第六話 七夕 -たなばた-
ここ数日、金ちゃんがふさぎこんでいたのは知っていた。
――どうしたんだろう……。
心当たりはなかった。
変わったことと言えば、先週末、水着を買う為にデパートに連れて行ったことぐらいだろうか。だけど、初めて乗った電車に金ちゃんはすごく喜んでいたし、赤いフリルのついた水着を買ってそれにもすごく喜んでいた。風呂にまで着て入ってたし……。
なのに、今度の週末、海に連れて行ってあげようかと言うと、金ちゃんは行きたくないと言った。どうして? と聞いても首を振るばかりで理由を口にしなかった。しかも、危ないから無駄に外をフラフラ出歩くなと言っても、今までちっとも聞く耳を持たなかった金ちゃんが、ここ数日出歩いていないようなのだ。
もっとも、金ちゃんの引きこもりに関しては、会社帰りに八百屋のオヤジに掴まって、金ちゃんはどうした具合でも悪いのかと聞かれるまで気づかなかった俺の事だから、何か見落としているだけなのかもしれないけど……。
そんな状態の金ちゃんが気になって、夏休みをとれる期間に入った今月、夏休みを一日週末にくっつけて三連休にしてみた。
食欲はあるようだし、顔色も良いようだけど、金ちゃんは食事を済ませると自室に引きこもってしまった。
仕方がないので、ずっとガレージでほったらかしになっていた車の整備をする。見事にバッテリーがあがっており、うんともすんとも反応が無かった。
――こりゃ、バッテリー交換するしかなさそうだな……。
このミニワゴンはかつて母が乗っていたものだった。二年前、癌で母が死んで以来ほったらかしているので、まぁこうなっているだろうとは思っていたけれど……。
ちなみに、俺の父親はカメラマンで、年に数回日本に戻ってくるかどうかで、その大半を外国で過ごしている。俺は電車で通勤した方が圧倒的に便利だったし。そんな訳で、車に乗る人がいなかったのだ。
今年、車検時に廃車にするつもりだったんだけど、金ちゃんがいるうちは車があった方が便利かなとも思い始めている。金ちゃんの飼主が日本に戻ってくるのは二年後の予定だ。
二年後、あいつは金ちゃんを見て何と言うだろうか。金ちゃんはあいつのことを飼主だと認識できるんだろうか。金ちゃんをあいつに返す時、俺は……何を思うんだろうか……。
「金ちゃん、車、バッテリー交換したから、少し走らせてみようかと思うんだけど、一緒に行く?」
自室の窓辺でぼんやりしている金ちゃんに声をかけると反応があった。
「車? 車があるんですか? ソータは車を運転できるんですか?」
ずっと車庫のシャッターを閉めたままだったから、車があることに気づいていなかったらしい。俺は苦笑しながら頷く。
「運転するの久しぶりだから、ちょっと不安だけどね。やっぱ行くのやめとく?」
金ちゃんは行くと即答した。
金ちゃんは以前八百屋の親父の車に乗せてもらったことがあって、車というものに強い興味を持っていたのを俺は知っていた。つまり、気を引けるだろうことは計算済みだった訳なんだけど、予想通りの返答をもらえると嬉しいものだ。俺は心の中でガッツポーズを作る。
慣らし運転なので、近所を回ることにした。俺が通った小学校や中学校の前を通り、川沿いの公園に車を止めた。川に沿って桜並木が延々と続いている公園で、春には花見の客でごった返しているのだけれど、今はそれほど混んでいなかった。犬を散歩させる人やジョギングをしている人がいる程度。川沿いをぶらぶらと金ちゃんと歩く。さっきから金ちゃんは黙りこくったままだ。
「金ちゃん、最近元気が無いね。どうかした?」
ピシャンと川面を叩く音がして、魚がはねた。
「ソータ、私ね、もう元の体に戻らなくていいかなって思うんですよ。ううん、もう戻りたくないかもって……思うんです。変ですか?」
金ちゃんは少し不安そうな顔でそう言った。
「いや……別に変とは思わないけど……。何かあった?」
金ちゃんは何か言おうとして、でも、ひどく傷ついた顔になってまた黙りこんだ。
「言いたくなければ、言わなくてもいいよ」
俺は自販機でコーヒーとミルクティーを買うと、川べりにあるベンチに腰掛ける。ベンチは木陰になっていて快適だ。隣に座った金ちゃんにミルクティーを渡す。金ちゃんは紅茶が大好きで、とりわけミルクティーを好んだ。
「ソータは……人間を食べたことはありますか?」
いきなりな質問に、俺は口に含んでいたコーヒーを吹きだした。
「そんなもん食べたことないよっ」
手をピラピラ振って、かかってしまったコーヒーを払う。
砂糖入りじゃなくて良かった。べたべたになるところだ。
どうしてそんなことを訊くのかという問いに金ちゃんは答えず、沈黙したまま項垂れた。
金ちゃんが話し始める様子が無いので、仕方なく、俺はベンチにもたれて目をとじる。
この公園には家族で花見に来たことがあった。弁当を持って花見団子を買って、父さんがセルフタイマーで写真を撮った。なかなかシャッターがおりなくて、あれ? と言いながら父が中腰、母が首を傾げ、俺が笑いだす寸前でシャッターがおりた。俺が一番間抜け顔で写っていたっけ。父さん、本当にカメラマンなの? なんて母と二人でからかって……。そんなことを思い出しながら、ついウトウトしていると隣でしゃくりあげる声が聞こえてきた。
「……金ちゃん?」
ふと目を開けると、金ちゃんは肩を震わせて泣いていた。
「……金ちゃん……」
俺は困惑して彼女の細い方を撫でる。
しゃくり上げるか細い声は川面を吹き抜ける風に乗って、彼女の周り五メートル四方を悲しい気配で包みこんだ。散歩している老夫婦が心配気にこちらをちらちら見ながら通り過ぎ、ジョギングしていたおっちゃんが一旦は通り過ぎたが、しばらくして後ろ走りでバックしてくると、
「兄ちゃん、こんな綺麗な彼女泣かしちゃダメだよ」と言ってから立ち去った。
俺はいたたまれなくなって、金ちゃんの手を引いて車へと引き上げた。
「金ちゃん、泣いてるだけじゃ分からないよ。ちゃんと言ってくれなきゃ。もしかして具合が悪い? お腹痛い?」
――元々表情が薄い金ちゃんのことだ、何か気づかないうちに不具合が出たのかも……。いや、待てよ。そもそも金ちゃんが泣くなんて初めてじゃないか?
前に食パンの食べ過ぎで、苦しくて生理的な涙を流していたのなら見たことがあったが、こんな風に悲しげに泣いているのは初めてだと言うことにようやく気づく。
――金ちゃんに何か異変が起こってるんだろうか……。
「ソータ、商店街のね、裏路地に、ペットショップのお店が、あったんです……」
ポツリポツリと語り始めた金ちゃんの涙の理由はこうだった。
その店は昔からある魚をメインに扱っているペットショップで、店先には金魚や熱帯魚が入った水槽がたくさん陳列されていた。
金ちゃんはそれを懐かしい気持ちで見ていたのだそうだ。だけど、その中の一つの水槽には、一匹、死んだ金魚が横たわっていた。赤い小さな金魚だったそうだ。
「その金魚の死骸をね……」
金ちゃんはワナワナ震えながら、言葉を途切れさせた。
「……他の魚がつついて……食べたんです」
金ちゃんは水槽に居た頃のことは、ぼんやりとした記憶しかないらしい。もしかしたら、自分もあんな風に他の魚の死体を食べたかもしれない。
金ちゃんはそう言って、さめざめと泣いた。
俺は更に困惑して、金ちゃんの絹糸のような銀色の髪を撫でた。
何度も、何度も……。
たくさん泣いた金ちゃんは家に帰るとリビングのソファで眠り込んでしまった。いつもならこんな場所で眠り込むことなんか絶対なかったのに。
金ちゃんの部屋は、以前は母の部屋だった。少女趣味だろといつも呆れていたアンティークなドレッサーが金ちゃんにはとても似合っていた。その少女趣味な部屋の片隅に、俺が金ちゃんの為に買ってやった少女趣味なベッドが置いてあって、その更に隅、そこが金ちゃんの眠る定位置だった。几帳面なくらいそれ以外の場所で眠っている金ちゃんを見たことが無かったのだ。
ソファで眠り込む金ちゃんの顔を覗きこむ。赤みを帯びた目元や鼻先、ふっくりとした白い頬には涙の筋。
――睫毛長いなぁ。
金ちゃんは毒りんごを食べさせられた白雪姫みたいだった。
動物学において、共食いは広く見られる現象だ。特に水中の生態系においては一般的な現象だとさえ言われている。たまたま口に入った偶発的な共食いから、大きな個体が小さな個体を捕食するサイズ構造化した共食い、金魚ではないかもしれないが、繁殖に関わる共食いなどもある。人でも共食いという現象があって、食人に関しては特にカニバリズムと呼ばれている。こちらは宗教だの慣習だの性的嗜好だの、食文化というよりも文化人類学の様相を呈してくるので更に複雑だが、一般的には忌むべきものとしてとらえられている。
金ちゃんが、共食いを忌むべきものとしてとらえたのは人の発想だ。そもそも罪悪感を抱くこと自体が既に人なのだ。
――もう後戻りはできないのだろう。俺はそれを彼女に伝えるべきなのだろう。伝えなければいけない時期なのだろう。
俺は金ちゃんの寝顔を飽かず見つめ続けた。
次の日、俺は知り合いに頼んで、でっかい笹竹を分けてもらった。
「ソータ、これ、もしかして……七夕ですか?」
金ちゃんは僅かに驚いた表情をした。
彼女が子供向け番組を見て七夕飾りを作りたがっていたのは知っていた。
「うん。今日は七夕だからね」
「ソータも一緒に作りますか?」
「うん。作るよ。ほら折り紙も短冊も買ってきてある」
色とりどりの折り紙と短冊に、金ちゃんは目を見張った。
わっかつづり、あみかざり、ちょうちん、それに、吹き流し……。思いつく限りの飾りを二人で夢中になって作った。
最後にそれぞれ願い事を短冊に書く。
『金ちゃんが病気をしませんように』
『金ちゃんが好き嫌いなくご飯を食べられるようになりますように』
俺の手元を覗きこんでいた金ちゃんが、頬を軽く膨らませた。
「私、好き嫌いなんてしていませんよ?」
「魚料理は?」
「う……だって、それは……」
「金ちゃん、君はもう人間なんだ。魚を食べても共食いにはならないんだよ」
「……でも……」
戸惑うように、困惑したように俯く金ちゃんの横で、俺は更に短冊を取り出して、マジックで書きこむ。
『金ちゃんが二度と金魚に戻りませんように』
金ちゃんが軽く息を呑む気配がした。
「……ソータは……ソータは私がこのままの方がいいですか?」
戸惑いがちに問う金ちゃんに、俺は即答した。
「うん。だって一緒にご飯を食べられるし、会話もできるし、一緒に七夕もできるからね。その方が、金魚でいた頃よりもずっと楽しくて、俺は好きだよ」
俺の言葉に金ちゃんは少しぼんやりした表情をした後、微かに微かに微笑んだ。
出来上がった七夕を玄関先に飾って、七夕には素麺だぞと八百屋のオヤジに買わされた素麺(素麺を買うのに斜め前の乾物屋に連れて行かれた) を茹でて食べた。薬味(当然のことながら、八百屋のオヤジの店で買った) の他に、特別に錦糸卵やキュウリの千切りや蒸し鶏を細く裂いたものも添える。
これは八百屋の小母さんがタッパに詰めたものを持たせてくれたのだ。手際良く渡されたタッパに、今日俺と金ちゃんが素麺を食べることは決定事項だったのかと軽く呆然とする。だけど、すぐに吹きだした。夫婦そろって世話好きな人たちなのだ。
細い素麺をザルの上に渦巻き状に並べると、天の川というよりも小宇宙がたくさんできたみたいだ。
「キレイ……、それにとっても美味しいです」
金ちゃんは凄く喜んだ。
「あのね、ソータ、私、魚料理のこと考えてみたんですが、やっぱりもう少し考えてからにしてもいいですか? だから、まだ好き嫌いをしてしまうかもしれません。それで……あの……ソータは私のことを嫌いになりますか?」
金ちゃんが神妙な顔で言うので、そんなのちっとも構わない。そんなことくらいで金ちゃんを嫌いになったりしないと笑顔で答えたのだが、内心ひやりとする。
――この麺つゆ、鰹だしなんだよな……。どうする? ひとまず隠しておくか? 今、鰹だしのことがバレたら、金ちゃんは俺のことを嫌いになるのかな。
曇天の夜空の下、笹の葉がさらりと揺れる。
『これからも、ずっとずっと、だいすきなソータといっしょにいられますように』
金ちゃんが書いた短冊が、弱い風に楽しげにくるりと回った。