。

これが誠実な官吏――――――春蘭あたりであれば、義憤や責任感に燃えたりもするのであろうが、あいにく、この男にそういうのは全くないらしい。

それよりも重要なのは、黒の牙城を囲い込み、その地を荒らし、崩すこと――――――目の前の、余暇の遊びの勝敗だった。


「そりゃきっと、若けーのの集まりさ。アカを気取って流行りに乗って、適当に騒いでんだよ……さてと」

「それでも、やっぱり皆怖がって、治安も悪くなるもんでねえ。頼みますよ、旦那……おっと」


雑談にも一通り、腰の区切りがついたところで。

白と黒、地の境界を寄り合わせながら、絶妙に保たれていた均衡にピシリと楔を打つように、白石が、黒の陣地に切り込んだ。






「――――――もらうぜ。その国」


武蔵はその一打から、指を離して不敵に笑う。

それは鉄壁の城壁をこじ開けんとする、強引にして、挑戦的な一撃。


「ふむ。これは凶猛な一手。ですが……」


しかし黒い広大な版図の主は、その一打に動ずるでなく、静かに、柔らかに受け止めて、右手を碁笥の中に沈める。


「みすみす通すわけには――――――」


そして盤面から顔を上げると、酒を少し多めに含み、武蔵と瞬き一つ分だけ目線を結んだ。


「――――――いけませぬなッ」


一拍の後、若干、盤に戻った双眼が細められると、その右腕が翻り。

碁笥がジャラリと音を立て、抜きとられた黒石が、決戦に応ず一打となって、戦場に放たれる――――――







「…………おぉ~~~~い、おやじーぃ。みず、水くれえ、ヒック…………」


――――――拍子が、抜かれた。

親爺の打ち込まんとした黒石は音を立てず、空中でピタリと止まる。

武蔵は気を抜かれたように目を閉じて、鼻で息を深く吸いながら、ぐぅっとふんぞり返るように身体を反らした。


「……あのお客さん、まぁた奥さんに逃げられてしまったみたいでしてねえ」

「前もいなかったか?」


いくつもの酒瓶の転がっている、四人がけほどの机。

そこに一人、ぐだりと突っ伏して呻いている客を見遣ると、二人は顔を合わせて互いに苦笑いを浮かべる。


「……早く持ってってやらんと、大変な事になるぞ、アレ」

「確かに、店で吐かれちゃあ堪んないですからねえ」


蒼白色の顔をして小刻みに震えだしたお客を見て、そそくさと店主の親爺が席を立つ。

立ち上がりざまに投げ放った黒石は、見事に碁笥の中に納まった。


「ああ、旦那! 私がいない間に、盤面いじったりしないでくださいよ?」

「約束は出来ねえな」


武蔵はヘラヘラと笑いながら手を振り、備え付けの水差しを抱えて、少し離れた机に小走りで寄って行く親爺を見送った。







「………………ふぅむ」


しばらくして手持ち無沙汰になった、武蔵の眼の色が戦局を凝視するでなく、ただ盤を眺めるものへと変わっていくと、頭の中に幾許かの余白が生まれた。

その、空いた空間ふわりと浮かんできたのは、先ほどの――――――――


(――――――――黄巾党、ねえ…………)


ぎぃ、ぎぃ、と椅子を二本足で傾けながら、視線を前や天井へと遊ばせて、武蔵は思索に耽っていく。


――――――黄巾の乱。

大小延べ百を超える農民蜂起の勃発した後漢王朝に置いて、最も大規模かつ、全国的に展開された、民衆の大暴動である。

かつて、新末の大乱より劉秀と言う巨人によって形成された後漢、その大帝国に導かれた中華の大陸は。

二百年の刻と共に経て、撒かれてきた来た乱の種。戦と貧困。病と飢え。

つまりは賄賂政治による過剰な搾取に反発する民衆の度重なる暴動、この時期の東アジア広域を襲った急激な寒冷化に連なる疫病の蔓延と不作から為る飢饉が、中華に生きる民を限界まで傷めつけ、その地は民草の血の涙も枯れ果てる焦土と化し、人が人を喰う、この世の地獄となり果てた。

そんな進退窮まった時代の、一番末期に出現したのが黄巾党。

彼らの始まりは、「太平道」という教えを説く、張角という男が始まりだと言う。

拠り所とする故郷が死の大地となり、宗教に救いを求めた彼らはやがて、火を滅ぼす土の色――――――黄の色を頭に巻いて、秩序を壊す乱を掲げた。

荒廃する秩序を滅した、まっさらな更地の上に、安寧を求めて。

乱と黄色に平和への願いを託し、血を吐く思いで中黄太乙を叫び続けた。

それが、歴史の伝える彼らの姿。黄巾党は、困窮に耐えかね暴発した、虐げられた流民の反社会集団であった。


――――――だが武蔵の思索の向かう所は、そういう史的背景ではなく、もっと局地的な問題である。


(……あの三人……か?)


武蔵の脳裏に浮かんだのは、「こちら側」に来て初めて出会った、あの三人―――――

黄色の頭巾。そして「賊」という職業。彼らの出で立ちを見て武蔵が真っ先に連想したのは、まさしくその黄巾党であった。

彼らがその「黄巾党」を知らないと言ったのは、嘘なのか、それともその呼び名が付いたのが最近、つまり、単にであった当時は、黄巾党という名前ではなかったのか。


(嘘だとすれば……仲間が芋づる式になるのを防ぐためか?)


いずれにせよ――――――華琳らの軍に参陣した当初、つまり三人組の件があった頃は、黄巾の噂など無かった。つまり、その時点ではそれほど大きな勢力ではなかったと言う事だ。


(聞くようになったと言う事は……)


武蔵の眼が再び、対局途中の盤面へと赴く。

頑強を誇る黒の領土に、白が一つ食い込んでいる。

それは未だ地を潰すには至らぬが、やがてその強固な地盤を、荒らし滅ぼすための布石。


(…………乱の芽)


黄色い布もまた、巨大な火の国を食らい尽くす一石と成り得るのか。

限界一杯まで水かさを上げた堤防に、一滴の水と共に一筋のヒビが入り、やがて激流となって決壊させるように。

落とされた乱の雫は、やがて波紋となって全土を覆い、この国を一挙に終局へと向かわせるべく、焼き尽くし――――――


「……崩壊させよう、な」


――――――武蔵の声ではなかった。

巡らす思案にのめり込み始めた武蔵の頭上から、不意にその声は飛んできた。

それは、最近耳慣れるようになった、女にしては比較的低めな、艶のかかった凛とした声。


「故に、国を犯す火種は――――――――」


振ってくる声と合わせて放たれたのは、黒の地に深く侵入した白の連絡を、真っ二つに断ち切る一閃。

その眼の覚める一打に、おもむろに顔を上げた武蔵の目に入ったのは――――――

暗淡とした黒石に良く映える、白魚の様な指。青のドレスに、そこから伸びた眩しい太腿。


「ひとつ残らず摘み取らねばならん」


してやったりとした顔で微笑む、秋蘭であった。


「……せっかく、帝国を踏みつぶす反逆者の気分でいたのにな」


武蔵は憩いの時間が終わるのを感じて、気だるそうに頬杖をついた。










「……以上で報告を終わります」

「そう。ご苦労だったわ。春蘭、季衣」


軍礼を取って戦果を報告する春蘭と季衣に、華琳が凛とした声で了承を告げる。

政庁の一角にある、飾り気なく、大きな机と備えの武具が調度されている広間には群臣の姿なく、居るのは春蘭や桂花ら、曹操軍の主だった首脳陣。

そして店の親爺との対局も中ほどに、未決着のまま秋蘭に引っ張って来られた武蔵を含め、数名のみが集っていた。


「して、やはり?」

「はっ。暴徒共は例によって、黄色い布を頭に巻き付けておりました」

(……?)


黄色い布。

その言葉に既視感を覚えたのは武蔵だが、恐らくその表情の微妙な揺れに気付いた者はいない。

その違和感も流されて行くように、軍議は進行していく。


「すでに我が州のみならず、徐州、豫州、さらに河北の青州や冀州でも同様の暴動が発生しているとの事」

「ふむ……どうやら、一貫した理念に基く蜂起とみて間違いは無いようね」

「恐らく」


中心の大机に広げられた地図を介しながら、分析と思考が行き交う。

件の賊の出没地点を示すために敷かれる碁石が、机上の漢土を黒く、黒く覆っていった。


「黄巾党か?」

「黄巾党?」


武蔵の不意に漏らした一言に、交錯していた思索の流れが止まる。

机上に注がれていたすべての眼が、武蔵に移った。


「さっきそこで呑んでたら噂聞いてな。黄色い布を頭に巻いた妙な連中が暴れていると」

「…………成程」


武蔵の言う、民の噂。

それはその存在そのものが既にある答えに達している。

それはつまり、黄色い賊徒の蜂起による、民心の乱れ。

即ちその賊――――武蔵の言う所の黄巾党が、漢にとっていよいよ無視できない勢力になっている事を表している。

その進言が、何よりもその事を如実に物語っていたからこそ、華琳は何も言わず、ただ一瞬、ちらりと地図に眼を流しただけであった。


「お前の言うように一貫した意志の下、行動しているのなら……各地の暴動は枝葉だ。幹を叩かにゃ、どうしようもあるまい」

「……だがな、捕えた捕虜を尋問しても、一向に首魁の名だけは口を割らんのだ」

「ほう。攻めればすぐ逃げるのにか」

「ああ」


武蔵の問いに答えを呈したのは、すぐ右隣りに居た秋蘭である。


「名前もわからず、目的もわからず……まるで正体不明か」

「そう言うことね……今の所、暴動の発生を逐一確認して、それを一つずつ対処していく事しか出来ていないのが実情よ」


桂花の言は、言葉通りそのまま、官軍の対処が後手後手に回っていることを意味していた。

他の地方に比べ、比較的秩序の保たれている華琳の所領ですらそうなのだから、恐らくそういう水準の低い、賊の温床となっているであろう地域の状況は、想像するのも気が滅入る。


「けど、その黄巾党の名は丁度いいわね。以後はその名で呼びましょう。武蔵、あなた他に情報は?」

「この耳で直に聞いたのはそれだけだな……『読んだ』知識なら色々あるが、要るかね?」


華琳は机に添えていた手を離して、一歩武蔵の方に歩み寄ったものの、それを聞くと、瞳の中の興味の色が陰った。


「それはいいわ」

「そうか」


武蔵はそれに対して別段、喰い下がりもせず、ただ相槌を打つ様に返事を返しただけ。

むしろそれに疑問を発したのは、未だ少し、鎧に軽くほろったのであろう土埃の痕をつけている、春蘭であった。


「華琳さま、宮本の未来の知識、使うのでは無かったので?」

「文明は参考にさせてもらうわ。けど、伝説では使い様がないわね」


春蘭にはそれだけ言って、腕を懐に仕舞って引っ掻けている武蔵に目配せする。

全て分かっているのなら言葉遊びの様なことなどしないで、自分で説明すればいいのに、と言う考えが、ちらりと武蔵の頭をよぎったが。

その後すぐ、自分が説明した方が早くカタが着くという結論に達したようで、おもむろに髭の感触の無い自分の顎に左手を添えた。


「俺の知ってるこの時代の出来事は、史実であって事実じゃない。実際、現時点でも俺の知ってる歴史と、この世界の『現実』とは、所々でズレがある」


例えば曹操が男じゃなくて女だったりな、と言う言葉は、口の中で呟くだけに留めておいて、武蔵は続ける。


「俺の知ってる歴史ってのはお前らにしてみりゃ多分、寓話の物語みたいなもんなんだろう。きっと、俺が知ってる黄巾の蜂起や顛末も、この世界のそれとは違うはずだ。だから俺の知ってる黄巾党の知識を話しても、恐らく参考にはならん」

「う……うぅん……??」


武蔵はやや長めに、丁寧に春蘭に語るが、彼女は例によって頭を抱えていた。

まあここで即座に納得出来るようであれば、それはもはや春蘭とは呼べないかもしれないが。


「ま、ようするにだ、」

「この男の言う事は胡散臭さ極りない、占い師の予言の様なものであって、全くもって一切信用出来ません、って事よ」


――――そう武蔵の継ぎの台詞を横から掠めて、話をまとめた桂花は、この上なく堂々と薄い胸を張って、身体の小ささを一切感じさせないような、自信に満ちた威容を誇っていた。


「おお!! つまり今回、宮本は役立たずと言う事だな!!」


そんな桂花の言葉を聞いて、春蘭は竹を割ったように納得し、ポンと手を打ち鳴らす。

武蔵と言えば、発しかけた言葉の行く先もないので、そのまま口を閉じたまま、いかにも含みでもあるかの様に、二、三度、軽く頷いていた。

その顔は、あくまで余裕たっぷりだったらしい。

秋蘭と華琳は、まさに一刀両断に斬り伏せてやったような、そのあまりの小気味良さに、笑いを堪えていたそうな。


「ま、とにかく情報が必要ね。何か他の情報を――――――」

「――――――申し上げます!!」


そうして話が一段落して、華琳が次の段階に進めようとしたとき、慌ただしく一人の兵士が、唐突に会議の間に割り込んできた。








「何事?」


急に会議を中断させたその行いは不躾と取れぬでもなかったが、華琳はその事は咎めず、その兵卒に先を促す。

礼を繕う余裕無く、額から汗を滴らせ、切れる息を必死に整えているそのさまは、事が火急を要する事を悟らせるには充分であった。


「はっ! 南西の村で、新たな黄色い布の暴徒が発生したとの由!! その数、およそ三千!!」


三千人――――――その報告に、居合わせた全員にピリッとした何かが走り、場の空気は一瞬にして張りつめた。


「一足遅れたな、華琳よ」


その数は、すでに暴動という事の程で済ませられるものではなかった。

国軍を脅かすだけの規模を備えた、明らかな武力蜂起と言っていい。

それはつまり、たまたま集まった人の群れではなく――――明確な目的の下、召集された、れっきとした一個の武装集団であるという事。


「……桂花、今動かせる兵はどれほど?」


一度武蔵と目を合わせた後、華琳は若干、苦虫を潰すような顔を見せたが、行動は冷静に、傍らの軍師に手早く必要案件を求める。


「……掻き集めて、八百がやっとかと」

「ならば、それを先発隊として派遣しましょう。その作成の後、すぐに各地の遊軍や防備に当たっている兵を整理して、後詰めの軍を編成なさい」

「はっ!!」


任を承った桂花はそのまま踵を返して、足早に会議室を後にする。

とはいえ残っている者たちも、のんびりと構えている余裕はどこにもない。

また、のろのろとしている程、彼らは鈍重でもなかった。


「秋蘭!」

「はっ」

「先発隊の指揮はあなたに任せる。兵が動ける状態になり次第、それを率いて現場へ急行しなさい」

「御意!」

「それから――――――」


一度方針が固まれば後は即決、流れるように華琳の指示が飛んで行く。

急報にも即座に対応できるのは、さすがは曹操とその幕下と言えようか。


「――――あっ、あの! 待ってください!!」


だが、それに待ったをかけたのは、意外な人物の声だった。


「季衣……」

「ボクもっ! ボクも行かせてください!!」


今までやや奥に控えていた季衣だったが、この段になるや、ぐいと華琳の前に進み出て、強い語気を伴って、従軍を申し出て来た。

その眼には、煌々と火が燈っている。


「――――――ダメよ」


だが、華琳はその強い眼差しを通さない。


「どうしてですかっ!!」

「季衣……最近、お前は働き過ぎだ。今日とて、私に従って出撃してきたばかりではないか」

「疲れてなんかいません!! 今すぐにだって行けます!!」


激し気味な季衣を春蘭が窘めるが、彼女は相変わらず食い下がる。

平静穏やかな、何より目上の者の言う事を素直に聞く彼女にしては、この反応は珍しかった。


「……今回の先鋒としての任務には、あなたは不向きよ。今回は後続で私の護衛として従ってもらうわ」

「で、でもっ……」


――――――論理的に考えれば華琳の言は、確かに的を射ていると言えた。

先発の八百は敵を倒すための八百ではない。敵を引きつけ、後詰めが来るまでの日数を、のらりくらりと粘るための八百だ。

故に、先発隊には一刻も早く現場に辿りつく機動力と、多勢を相手に損害を最小限に抑えて立ちまわる持久力が要求される。

よって、そのような器用な戦い方があまり得意な方でなく、また参陣してから日が浅い季衣には、なるほど不向きと言えるだろう。

なお付け加えるなら、後続に回って華琳の護衛を果たすと言う役目は、彼女の持ち味を最大限に活かせる立ち位置だとも言えた。


「ボクは、ボクの村みたいに困ってる村を、悪いやつらから助けるために、軍に入ったんですよ? ここで行かなきゃ、戦う意味がありません!!」


なればこそ、華琳の頭の中に既に完成しているであろう、組み上げられた作戦図には、先発隊の陣の中に、季衣という駒は置かれていない。

それでも彼女が譲れないのは、彼女の戦う理由にある。

季衣が華琳に付いてきたのは、自分の様な無辜の民を、戦火の焔から救うため。

それがために、彼女は民の救済の戦には、常に最前線にいなければならぬのだ。

例え数日でも、自分と同じような境遇の人間を前に無為に時を過ごすのは、彼女にとって耐えがたい事だった。


「きっと季衣を前線に送ればその分、あなたの目の前に居るであろう何人かの人間は助かるでしょうね」


華琳は季衣の満月色の眼を見据えたまま、遊ばせていた手を自身の腰に当てる。


「でも、その何人かのために何万もの他の人間が犠牲になるかもしれない……」

「じゃあっ、その何人かは見捨てるって言うんですか!!」

「――――――するわけないでしょう!!」

「っっつ!!」


空気を破裂させるような、激しい怒号だった。

その一喝にそれまで食い下がっていた季衣はびくりと震えて、部屋には全く、すべての音が消え去った、静けさが落とされる。

シン、と空間が震えた余韻が鳴ると、訪れた静寂の中に一瞬だけ間をおいて、華琳の怒りの色は残らない、けれど強さのこもる凛とした言葉達が、一筋に流れ始めた。


「幾人も助けるし、万人も救ってみせる。その両方を救うために、あなたには然るべき所で働いてもらうの」


華琳の双眼は相変わらず、季衣の眼をまっすぐに射抜いていた。

その、決して優しくはない眼差しに、季衣が不安を煽られたのを察したのか、秋蘭が彼女の右肩にポンと手を置く。


「今日お前が助けるはずだった数人は、必ず私が救ってみせる。だからお前は、明日の万人を救うために、華琳さまを守ってくれ」

「秋蘭さま……」

「――――――武蔵!!」


季衣は未だ、言葉を噤んだままである。

だが華琳の眼はすでに彼女から外されて、それは一人、乖離しているように、右手を懐に突っ込んだ格好で壁に背を持たれながら、一連のやり取りを瞳を揺らさずじっと見ていた、武蔵の方へ向けられた。


「あなたは秋蘭の副官として、先鋒に参加すること。桂花の方で先発隊の編成が整い次第、すぐに出立なさい!」

「……承った」


その武蔵の言葉には、一片の揺れも見られなかった。

ただ、その声はいつもより、喉の奥から出したように低かった。







「…………」

「ボーっとしていると馬から落ちるぞ、宮本」

「ん? ああ」


馬上に跨る、武蔵の居所。それは八百の勇姿を統べる秋蘭の傍ら。

桂花が半日足らずで集めた兵は、急な召集にも関わらず、何よりも先んじて迅く戦場に向かい、倍を超える敵兵に挑まんとする、決死の集いだ。

そういう最中に居るのに、相変わらず武蔵は、まるで自室に居るかのような、気の抜けた佇まい。

まるで浮世と隔絶された自分の世界に入っているかのような、そのさまは、見る人間によっては真剣味が足らないと映るやもしれぬ。

もっとも、こういう彼の態度はもう見慣れつつあるので、彼女も何も言わなかった。


「…………」


上の空に見えた、彼の脳裏に甦っていたのは――――――――――






「――――――あら、まだ居たの?」


先遣として秋蘭に追従する御沙汰の下った後、彼は城壁に居た。

やや強い風に吹かれて、流れゆく雲間を眺めながら、いつもと変わらぬ穏やかで柔らかな佇まいで、武蔵は居た。


「ちゃんと準備しておきなさいって言ったでしょ?」

「着替えたぞ」


そう言って武蔵は袖貫を備え付けた腕で、羽織っている錦の羽織を示してみる。

その裾を、風がばたばたと巻き上げていった。


「……もっと他にやることはないのかしら?」


華琳はため息交じりに、空に視線を飛ばしたままの武蔵の横に立つ。

近くまでくると、彼の立っていた場所の辺りが、意外に肌寒い事に気が付いた。


「季衣と話したよ」

「……どうだった?」

「少し堪えてたみたいだけどな……ま、大丈夫だろうさ」

「そう……」


高所を巻いていくとき独特の、やや乱暴な風が二人を撫ぜていく。

それは彼女の金髪を揺らし、また彼の赤茶色の髪を散らした。


「――――――俺は、子供が好きでな」


武蔵のつぶやきの様な声が、風に乗って華琳の耳に届く。

あいかわらず、武蔵は空を見ていた。華琳と会話していながら、その意識が一体どこに向かっているのか、華琳からはそのすべてを推し量る事は出来ない。


「何があっても大人が守ってやらなきゃいけないもんだと思ってる」

「…………」


華琳は武蔵の続けて行く言葉に、何か応じる様子もない。

相槌も打たず、武蔵の言葉を聞いているだけ。


「だけど、俺がお前らよりもっとずっと小さいガキの頃、俺に容赦なく死ねと言った大人は沢山いたよ。こいつは忌子だ、殺しちまえと」


それでも、武蔵の言葉は滞る事は無く、風に乗って流れて往く。

あくまで、ゆるやかに。


「俺はそんなもの、下らん迷信だと思っているが、そいつらにとってそれは、抱くべくして抱いたものだ」


華琳は武蔵の幼きを知らない。けれど彼が語ったその境遇がどういうものだったかは、なんとなく想像がついた。

恐らくその紅茶色の髪と、同じような色をした茶色の瞳は、生まれつきなのだろう。

加えて――――――これもまた彼女は知らぬだろうが、彼の体躯は同年代の子らの中でも、抜きんでて大きく、また膂力も並外れていた。

異形の子。そう言ってしまえば、まさにそれ、そのものだったろう。それが常なる感覚を持つ普通の人間の眼にはどう映ったのか、想像に難くは無かった。


「そして、俺はそいつらを悪いとは思ってねえ」

「……どうして?」


そこまで来て、初めて華琳は武蔵の言に返事を打つ。

とは言ってもそれは、武蔵が引き出すべく形の問を為して、それに乗った形のものであったのだが。


「そいつらにとってはそれが普通だからさ。奴らは俺が怖かった。だから遠ざけた。それは自然な事だ」


異形を怖れる――――――それは、ヒトという生き物にとって、当たり前のことかもしれない。

自分と違うものとは相容れない。人間は、そうやって生きて来た。それが例え、同じヒトという生き物だったとしても。違うならば。


「『民草』ってのが、『悪党』ってのを嫌うようにな」

「……なら、法を犯し、秩序を乱す輩を見過ごせと言うの?」


恐らくは――――――聡明な華琳は、武蔵のその言葉だけで彼が何を言わんとしているのかはわかったのだろう。今まで曖昧だった彼女の返事が、にわかに色を持っていた。


「そうは言ってないさ。ただ、誰かを守るためには、必ず誰かを斬らねばならない」


武蔵の瞳は、相変わらず揺れぬままだが。


「そして民を守るために斬る賊もまた、この国の民だ」


そこまで言って、初めて武蔵は華琳と目を合わせる。

その茶味を帯びた眼は、深く、動かず、深淵だった。

華琳はその眼に――――――それ以上、何も言う事は無かった。


「生きるために、あるいは矜持のために戦う。そして、殺す。それは誰もが同じだ」


例えば、家奥に押し入り、一家の主を屠り、泣く子を無慈悲に縊り殺さんとする。

そういう、人でなしにだって――――――

愛した人がいて、守りたかった家族がいて、追剥で奪ったなけなしの金を持って帰って、自分は喰うものも食わず、餓えて痩せ細った女房と子供に、粗末な粥を食わしてやるのかもしれない。

そうしてやがて捕らわれるであろうその人でなしは、当然の報いとして怨嗟の声に包まれながら殺される。

そしてその男のガリガリに痩せた女房と子供たちは、民の見せしめとなり、磔にされながらひっ立てられ、石をぶつけられながら憎まれて、嬲り殺されるのだ。

民には、そんな事情は知る由もない。奴らは「悪党」で、憎むべき相手であり、断罪されて然るべき存在なのだから。

誰もが一人の人間で、必死に生きた人生があり、譲れぬものがあったのだろう。殺された民にも、殺した賊にも。殺された賊にも、殺した民にも。


「法や秩序もまた、為政者の力の表れに過ぎん」


善悪の垣根。それを設けるのは所詮、人間。完全なものでは決してない。

ある誰かが強力な支配力で秩序を造り、それを法という堅固な壁で仕切っているだけだ。

そこに住まう守るべき民を救済するために、あぶれものとして殺し、排除する賊もまた、人として生きる民ならば。

すべての人間を救う事など、とても叶わぬ――――――


武蔵はそれを知っていた。定められた定義の様な、真っ黒や真っ白が、絶対に無い事を。

それ故の、永久に決着の無い、捻じれた螺旋のようなジレンマを。

まだ、年端もいかぬ季衣らがぼんやりとしか認識し得ぬ――――――

解れと言う方が無理であろうそれを、悠久の時と、無数の骸とを越えた武蔵と言う男は、よく知っていた。


生きる意味は一人一人、それぞれにあり、生き方も、またそれぞれだ。

それは本来なら、誰にも否定する事は出来ない。

それを下し、踏み砕く事の出来る唯一のもの。

そんなものがあるのだとしたら、それは――――――


「この世に、本当の意味での善悪は無いさ。ただ、強いか弱いかだよ」


仮に「悪党」と「善人」の定義付けを取り払ってしまえば、すべてのものは平等だ。

戦い、勝ち、奪って、生きる。ただ、その摂理があるだけ。

強い者は勝ち続ける。あるいは侠を持って、法の壁を壊し、のさばり続け、あるいは秩序を持って、自らの正義を行使し続けてゆく。

或いは法律、或いは財貨、或いは権勢、或いは、力。

己の望みをかなえるため、己が己であるための拠り所、懸けるのは、強さだけ。

弱ければ、強きに踏みにじられるだけ。

強い者が生き、弱い者は死ぬ。そこに、理由はいらない。

それだけが唯一、理由が要らないものだ。






「…………ふむ。年寄りの話は、どうも無駄に長くていかん」


語り終えた後、何秒か沈黙が訪れて後、武蔵は思い出したように顔を上げた。

といっても、見上げた空は武蔵と華琳が話し始めた時と何ら変わらず、時間的には、殆ど経過がないのが見て取れたが。


「じじいの妄言だ。聞き流してくれ」


武蔵は華琳の方を、再び見る事は無く。

目の前に広がっていた、いやに奥行きのある景色と、眼下であくせく動く兵の群れから、ふっと踵を返した。


「――――――武蔵」


そこから、華琳とすれ違うように立ち去らんとする武蔵の背中に、今まで受け取る事に徹して、胸の下に溜めこんで止まっていた、華琳の声が投げられた。


「私の願いは、欺瞞かしら?」


――――――所詮は、私の手前勝手な理想を、億万の民に押し付けようとしているだけ?


武蔵は立ち止まる。

だが振り向かず、華琳の次の言葉を背中で待つだけ。


「それでもいいわ。私は私の強さで、私の信じる生き方を選ぶ。私が、願い欲する生き方を」

「……」


お互いに、その像を目の中に置くことは無い。

背中合わせのまま。


「…………あいにく俺は自分の事だけで手一杯な、チャチな男でな。天下人の問いには答えられんよ」

「……そう」


彼らは、一度も互いに眼を交わすことは無く。

ただ、言葉だけを交わした。





あの娘は、強い娘だ。

人より多くの事が鮮明に見えていて、それでも尚、強い。

それは、人を導くと言う重圧に。

あの強さを支えるには、未だ若く、小さすぎると思えてしまうほどに――――――


「……おい、宮本。いい加減戻ってこい」

「………………ん? ああ、おお」


ぼうっ、と宙を彷徨っていた武蔵の視線が、秋蘭に定まる。

もうすでに、武蔵らのすぐ後ろには勇壮なる兵士たちが、完成した隊列を一寸も乱さず、整然として集っていた。

あとは秋蘭の号令一下で、即座に現場へと飛んで行ける。


「全く……とても集中しているようには見えんが、仕事ぶりには、期待していいんだろうな?」

「当然だ。役立たずの汚名は返上せにゃあならん」

「ふっ……意外に根に持つんだな、お前も」

「性分でな、勝たないとイヤなんだよ。口先でも……囲碁でも」


ニヤリ、と笑って流し目を送って見せた武蔵に、秋蘭も釣られて笑みを作ってしまった。

――――――どうも、この男はこういうはぐらかし方が上手い。


「……さて」


やがて微笑を浮かべていたその美しい顔は、指揮を執るための剣を握ると、にわかに鷹の表情を象る。


「目的地は南西よりおよそ四十里! 休まず日のある内に着く! 死ぬ気で、食らいついてこい!!」


そうして目的の――――――肉眼では黙視できぬ、遥か彼方にあるであろう敵影を、まるで両断するように、一挙に剣を振り下げた。


「――――――――進軍!!!!!!」






「……行ったわね」

「……はい」


城壁に佇む華琳と季衣、その眼下で、八百の兵の群れが一糸乱れず流れてゆく。

急造の部隊で組織行動に齟齬が生じないのは、普段の訓練のたまものなのだろう。


「あの、華琳さま……」

「何?」

「さっきは、その……わがまま言って、ごめんなさい……」

「……いいのよ、もう」


そうして華琳は、遠慮がちに見上げてくる、小柄な自分よりさらに小さな彼女を見て、ふわっと、優しげに笑った。








(その様な事は)


望みを叶えると言う事は、勝たねばならぬと言う事。

誰かが勝つと言う事は、誰かが負けていると言う事。

誰かが満たされると言う事は、誰かが奪われていると言う事。

そして華琳の願いとは、最後まで勝ち続けた者にしか、叶える事は許されないという事。


(とうの昔から知っている。この曹操の心命は、とうに其処に)


それでもなお、彼女は勝ち抜く事を誓う。

地平にただ一人立つ、最後の勝者となり、望みを叶える事を誓う。

たとえ百世に連なる恨みを纏い、永劫の悪評を受けようとも。

幾千の矛盾と自責と葛藤を抱え、苛まれる事となろうとも。



しなのゆら先生とヤスイリオスケ先生が好き。

エロいって素晴らしい。

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