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邂逅編・十話

――――――時は少し遡り、未だ市中を練り歩く、華琳一行。


「うーむ、それにしても……」

「……撫で回すな」


人混みの作るざわめきが聴覚の世界を覆う大通りにて、愛らしい服の一杯に詰まった竹カゴを背負った春蘭が、同じ型の空っぽの竹カゴを背負う武蔵の顔をぺたぺたとこねくり回している。


「歩きにくいからやめんか。俺の顔なんぞ珍しがるほどのもんじゃあるまい」

「私は今、五胡の妖術でも目の当たりにしているような気分だぞ」

「妖怪か、俺は……」


春蘭が曰く、武蔵の散髪は妖怪変化の類に匹敵するものらしい。

確かに、ろくに梳りもしない赤茶の蓬髪の中で、埋もれから覗くようにぎょろりと琥珀色の目玉が光り、口元が窺えぬほどにぼうぼうと茂った髭をくっ付けた面で、六尺余りの体躯を揺らして闊歩してゆくその姿は、なるほど怪物然としていたとも言えるかもしれない。

ならば今の出で立ちは、さながら物の怪が人間に化けているとでも言えようか。


「二人とも、帰ったら視察の報告書、ちゃんと提出するのよ」


だらだらとじゃれながら歩く二人を、華琳が管理者の立場として諌める。

若者四人、うち女性三人で和気あいあいと往く一行は買い物にでも出てきたようにしか見えないが、一応彼らが公務中であることを忘れてはならない。

まあこの都市の首脳を担う彼らが平穏、穏やかに過ごしている様はそのまま、この街の治安の安泰ぶりの象徴なのであろう。


「お前だって俺に無理やり髪ィ切らせとるだろうが。しかも費用は俺持ちで」

「あら? 乱れた同志の風紀を正しているんじゃない。立派な公務よ」

「む……」


武蔵を言いくるめるようにして、華琳は妖しさの香る笑みを浮かべた。

彼女の仕草の中には、何でもない会話の中に織り込む所作にも、常にたおやかであり、魔性の様である艶めかしさが潜む。

武蔵は幼い顔に釣り合わないそれがどうにも慣れなく、また自分の身なりが官に関する者としてはズレている自覚くらいはあったので、それ以上の言葉を返すことはしなかった。

もっとも彼は別段、特別な美意識があったわけでもなく、ただ面倒くさがって風体を整えなかっただけであり、垢抜けた公達のような雰囲気すらある今の格好にも三日と経たず慣れるであろう。

そもそも生まれからして、全くの庶子というわけではない。よもや貴族とは言うまいが、新免家は西国ではそこそこに知られた武家である。

無論、生来の無精癖が改善されているわけではない以上、それが瞬く間に崩壊する可能性も否定しないが。

あるいはそこをいかに矯正できるかが、華琳の腕の見せ所であるのやも。

……まあ彼女とて、恐らくは公務などではなく、個人的な酔狂の面が大半を占めているに違いないのであろうが。



「…………ふっ」


秋蘭は、落ち着きなく表情をころころ変える姉と、愉快そうな華琳、そして――――――彼にしては珍しく、決まりの悪い風な渋顔を作った武蔵。

そういう三人を、少しまどろむ様な眼で眺めて、ただ涼やかに微笑んでいた。

そんな、笑い声の漏れる和やかな空気が漂う中で――――――


「そこの、若いの………………」


そのしゃがれた声は、ふっと彼らの意識の外から流れてきた。





「……誰だ?」


どの方向から聞こえてきたのかはわからない。何処からともなく聞こえてきた。

しかしその出所の定かでない声は確かに四人の耳に届いていて、一同は足を止め、漠然と辺りを見回す。


「……………………こちらじゃ、若いの」


また聞こえてきた――――――今度はかろうじて捕まえる事が出来た、その声の余韻。四人が一斉に振り向いた、そのわずかに感じ取る事が出来た発生源。

今しがた通りすぎかかった、大通りに面した小脇の路地に、その声の主はいた。

まるで人魂のように、漂うが如き、不確かな声。発せられた語気の痕跡、言葉の名残は非常に認識し難く、まるでふわふわと彷徨うかのようで、発した主から完全に隔たれてしまったような、捉えにくいものだった。


「…………私?」

「ああ……そう…………お主、お主じゃ………………」


そう言って華琳を指さした、その途切れ途切れの言霊の宿主。その黒っぽい外套――――ローブのような型のそれは、活気あふれる街の中、ぽつんと取り残されるようにあるその薄暗い、ひっそりとした路地の仄闇に溶け込んでいるかのようであった。

掲げている指は、わずかではあるが小刻みにぶるぶると震えていて、表情はすっぽりと被った外套のせいで見遣ることはできなく、男とも女ともつかない。

まるでこの世界のものではない、幽鬼のようだ――――――


「……占い師、か?」


その姿に怪訝そうに言葉を点したのは秋蘭である。

少少として、こじんまりとしたそれは、警戒に値するようなものでなく、彼らが腰の柄に手をかけるような事は無い。

だがその性状定かならぬ佇まいには、何か得体のしれない、漠然とした不気味さが付き纏っていた。


「そなたの才……とても煌びやかで美しいもの……妖しくも麗しきもの……時に、輝く宝石のよう……時に、咲き誇る毒花のよう……」


占い師はゆっくりと、区切るようにその言葉を紡いでゆく。


「そなたは常の人に非ず、時代の体現者なり……時代の流れの支流に非ず、大いなるうねりの象徴なり……」


「……はっきりなさい。何が言いたいの?」


華琳は掴み難い占い師の言葉を聴きながら、その先を促す。

風にさらされる、ちらちらと消えかかる蝋燭の火ような言葉を紡ぐその口から、すかすかに隙間の空いた何本かの歯が並んでいるのが見えた。


「時代が栄え満たされるなら、お主は混と繁を司ろう……時代に乱が蔓延るならば、暴と力を司ろう……故に………………」


そこまで言って占い師は、黒い机の前に座る自分を見下ろす華琳らに目線を合わせるように、少し頭を上向ける。

明らかにならぬ目もとの代わりに見えたのは、その視線のありかを隠すように簾がかった長い白髪。


「……お主は平治においては稀代の悪臣、乱世においては、世を喰らう奸雄となる…………」

「…………貴様」


奸雄――――――――

しばらくはその占い師の言を大人しく聞いていた一同だが、その評を聞いて、元から訝しげな顔をしていた秋蘭が、その眉間に皺をさらに何分か増して作り、一足歩み出ようとする。

が、そのいからせた肩に、彼女の隣、歩み出た彼女の斜め後に位置していた武蔵の手が、そっと触れるようにかけられた。


「! 宮本…………!」


肩に感じたわずかな重みに意気を削がれるような形で足を止めたのと、自分を制すように挙げられた、華琳の左手の甲が眼に入ったのはほぼ同時だった。

強張った肩から、ゆっくりと力が抜けてゆく。


「ふぅん…………」


華琳はしばらくその言葉の旋律を耳で転がして吟味するかのように、頭を少し傾けながら、上から下、あるいは横斜めと、泳がせるように視線で占い師の像を撫ぜていく。

そうして何秒か経つと何かに納得した風に、身体をまっすぐに立たせて、ストンと腑に落ちた時に見せる微笑を作った。


「武蔵。この者に謝礼を」

「華琳さま!?」


思いがけない華琳の言葉に、秋蘭が抗議に似た声を上げるが、


「賄い利くのか?」

「…………最近気付いたけど、あなた結構、ケチ臭いわね……」


白羽の矢に立てられた武蔵は冗談を交えて華琳と一言二言交わしながら、秋蘭の脇をすっとすり抜け、袂から銭の入った小袋を一つ取り出し、占い師の着いている粗末な机の上に置いた。


「いいじゃない、乱世の奸雄。気に入ったわよ、その二つ名」


華琳は胸を張り、息を大きく、深く吸い込む。

息巻く、とは今日では怒り狂う様を表すものだが、本来は今の華琳のように、英気を蓄え、それに満ち満ちた様を表していたのかもしれない。あるいは、雄と呼ぶのやも。

少なくとも武蔵は、ぼんやりとそんな事を感じていた。


「ふっはっは…………じゃが、所詮は占い。当たるも八卦、当たらぬも八卦…………」

「ならば、あなたは私が時代の担い手となる事、その黒机で言い続けなさいな。何年か後、あなたの占い師としての名は天を衝くわよ」


世に稀なる予言者としてね、と、華琳は置き土産のようにそう告げて、満足そうに踵を返す。

一行の中を割って、悠然と進んでいく華琳に、春蘭、秋蘭が追従する。

占い師の前に立ってそれを見ていた武蔵もまた、倣って歩を進めようとした。



「……………………………………………………老翁よ」

「――――――!」


その呼びかけに、人でごった返す雑踏の中で武蔵は一瞬だけ、その占い師の声以外の音が、すべて此の世から消え去ったかのような錯覚を感じた。

目をカッと開いて、大きく振り返った武蔵の前に占い師は、あいも変わらずただ静かに座っている。

だがその占い師は、見るからに若々しい武蔵を、確かに老翁と――――――そう呼んだ。


「神威の位……天の豊穣……命を使い、研磨し上げたそれは仙理の域に到り、世に二つとない宝珠となった……見事なものよ」


華琳にしたように、占い師は言葉を並べていく。

先ほどと同様、その表情は見てとる事が出来ない。

その心情も、察することはできず――――占い師からは、武蔵の表情をしかと見る事が出来ているのかもしれないが。


「ほう…………で? 俺には何が見える?」


虚を突かれたせいで、少しだけ心に生まれたざわめきも、次に言葉を発するときは静まっていた。

武蔵のその、如何なる時にもよどみを生まぬ心はそのまま、占い師の言葉の正しさを如実に表していた。


「そなたは縛られておる……それは何十度にも、上塗り、固めた深く濃く、強い、強い……………………強い業。業となり果てた夢…………」


時折、詰る様な声。


「その頸木を外すまいとしておるのは、そなた自身。頑なな願い……強き望み……それへの餓え……それへの渇き……」


武蔵は黙って聞く。


「それに捉われてはならぬ。さすれば必ずや己を見失い、踏むべき道を誤ろう。そのこと、しかと胸に留めておかれよ」


占い師は淡々と語ってゆく。あくまで、淡々と。その掠れていて時々途切れる、壊れかかった琴の様な声で。

そしてある所まで語り、休みを入れるように言葉を区切る。


「活かすために“それ”はある。“それ”のために生きるのではない。ゆめゆめ、お忘れなされるな………………」


そうして、一息吸って再び語ったその言葉は、先ほどに比していやに聞き取りやすい、はっきりしたものだった。

武蔵にとってそれは特別耳触りが良いわけではなかったが、少しだけ深く、耳の奥の方を突いていった。


「………………ふむ」


武蔵は見開いていた眼を、また眠りの眼の様な音の無い眼差しに変えて、静かに一つだけかぶりを振る。


「ま……忘れるまで覚えとくよ」


少しの沈黙の後にそう告げて、武蔵は身を翻し、華琳らのもとへ歩きだした。

占い師は遠ざかってゆく武蔵の背中を認めると、ふっと暗闇に紛れ、溶け込んでいくように消えていった。





帰りの道中、特に何の変哲もなく、一行は歩を進めていく。

否、一つだけ、いつもと違う風景がそこにあった。


「よく斬りかからなかったわね、春蘭」


これである。


城へ戻る途上、春蘭がしきりに三人から褒められていた。

曰く、占い師の辛辣な物言いに対しよくぞ身を律することが出来た、との由である。

いつもなら人一倍短気で、よく気性の荒さを諌められる彼女の事。

それが、普段冷静沈着、眉すらそうそう動かさない秋蘭ですら勘気を露わにしたあの場面で、どっしりと構えて、感情を抑えていた。

故に激情家の彼女としては珍しく、また激情家であるが故になおさら、その態度をもって評価されていたわけである。

秋蘭をして、「私もまだまだ見習わねばならない」と言わしめた所が、事の程を表していよう。


「ああ。さすがに姉だな、春蘭よ」

「………………むぅ」


が、その被対象である春蘭自身は、なにかしっくりこない様子で小首をかしげていた。

特に、華琳の賛辞を受けてなお、彼女が喜びを露わにしないのは、その性情を潜めることよりも珍しい。

――――――が、その疑問は彼女のある一つの問いで氷解する事となる。


「…………なあ、宮本?」

「うん?」


声を忍ばせ、そろそろと武蔵の傍に寄って耳打ちするように、だが華琳と秋蘭に全く隠せていない迂闊さが彼女らしい――――おずおずと、されど生来故の聞き取りやすい語調で、彼女は問うた



「その……『らんせのかんゆう』とは…………どういう意味だ?」

「――――――――…………」


一同、絶句。そして沈黙。二人は口をあんぐりと開け、大きな眼をまん丸にして春蘭を見る。

そしてその空気を竹のように割って響く、宮本武蔵が大爆笑。


「ぶっはっはっはっはっは!! それ狙ってやってんじゃねえだろうな春蘭!? ははははは!!!!」

「なっ……しょっ、しょうがないだろう!! そもそもだな、あの占い師が摩訶不思議で小難しい言葉ばっかり並べおるから……!!」

「……ま、確かに難しい言い回しが目立つ論調だったけれど」


笑い袋のようにカラカラと笑う武蔵に対し、春蘭が顔を烈火の如く燃え上がらせて猛抗議をかける。

何のことは無い、ようするに、占い師の話が晦渋――――難解すぎて、判読不能だったという話である。

そもそも煌びやかでどうたらと、占い師が抽象的な表現をしだしたあたり(つまりは話の最初)から、すでに意味不明だったらしい。

それでも彼女なりに、場の雰囲気から意味を読み取ろうと頑張ってはみたものの、秋蘭は怒り、華琳は笑い、武蔵は相変わらず何を考えているやらようわからんと言う状況で、全く理解不能だった、との事である。


「奸雄とは、奸智に長けた英雄、と言う意味だ」

「かんち…………?」


オウムのように秋蘭の言葉を繰り返す春蘭だが、恐らくは、というか絶対に意味がわかっていない。


「奸智とは、邪な知恵や、狡猾さを表す言葉よ」

「え、ええと……」


華琳の補足でもやはりいま一つピンと来なかったのか、はわわあわわとしながら、横目でそっと武蔵に助けを求める。

武蔵は、縁側に座って近所の子供に独楽の遊び方でも教えるじじいのような笑みを作って、わかりやすく春蘭に話してやった。


「そうさな……浮世の乱れにつけこんで、卑劣な手で成り上がる、外道野郎ってとこかねえ」

「………ッツ!!? なっ、ななっ何だとぅ!! あの占い師めが、言うに事欠いてそんな事を!!」


ようやく理解に達したようで、春蘭は言葉の意味合いが掴めるやいなや、湯気が出そうなほどに顔の温度を上昇させて、まさに怒髪、天を衝くと言った勢いで怒り狂う。

そのうちに戻ってそっ首刎ねてくれると物騒な事を言い始め、先ほど武蔵へ抗議した時よりも顔を真っ赤に燃え上がらせる様は、まさに怒りの飽和値の、限界点をまるで知らないと言った風である。

余りにも予想通りの反応に、秋蘭は炎上する姉を宥めて透かし、華琳と武蔵は面白そうにニヤニヤと笑っているだけであった。


「そういえば……あなた、少し占い師と何か話していたわね。何か言われたの?」

「ん…………? 別に。大したことは何も」


華琳は燃え上がる春蘭から視線を外し、思い出したように、ふと隣の、涼やかさを顔に浮かべる男を見上げた。


「気になるわね。教えなさいよ」

「……何でもねえさ」

「本当?」

「ああ」








「何でもな……………………」











「ふぃ~ただいま。つ・か・れ・た・わぁ~!!」


「おかえり~真桜ちゃん」

「お疲れ。首尾は?」


簡素な造りをした民宿の一室の扉を開いて、くたびれた様子の少女が肩を寄せて、首をこきこきと鳴らして入ってくる。

部屋の中で手持無沙汰に過ごしていた二人の同い年くらいの少女が、労をねぎらいつつ、そのまま寝台にぐでっと倒れ込んだ彼女を迎え入れた。


「売れたでぇ~! 完売御礼、ほなまたどうぞーってなモンや」


売れ行きを聞かれて、真桜と呼ばれた少女は身体をぐだらせたまま首だけを二人に向けて、ひまわりのような景気の良い笑みを送る

――――――もはやすっかり日は落ちて、三日月も浮かび始めた宵の頃。

陳留の市中、街角に建ち並んでいる、あまり上等ではない大衆的な宿舎街の一角に、彼女らはいた。


「そうか。こちらも完売だ」

「沙和もなのー。いっぱい歩いて営業したからクタクタなの~」

「なんやぁ、沙和も凪も完売かいな。絶対ウチが一番やと思っとったのになあ」


そこに宿泊する三人――――彼女らこそが昼間、図らずとも華琳一行四人に竹カゴを売りつけた、かの商人であった。

寝台に倒れ込んだ、果たしてその実り豊かな胸元のせいか、些かこってしまった様である首の筋を、頭の向きを右、左に捻りながらしきりに伸ばして――――――


「うげっ!」


ゴキッ、というあまり聞き心地のよろしくない音と共に、顔を横に向けたまま固まってしまった。

妙なカラクリと一緒に、武蔵にカゴを売りつけた、あの少女である。


「でも、おかげで村の皆に顔向けできるな」

「みんなで頑張ったもんねー」


凪、と呼ばれた娘は、きりりと締まった眼差しを湛え、長い三つ編みの銀髪を揺らす。

その身体は小柄ながら、戦士の様に練磨され、引き締まっていて、浅く焼けた肌に無数に刻まれた傷跡が目を引くが、顔立ちは凛々しく、整っていた。

彼女こそは、秋蘭の重圧を前にして、一歩も引かず見事カゴを売ってのけた女であり……

鏡の前で肘を突きながら、手を開いて爪を眺めつつ会話に加わっているのは、沙和と呼ばれた……というか、自ら沙和、と呼称する、年頃の娘らしい、洒落た明るい雰囲気を纏う女の子。

彼女は、春蘭と熾烈な戦いを繰り広げ、勝負を越えた絆を育んだ、例の少女だ。


「んで、ぶっちゃけどうなん? 足りるん?」

「ああ。有志全員分の装備と食糧、何とか賄えそうだぞ」


真桜は首を90度に捻じれたまま、身体を起こし、器用に向きを変えて二人と顔を突き合わせる。

どうやらこの三人、同業のカゴ売りであり、なおかつ同郷の徒であるようだ。

彼女らがバラバラにカゴを売った三組が、この街の首脳を担う要人であった事は、よもや知る由もないのであろうが。


「でも、竹カゴで作った義勇軍って、ちょっとカッコつかないかも」

「確かに装備は心許ないが……引け目を感じる事は無い。志に貴賤は無いさ」

「せやせや。りゅーしゅーって大昔のお偉いさんかて、金のうて牛に乗って出陣したっちゅう話やで?」


真桜の言う「りゅーしゅー」とは、後漢(東漢)王朝が開闢者、光武帝こと、劉秀の事であろう。

劉秀は兄の挙兵に従い参軍したが、資金が無くて馬が買えず、牛に乗って出陣した、という逸話がある。

義勇兵と言えば聞こえはいいが、実際は地元の人間をかき集めて軍に仕立ててあるだけの事。ざっくばらんに言ってしまえば、機構は賊と大差ない。かつての皇帝もそうだったのだろう。

そう一旦開き直ってしまえば、なるほど凪の言うとおり、重要なのはそれをもって何を目指すか、何を為すかという所、一点なのかもしれない。


「とにかく、これで旗は挙がる……ここからが本番だ」


そして、時は経て劉秀より百余年。予感を打つのは、かつての新末の大乱にも勝ろうかという混沌の胎動。

時代の節目には様々な者が世に立志し、あるいは乱し、あるいは正す。

彼女らも、そんな変化の風を嗅ぎ取った、世を震わせる力の一粒なのだろう。


「……やるぞ!」

「おうっ!」

「おー、なのー!!」


若い意志が、人知れず、しかし確実に燃えている。

彼女らが何をもたらすかはわからないが、その意気は盛り上がり、揚揚として高まるばかりだった。








「……はぁ。今日の実入りも、今一つだったわね」


その頃、彼女らの宿舎からそう遠くない場所に位置する、同じ宿舎街の民宿にある、ある一室は――――――

懐は温かく、士気煌々と燈り、増してゆく彼女らとは対照的に、なんともこれ見よがしな不景気に包まれていた。


「あーあ、こんなんで、大陸一の旅芸人になれるのかなぁ……」


横隔膜からひねり出したような深く、深い溜息をついた少女は、瑠璃のような綺羅やかな髪を持っていた。

そしてその大仰なため息に、被せるように項垂れるもう一人の少女の、眼鏡の奥に光っていた憂いを佩びた濡れるような眼差しもまた、澄んで穏やかに揺れる湖面のように美しい。


「ほら、二人とも、気にしないの。明日はきっと、いいことあるってー」


ぼやく二人に声をかけた女性は、聖女のように優しげに微笑んでいる。

三人の姿は、一枚だけ抜き出すように切って見れば、まるで天女と見紛わんかの如く美しいのだが――――――


「天和姉さんは気楽でいいわねえ……」

「えー。ちーちゃんったら、ひどいよー」

「それより、何か策を考えないと本当に生き倒れよ? 宿泊費もあまりないのだから……」

「ちょっとぉ! まさか、せっかくここまで来たのにまたドサまわりするわけ!? 私、絶対ヤだからね!!」


彼女らには、よもや優美に女性らしさを取り繕うような余裕など、とても無いらしく、青息吐息の現状に、必死に頭を抱えているようである。

そしてちーちゃん、と呼ばれた、瑠璃の髪を持つ華奢な少女がその冷静な現状分析に、少しヒステリックに金切り声で抗議を投げかけ、天和という姉と思しき女性は、一人、のんびりとした声で顔を幼子のようにむくれさせている。その表情は整った容姿に相まって愛らしいが、深刻な様子のこの場にはあまりにも似合わない。

そこには完成された絵画の様な清澄な雰囲気などは無く、ただ年相応の、ごく普通の娘たちのそれであった。


「私だって嫌よ。もっと大きな都で売れないと、たかが知れてるもの」


努めて冷静な口調で話すが、彼女もまた、内心、焦燥に駆られているらしい。


「もぅ、二人とも辛気臭いなぁ。お姉ちゃん、お散歩行ってくるからねー」


天和はそんな話し合いに参加するでもなく、面倒くさそうな顔を作ると、ふわふわとした足取りで、外に抜け出て行ってしまった。

彼女だけは、何か苛立ちだとか、危機感だとか言う類のものには無縁なようだった。ただこの場の空気に飽きてしまい、胸に別の空気を入れたくなったのだろう。

彼女はこの事に関して別段、二人と一生懸命悩もうなどとは、あまり考えていないようである。

気分に従って動く。そんな感じだ。


「はいはい。あーあっ。誰か後援者とか付いて、大陸中を廻ったりとか出来ないかなぁ?」

「それならもっと、有名にならないと駄目ね」


見送りも半分に、部屋に残った二人はこれからの方針を話し合う。

溜息が一層、重くなるばかりだった。





「は~っ。空気がおいしー♪」


天和はぐぅ~っと月に伸ばすように手を掲げ、伸びをした身体の中、隅々までいっぱいに外気を吸いこむ。


「まったくもぅ。二人とも、もっと楽しくやれないのかなぁ? 人生、まだまだ長いのに……」


そうあくび混じりにつぶやいた彼女の声色は、どこまでも力が抜けて、気楽だった。


「あっ…………あのっ!」

「ん~? 何ですかー?」


ほわりとしながら、しばらく思い思いに足を運ばせていた天和に、声を掛けるものがあった。

その語気には恐る恐る、されど意を決したような、一種、臆病と勇気とが混在したようなものが含まれていた。


「えと、ちょ、張三姉妹の、張角さん、なんだな?」

「そうですけどー?」


振り返った天和の前には、おそろしく大きく、そして太い、影――――――

否、月灯りが巨大な影を型取り、一角の闇を作り出していたが、それは紛れもなく、人間の男。

恐らくは、武蔵などの並の大男を優に超える身の丈があり、これでもかという程のわざとらしい肥満体。

頭には黄色い布を被っていて、しゃべり方には少々、特徴的などもりがあった。


「あ、あの、お、俺、張角さんたちの歌、大好きで……その、これからも、が、が、頑張ってくださいなんだな!!」

「えーっ、ホントに!? ありがとうございますー♪」


まるで何かに焦っているかのように、たどたどしく話す男の額には、被った布の色が変わるくらいの多量の汗がにじんでいる。

そういう挙動不審を絵に描いたような男なのだが、応じる天和は童のように素直に喜び、にこやかである。

このような夜道、人通りも少ないと言うのにまったく警戒しないのは、人当たりが良いと言うべきか、隙だらけだと言うべきか。


「あ、あと、これ、よかったら貰って欲しいんだな。その、チビが言うには高い物らしいから……う、売れば金になると思うんだな。活動資金の足しにでもして欲しいんだな」

「え? いいんですか? うれしいですー♪」


そう言って差し出された本を差し出された天和は嬉しそうに、全く裏表の無い笑顔で微笑みかけ、受け取りざまに巨漢の手をきゅっと握った。


「お……おおおおおお!!!! お、俺、感激なんだな!! この手、もう一生洗わないんだな!!」

「あはは。厠に行ったら、ちゃんと洗わなきゃダメですよぉ?」


感激にうち奮え、月に吠える狼の如く全身に歓喜を漲らせる男に、天和はくすっ、と笑いかける。

狙っているのか、天然なのか。定かではないが、恐らくそれはこの巨漢にとってはどちらでも良いことであろう。

――――――それは彼にとって、紛れもなく聖女の頬笑みであり、この世に存在し、一生の内で受ける事の出来るであろう中で、恐らくは考えうる最大級の至福、そのものだったからだ。


「そ、それじゃ、失礼します! 仲間を待たせているんだな!」


そうして天和と別れた彼には、一片の名残惜しさは無かった。

何故なら彼の心は、生きている内で最も強烈に感じる事の出来た満足に、満たされ尽くしていたからである。


「転ばないでくださいねぇー♪」


そう言って見送った天和にとってそれは、日常の中に埋没してゆく、些細な出来事の一つにすぎない。

それでもいい。彼は間違いなく、幸せなのだから。


「……っと、いたいた! もうっ、姉さん、どこまで行ってるのよ」

「あ、ちーちゃん、レンちゃん。どうしたの?」


ニコニコと笑って男の後姿に手を振っていた、天和の背後から声をかけた今度の影は、二対になる様にして駆けて来た、小さい二人の女性だった。

言うまでもなく、部屋に残されていた彼女の妹達である。


「戻ってくるのが遅いから探しにきたの…………その黄色の包み、何?」


返事もそこそこに、彼女は天和の抱えていた、部屋を出て行く時には持っていなかったそれに目敏く気付く。


「んー……何か貰っちゃった。売ったらお金になるかも、だって」

「ホントに!? 早くっ、開けよ開けよ!」

「あーんっ、お姉ちゃんが貰ったんだから、お姉ちゃんが開けるのー」


金になる――――――その言葉でにわかに喜色満面、三人こぞってその贈物に群がり、包みを引き剥がしていく。

無論、好奇心に突き動かされたのもあるだろうが、そこに今、最も欲しい物の影が加われば、いやがおうにも期待は高まってしまうであろう。

……彼女らは意地汚いのではない。切実なのである……恐らくは。

ともあれ、その中から姿を現した物は――――――――


「何これ…………本?」

「表題があるわ。えっと……太平……要術……」


その本は古ぼけていて、所々墨が途切れてかすれている表題が、その本が経て来た時間を語っていた。

紙を纏めている背表紙からほつれた糸が何本か擦り切れて飛び出しているのが、一層の年季を醸し出している。


「ちょっとぉ、こんなボロボロの本、本当に売り物になるの?」

「まあ、仮にも『本』だしね。保存状態にもよるけど……」


この時代に本は珍しい。紙自体が貴重品故、必然的に本も希少な品となるのだ。普遍的な記録媒体は竹簡である。

よって本の作り手というのは、例外もあろうが、大抵やんごとなき身分の人間であり、中身も貴重な要綱を記したものが多く、その価値は推して知るべきもの。

また、年季が入っていると言う事は歴史的な価値も付加されると言う事で、このようなボロボロの物でも、出す所に出せば思わぬ高値で売れるかもしれない。


「好事家なら、高く買い取ってくれ、る……かも……」


――――――だが、その賢妹の、眼鏡の越しの湖面がピンと煌めいたのは、その査定し、弾き出した金額のせいではなかった。


「……………………凄い」


パラパラと項をめくる手が止まり、眼を完全にその本の文面に奪われた彼女の口から紡ぎだされたのは、感嘆。

そして暢気に雑談をしながら品定めの結果を待っていた二人に、震える声で事の重大さを示した。


「この本凄いわ。私達が思いも付かなかったような有名になるための方法が、沢山書かれてる……!!」

「ええっ!? ウソでしょ!? ホントにそんな夢みたいな事が、都合良く!?」

「本当よ!! これ……これを実践していけば、絶対に、この大陸を獲れるわ……私達の歌で!!」


彼女は信じられない、と言う風に目を見開くが、この、平静、滅多に見せない興奮を露わにしてそれを説く妹は、こういう話題で冗談を言う気質ではない。

だからこそ、彼女は口を開けて、そのふって湧いた幸運をにわかには信じられず、呆気にとられているのだ。


「まさか、そんなボロっちぃ本に、そんな事が書かれてるなんて…………」

「よ、よくわかんないけど、すごいのねー」

「そうよ! 凄いのよ!!」


世の中何が起こるかわからない、とはまさにこの事だろうか。


「…………ようっし。こうなったら、私達三人、力を合わせて、絶対、この大陸を獲って見せるわよ!!」

「おーっ!!」

「ええ!!」


そこには、さっきまでの重たい溜息も、意気消沈していた冴えない空気も、もうどこにもなかった。

この三人の意気もまさに揚揚と、天を衝くばかりである。


――――――今宵の月は、どうやら何かを起こすらしい。








「…………」

「ねーえ、アニキぃー。いつまでこの街にいるんすか? 一回パクられてるってのに……」

「張三姉妹の公演も見たじゃないっすかぁ。さっさとトンズラこいちまいましょうよー」


月と星の灯りの下、やや寒さを増してきた夜の空気の中にあって、背の低い、小柄な男が、連れと思しき男にしきりに話しかけている。

だが、一方の口元に髭を生やした、三十路も二つは越えているかという年の程の長身痩躯の男は、一向に反応を示さない。

その視線は虚空の闇を、じっと見つめていた。


「おぉ~~~~~~~~~~~~い」

「ン…………? おー、デブ!! おせーぞ!」


そろそろ冷え込む風に身も震えてきた頃、ドタドタと大地を揺らしてやってくる影が一つ。

闇夜でも猛烈に目立つそれは、彼らの相方である大男だった。


「で、どうだ? ちゃんと捌いてきたか?」

「う、うん……」


大男はゼハッ、ゼハッ、っと、肩で息をしながら、びっしょりと玉の様な汗をかいて、顔の横にぬらぬらと光る筋を何本も作っている。

小男は気さくな風で、努めて息を整えている大男に話しかけた。


「おお、で、いくらよ? 俺の見立てじゃ二万銭は行くんじゃねーかなって感じなんだけどよ」

「…………あげちゃったんだな」

「おうおう、あげ……はっ?」

「…………」


大男の言葉に、満足そうに眼を閉じてうんうんと頷いていた小男の動作が、ピタリと止まった。

小男が大男を一度見返して一瞬、否、数秒ほど、その空間を沈黙が支配する。


「…………タダで?」

「…………………タ、タダで………………………」


その、この話題では絶対の禁句とも言うべき言葉が飛び出ると、沈黙していた小男は目玉がこれでもかと言うほどにひんむき、止められていた奔流が一気に堰を切られるような勢いで、素っ頓狂な声を上げた。


「馬鹿かオメーは!? せっかくのお宝タダでくれてやる馬鹿タレがどこにいるんだよこの馬鹿野郎!! この馬鹿! バカ!! ヴァーカ!!!!」


小さい身体を目一杯動かして、小男が大男に詰め寄る。

手は激しく上下させ、派手な身振り手振りを交えて身体をわなわなと震わせながら責め立ててくる小男に、大男は為す術なく、たじたじと押し込まれるばかりだ。

その光景は、まるで体格の大小が反対になったかのようだった。


「ごっ、ごめっ、チビ…………で、でもその、成り行きで…………」

「……ひょっとして騙くらかされたか? デブ……」


ここで始めて、髭の男が反応した。

よもや脅し取られたと言う事は無かろうが、どこか抜けた所のあるこの舎弟の事である。商人の口車にまんまと乗せられて、物件を騙し取られた、という事はあり得る。

それならば兄貴分、というか食い扶持を共にする仲間としてはきっちり、やることはやらねばならなかった。


「そ、それは違うんだな! 俺が、自分からあげただけなんだな」

「…………そうかい」


大男が手をぶんぶんと振って大袈裟に否定したのを見ると、彼は納得したようだったが、それきり、二人から目線を外して、そうしてまたぼんやりと物思いにふける様に、黙り込んでしまったのだった。


「…………ったく、だからってタダでやるか? フツー。まあ、おめーがかっぱらったモンだから、どうしたっていいけどよー」


小男はちらりとノッポの男の顔を見ると、また大男に視線を戻し、間を繋いでいくように、言葉を流していく。


「で……でも、そのおかげで張角さんと握手出来たんだな。元取るどころか釣銭が元金を遥かに追い越す値段で、おまけに金の延べ棒がくっついて返ってきた事に匹敵するんだな」


――――――張角。


その単語を聞いた瞬間、文句を垂れるために顰められていた小男の眼の色が、ギラリと獣のように光った。


「何ィ!? ちょ、ちょ、張角っておめー……まさか、張三姉妹の張角ちゃんか!!? 会ったのか!?」

「…………手、柔らかかったんだな。フヒヒ…………」

「お、おい! ひょっとして張宝ちゃんもいたのか!? どうなんだ、吐け! 言え! 洗いざらい喋れコラ!」


恍惚の薄ら笑いを浮かべる大男の襟元を両手でわし掴みにして、小男はがっくんがっくんとその巨体を揺する。


(……………)


舎弟二人がそうやって興奮もたけなわに、テンションは最高潮に達する。

だが、その首格と思しきスラリとした背恰好の壮年男は、そんな彼らに何か気を向けるでなく、心ここに在らずと言った風で、宙を見ていた。


男の胸に去来していたのは――――――若く、青く、希望に満ちた、少年と青年の狭間にあった頃の、若き自分の姿。

記憶の中の青い男は、今よりもずっと無知で。向こう見ずで。

都合のいい夢を糧に生きていた。

来る日も来る日も剣を振るい、輝かしい未来を信じていた。

努力の先に、栄光があると信じていた。


それでも、夢に生きていた少年も、剣に一筋――――――その中で、十数年余も生きれば、いやでも気付く。

天に愛された者と、そうでない者の違い。

百日の稽古を鍛と言い、千日の稽古を練と言う。

朝鍛夕練。男の行いは、鍛錬の名に恥じるものではなかった。

あるいは、それが悟らせたのかもしれない。誰もが味わう挫折の壁。その高さ。

自分は、特別ではないのだと。

稽古は嘘を付かない。自分は神に認められた英雄で、剣を振るたびにメキメキと強くなり、やがて物語の主人公のように、一時代を築くほどの男になり、凡百の理解し得ぬ極みに立つ――――――


そういう夢を、幻想だと知る。

男が歳月と汗で育て上げたいっぱしの自信は、そういう「特別な連中」によって、あっけなく砕かれた。

男は自分を知った。そして、世界を。


求道を辞めた。

男は、強くなる事を諦めた。

幸い、その腕は達人の中では埋もれていたが、凡人の中では抜きんでていた。

日の当たる世界では日差しに負けていたそれは、裏の闇では煌めいて光った。

そこにも、戦いがあった。男は用心棒まがいの事や、賭けごとも、追剥もやった。

金を稼ぐのは簡単だった。ただ奪えばいいからだ。やることは変わらない。質が変わっただけだった。

それなりに名も知れた。自分を担ぐ者も出来たし、頼りにする者があった。恐れる者が居て、敬う者が居た。男は、そこでは「特別」だった。

そこで生きるのは、簡単だった。楽だった。

男はそこに堕ちて、居付いた。

居心地は良かった。けれど、光は無かった。


強さを捨てて、なお男は暴力の中で生きていた。

何のことは無い。男の財産と言えば、人並みの程に少し色のついた腕っ節くらいしかないのだから。

錆び付き、腐り堕ちても、それにすがるしかないのだから。

そこには、戦いがあった。けれど、誇りは無かった。


夢の中で生きられなくなった男は、塵の中で生きるようになった。

光の射さない、塵の中で。





「………………」


男は、虚空に飛ばしていた眼をすっと、目の前の二人に合わせる。

相変わらず、バカをやっていた。いつから、一緒だっただろうか。


「アニキィ!! こんなトコでグダってる場合じゃないっすよ! まだこの辺に居るかも知んないっすよ!!」


彼らは未だ、張三姉妹の話を肴に盛り上がっている。

男の半生の、満ちた部分の多くは、こういう、バカ騒ぎの中にあった。


「アニキィ、わかってるんすか!? 張三姉妹っすよ、張三姉妹!! こんな機会、滅多にねえですって!!」

「……………なあ」


男が見つけた、塵。人から見れば、社会の塵。

けれど男にとっては、今の己を何とか己たらしめてくれている、重き存在。

空っぽになった自分を、「アニキ」にしてくれている存在。


「アニキのイチオシ、張梁ちゃんだってひょっとしたら居るかも知んねえっすよ! ひょっとしたら三姉妹そろい踏みかぁ!? こりゃまさに天啓ってヤツで……」

「…………俺よォ、あの小僧に付いてって見るわ」

「もしかしてもしかすると、これでお近付きになったりなんかしちゃったりして――――――はい?」


――――――だから、男は彼らに自分の決意を聞かさねばならぬし、

それを話すのは、彼らを置いてほかにはないのだ。


「ア……アニキ? 今何と…………」


小男はポカンと口を開けて、口髭の男に問いただす。

彼にとって今夜は、予測の外の出来事が多い夜の様である。


「……今まで俺ァ、さんざんカッコ悪ィ生き方してきたわ。まあそんなでも、日々のおまんまがあって、たまに張梁ちゃんの歌が聞ければそれでよかったが……」


かつての、ただ純粋に上を目指し、巡る血の一滴までもが沸騰し、燃え盛っていたあの頃。

その頃とちょうど同じ時分の若造。その若造が見せた、想像もし得ぬ高みの技。かつての自分を打ちのめし、逃げださせた、天賦の才というモノ。

その一端に触れたとき、男の中で、何かが疼いた。

火は消えて、息を引取ったはずだった――――――剣への、強さへの滾るような情熱。

すでに腐敗し、もう残っていないと思われていたそれが、震えた。

何故今になって、かつての自分をへし折った元凶に触れ、思い出したのかはわからない。

それでも確かに、彼はあの剣の中に――――――――


憧れと、夢とを見たのだ。

かつて思い描いていた、“強い”という事。

きっと、そんなふうになりたかったのだ。


「こんな三十のオヤジがよ…………ガラに似合わず、カッコ付けたくなっちまった」

「……アニキ……」


二人は、まじまじとして、自らの首領を見遣る。

いつも、ただ三人でその日暮らし、適当に仕事をして、生きて、寝る。

悩みや改まった決意など、告白したことは無かった。否、無いと思っていた。

それだけに、彼が何を抱えて生きてきたか、それをどういう重さを伴って自分達に吐露したのか、二人には感覚的に理解する事が出来た。

二人は言葉を失って、しばらくただじっと、兄貴分の顔を見ていた。

その顔には、小さな鉄の玉のように控え目だが、じっと据わって鎮在している、確かな意志が宿っているのが見えた。

燃え粕の様な灰には、確かに、火種が灯っていた。


「はぁぁ~…………!! アニキ、まさかそんで、スリ上がりの俺にまで付き合わせてカッコ付けろっつーんすか? 冗談キツイっすわ」


ややあって、ただ風が流れて行くだけであったその空間に、大袈裟なため息が落ち、それに伴った大仰な仕草で、チビががっくりと膝に手を付き、項垂れた。


「あんなヤツのたわ言、真に受けるなんてなあ…………」


地面に視線を落としたまま、ぶつぶつと萎む様な声を落としていく。

そうしてそのぼそぼそとした声が息を吐き切ったように聞こえなくなると、今度は深呼吸のように深く息を吸い込むのと同時に、勢いよく体を起こした。


「…………けどま、そーいう兄貴分のワガママに振り回されんのが、舎弟の宿命っ、つー事で……」


腹括りますわ、と、それだけ言って、気だるそうに笑った。


「デブ、お前はどうよ?」


チビは表情そのままに、隣で黙ったままのデブの方を向く。

デブは少し、オドオドと眼を泳がせたが、すぐに腹を決めたように、チビとアニキに宣言した。


「……俺は、ただ、アニキとチビと、一緒に行くだけなんだな」


燃えていようが、枯れていようが。善人だろうが悪人だろうが、カッコ良かろうがが悪かろうが――――――

彼らはどこまでも、ただの親分と子分で、兄貴と舎弟なのである。


「…………そうかい」


男は、ふっと眼を伏せて、声を出さずに笑った。


(ありがとよ――――――)







「んじゃまー、一発、景気付けにパーっと娼館でもイっちゃいますかぁ!?」

「おおおおお!!!! だから最高っすよアニキィーーーーー!!!!!!」

「うおおおおおお!!!! アニキぃーーーーーー!!!!!!!!」


ばッと伏せていた顔を上げると、にへらとニヤケ顔を作って、親指を人差し指と中指の間に差し入れて、グッと右手を震わせる。

それに二人が奮い立たぬはずもなく、歓喜に満ちた声を、静寂の空気がやって来つつある街角に響かせた。


「あ、でも金はどうすんすか?」

「心配すんな! あのダンナに貰った金に手ェ付けてやる!!」

「おおー!! さすがアニキ、男の仁義を女に使う!! 俺達に出来ない事を平然とやってのける! そこに痺れる、憧れるゥ!!」

「あ、憧れるゥ!!」

「バカヤロウ、変な言い方すんじゃねえ、これも有志を募る募兵活動の一環よ! がはははは!!」


ひとしきり笑った後、はた、何かに気付いた。


「あ、その前に張梁ちゃん探すぞ」

「おお、やっぱり忘れてなかった! さすがアニキ、わかってらっしゃる!」

「あ、あいあいさー、なんだな!」


そうして三人は跳ねるように、喜び勇んで、夜の街に消えて行く。




歴史の流れは、人の意志。


彼らの想いが、歴史を創る。


ゆっくりと、確実に、静かに歴史は回り出す――――――――――――――



私の書いたものを楽しんで読んでくれる人が居らっしゃるってんだから、世界って素晴らしいよね。感謝。

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