第一話 秋霖 ―しゅうりんー
第四話までは、2010空想科学祭参加作品です
バサバサバサッ
部屋に入った途端、颯太の机の上の書類が表層雪崩を起こした。私は眉をひそめる。
「ソータ、整理整頓を心がけてくださいって、いつも言ってるでしょ?」
私は、ため息をつきながら、落っこちた書類を拾い集める。
「いいよ、そのままで。どうせまた雪崩れるから」
パソコンから目を離さないまま、颯太が言った。丸くて分厚いメガネをぐっと中指で押し上げている。ひょろ長い猫背の後ろ姿。
――かっこ悪い、少し背筋を伸ばせばいいのに……
「お昼はどうしますか? 何か作った方がいいですか?」
「いや、いいよ、君は君で済ませておいてよ」
――せっかくの週末なのに……。
私は少し不機嫌な気分で、キッチンに立つ。週中もほとんど一人ぼっちで食事をする。それが嫌なわけではないんだけど、颯太と一緒に食事をしてみても良いと、最近では思っている。
私は食パンが大好きだ。ほとんど愛していると言ってもいい。特に耳がいい。六枚切りにスライスされた食パンを一枚取り出し、耳を齧る。真ん中の部分はトーストにするといいんだけど、トースターが苦手なのだ。一度火傷をして、体調を崩したことがある。颯太が気づいてくれれば、焼いてくれる時もあるんだけど……私は、恨めしげに書斎をにらみつける。
そもそも、私はこんな所にいるべきではないのだ。唇をかむ。
「また、そんなものばっかり食べて……」
三枚目の食パンに齧りついていると、颯太がダイニングにやってきた。
「俺も一緒に食べていい?」
私は小さくコクリと頷いた。颯太が少しホッとした顔をしたので、私は何故だか嬉しくなった。
「ソータのカップめんよりは、体に良いような気がしますけどね」
私は、颯太が手に持っているカップめんを見て肩を竦めた。
「しかし、カップめんには、ちゃんと具が入っているよ。具だくさんのを選んで買ってるしね」
颯太はそう言いながら、カップめんのビニールをビリリと開封した。電気ポットからお湯をそそぐのを、私は恐々と見つめる。
「食べてみる?」
颯太は、タイマーを三分にセットすると、私を見つめた。
「……じゃあ、少しだけ……」
ぴぴぴぴぴっ
タイマーが鳴って、ふたを開ける。もわんと湯気が立ち上り、良い匂いが部屋中に拡散する。
――この匂い、嫌いじゃない。
小皿に少しだけ、麺と具とスープを入れてもらった。ふぅふぅ、よく冷ます。私は火傷するのが、極度に怖いのだ。
「どう?」
「美味しい……です」
――へぇぇ、こんな味なんだ。匂いしか知らなかった。
舌の上に拡がる複雑な味。塩分だけじゃない、何かもっと深い味わい。
「だろ?」
颯太は、片眉を上げて得意そうに言うと、ズルズルと麺を啜った。
何の味なんだろう。私は蓋に記載されている原材料を目で追う。そして、くらりとした。
――なんてこと……。
「どうした?」
颯太は、きょとんと私を見上げる。
「ソータの無神経さに眩暈がしただけです」
私は口を引き結ぶと、自分の部屋へ足音荒く戻っていった。
さわさわさわさわ……。
外は、細かい絹糸の様な雨が降っている。私は自分の部屋の窓にへばりついて外を見る。木々がしっとりと濡れて、葉っぱが艶々していて気持ちよさそうだ。あの中を濡れながら歩くのは、気持ちがいいだろうなと思う。でも、それはできない。颯太に禁止されているからだ。以前やったら、風邪をひいてしまったのが、その理由だ。まったくもって、不便な体。
コンコン
ドアをノックする音が聞こえた。
「やー、さっきは悪かったね。魚介エキスが入ってたなんて知らなくてさー」
颯太だった。
「で、お詫びに、これをプレゼントするよ」
颯太は、手にポワポワした細長いものを持っている。
「なんですか? これ……」
「しっぽだよ」
颯太は、得意げな顔で言った。
「……」
颯太は、勝手に、そのしっぽを私のお尻に取り付けた。私は固まってしまう。
しっぽは、だらりとぶら下がったままだ。
「ほーら、これは何かな?」
颯太は、私の前に、トーストした食パンの真ん中を見せる。途端にしっぽが、ひらひらと左右に揺れた。
「じゃあ、これは?」
颯太は、食パンを隠し、代わりに焼き魚の写真を私に見せた。しっぽが、勝手に丸まって足の間に挟まる。
「よしよし、上出来だ。君はいつも無表情だから、このしっぽを付けておけば、喜んでいるのか、怖がっているのか、一発で分かるってわけだ」
颯太は嬉しそうに言った。私はむっとして、しっぽを引き剥がすと、颯太としっぽを部屋の外へ蹴りだした。トーストした食パンの真ん中は、もちろん、私の手中にある。
颯太は、発明家なのだそうだ。ヘンテコなものを色々作っている。はっきり言って、ほとんどが無駄なものだと、私は思っているのだけれど、いくつかは特許がとれているらしい。
私が不機嫌になると、颯太はヘンテコなものを作ることに更に情熱を燃やす。
暗闇でも歩き回れるバットマウス(超音波を出す口を付けると、暗闇でも障害物にぶつからずに歩き回れる)
これを付けて歩き回ったら、顔には何もぶつからなかったけど、足元の障害物に気づかずに転んだ。手探りで進む方が五倍は安全だ。
人工エラ(水の中でも呼吸ができる)
これはすごく便利だ。ずっと水の中に潜っていられる。ただし、ものすごく大がかりな装置なので、沈んだその場から一歩たりとも動くことができない。近くの海で試そうとしたら……いや、そもそも、そこまでその装置を運べなかったのだ。酸素ボンベを使った方が百倍安価で手軽だ。
わんわんノウズ(イヌの嗅覚を更に五倍に強めたもの)
これを付けた途端、私は失神した。何故なら、足元に颯太が脱ぎ捨てた靴下が……もうよそう……。
颯太は親切だけど、私の主人じゃない。私の主人は、外国に行ってしまったのだ。私を連れて行けないと言った。颯太の所に預けられたけど、私はいつまでも待っているつもりだった。
なのに……こんな体にされてしまって……こんな体じゃ、もう私は、私の主人に愛してもらえない。涙が零れ落ちる。私は、堪らなくなって颯太の書斎のドアを叩いた。
「私の体は、いつになったら元に戻るんですか?」
泣きながら問いかける。
「いや、その、あの……いつとは、はっきり言えないんだけど、できる限り元に戻るように頑張るから……」
颯太は、動揺した様子で言った。
「お、お風呂を入れようか?」
ご機嫌をとるように、猫なで声で颯太が言う。
「……ぬるめでお願いします」
私は、人肌のぬるいお湯に身を浸すのが大好きだ。
あ~心地よい。
私は、こんな所にいるべきじゃないのだ。
私は、明るいライトを浴びて優雅に舞う踊り子なのだ。誰もが足を止め、目を見張って私を見つめ、ため息をつく。なんてきれいなんだろうって。実際、そう言って、私の主人は私を連れて帰ったのだ。
なのに、こんな地味な、華やかさの欠片もない体になってしまって……私はバスタブの中でシクシクとしゃくりあげた。
夕飯は、颯太が作ってくれた。罪悪感からのご機嫌取りだろうと、私は推測する。
「君は、無理に元の体に戻る必要はないんじゃないかい?」
颯太は、おずおずと意見した。
「こんなみすぼらしい体は嫌なんです」
私は、頬を膨らませる。
「ちっともみすぼらしくなんてないよ。君は、とてもきれいだ。その証拠に、その辺を歩きまわれば、誰もが君に見とれているじゃないか」
颯太の言葉に、私は舌打ちする。それも嫌なのに……
「それも嫌なんです。この前なんて、変な目つきのおじさんにお尻を触られました」
私は、口をとがらす。
「なんだって? そんなやつは警察に突き出すべきだっ」
颯太は、お箸をダイニングテーブルに叩きつけた。
「そうしましたっ」
私は、颯太をにらみつける。颯太は、なら問題ないじゃんと肩を竦める。
私は、体に触れられるのが、とてもとても嫌いだ。気分が悪くなる。白状すると、主人に触られるのも嫌いだった。後で決まって具合が悪くなるから。
お風呂上がりに、颯太はローションを体中に塗ってくれる。保湿成分が入っているやつだ。これを塗っておかないと、私の肌はすぐにカサカサになってしまう。触れられるのは嫌だけど、この時だけは別だ。しかも颯太の手は、いつもヒンヤリしていて心地よい。
◆秋霖 九月初旬から十月初旬にかけて降る細い地雨のこと。(地雨 しとしとと,何時間にもわたって降り続く雨)、秋雨ともいう。