第三話 半夏雨 ―はんげあめー
金ちゃんが雨好きなのは知っていた。雨が降ると、そわそわと窓の外を覗きに行くし、俺が注意しなければ、裸足のまま庭に下りてしまう。だけど俺は、雨が降っている時は外に出てはダメだと何度も言い聞かせていた。その度に、金ちゃんは不満そうな顔で自分の部屋に閉じこもってしまう訳なのだが,俺だって譲れない。可哀そうだとは思うが、風邪をひいた時のことを考えると、そう言わざるを得ないのだ。
なにせ金ちゃんは金ちゃんなので、当然保険証など無い。どうやって病院にかかれば良いのか……。俺はため息をつく。そもそも医者に診てもらうべきなのか、獣医に見てもらうべきなのか。もっとも獣医などに連れて行けば、金ちゃんよりも俺の方が病気だと診断されかねない。
だから、金ちゃんのご機嫌を取る為に、雨が上がれば、庭先に出て遊んでも構わないと俺は許可を出した。そうでも言わなければ金ちゃんのご機嫌が治らなかったのだ。
「ソータ! 庭にね、こんなのが居ましたよ」
雨上がりの庭で、金ちゃんが歓声を上げる。金ちゃんは、ほとんどの言葉を教育テレビの番組から仕入れているので、とても丁寧なしゃべり方をする。
デスクでパソコンの画面を見つめていた俺は、窓際まで駈けて来た金ちゃんに目をやる。金ちゃんの親指と人差し指の間に丸い渦巻状の殻がつままれていた。
「随分ちっちゃいカタツムリだな~」
俺は目を細めた。
「かたつむり!」
金ちゃんは、無表情な顔を僅かに紅潮させて叫ぶ。
結局、その日、金ちゃんはかたつむりを三十三匹集めた。
かたつむりは、俺が出してやったインスタントコーヒーの空き瓶の中に次々に投入されていった。カタツムリたちは、瓶の内側に張り付いて、うぞうぞと蠢いている。それを縁側の廊下に置いたまま集めに行くものだから、必死に脱出を試みたカタツムリたちで、やがて廊下は占拠された。
「金ちゃん! 廊下がカタツムリだらけじゃないか! 片づけないと、踏んづけちゃうよ!」
俺の声に慌てて戻ってきた金ちゃんが、逃げ出したカタツムリを瓶に再び投入し、その時に数えたのが三十三匹だったのだ。
「ソータ、カタツムリ濡れてますよ? 雨の中で遊んでいましたよ? 風邪、ひきませんか?」
「カタツムリは風邪をひかないんだよ」
咳をしたり、鼻水をたらしたりしているカタツムリなど見たことがない。
金ちゃんは、俺のことを少し不審げな目で見つめてから、瓶の中のカタツムリを庭に放しに行った。
◆◇◆◇
私は、雨が降るとよく外へ行く。赤い雨靴を履いて、赤い傘をさす。雨靴と傘は颯太が買ってくれた。これを正しく使えば、雨の日に外に出ても良いと言われたのだ。要は、雨に濡れることが駄目なのらしい。確かに、前に雨に濡れて歩き回った後、気分が悪くなった。でも、そのお陰で、この傘と雨靴を買ってもらえたので、悪いことばかりではなかったんだけど……。
颯太の家には、狭いけどちゃんと庭がある。庭には、イチジクの木とレモンの木が植わっている。後は草ぼーぼー。だけど、私はこの庭が大好きだ。
白い斑点がある硬い虫がイチジクにやってくるし、レモンの木には、ぶにょぶにょした緑色の芋虫が住んでいる。斑点のある硬い虫は、捕まえるとニィーニィーと鳴いてかわいい。でも芋虫は、見るだけにする。あれは怒りっぽいようなのだ。触ると真っ赤な角を出す。しかも、変なにおいがする。
最初は怖かったから、庭の中だけをうろついていたけど、ある日通りに出てみた。颯太は、通りは危ないんだよといつも言う。何が危ないのかと聞いたら、車というものが走っていて、ぶつかったら死んじゃうのだと言う。私には、ぶつからない自信があった。どんなに狭い水槽にたくさんの仲間が居ても、私は素早い身のこなしでよけていたし、仮にぶつかっても死んじゃうなどということはないだろうと思ったのだ。ところが、通りに出た途端、すぐに引き返した。ぶつかって死にそうだと思ったから。
車というのは、人ではないと思う。随分固そうだし(硬い虫よりも)、スピードが速い奴もいるのだ。あれは、何か特殊な生き物なんだと思う。
ところが、何日も通りを見つめていて、私は、あることに気が付いた。
ちなみに、水槽を出てから、私は色々なことに気づけるということに気づいた。ぼんやり見ているだけで、ふと、その仕組みや理由や意味が、突然頭に浮かぶのだ。水槽に居た頃、何も気づかなかったのは、どうしてだろう? あのガラスの仕切りが障害なんじゃないかとは、思うのだけれど……。
で、何に気づいたかと言うと、車というものは道の真ん中を通るという決まりがあるらしいということだった。颯太や私みたいな柔らかいタイプの生き物は、道の端を歩いているのだ。なるほど、そう言う決まりがあるのなら、車にぶつかる確率は下がる。いつも颯太が無事に帰って来れるのは、そういうことなんだと気づいた。そんな決まりがあるのなら、それを教えてくれればいいのに。自分が車に轢かれそうになった時から、颯太が通りに出て行くのが怖かったのだ。颯太が車に轢かれて、帰って来なかったらどうしようかと……。
今日は久しぶりに、商店街まで足を延ばしてみた。
「金ちゃん、久しぶりだね。今日は何にする?」
八百屋のおじさんが声をかけてくれる。このおじさんは、私が初めて商店街まで来た時に、一番に声をかけてくれた人だった。その日も、朝からたくさん雨が降っていた。
◆◇◆◇
「ありゃー、こりゃまた綺麗な人だねぇ。この辺の人じゃないよねぇ。傘は?
持ってないのかい?」
八百屋のおじさんは、私が店先の野菜を見つめていると、そう言って声をかけて来た。
「そこの……」と私は、颯太の家がある方を指差す。
「ソータの家に住んでいます」
そう言うとおじさんは、更に目を丸くした。
「青木さんとこに住んでるのかい? 颯太の彼女? まさかねぇ」
「ソータは、私の主人の友人です。主人が帰ってくるまで預かってもらっているのです」
私は説明する。
「御主人は何処へ行ったの?」
「外国です」
「外国? あんたは何処から来たの? 外国人に見えるけど……」
おじさんの質問に、私は首を傾げる。どこから来たのかしら私……。
「私、スイソウに居たんですけど……」
「あー、スイスねぇ。あー、そんな感じだねぇ。じゃあ、御主人は別の国に行ったんだね。あっ、おじさん、分かっちゃったぞ。きっと御主人は未開の国に行ったんだ。それで、物騒だから、こんな美人さんは連れて行けなかったんだな? あったりーだろ?」
おじさんは、なんだか一人で盛り上がっているようだった。私は、おじさんをぼんやりと見つめる。
――スイス……水槽のことかしら?
「颯太んところじゃ、ロクなもん食べさせてもらってないんじゃいかい? ええと、あんた名前は?」
「金ちゃんです」
「金ちゃん?」
おじさんは首を傾げた。
「ソータはそう呼びます」
「旦那さんが中国人なのかな? 下の名前はなんていうの?」
「下の……名前?」
私は首を傾げる。名前に上下があるのかしら?
「ああ、まだ日本語が良く分からないんだねぇ? じゃあ、金ちゃん、今日は何を食べた?」
「食パンです」
「食パン?」
おじさんは、少し首を傾げた。
「昨日の夜は?」
「食パンです」
おじさんは、少し難しい顔になった。
「昨日の昼と朝は?」
「食パンです……けど……」
おじさんは眉間にしわを寄せて、険しい顔になった。
おじさんは、ちゃんとバランス良く食べなきゃだめだよっと怒ったように言って、私にトマトとカボチャをくれた。
それ以来、私は颯太にお金を渡されている。八百屋に行ったら、適当に何か好きな野菜を買って良いと言う。
お金とは、いつもは小さい赤いおサイフに入っていて、それで野菜を買うことができるものだ。最初は、信じられなかったけど、本当にお金と野菜を取り換えることができた時には、びっくりした。しかも、時々、お金は姿を変えて、野菜と一緒に戻ってくる時がある。「おつり」と言うらしいんだけど、これは、まだ良く分からない。今度、颯太に訊いておかなくちゃ。
「おじさん、その大きな丸いのください」
「よっしゃ、スイカだな。でも金ちゃん、重いよ? 持って帰れるかい?」
私は持ってみたけど、少ししか持ち上げることができなかった。
「よっしゃ、おじさんが家まで運んでやろう。颯太んちなら、すぐそこだ。銀行に行く用事もあるからね。おーい、かあちゃん、颯太んちにスイカ届けて、その足で銀行行ってくっから、店たのむぞーっ」
奥から、おばさんの、はいよーっという威勢の良い声がした。
「金ちゃん、そこの車に乗りな!」
おじさんが指さした方を見ると、後ろが荷台になっている車が停まっている。私は硬直する。
――車に乗る? 車って、別の生き物だと思っていたんだけど……乗り物? だったの?
おじさんに言われるまま、車に乗る。
――この目の前の丸いものは何だろう?
そう思っておじさんを見上げると、おじさんが困った顔をして私を見ていた。
「金ちゃん、そこは運転手が乗る所だろ? 金ちゃん運転するの?」
私がここに乗ってはいけないらしい。私は、隣の椅子に移動した。
――すごい、すごい。座ったままで、走るよりも早く移動できる!
私は、颯太の家までの僅かな距離を車で走っていた。私が水槽の中でエサを見つけた時に泳ぐくらい早く、車はスイスイ走った。景色がどんどん後ろに流れていく。
「はいよっ、スイカはここでいいかい?」
おじさんは、スイカをキッチンまで運んでくれた。
「ありがとう、おじさん」
おじさんは、ダイニングのテーブルに、おまけねと言って、キュウリを置いてから、
「まいだりー」と、にっこり笑って帰って行った。
◆半夏雨七月二日ごろ(夏至から数えて十一日目)に降る雨のこと。