第101話「神速の白鷹」
作家活動再開につき本当に完結させます。
江南の風を聴け。
江東を疾風のように駆け上がり、やがて中原を貫き天下に届く日が来たとしても、我らの魂の大元はいつだってここにある。
江南の風の熱さを忘れるな。
揚州、孫策領某所。
孫家中興の祖であり、江東の小覇王・孫策の母、孫堅霊廟は首都・建業に祀られているが、その遺骸を納めた本当の墓は、ごく近しい者たち以外の誰にも知られていない。
その場所は、そこに眠る英雄の苛烈極まる人生とは裏腹に、嘘のように静謐だった。
柔らかな陽の光を、瑞々しい緑が山吹色に照り返す。耳を澄ませても、短くも猛々しい江東の猛虎の雄叫びの名残すら聴こえてはこない。聴こえるのは小鳥と森の囀りと、遠くを流れていく清水の音だけ。
暖かな場所だった。
いかな英雄も、肉が朽ちれば骨となり、骨は土に還り、やがて雨となるのだろう。
美しい女だった。
母・孫堅を知るものはまるで生写しのようだという。
森の影にひっそりと隠れるような墓跡の前で佇み目を瞑る孫策もまた、天下に示す小覇王の堂々たる覇気とは、今はかけ離れて見えた。
女性特有のしなやかな背中、美しい肉体の曲線は、到底、千騎を斬り伏せる江東の戦鬼と同じ人とは思えなかった。
柔らかく、儚げに見えた。
「美しいな」
涼やかな目元の割に低めの声が、波紋のように響いてくる。
「あら、お目覚め?」
小麦色の肌によく目立つ、紅の唇がふっと笑った。
「とても天下を響もす小覇王とは思うまい」
「私の背中がかしら? それとも美しいのは、この森の静けさかしら」
長身の剣士は、孫策(雪蓮)よりも頭一つ以上の上背である。背中には三尺半にゆうに達そうかという長剣を背負う。
柳のように身幅の薄い長剣は、ひとたび抜き打たれれば、空間を斬り裂く。
「亡母・文台公はお前より強かったのか?」
「さあ」
その美しい女は、ただ墓前に佇んでいるだけで、無視し難い色香を放つ。青い深緑の匂いに、甘い香りが風に混ざって届く。
「楚国の覇王・項羽は文台公より上か」
「比較できぬものでしょう」
美しき佐々木小次郎が雪蓮の隣に立つと、女性の中では長身の雪蓮の肢体は、その胸にすっぽりとおさまってしまいそうなほどだ。
佐々木小次郎の師・冨田勢源は身丈5尺そこそこの小柄であった。中条流の系譜は近世の達人・武田惣角に至るまで、小柄な小太刀遣いが多い。身丈8尺三寸を優に超える大太刀遣いは、勢源以降の五百年間においても小次郎くらいなものであろう。
「我々が項羽と高祖を知らぬように、いにしえの英雄もまた、孫堅を知らぬ。私もまた、曹操を知らないわ。私が黄河を知らぬように、あの小娘もまた、長江を知らぬ。そんなものよ」
孫堅は王とはならず、漢の将軍のまま死んだ。深緑に佇む墓石は江東の小覇王の母とは思えぬほど質素で、静かなものだ。
「小早川隆景公がかつて毛利元就公と国家大計の百年について語ったという話がある」
「それは、あなたの国の英雄のお話?」
「一代で小国の国主の身から十国を制覇した男だ」
墓石を手入れする雪蓮の指は、数多の血を吸った鬼神のごときもう翔のそれとは思えぬ。
その横顔は、美しい。
「生涯をかけて中国十州を収めるに至ったが、若かりし頃は十年で扶桑六十余州全てを平らげてみせる気宇を持っていた。天下とは遼遠にして遠大なるものだ、と」
「へえ」
「たった数年で長江以北ことごとくを支配し、千の城市を統べるに至った曹操とは、いかなる女だ」
「さあ」
雪連は燃えるような赤毛を耳にかけて、にべもなく言う
「さっき言った通りよ。会ったことないもの」
「虎牢関で一度見ている」
「遠目に見るのと戦場で会うのでは全く違う話よ。小覇王・孫策も見るのと逢うのじゃ大違いでしょう?」
見上げてくる青金石とよく似た瞳が、まるで少女のようで、小次郎はぶっ、と笑い、彼らしくもない大笑をした。
「なるほど、天下がどれほど大仰に語ろうとも、一旦会えば単なる敵兵か。それはいい」
「案外、友達になれるかもしれないわよ」
「お前はすでに、立派に王者だ」
その剽軽な声色がまるで変わらぬままに、背中の備前長船兼光の鞘からパッと銀閃が走った。
ーー真円を描く刀線が、雪蓮を狙った弓、短刀を、そして数十の殺意の導線を全て、斬って捨てた。
それと同時に、深緑の中から、闇装束に身を固めた刺客が躍り出てくる
「十……いや、二十か。お前、どれほどの恨みを買っている?」
「さあ?」
にべもなく返した雪蓮の言葉が終わるより早く、小次郎の二撃目が放たれた。
背負った三尺半(約105cm)を超える備前長船兼光。その長大な刃は、障害物の多い森の中にあってなお、寸分の狂いもなく「円」の軌道を描く。一振りで間合いの外から一人、反転して二人。刃を返して三人。
おそらく、傍目にすらそれは一振り、としても認識できなかっただろう。
小野派一刀流の達人にして大東流中興の祖・武田惣角の嗣子、時宗はこう語っている。
『白刃が煌めいた瞬間、つまり刃が返された瞬間に、勝負は終わっている。剣術とはそういうもの』
それがどういうことなのか、小次郎の剣はまさに中条流に端を発する一刀流の極意を体現していた。
「ーーーーッ!!」
どんッ、と轟音を立てて、一群の敵が爆ぜる。
虎の一撃が一振りで数人の刺客をゴム鞠のように弾き飛ばした。
返り血すら浴びぬ佐々木小次郎の剣風とはまるで異なる。
血に濡れた美しい肢体が躍動し、矢を切り落とし、剣を砕き、肉体を粉砕した。正しく人の形をした猛獣であった。
「ーー毒矢か。お前、俺がいなかったら死んでいたな」
「見返りが必要かしら?」
雪蓮の咆哮とともに、大剣が空を切り裂く。
その一撃は、小次郎の精密な円とは対照的な、圧倒的な暴力である。
襲いかかった刺客の一人が、防御のために掲げた盾ごと、大剣の質量によって文字通り「圧殺」され、肉塊となって墓石の傍らに弾け飛んだ。
「さて、金子か、領地か」
「今晩、身体でどうかしら?」
「阿呆か」
江東の戦姫の大剣が、十数人目の刺客の頭蓋を割る。
遠のいていく気配を二、三と感じる。襲撃が失敗したと見なし、深追いをやめたか。直前までの気配の消し方といい、なかなかの手練揃いであった。
「あんたたち、いずれの差金?」
血の海と肉塊の中で、息のある刺客の一人の顎に大剣の切先をそえる。
剣の冷たさを覚えながら、刺客は啖呵を切った。
「苛烈な粛清と虐殺。恐怖政治と武断支配。貴様を恨むものは天下にごまんとおるわ!」
「そう」
飛ばした唾は血の泡になり、言葉は穴の空いた喉笛で止まる。孫策は問いをしておきながら、その答えに興味を持っていないようにも見えた。
「百万言の呪詛を集めてこの私を殺せるのかしら? 于吉の祟りはいまだに私を殺さないわ」
戯れのようにも見えた。嘲笑のようにも見えた。
「曹操、劉備はあんたたちより面白そうよ」
美しい横顔に飛び散った返り血すら拭わず。
肉塊に塗れた墓前を省みることもしない。
すでにその目線は長江、その先の中原にあり、その横顔は母を悼む少女ではなく、すでに乱世の羅刹となっていた。
総督府・建業。
母の墓所を包囲した二十余の死臭を江南の風に洗い流し、総督府の軍議室の扉を開けたときには、雪蓮の肌からは完全に「娘」の湿り気が消えていた。
卓上に広げられた長江全域の巨大な布陣図。その前に、江東の頭脳である周瑜(冥琳)が、いつもと変わらぬ冷徹な眼差しで立っていた。
「遅かったわね、雪蓮。……また、野良犬の掃除?」
雪蓮の衣服の端に染み付いた、乾きかけの黒赤い事実を一瞥し、冥琳は眉ひとつ動かさずに言った。驚きも、感傷もない。それがこの地を統べる王たちの、日常の硬度だった。
「ええ。天下にごまんといるっていう、私の熱烈な信奉者の一味よ。小次郎が退屈しなくて済んだわ」
「……その佐々木は、今どこに?」
「さあ? どっか行っちゃったわ。お腹空いたら戻ってくるんじゃない?」
雪蓮は無造作に椅子を引いて座り、卓上の地図を鋭く見据えた。
足を組み、両手を膝の上に乗せて言葉を続ける。
「劉備ちゃんの動向はどう?」
「巴蜀を制圧し、瞬く間に漢中の張魯を降伏させた。荊州南郡は返す気ないわね。再三の要請も無視よ。仁義の武将が聞いて呆れる」
「あら、やるじゃない。可愛い顔してるのに」
「気に食わんがな」
「とりあえず置いときましょう。河口を押さえておけば大勢に影響はない」
「防衛だけならね」
と、冥琳は冷たく書類を叩いた。
「長江は、巴蜀(上流)から荊州(中流)を経て、江東(下流・河口)へと流れる巨大な大動脈」
冥琳の長く細い指が地図を滑る。
長江の最下流(河口・建業周辺)を江東水軍が完璧に封鎖している限り、劉備軍が中流(荊州)でどれほど増長しようとも、江東の心臓部を直接叩くことは困難を極める。
「だが、あの小娘が中流に居座り続ける限り、我らは常に『上流からの水攻め』の恐怖を背負い続けることになる」
しかしながら、水戦において「上流(西)」を押さえている劉備軍は、船を出せば自動的に「下流(東)」の孫策領へ向かって加速できるため、地政学的には常に劉備が攻め側として有利な位置にいる。
「それって何か問題ある?」
「なに?」
「水の上なら孫呉は無敵よ」
頬杖をつく雪蓮の横顔は、どことなく楽しそうに見えた。
劉備がいかに地の利を得ようが、関係ない。江南の水上線なら孫呉に勝るものはなし。絶対の自信と不遜とも言える自尊心から出る一言だった。
「それにぃ〜劉備をどうするか考えるのは、曹操を倒してからでも遅くないと思いますよぉ」
やけに間延びした声が机を挟んで向こうから飛んできた。もう一人の参謀・陸遜(穏)である。
それを皮切りに、冥琳の横に控えていた呂蒙(亜莎)が追従した。
「我が軍と劉備の戦力差は二対一、しかし曹操と我ら孫劉同盟の戦力差は我が軍と劉備軍を足してもなお、七倍以上の差があります。まずは曹操を長江以南へ、いかに渡らせないかが肝要かと」
「……わかっているわ、亜莎。それが故の孫劉同盟」
「それで、網の調子はどう?」
「完璧よ」
冥琳の細い指先が、長江の中流、赤壁の流域をトン、と叩く。
「劉備が益州に収まったことで、こちらの『算盤』は完全に整ったわ。中原の物量に対して正面から受けて立つのは愚策。奴らの騎馬も清州の精鋭歩兵も、長江の水上では一切機能しない。引き込んで、船ごと焼き払う」
冥琳は細い指先を地図上で滑らせ、長江の北岸、そして唯一の退路となる「烏林」から「華容道」にいたる湿地帯をトントン、と叩いた。
「水上で大火に包まれた魏軍の残党は、必ず北岸の湿地へと逃れる。陸に上がれば清州の精鋭が立て直すと踏むはずよ。――だからこそ、そこを『文字通りの墓場』にする」
冥琳の目が、冷徹な数字を弾く。
「まず、甘寧と太史慈の快速船団をあらかじめ上流に潜ませる。火計の発動と同時に一気に反転降下させ、魏軍の敗残船を長江の北岸へと『押し込む』。退路を北の湿地帯一点に限定させるのよ。そして、その泥濘の先――華容道には、同盟の条件として、劉備のところの『関羽』と『張飛』の軍勢をあらかじめ伏せさせてあるわ」
「あら。あの化け物姉妹をそこに置くの?」
冥琳の眼鏡が光を照り返す。
「ええ。さらに後詰めには魏延、馬超、黄忠。孫呉の主力部隊と挟み込み確実に曹操を斃す」
「うわあ、陸路で劉備の五虎将軍揃い踏みですかあ。考えたくもない布陣ですねえ」
地図を覗き込みながら魯粛(包)が言う。
しかし、冥琳はあくまで冷静に続ける。
「曹操を相手にいくら備えても『しすぎ』であるとは思わない。我が軍からは甘寧、太史慈、周泰、黄蓋を派遣し、確実に曹操を仕留める」
「つまりこの戦……曹操たった一人を倒せるかどうかの戦いになると言うことね」
「然り。十軍を撃滅したとしても曹操一人を取り逃がせば何の意味もない」
雪蓮が腕を組んで地図を覗き込んだ
「まあ、これだけ念を入れておけば普通は取り逃すことはないでしょうけど……普通は」
「報告によれば、曹操は荊州の水軍調練の仕上げにかかっている。おそらく、こちらへの進軍は1ヶ月後……」
ーー言葉を続けようとした矢先、激しい足音とともに、軍議室の扉が文字通り叩き割られるようにして開いた。
「急報! 江陵が、落とされました!」
一瞬の静寂ののち、最初に目と口を見開いたいのは包であった。
「えええええっ!? なぜ!? いつ!? だれ!?」
眼鏡の奥の瞳が、初めて不穏に細められ、冥琳が続ける。
「……江陵は劉備の軍勢が万全の備えで固めているはず。曹操の本軍はまだ動いていない。どこの誰が落としたというの?」
「漢水を下ってきた夏侯淵! 劉備軍の守兵は防衛線を構築する間もなく本城を強奪された模様!」
「……あらぁ〜、やっぱり、"普通"にはいかないもんですねえ、戦争って」
「漢中での劉備との戦線を放棄して……? こちらの作戦に気づいていた? しかし、漢水から江陵まではたかだか数日で走破できる距離ではない、一体どれほどの兵数と兵装で……」
動揺しつつも各々の頭脳が再演算を始める軍議室の中で、孫策だけが一人、獰猛な笑みを浮かべていた。
「あら、やるじゃない」
孫策は愛剣を抱き、椅子を跳ね飛ばすように立ち上がる。
「戦いってのは、こういうもんよ」
江南の戦姫は、すでに火の玉のようになっていた。




