第二話 冬籠り ーふゆごもりー
動機は、水槽の水換えだった。
面倒だったのだ。すべては、それに尽きる。
水換えをしなくても良い生き物だったら良かったのに……友人から預かった金魚を見て、俺はいつもため息をついていた。
これを使ってみれば? と言ったのは、バクテリオファージ(*)を研究していた別の友人だった。遺伝子組み換え用のベクター(**)を開発することに躍起になっている奴だ。
「こんなもの金魚に使って大丈夫なのか?」
俺は顔を顰める。
「さあね、これは大腸菌に使ってたやつを少し改良したものだ。金魚には使ったことがない」
――なんとも心許ない返事ではないか。
金魚を預けて行った友人は、その金魚をあまり可愛がっているようではなかった。どちらかと言うと、既に飽きていた。預けている間、不慮の事故や病気などで死んでも、一切責任は問わないと言った。
白く長い花びらのような尾ひれをヒラヒラさせたリュウキン
少し可哀そうかなと思ったので、やっぱりやめておくよと振り返った時、そいつは、既にすくい上げた金魚に注射液を注入中だった。やつの掌の中で、金魚がビチビチと苦しそうにのたうつ。
再び水槽に戻された金魚は、底までふわーっと沈んだ後、浮上することなく、底に横たわったまま、口とエラを苦しそうにパクパクさせた。
「おい~、死にかけてるじゃんか」
「ありゃ? やっぱ、金魚には無理だったかな?」
金魚は、一晩中苦しそうに水槽の底に沈んでいた。
俺の予想に反して、金魚はなかなか死ななかった。
しかも、あの注射を打たれて三日が経ったころ、金魚に変化が現れた。少しずつ大きくなり始めたのだ。
そして、一か月経ったころ、水槽に入りきれなくなった金魚は、バスタブの中で丸くなっていた。ドクンドクンと脈打つ心臓部分がなければ、単なる巨大な肉まんだと思うかもしれない。この頃になって、俺は後悔し始めていた。小さいうちに殺しておいてやればよかったかもしれないと……。ここまでデカくなってしまうと、殺すのにも躊躇してしまう。一寸の虫にも五分の魂というが、大きな虫と小さな虫、どちらを殺す方がより罪悪感を覚えないかと問われれば、やはり後者だろう。しかし、こいつ、どこまで大きくなるつもりなのか。
今が夏で良かった。バスタブを横目に見ながら、俺はシャワーを使う。
――冬までこの状態だったらどうしよう。
次の変化は、冬の初めに起こった。肉まんが突然形を変えたのだ。手足がはえて、しっぽが消えて、オタマジャクシがカエルになるように、肉まんは、人型になった。蝋でできているような半透明な人型。それはまるで宇宙からやってきたウルトラマンの蛹みたいだった。やがて透明感が無くなり、髪が生え、瞳の色が濃くなり、胸が盛り上がり、腰がくびれ、いつしか、それは、バービー人形みたいになった。
銀色の豊かなウェーブした髪に、白桃のような白い肌……それに不釣り合いなくらいの黒い黒曜石の瞳。あのリュウキンが人間になったら、このような配色になるだろうと妙に納得できる色合いだ。
金魚の金ちゃんは、ペットとしては、本当に手のかからない生き物になった。水換えはもちろんしなくていいし、食事は、置いておけば一人で食べるし、テレビを見せておけば、いつまででも大人しくしている。特に教えたわけでもないのに、簡単な言葉なら理解するようになった。(教育テレビというものは、あながち馬鹿にしたものでもないらしい)
もともと水好きなので、お湯を張っておきさえすれば、しょっちゅうぬるま湯に浸かっていて俺よりも身綺麗だ。問題と言えば、服を着るということに、なかなか馴染めなかったことくらいだろうか。
「金ちゃん、じゃあ行ってくるから、ご飯はそこの食パンを食べておいてね」
俺の言葉に金ちゃんは無表情なまま肯く。
ところが、その問題に気が付いたのは恋人とクリスマスのスキー旅行に行った時のことだった。
俺にはつきあって三年になる彼女がいた。二泊三日のスキー旅行。そろそろ結婚を言い出されそうで、少し気が重かったのは事実だ。
「ねぇ、颯太、最近部屋のお掃除してあげていないけど、大丈夫なんでしょうね?」
スキー場に向かう電車の中で、美妃が言った。金ちゃんが巨大化してからは、何かと理由を付けて彼女を部屋に入れていなかった。美妃は、はっきり言って片づけ魔だ。物が散らかっているのが気に入らないらしく、以前、俺の部屋に入るなり悲鳴を上げた。美妃は何事につけキチンとしていないと気が済まない性質なのだ。それが結婚に踏み出せない一要因になっていたかもしれない。
「あーあ、大丈夫だよ。きれいなもんさ」
それは事実だった。最近では、金ちゃんが暇にまかせて色々なものを片づけていた。なんだか、『お手伝いできるもん』とかいう子ども用教育番組を見て、見よう見まねで始めたらしい。時々冷蔵庫の中に本が詰めてあったり、皿が本棚に並べられていたりするけど……。
金ちゃんが人型になってから三日も家を空けるのは初めてだ。そこで俺は、ふと重大なことに気がついた。
――俺が居ない三日間で、金ちゃんが死んだらどうしよう……。
金魚だったならば、可哀そうにと庭の隅にでも埋めておけば良いわけなのだが、金ちゃんは、誰がどう見ても人間の女性だ。この部屋で死んでしまえば、当然警察が来るだろうし、どうして死んだのかということが問題になる。最悪、俺が殺人犯という立場に追いやられることにもなりかねない。もしくは、保護責任者遺棄致死とか、なんだか分からない罪にも問われそうだ。
――手がかからないペットだって? とんでもない!
誰かに預けることも考えたが、これもまた金魚を預けるように簡単ではなかった。あの得体の知れない注射をした友人にも相談したが、
「金魚が人間の女になった? おまえ、何かアブナイ薬に手を染めてるんじゃね?」と思いっきり顔を顰められた。
あの注射は、多少汚れた水でも平気で居られるようにするものだったと言い張るのだ。元々の飼い主は、ヨーロッパ出張中で当てにならないし……。こんなのを預けられるような親しい女友達も、品行方正な男友達もいなかった。なにしろ金ちゃんは、そこらをうろつけば、大抵の男が振り返るような美女の姿をしているのだ。迂闊に野郎の友人などに預けたら、無事で済まされるとはとても思えなかった。俺は頭を抱え込む。
苦肉の策として、部屋にモニターを取りつけた。家に居るペットを携帯から見られるというあのシステムだ。
俺は大きな荷物を電車の網棚に上げて、美妃の隣に座った。
「スキーなんて久しぶり」
にっこりほほ笑む美妃はとてもかわいい。俺もほほ笑み返す。
――でも……なんだろう、この違和感……。
ダイニングテーブルの上に、食パンを三斤、スナック菓子を少々、果物を少々、置いてきた。飲み物は冷蔵庫の中ものを自分で出せるように訓練した。お湯を使うのは危ないので、可哀そうだけど我慢するように言っておいた。一応湯船には水を張っておいたけど、寒くて風邪をひくから手足を浸すだけにしておくようにとも言った。すべての説明に金ちゃんは神妙な面持ちで頷いた。
「ねぇ、聞いているの?」
隣の座席で、美妃が不満そうに言った。
「え? あ、ああ……」
「もう、颯太、ずっとうわの空なんだから~、今日くらい、発明のことは頭から追い出してよ」
美妃はそう言って、甘えたように俺の肩にもたれかかった。俺は動揺する。俺がうわの空なのはいつものことだ。美妃にだってばれてる。にもかかわらず動揺したのは、発明のことを考えていた訳ではなく、金ちゃんのことを考えていたからだった。
駅から近いことが売りのスキー場は、最近の暖冬のせいで雪が少ないらしく、少し活気がない。
「北海道まで行った方が良かったかしら?」
肩を竦める美妃に、俺はうわの空でうんうんと頷いた。さっき電車を降りる直前に、モニターを確認してみたのだ。そうしたら……金ちゃんがリビングで倒れていた。苦しそうに顔を顰めている。苦しそうな、か細いうめき声。
――どうしたんだろう。どうしたらいい?
改札を出るなり俺はクルリと踵を返した。
「颯太?」
「ごめん、俺、一度家に戻ってくる。先に滑ってて!」
俺は切符を買うことさえもどかしく感じながら、電車に飛び乗った。
家に戻ると、金ちゃんはリビングで倒れたままだった。
「金ちゃん、金ちゃん、大丈夫か? どうした?」
具合が悪そうな金ちゃんの額の汗を拭ってやる。
「……ソータ?」
苦しそうに、金ちゃんが目を開く。
――良かった、死んでない。
「どこが苦しいんだ?」
「……お腹が苦しい」
金ちゃんは、苦しげに口を押えた。俺は慌てて金ちゃんを抱きかかえて、お手洗いへ向かった。背中をさすってやると、驚いたように震えながら俺を見上げる。その当惑した瞳に、俺はふと思いつく。金魚ってのは、食べた物(一旦胃袋に入れたものという意味だ)を吐きださない生き物なのかもしれない。口に入った砂とかはペッペッと吐きだしているけど、嘔吐している金魚は見たことがなかった。
「吐いちゃえよ。その方がいい」
――何か悪いものでも食べたんだろうか?
間違えて食べないように、古いものは処分したし、アルコール類は隠しておいたはずなのに……。金ちゃんは大量に何かを吐きだした。
吐きだしたものを見て、俺は確信する。
――パンだ……。しかも大量の……。
俺はキッチンのダイニングテーブルを見て、がっくりと肩を落とした。一日一斤という意味で三斤用意しておいたのだが、三斤とも消えていた。
「金ちゃん! 駄目じゃないか、一気に三斤も食パンを食べちゃ」
吐いて気分が良くなった金ちゃんは、ソファに気持ちよさそうに寝転がっている。俺は金ちゃんをにらみつけた。しかしその時、突然背後から世にも恐ろしい声が響いたのだった。
「颯太! これ、どういうことなの?」
俺はピシリと固まる。美妃だった。
実はこれは金魚で、友人から預かっているペットなんだ……などという言い訳を信じる恋人は、世の中に何パーセントくらいいるだろうか。俺ははたかれて真っ赤に腫れあがった頬に、濡らしたタオルを当てながら、ぼんやり考える。
友人からペットを預かる時は、たとえ短期間だろうと覚悟が必要なのだ。たぶん、そういうことなんだろう。俺はがっくりと項垂れた。
(*)バクテリオファージ(bacteriophage)は細菌に感染するウィルスの総称。
(**)ベクター(vector)とは、ラテン語の運び屋(vehere)に由来し、遺伝子組み換え技術に用いられる、組み換えDNAを増幅・維持・導入させる核酸分子。
(ウィキペディアより)