第四話 風光る ―かぜひかるー
ある日、帰宅すると、見なれないクリーム色の傘が玄関先に置いてあった。良く見ると、近くの商店街にある八百屋の名前が書いてある。
「金ちゃん、これどうしたの?」
俺は、びしょびしょになったスーツの雫を玄関先でパタパタ落としながら、金ちゃんに問いかけた。傘を持っていたが、横殴りの本降りでほとんど役に立たなかったのだ。金ちゃんは、いつもよりも少し血色のよさそうな顔で、玄関先まで出てきていた。
「八百屋のおじさんが貸してくれました。返すのはいつでもいいって言ってました」
「この雨の中、外に出たの? あれほどダメだって言ったのに? まさか、商店街までいったの?」
俺は軽く途方にくれてから、金ちゃんを睨みつけた。金ちゃんはコクリと頷く。
「だって、カタツムリは風邪をひきませんよ? 私は金魚だから、きっと私も風邪をひきません!」
金ちゃんは、頑なな表情で言い訳をする。
――今日は朝からずっとひどい雨だったのに……。
俺はため息をついた。
ふと目をやると、ダイニングテーブルの上にはトマトとカボチャが一つずつ乗せられている。
――なんだ? これ……。
「金ちゃん、これどうしたの?」
話題が変わってほっとしたのか、頑なな表情がホワリと解けた金ちゃんに、俺は小さく笑む。
「八百屋のおじさんがくれました。今度は買いに来てねって言ってました。買うってどうすることですか?」
金ちゃんは首を傾げる。俺も首を傾げる。元々、無表情で、訥々としゃべる金ちゃんではあるけれど、いつもよりも言葉がゆっくりしていて、うまくしゃべれない様子だ。
――気が抜けたのか? いや、そうじゃない!
「金ちゃん? もしかして、具合が悪い?」
俺は金ちゃんに触れて驚いた。
「服がびしょびしょのままじゃないか!」
おでこに手を当てると、熱い。熱があるようだ。
――血色が良いんじゃなく、熱で顔が赤いんじゃないか!
俺は慌てて、金ちゃんの服を着替えさせると彼女をベッドに突っ込んだ。
何も食べたくないという、金ちゃんに、カボチャをレンジでチンして潰したものに、ミルクをまぜて食べさせてみる。なんか、離乳食みたいだけど、栄養がありそうな気がしたからだ。食パンよりはビタミンは豊富だろうし……。
金ちゃんは、それをモソモソと食べて、やがて眠り込んだ。
――金魚は風邪をひくのかな?
俺は考える。
最近の金ちゃんは、金魚だったことなんて思い出せないくらい、もうすっかり人間だった。八百屋のおじさんだって、彼女が金魚だったなんて、これっぽっちも思わなかっただろう。傘を貸してくれたくらいだし。ウィルスも人間だと思ったんだろうか? だから風邪をひいたんだろうか? いや、ウィルスは何も考えてないか……。こうなってくると、彼女が金魚だったなんて、もう誰も信じないだろう。元々の飼い主でさえ……。俺は軽く途方に暮れる。
翌日は、すっかり熱が引いていたんだけど、俺は年休をとった。金ちゃんが心配だったし、毎年年休を余らせていたので、会社の上司がもっと計画的に消化しろとうるさかったこともあった。
俺は傘と野菜のお礼を言いに八百屋へ向かった。ここの八百屋は、俺の同級生の家で、小さい頃は良く一緒に遊んだものだった。今彼は転勤で別の街に行っている。
「颯太! おまえ、金ちゃんに食パンばっかり食べさせてるそうじゃねーか」
八百屋で、いきなりおじさんに怒られる。
「いや、だって、金ちゃんは、食パンが大好きで……」
「ばっかやろ、遠慮してるに決まってらぁ。ちゃんとバランス良く食べさせてやらねぇと駄目だろうがっ」
「わーったよ」
俺は不貞腐れる。金ちゃんが遠慮なんてしてる訳がない。食パン三斤一気食いするやつだぜ?
「野菜は、美容にいいんだ。たっぷり食べさせろ」
おじさんは声を落として脅すように言った。それって、結局野菜の売り込みじゃね? 俺は苦笑する。
「ところで、颯太……」
おじさんは、俺の腕を掴んで店の脇にひっぱると声を潜めた。
「おまえ、まさか人さまの嫁に手ぇだしたりしてねーだろうな?」
「はぁ?」
――人さまの嫁? 誰だよ、誰のことだよ。
「とぼけるなっ。あんな美人の金ちゃんと一緒に暮らしてたら、時にはフラフラっときて、あ~おやめになって……なーんてことにっ」
金ちゃんは、外国に主人が行っていると説明したらしい。
「おじさん、そう言うのを下衆の勘繰りって言うんだぜ」
俺は遠い目になる。
――相手は金魚だぞ?
昼飯に、八百屋のおばさん直伝のパングラタンを作ってやる。そんなにパンが好きなら、無理にお粥なんて食べさせなくてもいいんだよと、おばさんがアドバイスしてくれたのだ。市販のホワイトソースをトーストしたパンに掛けて、粉チーズを振って、オーブンで軽く焼く。それじゃあ、栄養のバランスがとれねぇと、八百屋のおやじがうるさいので、ニンジンをレンジでチンしてから、バターで炒めて甘めに味付けしたものも添える。どちらも十分冷ましてから、金ちゃんのベッドに運んだ。
金ちゃんは、それはそれは喜んで(いつもどおり、表情は薄かったけど……)、どちらもあっという間に平らげた。やっぱり、食パンばっかり食べさせてちゃ駄目なんだなぁと、この時ばかりは少し反省した。
金ちゃんが、自分の下の名前は何かと聞いてきた。
「下の名前?」
俺は首を傾げる。
「八百屋のおじさんがね、そう訊いたんですよ」
「下の名前ねぇ……何か考えないとだなぁ」
俺はインターネットの命名を検索してみる。最近人気の名前1000選や、名前自慢などのサイトを覗いてみるが、今一つ、ピンとこない。名字は、『金』になっちゃってるみたいだし……。でも、こんな外見だしなぁ……。そう言えば、あれ、何て言ったっけ、水の精の……確かパラケルスス(*)が、四大元素の一つの水の精がこれだって……。検索すると、それはすぐに出てきた。
――ウンディーネ(**)
戯曲や、バレエなどの題材になっている水の精だ。挿絵の水の精が、妙に金ちゃんに似ている気がした。でもな……ウンディーネなんてつけたら、きっと俺のことだ、ウンちゃんって呼んじゃうんだろうな……。運ちゃん……颯太は一人吹きだす。
「ディーネにしよう。名字が東洋っぼくなっちゃったから、下の名前は外見に合わせて、西洋っぽくしたのでどう?」
俺は金ちゃんを振り返った。金ちゃんはすやすやと眠っていた。
そうだよ、ウンは取っておいた方がいい。ウンディーネじゃ、この先、誰かと恋をしても悲恋に終わりそうだもんな。俺は、リビングのソファにゴロリと横になると、軽く目を閉じた。
優しい雨の音が、世界中を包み込んでいる。今度、金ちゃんに傘と雨靴を買ってやろう。これから雨の季節だし、雨が好きみたいだし……。
浅い午睡で見た夢の中で、金ちゃんは雨の中にいた。赤い雨靴に赤い傘、輝く笑顔でスキップしながら。
(*)ルネサンス初期のスイスの医師、錬金術師
(**)(独)ウンディーネ、(仏)オンディーヌ、(英)アンダインまたはアンディーン
語源はラテン語のunda「波」の意
◆風光る 日差しが強くなり、吹く風が鋭く光るように感じられること。春の季語




